ドキドキドキリコ初体験(96)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

初めてのスケベぇマッサージ

カルロスイベリコ豚(サビ抜き)です
性欲というワサビが抜けてしまい腑抜けになってしまいました
そこでかつてのワサビ全開からサビ抜きになりかけの頃の記憶を頼りに書いてみようと思います

その日私は 例のごとく数万円をもってちょんの間跡地付近のピンクタウンでスケベしたいなとフラフラ彷徨っていました。
しかしその日の朝 かなりのウォーターシット(要するに下痢)のためハードな店は辞めようと思い ソフトなお店に入店。
そこはスケベとマッサージという ちょいと昔に某俳優が御用になった系統の店でした。

数分のまちの後対面。しかしイチャイチャという雰囲気ではなく かなり事務的な会話。まぁそれでいいのだが。
さっそく全裸になってモーミモーミとフツーのマッサージ。立ち仕事でこりまくっていた足や肩を揉みほぐしてもらいました。
そして遂に マイジュニアのマッサージ… なのですが これが全然イケない… そのまま時間一杯
性欲は解消されませんでしたが 帰り道 駅に向かってスキップで駆け抜ける男が湘南近辺にいたとかいないとか…

次回 三人廻し ぐずぐずしてるとアナルにネイル爪刺しちゃうわよ に続かないけど続く(カルロスイベリコ豚 19/5/27)

(寸評)性欲は解消されないのに、駅に向かってスキップで駆け抜ける...。
新手の変態? 7ポイント。

はじめてのタイ・バンコク

HPでたびたび話題になるタイへ初めて訪れました。
タイは今大学生に凄い人気のある観光地です(2019首都圏の大学わいわい調べ)。

行きはトランジットの関係でラウンジのみ。たくさんありますなー。私はオマーンのラウンジ(無料)へ行きました。シャワーを浴びたり、美味しいものを食べたり、これからの旅のワクワク感が広がります。
5クエスチョンでも書きましたが、いやはや凄い免税店フロアーです。空港案内板は中国語ばかり。ショップも中国語が目立ちます。聞くとバンコクの人の多くが中国語を学んでいるそうです。但し価格は空港価格です。

帰りは市内で一泊。一泊しても飛行機代が安くつくのです。
モノレールでマッカサン駅へ行きます。王の即位式(?)か何かで、モノレールが無料になっていました。

本当はこのままショッピングセンターとか街をぶらぶら歩こうと思ったのですが、エベレストトレッキングの疲れとそれに伴う下痢で(ネパール日本人旅行者の99%が下痢になるという)、ホテルの部屋に閉じこもっていました。うーん残念。噂のマッサージもやりたかったわ。ホテルは安いホテルで、日本で言うと東横インみたいなレベルです(またこの表現^^;)、3星くらいになるのかな。シャワートイレはネパールと同じ手で持つシャワー方式。トイレットペーパーはバケツへ入れる式でした。
しかしタイは暑いわあ・・・。ネパールのカラパタールは4月でも−30度になるのに、タイでは40度を超えていた。その差70度でっせ。俺は電子レンジかよ。

帰りのモノレールは有料。コイン式ですね。
そして出国手続きとチェックイン。帰りはフランスのラウンジだったかな、へ行ってマッサージ椅子に座ったり、ドリンクを飲んだり、食欲だけは有ったのでアイスとかスィーツとかフルーツとか楽しみました。(わいわい 19/5/27)

(寸評)タイは4月が年間で一番暑い真夏月なんだよね。なのでその時期は行ったことがない。
今度行く機会があったら是非チェンマイへ。バンコクが東京だとしたらチェンマイは奈良。
同じ国でものんびり度が格段に違いま〜す。6ポイント。

初めてのサオプラペッソン漫画

波照間エロマンガ島@バンコク在住です。わたしが何故タイランドに住んでいるかというと、寒さにからきし弱いので常夏の国にいることがいちばんの理由であります。それともうひとつあげるとするならば、オカマちゃんが多いということでしょうか。

そう、カトゥーイとかレディーボーイとかニューハーフとか言われるあの人たち。頻繁に来タイされる音楽家の平沢進氏は「サオプラペッソン」とか「SP2」とか呼んで彼らを愛でてますね。

今日はそんな「サオプラペッソン」を愛でた2コマ漫画を作成しましたので以下に紹介します。



くだらなくてすみません。。。今後ともサオプラペッソンを愛でて生きていきますよーん。(波照間エロマンガ島 19/5/27)

(寸評)サオプラペッソン、第二の女性かぁ。
女性で第二の女性っているのかな。 6ポイント。

初めてのニヒル牛

こんにちは、マドレーヌ婦人@オーストラリアです。
昨年10月、8年振りに日本に帰国した際、ずっと行きたかったニヒル牛に初めて訪問させて頂きました!
私はかねてからあるさんの大ファンでして、何度かツイッターのダイレクトメッセージで、少しだけお話しさせて頂いた事があります。
初めてあるさんとダイレクトメッセージでお話しした時に、あるさんが「きっといつかお会いできますね」と言って下さいました。
私は8年も日本に帰ってなくて、その時も帰る予定も全く無く、おまけに私の実家は関西なので東京に行く事も滅多にないのですが、あるさんが「きっといつかお会いできますね」と言ってくれた時、私は「あ、会えるんだ。」と確信してしまいました!
だってあの不思議な力を持つあるさんが「会える」というのだから、これはもう予言だな、と思ったのです。
そしたらどうでしょう、その半年後くらいに、帰国の予定も無かったのに、降って湧いたような不思議な幸運が訪れて、あれよあれよと言う間に8年振りの帰国が決定してしまったのです。しかも関西空港行きの直通の飛行機が無く、成田経由だったので、この際東京観光して行こうという事になり、見事にニヒル牛へ行ける事になったのです。
本当に不思議でした。いつか会えるとは思ったけど、こんなに早く実現するとは思ってもみませんでした。あるさんの予言は見事に的中します!
成田からニヒル牛への行き方は、チャットバー・ウキュピで石川さんが教えて下さった通り、バスで東京駅まで行き、東京駅から中央線で西荻窪駅まで行きました。
西荻窪駅からニヒル牛までの道も、グーグルのストリートビューで何度もおさらいして行きました。
今回はオーストラリア人の夫と2人で行ったのですが、ニヒル牛までの道のりも大変趣が深い町並みで、2人でワクワクしながら歩いて行きました。
しかしニヒル牛が近付くにつれて、大変ドキドキして緊張してきました。だって私は人見知り。しかも憧れのあるさんに、ついに会えるのです!ああ、泣いてしまうかも。緊張して顔見れないかも。絶対話せない。どうしよう・・・・
そうこうしてる内にも、セブンイレブンが見えてきました。
ああ・・・・!あそこだ!!もう引き返せない!行くしかない!!!
ドキドキ最高潮、しかし腹を括ってニヒル牛のドアを開けました。
ガラッ!
「いらっしゃいませ〜」
そこにはとても優しいウェルカムスマイルのあるさんが。
・・・あるさんっ!!!
私「オーストラリアから来ました。あの…ツイッターで…」
あるさん「あーーーーーっ!!!」

というわけで、そこからたくさんお話しさせて頂きました、あるさんと!
実際にお会いしたあるさんは、ネットで見るよりずっと小柄で、髪の毛がとても綺麗で、清潔感があって、とても柔らかい印象の方でした。
しかも非常にお話ししやすい方でありました!
私は会話があまり得意じゃないのですが、あるさんときたら、上手に会話をリードしてくれるというか、引き出してくれるというか、あれ?私なんだか上手に喋れてる!と思わせてくれるような感じでした。
しかもそれが、形式ばったつまらない会話じゃなくて、楽しいんです!
ほんとに、あるさんと楽しく会話できたのです!!

パスカルズがオーストラリアに来た時に、メンバーの皆さんが泊まったホテルの冷蔵庫に牛乳が入ってて、これは前の人の忘れ物か?と思って気味悪がって誰も手をつけなかった、というお話をあるさんから聞きました。
それはコーヒーや紅茶に入れる牛乳ですヨ。オーストラリアのホテルの冷蔵庫には、大体水と牛乳が入っています。牛乳はコーヒーや紅茶に入れる用なので、タダですよ。
そうか、日本ではコーヒーフレッシュとかで、牛乳は置いてないのか!と、逆輸入盤カルチャーショックな感じで面白かったです。貴重な裏話を聞けてとても光栄でした。
他にも、グルジアや中国のお話しもしました。

ニヒル牛の店内も、ネットで見るよりもずっと小さく、とても濃密な不思議な別世界の様な空間でした。
その小さな空間に、所狭しと作品が置かれています。
私は憧れのあるさんとお話ししたという事と、今ニヒル牛に居るんだという事で、舞い上がってしまってて、それに見る作品も多過ぎて、頭が完全にオーバーヒート状態で色々処理しきれていませんでした。
でもニヒル牛に居るのが本当に楽しくて、その証拠に私達は1時間ちょっとも滞在してしまいました。
滞在中に、店内の素敵なねじ巻き式の古時計の、ボーンボーンという音を2度聞きました。
まさに時を忘れてしまうお店です。
ショッピングが大嫌いで雑貨屋さんなどが苦手な夫でさえ、「このお店は小さいのに1時間ちょっとも居て全然退屈しなかった。不思議だ。」と言ってましたからね。
そうして店内で見付けた宝物たちを手にホクホクし、おいとまさせて頂く事にしました。
私達が出て行くと同時に、他のお客さんが入って来て、絶妙のタイミングでした。うまい具合に私達は、1時間ちょっとあるさんを独り占め出来たのでした。
なんだか本当に不思議なお店です、ニヒル牛。
あるさんとは一緒に写真も撮らせて頂きました。その時の写真は宝物です。
見る度に「キャー!」となります。

「初めてのニヒル牛」、ずっと投稿したかったのですが、思い出が尊過ぎて、変にいじくり回したくなくて、なかなか文章にまとめる事が出来ませんでした。
もう半年以上経ってしまいましたが、本当に楽しい良い思い出です。
また絶対に訪れたいと思います。今度はもっと落ち着いて、隅々までじーっくりと店内の作品を見て回りたいと思います。でもきっとまた舞い上がってしまうんだろうなぁ。(マドレーヌ婦人 19/5/16)

(寸評)ありがたいことに、妻やニヒル牛はみんなに愛されてここまで続いてる。
ニヒル牛を作る前は妻は普通のバイトとかしていて、特に人と接することも多くはなかったのだけど、この店はいろんな意味で天職だったようだ。
また、来日の際は遊びにきてね! 7ポイント。

はじめてのエベレスト

行ってきましたエベレスト! サガルマータ、チョモランマ!
GW10日間を利用して、なんだかんだいろいろ合わせ三週間。
これで南極大陸(南極点ではない)、北極(ノースポールではない)、エベレスト(サミッターではない)と三極制覇です。
accessはネパールルートでした。植村直己さんとかヒラリー、テンジンも利用したルートです。
チベットルートも少し考えました。チベットルートは最後の村から自動車で直前まで行けるとか、中国語が通じるとか楽なんですけど、アタック用BCは確保されているものの観光用BCはかなり手前に設置されているとか、それも4月なってクローズされたとか、そもそもチベットは外国人がとても行きづらくなってしまった地域なのですね。
マロリーとアーヴィンの第2ステップと第3ステップを実際にこの目で見たかった気もするのですけど。



BCやカラパタール登頂の写真をWeChatやLINEで送ったら中国の友達が絶賛してくれました。
高山病は見事無し。高度順応が上手く行ったのかも。
ワタクシ日付の感覚が無くて平成が終わったの全く知りませんでした(笑)。(わいわい 19/5/16)

(寸評)おっ、遂にそっちの極地も制覇したのか。凄い!
しばらくわいわいからの投稿が途絶えてたのでどうしたのかな、と思ってたところだった。
次は是非マリアナ海溝へ!? 8ポイント。

はじめての母の目がギラギラ

私には付き合って6年半になる彼氏がおり、私も社会人になると同時に彼氏の地元へ移住してきました。
2月には、ご両親やお姉さんとその娘さんに温かく迎えていただけていい関係が築けたらいいなと思っています。
GW中旬に、私の両親と妹がこちらへ来ることになったので、彼氏を交えて食事をしました。
なんだか、母の目がギラギラしててお酒のせいもあってかやたら多弁でした。彼氏の前で私の悪口を言いまくり謎のマウントを取りはじめました。
そして食事が終わり、解散の時間になった時にどさくさに紛れて彼氏の腕をいやらしい手つきで触っているのをみて、人生で初めてどすの利いた声で「シメるぞ!」って言いました……母に。
思えばいきなり美顔器を引っ張り出して大真面目にやりはじめたりした辺りから母の下心?が丸見えでした。

彼氏を送って行って私の家に戻った頃には、妹の説教を既に受けていたようなので大人しくなってましたが、「あなたは、彼からみたら彼女のお母さんでしょ。だからそれにふさわしい行動と言動をしてよ。近所のババアとかじゃないんだから。」と伝えたら、「あんたがこんなところに移住してっちゃったから寂しいの〜」と泣かれてしまいました。苦笑

初めて母が本能むき出しになってるところを見て、初めて吐く暴言、初めての親への説教。そんな初体験でした。(五十嵐アキラ 19/5/16)

(寸評)お母さんが女に戻るほどいい男ってことで。お幸せに〜。 7ポイント。

初めてのタイ米の想い出

波照間エロマンガ島@タイランドです。
わたしが初めてタイ米を意識して食べたのは、1993年「平成の米騒動」と言われた、深刻な日本米不足の時でした。あのときはお店から日本米がいっせいに姿を消し、緊急食料支援でタイから送られたタイ米を食べることになったのですが、日本と同じ調理法では美味しくいただけず、その不味さはかなり印象に残っています。タイ米はタイ料理で食べるには美味しくいただけるのに、普通に炊くとふっくら炊き上がらずお箸からポロポロこぼれてしまったのですね、目黒の自宅近所の定食屋さんでの出来事を覚えています。あれはなんだったんだろうな。今わたしはタイに住んでいてタイ料理レストランへ行ってカーオスアイ(steam rice)を普通に注文するのですが、ふつうに美味しいですもんね。
そんな1993年「平成の米騒動」時、初めてタイ米を食べたときの話でした。(波照間エロマンガ島 19/5/6)

(寸評)初めてのタイ米だったことと、もしかしたらタイ米でも古いものだったのかもね。その米に合った炊き方もわからなかったしね。
チャーハンなんかは日本米より合ってるかも。 6ポイント。

はじめての海外旅行

私の初めての海外旅行は成人式のお祝いで祖母がプレゼントしてくれたアメリカ西海岸旅行です。
サンフランシスコとロサンゼルスに2泊ずつ滞在する団体旅行に1人で参加したのですが、同行者は全員ハネムーン、ひとりぼっち感満載の状況でとても心細かったです。
どちらの都市も団体行動の日と自由行動できる日が1日ずつ。
まずサンフランシスコに行ったのですが、ここは憧れていた街なので、自由時間に1人で路面電車に乗ったりフィッシャーマンズワーフでシーフードを食べたり、旅を満喫していました。
そのフィッシャーマンズワーフでのこと。1人でブラブラしていると、日本語ペラペラの外国人女性に話しかけられたのです。女性の隣には日本語を話せない男性、ふたりともおそらくスパニッシュ系。
その人の言うところによれば、彼女たちは日本のテレビ番組についてリサーチしているとのこと。良かったら一緒に私たちの集まりに出ないかと誘われたのですが、これはついて行ったらダメなヤツだと私の中のセンサーが反応、バスの集合時間が近いのでと嘘をつきその場を離れました。
翌日はロスへ飛行機で移動、その際にトラブル発生、預けていたスーツケースが行方不明になってしまったのです。現地のガイドさんが空港職員と話をしてくれ、見つかり次第連絡をもらう事にしてホテルへ移動。着替えもない私のためにガイドさんが地元のスーパーに連れて行ってくれて下着や靴下、お菓子などを買ってくれました。ホテルへの帰り道に、ツアーでは行かないような地元の観光スポットなどを案内してくれたので、なんとなく得した気分でした。
翌日ディズニーランドに行ったのですが、その時に荷物が見つかったと連絡がきて、無事にスーツケースを引き取ることができました。なんとダラスに運ばれてしまったようです。
他にも、毎朝ホテルで朝食をとる時に、みるみる仲が悪くなっていくカップルのことや、ロスでホームレスに小銭をせびられたことなど、こうして書き起こしてみると楽しかった思い出よりちょっと変わった出来事の方がより鮮明な記憶として残るものですね(美月 19/4/28)

(寸評)そうなんだよね。ちょっとしたハプニングとかがむしろ思い出になる。
なので俺はよりハプニングがわざと起きやすい「すごろく旅行」をやっていたのだ。5ポイント。

初めての乾燥雲古

波照間エロマンガ島です、こんにちは。18/8/7のマドレーヌ婦人の「初めての乾燥大麻」を読み、思い出した話です。

1981年19歳の時、わたしはロック雑誌「Young Mates Music Player」誌の編集部によく出入りしていました。当時わたしは投稿少年で、この石川さんのホームページでいう「投稿王」のようなポジションをこの雑誌の投稿コーナーで得ていました。編集部の人から遊びにこないかと誘われ、はじめは超ドキドキで編集部に行っていたのですが、やがて少しずつ編集員やライターやデザイナーの人とフランクに会話できるようになっていきました。その中にはのちにたまのジャケットデザインを担当した八木康夫さんや音楽評論家の高橋健太郎さん、平山雄一さんなど有名な方も混じっていました。

ある日のこといつものように編集部に行くと、親しくさせていただいている女性編集者のYさんから「エロさん、これ」と言って小さい紙袋を渡されました。「何ですかこれ」とわたし。「中に面白いもの入っているよ」とYさんは言うのでおそるおそる中をのぞいてみました。すると何か小さな仁丹のような黒い固体が透明のビニール袋に入っています。粘土の塊りかと思った私は紙袋からそれを取り出しました。
「これなんだと思う?」とYさんが尋くのでわたしは興味をもってビニール袋を開けて匂いを嗅いでみました。すると強烈な匂いが。そう、それは乾燥した人間の雲古だったのです。

当時は自主製作盤のレコードの黎明期で海外や日本でも多くのインディーズのレコードが製作されていました。ロック雑誌の編集部なのでその手のレコードはたくさん届いたのでしょう。その自主製作盤のレコードのおまけにその乾燥雲古が入っていたわけです。

「これすごいっすね、メンバーの排泄したものなんでしょうか」わたしは匂いの元をめぐってYさんとあれこれ話した記憶があります。そんな「初めての乾燥雲古」体験の話でした。(波照間エロマンガ島 19/4/9)

(寸評)おぉっ、それはすごいね!
俺もたまをやる前にやっていた「ころばぬさきのつえ」というユニットでは二本カセットテープを模索舎なとで販売していたけれど、ひとつは軍手の中にテープを入れ、ひとつは弁当箱に箸などと一緒に入れてた。
でもそれは気づかなかったな〜。いろんな人がいろんなことを考えていた時代だったね。 7ポイント。

初めての出産

これを書いているのは3月29日。18年前の今日、初めての出産を経験しました。
予定日は22日だったのですがお産が始まる気配もなく過ぎていき、27日にようやく陣痛らしきものが。10分間隔になったら電話してくださいと事前に言われていたので、時計を見ながら時間をはかり、その日のお昼ぐらいに10分間隔になったので電話をして、夫も仕事が休みだったので一緒に病院へ行きました。
診察などをして、まだ強い陣痛ではないけれど予定日を過ぎているので入院して様子をみましょう、となりそのまま入院。陣痛促進剤を点滴で入れてベッドで時を待ちます。
どんどん痛みが強くなり間隔も短くなっては来たのですが、肝心の子宮口が開かずにこの日は点滴をやめて体を休めることに。
翌日も朝から点滴をしましたがなかなか子宮口は開きません。ずっと陣痛に苦しみ、ようやく破水したのが午後3時。
そこからがまた長かった〜。生まれたのは夜の9時過ぎ。立会いをした夫は泣いていたけど、私は痛みから解放された安堵でほっとしていました。
その後回復室に移って1人ベッドでこの上ない多幸感を味わっていたのでした。これは脳内物質の仕業らしいですね。それによって出産の痛みを忘れさせ、次の出産に対する恐怖を消すとかなんとか。
ちなみに赤ちゃんの体重は4390g、とりあげた女医さんは「今すぐにも歩きだしそう!」と言っていました。18年後のいまも人より大きな息子です。
その2年後に娘を産んだのですが、その時は帝王切開になったので「初めての帝王切開」としてまた投稿しようかな笑(美月 19/4/1)

(寸評)うわあ、でっかい子を産んだね。大変だったね。
そういえば昔病院の受付をしてた時、人手ず足りず妊婦さんを救急隊員と一緒に運んだことがあった。
破水を思いっきり浴びた〜。 9ポイント。

はじめての爆破予告

 よく、「〇月×日にどこどこ学校を爆破する」みたいな書き込みが話題になったりしますが、先日、うちの学校もめでたく(?)爆破予告を受けたので、その顛末を書いてみます。

ある日のこと。その日は公立高校入試がありました。昼休みに、皆がガヤガヤと昼飯を食べていると、ある女子が

「愛知県爆発した!!」

と騒ぎだしました。近くの女子とも一緒になってきゃあきゃあ、一体どうしたんだろう。そもそも、愛知県が爆発、というシチュエーション自体意味不明。近くにいた友達と「あいつら、とうとうおかしくなったか(笑)」と話していました。クラスの3分の2くらいも同じような反応でした。

ところが、周りがざわざわしてきて、「爆破予告」「うちの高校に爆破予告」「愛知県の高校に・・」「掲示板で・・」みたいな声が聞こえるようになり、だんだんと事情がつかめてきました。

さらに聞いたところでは、爆破予告の時間が2時45分とのこと。6時限目の真っ只中です。

「学校、どうなるんだろ」「これから一斉帰宅?」「だとしたらうれしいけど」「・・・学校、やだね」「ほんとに」

友達とこんな事を話していると、ガラッと扉があき、次に授業をする英語の先生が入ってきました。教室内に緊張が走ります。休校か、否か・・・。

「あ、ちょっといい?次の授業でテレビ使うから、運んどいてくれない?・・・あ、そうだ、今日の部活動中止ね、よろしく」

なんだそれ。部活やってない僕には関係ないじゃん。しかも、部活動が始まるころには、もう爆破予告の時間は過ぎています。対策になってないじゃん。何?その中途半端な対応。

 ・・・そんなことを思っているうち、昼休みが終わり、午後の授業が始まりました。学校が無くならなかった悲嘆のあまり、授業も耳に入りません。気が付いたら、2時30分になっていました。爆破予告の時間まで、あと15分です。この時になって、「もしかして本当にこの学校が爆発するんじゃ・・・」と思えてきました。いや、僕も絶対いたずらだと思っていました。でも、よく昔話とかに出てくる「嘘だと思っていたのが本当の話で、その話を信じなかった人が大変な目に遭う」というタイプの話じゃないかと思えてきて・・・いや、もしかすると、本当であってほしいと心の底で思っていたのかもしれません。こんなクソ学校、粉々に崩れて更地になったら、さぞ爽快だろうとも思ったぐらいですから。でも、こんな学校の爆発に巻き込まれて死ぬのも嫌だ。まだやりたいことが山ほどある。

そんなことを思いながらあたりを見回しました。時間は2時40分前。あと5分ちょっと。どうしたら生き残れるか?今から走って逃げたら間に合うか?いやいや、今は授業中、突然立って教室の外に走り出したら、絶対狂人扱いされる。それはちょっと困る。 それに、この校舎は一応鉄筋コンクリート造だから、いくら古くてもすぐには倒壊しないだろう。あと、危険なのは窓ガラスか?これだから窓際の席は困る。でも、爆発音が聞こえてすぐ机の下に潜れば、一応ガラス片の雨からは避けられる、か。あとは大丈夫そうだ。爆発まで残り2分。すぐに机の下に逃げ込めるよう、少し椅子を引いておきました。

・・・・・

 で、結果は予想通り、何も起こらずでした。まあ、少し間に受けていたのは僕ぐらいで、2時45分が過ぎたところで、隣の席の子に「何も起きなかったね」と言ったら「ええ?何のこと?」と聞き返されたぐらいです。その時授業をしていた先生ですら、爆破予告があったことを知らなかったらしく、「何それ?そんなことがあったの?ほんとに?」なんて言ってました。

 その日の帰りになって、担任の先生から連絡がありました。曰く、愛知県内の公立高校に爆破予告が入った、その時間が、高校入試の英語のリスニングの開始時間に合わせてあった、爆破予告は、結局何も起こらなかったが、まだ殺害予告があるから注意して帰るように、とのことでした。一体何だったんでしょうか。結局部活がなくなっただけ、というつまらない話でした。くそったれ!(未成年 19/4/1)

(寸評)よく漫画なんかには出て来るけど「爆破予告」で実際に爆破された例をほとんど知らないなー。
もっとも俺の通ってた小学校はOBの放火で全焼したけどね。 8ポイント。

初めてのちんこ祠



2001年3月、わたしが初めてバンコクに旅行したときに出会ったちんこ祠です。プルンチットのホテルの裏庭にありました。散歩していたら偶然発見したのですが、とつぜん視界に入ってきた赤いちんこはインパクト十分でした。それからタイにはたびたび訪れるようになり、しまいには住んでしまっているわけですが、タイではこの手の男根をかたどった祠はあちこちにあることを目撃するようになりました。まぁ勃起したちんこは生命の源ですものね。めでたくないわけがありません。そんな初めてのちんこ・ほこら。(波照間エロマンガ島 19/4/1)

(寸評)日本にも結構あるもんね。すべての人間がこれなくしてはこの世に存在してないんだもんね。6ポイント。

初めての国道12号線の印象

波照間エロマンガ島@タイランドです。初めて国道12号線を走ったときの話です。といっても北海道札幌市から旭川市へ至る日本の一般国道のことではありません。タイ東北地方のムクダハンからコーンケーンを経て西のミャンマー国境のターク県メーソットまで東西800キロにも及ぶタイを東西に結ぶ国道であります。この道路は最近は「東西回廊」と名づけられたベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーを結ぶ産業道路で、陸路の物流上重要な道路として注目されています。日本やフィリピンなどの海洋国家は太平洋からインド洋に抜けるには、今までは海路でシンガポールやマレーシアを通らなくてはいけなかったのですが、東南アジア各国が経済発展するにつれ、この道路を使えば大幅に物資移動の時間が短くなり重要性が説かれるようになったというわけです。

というわけで初めて国道12号線を通ったのは2008年。友人のラオスビザ取り旅行に付き添ったときのことでした。コーンケーンからピサヌロークまでまで抜けたのですが、まず第一印象は「町がほとんどない」こと。国の一級国道というのはどの国も首都と地方都市を結ぶ放射上の道路が多いので、その周辺には古代からある小さな町も多く散見するのですが、地方都市同士を結ぶ環状の道路というのは古代からの街道ではなく、山を切り崩し新たに建設された道路なので、集落があまりないのです。

わたしは初めて見たこの国道12号線からの景観が、日本のある道路に似ていることに気がつきました。それは東京都下の多摩市から八王子市にかけて走っている「野猿街道(やえん・かいどう)」。そう、1990年代から2000年代前半にかけてとんねるずがテレビ番組のスタッフとともにバンド活動したグループ名「野猿」の由来となった道路です。なんか背景に低い山々が見えて手前には新しく切り開いた道路がある風景が、野猿街道に似ていると感じたんですね。タイの田舎なのに東京郊外のベッドタウンのような雰囲気がありました。ラーメン二郎の黄色い看板があっても不思議ではないというような風景。これは逆に面白いと思いました。
そんな初めてタイの国道12号線を通ったときの話でした。(波照間エロマンガ島 19/4/1)

(寸評)ラブホテルもなかった? 5ポイント。

はじめての2日間停電

先の投稿「はじめての激烈台風大阪襲来」の続きです。

さて2018年9月4日に上陸した台風21号により私が40年生きてきて初めての規模の被害を受けた大阪。のちに近所のお客さんに聴いてみても、「こんなん50年住んでてはじめて」「60年住んでて」「70年」「80・・・」と皆さんが口を揃えてこんな滅茶苦茶な風は初めてだった、とおっしゃるのでした。それほどまでに基本的に楽天的な大阪のおっさんおばばん達をもびびらせるレヴェルの災害であったわけなのです。

私のまわりには落命なさった方はいませんでしたが、勤務地域のすぐ隣にある大阪市港区ではマンションの8階の部屋に屋根の一部が飛来し突っ込み、1人がおなくなりになった、という痛ましい被害がありました。いま(2019年3月)現在でもまだ屋根や硝子の工事が追いつかず、段ボールやブルーシートで仮補修になったままの家屋・店舗が散見されます。ほんとうに大阪が近代化してから、これほどまで広範囲でいろんなものが破壊されたのは初めてのことだったのでしょう、どこの業者に頼んでも数か月待ち、というたまらない状況が永らく続きました。

当日、車で出勤していた店長に、木々は倒れ標識はあさってを向きそれ故に渋滞する暗い街中を家付近まで送ってもらった私。果たして我が家は無事であろうか。町は見たことのないような暗闇に包まれ、一部の家から懐中電灯の明かりがわずかに漏れるばかりで、いかに普段電気の点いた世界の中で暮らしているものなのか、その時はじめて意識しました。ほんとうに、ここいら一帯は完全に停電してしまっています。ごくたまにすれ違う車のヘッドライトのみが、いやに眩しく明るさを放ち、通り過ぎると景色はまた、息絶えたような、闇夜。

辿り着いた光を失った我が家は、なんだか別の顔をしていました。
各所損壊はしていないものの、真っ暗な中で視るもの、というのはどうしてこうも拒絶的なのでしょう。自分の家だというのに、なぜか入ってはいけないような、そんなおかしな気分にさせられたのです。

目玉を掻き掻き、私は扉の鍵を手探りでこじ開けました。なにしろ沢山ある鍵のうちどれがドアの鍵だか目視できないので、感触で判断するしかないのです。それにしても昼間の突風でなにか入ったのか、目が痒い。バリバリ、バリバリバリ。

懐中電灯を持った嫁はんとぼうずが、階段を下りて出迎えてくれました。でないと玄関は真っ暗闇でなにも視えないのです。
ラジオや未来電話によると電気は復旧の目途が立たず、順次大変な箇所から作業中とのこと。まだ家自体に被害が無く、ガスも水道も問題ない我々は恵まれています。冷蔵庫はできるだけ開けないように、と最低限の開け閉めを命じられます。この暑い夏、冷たい飲み物を摂ることがままならないのは厳しいものですが、水道が使えるだけましでしょう。

パソコンも駄目、テレビも駄目、本も読めず、電子ピアノなどもってのほか、あっギターは弾けるがな、ってもう夜じゃい。未来電話は使い過ぎると瞬く間に充電が切れてしまいます。そして切れてしまえば充電が出来ないということで、私は連絡手段を失います。この状況下、迂闊にさわらぬ方がよいでしょう。
もう、寝るしかないですね。

おっと私はまだ風呂に入っていなかった、まぁ風呂ちゅうても切なく水しか出ないシャワーでちびちびこの身を洗う行為のことなのだけれどもね。たはは。しかしこれが思いのほか辛いものでした。
夏場といえど水をジャァジャァぶっかけると身体は寒いもので、手にちょびっと掬いつつちゃぷり、ちゃぷりと少しずつ身体を湿らせ、石鹸で狭い範囲を洗ってはちゃぷりと流し、の繰り返し。そうしないと冷たくって仕方ないのです。本当に冬で無くって良かったと思いました。ガスは生きてるのに、その肝心な風呂の湯の温度を調整するには電気が必要なのですね。台所のコンロは問題ないのですがそこで沸かしたお湯を風呂桶にいちいち運んでられませんし、真っ暗な中で大鍋でそんな大層なこと何度も繰り返してるとしまいにコケて大やけどをすることは目に見えていますからね。いや真っ暗で視えてへんけども。

虚しく不細工な行水を終えた私は、すでに眠る嫁はんぼうずの布団に入りましたが、冷えた身体は一瞬にして熱帯夜に蒸し返され、どうにも眠れません。その夜の最低気温は26°C、窓を開けても生温い空気が漂うばかり、あれだけ大暴れした風すらろくに吹きやしません。
私は寝室を離れ、ベランダ傍の板の間に転がりました。床板はひんやりして心地よく、一時的には私の火照る身体を冷ましてくれましたがそれも一瞬のことで、私は私の体温が染みついていない場所をもとめて床をごろんごろん彷徨い続けました。

そのうちいい加減に身体の節々が痛くなってきたので、私は床スリープを諦めてよろよろと窓際にシングルベッドの置いてある部屋にゆき、窓をめいっぱい開けて横たわりました。2時ごろにささやかな雨風があり、私はそれを涼としてようやく眠りに就くことが出来たのでした。

翌9月5日の朝6時。いささか期待してTVのリモコンを押しますが、駄目でした。無論エアコンも駄目です。便所は流れます。そこはよかった。でもこのままでは冷蔵庫の中、とくに冷凍物は全滅も必至です。はやく復旧してくれればよいのですが。ともあれこれは今日も交通手段は自家用車オンリーでしょう、私は嫁はんが夕べの明るいうちにガスで調理したおかずと炊飯ジャーが使えぬ故に鍋で炊いた冷や飯を掻き込み、車に乗り込んで職場を目指しました。嗚呼、車はエアコンが使えるのだ!! なんという倖せ。

街は未だ信号の点いていない/ひんまがった箇所が多く、やはり道路は混んでいます。しかし陽の光があるおかげで視界は良好、通行は昨夜よりスムースです。ここに来て感じる、日光のありがたみ。お天道様とはよく言ったもんですね。
大阪市街に入ると営業しているコンヴィニもちらほら。弁当が用意できなかった私はどこかで昼飯をもとめねばなりません。どうにか空いていた大阪市西区九条の街中の駐車場にパークした私は地下鉄、とは言い条どういうわけか高架線になっている大阪メトロ中央線九条駅傍のファミリーマートへエサ探し。辛くも残っていた惣菜パンとミニ手巻き寿司をゲット、私はじつに運の良いおっさんです。しかし歩いて様子を窺うに、同じ九条の界隈でも電気が復旧している区画とそうでない区画に分かれているようです。

案の定、私の職場たる支店は停電したままでした。隣の会社の倉庫に落っこちた屋根も、もちろんそのまんまの惨状です。
電気が点かないと営業用端末も動きませんから、私は店長、どうにか出勤してきた課長と乱れた店内の片付け、店舗周辺の掃除をするほかありませんでした。蒸し暑い。車の中はなんと恵まれた環境であったのだろうか。
そういえば昨日窓口がまだ稼働している最中になにかしらのチョンボをかまして、近所のお客さんに書類を返しにいかないといけないんだった。私はがらくたの積み上がった道を自転車で走ります。

帰ってくると、支店の電気は復旧していました。
ありゃぁ、感動の瞬間を見逃した。しかしクーラーは室外機が裏の民家に落ちていて1台しか稼働しません。店長はこれからの対応を考えなければならずあちこちに電話を架けています。よそに落ちた屋根の除去はどこへ架けても手一杯で対応してくれそうにありません。するとふだん医療保険の請求手続きなどをお世話している工務店の大将が心配して見に来てくれ、職人さんを手配して午前中のうちに隣の倉庫からうちの建物の屋根を取っ払ってくれました。有難い・・・!! 持つべきものは工務店のお得意さんですね。ちなみに隣の会社さんも「自然のことなので・・・」と損害請求をしてきませんでした。これまた有り難い・・・!! 店長、ひとまずホッと胸をなでおろします。

とりあえずこの日は14時頃までまだ機械が動いていないフリをしてのんびり片付けをして営業をサボタージュ、ひととおり段取りが付いてからゆるりと営業再開。しかし硝子ドアにバリバリにヒビが入っているので、応急処置で段ボールを全面に張っ付けたうえ注意書きを付けていたらあんまりお客さんは来ませんでした。まだみんな自分の家の始末でいっぱいだったのでしょう。ちなみに硝子ドアの修理が来たのは、3ヵ月も経った12月のことでした。

退社まぎわ控室でTVを点けるとさぁ大変、港で車が浸水&炎上、停電は依然広範囲で復旧せず電車も運休続行が多数、関西空港では連絡橋に船が激突して通行止めが発生し旅客が関空島で立ち往生、近辺では軒並み電柱が倒れ伏しているというショッキングな映像&情報のオンパレードです。しかしそれでも街の電灯は昨日よりも確実に復帰しており、次第に営業を再開する店舗も目立って来ました。

車で豊中に戻ると、相当の地域にあかりが灯っています。おなじ豊中市内にある実家のおかんからもメールが入り、「もしまだ電気が戻ってなかったら、こっちはもう大丈夫やからお風呂入りにおいで」との内容。おお!!! ついに我が家も電源復旧かっ!! と光を取り戻した街中を北上したら、私の住まう区画だけガツンと真っ暗なままでした。私は運転しながら思わずこけそうになりました。余程日頃の行いが悪かったのでしょう。2日連続の停電なんて、私は生まれて初めての経験です。

さてこの夜も嫁はんは電気の無い中立派に飯を作り上げていました。冷蔵庫内の食材を傷まないうちにできるだけ使いたかった、との思いだったようです。さすがに冷蔵庫も2日目となるとほとんど冷気を失っており、氷は融けて製氷皿がちゃぷちゃぷになっています。牛乳もあぶなそうだけどもったいないので沸かしてコーヒー牛乳にしました。うまかった。ご期待に添えず恐れ入りますが腹はべつに壊れませんでした。
先んじて電気の戻った私の実家からのメシフロいかが? の申し出も、早くにお義母さんをなくし安易に人に頼ることを良しとしない無頼の精神で生きてきた嫁はん、丁重に断ったとの事です。私はこの嫁はんを誇りに思いました。しかしそれでも2日続けての温水なしシャワー行水・冷房なし就寝・光と冷たい飲み物なしの生活は私の脆弱な心を蝕みました。むしろ私よりも幼いぼうずの方が余裕があり、非日常の出来事にワクワクしながら過ごしています。嗚呼、なんと強い子だ。私は私の配偶者と愚息を尊敬しました。ただひとり、私だけこの状況に弱音をこっそり吐いていたのです。目が痒い。ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ。弱者だ。私は恥ずべき弱者だ。嗚呼。

この9月5日〜6日の夜は昨晩よりも気温が高く、雨はおろか風のひとつも吹きゃしません。台風一過、っちゅうやつでしょうか。やはり暑くて寝付けない私はまたぞろ涼をもとめて窓辺に近い床をゴロゴロ、でも窓を全開にしたって空気はまるで爽やかな気配を感じさせません。ベッドの部屋にゆき気紛らしに未来電話の貴重な充電で桃色違法動画を閲しますがよけいに身体が火照るばかりでまるで寝付けません。
しかしそのうち魂の疲弊が熱帯夜の蒸し暑さに勝ち、夜中の2時45分ごろでしょうか、私は気を失いました。

翌朝、ちゅうても3時間後。嫁はんが私を起こしに来ました。
「オポム、電気戻ったよ!」

・・・・・・ぇっ? 一体いつの間に!!? 

嫁はんの話によると、私が気絶したほんの10数分後の未明3時ちょうどに、突然家じゅうの電気が“ヴンッ”と音を立てて点いたのだそうです。私は昨朝に続いて感動の瞬間を逃したのでした・・・ 久々に働いたTVが映し出したのは、その未明3時7分に発生したばかりの北海道の大きな地震の報せでした。こちらが戻れば今度は他方が困難に遭うなんて、なんという因果な話でしょうか。それでも今は、ようやく原状復帰を果たした我が家の電気をことほぎましょう。

私に、かなりの割合の日常が帰って来た実感が湧きました。
しかしまさか2日連続で電気が停まっただけでここまで心にダメージがあるとは想像もできませんでした。あの阪神大震災の時でさえ私の地域の電気はすぐに戻りましたからね。それでも極寒の冬や緯度の高い地域でなかったこと、そこは不幸中の幸いと言うべきでしょう。
私はいつもの出勤スタイルで7時ちょうどに家を出てバス停に駆けました。

が。
定刻を5分過ぎてもバスはやって来ません。替えたばかりの未来電話であわあわしながら時刻表のQRコードを読み込んだらば、

「路線上に信号機の停止している箇所があるため豊中市内線は運休します」

やて。日常はそう簡単には戻って来ないようです。私は大慌てで家へとんぼ帰り、またしても自家用車で職場に急ぐのでした。この日は駐車場が見つからず難儀し、遅刻しかけました。コンヴィニはほぼ復帰、しかし帰りに寄った牛丼屋は「すいません、今日はふつうの牛丼とカレーしか出来ません」と半泣き、近所の大型ショッピングセンターも施設の安全性の確認のため閉まってしまいました。石川さんもおっしゃったように、この3日後に行われた同じ豊中市の服部緑地野外音楽堂でのライヴも公園内が凄まじい状態のままでの強行開催でした。

冒頭にも書いたように、未だに元の暮らしに戻れていない方々もいらっしゃいます。多額の修繕費に肩を落として帰って行く街の皆さんを見るのは辛いことですが、そんな時でも笑っている大阪のおっちゃんおばちゃんはえらいなぁ、と思いました。
と書きましたがこの災害時にも笑顔を見せる精神性はなにも関西人だけのものではないらしく、外国のメディアが日本の災害の様子を取り上げては被災者の笑顔に驚く、という話を聴いたことがあります。ほんとうは、思い切り泣いたほうが心にはいいのかもしれませんけどね・・・。

などと言っている私、ここまでにも何度も目を掻きむしる描写をはさみましたが、とうとうそれが困ったことを起こしました。泣きたくないのに涙が止まらないんですね。いや精神的なもので泣いてるんじゃなくって、物理的に。なんじゃこりゃ。つづかなくてもいいのに、さらにつづく。(オポムチャン 19/3/9)

(寸評)我が家も今年引っ越して、風呂も電気式になったし、ウオッシュレットも付いた。
暖房もストーブは使えないということで廃棄し、エアコンだけに。完全に電力に頼りきった家になった。
なのでこんな災害が来たらひとたまりもない。
ちなみに車も無いので電車が止まったらすべてお手上げ。陸の孤島。都内までタクシー使ったら片道一万円ではいかないしね。
まあ、人の命にかかわるような仕事じゃないから大災害ならライブやイベントもそもそも中止になることも多いけど。
でもちょっとは非常事態のことは考えなくちゃな、とはこれを読んで思ったね。
明日、せめて水のペットボトルぐらい買ってくるかな。 9ポイント。

はじめての目ぇ不調により長文投稿不能状態に

「はじめての2日間停電」の続編的なやつです。

2018年の夏の大阪にはまっこといろんなもんがやって来やがりまして、6月18日に震度6弱の大阪北部地震、7月6日には平成30年7月豪雨、とどめに9月4日の台風21号、と、普段どういうわけか自然災害から縁遠かった大阪の街は、ここへ来て一気にタコ殴りに遭いました。きっといままでの運が良過ぎたのでしょうね。

さてその台風の影響による2日間にわたる停電で、脆弱な私の精神はずいぶん傷めつけられました。いかに文明に頼り切って日々ボケッと生きているかが知れますね。情けない。

さらに情けないことに、私はそのストレスからかはたまた強烈な風で仕事場の建物の中まで吹き込んできた砂塵の仕業か、目ぇが、めっさ痒くなって掻きむしる手が止まらなくなってしまい、左目が充血して涙が止まらない状態になってしまったのでありました。

電気は6日の早朝に、通勤に使う電車・バスは7日には復旧し、金曜日から私の生活はほぼ元通りになりました。しかし終息せずに続いていた非日常、それは目玉の痒さ。仕事中も通勤帰宅時も目をゴシゴシバリバリ、私は元来痒みを我慢する、という行為が一切できない意志薄弱者すなわちあほで、どんどん掻き毟ってはどっかしらのお医者のお世話になり毎回どえらく叱られる、といった間抜けを繰り返して生きて参ったわけです。たわけです。
今回もご多分に漏れず早速8日土曜の朝に眼医者へすっ飛んで行って定例的に叱られたわけですが、どうも瞼にヘルペスヴィルスが居るらしく、これは昔だと失明も引き起こしていた角膜ヘルペスに近い状態であることが判明しました。ヘルペスは一度感染し発症すると投薬等で沈静化はするものの体内に潜伏し続け、ストレスや疲労などで免疫力が弱った途端に一気に飛び出してくるのだそうです。道理で。

私はあまり目ぇを触らぬように、とお医者様に言いつけられ、抗ヘルペス剤の眼軟膏と目薬を2種類ずつ処方していただき帰宅しました。なにせ翌日は楽しみにしておったでゅおめいぷるようこさんとパスカルズのコンサートだ。音楽は耳で聴くものだが目玉がやられては会場にも行き辛かろう。さぁ真面目に目薬点して・・・ う〜んまだ痒い。

翌日。私は八尾と豊中・服部緑地の双方のコンサートを鑑賞するため北へ南へ片道30kmの大移動、その片道電車で約1時間。まだ暑い時季なので汗もかくかく、私は手拭いで顔の汗を拭きつつ移動、するとあっさり左目瞼のヘルペスヴィルスは右目にも伝染、私は両の目から涙を垂らしつつ帰路に就いたのでした。不細工極まりない41の赤目の半泣きおっさん、大阪を右往左往。ちなみにコンサートは、両方とも最高でしたよう。

次の日からは痒みに加えて、目が、異常に疲れやすくなってしまいました。
パソコンの画面を見るにも焦点が合わせにくく、利き目である右目の視えが非常に悪くなっています。そして見ること10分も経たないうちに、目が強烈に疲労してモニタ? ディスプレイ?? どっちゃでもええわ、を見ていられないのです。これでは投稿はおろか、仕事にもなりません。
仕事を早退して眼医者へ、案の定両の瞼のヘルペスヴィルスは角膜に感染し、より悪い状態になっているとのことでした。当面の間、たいへん塗りにくい眼軟膏を2種類1日5回欠かさずに塗布すること、と命じられました。でないと最悪失明する、とまで。
このアシクロビル眼軟膏はヘルペスに非常に効果的ですが4〜5時間で体内で分解されてしまうため、それ以上間隔を開けずに投じ続ける必要があるのだそうです。

その後私は約2ヵ月間、毎日欠かさず4時間おきに点眼と眼軟膏の塗布を余儀なくされました。めんどくさかった。またこの際悪そうな所はみんな診てもらおう、と腰医者・歯医者にも通い出し、いつもの皮膚科と合わせれば平日夜に週2日、土曜は2医者をハシゴ、みたいなヨボヨボライフを続けました。ヨボボ。
そうして12月、ようやく右目の状態が快復し、私は趣味の投稿を再開しようとしたのですが・・・・・・

いままでひたすら長ったらしい文章を5年そこらほぼ毎日編んできたものを、ここまで長く休んだことがなかったせいか、てんで長文投稿をする気力が湧かなくなってしまったのです。

ああ・・・・・・ これか、石川さんがいつも仰っている、「とにかく続けること」の大切さとは。一旦日課から外れてしまうと、気持ちがサボってしまうのですね。

というわけで、現在はリハビリ的に従前より時間を掛けてまた投稿を再開しています。どのみち私の短くしたくてもできない無駄に冗長な文章は、これくらいのペースに減った方が各コーナーとも読みやすいでしょうからね〈泣笑〉。
またヘルペスによって角膜に生じた凹凸は残ることがあるそうで、右目は光の見え方がなんだかへんてこになり、眼鏡をせずに夜の街を歩くとくらくらしそうになります。段々慣れてきましたが。

そしてこの投稿不能の間、替わりに打ち込んだ趣味で、またしても私は修羅と化すのでした。続きはまた、別の話。(オポムチャン 19/3/9)

(寸評)いやー、痒いのは我慢できないよね。俺もチェンマイまで「伸びる孫の手」持ってったくらい。
そして目が使えないのは本当に大変だよね。西大路さんの偉大さが身に沁みる。
しかもこれにも増して修羅があるですと!? 投稿が楽し・・・いや、まずは安静にして「世の中に無い言葉しりとり」とかの短いやつにも応募してくれると嬉しいな。自分のペースでいいからね。ゆっくりで。
とにかくお大事に。9ポイント。

はじめての福袋

はじめて福袋を買った時の話です。

2018/12/31、紅白を見て、CDTVを見て、若干仮眠に入ります。
1/1は毎年特にやることが無く、実家へ帰ったり、ニューイヤー駅伝の応援へ行ったり、ぐだぐだして過ごしますが、今年は初めての福袋なので少し緊張。
まずはいつもの近くの神社に初詣へ。さすがに人が少ない。でも警備員さんが何人も待機。ご苦労様です。二年参りからいるのでしょうね。なむなむして車で神社を後にします。
朝6:30ごろ到着。まだ駐車場ゲートがクローズしています。クルマは何台も数珠つなぎで待ってます。勝手知ったる私は近くの別の無料駐車場へ。
本当はレイクタウンへ行こうと思っていましたが、ネット情報で「素人にはお勧めできない」とありびびった私はこちらへ。
その時までに何ヶ所かいろんな店のカルディ福袋数をチェック。ショッピングモールへ行くには苦にならないので、数が多く駅から遠く田舎な所、入店時刻が早いところを選んでみました。
ショッピングモールによって違うのですが、私のところは、福袋列は三つにわけられます。並ぶのは平面駐車場。店名が書いてあってそこへ並ぶ店、通常の入り口に店名が書いてあってそこに並ぶ店、そして私の整理券組です。セーフティコーンとポールで列が作られ、普段はクルマで埋まる平面駐車場が埋め尽くされています。
最初に整理券を貰います。整理券は14::00くらいまで引き換えok。整理券は8:00ごろ配布。8:30ごろ先行入場、9:00から引き換えです。

本当に真っ暗なうちに並ぶんですよ。整理券列は10店舗くらいあってすでに人が・・・。先頭の人は椅子を持っていました。
夜が明けます。駐車場もオープンし続々と人が集まってきます。みな先頭の店名ボードを見て自分の希望する店へ並びます。
警備員も朝早くから10数人おり、そのうち店員さんらしき方もやってきます。
日の出を迎える頃が一番温度が下がる時間です。
朝0800やっと整理券配布です。
カルディは写真の通り二種類あって、最初はカルディに並び、さらにもへじ福袋整理券(カルディに卸しているもへじというメーカーです)の列に余裕があったので並び直しました。二枚ともGET! もへじ(2000円)とカルディ(3500円)です。 カルディの方はあっという間に配布が終わりました。
そのまま車を駐車場へ入れ車内で待機していると、ここでミスを犯しました。整理券を貰った人は、第2の各店舗列に並ぶんですね。私は朝の9時に入店すればいいじゃんと考えてましたが、100何人の人が開店後さらに店舗で並ぶので、結局時間がかかってしまうのです。
ショッピングセンターは整理券が無い店舗や、整理券不要でも待機列が必要な店に並ぶ人も多く、なんかカオス状態でした。



さて開店です。わたしは丸亀製麺に直接行き、3000円の商品券とソースや醤油などが入っている福袋も購入。
紅白お菓子もモールからもらいました。
カルディ店舗前で30分くらい並んでやっとお目当ての品をゲット。カルディの福袋は8500円程度のものが入っているらしいです。
福袋のエコバックだけでもオークションで売れるそうです(笑)。
たしかにお得感満載で、女性に大人気な福袋ですが・・・来年はいいや笑(たぶん)。(わいわい 19/3/9)

(寸評)はは、ご苦労様。
昔、電気屋の福袋を買ったらファミコンの人気ソフトが入っていて、しかしその頃ハード自体をまだ持ってなかったので中古ファミコンショップにそのまま売ったところ、福袋の値段以上に高く売れて得したことあったなぁ。5ポイント。


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