ドキドキドキリコ初体験(95)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめての中国大陸縦断

今から10年ほど前に中国大陸縦断寝台列車一人旅をしました。日本国内でも寝台車には乗ったことがないので盛大な初体験となりました。
当時遼寧省瀋陽市で日本語教師の仕事をしていたのですが、生徒数が足りないために日本人を雇うことができなくなった(日本人と中国人では給与が全く違った)為に解雇となり、帰国することになってしまったのです。
急いで日本に帰る理由もなかったので、とりあえず広東省深圳市にいる友人を訪ねることにしました。
私のいた瀋陽は東北地方、深圳は香港のすぐ隣、列車で40時間(車内で2泊)の旅になります。
夜22時に出発し23時には消灯、その日は寝るだけで終わりました。
3段ベッドが向かい合わせに2組で6人。行きは高校生ぐらいの女性3人、老夫婦、私。通路には小さな椅子とテーブル。1番下のベッドはみんなの社交場と化してしまうのでおすすめはいちばん上のベッドですね。
私は1番上だったので、日中は通路の椅子に座っていました。
時期は11月だったので瀋陽は真冬、深圳は初夏の陽気ですので、朝起きる度に季節がひとつ進んでいく感じで洋服をどんどん脱いでいきます。
行きは特に誰かと話すことも無く、窓の外の風景を見ていることが多くて(車窓からの風景を見るのが好きなので延々それでも飽きなかったです)、時折回ってくる車内販売のアイスやお弁当などを食べてのんびりと過ごしました。

帰りのメンツは中年夫婦、初老の男性、若い女の子2人、私という6人。
私たちの担当の車掌さんが明るい人で、しかも日本人の私に興味津々だったので暇な時間があると私とおしゃべりしに来るのです。女の子たち以外の3人も日本人女性が一人で列車の旅をしている事が珍しかったのか何かと話しかけてきてくれたので賑やかな旅になりました。初老の男性は外国のコインを集めているので日本のコインを持ってたらくれないか、というので、ちょうど持っていた50円玉をあげると、穴の空いているコインは初めてだ!と喜んでくれました。
全く知らない人同士が交流しながら旅をするのはとても楽しかったです。(美月 19/3/3)

(寸評)中国には何度も行ってるけど、それはすごい旅だねー。
今だったら新幹線が走ってる区域もあるだろうから、10年でも大きく違ったかもね。 10ポイント。

はじめての激烈台風大阪襲来

このコーナーではご無沙汰です、迷惑長文投稿中年・オポムで御座います。はいはい、どうぞ次の方の投稿へワープして下さいね♡

さて冒頭からいじけてないで話を進めましょう、2018年9月4日、その日は前日からどえらい台風が来るで、と各ヌュースも警戒を強めていました。当日はそらもうおっそろしい勢いで上陸するだろう、と。
しかし。私は余裕をぶっこいていました。だって今まで、せんど超大型台風上陸、なんて言われてても、結局地勢的に恵まれているのか何なのか、大阪市内にはほとんど大きな被害がもたらされて来なかったからです。だから今回も煽るだけ煽って、ほーれなんともなかったやないかーい、ちゃんちゃん、でお仕舞い、とばかり思っておったのですね。

しかしその日は朝からなんか世間の空気が違いました。

通勤時、バスや電車はお昼からの運休を早々とほのめかし、いつも開いてるコンヴィニエンスストーァもはなっから閉まっています。よく見ると大阪梅田駅周辺のお店が、けっこうな割合で閉められたままになっているではありませんか。そうか、電車がやられれば従業員も帰りようがないものね。ってか私豊中市から南下して大阪市西区の職場に、ふつうに電車で、向かってるんですけど。
ま、まぁ、どうせ大したことは無かろうよ。なんやこの程度やったかー、って、いつものように思うだろうさ。

朝のうちは少しく風が強いものの特段気候に問題は無く、私はあっさり西区の勤務先に辿り着きました。
しかし社員が店長を含めて2名しか居ません。っちゅうか、すなわち私と店長だけでやんの。えらい台風が来るみたいだから、万一に備えて遠距離通勤の課長と60歳同僚の2名は帰宅困難を避けるために昨日の段階で休ませることにした、とのことでした。
えぇ〜このおっさんと2人かいな、窓口よう回さんわ、と不安になりましたがお客側も空気を読んでるのか普段ほど来ず、どうにかお昼過ぎまでは頼りないおっさん2人で営業をしました。
その間も、風は徐々に勢いを増してゆきました。

13時を越えた時点で、風の音は凄まじいものになっていました。私の職場ではコンヴィニの如く小包の受付もしていますが、この風では運送会社も我々が窓口で引き受けた小包を取りに来てはくれないんじゃないか、と思っていたらやって来ました収集車。
いろんな物体がびゅんびゅん飛び交う中、収集のおばさんはもう風でひっくり返りそうになりながら、必死でバンの扉を閉めようとしますがあまりに風が強すぎて扉がまるで閉まりゃぁしません。よく運送屋もこんな状況で荷物を集荷させたもんです。

外はいつしか、まじでやばい感を醸し出してきました。私もこれまでに体験したことのない緊張感を覚えます。

収集のおばさんがどうにか荷物を積み終わるまでの間も、「ドカーン」「バシーン」と激しく何かがぶつかったり爆発するような物騒な音があちこちから聞こえてきます。一時はバンも横転するんじゃないか、という勢いで豪風が吹きつけました。
自動ドアは強風で何度も勝手にスライドしてしまうので、電源を切りました。しかしうちの支店にはもうひとつ自動ではない小さな硝子のドアがあるのですが、それがもうバッタンバッタン激しく開閉するのでもう大変、このままでは硝子が割れてしまう、と店長がドアの取っ手にビニル紐を引っかけて、窓口から引っ張りつづけよう、と無謀な抵抗をしていたその刹那。

ガシャァァァン!!!

店長が「ふぉぉっ!!?」とすっとんきょうな声を上げます。何かが風に飛ばされてガラス扉に激突、針金がナナメに網目状に入っていたためバラバラにはならなかったものの、ガラス扉にバリンバリンにひびが走りました。ひょえぇええぇえええぇええぇぇぇぇえ!!!??

こ、これ、応急処置でガムテープでも貼らんと、お客さん怪我するで、と店長がガムテで必死に修繕、私が扉のビニル紐を引っ張りつづけていたら。

ブォゴオォォォオオ、ザギャァァッッッ!!!!!

出鱈目な勢いで吹いた風が自動ドアをこじ開け、砂利かなにかが私の目を襲いました。もはや窓口は記入書類が無茶苦茶に散乱し、とても営業できる状態ではありません。

そしてとうとう電気が、ばん、と消えました。

店長と私は硝子のドアを最低限の処置をすませたのち這う這うの体で鉄扉を閉め、自動ドア前のシャッターを閉めました。かかる状況で「おいこらぁ、なに勝手に店閉めとんねん」などと吐かす輩は皆無でしょう、もう外はいろんな物が壊れ、飛び交っています。今外を歩くことは完全に命知らずな行為です。硝子ドアを破壊した何かしらの物体が自分やお客さんに当たってたら、と思うと戦慄します。
凄まじい雨と風です。
窓口端末は締め処理をおこなうまでも無くダウンしてしまいました。パソコンはしばらくは使えましたが、電話線もやられているのでしょう、じきにシャットダウンするしかなくなりました。

どうにか暴風を凌いだ店内には、謎のプラスチック片が多数、土、砂、葉っぱ、先程割れた硝子ドアの破片、グシャグシャの書類、剥がれたポスター、どこのなんの部品かもわからない金属辺でがっしゃがしゃ、掃除機をかけようにも電気は停まってしまいました。だがまだ15時前、外の明るさでどうにか視界は保てています。私は呆然と、床に散らばったなんやかやを片付けました。

店長が携帯でほかの支店に電話をしています。固定は駄目でしたが携帯はなんとかなりました。おなじ西区の支店でもどうにか営業できている店舗、当店と同じような状況に追い込まれた店舗、と様子はさまざまでしたがどうやらうちが一番被害が大きかったようです。
しかしそんな携帯電話も充電が切れてしまえばただの板、そう、今は充電をする術がまるでないのです。店長は最低限の情報だけを集めて支社の指示を待ちました。

その間にも収まらない強風と共に叩きつける、大雨。いよいよ窓側の天井から、ぼたぼた雨漏りが始まりました。なんと鮮やかな『泣き面に蜂』でしょうか。私は半泣きの店長の指示に従い、店中の雑巾をかき集めて水が漏りつづける箇所へ無理矢理貼り付け、応急処置をしますがあまりの広範囲に防ぎきれません。本当に40年生きてきて、これほどまでの台風は初めてです。ここまでのことになるとは思わなかったので、私は店長が長距離通勤の社員2人を休暇にしたのは本当に珍しく好判断だった、と思いました。こんな目に遭うのは我々だけで充分です。

暗くなる前に、と店長が懐中電灯を用意してくれました。また便所には明かりの入る隙がないのですでに暗闇ゾーンと化しており、重宝しました。水道は使えることがわかり安心しました。今回は地震じゃないからか。
しかしここまでの展開に私はすっかり虚脱してしまい、エアコンが停まり蒸し暑い控室のロッカーにもたれて、何十分もそのままでいました。何を考えていたかは、思い出せません。本当に何も考えられなかったのかもしれません。3日前に厭々機種変更したばかりの未来電話には、ここだけではなく大規模な停電が各地で発生している、というヌュースが表示されていました。そんな頼りの電話も、はや充電率が60%になっています。これ以上は余計な事には使えません。嫁はんと実家に短い連絡メールを打ち、また私はなにも考えることができなくなり、ぼぅっと日が暮れていくのをただただ感じていたのでした。

暮れかかり、ようよう雨風もマシになってきたので表に出てみるとそこいらに看板・鉄骨・謎の板・テント・瓦・木の枝などが積み上がっていました。
そして一番ひっくり返りそうになったのは、なんとうちの建物の屋根が隣の会社の倉庫にまるまる落っこちていたのです!! そら雨漏りも激化するわいな。まだ従業員さんが帰宅指示で居なかったことが不幸中の幸いでした。もしこれが反対側の民家に落ちていたら・・・ と思うとぞっとしま・・・ え? 裏手の民家にうちの室外機が落ちて相手方の室外機に直撃、エアコンが使えない?? 蜂のぼけが泣いた面めがけてぶんぶん飛来してきやがります。それぞれの賠償のことを考えて店長はなかば発狂したようになっています。

電気が復旧しないので窓口システムの締め処理はどうにもならず、そんな折ようやく支社から連絡があり、とりあえず今日は何も出来ないので明日に改めて指示をするから安全に帰宅するように、とのことでした。
無論電車は止まっています。しかしそれを見越して店長は車で出勤していました。私がポンコツ中年の分際で出勤要員に選ばれたのは、偶然店長の住まいの隣町に住んでおり、非常時に店長が車で帰宅する際にも同じ方向へ帰ることができるからなのです。まぁいざとなれば15km歩いて帰ることも覚悟はしていましたが(無駄に経験あり)。

近くの駐車場に停めてあった店長の車は幸い無傷で、出庫も出来ました。西区内は電気の復旧した区域、そうでない区域がはっきり分かれており、灯りの点いているコンヴィニは外から見ても、品物がすっからかんになっているのが判りました。そう、数多くの家庭で冷蔵庫も機能を停止しており、まだ夏の暑さが厳しい9月上旬、喰いものは瞬く間に傷んでしまいます。
嗚呼、家族は飯を喰えているのだろうか? とメールしたところ、嫁はんはガスは使えるのでどうにか晩飯は作れた、むかし誰かの結婚式でもらったへんなキャンドルと懐中電灯で灯りを得ている、とのことでした。今夜は水シャワーの風呂であることも宣言されました。こればかりは夏でよかった。

豊中へ帰る道中も、恐ろしいものでした。
道路にふつうに街路樹が倒れて進路を塞いでいる箇所あり、信号が完全にあさってを向いていて一体どちら側の車が青なのか判らなくなっている箇所あり、そもそも電気が通っていない信号もあり、皆がおなじように車で帰るもんだから渋滞がひどくてほとんど進まない箇所あり、そして豊中市の南部を抜け中部に差しかかる大きな交差点から北は、ほぼ完全に停電して真っ暗でした。
こんな光景、生まれて初めてです。
左手を見ると関西電力北摂営業所の前で、太ったおっさんが関電の職員さんか誰かに延々と罵声を浴びせているようです。この状況下でそんなことをして、なにになるというのでしょう。この人を早々に開放して本来いまやるべき業務に戻してあげる方がよほど有益でしょうに、緊急時の人間とは自分勝手で浅ましいものですね。

私は店長の運転する車中で、何度も、何度も激しく目を擦りつづけました。昼間の突然の強風でドアが開いた際に何かが入ったのかもしれません。あとあと考えればストレスによるものだったのでしょうが、これが後を引くこととなるのです。

辛うじて電気が通っている区域のコンヴィニでなにか腹の足しになるものを、と辛くも残っていた笹かまと焼き菓子とファミチキを購入、パンおにぎり弁当は案の定すでに消滅していました。そこからも時間をかけて牛歩で北上、支店を出てから約2時間半でようやく帰宅することが出来ました。普段なら45分で帰れる距離を、です。徒歩と大して変わらんがな。

各地を襲った、そして大阪市内では本当にこれまでになかったレヴェルの暴風体験。USJははじめて2日連続閉園、各私鉄も軒並み運休、関西空港は橋に船が激突し機能停止、最大瞬間風速は大阪市で約50m/秒、4日の関西電力管内の停電約224万7000戸、という未曽有の事態をもたらした2018年台風21号。へろへろで帰宅した私を次に待ち受けていたのは、この停電の厳しさでした。いつもの如く長くなり過ぎましたので、何処にもニーズの無い、「つづく」。(オポムチャン 19/3/3)

(寸評)ふわ〜っ、やっぱりものすごかったのね。
俺たちもパスカルズで9月下旬に緑地公園でフェスに出たけど電気は通っておらず、ステージだけは発電機で音は出せたけど楽屋等は電気もなく真っ暗。そこに向かう公園内の道も街灯も無く、あちこちで倒れた巨木が道を塞いでたもんなー。
なんか子供の頃よりここ数十年の方が自然災害が増えてると思うのは俺のイメージかなあ? 9ポイント。

はじめての歌謡ショー

先日塩原温泉へ行ってきました。そのホテルは規模が大きく、昼間は大衆演劇とコンサート、夜は歌謡ショーを行います。宿泊者は無料です。今回は夕食の後に夜に行われた歌謡ショーのお話。
あまり名前も知らない中年歌手のドサ周り営業か・・・と思いながら会場へ。
場には100人くらい集まっていました。平日のためか中年、高年齢の方ばかり・・・。
そんなに期待しないで見ていたのですが、MCがめちゃくちゃうまい。客いじり、売れていない自分いじり。
「先日京都の刑務所慰問コンサートへ行って来たんです。駅まで帰りは護送車で送ってもらいました。もう二度と来るんじゃないよ」。うそつけ(笑)。

お酒が入っていて、おばちゃんが多いので、何を言っても受けます。だんだんいい雰囲気になってきました。
そのショーでは、御捻りの代わりとして、レイを会場で1000円購入し、掛けてあげるというものです。レイ分のお金がそのままもらえるんですね。
おばちゃんたちはレイをかけ写真を取ったりハグしてもらったり握手してもらったりしてます。全部で30くらいレイはかけられたんじゃないでしょうか。

なかにはポチ袋にお金を入れて渡す人も。
「以前、ポチ袋を頂いて、これでお茶でも飲んでって言われたんです。中を身を見たら、ティーパックが入っていました」
みんな大爆笑。その時私は部屋からくすねてきたティーパックを偶然持っていました。歌いながら私の方へ歩いて来たので両手で握手しながらティーパックを渡しました。
「ん」「んん?」
と言いながらステージへ戻っていきます。
「ティーパックもらっちゃいました!」
またまた会場大爆笑。



最後は出口で見送ってくれます。私を見て「ティーパックありがとう」と笑って言ってもらいました。よく覚えてるなー。
楽しかった一時間でした。(わいわい 19/2/16)

(寸評)いいネタを提供したね。そういう使いやすいやつは嬉しいんだよね。一歩間違えると狼狽させるが(笑)。 8ポイント。

初めての自宅バスタブにジャグジー

波照間エロマンガ島@バンコクです。2月に入り引っ越しました。新居は32階建てのコンドミニアムの中層階の1LDKです。特徴としてはバスタブにジャグジー機能がついていること。生まれて初めて家のお風呂にジャグジーがついている部屋へ引っ越したので、気分がだんぜん盛り上がりました。



でも最初、取り扱い説明書も何もなく使い方がわからないので、浴槽にあるボタン(写真参照)を押してから浴槽に湯を張っていきました。するとある瞬間、とつぜん「ごぉぉぉぉぉぉぉ〜!!」という轟音がバスルームからするので何事かと思い駆けつけると、強烈な勢いで湯船に泡が立ち現れていたんです。見ると浴槽の中にあるいくつかの噴射口までお湯がたまったのでそこから気泡が出ていました。さっそく脱衣して浴槽に入るとこれが気持ちのよいことこの上なし。タイ語で言うところの「サバーイサバーイ」状態であります。引越してよかったー、と実感。そんな、初めての自宅バスタブにジャグジー導入した、の巻きでした。(波照間エロマンガ島 19/2/16)

(寸評)くーー、ゴージャス! いろんな人をこれから「ジャグジーのバスタブに入りにおいでよ」と言って誘ってあれやこれやするんでしょうな。浦山氏。 6ポイント。

生まれて初めて南半球へ(2002年12月2日)

波照間エロマンガ島@タイランド在住です。わたしが初めて南半球に行ったのは2002年12月2日のことでした。

その日バンコクを飛び立ち、バリ島へ旅行したのです。
朝6時、バンコクのホテルをチェックアウト。ホテルが手配してくれたタクシーでドンムアン空港へ。6時半、タイ航空チェックイン。ところが機材延着のため、離陸が3時間遅れることを知らされショックを受ける。午前11時半過ぎ、バンコクを離陸。バリ島へ向かう。生まれて初めて赤道を越え、南半球入り。タイ航空機内でのスクリーンに映し出された赤道を超えた画像がこれです。



午後4時にバリ島着。空港建物から外に出た途端、むっとする湿気と暑さが身体を襲う。なんじゃこれは? ミストサウナみたいだと感じました。あっというまに汗が身体全体から噴き出してきました。この湿気がバリの第一印象でした。(波照間エロマンガ島 19/1/29)

(寸評)俺もバリに行ったのが初めての南半球だったな。やっぱりなんとなく感慨深かったね〜。
その後、パスカルズでオーストラリアとニュージーランドで公演したな。 6ポイント。

初めての馬込文士村(2002年2月1日)

波照間エロマンガ島です。2002年2月、散歩で訪れたJR京浜東北線大森駅前に「馬込文士村」のレリーフモニュメントを発見しました。

「馬込文士村」とは、大正後期から昭和初期にかけて東京府荏原郡馬込村を中心に多くの文士(作家など文筆業に携わる人々)や芸術家が暮らしていた地域の呼称であります。現在の地名で言うと、東京都大田区の山王、馬込、中央の一帯となります。1876年に大森駅が開業して、そこの界隈が別荘地として開拓されていったことも文士たちが集まった理由ともされています。徐々にその地に文士の人たちが集まってきたのです。

わたしはそのレリーフをデジカメで撮影し、帰宅後、画像編集ソフトでその文士たちをキャプションをつけてブログに発表しました。それが下の写真。



すると、いつもコメントをくれるネット上での友達がいの一番にコメント書き込みをしてきました。「あー、これ知ってます。っていうか、これを作ったの、わたしの父なんです!」
なんと、いつもわたしのブログにコメントをくれる人のお父さんの作品だったというわけでした。すごいシンクロニシティーですね。そんな思い出のある初めての「馬込文士村」の文人たちのレリーフと初めての出会ったという話でした。(波照間エロマンガ島 19/1/29)

(寸評)あ〜、それはその友達も嬉しくて速攻でコメントしたんだろうね。
今後もネットだからこそ生まれるシンクロニシティーもあるかもね。 7ポイント。

初めての劇場映画体験(1967年)

波照間エロマンガ島です。わたしが生まれて初めて映画館で鑑賞した映画は、東京銀座にあったテアトル東京で観た「ドリトル先生 不思議な旅」(日本公開1967年12月)だと長らく思い込んでいました。映画冒頭のロンドンの雑踏シーンや、島へ舞台が移ってからの大きなカタツムリが出てくるシーンはかすかに記憶に残っています。当時幼稚園年少組で5歳頃だったか。

ところが最近、もしかしたら別の映画が生涯初の劇場映画体験ではないかと思うようになったのです。それは「サンダーバード 劇場版」(日本公開1967年7月)。人類初の有人火星探査ロケットの「ゼロエックス号」の火星探査と離着陸のサスペンスを描いた作品なのですが、こちらのほうを先に観たかもしれないと思うようになりました。というのもこの映画もロードショー公開時に映画を観た記憶がよみがえったからです。当時うちにこのゼロエックス号のプラモデルがあって、よく遊んでいました。NHKで毎週観て熱中していた頃です。日本公開日を調べると「ドリトル先生」よりも「サンダーバード」のほうが半年ほど早いんですね。父も母も無類の映画好きだったので幼いわたしもかなり早くから映画に連れて行ってくれました。そんな幼少時代でした。そんな生まれて初めて映画館で観た映画の話でした。(波照間エロマンガ島 19/1/29)

(寸評)サンダーバードは2号のズングリムックリが好きだったなあ。ドリトル先生も昔は有名だったよね。6ポイント。

はじめての修羅場

初めて修羅場を目撃したときの話です。
その日私は彼と一緒に旅行へ出かけていました。泊まったホテルは車でないと不便な森の中。送迎バスもあるにはあるけど本数は限られ、当然周りには何もないので宿泊客はほぼ全員ホテルのレストランを利用することになります。私たちもディナーを予約した時間にレストランへ行き案内された席につきました。お隣のテーブルにはアラサーぐらいのカップルがすでに着席していました。
シャンパンとオードブルが運ばれてきて乾杯し、これ美味しいね〜なんて会話をしていた時に、隣のカップルの席に年配の女性がビデオカメラを手にしながら近づいてきたのです。一瞬「地元テレビのレポーターかな?」と思ったのですが、その女性が発した「どうしてこんなところにいるんですか?」という言葉に違和感を覚えました。話しかけられているカップルの男性がうつむいており、連れの女性はきょとんとしています。無言の男性に向かい「ここで何をしているんですかと聞いています!」と更にたたみかける年配の女性。レストラン中が静まり返ります。隣にいる私たちも食事どころではありません。緊迫した空気の中今度は赤ちゃんを抱いた女性が登場し、男性の腕をひっぱりながら「ねえ、なにやってるの○○(人名)、ねえ!帰るよ!」と半泣き状態で叫んでいます。そう、アラサーカップルは不倫旅行だったのです。それをどうやって知ったのかはわかりませんが、奥さんとたぶん母親が連れ戻しにやってきたのです。男性は奥さんに連れ出され、残された不倫相手の彼女が呆然としていると母親が「あなたも来るのよ」と腕をつかんでレストランの外へひっぱっていきました。椅子にかけていたジャケットやテーブルに置いてあったスマホはそのままに・・・
その間2分ぐらいの出来事でしたがインパクトが強すぎ、緊張感がありすぎて本当にはらはらどきどきしてしまいました。 30分ぐらいたった頃母親がジャケットやスマホを回収しにきたので、それまでどこかで話をしていたんでしょう。レストランを出る時にマネージャーらしき人が、隣の席だった私たちに「お騒がせして申し訳ありませんでした」と詫びてくれましたが、レストランのせいでもないし「いえいえ大丈夫ですよ、でもびっくりしましたね〜」と返すと、あの後はロビーで話し合っていたようだがホテルを出るころにはだいぶ冷静さを取り戻していた、というような事を教えてくれました。
思いっきり他人事なので「こんなドラマみたいなことが目の前で起きるなんて」という妙な高揚感がありましたが、当事者にとってはたまらないだろうなあ。(美月 19/1/18)

(寸評)うわー、ホント当人じゃなくて良かったとしか・・・コワイコワイコワイ。 8ポイント。

チェンマイ大洪水、初体験〔2011年9月29日〕

波照間エロマンガ島@タイランドです。
2011年9月27日、台風18号(アジア名、ハイタン)がベトナム中部に上陸しました。その後熱帯低気圧に勢力を弱め、同日午後から28日朝にかけ、タイ東北部から北部を縦断しました。すると熱帯低気圧による大雨でチェンマイ県を流れるピン川の水量が増し、28日午後1時過ぎ、ナワラット橋周辺では警戒水位を超え付近の商業地、住宅地などが水に浸かる事態になりました。

翌日29日の午前中、当時チェンマイに住んでいたわたしは被害状況を見るため、チェンマイ市街東部にあるピン川とその近くのワローロット市場、ナイトマーケットなど歩いてまわりました。

はじめにピン川沿いのワローロット市場に着くと、ふだんは水位が低い川幅100メートル足らずの川一面水があふれそうになっていたのにはびっくりしてしまいました! よく行くリバーサイドの骨董品店&コーヒーショップが完全に冠水し、甚大な被害を受けていました。次にナイトバザール方面に行くと、ナイトバザールは完全に水没で車両通行止め、ロイクロ通りも途中まで水が浸かってました。

自然の恐ろしさをまざまざと感じました。が、天気がよかったせいか、タイ人も外国人もカメラをもってのんびり撮影している姿を多く見かけました。危険箇所は警察が立入禁止にしてましたが、ふつうに川岸近くまで行けましたし。私も多少不謹慎かと後ろめたさは感じつつ、デジカメであちこち撮影しました。それが以下の写真です。



それから7年くらい経ちました。ピン川にかかる歩行者橋は土台がぐらつき崩壊の危険が増したので、建て替えられました。現在はまた静かで平和なチェンマイに戻っています。以上、2011年9月のチェンマイの大洪水の話でした。(波照間エロマンガ島 19/1/18)

(寸評)死者が出てない自分が被害を受けてない災害は娯楽・・・。
いっ、いや、俺が書いたんじゃない、俺がそんな問題発言するわけないっ! 7ポイント。

はじめて新宿から御茶ノ水まで歩く。

12月のある平日、時間があったので新宿から秋葉原まで歩くことにしました(←だったら少しは仕事をしろ)。
1330ごろからスタート。
新宿南口から右手に新宿御苑を見ながらてけてけと歩き始めます。
四谷からお堀端へ出て靖国通りへ入り、法政大学を過ぎると、左手に靖国神社を見ます。やがて右手に武道館が見えてきます。
神保町から御茶ノ水へ。やっと着きました。私の足で1時間10分くらいかかりました。余勢を駆ってそのまま秋葉原まで歩きます。お茶の水から秋葉原まで勝手を知ると10分くらいで歩くことができます。
感想は、新宿通りも靖国通りも歩道が広く自転車で走る輩も少ないので歩きやすかったです。『ノルウェイの森』でも似たような場面があり、東京はありがたいことに広くどこまでも歩けるものだと感じました。(わいわい 18/12/30)

(寸評)山手線や中央線も駅間距離がだいたい1km程度だからね。歩こうと思えば山手線内側くらいは歩けるんだよね。
昔、友達が片道の電車賃しかお金が無くて高円寺から錦糸町のバイト先まで行ったらバイトにあぶれて、3、4時間かけて歩いて帰って、俺のアパートに倒れ込んできた奴いたなあ。 6ポイント。

はじめてヒッチハイクをされる

七月、北海道へ行った時の逸話です。
羅臼湖へ行った後、知床横断道路へ戻りました。雨が降っています。レンタカーを停めてある知床峠へ行くバスは一時間後までありません。登りだったものの一時間あれば駐車場へ着くだろうと歩き始めました。
15分くらいすると地元車が前方で止まり、ありがたいことに「乗っていきませんか?」。「えーこっちは泥だらけの長靴やゴアを着ているのに」「そんなんいいんですよ」。
車は小型車でとてもきれいです。
ヒッチハイクみたいな形で知床峠まで乗せて行ってもらいました。少し世間話をしてお礼を言ってさよならをしました。 以前利尻島でこっちからヒッチハイクをお願いしたことはあったものの向こうから私に声をかけてくれたのは初めてでした。

私も今年、佐野インターの近くで青年がボード(××まで)を持ってヒッチハイクをしている姿を見かけたのですが、信号先でインターへ向かう加速車線で後続車も迫ってきていることもありどうしても止まることができませんでした。
また群馬の月夜野で中之条へ向かう国道の交差点で外国人の女の子二人がヒッチハイクしていたのですが、青信号なので止めることができませんでした。
乗せてあげたくなるのですが、クルマが止められないところでヒッチハイクをしている場合が多く、これまでヒッチハイカーを乗せたことはありません。
交差点はクルマが止まるのでヒッチハイクをしやすいのでしょうが、できればなんにもない国道の道端なら車両を止められるのに・・・と思いました。(わいわい 18/12/30)

(寸評)意外とヒッチハイクってしたことない。知らない人に気を使うのが苦手だからかな〜。
今は「道の駅」とかで待機していると一番いいかもね。6ポイント。

はじめての芸大博士修了作品展

先日、御茶ノ水-秋葉原-御徒町アメ横-上野国立科学博物館-芸大音楽学部学食とまこと正しいルートで散歩をした時の話です。
芸大へ行くと偶然博士作品(博士後期)展をやっていました。ここでも何回か投稿している一月の芸大の学部、修士作品展と同じもので博士後期課程は初見学です。
博士号のため、作品は少なく大学美術館の建物だけで終わってしまいました。
感想は、作品は完成され尽くしており、少し残念でした。
学部や修士(博士前期)は前衛的だったり挑戦的だったりぶっ飛んでいたり学生っぽい作品が多く毎年楽しみなのですが、博士後期はほぼプロの作品に近いものなのです。展示作品の概要冊子(先行研究や概略、作品の目的等)は文系並みにちゃんとしていて凄いなあとは思いました。
ふと思ったのですが、音楽学部の学部、修士などの卒論、修論はどういうのなんでしょうかね。作詞や作曲はなんだか分かるものの、技術の場合、口頭試問に当たるところで教授の前で演奏でもするのかしら。それとも論文を書くのかな。 (わいわい 18/12/30)

(寸評)俺が最近聞いた話では、毎週作詞作曲アレンジ演奏の宿題が出て、それをそのままレコード会社や企業に送りつけ、採用になった場合はそのまま卒業になる例もあるところもあるらしい。
まあかなり例外的なところではあると思うが。 5ポイント。

はじめての飲食店

新卒で就職して以降、ずっとオフィスワークの仕事をしていましたが、今月初めて飲食店でアルバイトをする事にしました。
理由は、いま派遣社員として働いている会社が非営利団体なので全く忙しくない、いやむしろ暇すぎて頭が退化しそうだと思ったことと、非正規雇用なので収入源を一ヶ所だけにしておくリスクを考えWワークをする事にしたのです。
ずっと事務仕事をしていたので何か新しい事がしたいと思い、ネットで色々な求人を見て未経験でもOKというカフェのキッチンの仕事に応募しました。
料理は普通にできますが、いわゆる家庭料理です。プロとしての料理は果たして私に作れるのかな?と思いましたが、最初に任された仕事はスイーツの仕込みと盛り付けでした。
開店前とオーダーストップ後にあれこれ仕込みをするのですが、スイーツなんて自分で作ったことはありません。レシピと手順を覚えるのも大変でしたし、泡立て器の使い方一つとっても覚束ない私を、社員の人は事細かにアドバイスをしてくれ、なんとか一通りの事が出来るようになりました。
営業中はオーダーの入ったメニューをひたすら作る作業です。オーダー後何分以内に提供、という決まり事があるのでモタモタしていられません。狭いキッチンの中、コンロやレンジを駆使して側から見たら必死の形相だと思います。満席になってオーダーが落ち着いているときは、足りなくなってきた素材を足したりフルーツを切ったり生クリームを泡だてたりと、全く休む暇はありません。
そもそもは暇すぎる事務仕事の反動で始めたキッチンの仕事ですので、忙しいのは苦にはなりません。むしろ頭を使って効率よく作業できるよう考えるのがとても楽しいのです。「働いてるな〜」という実感があるのがとても気持ちがいいです。
一日中立ちっぱなしなので勤務後は腰も痛いしヘトヘトですが、精神的な満足感を得られるので、この仕事を始めて良かったなと思いました。(美月 18/12/25)

(寸評)それは良かったね。精神的な満足感や充足感って大事だもんね。楽しんで働けるのが一番だよね。 6ポイント。

初めてのサプライズショット

忘れもしない2009年9月。初めて石川さん(ホルモン鉄道)のライブを拝見しました。
初めてでありながらなんと泊りがけという大きなイベントでした。(山梨、黄金温泉)

宴会場でお食事をしながら閲覧するライブ。一部がDVDになりましたが楽しい様子が伝わってきます。
翌日の朝は全員で近所の川辺を散歩しました。お昼近くになりそろそろ散会という感じになりましたが、大谷氏さんと石川さんが並んだところを狙ってお二人のツーショットを撮ることに成功しました!
石川さんは眠そうにされていましたが、僕がカメラを向けると大谷さんと並んで抜群のスマイルとポーズを作ってくれました。

残念ながらその写真は今回お送りできませんが、とてもよく撮れたので現像して写真立てに飾ってあります。夏の終わりの眩しいくらいの輝いた思い出です!!(Sankaku 18/12/25)

(寸評)そのライブの一部は「たまの映画」になってるね。もしかしたら映ってない?そしたらそれが君の銀幕デビューだ! 5ポイント。

はじめての(たま)ライブ

 今年の4月15日、京都の「元たま3人のソロ+しょぼたま復活ライブ」を見せてもらいました。僕にとって初めてのライブであり、「たま」をリアルタイムで見ていない世代としては、初めてのたまライブです。
多くの方々が「ザ・レポート」などに感想を書かれていますし、細かいことは忘れてしまったので、ライブ自体のことは書けませんが、覚えていることをちょっと書きます。

たまに興味を持ったのは中3の時、3年前くらいでしょうか。友達に教えられ、それまで一度も音楽なんか聞いたことがないくせに、「らんちう」「さよなら人類」の動画を見て以来、たまに憑りつかれたようになっていました。ですが、たまはもう解散していました。ネットとかで調べても、「もう、たまの再結成とかは無いでしょう」「たまのライブほんと良かったけど、もう見られないなぁ〜」という書き込みばかり。「もうライブは見られないのか。もう動画で気を紛らわすしかないのか。もう一度でいいから、再結成してくれないかな〜」そう思う日々でした。また、「せっかくだから元たまの人のライブにも行きたい」とも思いました。ですが、「ライブに行って、期待外れだったら嫌だな」と思い、行く気になれませんでした。一回だけ、僕の住んでいる街にホルモン鉄道が来る、ということを知り、母親に行きたいと言ったのですが、「その日送迎は無理、一人で行ったら?」そう言われると途端に行く気が失せてしまうような、そんな状態でした。

しかし、ある日のこと。石川さんのTwitterに「元たまの3人の弾き語りライブやります!」みたいなことが出ていました。「え?しょぼたま復活ってこと?」一生見れないと思っていた、たまのライブが見れる!嬉しさのあまり「たーま!たーま!」と叫びながら、家じゅうを跳び回りました(←完全にアブナイ人)。「次の学校の定期テストでいい順位取ったら、京都に家族で行ってもいいよ」母親もそう言ってくれました。「よし、たまのためだ!」テストに向け、猛勉強しました。結果は大して良くはなかったのですが、「頑張ってたから良いよ」と母が言ってくれました。よかった。あとは当日を待つばかり。

4月15日当日。いつになく早起きして、車で京都を目指します。「どんな曲やってくれるのかな?」と、車の中でしょぼたまの動画を見て、ライブの予習をしながら京都に着きました。午前中に京都国立博物館を見、美味しいお昼を食べ、紫明会館に着きました。既に入り口に人だかりができていました。どの方も雰囲気が「たまが好きな人」という感じだったので、何となく安心しました。

ライブ自体はもう・・・言葉では言い表せません。何かこう、自然と喜びが体からあふれ出てくるような感じでした。自然と表情がゆるんで、どんな人でも微笑んでしまうような気もしました。それと、午前中に博物館で、池大雅という絵師の「洞庭赤壁図巻」という美しい絵をみたのですが、その絵としょぼたまの演奏が僕の頭の中で絡み合って、すごく幸せな気分になったことを覚えています。帰りの車の中で、母と「楽しかったな〜」「また見たいね」そんな話をしていました。

ライブを見て思いました。他のたまファンの方々と知り合いになりたい!と。僕の知り合いの中で、たまが好きな人はいません。高校に入ったとき、自己紹介で「もう解散したけど、たまっていうバンドが好きです。」と言いました。すると、その次の日ぐらいに同級生が「たまってバンド知ってる?」「うん。でもあんなの一発屋だよ。くだらないよ。」と会話しているのを聞いてしまい、ものすごく悲しくなりました。その後も事あるごとに「たまって凄いんだよ!」「たまの曲聴いてみてよ!」と同級生にアピールしまくったんですが、「あ、そう」「ふーん」とつれない返事が返ってくるばかり。しかも、極めて内向的な僕は、ライブ会場で他の観客の方に話しかけることは出来そうにもありません。さて、どうするか?というのが今後の課題です。(未成年 18/12/17)

(寸評)あ、たまファンはみんなそもそもそういう感じの人が圧倒的に多いよ。ひとりで聴くタイプね。ライブ会場でつるんでいるように見える人も、そもそもはひとりで来ていて、ライブに通ううちに顔見知りになって年齢や住んでるところが違っても友達になって行く感じ。絶対数が多くないしマニアックなので長く友達になれる人も多いよ。
ま、もし俺のライブとか来たら「未成年です」と名乗ってくれたら、馴染みのお客さんが近くにいたら紹介するよ。
基本シャイだけど真面目な人が多いし、若いファンは歓迎してくれると思うよ〜。 7ポイント。

初めての高校生活

去年の話です。少し忘れかけていますが、思い出しながら書きます。
僕は、いわゆる「自称進学校」に通っています。先生も地域の人も「うちの学校はすごい」「あの学校はわが町の宝だ」と言うのですが、実際はそうでない、というより逆だと、生徒みんなが思っています。
さて、高校に入ってしばらくした4月のある日のこと。初めて仲良くなった同級生(男)と、副担任の先生(中年男)と僕の3人で、何かの話をしていました。すると同級生が僕に聞いてきました。

「ねえ、未成年の好きなAV女優って誰?」

ええええええええぇ?えーぶいじょゆう?「えーぶい」ってアダルトビデオのAVだよね?えっちな事とかするやつだよね?いきなり何てこと聞いてくんの?こいつおかしくね?突然の質問に、大いに困惑せざるを得ませんでした。というのも、僕の通っていた中学校では、エロの話は全く出なかったのです。せいぜい「誰それと誰それが付き合っている」といった噂程度。高校生って、そんな話もするんだ・・・と、大きなカルチャーショックでした。しかも、先生は何も言わないのです。困惑した僕が、隣にいた先生の顔をちらっとみたら、学校でエロい話をする生徒を注意するふうでもなく、微笑みさえ浮かべながら、AV女優の話をする生徒たちを眺めているのです。

やがて、僕も慣れました。しかし最近、それに次ぐ新たなカルチャーショックが僕を襲いました。
コトの発端は、僕が同じクラスのある女子を好きになったことです。本人には言わないし、みんな気づかないと思っていたのですが、どうして判ったのか、同じクラスの男子に勘付かれました。「未成年って、〇〇のこと好きだろ?」「あいつに告白するなら今しかないぞ。あいつは最近誰それと別れたんだ」と言われました。その時は生返事をして切り抜けたのですが、その数日後の英語の授業の時、僕の前の席の男子が振り返り、「未成年のおかずって何?」と聞いてきました。
「おかず?今日の弁当の?晩御飯の?」
「いやいやいや、未成年のオ〇ニーのおかずだよ〜」
何言ってんだ、って思いました。俺の隣の席に女子がいるんだけど。というか、どう考えても学校で、しかも授業中にする話じゃなくね?と思わざるを得ません。僕が戸惑っていると、彼は続けて
「クラスの女子の誰をおかずにしてんの?おかずランキング教えて〜」
「今授業中なんだけど・・・・・」
「別いいじゃん。僕たちの席は後ろだから、先生からは見えないよ。じゃあ、おかずは誰?〇〇さん?」それから、彼はクラスの女子の名前を一人づつ挙げていきました。「〇×さん?」「いや」「〇△さん?」「ちがう」「じゃあ、××さんだ!」僕の好きな子の名前です。「声が大きいよ。ちがう。」「おっ!未成年は嘘つきだなぁ。声が震えてるよ!まったく!」「いや、ほんとに違うって」「みんな知ってるよ、未成年の好きな人が××だって」「分かった。じゃあ明日言うわ」と言って、何とかその場を収めました。

授業が終わり、清掃の時間が終わり、僕は教室に戻りました。すると、数人の同級生(みんな男)に囲まれました。1人が言いました。「未成年の好きな××は、デカいボール持ってるぞ」「はぁ?」「あいつの胸見ろよ。ボールが2つくっついてるだろ?」僕がどう答えたらいいのか迷っていると、そのやり取りを見ていた同級生がツッコミました。「それっておっぱいじゃん(笑)」「あ、言っちゃった(笑)」。ねえねえ、××さんがこの場にいるんだけど。女子(しかも本人)がいる前でお〇ぱいの話とかするの?とても不思議でした。高校生ってみんなこうなんですか?(未成年 18/12/17)

(寸評)わぁー、高校時代を思い出した。その頃のエロ話は照れもあって初々しくて、でも一番興味のある年頃で。
甘酸っぱいっちゅうやつですか。
ま、エロ話はいくつになってもするけど、30超えたら女性のエロ話の方がエグいということは知っておいた方がいいかもね。
エロは一生つきまとう。楽しんで高校ライフ送って〜。 7ポイント。

初めてワットウモーン(トンネル寺院)に参拝(2008年12月11日)

波照間エロマンガ島@タイランド在住です。わたしが初めてワットウモーンに参拝したのは2008年12月、チェンマイに語学留学で生活し始めてから半年ほど経ったある日のことでした。

ワットウモーンは西暦1297年創建。場所は旧市街からステープ通りをドーイステープ(山)に向かっていって、チェンマイ大学の前を大学とは反対方向(左)に曲がって2キロほど入ったところ。古刹の名前にふさわしく寺院の面積は広く入り口から何百メートルも林を分け入っていきます。
昔お坊さんが瞑想修行をするために小高い丘に横穴を掘って、そこに仏像を安置したのが始まりと、ネットで見た誰かの文章に書いてありました。


なるほどまわりは木々が茂り、池や山もあり、修行するには静かでよい環境だと感じました。寺院の敷地に入ると何棟かの建物の奥に小高い丘が見え、その横側には何個ものトンネルがあるのを発見しました。中に入り15メートルほどいくと仏像が安置されていました。参拝客はその前で正座して手を合わせて祈っていました。トンネルの中はいくつも道が分岐していて丘の反対側からも出ることができます。またトンネルの上には仏塔が建っていました。

この寺院はまさに山寺という趣きがあり、戒律も厳しいらしいです。ちょうど読経を終えて宿舎に戻る小坊主さんたちに出くわしました。わたしがひときわびっくりしたのがあばら骨があらわになった仏像。ハンス・ルーディ・ギーガーの世界を想起しました。これは断食修行する仏陀の姿を示したものではないかと直観しました。

ドーイステープの麓に位置し観光客も少なくとても落ち着ける場所でした。これを読んでる皆さんも機会があればぜひ一度どうぞ。(波照間エロマンガ島 18/12/17)

(寸評)ほお、静かなところはいいですな。次回行ってみようかな。 6ポイント。

初めての天井から水漏れ被害

波照間エロマンガ島@タイランドです。こんばんば。昨夜のことです。残業を終えて帰宅するとすぐさま部屋の異常に気がつきました。

部屋がびしょびしょに濡れて水浸しになっていたのです!!!

もしかして洗面所か台所の蛇口を出しっぱなしにして忘れてでかけたのか、とすぐに確認しましたが、それらしき気配はありません。そして何気に天井を見ると水漏れでできた染みが30センチ角相当の大きさに出来ているのを発見しました。

あちゃー、上の階の部屋から漏れてきているよー! オーマイガッ!!

すぐさま、1階のオフィスに苦情を言いに行きました。するとスタッフはもう承知していたようで「すぐに清掃スタッフを派遣します」と答えました。事情を聞くと、数時間前にわたしの部屋の上の階の部屋の水道管が破裂したとの由。

わたくし、人生でけっこう長いこと集合住宅に住んでいますが、天井から水が漏れてきて水浸しになった経験はありませんでした。初体験です。さいわいなことにふだんから整理整頓していて床の上にものは置いてなかったので、ノートや本、家電製品などに被害はありませんでした。そのかわり、キッチンマットやリビングルーム用のマットなどは水を含んで洗わなければならないほどの被害を受けました。

ただちにスタッフがやってきて水をモップで掃き出して部屋の外に出しました。

20分ほどで水は引き、元どおりの部屋に戻りましたが、天井についた染みはとれませんでした。いちおう証拠写真をとってコンドミニアムのオーナーに連絡しました。これはぜったい私は金を払わない案件だと確信しています。これで弁償させられたら怒りますよ。って、マンションに住んでいるとこういうことも起こるんだな、日常生活が一瞬にして非日常になるんだな、と思った出来事でした。(波照間エロマンガ島 18/12/1)

(寸評)昔パスカルズのツアーでパリのホテルに栗コーダーの川口くんと相部屋で泊まっていたら、夜中に壁に動く物が見える。ん、幽霊それとも幻覚?と思ったら水が上から壁を伝って降りていくサマだった。
上の階も確かメンバーの部屋だったはず、と二階に行ってみるとふたご(うつお・あかね)の部屋で惨事が起きていた。
風呂にお湯を溜めているうちにふたりとも眠りこけてしまい、起きたら溢れたお湯が部屋まで流れ込み、なんとベッドが船みたいにプカプカ浮かんでいたとか。
そこからホテルのスタッフを呼び、朝まで掃除がかかったという・・・。 7ポイント。

初めてのタイのワックスミュージアム(2007年9月27日)

タイ旅行中、レンタカーしてバンコク郊外のナコーンパトムという大きな仏教寺院のある町に行った帰り、ふと国道沿いにワックスミュージアムを見つけて中に入りました。

タイの国の歴史を蝋人形で見せるという博物館です。人形が精巧なつくりでとても気味悪かった。日本語のできる若い女性学芸員に案内してもらったのですが、百数十年前まで残っていた奴隷制度の残酷図や、博打に負けて子供を売り飛ばすろくでなしの図などの解説では、目をらんらんと輝かせて嬉々として説明するので、地獄図よりも女性学芸員の方がサディスティックで恐ろしかったです(苦笑)。



(左)チェスをする人々に混じって写真に写る波照間エロマンガ島 (右)タイの有名な高僧らしい。(下)一堂に会した現チャクリー王朝の歴代の王様たち。ラマ1世から8世まで。当時のプミポン国王はここにはいない。

久しぶりにまた行ってみたいです。(波照間エロマンガ島 18/12/1)

(寸評)へー、面白そう。ナコーンパトムにはひとりで電車に乗って行ったことがあるけどここは知らなかったなー。6ポイント。

はじめての夜逃げと捜索願い。

あれはいまから20年弱前のおはなし。超文化系インドアな学校を最高に満喫学習して、卒業、いざ専門分野へ、就職!って気もちにはなれず(20歳近くまだまだ人生未経験)。180度違うまったく別な世界を堪能したくて、学習したスキルを全部無視し(御母さんごめんね)、超スポコン、とあるアウトドアスポーツのインストラクター募集の住み込みへと、人生の舵を大幅に変更しました。どこかの田舎故郷も持ってないない東京の生まれ育ちの下町文化系には、大自然の中(日本の真ん中あたりの県)での、からだを動かす、未知の仕事内容に大興奮・奮闘し日々を活き活きやっておりました。まわりの社員さんは、みな柔道しかやったことない人や、ボール系のスポーツマンだった方や、スキーのプレーヤーや、、中学時代、茶道部だった自分みたいな人は人っ子ひとりいないところで、なぜ1年以上もいれたかというのは、どうやら、かれらも私が未知の存在で、あり得ない程の肉体の使い方の不器用さと、インストラクターの仕事内容指導の、甲斐がない呑み込みの悪さなのに、情熱だけはあったと見守ってくれてたわけです(わたしも、ぜったいこのレベルまではいくぞと生まれて初めての筋トレとかしてました)。それぐらい、そこに居る、真逆な先輩たち、社長たちが、わたしにはキラキラエキサイティングにみえていたので、「憧れ」と「ギャップ」と、「どM」(生まれも育ちも文化系には不可能なスポーツスキル)などの性格が私を後押しして、継続しておりましたが、、やはり、職場に180度違う人種が、まともな要求をこなせず一人いる。という事実にわたしは気づくのがおそかったのでありまして、きらきら社員たちも、指導の甲斐のないわたしに憐れみといら立ちが湧きはじめ、雑用や怒りを発散できるボディミット的なキャラを構築してしまい、やはり、社長がスポコンの般若みたいなげんこつを飛ばしてくる人でしたので、まわりのキラキラ先輩たちのフォローも甲斐なく。
わたしはついに辞める決心をし、つたえたものの、なんと社長の怒りがおさまらず、絶対に辞めさせない(絶対に育て上げるって感じではなく、雑用専門と化してた自分(仕事場といえども、見習いなので、給料は無しです))はと、気付いたら、毎日泣いて、精神がヅタボロになっていた自分に気付いたのであります。肉体を上手く使ってお客さんを楽しめるスポーツ会社の仕事がどうにもできなく涙がかれる日がございませんで、後悔と申し訳なさの巨大な渦が、ある日の朝、決壊したようなと〜っても早い朝でした。
携帯電話と全ての荷物をおいて、お金2〜3万くらいはその時あった。電車にのってどっかに向かいました。
人生すべて終了したと思い、(命を絶つのは何か違うと感じていたのが救いでしたねほんと)余生を自分の行きたいところで最後まで暮らそうと。
東京に居る家族さようなら、出会ったみんなさようならと。向かったのは石川県の羽咋。そこで最後を遂げようときめてました。(まだ20代前半ですがw)
なぜ羽咋かと言うと、(行ったことないが)大好きな横尾忠則の自伝書で、羽咋の大昔のUFO伝説や、国際UFOシンポジウムの開催など、当時の市長?かが積極的に地球外生命体を受け入れていたので、羽咋郵便局の捺印も横尾さんのUFOデザインだったりたしか。そんな(宇宙人好きにはたまらない)身内も親戚も遠くにいる未知の県で。。と旅だったのでありました。しばらくは、オフシーズンの羽咋には海の住み込みバイトとかなかったので、しかたなく、信州までいって畑バイトをしたり。初の野宿体験もこの時期でした。しば〜らくして、ふと、生きていることだけ実家に言っておこうと思い、家族に電話したら、母親が、(冷静な人だった)が狂乱していて、生きてるのか生きてるのかを連呼していて、怖くなってガチャっと切ってしまいました。
まだ、1年以上働いた先での自分、捨てた自分の精神も、尋常なものでは無く過ごしていた故(もくもくと畑をやって忘れようとしてましたが。)、家族の心配をするまでの器がなかったのですねわたし。。また10日後ほどで、電話再チャレンジして10分程話しまして、自分がしたことで、家族がみんな私は死んだとおもっていたり、前の職場に言って手掛かりをきいても、みんなツーンとしていたとか、捜索願をだして、警察と駅のホームの映像で私を探しまくったりと。

私の精神破壊寸善、いや破壊したまま10年ほど、家族と再会したり、いろんなまた職場を経験したり、、といろいろありましたが、夜逃げ時にでた捜索願いを、身内がずっと、見つかった報告を忘れて下げてなかった数年後の免許の書き変えのとき、呼び出しをくらいまして、、あなた捜索願いでてるんですが、身元確認してよいですか、と問い詰められたのもありました。。(その時は必至で過去を忘れようとしてた時期だったので、ハっとしてしまいました)

あらら場違いな暗いものをカミングアウトしてしまったかしら面目ないです。

不器用に気付いて、周りの影響を考えたら、早々に辞めていたのが、調和だったんだな。。という学びを深く体験したのでした。自分の面目なさと情けなさがハンパ無い出来ごとでした。20年近く経ったいまでも、たまにあの職場の夢をみるのですねこれが。情熱の使い方。というのも考えものでしたね。こうやって振り返ったのは初めてでしたm(__)m暖かいサイトだったのでついつい溢れてしまったのかもしれませんm(__)m

あと、捜索願は届けた後、しっかり願いを下げておかないと、いろいろなところで引っかかるのだと知りました。(特に空港とか飛行機乗れないかも。。)多くの人に迷惑をかけた自分、今は元気に暮らしていますが。。

自分自身にも、環境にもしなくて良い経験ってものがあるかもなと思いました(根がどMな人は特に)相性の調和的な職場に身を置かれてくださいね。(リエマット 18/11/26)

(寸評)それはすごい体験だったね。他の人にできない経験をした人は他の人が持てなかったものを持っている。
今後もその体験を活かして深く考え過ぎずに「今、一番自分がベストな状態になるにはどうしたら良いか」を頭の隅に置いて、ウフフッと笑える瞬間を増やせられたらいいねっ! 10ポイント。

初めての自分の曲のアレンジ

2018年の3月に初めて斉藤哲也さんのピアノレッスンを受けました。

西八王子駅の駅前の日高屋を待ち合わせ場所に指定され待っていたところ、奥様の神田珠美さんがお子様を連れて迎えに来てくれました。あらかじめ待ち合わせをされていた斉藤さんと落ち合い、駅から車で10分ほどの会場のわくわくビレッジまで送迎。自分からは行かない、もしくは行けないような道のりでここら辺も楽しい道中でした。
公民館のような感じかな、と思っていたのですが、高等学校を改装された建物らしく、いろいろユニークな設備が整っていました。3階?の建物の奥まで行った小さなピアノ室に通されました。

まだお互いどうゆうことをやりたいのか、またやれるのかが分からない状態。とりあえず僕のピアノ演奏の曲を、斉藤さんに聴いていただきました。斉藤さんが五線譜にコードを記入され、そこから曲を分析。曲自体は良いとお褒めをいただきましたが、変化が欲しいとのこと。そこから斉藤さんがその曲を演奏され、僕が歌ってみました。
これが正に神がかった瞬間でした。斉藤さんもアレンジャーとしていろんな楽曲とかかわってきた経験によるものかもしれませんが、わずか1回聴いただけで素晴らしいピアノ演奏を披露してくださいました。自分の曲を尊敬する好きなミュージシャンにアレンジして演奏してもらうこと。ずいぶん久しく歓びに震えたかもしれません。また僕自身、歌う時は必ずギターやピアノの弾き語りなので、ほぼ初めてオンハンドで歌いました。

2回目のレッスンは10月の終わりごろ。斉藤さんの提案もあってレッスンの模様を録音しました。斉藤さんに私のシンガーとしての作風を知っていただくために、ギターの曲を披露しました。ここでも私のライブをよりよく観客に知っていただくために、優れたアドバイスをいただきました。またここで前回歌った曲を演奏していただき、それを録音することに成功しました!

私のライブや創作のことにまでアドバイスを頂けるとは、まさに斉藤さんが音楽界の最前線を行かれてることに他ならないでしょう。いろいろ考えることも増えそこらへんは負担でもありますが、これ以上の優れた指導はありません。また人の指導を受けながらと、自分ひとりでピアノに向かう事の違いを知る機会でもありました。どんなことが待っているのかは分からないけれど、これから積極的にレッスンを申し込みたいと思います。(Sankaku 18/11/26)

(寸評)斉藤くんは有名シンガーのバックアレンジなども数多く手掛けてるからね。まさにプロ。
俺には絶対にできない音楽のことをいろいろ楽しく学んでくださいな〜。 6ポイント。

初めてのロマの少女との邂逅

波照間エロマンガ島です。1987年、ヨーロッパを友人と旅行していたときのことです。
あれはドイツだったかオーストリアだったか、地下鉄に乗り目的地に向かって移動していました。
そのとき私は座席に座っていたのですが、ふと気づくと隣の空いたスペースに、ロマ〔ジプシー〕の少女が座って来ました。その少女は雨の匂いがしました。何年も野外で寝泊りしているような、衣服も着た切りスズメそのままの風貌をしていました。空いたスペースの反対側の座席に座っていた乗客はそのロマの少女が席に着くやいなや席を立ち、離れてしまいました。わたしは何か目に見えない「不可蝕=アンタッチャブル」な空気が車内にあることに気がつきました。実はそのときロマをとりまくヨーロッパの歴史に生で触れたような衝撃を受け、その場を動けなくなってしまっていたのです。それはとてもショッキングな体験でした。あとから友人に「なんであのとき席を立たなかったの?」と聞かれましたが「ショックで動けなかったんだヨ」と言葉に出すことはできませんでした。あれから数十年経ち、ヨーロッパを旅してロマを目撃したことは何度もありますが、いつもいろいろなことを考えさせられます。(波照間エロマンガ島 18/11/19)

(寸評)とっても複雑な感情だよね。島国ニッポンにも、別の形でのアンタッチャブルはいろいろあるけどね。 6ポイント。

初めての中華航空で日付変更線通過

2002年4月、ハワイに遊びに行ったとき、中華航空のジャンボジェット機機内のスクリーン表示。
それまでJALやANA、ノースウェスト、ユナイテッド、大韓航空などで太平洋航路を飛んだことはありますが、台湾の航空会社に乗って日付変更線を超えたことはありませんでした。



中国語表記でホノルルは「檀香山」、ハワイ列島は「夏威夷群島」、日付変更線は「換日線」と表記してあります。赤道と太平洋は同じですね。
地図の表記は言語の違いによって異化作用がものすごく、頭がクラクラしてしまいました。なまじ漢字を使っている国だだけに。

そんな中華航空便で初めて日付変更線を超えたときの体験でした。(波照間エロマンガ島 18/11/19)

(寸評)海外はそこそこ行ってるけどハワイは行ったことないんだよね。ちなみに毎年行ってるチェンマイは清迈。
かなり強引な当て字だけど、漢字しかないとそうするしかないもんねー。6ポイント。

初めての雪崩

エベレストベースキャンプのすぐ近くのゴラクシェプという集落のロッジにいた時にネパール大震災に遭ったのですが、地震に驚いてそこらじゅうのロッジから人が外に飛び出して避難して何が起こったんだろうと見回していたのも束の間、少し離れたところでエベレスト側を見ていた人たちがあっ!って指差したと思ったら群衆が一斉にこちらを振り返って死に物狂いで逃げてくるので何?何?!今度は何?!?!ってパニックになっているととんでもない規模の雪崩が見えて、どこかが落ちた!と思った瞬間爆風が一瞬で襲ってきて、一瞬で視界が効かなくなり暗い視界とキラキラとした雪の粒子の中息を吸っても息が吸えなくて、この爆風の雪煙の中では息が吸えないんだ!って恐怖を感じるという恐ろしい雪崩恐怖体験をしました。
私にとって初めての雪崩体験だったのですが、何が起きたかというと近くの7000m峰のプモリという山の雪が地震によって上からドン!と落ちて未曾有の大規模雪崩となって広域に渡って襲いかかり、プモリにある村は村ごと消滅してエベレストベースキャンプは全てテントも壊れて人も沢山死に、ゴラクシェプの私たちは恐ろしかったくらいで無傷で助かりましたがとんでもない大災害でした。
あの時の群衆が振り返って一斉に逃げてくる様はよくあるドッキリ番組の群衆が振り返って逃げてくるというドッキリと全く同じ光景でなんだかドッキリみたいだったな•••ってぼんやりと思いました。
そして雪崩は見えた瞬間次にはもう飲み込まれるもの凄いスピードなんだなという事を学びました。(ことり 18/10/25)

(寸評)これは世界的な大惨事として知られるネパールの大地震での出来事だね。
日本でもニュースになって、そこにことりが行っていると知ってた俺や友達たちは本当に肝を冷やした。
ことりは助かったけど大勢の人が亡くなり、村が丸ごと消えてしまったところもあるんだよね。
その人たちにはかける言葉もないが、よくぞ生還してくれたっ! 生還ポイント15ポイント。

暴動で焼き討ち直後のプノンペン・タイ大使館へ初めて行く(2003年2月23日)

波照間エロマンガ島@タイランドです。

今から15年前の2003年1月29日夜、カンボジア・プノンペン市にあるタイ王国大使館およびタイ系企業が暴徒により襲われ、甚大な被害が出たニュースを皆さんは覚えているでしょうか。この事件により在カンボジア・タイ国大使が召還されるという事態にまで発展し、両国間の友好関係に一時的にヒビが入る結果となってしまいました。原因はタイの映画女優スワナン・コンギンが「タイのものだったアンコールワットを奪ったカンボジア人は嫌い。アンコールワットはタイに返すべき!」とテレビ番組で発言したと報道されたことが発端となったとされています(後日この発言はされておらず、デマが拡散されたと判明)。



この写真は暴動から約3週間後、観光でプノンペンに行ったときに立ち寄った、同大使館の模様を写したものです。建物は立ち入り禁止で、青いトタン板で塀がすべて覆われていました。入口の門扉の横にある守衛室は窓ガラスが割られ、部屋の内部を見ることができました。壁は煤だらけに焦げつき、配電盤は叩き壊され、民衆の怒りのエネルギーがいかに凄まじいものだったか、うかがい知れます。

陸地で隣り合う2つの国の間にある思いや感情について、島国の日本人はなかなかイメージしづらいですが、そうとうに複雑でねじれたものがあるのでしょう。クメールの人びとは民族の誇りを傷つけられ踏みにじられたと解釈し、上記の行動に出ました。それがたとえ誤解に基づくものであったとしても、ふだんから彼らにくすぶっていた火種が爆発したと言えるのではないかと思いました。

そんな暴動で焼き討ちされたプノンペンのタイ大使館に初めて行った話でした。(波照間エロマンガ島 18/10/25)

(寸評)隣同士というのはそういうこと多いよね。日本も遠く離れた国より隣の韓国・中国に複雑な思いをしている人も多いし。隣の県、隣の町なども敵対意識あるとこ多いしね。
でもデマから飛び火して亡くなった人など本当にかわいそうだよなー。 8ポイント。

初めて告白される?

 しょうもない悩みなのですが、僕は異性と付き合ったことがありません。特に女子が嫌がることをした覚えがないのですが、何となく距離を取られている気がします。たとえ女子と会話することがあったとしても、会話が2分と続いた試しがない、という具合です。「あの子かわいいなぁ」なんて思いつつも、それだけで終わってしまいます。
 高校の定期考査の最中のある日。朝、学校に来ると、僕の机の中に青い付箋が入っていました。「あれ?付箋?こんなもの入れたっけ?」と思って見ると、
こんなことが書いてありました。

  2人だけで話したいことがあるの。授業が終わったら校門のところで待っていて。誰にも勘付かれたくないから、みんなにもこの事は言わないで。私にも聞かないで。
 ○○△△

   いかにも女子って感じの、細いシャーペンで書かれた、きれいでかわいらしい文字です。○○さんといえば、僕が好きな女子じゃないですか! 4月に同じクラスになってから、この子かわいいなぁ、付き合いたいなぁ、などと思いつつも、全く手が出せなかった○○さんから「2人だけで話したいことがあるの」ですって!どういう用件だろう。全然心当たりが無いのだが。あっ!もしかして、「実は...未成年くん。あなたの事が好きだったんです...私とお付き合いしてくれない?」なんていう愛の告白?でへへへ。とうとう俺にも彼女が!妄想は深まってゆくばかり。バラ色の未来が脳裏に浮かびます。そんな僕の妄想を知って知らずか、彼女は3つくらい前の机で教科書を読んでいます。
 テストが始まりました。全然集中できませんでした。「2人でどんなところに行こうかな〜」などと妄想しています。
我ながらあほらしいこと限りない。30分ほど妄想していて、はたと気づきました。おかしい。話がうますぎる。今までに何度か、○○さんにさりげなく恋心を伝えたことがあります。あまりにもさりげなさすぎたのか、無視されました。最近、彼女も僕を避けているように思えます。それなのに、今になって愛の告白?しかも、彼女とは LINE でやり取りできます。校門で会うより、はるかに人目に付かない。いや、そもそも、こんな置手紙のようなことをやらなくとも、 LINE で「明日会えませんか?」って送ってもらえればそれでいいんです。なんでわざわざこんな面倒くさいことをするのか。そうして、ある考えに思い至ったのです。これはモテない男を標的とした卑劣な悪戯だ、と。
 僕がモテない、ということはこのクラスの男子全員が知っています。残念ながら。1ヶ月ほど前の修学旅行の際、同級生の男子から「どうしたら女子と交際できるか」ということを教えてもらったくらいです。また、どうやら○○さんと僕は雰囲気が似ているらしく、「未成年って、○○のこと好きなんじゃない?」と聞かれたこともあります。しょうがない。本人に聞いてみよう。
 テストが終わっ た後、廊下にいた○○さんにこっそり聞いてみました―「ねぇ、僕の机に、付箋、入れた?」「ううん。」「あ、そう。じゃあいいや」
 やはり、イタズラだったようです。残念。結局その日、その子は早々に帰ったみたいですし、僕も一応すべての校門をのぞいたのですが、誰もいませんでした。そうして、こんなイタズラをしそうな人に、この付箋を突き付けて「お前がやったんだろっ」と問い詰めたのですが、どうやらその人でもないらしく、しかも彼は「この字、○○の字に似ているよ」と教えてくれたのです。もう一回、○○さんに LINE で聞いてみたのですが、「ちょっと心当たりがないかな」と言われました。一体、何だったんでしょう。もう何が何だか・・・(未成年 18/10/25)

(寸評)うーん、それは微妙だねー。まぁ悪戯の可能性は高いけどそうじゃないこともゼロではないかも?
中学生の時、やはりクラスでモテない奴の机の中にバレンタインデーにみんなでチョコを入れて悪戯したことがある。
ところがそいつがそれを見つけた時、あまりに激しく嬉しそうな顔ではしゃいだので、みんな逆に悪戯だと言えなくなってしまった。
金子くん・・・ゴメン。40年前のあのチョコ、女の子からじゃないんだ・・・。7ポイント。

はじめての服部緑地⇔八尾往復でライヴかけもちダブルヘッダー観覧

9月11日の大阪は高槻でのホルモン鉄道の予約が無事済んだ数日後、この服部緑地で毎年開催される音楽イベント“レインボーヒル”に我らがパスカルズが参戦することを知りました。

久々の関西パスカルズににわかに興奮する私。その前日にも京都でライヴ・・・ いやコンサート? どっちが相応しいのかようわかりませんがその京都でも演奏会があるようなのですが、スペースに限りあるライヴ会場で観るよりは解放的な野外音楽堂の舞台前でキャァキャァ騒ぐ方が私の性に合っている気がしたのです。実際前回お越しの時もそうだったしね。そもそも私の住まいはこの服部緑地のある豊中市で、おまけに当日はこの公園のすぐそばで日曜の午前中恒例の合唱の練習をしており、練習が終われば5分で駆けつけることが可能な距離なのです。こりゃぁ行かない手など無い、早速チケットの手配を・・・・・・

・・・と思ったところではたと手が止まりました。
9月9日、って、前々から約束してたある方のコンサートの日やんけっ!!
うぬぬっ、で、では9日は諦めて8日の京都へ行くかっ!? と懊悩しているうちに京都のチケットはあえなくソールドアウト、私は独り夜中に泣いてるのか怒ってるのかようわからん表情でニチャニチャ臍を噛み続けるしかありませんでした。

先に約束している方を断れば? ノンノン、そんな不義理をするのは私のちんけなポリシーに反します。そちらのコンサートも私にとっては待ちに待ったものでしたからね。ほなどないすんねんな。
私はパーソナルコムピュータを開きヤフー路線情報さんを閲覧、18:30まで開催しているこのレインボーヒルでパスカルズが登場する時間は? おそらく17:30前後だろう。じつはこのレインボーヒルにはタイムテーブルの告知が一切なく、すべての出演者を見てほしいから公開しないのが毎年の恒例なのです。ゆえに私はパスカルズの出番を大トリだとヤマを張り、八尾のコンサートの予想終了時間から近鉄八尾→大阪メトロ緑地公園の所要時間を検索、なんとギリギリ間に合いそうなことに気が付いたのです。

しかしもしパスカルズさん側のご都合でめっちゃ最初のほうに出てたら? もしくは完全に八尾のコンサートの時間とかぶってたら?? いやっ!! パスカルズは絶対最後に出てくるっ!!! 私はチケット代が無駄になることを怖れずレインボーヒル予約サイトでチケットを1枚購入、その日を待ちましたところ5日前の9月4日にありえへん勢いで大阪に超大型台風が激突、あっちこっちが滅茶苦茶になり私の家も2晩停電し冷凍庫の食材がわやになりました。冷蔵庫の牛乳は過熱して無理矢理飲みました。うまかった。そんなことはどうでもええ、しかし関電すなわち関西電力さんも人間の住んでいない広大な公園はあとまわしにしたようで、前日になっても会場たる服部緑地公園の電気は復旧していませんでした。それでも主催のムジカジャポニカさんは電源車を手配してどうにか開催にこぎつけてくださいました。その心意気がほんとに尊くってありがたい。そこまでして開催してくれたレインボーヒルのこのチケット、絶対に無駄にしてたまるものか。

まず当日私達は普段は車で向かうところを敢えてバスで家から大阪メトロ桃山台駅へ、ひと駅南下して緑地公園駅に降り立ちます。ここが合唱の練習会場&服部緑地野外音楽堂の最寄なのです。歌の練習は10:30から12:00。私は練習終了後に嫁はんぼうずと別れ、独り服部緑地までダッシュしました。えっ? お前、八尾のコンサートの約束はどないしてん。ちんけなポリシーは何処いってんな? ノンノンノン、折角のチケット無駄には出来ないって言うたでしょう? まずはギリギリまでレインボーヒルの出演者の演奏を聴いてから八尾に向かうのが筋ってもんでしょう。
会場に着いたところ、幸運にも私のお目当ての「ふちがみとふなと」さんの演奏がやってるところでした。やったぁ!! 時計と睨めっこしながら拝聴、私の歩くスピードと八尾のコンサートの開演時間に間に合う最終の電車の出発時間を勘案して、2、3曲拝聴してダッシュで会場を出ました。

駅へ走りつつ、私はよくよく考えたら昼飯を喰う機会を逸していることに気が付きました。車の気配のない横断歩道の信号を華麗に無視して(よい子は真似しないでね)駅への上り坂を駆け上がり、時間を2分余計にゲットした私はコンヴィニでフライドチキンとメイプルマーガリンのはさんだあるパンケーキ、マルチヴィタミン飲料をハイスピードで購入し改札を通過、電車が来るまでのわずかな時間でホーム上にてむっしゃらもっしゃらチキンを平らげたうえ大阪メトロ御堂筋線を南下したのです。

御堂筋線から近鉄八尾に行くにはなんば駅で近鉄電車に乗り換えるのが得策、と思ったのですがなぜかヤフー路線情報さんはなんばで大阪メトロ千日前線に乗り換えて鶴橋まで行き、そこから近鉄に乗り換えろ、と仰るのです。近鉄の難波からは八尾に直接行く電車が無く、みんな奈良方向に行っちゃうからでしょうね。
しかし私は逆らいました。地下鉄(大阪メトロね)で鶴橋まで行って乗り換えるよりも難波から近鉄に乗り、近鉄鶴橋ですぐ向かいのホームに来る八尾方面行の電車に乗る方がロスが少ないと勝手に判断したのです。私は自分の勘を信じて大阪メトロをなんばで見限り、近鉄電車の改札を抜け、奈良行き急行に乗りました。すると鶴橋駅でジャストなタイミングで八尾方面行の準急列車が到着し、素早く乗り換えた私は検索結果より12分早く八尾駅に到着できました。どんなもんだい。おかげで時間的に余裕が生まれた私はまたしても八尾駅のホーム上のすみっこであんまぁいパンケーキをマルチヴィタミンで流し込み、あわただしいお昼を済ませられたのでした。演奏会場では飲食禁止ですからね。

この日の八尾でのコンサートは素晴らしくハイクオリティで、たとえパスカルズが聴けなくっても後悔はない、そんな名演奏でした。ギター・吹奏楽器・マンドリン・ダルシマー等・・・ 一流のミュージシャンが5人集ったセッションは感動モノでした。アンコールが終わった瞬間、私はぱちんとスイッチを入れ替え、近鉄八尾駅までダッシュしかけました。 なんとなく気配がして振り返ると演者である投稿仲間の方が! 「今からレインボーヒル? 気をつけてね!」とご自身の演奏のあとにもかかわらずこちらの身を案じてくださるというお心遣い。私はなんと幸せな人間なのでしょう。ありがとうございます。
御礼もそこそこにエレヴェータで1階へ、会場たる八尾プリズムホールすなわち八尾プリから猛チャージをかけた私は5分で近鉄八尾駅へ帰還し、息も絶え絶えに上本町行き普通列車に飛び乗りました。たとえ聴けないことに後悔はしなくても、このチケットを無駄にすることは主催者さんや演奏者さんに対して失礼だと思ったからです。少しでもレインボーヒルの音楽を耳にしてやるんだ。

緑地公園駅に着いたのは17:20頃。空を覆う雲に薄墨が混じって来ました。八尾で止んでいた雨は倒れた木々をふたたび濡らしはじめています。足許が不安ななか私は小走りに会場までのさかみちを駆け降りてゆきました。野外音楽堂からは雨音に抑えられたバンドの音がかすかに聴こえます。会場入り口で半券を提示、ようやく帰ってくることができました・・・ ああっ! ホルモン鉄道と一緒にライヴをされた「みにまむす」の皆さんだ! 雨が降り停電で照明が少ない中でもそれを吹き飛ばすかのような明るく賑やかな歌声と音楽!! 私はこの陽気な楽団が大好きです。じつに幸運なことに私の3大お目当ての2つがすでに観られました(もちろんハッチハッチェルさん等、他の皆さんもとっても聴きたかったですが)。

残るはあと1つ・・・・・・ もう、もう終わってるのか?? それとも読み通り、大トリに出てくるのか!!? 

みにまむすさん「ではいよいよお次はお待ちかね、パスカルズで〜〜〜す!!!」

よしゃァァァァァァァァァァァ!!! 賭けに勝ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!! かくして私はひさかたぶりのパスカルズのフルの演奏、石川さんの大活躍を至近距離でまさに字義通り眼前にできたのです。私はレインボーヒルのとりわけ聴きたかったアーティスト、心待ちにしていた八尾のコンサート、すべてを拝聴できたのです。なんという僥倖でしょうか。まるでアーティストの皆様が私の都合に合わせて演奏をしてくださったような偶然。やぁ厄年なんてアテになりませんね! パスカルズの演奏については簡単にですが「ザ・レポート」に書いてま〜す。

もう40なのに無茶してばかりですが、限りある人生、好きなものはめいっぱい楽しみたいのです。諦めないでチケットを取って、よかった。八尾のコンサートを無下にしないで、よかった。慌ただしくも幸せだったこの1日を、私は忘れないでしょう。(オポムチャン 18/9/28)

(寸評)他でも書いたかもしれないけど、この日のパスカルズの出番も演奏時間も俺たち本人すらも当日知った。
なのでまさに賭けに勝ったね!
台風で電気の復旧がされておらず電源車はステージだけで手一杯で楽屋には電気がなく、会場に到るまでの公園内も倒木がひどく道を塞いていたものの急遽スタッフが切り開いて道を造り、そして当日も天候は雨という逆境。
だけどそういうことがあると、よりこっちもなんだか燃えちゃうところもあるんだよね。
「そこまでして来てくれたお客さんに、楽しませずに帰らせるわけにはいかんんんんっ!」と。
本当にご苦労さん。思い出に残る一日だったね! 7ポイント。

はじめての托鉢

 夏休みのできごとです。用事があって奈良県に出かけました。近鉄の奈良駅に着いた時、黒衣に網代笠という姿のお坊さんが、鈴(?)を鳴らして托鉢をしていました。
「こんなクソ暑い中で托鉢かぁ。大変そうだなぁ。あ、よくよく考えたら、来年は大学入試じゃないか。合格祈願だ、せっかくだから喜捨しておこう。御利益があるといいなぁ・・・」そう思って財布の中を見ると、100円玉1枚と10円玉3枚がありました。「よし、全部で130円。結構な御利益が期待できそうだ。あ、でも100円を払うのはもったいない。30円にしておこう」そこで、30円をお坊さんの鉢の中に入れました。すると、お坊さんが、「ありがとう。ありがとう。」とくりかえし、くりかえし言いながら、足元のリュックサックからお菓子を出してきて、「つまらないものだけど、よかったら・・・」と、3個も呉れたのです。たかが30円でお菓子(雷おこし)3個ですよ。差し引きゼロ、というよりマイナスじゃないですか。僕は特に何かに対する信仰はありません。だけど、「托鉢って、お金のためにやるんじゃないんだな〜」とじんわり感動し、このお坊さんに尊敬の念を抱きました。(未成年 18/9/28)

(寸評)お坊さんにもいろいろな人がいるね。
中には完全に偽物の托鉢もいるんだけど、見分けをつけるのは難しいね。
当たりが出た感じだね! 7ポイント。

甲子園レジェンド達を見てしみじみ述懐、初めての体験をひとつ思い出した

波照間エロマンガ島@タイランドです。
外国で働いているのでなかなか日本のスポーツ観戦をライブで体験することはできませんが、最近番組自動録画機能つきのインターネットテレビに加入したので、毎晩酒の肴にスポーツ中継を楽しむようになりました。映画も鑑賞するのですがそちらはなぜか集中することができず寝落ちしてしまうことが多いです。

さて、今年は全国高等学校野球選手権大会が100周年記念ということで、大会をわかせたレジェンド名選手たちによる始球式が話題になりました。その中1969年の夏の大会決勝、三沢高校対松山商業の延長18回引き分け再試合になった伝説の試合の両校の投手、太田幸司さんと井上明さんが決勝戦の始球式に登場したときには感動しました。49年前にテレビで観戦したときのことが思い出されました。そのときわたしは小学1年生でしたがよく覚えています。

さて、この試合で主審を務めたのが郷司 裕(ごうし・ひろし)さんでした。2006年に亡くなるまでのあいだ長年審判としてアマチュア野球の発展に寄与した功績が認められ、没後の2017年に野球殿堂入りを果たしています。実は郷司さんは父の友人で、生前はわたしもお会いして仕事でお世話になったことがあります。
中でも忘れられないのが、郷司さんも在籍した某業界の京浜地区ソフトボール大会で、郷司さんの審判でわたしがピッチャーとして球を投げたという経験。甲子園大会決勝の主審を1965〜1975年まで11年間春夏連続で務められた郷司さんに審判してもらえるなんて、夢のような体験でした。今から30年くらい前でした。

そんなことを今回のレジェンド始球式で思い出しました。(波照間エロマンガ島 18/9/28)

(寸評)本当に波照間エロマンガ島は顔が広いというかいろんな人と縁があるんだなあ。
まあ俺はすごい人と会っていても興味のない人だとすぐ忘れてしまうのだけど・・・。 7ポイント。

初めての小平新文化住宅(そのさわりだけ…)

波照間エロマンガ島@タイランド在住です。
2018年8月24〜29日まで日本に一時帰国しておりました。ホルモン鉄道ライブ観覧など楽しい企画はあっというまに過ぎ、タイ国に戻り普段どおりの日常生活が始まりました。
帰国前日、友人の日本モダンガール協會代表の淺井カヨさんに招待され、夫君である音楽史研究家の郡修彦さんと淺井さんが建てた「小平新文化住宅」を訪問することができました。

文化住宅というのは大正時代中期以降に流行した洋風生活を取り入れた一般向け住宅のことで、一般和風家屋の玄関の横に洋間の応接間を配置したようなデザインが昭和初期には流行したそうです。個人的な記憶としては、わたしの高校時代の親友が東京都大田区田園調布のお屋敷街に住んでおり、何度と無く訪れたその住宅のデザインがこの文化住宅そのもので、どこか郷愁を誘うものがあったのです。なお大正から昭和にかけて日本に多く存在したこの文化住宅に郡さんと淺井さんは興味をもち、徹底的に調べ上げ途中数々の困難を乗り越え完成にいたった変遷の記録がウェブ上に公開されており、日本が戦後の高度経済成長で失っていった日本の職人の技、匠の技が見事に復活していて、わたしは感動しました。



玄関右手の応接間にはかつて郡家に眠っていたという蓄音機が調整して置かれていて、郡さんが針を落とし説明をしながら聴かせてくれた100年前のレコードを聴くとその音像の素晴らしさに驚愕しました。電気なし、ボリューム・トーンコントロールつまみなしで、大きくかつ繊細で良い音が出ていました。2階の淺井さんの書斎には古今のモダンガールや服飾や文化史の研究書が並んでいるほか、部屋のあちこちに古道具や骨董、トルソーなどが所狭しと置かれていました。

そして台所には噂の氷冷蔵庫を発見! 台所にはひのきの香りがプーンと漂い、とても気持ちの良い空間でした。この家にある調度品のひとつひとつが生活にて使われた痕跡を有しており、90年から100年前にそのものを使っていた人の息遣いが感じられてきました。そしてこの家には郡さんと淺井さんが住んでいるんです! わたしは建築を体感するとき、過去・現在・未来を意識することが多いのですが、今から50年後100年後、この家が「生きられた家」(by 多木浩二)としてどういう風に変貌していくのかにとても興味があります。

もっとたくさん書きたいことはあるのですが、またいつか書きたくなったら書こうと存じます。今日はこの辺で。そんな初めて小平新文化住宅を訪問したという話でした。(波照間エロマンガ島 18/8/31)

(寸評)決して「豪邸」じゃないんだよね。むしろ質素。
まあ「大正時代の普通の家」を作るだけで素材や建築技術などで相当お金はかかったんだろうけど。
ここの応接間でのライブ第1号がイシマツライブだったことはとても嬉しかったなあ。 7ポイント。


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