ドキドキドキリコ初体験(94)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめての胸がドキドキしっぱなし・・・ これって・・・・・・?

過日。いつもいつも夜遅くまで日課の投稿や手淫にいそしみ安定の夜更かし&寝不足を重ねておる私、その夜はちょいと興が乗りすぎて寝るのが3時半になってしまい、睡眠時間が約2時間半と相成ったのです。

よろよろと布団に入りバタンキュゥ、気付けば寝たのかどうかもわからぬ心地で目覚ましの雷撃ぎゃりりりりりりりりり、ふらんふらんで止めたはいいが身体が頭に反して動こうとしません。あかん。立てや。起き上がれや。7時3分のいつものバスに乗るねや。 あかん、、   あか、、、     あ、、、、・・・・・・・・・

次に私が目を開けた時刻は7時5分でした。

あびゃあ!! 既に3分発のバスは彼方へ失せた。私は朝飯と弁当を諦め顔も洗わず寝間着を打ち捨て、適当な服を引っ掴んで腋の制汗だけは忘れずおこなったのち着衣、古代携帯・財布・鍵だけをポケットに捩じ込みバス停まで猛ダッシュしました。今からならひとつ先のバス停に来る7時9分のやつに間に合うはず。

息を切らしてバス停を目指しますが私の精神には若干の余裕もありました。朝の通勤混雑のために、だいたいこのバスは2、3分は遅れて来るのです。バス停が見えるまであと少しのところで私は古代携帯を覗きました。7時9分。いける。まだバスは来ていないはずだ。
そして顔を再び前方に向けたらば、バスは今まさに出発した瞬間でした。

なんでやねんなんでやねんなんでやねんなんでやねん(残響音)

あろうことか今日に限って、バスは定刻で到着のうえ律儀に定刻で出発してしまってこましてけつかったのです。
次のバスは!? 時刻表を見れば11分後。待てるかっ!!  いつものバスから3本も遅れて出勤したのでは各種始業準備がまともにこなせません。ではどうするか? 自家用車? ノンノン、こんな時間から車に乗れば逆に渋滞に巻き込まれて遅刻してしまいます。
タクシー? そんなもんこの辺りには走っていません。電話で呼ぼうにもまず性能の劣悪な古電話でタクシー屋さんの電話番号を調べやんといかんし、だいいち来るのを待ってる間に次のバスが来てしまいます。そら本末が転倒しまっせ。

私の採った選択肢は、「2つ先のバス停までダッシュする」でした。
このバス停は別の路線からの駅前行きのバスも通るようになるため、本数が倍増するのです。ゆえにここで11分ボケーっと待つよりも、いち早く駅まで辿り着ける可能性があるのです!

ご案内のとおり慢性的に運動不足である小太りの私、既にここまでの行程で息は絶え絶えでしたがこれ以上40歳社会人にあるまじき夜更かしによる寝坊遅延ロスを増やしたくなかったのです。
当該バス停・豊中高校前へいったい何時何分にバスが来るのか私は知りません。もしそのバスさえ目の前で逃げられたとしたら私はもう錯乱して駅までダッシュするかもしれません。そんな無駄な事はしたくないのです。少しでもロスのリカバリをしたいのです。私は激しさを増す動悸にあらがい、年甲斐もなく豊中高校前まで走り続けました。家からおよそ850mの距離を、私は高校の体育の授業以来走り続けたのです。

元のバスを逃したバス停から4分で到着、気管がぜひぜひ言って痛い。荒い呼吸をどうにか治めようとしますがどうにも元に戻りません。そうしてバスは私の読み通り2分後に到着、さっきのバス停でただ次のバスを待っているより7、8分は稼げたでしょう。大したことのない数字に思われるかもしれませんがこの時の私にとっては大きな汚名の返上であったのです。へ、へへへ、やった、やったった。ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ。よ、40小太りの本気を、お、おもいしったか。はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・

どっどっどっどっどっどっどっどっどっどっどっどっどっどっどっどっどっどっ。

・・・・・・・・・?
どうもちょいと様子がおかしい。
バスを降りても、電車に乗っても、阪急から国鉄に乗り換えても、胸のドキドキが、一向に止まないのです。

・・・なんなの、これ? こんな感覚、生まれてはじめて・・・・・・ これって、もしかして・・・・・・・・・
 恋?

んなわっきゃありません。ここまでに一切どこにも相手になりそうな人間、登場してへんやんけ。単におっさんが歳も考えんと己の限界以上の運動を急速におこなったから、心臓に負荷が掛かり過ぎたんですね。
そうです。私がかように自分の状況を分析できたのは、石川さんの名著「『たま』という船に乗っていた」の第十章を、穴が開くほど繰り返し読んでいたからなのです。

以下、第十章の中盤より一部書き出しします。石川さんが40代を迎えてからもライブで派手にはっちゃけた後の描写。

 《〜(略)演奏が終わってしばらくしても心臓の動悸が収まらないのだ。
 次の日になってもなんだか様子が変だったので、医者に行き検査をしてもらったのだ。
 一週間後、結果が出た。
 医者は開口一番、こう言ったのだ。
 「良かったですねぇ!」
 俺は内心「へっ?」と思っていると医者が続けた。
 「心臓への負荷値が通常の4倍ありました。これは心筋梗塞でその場でバッタリ死亡してもおかしくない数値です」
 つまり、もう少しでステージ上で本当に死んでしまうところだったのだ。
 「貴方はもう40代だ、ということを自覚して下さい。20代のつもりでやっていると命の保証は出来ませんよ。20代での『100%のがんばり』は40代では200%にも300%にもなって、その対価は『死』なのです」
 さすがにこの言葉は効いた。(以下略)〜》

・・・これ、おんなじやん。やってることはライヴと寝不足メシ抜き1kmダッシュ、とまるで違いますが40代を迎えてからの無茶、という点では一致しています。そしてその対価は、『死』。あぶないところでした。まぁ私は石川さんとは異なり滅亡したところで特に誰も悲しいとも思わないでしょうがほんのちょっとだけ家族に悪いので、高々10分15分程度の遅刻のリカバリで命を落とすような間抜けな真似はしないことを誓うのでした。
おかげで職場での始業準備のサボり方がじょうずになりました。

ドキドキは、5日すれば平常通りに戻ったので、とくに医者にも行きませんでした。やぁ先人の経験は参考になるなぁ。やっぱり2005年のあの日大阪梅田の紀伊国屋書店で偶然石川さんの本に出会えてよかったなぁ。それがきっかけで今回の経験も「こ、こういうことですか石川さんっ!!」と判断/理解出来たし、このHPの存在も知れたし、投稿という趣味まで出来たしその影響で楽しいライヴにもたくさん行けたしなぁ。ははは。

「『たま』という船に乗っていた」を購入し読んでいなければ、私はなかなか止まらぬ動悸に対して不安と恐怖に苛まれていたことでしょう。石川さん有難うございます。なんか投稿の主旨変わって来たな(笑)、というわけではじめてのドッキドキがノンストップ、でした。以後自重します・・・。(老いポムチャン 18/8/31)

(寸評)いやあ、あの時は俺もビビった。そして人には年齢があることもハッキリ悟った事件だった。
なので「その歳なりの」精一杯で、それ以上の無理は「過ぎたるはおっ死んじゃうよ〜」と自分に言い聞かせておりやす。 8ポイント。

はじめての薬の副作用で救急外来

昼間1時半くらいに、動悸、息切れ、頻脈があり、急遽病院を受診しました。家族に送ってもらったので、救急車には乗りませんでした。
心不全を疑われ、いろいろ検査し、結局脳梗塞の薬の副作用で落ち着きました。薬は変えてもらいました。
運動もした方が良いと言われ、「アンパンマンのマーチ」を聞きながら、それに合わせて歩くという方法も教えてもらいました。
帰ってきたら、さくらももこさんの訃報を目にし、「まだお若いのに」とショックを受けました。
今日の1曲は「星を食べる」になりました。
さくらももこさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。(なつめ 18/8/31)

(寸評)薬は体の何かを変化させるわけだから、別の視点から見れば毒でもあるんだよね。
自分に合う薬を探すことは大事。この歳になるとそれは痛感するね。5ポイント。

初めての小エビの踊り食い

波照間エロマンガ島@タイランドです。
先日休暇をとり、チェンマイ旅行してきました。郊外のファイ・トエン・タウという人造湖のほとりに小エビの踊り食いを体験できるレストランがあるというので、友人と行ってきました。
注文するとほどなく蓋つきお椀が配膳されました。蓋を開けると小エビが勢いよく器の外に跳ね上がりびっくりしましたよ!!これには視覚的衝撃を受けました。友人がすかさず蓋をしてお椀をシェイクすると、お椀の下に沈殿しているタレに小エビが溺れてだんだんおとなしくなっていくのがわかりました。少しして蓋を開けると、動いてはいるものの、弱っている様子が見てとれました。よーし、とすかさずスプーンで掬い、口に入れるとこれが美味しい!!テンション盛り上がりまくりました。


動画をブログにアップしましたのでこちらからどうぞ→ http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=400

Facebookに記事をエントリーすると、石川さんの奥さんはこれを目のあたりにしてトラウマになってしまったと石川さんがコメントをくださいましたが、でも私も友人も美味しくいただきましたよ。また行きたいです。湖のほとりでのんびりできるので、今度2月にでも皆さんとごいっしょしたいと存じます。以上、生まれて初めての小エビの踊り食い体験の巻きでした。(波照間エロマンガ島 18/8/23)

(寸評)よく聞いたらうちの妻は踊り食いじゃなくて、刺身になった海老の頭が生きててビクッと動いたのからトラウマになったらしい。
まぁ、踊り食いでも明らかにトラウマになったろうな。 7ポイント。

初めてのベルティナの日の

高校生の時、現実逃避願望からかオカルトが少し好きで、本屋さんで「悪魔の呪法全書」という本を見付けて買いました。
買う時レジのお姉さんが「うわー!こんな本あったんだー!どこにあったの!?私も買わなきゃー!」と、えらく食い付いて来ました。
私は自分の事を棚に上げて「やだ、このお姉さんちょっと怖い…」と思ったものです。
さてその「悪魔の呪法全書」には、色んな魔術の方法が載っていました。私の幼馴染で同じ高校に行ってたOちゃんも、変な事が大好きだったので2人で楽しく読みました。
しかし魔術に必要な物が、羊の皮や、馬の陰茎だったり、そんなものどこで手に入れるんですか?というものも多くあり、やってみたいけどできないものがたくさんありました。
実践できそうなものの中で、「よし!これをやってみよう!」と思ったのが、「ベルティナの日」の呪術でした。
ベルティナの日(4月30日)は、1年にたった1日だけ、水の力が最大に高まる日です。その日、日の出とともに綺麗な川や湖から水を採取して、その水を毎日顔にヒタヒタさせると、ベルティナのパワーで外見も内面も美しくなれる、という、とてもナチュラルでオーガニックで乙女心をくすぐる呪術でした。

そして4月30日ベルティナの日当日、家も近所のOちゃんと2人で、夜明け前の真っ暗な時間に家を抜け出し待ち合わせて、山道を下った所にある神社の川へ行く事にしました。
朝起きて来た時に私が居なくてお母さんが心配するといけないので、置手紙をして家を出ました。「今日は1年にたった1度のベルティナの日で云々…」と正直に、学校は休みます、と書いていきました。

真っ暗闇の山道は本当に怖くて、幽霊とか熊とか変質者などが出て来やしないかと、Oちゃんと2人、がっちり抱き合い震えながら下って行きました。
川のある神社までやっと辿り着き、よい具合に朝陽が昇って来た時に、小さい滝みたいになってる所から、持参した可愛いジュースの空き瓶にベルティナの水を汲み入れました。

そうやって苦労して手に入れた聖なるベルティナの水、ひとつはすぐに使えるように冷蔵庫に入れ、もうひとつは長期保存できるように冷凍庫へ入れておきました。冷凍してもベルティナの力は失われないようなので。
そして、しばらく毎日そのベルティナの水を顔にヒタヒタし続けた結果・・・・・

外見、内面共に、特に美しくなったとは思えませんでした。今までとなんら変わりない、へちゃむくれた自分の顔と自分の性格でした。Oちゃんも、いつもと変わらないそのままのOちゃんでした。
しかも冷凍庫に入れておいたベルティナの水は、ガラスの瓶のまま凍らせてしまったので、後で見たら瓶が割れていたのでそっと捨てました。

魔術の効果は得られなかったものの、楽しくて良い思い出です。(マドレーヌ婦人 18/8/23)

(寸評)いや、もしそれを使わなかったら蔵六の奇病に冒され今頃皮膚は爛れ腐敗し、ドロドロに溶けてたかも!? 7ポイント。

生まれて初めて飛行機乗り遅れるの巻き

波照間エロマンガ島@バンコクです。今の日時は2019年8月14日午後10時15分です。今わたしはバンコクスワンナプーム国際空港にいます。なんと、チェンマイ行きの飛行機に乗り遅れてしまいました!今晩遅くにチェンマイ入りし2泊3日の弾丸ツアーで友人たちとチェンマイを堪能しようとしていたのですが、出鼻をくじかれました。飛行機に乗り遅れたのは初めての体験です、とほほほ。

国内線だと1時間前にチェックインなのですが、今日はぎりぎり20分前で、走ってチェックインカウンターに行くと係りの人が店仕舞いして帰るところでした、必死に「乗らせてください!」とタイ語でアピールしたのですが、駄目でした。 というわけですぐに航空会社のチケットオフィスに赴き、明日朝一番の飛行機を予約しました。運賃はキャンセルになったチケット代がいくぶんか生かされたのか、たった240バーツで済んでラッキーでした。

でもでも、間に合わなかったことがわかった瞬間というのは呆然とするものですなぁ。初めて味わいましたよ、こんな気持ち。皆さんは飛行機に乗り遅れたことありますか?(波照間エロマンガ島 18/8/23)

(寸評)あるなあ。あれは大阪から熊本だったかな?たまのツアーで。
まだ時間があると勘違いして知久君がのろのろと買い物とかしてるうちに乗り遅れた。
その日はもう熊本行きが無かったので福岡まで飛んで、そこから熊本までは電車で行ったなあ。 6ポイント。

初めてのアリゾナ記念館@パールハーバー(2002年4月21日)

波照間エロマンガ島です。
わたしが初めてアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島のパールハーバー(真珠湾)洋上にある慰霊施設、アリゾナ記念館に行ったのは、2002年4月21日でした。

ここは1941年12月7日(ハワイ時間)に発生した大日本帝国海軍による真珠湾攻撃で、乗組員1177名のうち1102名が死亡し撃沈された戦艦アリゾナ及びその乗組員を追悼するとともに、真珠湾攻撃自体を記念する施設となっています。この施設は沈没した戦艦アリゾナの真上に建設されています。



最初に真珠湾の港湾地区にある施設入り口から50〜60人単位の団体ごとに順番に中に入ると、大きな会議室のような部屋に通されます。そこで戦闘の記録映画が上映されたのち、アメリカ海軍士官による施設の説明があります。その間、室内は厳粛な空気に包まれ誰も私語を交わす人はいず、士官の説明を聞いています。そのあとに室外に出て、5分ほどかけボートで記念館に向かいました。
記念館では真珠湾攻撃に関する写真資料が掲示されているほか、大理石の壁には戦死したアリゾナの乗組員全員の名前が刻まれています。そして腐食が進み海面に出ている艦首を見ることができました。そしてその後方には1945年9月2日に東京湾上で大日本帝国が降伏文書に調印した戦艦ミズーリが停泊しているのが見えました(もちろんミズーリ号だということはそのときは知る由もありませんでした)。

今となっては観光地として日本人が多く訪れるハワイですが、今から70余年前にここで日米は戦争状態にあったということを、もう一度呼び戻されるような気持ちになりました。そう時間はつながっている、悲惨な戦争の記憶を風化させてはならないと慰霊施設を体験して実感しました。

そんな初めてのアリゾナ記念館@パールハーバー体験でした。(波照間エロマンガ島 18/8/23)

(寸評)俺ももう60年近く生きてるから、70年ってそんなに大昔じゃないんだよね。
俺の子供の頃はまだ街に傷痍軍人とかがハーモニカとか吹いてたな。 6ポイント。

初めての漫画模写と「はっきょクン」

波照間エロマンガ島@タイランド、55歳です。
わたくしが初めて漫画を模写したのは、1972年小学4年生のときでした。赤塚不二夫『天才バカボン』講談社コミックスの第1巻を全巻描き写したのです。漫画に限らず好きな文章を模写するとその作者の中に入れるような気がして、一時期は好きなものができるとそれを書き写すことが自分の中で流行しました。

当時わたしは少年マガジン連載中の『天才バカボン』にどうしようもなく入れあげてました。起きている時間のかなりな部分が「バカボン」への妄念で占められていました。キャラクター造型からナンセンスギャグから漫画の脱構築にいたるまで、もちろん当時はそんな論理的言葉は知りませんでしたが、そのすべてに影響を受けていたのですね。
いま手元に資料がないのですが、少年マガジンのある号の巻頭企画で、21世紀の未来年表を羅列した特集があったんです。そこには「ベシの遺骨が盗まれる」とか「ニャロメ発狂する」とかふざけた項目がならんでいたんですよ。小4のわたしはこの「発狂(はっきょう)」という文字に過剰に反応してしまいました。でもってその影響で、休み時間に黒板やノートなどいたるところに「発狂」と書いていたら、ついにはわたしのニックネームが「発狂」になってしまったんです!
でもいくらなんでもその言葉は直接すぎると思ったのか、友だちは「はっきょう」から呼び方をいくぶん和らげて「はっきょクン」と呼ぶようになりましたが。そんなこんなで、小4から小学校を卒業するまでわたしのニックネームは「発狂」ないしは「はっきょクン」でした。そんな、ちょっと黒歴史っぽいクレージーな自分の子供の頃の想い出でした。(波照間エロマンガ島 18/8/23)

(寸評)川越にその名も「発狂くん」という辛い煎餅のお土産があるよ。 6ポイント。

はじめてそっち系の人に絡まれた

 つい数日前の話です。別コーナーでも書きます(した)が、今年は裸の人を見ることが多いです。
 とある本屋さんの前を通りかかったときです。10メートルくらい前に、上半身裸で、坊主頭の30歳くらいの男が、自転車に乗っているのが見えました。
その人の背中に、刺青がありました。「この人も裸?しかも刺青?」と思って、つい、見つめてしまいました。
 すると・・・その刺青男は何かの気配を感じたらしく、自転車を停め、こっちを睨みつけてきました。筋骨隆々たるその姿。どう考えても力は僕より強そうです。
おまけに僕は運動音痴。走って逃げたところで、すぐに追いつかれてしまうでしょう。「やばっ…」と思い急いで視線を逸らし、ちょうど本屋の外にも本棚が置いてあったので、その棚の本を読むふりをしました。すると、どすの利いた声がしました。「お前なんで見て・・・今回は許して・・やる・・が次やったら・・・・」
全部聞き取れなかったのですが、刺青男が、僕に向けて言っていることは理解できました。本を読むふりをしていたのですが、恐怖のあまり手が震えてページがめくれませんでした。
 しかし・・・大通りを上半身裸で通っている人がいたら、気になりませんか?しかも、僕は好奇心旺盛なんです。変な人がいたらつい、そっちを凝視してしまいます。
どうすればいいのでしょう。このままだと、「あっ・・・お前、前もやったよな・・・あのとき・・・またやったら許さないって、言ったよな・・・」と言われ、ボッコボコにされること間違いないのですが・・・(未成年 18/8/7)

(寸評)「いやあ、すごくカッコいい絵だなと思って」と言ってごらん。きっとその人も笑顔になるよ。
ただ「じゃあお前にも彫ってやろう・・・」と言われる可能性も高いが。 7ポイント。

はじめての川崎市

小学生ぐらいの時の話です。親戚が川崎市に引っ越したので、一人で川崎市を訪問しました。
 朝(7時過ぎくらい)、路線バスに乗って、川崎駅へと向かいました。駅の周辺は、飲み屋とか、きれいなお姉さんといちゃいちゃできるお店とかパチンコ店などがあります。そんなところを通りすぎる途中、車窓から男の二人連れを見ました。よく見ると、二人とも相当酔っていて、ふらふらと肩を組んで歩いていました。しかも、一方の人の目の周りが紫色に腫れ、鼻血を垂らし、足を引きずっていました。「ど、どうしたらいいんだろう・・・警察の人に言った方が よいのかな・・・」そんな感じで、バスの中でおろおろしていました。また、別の場所にゴミ捨て場があって、ごみ袋が山と積んでありました。その上で、男の人が寝ていました。人の暗部を見たような気がして、何とも言えない気分になったのを、今でも覚えています。
 しかし、川崎市は良いところです。ちょっと電車に乗れば、東京にも横浜にも行けて、便利なことこの上なかったです。(未成年 18/8/7)

(寸評)昔「害虫」という映画で俺が変な小屋に住んでるシーンがあったのだが、それもロケ地は川崎だったなあ。
なかなかにディープな土地だよね。 6ポイント。

初めての乾燥大麻

もう15年前の事なので、時効という事で書かせて頂きたいと思います。
ワーキングホリデーでオーストラリアに1年滞在した、若さ溢れる頃のお話です。
「伝言板の返事でアッハッハー」の2001年5月24日に、おーじーさんが書き込まれているように、オーストラリアではマリファナは割と簡単に手に入るようです。日本の高校生がお酒を飲むのと似たような感じだと思います。違法だけど割とみんな普通にやってる、でも嫌いな人は嫌い。というような感覚です。

ワーキングホリデーに来てすぐに出来た日本人の友達が、「シェアメイト(シェアハウスで一緒に住んでる人の事)からマリファナもらったんだけど、吸いたい?」と訊いてきました。
そんなの吸ってみたいに決まってる。
という事で、私の住んでる所に持って来て貰って部屋で一緒に吸いました。乾燥大麻を紙に巻いた、巻きたばこ式のやつでした。
それまでに私は、煙草は吸った事はあるけど、石川さんと同じで煙は肺には入れずにふかすだけでした。しかしマリファナは肺一杯に煙を吸い込まなくては効果がありません。
この、肺一杯に吸い込むのが苦しくて苦しくて、呼吸困難になりそうなくらいむせました。
何度もゲホゲホとむせながら吸いましたが、なかなか効いて来ません。ゼエゼエしながら、だめだー、こりゃ効かないわーと思ったその時!!
キターーーー!!!
突然周りの世界に膜が張ったような感覚になりました。ほんとにハッキリと、「こ、これがそうなのか!」という感じでした。なんというか、世界を独特のフィルターを通して見てるみたいな感覚でした。ボーーっとなるというか。理性はそのままです。
マリファナが効いてる時に、音楽を聴いたり食べ物を食べたりするとものすごく良く感じるという事なので、友達と2人でアイスクリームを食べたり音楽を聴いてみたりしました。
なんだか不思議な世界で音楽を聴いてるような感じになりましたが、特に最高!という感じではありませんでした。アイスクリームも、普通に美味しかったけど、「うんめーーー!!」という程でもありませんでした。
でも、友達と会話してて、何を話してる時だったか忘れましたが、友達が「ありがとう」と言い、私が「どういたしまして、ユアウェルカム。」と言いました。しばらく間を置いてから友達が、「ああ、今『どういたしましてって言われるかも』って言ったのかと思った。」と言ったんです。それがなぜか私のツボに入ってしまい、おかしくておかしくて笑いが止まらなくなりました。
ほんとに、こんなおかしい事この世にないってくらい笑えて、死ぬほど笑いました。いやいや、もういいだろう、そこまでおかしくないだろう、と笑いを止めようとするのですが、止まらないんです。
ああ、マリファナ吸うと笑いが止まらなくなるのだな、と思いました。

これが私の乾燥大麻初体験でした。
とにかく初めて吸ってみた感想は、めちゃくちゃむせる、効果は突然はっきりと現れる、世界に膜が張ったような感じ、笑いが止まらなくなる、という感じでした。
その後も何度か吸いましたが、私はマリファナが効いている時は、一人になって物思いにふけるのが一番好きでした。考える事が、ものすごく深〜くなるのです。この世の真理が解るような感じ。なぜか人の心も分かってしまい、大金持ちの気持ちや、ロックスターになった人の気持ちなんかも手に取るように分かってしまうのです。「ああ、なるほど、こういう事か…」と、全て理解できてしまうのです。
人間のエゴとかも丸わかりになり、自分の存在が恥ずかしくなったりもしました。多分、普段使ってるのと別の部分の脳が冴えわたるんだと思います。
一人で寝転んで、ず〜〜っと頭の中で哲学してるのが楽しかったです。もう、ただ座ってるだけでも脳内が充実して楽しいので、他には何もしたくなくなってダラダラヘラヘラした状態になりました。

思考がすごくディープになるのが本当に楽しかったですが、吸うと煙で気分が悪くなったり、翌日は鬱々とした気分になったりするのがイヤでした。
楽しかったけど、私はそんなにはまる程好きではありませんでした。でもやっぱり好きな人はどっぷりとはまってしまうみたいです。(マドレーヌ婦人 18/8/7)

(寸評)俺はやったことないけど、そもそもタバコをふかすのも肺に入れないんじゃなくて入れられない不器用さだからマリファナも無理だなあ。あと「翌日は鬱々とした気分になる」のは特に嫌だな。
お酒でも楽しくなったりするけど、それとは違う感覚なのかな? 7ポイント。

はじめての脳梗塞

このコーナーではお初です。
私の初体験は「脳梗塞」です。去る8月1日に脳梗塞と診断されました。画像を見ながら説明する医師。「死ぬのかな?手術?入院?」などと考える私。結構ヤバイ状況なのに、頭の中をぐるぐる回る「オゾンのダンス」と「マリンバ」。最後の最後まで「マンジュシャガ!」かと呆れる私。
幸いなことに麻痺もなく(無自覚性脳梗塞というらしい)、自宅療養しています。
今日病院に行くとき、ずっと聞いていたのは「夜のどん帳」でした。(なつめ 18/8/7)

(寸評)柳ちゃんの歌がドーパミンのように出るのかな?
安静にしてゆっくり療養してね。 6ポイント。

初めての萬年山青松寺の碑文

波照間エロマンガ島@タイランドです。2003年頃、東京で働いていた頃の話です。
ある日、いつものようにNHKラジオの「ラジオ深夜便」を聴いていると、興味深い内容の特集に出会いました。

第2次世界大戦が終わったあと、インドネシアに駐留していた日本兵がそのまま当地にとどまり日本に帰国せず、オランダからの独立戦争をインドネシアの民衆とともに戦ったオツドさんという方のインタビュー。わたしはそれまでこの史実を知りませんでしたが、このような日本人兵士がたくさんいたとのことでした。インタビューを聴いていると、大和魂や日本軍人など戦前の日本人の思考と行動原理のようなものがうっすら見えてきて、とても考えさせられました。なぜ彼らは日本に帰らなかったのかが、いちばん気になりました。西欧列強の植民地支配から民族の開放に命をなげうったのでしょうか。現在も自分の中では答えを出せずにいます。

すると番組中アンカー役のアナウンサーの人が、インドネシア大統領から贈られた彼らの功績を称える碑文が日本にあるということを紹介し、後日その場所に足を運んでみました。それは東京都港区愛宕の旧NHKの近くに建つ、萬年山青松寺の敷地内でした。

お寺の門を入るとすぐ本堂の横に2つの高層ビルが建っているのが目に入りました。あとから調べるとここは「愛宕グリーンヒルズ」というお寺とオフィスビル、高層住宅などの複合施設をもつ街区であることがわかりました。何百年もの歴史のある仏教寺院と近代的なビルが同居し、愛宕山の自然も残された近未来的な景観が広がっていました。



本堂を過ぎ、裏庭にあたる墓地にある通路を進んでいくと、目指す碑文を発見しました。そこには
市來龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず。全人類のものなり。

一九五八年二月十五日
東京にて
スカルノ

とあります。デヴィ・スカルノ夫人の夫でもあったインドネシア初代大統領のスカルノ氏が、オランダからの独立戦争を共に戦って戦死した日本人への謝辞を残していたのです。とても興味深い碑文でした。(波照間エロマンガ島 18/8/7)

(寸評)へー、そんな歴史もあったんだねえ。
デヴィ夫人は訪れたりするのだろうか。 6ポイント。

はじめての恩人を大阪珍所めぐりに連行

すこし前。離れた所にお住まいだった、何かにつけてお世話になったとある私の恩人が偶然大阪府下に転居してこられることを知りました。

これはなんという僥倖、これまでに受けたご恩をお返しして差っしゃげる最大のチャンスが到来したがな、と興奮、「是非私の住まう北大阪に遊びに来てください、あちこちご案内しますから」とグイグイ前のめりに約束、いささか強引に日程を定めて指切りメールを交わしたのです。

あれこれ場所の案が浮かんでは消滅、どんな場所がいいかなぁ? あんまし電車でしゅっ、と行ける所では詰まらんなぁ、とかポンコツな脳味噌で懊悩&呻吟、そうだ北摂(←おもに大阪府北部を指す、摂津国北部の意)の名物と云えば落語にも登場する猪。冬季限定で猪肉をぶちこんだ「ししうどん」が喰える怪しい食堂があったわ。そちらを中心に北摂めぐりを企画/立案したろと思た矢先になんじゃかんじゃと予定が舞い込み舞い踊り、当初2月の予定が伸びる延びるみみのびる、7月とs相成ったのでした。ワォ、季節真逆。

こうして当初の目玉であったししうどんは儚くも散り逝き、私はプランニングを改めて組み直そうとして、はたと戦慄しました。

人からお誘いをいただいて観光地を案内されることはあっても、自分から名所を案内して差し上げる、という行為を、私は今までにおこなったことがなかったのです。41年も生きてきたのに。
まぁ裏を返せばそれだけ他者から期待されてこなかったこと&いただいたご恩をないがしろにしてきたことの証左で、いかに自分が未熟なおっさんであるかを改めて思い知ったのです。

そんなことではだめだ、と捲土重来に挑もうと意気込むものの要のししうどんを失った私は激しく混乱かつ迷走、近辺のおもしろスポットを脳内検索しますが地理的にてんでバラバラ、まるでご恩をお返し出来そうにもない出鱈目なプランしか思い付かないのです。しかもたこ焼・串カツなどの盛んな大阪市内に引き比べて、北摂は目玉になるような食い物が甚だ乏しいことにも気付き錯乱、昼飯夜飯の妙案がひとつも浮かばず発狂、涙目でパソコンを弄くりまわすもそぞろっ気な私は途中でついつい猥褻サイトに寄り道しては日課の手淫に没頭、あっちゅうまに夜中の3時に成り果てて泣く泣く寝ざるを得ない状況に陥ったりと真っ当な社会人とは思えない屑っぷりを遺憾なく発揮しておったのでした。くずず。

そんな折に恩人から助け舟、太陽の塔で有名な万博記念公園の敷地内にある「民俗学博物館」というものにすごく魅かれます、と連絡が。よっしゃぁあこれを軸に万博周辺で再プランじゃぃ、と発奮した途端に大阪北部を襲う震度6の地震、民族学博物館は展示物が被害を受け敢え無く10月まで休館に。これ、なに? わし、なんか悪いこと、した??

もういいや。あほなりに精いっぱいやろう。私はある程度目的地の目星を付けてから、あとは当日アドリブでいってこまそう、と前向きに匙をブン投げたのでした。

さて当日。良く晴れた日曜日です。ちゅうか、晴れすぎも晴れすぎでちょっとお前調子のり過ぎやぞ、と太陽に苦情を申し立てたくなるような酷暑。連日大阪の最高気温は38°Cをマーク、バッタバタ人が倒れて運ばれるようなヤバさの中での開催となったのです。わかったわかった、わしが厄年やからとかもうええねん。そんなん何とでもこじつけられるから、いちいち考えんでもええねん。ここは久々の邂逅に対するお日さんの手荒い祝福と受けとめましょう。
まちあわせはゲンゲンゲロゲロ朝9時ジャストに国鉄大阪駅改札。お元気そうな笑顔に、ここまでの紆余曲折遠い道のりを振り返りちょっと感極まってウルッと来かけたのは内緒です。

問題の昼飯は大阪らしい喰い物、ということで北摂でもとめるのはすぱっと諦めて、阪急梅田駅構内の「551の蓬莱」で豚まん・焼売・肉団子・名物のアイスキャンデーを買い漁り、私の家で喰うことにしました。恩人はお店に無造作に置かれていたアイスキャンデー用のドライアイスをぶん殴るための木槌に興味津々でした。

会話を弾ませつつ電車とバスに揺られオポム家へ。この恩人とは過去にも共に遊んだことがある嫁はんとぼうずも楽しみにしていました。私の秘蔵のたま音源を披露したり楽しくトークしたりと愉快に過ごしました。お昼に551をガッツリ喰らって全員腹一杯、さぁここからが体力勝負、極熱の炎天下ドライヴへゴーです。もはやちっさい脳味噌の容量を使い果たした私に室内中心のラインナップ、という穏健な手段は思いつきませんでした。

まずは手始めに彩都なないろ公園へ。ここへの投稿でも何度か登場した、関西でも2箇所しかない「フリーフォールすべり台」のある公園です。
当初はご自身で滑ることに難色を示していた恩人でしたが折角だからと、私を模して「ウホッ」と声を上げつつ3.5mを垂直落下。やるなぁ。私は調子に乗って5.5mのほうをぼうずを抱えたまま滑りましたがバランスを崩し、危うく怪我をさせるところでした。ちなみに私の靴の踵の一部がこの時の摩擦熱で焼失しました。5.5m、やっべぇ。酷暑、やっべぇ。

この公園は日蔭が乏しく、こんな所に長く居ては焼き人間が4ヶ仕上がってしまいます。早々と切り上げて続いては名所・箕面大滝。これはなかなかこの酷暑に涼しいセレクトではなかろうか? と自信満々で向かったのですが、駐車場からの距離がけっこうあるうえに下りがきっついの。滝に辿り着く前に坂と暑さで全員ぐでぐでになってしまいました。やはり私の目論見は、浅かった。あほだった。
しかし目的の滝はさすがの圧巻。この旅程で唯一の記念写真を撮りました。やーお見せできないのが残念だなぁ、写ってるのが私だけなら顔出しできるんですけどそんなもなぁ何処にもニーズが無いのでね。滝壺からの爽やかな飛沫を全身に浴びてマイナスイオンをバリバリ帯びた(?)私は気力回復、観光客のトウモロコシを略奪する悪辣な猿を尻目に元来た道をエンヤコラ、ふらんふらんで次の目的地へ。

ここからは室内です。と安心して向かった先は石川さんも最近訪れられた池田市の安藤百福発明記念館、別名カップヌードルミュージアムです。百福さんは日清のチキンラーメンの生みの親ですね。1階ではこれまでに発売された日清の即席めんのすべてのパッケージが閲覧できます。カップめんの秘密公開や百福さんがチキンラーメンを生みだした作業場の再現も。施設自体はすぐに見て回れるヴォリュームですがそれでも入場無料なのは太っ腹。
そして2階では300円でオリジナルのカップヌードルが作れちゃう、「マイカップヌードルファクトリー」。カップに自由に彩色してからスープの味をレギュラー・シーフード・カレー・チリトマトから選び、さらに12種類の具材の中から4種類をセレクトして(おなじ具を4回入れてもOK)包装、という流れ。私はまったく何も考えずにノリで炎をバックにキン肉マン風ひよこを描いてしまったがために内容を絵柄に合わせざるを得ず、チリトマトスープにニンニク・キムチ・コロチャー(肉)・ひよこちゃんナルトというゴーゴーマッソォなヌードルが出来上がってしまいました。翌日早速喰いましたが存外うまかったです。恩人はデザインの達人らしく、さわやかなシーフードのパッケージに仕上げていました。嫁はんは器用に入ってる具材のイラスト、ぼうずはよたよたのひよこちゃんの絵をかき「うまいやろ?」と自画自賛、親の私と違って自己肯定感の強い野郎です。
会場は屋内だったんですが、施設の駐車場はすでに満杯だったため少し遠い場所へ停めやんとあきませんでした。普通の気候ならどってことない距離ですが時刻は16時前、もうきっついきっつい・・・・・・ 駐車場前の自販機で全員すかさず飲料ゲット。まだ屋根のある場所に停められただけラッキーでした。

本来はここまでの予定でしたが欲張りな私はさらに時間の許す限り、と万博記念公園へ車を飛ばします。え? お目当ての民俗学博物館は休館中やのに? じつはその近くに「日本民芸館」という似たような名前ですが趣の異なるしぶい博物館があるのです。こちらは嫁はんの大好きな施設なのですがなんとたまたま恩人の趣味に合う染物の特別展が開催されており、しかも最終日1日前という絶妙なタイミング。2人が楽しめてよかった。私も知識がないなりに面白がれました。そして閉園ギリギリに間に合ってよかった。

結局晩飯がノープランのままだったのですが連休の中日で何処に行っても混むだろう、とまだ17時ですが道すがらにあったファミレスで早めにお肉。なんか今日は肉ばっかり喰ってるな・・・・・・ ハードな行程を経た身体が無意識に欲したのでしょうか。私の気まぐれなチョイスに恩人は胸ヤケしてたかも・・・ 申し訳ないことをしました。
さて21時までには恩人をお家まで送らねば。このご帰宅ドライヴも旅程のうち、折角の機会だからお家までお喋りしながらお帰りいただきたいものね。この恩人と我々家族は親和性が高くて話が弾んでとても楽しいのです。ただぼうずがペタペタくっ付きすぎて疲れさせてしまったのが反省点でした。

っとその前に、お昼に551のアイスキャンデーを冷凍庫にしまったまま喰うのを忘れてた。一旦うちに戻って再びたま曲を聴きながらアイスキャンデーでクールダウン、そして阪神高速に乗って帰路に就く前に・・・ 私は思いつきでハンドルを切りました。
私の実家近くは伊丹(大阪)空港の発着場があり、大迫力で降りてくる飛行機をもう間近で観られるスポットがあるのです。肩強い奴だったら石投げたら当たるんじゃないか、くらいの距離(笑)。よい子はやんないでね(笑)。その近さにうぉぅっ!? と驚いてもらい、私も満足でした。

これでもか、と詰め込みまくった大阪珍所めぐり。最後の最後まで本当に楽しかった。恩人とは再会を誓い、また近い未来に転勤するまでにもう一度は必ず逢おうと約束して別れました。丁度21時頃、私の旅程は出鱈目な割にきっちり帳尻を合わせて終了できたのでした。奇跡だ。

で、帰り道は若干迷いつつも無事帰宅。ぼうずは車で眠ってしまいました。おっ、重たっ。そら23時だもの。私も帰るまではしっかり覚醒していたのですが家に着いた途端いきなり疲れがドカッと押し寄せてきて、もうどうやって風呂に入って寝たのかも覚えておらず、翌日は夕方まで泥のように眠りつづけました。恩人からの夕方のメールで目を醒ますと、恩人もいままで泥だった、と(笑)。あんな猛暑の中、無茶させてしまったなぁ・・・ 悪いことしたなぁ・・・・・・ まさに名所案内というより珍所連行だったよなー・・・ でも楽しんでくれたようで、そこは良かったです。もうお互いアラウンドフォーティー故に、次回はもっとペースを抑えた旅程にするぞ、と空に誓うのでした。

というわけで、おっさんのはじめてのおもてなしは案の定バタバタでトシ考えんと詰め込み過ぎでしたー、というお話でした。ただただ恩人に陳謝&感謝です。(オポムチャン 18/8/7)

(寸評)今度俺を是非「大阪ディープスポット巡りドライブ」に連れていってくだせえ!
変な店や廃屋、寂れた商店街などに行きたい。 7ポイント。

はじめての熊本県

大分から阿蘇へ抜けた時が初めて。
天草は好きな地区で三回訪れた(しかし三回というのが多いな)。天草島原の乱に興味があり、長崎の原城跡など好きな城ベスト3に入る。
熊本ラーメン好き。熊本は火の国と言われ肥の国の基になるのだが、実はとても古色とした保守的な土地柄で、南北朝動乱時の菊池氏や明治初期の神風連の乱などに表される。
熊本城は早く復活してほしい。(わいわい 18/8/7)

(寸評)熊本は何度か行ったけどなんか好きな街なんだよな〜。
特に「女の都」行きのチンチン電車がいつも気になってる・・・。 5ポイント。

はじめての鹿児島県

とにかく好きな土地。たぶん飛行機で訪れたのが最初かと。レンタカー(ロードスター)で、鰻池や知覧、指宿などを周った。今は亡き夜行列車などで何度訪れたか。どうしても見たい博物館があって、時間が無くて半年後にその博物館のために再訪したことも。
中央政権に対して五度も弓を引いた県は鹿児島の他に見当たらない。�熊襲、�vs豊臣、�関ケ原でのvs東軍、�幕末のvs江戸幕府、�そして西南の役。こんな土地ないですぜ。
関ケ原での「敵に向かって退却」や江戸時代の「二重鎖国」などはすげーと思う。

一度皆さんに行ってもらいたいのは、知覧。武家屋敷を見に行ったのだが、ある資料館から中年の女性の集団(多分団体客)がハンカチを手にしながら泣いて出てきた。
そこは「特攻資料館」。県内に3つある特攻資料館の一つだ。
ここを訪れて衝撃受けた。特攻へ旅立つ前の若者の写真や手紙が展示されている。
「天皇陛下万歳」「必ず敵艦を沈めて見せます」「お母さん悲しまないでください」などの文面が多いのだが、ある一青年の手紙。妻と子供に向けて書かれた最後の手紙、

「〇〇、お父さんは明日特攻に行きます。兄弟でお母さんを助けてあげてください。そして大人になったら、好きなことをやってください」。
・・・と。「好きなことをやってください」の言葉に号泣。涙が止まらなかった。今でも涙が出てくるくらい。。。
恐らく父親は日本が戦争に負け、子供が大人になるときには平和な時代が来ることを予測していたのでしょう。自分が好きなことを出来なかった時代に対し、子供の未来ならば好きなことが出来る時になっていることを切に希望していたのだと思う。
また私の大学の卒業生の手紙も残されており、
「父上母上。卒業証書無事受け取りました。卒業できました。ありがとうございました。これまで育てていただきありがとうございました。〇〇は明日必ず敵艦を沈めて見せます」
当時の文系の大学生は何年か早く卒業し、戦地へ。そして特攻隊員として旅立ちました。いわゆる学徒出陣です。戦争が良いかどうか。軍備が必要かどうかは深い議論があります。しかし私と同じ大学の大先輩が、したかった勉強も出来ずに特攻機へ乗り旅立ったことを思うと、つくづく私は恵まれていた環境にいたんだなあと思います。
二十歳そこそこで海へ消えた大学生たち。大学の先輩が残してくれた言葉、そして平和を大事にし、彼らの無念を思い出しながら頑張らなきゃならないと思いました。(わいわい 18/8/7)

(寸評)鹿児島もいつも桜島に見惚れる。
鰻温泉は確かに渋くて良かったなあ。5ポイント。

はじめての沖縄県

高知県と言い、熊本県と言い、ちょこっとだけ訪れたというのが比較的多いのですが、沖縄本島から、与論島-沖永良部島-徳之島-奄美大島-喜界島-屋久島-種子島と、フェリーや飛行機を駆使してひたすら北上した時に訪れたのが最初。 後に、八重山や宮古諸島など有人島はほとんど制覇した。新城島や鳩間島、大神島、南北大東島まで行きましたぜ。 沖縄の食べ物も大好き。
5クエスチョンにもあったけど、沖縄村だったかっな、中央ステージ広場で観光客相手のエイサーを踊ってる人たちを見ていたら、よっぱらったおじさんがひょろひょろやってきて踊り手に近づいた。しかし誰も止めないし、踊り手も踊りを辞めない。するとおじさんは5000円を出して、踊り手の女の子の服へ入れるとそのまま去っていった。場内笑いと拍手。あれはなんだったんだ(笑)。どう見ても演出じゃない。だれも制止しなかったところを見ると・・・いい土地柄だなあ。
沖縄時間もあるし、台風が来ると役場でさえ休みになるし、台風は沖縄では死者が出ないのも頷ける。
あー沖縄病という重い病気になってしまった。(わいわい 18/8/7)

(寸評)たまが初めてCMに出たのが北海道ローカルのCMだったんだけど、そのロケ地が沖縄で初めて行った。
それからおそらく20回近く行ったのではないかな。一度行くと一週間以上の滞在が多いので総計すると何ヶ月も沖縄には滞在してるんだろうな〜。
琉球王国は日本語の通じる外国のようで大好き〜。 5ポイント。

はじめての1Dayトリプル墓参り

染井吉野もはや散り果てた今年(2018年)の3月末。ちょうどお彼岸に家族3人ではじめての北陸旅行に出ていた都合上、今年はまだお墓参りに行ってないなぁ、とふと気がつきました。

私は神仏を信じる性質ではないのですが、たまには可愛がってくれたじいちゃんばあちゃんを偲ばないとなんだか悪い気がするのです。
それによくよく考えたら、私には配偶者とぼうずが存在するため、それぞれの祖父母&曾祖父母にも義理が生じているではありませんか。さらに私は嫁はんのご両親と父方の祖父母が眠る京都のお寺には毎年行っていましたが、母方の祖父母の側のお寺には納骨の時以来参じていないことにも気付きました。

こりゃいかん。私はなんと先人のご恩に報いて来なかった罰当たりであろうか。こいつは私が無神論者とかどうとか言う問題とはまた別です、私達をかたちづくる大元となったご先祖たちに単純に想いを馳せるのは宗教心がなくったって大切なことなんとちゃうか、と何となく私は思ったのです。よ。

そうと気付いたなら善は急げ、嫁はんの母方の祖父母のお寺は大阪市淀川区。嫁はんのご両親と父方の祖父母のお寺は京都市伏見区。私の父方の祖父母のお寺は箕面市の山中にあります。いける。一撃で。そんな大掛かりなことは今までやったことありませんが、これを機に1日で我々にまつわる関西圏の3箇所のお墓をすべて参ってこまそう、と考えたのです。残念ながら私の母方のじいちゃんのお墓は私の生まれた九州の熊本・天草にあるのでとても叶いませんが、この九州のばあちゃんは唯一ホームにて90代半ばにして健在、どうにかして近いうちに会いに行くからその時まで待ってもらおう、とひとり心に誓いました。思えばぼうずの8人いる曾祖父母のうちただひとり存命の存在なのですな。
今回参る私の血縁は父方のじいちゃん・ばあちゃんの2名、嫁はんの血縁はご両親・父方の祖父母・母方の祖父母の6人、つまりこれはぼうずにとっては祖父母2+曾祖父母6=8名分のお参りとなるわけです。なんだか壮大な計画のように思えてくるから不思議です。

そしてこのお参りにはもうひとつのモチベーションがあります。って私がこんな言葉を使うとお餅を用いた手淫のように見えますが全然関係ないので安心してね。イメージって怖いね。なんの話や、はよ先に進めんか。
昨年2017年12月に開通したばかりである新名神高速道路の箕面とどろみIC〜高槻JCT・IC間を初ドライヴしてみたい、という思惑も兼ねておったのです。ちょうど箕面のお墓から京都伏見のお寺までのアクセスに好都合なのですね。子供が退屈しがちな長旅になる中で、このおニューなルートは高速道路が好きなぼうずにも嬉しい行程でしょう。ドライヴを兼ねたお墓参りなんて罰当たりな話ですがそもそも3つのお墓を1日でいっぺんに廻ること自体が各御霊を軽視する罰当たりな行為のような気もするので今更気にしないことにしました。改めて申しますが別段私に宗教的信心はないのでオッケーオッケー、真剣に思い立った割にはきわめてライトなノリでゴー。線香も手向けの花さえも用意せず、10:45頃自家用車に搭乗し自宅を出発しました。ぶーん。

まずは国道176号線、俗称イナロクを南下してこまし神崎川を渡り、大阪市淀川区へ入ったところですぐに右折すなわち川沿いを西方向へ。阪急神崎川駅を越えて富光寺さんへお参り。ここまで約10km。結婚して3年ほどで旅立たれた妻の母方のお祖母さんの納骨の際以来です。ぼうずと来たのは初めてです。お祖父さんは嫁はんが私と結婚する前にすでにあちらにいらしたのです。ミニチュアシュナウザーのムクさん(敬称付で呼んでいた)を膝に乗せて、奈良の田舎から嫁いできた話、自分は末娘だったから可愛がってもらった、という話を何度も聴かせてくださったやわらかい笑顔を憶えています。南無。

思いがけず道路が混んでいたこともあってもはや11時半。早速ぼうずが腹の減りを訴えて来ました。まぁまぁ待て待て、と言いつつも特に何も考えていない私は第二の目的地・大阪北部の箕面の山中の大阪北摂霊園へ向かおうと意気揚々と新御堂筋を北上したところ予想外の展開、なんと彩都側から勝尾寺へ抜ける府道4号線が山崩れで通行止めになっており、相当の距離を迂回せねばならぬようです。ちょうど腹も減ったし彩都のコンヴィニのイートインで妥協メシ、地図を確認して不慣れな山の中の道路を進み予定の30分遅れで無事目的の場所へ辿り着きました。さきほどのお寺から約40km。
こちらには永らく私が4つの時にどうも医療ミスでなくなったらしい父方のばあちゃんが1人で入っていましたがその22年後、酒と丸秘ヴィデオが大好きだったじいちゃんが久々に寄り添うことになりました。2人ともよく笑う優しい祖父母でした。じいちゃんは81の時に便所へ行く際に転んで頭をぶっつけて寝たきりになるまで、非常にアクティブで実家の個人経営のバールの工場(こうば)から売上金をちょろまかしては中国や豪州へ飛んでいきました。飯の入った茶碗に酔っぱらって酒を注いで飲んではむせていたのが思い出深い。私が止めるまで延々夜中まで居間で喋ってたなぁ。酔った勢いでよく高額なファミコンソフトを買ってもらいました。なんて孫だろうか。ともあれありがとう。南無。箕面の山にはまだちらほらと山桜が残っており綺麗でした。

さてここからは新しい道、3ヵ月前にできたばかりの新名神を使ってここ箕面から京都へ。便利になったもんです。いつもなら吹田ICからふつうの名神に乗っちゃう方が速いのでこんな機会でもない限り新名神には乗りませんからね。新しい道路らしくトンネル中心、おおっトンネル内を白い光がワワワっと追いかけて来ます。あとで調べるとどうやら時速100kmに合わせてドーナツ状の光がトンネル内を走り、スピードの目安を示しているようです。う〜ん近未来〜。私的には目にうるさくってしんどかったけどね。

参った墓の下をトンネルで通過し道路は着物のSちゃんのお膝元(?)高槻JCTで新、の付かない尋常の名神高速道路へ合流します。最終目的地の大黒寺さんは京都南ICで降りた伏見区にあります。めっさ細いのに両方通行の昔ながらの京の街中の道をびびりつつ徐行し、伏見t区役所ちかくのパーキングへ駐車し徒歩3分。箕面から約50km。家から合計するとちょうど100kmの旅路、ようやくゴールです。
嫁はんのお父さんは私達が結婚して5年目に肺がんでなくなりました。元気だったのに早かった。最後は固形のものが喉を通らず、嫁はんと手分けして唯一食べられる森永のミルクプリンを各コンヴィニを探し回って掻き集めたものです。私の評価は最後までよくなかったですが、頼りない私にいろんなことを教えてくださいました。南無。お義母さんは妻が小学校5年生の時に早逝しました。まだ40前でした。元気な時でも165cmの長身の割に39kgと非常にスレンダーで、写真にうつる姿は嫁はんにそっくりでした。嫁はんの父方のお祖父さんも結婚前にはなくなっており、お祖母さんは3年前に大往生されました。ぼうずが生まれた日に産院まで来てくださいましたがにこにこしつつもすでに誰の子なのかなにがなんやら判らない状態でのお越しでした。息子であるお義父さんが先立たれたことは最後まで知らないままでした。南無。

いちどきにいろんな方たちへの想いをめぐらせ、あわただしくもしんみりとした気分でした。そんな私とは裏腹に嫁はんは後日「とにかく数こなして回るだけで故人に対する敬意もなにもなかったな」と感想をこぼしていました。出鱈目な夫で、済まぬ。でも私にとっては線香も数珠も菊も樒もなくったって、大事なイベントだったのだよ。帰りに桂川PAで16:30頃小休止、染井吉野に遅れて咲く美しい枝垂桜に心癒されたのち40kmぶんの帰路を走りました。

往路復路計140kmにおよぶ強引な1Dayトリプル墓参りはこうして無事遂行完了、ただこの日以降しばらくの間どうも体調が悪かったのですがロングドライヴで消耗したのか、それとも供養を軽んじたご先祖たちが戒めになにか働きかけたのか、あるいはたったひとり参りそこねた熊本のじいちゃんの逆鱗に触れたのか・・・ 答えは存じ上げません。たとえ罰当たりであろうが、先人たちにそれぞれへの想いを馳せたこの一日は決して私にとってただの罰当たりではない意味を持ったと思います。信心がないので言葉にするのが難しいのですが・・・ 

まぁ、一口にいえば、単なるやりたがりのあほ、ですね。(オポムチャン 18/7/27)

(寸評)お疲れさん。
俺は面識のある直接の親族がまだ誰も亡くなっていないので(逆に言えば俺が意識した時にはもう祖父や祖母は誰もいなかったってことね)、ほとんど墓参りはしたことないが俺自体が還暦の丘が見えて来たので、そう遠くない未来に墓が実家になることもあるんだろうなあ。
いろいろ考えちゃうね。7ポイント。

はじめての神保町

去年の夏の話です。古本のメッカ、神田神保町に行ってきました。

凄いところでした。教科書に出てくるような作家の書簡とか、直筆原稿が所狭しと並べられていたり、江戸時代の和本などが、ビニール紐で縛られて山積みになっていたり…「ここで手に入らないものは無い」心からそう感じました。

なんたって、たまの自主製作カセットテープとか、ファンクラブ会報まで売りに出ているのですから。

 お店の人もいい人でした。あるお店で、ちょっと高価な本を買おうとしたところ、お店の人が「お客さん、学生さんでしょ。本を買ってくれるのはうれしいけど、そんな高い本を買わせるのも気が引けるなあ。この先の「□□書店」というところで、こういう本が安く出ていたりするから、そっちで買うといいよ。」と教えてくれたのです。みんな本が好きなんだな、そう感じました。(未成年 18/7/27)

(寸評)俺も上京したての頃はよく通ったなあ。あとは早稲田の古本街ね。中央線も古本多いよ。
俺の持っている本のおそらく90%以上は古本屋で買ったもの。あの独特のカビ臭さもなんだか好きなんだよな〜。 6ポイント。

初めての定点観測画像(風景 Then And Now)

波照間エロマンガ島です、こんにちは。
わたしが2000年7月にデジタルカメラを買って最初に撮り始めたのが、時間をずらして同じ場所で同じアングルの写真を撮ってそれを並べて比較する「定点観測」のイデーを持った写真でした。以前、東京恵比寿の東京都写真美術館で鑑賞した「Critical Landscape」という展覧会で100年前と現在の風景写真を並べる写真を観たとき強い印象を抱き、「これならカメラの性能がたとえ悪くても作品を作れるかもしれない」と思いつきました。
その写真とは1850年代の「ゴールドラッシュ」と言われた頃のアメリカ西部の町と現在ゴーストタウンになっている廃墟を並べることにより、時間の推移を表現していてとても驚きました。人間は写ってないのですが「時間」が明確に写っていたのです。


というわけで、今回そのイデーを使った写真を2題紹介。上段左は2000年10月に撮影した東京都港区新橋1丁目にある住友銀行新橋支店の壁面。右の写真は2006年3月同じ場所で撮影したのですが、銀行名が三井住友銀行になっています。2枚の写真が撮られた間、2001年4月に住友銀行がさくら銀行を買収し、三井住友銀行に商号が変わったのですね。何気なく生活しているといつの間にか景色が変化していることに驚きます。

下の段は汐留停車場跡地に建設された汐留ジオシティーの建設風景。2000年10月と2006年3月で同じ場所から見える風景はこれだけ変化しています。これは昭和通りの蓬莱橋南にある歩道橋の上から撮影しました。現在は景観がさらに変化していると思われます。〔現在、タイに移住しているので変化はわかりません、当時は職場がこの近くだったので撮影できました〕

という、初めての「定点観測画像」の巻きでした。(波照間エロマンガ島 18/7/27)

(寸評)俺も歴代で住んだことのある家はことごとくもう無いもんなあ。
ある場所は野原に、ある場所は駐車場に、ある場所はマンションになってるらしい。
風景も人も変わる方が普通だもんね。でもこういうの面白いよね。
自分が今立っている何の変哲もない場所がトンデモナイ場所だったりすることもあるもんね。 8ポイント。

タカちゃんのこと

通りを歩いていると庭に小さなバラ園を設えているお宅が目に留まった。タカちゃんのことを思い出した。
タカちゃんは同じ町内に住んでいた。お姉さんと妹がいて小学校から顔馴染み、同級生のタカちゃんとはよく一緒に下校したりしていた。
タカちゃんちはお金持ちで、お母さん方のお爺ちゃん宅は、県庁所在地で代々成功しているお店屋さんだった。タカちゃんのお父さんはお爺ちゃんとは別に自分で事業をしていた。
タカちゃんの家に行くと玄関の座敷に大きな衝立が置かれていて、夏には襖が簾戸になり庭から奥の中庭が少しだけ透けて見えた。家政婦さんが取り次いでくれたりした。敷地内に別棟で洋風の家があり、親戚が来たらそこに泊まったりするのだそうだ。私たち子供らが遊びに行ったら「あっちで遊びなさい」とおばちゃん(タカちゃんのお母さん)が言われるので、洋館の応接間でソファの上を飛び跳ねたりしていつも好きに騒いで遊んでいた。蔵にはタカちゃん姉妹の好きな漫画が沢山あって、お姉さんはジャンプとマーガレット、タカちゃんはなかよしと花ゆめ、妹はりぼんとサンデー、のように月間漫画も沢山、それから勿論単行本も色んな種類のが山のように置いてあった。私たちはいつもタカちゃんから漫画を借りて回し読みをしていた。
隣の敷地には白い鉄柵で囲われたバラ園が設えてあって、庭師のおじさんがいつも麦わら帽子でバラの世話をしていた。私はそのバラ園が、時々テレビで見る外国の古いドラマに出てくるような雰囲気で好きだった。
タカちゃん姉妹は全然お嬢様気取りでなく、いたって普通で、タカちゃんは漫画好きが高じて中学では美術部に入り仲間たちと同人誌作りに熱中したりしていた。部は違えど中学に入っても私とタカちゃんは時々一緒に登校したり下校したり仲良しは続いていた。
学校帰りにうちに来たタカちゃんの制服のスカートの裾が半分ほつれているのを私の母が見掛け、「タカちゃん、おばさんが纏ってあげようか」とお節介に声を掛けたりしたことがあった。裁縫を良くする母は私の周りではスカート直しおばさんで有名で、当時流行りのミニスカート風に制服のスカートの裾を私の友達に頼まれては、短くなおしてあげていた。でもタカちゃんは流行にも頓着していないようでスカートは長いままだったし、少し恥ずかしそうにして「いいです」と断っていた。
タカちゃんのおばちゃんが「ウチの受験中のお姉ちゃんは行けなくてチケットが1枚余ったからジェレ美ちゃんも行く?」と誘ってくれて、コンサートに連れて行ってもらったことがあった。タカちゃんちの車でおじちゃんが運転しておばちゃんとタカちゃんとタカちゃんの妹と私で隣の街の市民ホールまで行った。歌手の人の熱狂的なファン達がアンコールの手拍子をするのを初めて見知った。素晴らしい歌声のコンサートだった。
その帰りに「ちょっと小腹が空いたね」ということで、タカちゃんちがいつも行っているらしいレストランに寄って帰ることになった。ホテルのレストランだった。お店の人が椅子を引いてくれて座った。メニューが配られるとどれも驚く程高かった。私はコンサートに来るにあたって親から一応お金を持たされていたが、中1ながらここは多分タカちゃんのおばちゃんが払ってくれることが何となく分かっていた。私は一番安い1,000円のアイスリームを頼んだ。アイスが千円もするのを生まれて初めて見た。
アイスリームは銀の脚付きのお皿でやってきた。ひと玉乗っていた。おばちゃんが私の注文を気にしてくれていたが、私は「晩御飯食べて来たから、そんなにお腹空いてない」と言った。タカちゃんと妹はフルーツサンデーを頼んでいて、喧嘩しながらウエハースとメロンを交換したりしていた。おばちゃんは小さなピラフの山の上に、カットされたステーキが乗ったのを食べていた。そんな料理が世の中にあるのも初めて知った。おじちゃんも軽めの食事をしていた。食事をしていると支配人の人がテーブルに挨拶に来た。おばちゃんは座ったまま顔を上げてにこやかに話していた。アイスはゆっくりゆっくり食べたけれど、でもやっぱり皆んなよりもすごく早くに終わってしまった。
後日、母から「あんた、えらい遠慮したみたいだったってタカちゃんのお母さんが言っとったよ」と言われた。私は遠慮をし過ぎると返って人に気を遣わせてしまうことをこの時勉強した。

タカちゃんは中2の途中で引越してしまった。
「引っ越すんだ」という話は事前にタカちゃんから聞いていて、手紙書くねとか電話するねとかお互いに言っていたと思う。半年程してタカちゃんから電話が来たことがあった。居間の電話機で思春期特有の長電話をした覚えがある。お爺ちゃんの住む方の市内に引っ越し新しい学校ではすぐお友達が出来て楽しいようだった。制服もそっちの学校の方が可愛いみたいで、田舎のダサい私たちの物と比べて羨ましがったりした。タカちゃんの新しい家はマンションで、前よりも狭いので妹と2人部屋になっていると話していた。電話はそれきりだったと思う。
受験をして高校に通うのにもタカちゃんちの前は必ず通るのでタカちゃんのことを忘れたことはない。タカちゃんちは程なくして取り壊されていた。あのバラ園も平地にされてしまい、その事が私はとても寂しかった。あのバラを世話していたおじさんは何処へ行ってしまったのだろう。
大人になって実家に帰省した際、たまたま母と話している中でタカちゃんのことに話が及んだ。私は何も知らなかった。タカちゃんのおうちは昔は羽振りが良かったのだけれどお父さんの事業が失敗して大変な借金を負ってしまい、結局家屋敷と土地を売って出て行ってしまったということだった。タカちゃんちの隣の家の人は、夜通し来る借金取りの、とんでもない声や音を連日聞いて過ごしていたらしい。酷いものだったそうだ。子どもの私達には知らされていなかった。母は「タカちゃんがスカートの裾も直してもらえないで学校に行っとったやろ。お母さんはあれを見て不憫でならんかった。タカちゃんのお母さんはいつも綺麗にして外を歩いてたけど。でもあの頃は本当に他のことで大変だったんだと思う」と言っていた。記憶を辿ってみるとコンサートに行ったのはスカートのことの後だったように思う。
タカちゃんちの敷地跡には庭付きの戸建て住宅が6軒建った。バラ園の跡地には2軒建っている。(ジェレ美 18/7/27)

(寸評)お金持ちでも「一生お金持ちのまま」の家の方が少ないのかもね。
俺は生まれてから一度も持ち家に住んだことの無い低空飛行の貧乏人なので、落ちてもせいぜいホームレスだ(笑)。
なんかちょっと切ない話だったね。 7ポイント。

はじめての佐賀県

九州周遊券を使って佐賀市へ行ったとき、大隅記念館や佐賀城址を見に行った。
街の中のBHへ泊ったったなあ。
「葉隠」とか知らない時代でした。
日本海側の名護屋城址へ行ったけど、記念館が開館終了していて、昨年念願かないやっと再訪した。(わいわい 18/7/27)

(寸評)たまがアマチュアの時に佐賀でライブやって、初めておっかけのファンまでいてスター気取りでお店を出たら、泊まるところがない。
公園で寝ようとしたら蚊の大群。
結局、佐賀駅で新聞紙敷いて寝たなあ。でも思い出に残ったから良し! 5ポイント。

はじめての長崎県

飛行機で訪れ、しらみつぶしに市内を観光しました。
五島列島も大好きで、北から有人島を一つずつ観光し南下して、福江に上陸した時点でタイムアップ。なんだかんだで五島列島は全部見るのに三回かかりました。
友達とも行ったし、結構訪れる回数が多い県。
史跡、名所も多く、とてもじゃないけどニ、三日で見て回ることはできない。路面電車が残っていることも素晴らしい。 平戸や五島列島の隠れキリシタン跡地をめぐりに巡った。隠れキリシタンの人たちとその伝統文化は危機的に瀕しており、高齢化、死去などで祭事が行われなくなった集落も多く、実査、巡検をするのであればギリギリの時期に入ってきている。今回の世界遺産登録で調査、研究が進むことを祈る。
食べ物・・・カステーラ、きびなご(わいわい 18/7/27)

(寸評)長崎も宿泊費が無くて映画館のオールナイト上映で朝まで過ごしたなあ。
夜中にジャッキー・チェンの「プロジェクトA」の中で何度もまどろんだ。 5ポイント。

はじめての大分県

大分空港からレンタカーで別府や九重へ訪れた時。
広々とした明るいいい県だと思った。
中津城や宇佐八幡宮へはまた行ってみたいと思う。
九州の食べ物は、沖縄・・・・・・ヤギ、鹿児島・・・豚、熊本・・・馬、宮崎・大分・・・鳥、鹿児島・・・豚骨、とそれぞれ動物で分かれている。(わいわい 18/7/27)

(寸評)国東半島からさらに船で渡った姫島には二度ほど行った。
盆踊りの名物の伝統「クロンボ踊り」は多分、今はニュースでは流せないだろうな。 5ポイント。

はじめての宮崎県

寝台列車で延岡から高千穂へ向かった時。始発列車に乗ってうとうとしていたら高千穂橋梁で列車を止めわざわざ眼下の川を見せてくれた。こわいこわい。
高千穂や天の岩戸などを見た。そして前にも書いた一人定期観光バス体験。
日南は風光明媚な明るい土地。
クルスの海とか細島とか渋いところも好きです。(わいわい 18/7/27)

(寸評)山奥の寺で二回ほどライブをやった。ライブ後は境内でお客さんと盛大な打ち上げ。
あそこは車がなければなかなか行けない土地だったな。
ジャカジャカマコチエレコッジャ! 5ポイント。

初めての関節技

先日、幼いころから通っているカイロプラクテイックセンターで起こったことです。

そこの先生はカイロプラクテイックのベテラン施術者でありながら、少林寺拳法の師範でもあるという2つの顔を持つおじさん先生でした。

顔はとてつもなくコワモテなのですが、ユニークで、おしゃべりが大好きなかたで、施術後はいつも(一方的に)世間話をしていました。

その日は少林寺拳法の話になり、ちょうど盛りあがったころです。先生がおもむろに立ちあがり、私の右手首をつかみ「左側に逃げてみなさい」と言ったのです。言われたとおりにすると…。

激痛!激痛!!激痛!!!
え、
なになになになに!
いぃったあぁぁァァァァ!!!

関節を避雷針に、何万ボルトものカミナリが一気におちてくるようでした。今まで体験したことのない痛さで私はパニックで、悶えていました。

それなのに先生は得意げに笑って
「これが関節技や(ドヤ顔)」

いやいやいやいや!知らんやん!頼んでねぇよ、お願いしてねぇよ、じゃあなんだよ、サービスかよ、いらねぇよ、クーリングオフだわ!…と心の中では激しくツッコミをいれていたのですが、あまりの痛さゆえに口からはうめき声しかでてきません。痛くて痛くて涙がでてきて、わきめもふらず泣きました、22歳の本気涙です。

ちょうどそのころは不慣れなパソコン作業で右手首を痛めており、先生にもそれをお話し、施術していただいたあとでした。それがもう、施術前よりもひどく痛み、最悪のビフォーアフターとなりました。(どんな匠の技だよ!)

私がまだぐずってるのにも気になさらず、先生は笑ってそのまま拳法のお話をされていました。私は痛みと涙でぐちゃぐちゃで、とにかく帰りたいの一心でその場を過ごしました…。

そんなこんなで今、私は右手首にサポーターをつけています。サポーターが蒸れます。夏です。(ワタナベ 18/7/27)

(寸評)治った頃にまた関節技をかけ・・・それを施術し・・・治った頃にまた関節技をかけ・・・それを施術し・・・その繰り返しでその先生は一生儲かり続けましたとさ(笑)。
ギャヒ〜ン、御愁傷様です・・・。 7ポイント。

初めての気送管(エアシューター)

波照間エロマンガ島@バンコクです、こんにちは。
わたしが気送管(エアシューター)を初めてこの目で見て使ったのは1985年前後でした。場所は地方のラブホテルで、です。
気送管(エアシューター)というのは、専用の筒の中に書類などを入れて管の中を圧縮空気もしくは真空圧を利用して輸送する手段を言います。私が勤め始めた一時代前の1970〜1980年代前半頃は大企業ではよく用いられていたとのことですが、実際に目撃したことはありません。社内LANを使ったイントラネットシステムが構築される前のアナログ時代の遺物ですね。なかなか当時としては近未来的なツールだったと思います。

私が初めて目撃した1985年頃でさえじゅうぶんオールドスタイル(つまり1970年前後の万博時代から見た未来のようなセンス)で、「おぉぉぉぉ、これかっこええ!!!」と興奮したものです。ラブホテルはまぁできれば誰にも会いたくないものなので、ルームキーを発鍵機で手に入れ、その部屋に入り「行為」をし、終わったあと部屋を出る、その際に部屋でエアシューターに現金を入れてホテル代を精算するというシステムで流行したのでしょうね。

また機会があればお目にかかりたいものであります。今生活しているタイ王国にはこんなものは過去も現在も存在したことはないと思われます。だって清涼印象水の自動販売機がタイで出てきたのがわずか数年前のことなんですから!(波照間エロマンガ島 18/7/9)

(寸評)レトロフィーチャーっていいよね〜。
ところでタイは流石だ。清涼飲料水じゃなくて清涼印象水があるのか。
象の鼻から出た水かな? 7ポイント。


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