ドキドキドキリコ初体験(91)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント?ー(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめての授業を抜け出して抜き出した(※ 下ネタ・閲覧注意)

ここのところこんなネタばっかりで誠に恐縮です。でも誰も読んでないと思うので好きにやらせていただきますね(笑)。

私は自分のことを性欲異常者だと思っていたのですがどうも世間にはもっと滅茶苦茶な方もいらっしゃるようだ、と次第に悟り、ああよかった、と安心するのと同時になぁんだ、私もみんなも誰しも性のけだものだったのか、とつまんなくなるというかしょんぼりしちゃうというか、己の凡庸さにため息が出る、みたいな気分になるのです。

ですから本投稿のようなことはおそらく皆様ご経験であるとは存じますが、どうぞ青春、もとい性春の1ページとして懐かしんでいただければ幸いです。

11歳でセルフサーヴィスを自己流で発見して以来、私の頭の中はそらもう四六時中助平なことで満たされ続けていました。
そのうち単に適切な部位に刺激を加えるだけでなく、どうやらそういった気分を盛り上げる媒体を閲することでサーヴィスがよりいっそうはかどることを発見し、その頻度はいや増しました。中高の頃はなぜかそんな気分でもないくせに授業中に意味もなく気合の入る某部位に困らされたりしました。あれは一体なんだったのでしょう・・・ 困った私は素因数分解の問題を脳内で作成、数字とムキあう、もとい向き合うことでそいつをしょぼませる技を習得、どうにかエヴリタイムもっこり君などという不名誉なニックネームを頂戴せずに学生時代をやり過ごすことができました。

そんなウブな悶々野郎のタガがおかしくなった日が、ありました。
高校3年の前半、私は部活の後輩となんの性的接触も無いまま別れ、日々をもやもやと過ごしていました。もはや受験も目の前、毎日の授業は大学の合格対策用に内容が絞られてきていましたが、そんなことよりうずく我が身です。ずっとずっと夢想してきた、女子高校生との、それ。ところがいざお付き合いをしてみると、汚すのがこわくってなんにも出来ない。ましてや毎日顔を合わす部活の後輩、下手なことをすれば皆に噂が拡がってしまいます。そのうえ真面目な私はコーソクイハンの不純な異性との交遊に踏み切ることに、躊躇していたのかもしれません。こんなに身体は求めているのに。臆病な心がミュートをかけるのです。

やはり私は一生涯きむすこがお似合いなのかな。といじけて教室の後ろの方でぼんやりしていたら、クラスのぼんやりしたまつ毛の濃い女の子が教壇に腰を掛けました。

美しい、白の三角地帯が顕現しました。

嗚呼。中学時代はみんなブルマ穿いててスカートの中はおしなべて鉄壁の防御が敷かれていたというのに、高校に入ってからは防御を捨てる女子がなんと増えることか!!? あ、ちなみに嫁はんはふつうにブルマ防御を続行してたそうですが。ありがとう、ぼんやりまつ毛さん。ていうかそんな20秒も30秒も閲覧許可してくれなくっていいんだよ。だれか注意したれよ。いや、するな。断じて。むくむくむく。嗚呼。御馳走様。

視線の端で素敵なホワイトスクエァをロックオンし続けた私の悶々ブレインは、ついに故障し始めました。
幸せな、しかし苦しい休み時間も終わり、古文の時間になりました。受験前の大事な時期、ここで要所をしっかり押さえておかないとあとから取り戻すのが大変です。が。

オポ「せ、先生。ちょっとトイレに行ってきていいですか」
古文教師「大丈夫? 行っといで」

いかにも腹がいたそうな顔をして、私は教室を抜け出しました。
なにも腹を下して厠へ行きたいわけではありません。もよおしたのは、別のものです。
こんな時期に、こんな理由で、授業を抜け出すなんて、何を考えているのでしょう。無論、ナニを考えているのです。
授業時間中の誰も居ない廊下を、他のえらい先生方に見られたとき用に腹イタの芝居をしながら、私は男子手洗いへ向かいます。

辿り着いた手洗いには、もちろん誰もいません。静寂に包まれた、他の教室からも遠い、手洗いの個室。
溢れる背徳感。こんなところで。こんな時期に。こんなことを。
瞬く間に私の彼は勢いを増しました。
そういった気分を盛り上げる媒体は、所持していません。しかし、先程の眩しいばかりの白の三角が、しっかり眼球に焼き付いています。
この脳内保存媒体と強烈な背徳感によって、私の手指は高速で某部位を盛り上げます。某部位もそれに応えて、ぐんぐん愉悦を感じはじめます。

ンンンンンンンンッ。

和式の手洗い器の奥底に、私から放たれたなにかがぽしゃりと当たりました。
なんという強烈な、罪悪感。それに反比例するような、快感。なんかこっくんさんの投稿みたいだな(笑)。いったいお前は学び舎で何を学んでおるのだ。いいじゃないか学び舎でナニを学んだって。
私は憑き物が落ちたような顔で教室に戻りました。「大丈夫?」「大丈夫です」と一言交わして、自分の席へ。

それ以降、私はこの行為をすることはありませんでした。あまりに自分の中で衝撃だったので、これにハマるともうどこかへ足を踏み入れて帰って来れなくなりそうだったからです。手洗いには誰もいなかった。そんなことをするのは私ひとりだったということは、やはり私は常軌を逸脱した変態じゃないか。と、思ったからです。が、きっと皆さんも、これくらいのことは内緒でしているのでしょう。ね。

懐かしんでいただけたでしょうか? ・・・あれっ?? おーい、おーーーーーい。・・・また誰も居ねぇ。(オポムチャン 18/3/12)

(寸評)俺は学校ではないけどビデオが無かった時代、できるだけ空席の多いピンク映画館に行って座席でしてたよ。
まずはトイレでゴムを装着し、ズボンの上から時に激しく時にさわさわと画面を見ながら。
人に気づかれないように、背徳感も満載。
ゴムの中に発射してるから後処理も簡単! 8ポイント。

初めての家宅捜索

それでは今日は、あまり皆さんが体験した事がなさそうな、とっておきの私の初体験をお話しさせて頂きたいと思います。もう何年も前の事ですが。
私は某コアラの国に在住していまして、日本での事ではありません。

夫と犬を連れてこの町に引っ越して来た時、まだ住む所が見付からなかったので、犬連れOKなキャラバンパークに長期滞在していました。
キャラバンパークとは、キャラバン(車で牽引する移動式住居)がたくさん置いてあって、そのキャラバンを借りて滞在する事が出来る宿泊施設です。
私達が借りていたのは、キャラバンより少し大き目のキャビンでした。キャビンは四角い小さな箱みたいな部屋で、部屋の中にコンパクトなキッチンとベッドが付いています。それと小さいテーブルを置いてるスペースもあります。トイレとシャワーは外にある共同のを使います。

さて、ある夜、キャビンの中で私はパソコンでテレビ番組を観賞中、夫は自家製チーズを作っていた時の事です。ドンドンドンと、やや荒くキャビンのドアを叩く者がありました。なんだなんだと夫が出てみると、それはなんと警察でした。 令状を持って、「覚せい剤所持の疑いで、家宅捜索をする!」というではありませんか!
ゾロゾロと狭い部屋に3人の男性警察官が入って来ました。私はなんだか訳が解らずにポカーンとしました。夫も「えっ!?覚せい剤?何で!?」などと言ってました。
私は覚せい剤なんてやってないけど、もしかしたら夫は持ってるのかも!?夫にはジャンキーの友達がいるし、もしかして・・・・!?
警察官は、「覚せい剤など、何か違法なものは持っているかね?」というような事を訊きました。夫は「いいえ。何も持っていません。」と答えます。
本当だろうな!?もうほんとに、隠し持っていたとかやめてよ〜!と私は神に祈る気持ちでした。
警察官は、「家宅捜索中は、絶対に外に出てはいけない。ここにじっとしている事。」と言いました。
うわーー!トイレに行きたくなったらどうしよう!とドキドキしましたが、気分はまさに、まな板の上の鯉です。言われるままに大人しく座ってるしかありませんでした。

3人の警察官は家の中を色々調べ始めました。部屋の中には洗濯前の使用済み下着類(布ナプキン含む)なども丸めて置いてありました。も、もしかしてそれらも広げて見られるのか!?やめてーー!それだけはやめてーーー!!!あなた達もそんなもの見たくないでしょー!?と絶望的な気持ちになりました。
もう怖いし恥ずかしいし、見ていられなかったので、警察官達には背を向けてずっと座っていました。
なので家宅捜索の作業はほぼ見ていません。頭が真っ白なまま、夫と2人で壁を見つめて座っていました。

そして10分か20分か30分か覚えていませんが、家宅捜索は思っていたよりずっと早く、終わりました。
結局何も見付からなかったようです。
よかったーーー!!

夫が「でも何で覚せい剤所持の疑いなんですか?誰かが通報したんですか?」と訊いてましたが、「それは答えられないなぁ」と警察官は言ってました。

家宅捜索って、もっと壁を剥がされたり、マットレスを切り裂かれたり、部屋の中をぐちゃぐちゃにされるんだと思っていましたが、全然そんな事されませんでした。むしろ「ちゃんと探したの?もっと隅々まで調べた方が…」と思うくらいでした。
考えてみれば、私達の態度などから「こいつらはシロだな!」と分かったんじゃないかなと思います。なのであまり隅々まで見られなかったのかなと推測します。
それに本当に小さい部屋だったので、そんなに探す所もなかったのかもしれません。普通の自宅だったらもっと時間がかかったでしょうね。

ベッドに、古着屋で買ったレトロで可愛い布団カバーを掛けていたのですが、それを見た警察官の一人が「これと同じ布団カバー、昔うちにあったよ!」と言ってました。

さて、晴れて無罪放免!警察官は「エキサイティングな経験だったね!」と言って帰って行きました。
「疑ってごめんね」とか、謝罪はないんかーい!

でもほんとに、何も出てこなくてよかったとすごくホッとしました。
そういうわけで、無実なのになぜか覚せい剤所持の疑いで家宅捜索された体験記でした。
覚せい剤所持の疑いで家宅捜索なんて、のりピーやASKAさんと一緒で、箔が付きました。(マドレーヌ婦人 18/3/12)

(寸評)「エキサイティングな経験だったね!」ってお前らがしたんだろーが(笑)。
でも冤罪で変なことにならなくて良かったね。
例えば自分たちのことが嫌いな人がいて、その人たちがイケナイ物をこっそり家の中に投げ込み犯罪者に仕立て上げられることだってあるかもしれないもんね。
俺もそういう目に合わないように今後もビクビクしながら小市民でいよーと。 8ポイント。

初めての両国国技館

波照間エロマンガ島@バンコク在住です。
私が初めて両国国技館に行ったのは1990年代のある日でした。しかし大相撲の本場所や格闘技イベントの観戦ではありません。
理容師美容師の資格実技試験の採点用紙(マークシート)のとりまとめで行ったのです。当時勤めていた会社の仕事で、でした。

相撲中継で観る大きな室内に、理容師さん美容師さんの卵が実技試験している模様は壮観でした。

ただし一日つめていたわけではなく、マークシート用紙を取りに行くというおつかい業務だったので1時間くらいしか滞在しませんでしたが、国技館の通用口とか執務室とか、力士やレスラーの控え室などはけっこう記憶に残っています。

そんな初めて両国国技館に行ったという話でした。(波照間エロマンガ島 18/3/12)

(寸評)そういえば俺多分両国国技館に行ったことないな・・・。
両国のライブハウスには若いころ通っていたのでよく横は通ったんだけどな。
たまデビュー当時に柳ちゃんがテレビかラジオで言った「相撲取りだった石川さんを見つけてメンバーにした」というジョークが信じられていたこともあったな・・・。 5ポイント。

初めて東京ドームのグラウンドに降り立つ(2007年3月2日

) 波照間エロマンガ島@バンコクです。
わたくしが初めて東京ドームのグラウンドに降り立ったのは2007年3月2日でした。都市対抗野球大会に出場したわけでもアメリカ横断ウルトラクイズに出場したわけでもありません。

世界らん展を観に行ったのでした!!



たしか友人に誘われて行ったのだと記憶しています。有名な華道家の假屋崎省吾先生の作品が馬鹿でかく陳列されていましたよー。
そんな東京ドームのグラウンドに初めて降り立った話でした。(波照間エロマンガ島 18/3/12)

(寸評)昔、假屋崎省吾先生がまだほとんどテレビに出てなかった頃に雑誌の企画で生け花をしたら他の人たちまで呼んですげー褒められたことがある。
生け花の茎に他の草花をブランコ状に垂らしたのだ。
生け花も極めたり! 6ポイント。

初めてのスノーケリング

初めての本格的スノーケリングは、沖縄県与那国島でした。日本最西端の島ですね。

業者のダイビング・ボートで沖合まで出て、フィン、マスク、スノーケルを付けて、ドボンです。タンクは付けません。 与那国島は海底遺跡が有名で、どう考えても人間が作ったとしか思えない人工遺跡が海底に沈んでいます。

http://www.rurubu.com/sight/image/J0072120a.jpg(参考URLるるぶ.comより)。2018.2.25アクセス。

この海底遺跡を見に行ったんですねえ。
これは人が作ったものか、自然にできたものか・・・。
古代ロマンです。
帰路はボートから糸を垂らして、釣りをしながら港へ戻りました。(わいわい 18/3/12)

(寸評)これ俺も不思議だった。
中に竜宮城とかあるんじゃない? 6ポイント。

初めての岩手県

社会人同期の友だちとクルマで訪れた小岩井農園から田沢湖、そして雫石の旅でした。
雫石のYHへ泊まったところ、夕食が弁当で友達が激怒(笑)。
普段から大人しい友人だったのでこっちがびっくりした。怒ったというより文句言っていただけなんですけどね。
小岩井農園の牛乳美味しかったー。
二泊三日の旅でした。(わいわい 18/3/12)

(寸評)すごろく旅行で二戸に行った時「この町では全員偽関西弁で会話する」というクジが出て、「あんたらどこから来たの?」と地元の人に話しかけられた時「わてら埼玉からでんねん!」と妻がすんげえ下手な関西弁を喋ったのが記憶に残ってる。 6ポイント。

初めての秋田県

一人で訪れた秋田博物館-男鹿半島か、電車で訪れた五能線か、友達三人で訪れた寝台列車か。。。んー寝台列車説を取ります。
高校の友達とその友達の仕事場の友人と私。高崎か熊谷から寝台列車「あけぼの」。B個室を取ったというに「車内販売は?」「食堂車は?」とうるさいうるさい。そんなものないわ。
象潟で途中下車。タクシーで、地震で引上がってしまった象潟と芭蕉ゆかりの蚶満寺へ。
その日は秋田市に泊まりました。秋田の繁華街で飲んだ後三人でカラオケへ。安室奈美恵を歌った。
友達二人はその後夜の街へ消えていったのは、ここでは内緒。(わいわい 18/3/12)

(寸評)たまのツアーの空き日にお忍びで来ていた漫画家のSMさんらと玉川温泉に行ったなあ。
高知県出身のスタッフは30歳過ぎて温泉というものに入るのが人生初で激しい湯あたりをしてぶっ倒れていたなー。 6ポイント。

初めての山形県

鉄道で訪れた山寺。
もちろんてっぺんまで登りました。
絶景に感動。たまこんにゃく美味しい。
そのあと山形城址など回って、山形YHに泊まりました。
山形は全ての市町村に温泉があるのですが温泉には入らなかった。今では考えられない旅。(わいわい 18/3/12)

(寸評)一昨年やったソロの山形ツアーでは蕎麦好きの俺の依頼を主催者が聞いてくれ、三日間毎日いろんな蕎麦屋で蕎麦を堪能した。俺は信州より山形蕎麦の方がより好きだね。
山深いところにある名もないお寺が副業でやっていた蕎麦が一番旨かったな。
山寺も何回か行ったことある。高校生の時やすごろく旅行で。 6ポイント。

初めての肩書き紹介

こんにちは、波照間エロマンガ島@バンコクです。
先日、バンコクにて淺井カヨさんの「モダンガールトークショー」を観覧したことは「私のまわりのおバカさん」(40)に投稿しましたが、実はこのトークショーでわたしはある「初体験」をしました。

ショーが始まる数時間前、打ち合わせに同席していたときのことです。ライブハウスのオーナーのOさんがこんなことを言いました。「トークショーのときコメンテーターとして石川さんといっしょに舞台に出てもらえないですか? なんか面白いと思うんで」「えー? いいっすよ。でも何しゃべればいいんですか」「まー、そのへんはノリで、何でもいいのでアドリブでしゃべってください」との由。Oさんはバンコクで12年も沖縄料理レストランを経営しているので、バンコクのタイ人や日本人にわたくしが何かアピールするものがあると踏んだのでしょう。そのようなオファーとなったわけです。

さて、トークショーが始まりました。わたしは石川さんと並んでステージの端にちょこっと座りました。カヨさんは、モダンガールが日本に生まれた時代背景などをスライド資料を交えてわかりやすく説明しました。その中で石川さんはちょこちょことスクリーンの該当箇所に指を指したりして自然にアシスタント的なことをしていました。

そんな中、カヨさんは90年前のモダンガールの洋服のレプリカを作ろうとチェンマイ市内のオーダーメイドの洋服屋さんを探したときのエピソードを始めました。「…それ以来、毎年チェンマイを訪れて洋服を仕立てています。値段は安いですし、何より旅行期間中に洋服ができるので重宝しています」と説明したあと、「実はそちらの石川さんのとなりに座っている男性がお店を探すのを手伝ってくれました。当時はチェンマイに住んでいて土地勘があり、いろいろサポートをしてくれて感謝しています」と言ったのち、びっくりするような「自己紹介」ならぬ「他己紹介」をしてくれたんです。

「この人は波照間エロマンガ島さんと言いまして、石川さんが20年近くやっている投稿型ホームページがあるのですが、そちらで『投稿王』なんです」と。

おおぉぉぉぉぉ!!! 舞台上で初めて「投稿王」と紹介されてしまいましたよー!!

マイクを渡された私はちょっと舞い上がりましたが、思いつくまま話しました。
いはく、この10年間毎年2月にチェンマイに友人たちがやってきて有機的なつながりが持てたこと。その中で石川さんやカヨさんと知り合えて本当によかったことを話しました。そして石川さんやカヨさんは日本国内でも相当にユニークなキャラクターとして活動して有名だが、実は二人とも世界的に見ても最先端でユニークな活動をしていると確信している、これからも応援していきたいと申し上げました。

トークショーはそのまま良い余韻を残しつつ終了しました。

このホームページ内だけでしか通用しない「投稿王」という言葉が、外部のパブリックなスペースで発せられたということはよくよく考えるとすごいことなのではと思います。あ、勿論わたしがすごいというわけではなく現象として見て、ですね。という初めて「投稿王」の肩書きを舞台上で紹介されたという話でした。(波照間エロマンガ島 18/2/26)

(寸評)まずほとんどのお客さんはこのホームページを見ていないだろうし、タイ人のお客さんもいたからね。
「投稿王・・・?」という感じだったかもね。
何人かでもその後このホームページを見て偉業が判ればいいのだが(笑)。 7ポイント。

初めての海外旅行part2

初めての海外旅行は高校二年の時の韓国でした。
4日間ずーっと付いてくれていた韓国人ガイドさん。若くてかわいいです。
途中、私は「なんで日本語のガイドになろうと思ったのですか」と聞いたことがあります。
ガイドさんは「なんでそのことを聞こうと思ったのかな」と逆質問されました。
もちろん「なんでそんなこと聞くんだよっ」的な問いではなく・・・うーんうまく言えないのですが「面白いことを聞く子ね」みたいな。

この逆質問がとても印象的で印象に残っています。(わいわい 18/2/26)

(寸評)俺が初めて海外旅行に行ったのは新婚旅行の香港だったな。
当時はたった一度しか使えないというパスポートがあって「もう貧乏なうちの夫婦が今後海外に来ることもないだろう」とそのパスポートでふたりで行った。
まさかその二年後、仕事でヨーロッパを飛び回るなんて想像だにせずに。 6ポイント。

初めての旅先でのラジオ収録見学

わいわいが近畿地方を一周したときの話です。一週間ほど群馬-北陸-若狭-京都-和歌山と車で走り、田辺から熊野古道へ。熊野古道を散策しながら夕方の19:00ごろ紀伊の本宮町へ着きました。
本宮町は、熊野大社や川をせき止めて作られた露天風呂「仙人風呂」がある観光地です。小さな町なのですが、町民が次々と体育館or市民ホールへ入っていきます。お祭りをやっている雰囲気ではありません。

私は車を駐車場へ入れ、係員へ聞いたところによれば、NHKラジオの公開収録を行うというじゃありませんか。わたしは興味津々となり町民でもないくせに収録を覗くことにしました。
椅子はパイプ椅子でした。---ということは体育館だったのかな。ホールは満員です。
時間になりADさんが出てきて収録上の諸注意や拍手の仕方を練習します。
ややしてNHK男性アナウンサーが登場。
アナ「それでは本番をはじめます。私が話しますので、手をこうあげたら思い切り拍手をお願いします」
と指示、お願い。
シーンとする会場。
アナ「こんばんわ。NHK上方演芸会の時間です。NHKアナウンサーの××です。どうぞよろしくお願いいたします」
さっと手を挙げるアナウンサー。
私たちはわーっと一斉に拍手。
アナ「・・・という風にお願いしますね」
とバラしました。
私たちは大爆笑。NHKでもこういう小ネタをやるのですね。

この番組は、NHKラジオの「上方演芸会」という番組でした。のど自慢のように全国の市町村を回り、お笑い芸人が二組ネタを披露するという30分番組です。
アナ「それでは本当に本番をします」
ADさんの、5、4、3、2・・・とのカウントダウン。
アナウンサーはさっきよりも元気なテンションで、
「上方演芸会の時間です!」
すぐにBGMが流れます。
「こんにちはNHKアナウンサーの××です。どうぞよろしくお願いいたします。本日は和歌山県本宮町に来ています」
さっと手を挙げ、私たちは拍手。
「本宮町は・・・・」
と町の説明、案内をします。
二組は、一組は夫婦漫才の正司敏江・玲児さんでした。残念ながら玲児さんは2010年に亡くなられてしまいましたね。 あと一人は覚えていないのですが、男性の漫談だったか、落語家の方だったかピンの方でした。

幕間や最後にはいろいろフリートークが行われ、一時間くらいで収録は終わりました。
本宮町のような小さな町では、このような芸能人が来るのは珍しいのでしょうね。

私は21:00ごろから小雨の中車で新宮市へ抜け、串本まで走り潮岬で車中泊をしました。夜中の山道をよくこれだけ走ったなあ。
帰宅してからいつ放送するかチェック。一か月くらいして無事聞くことが出来ました。(わいわい 18/2/26)

(寸評)ラジオは簡単でいいんだよね。
テレビだとカメラリハーサルとかいろいろでエラい時間がかかるからね。
たま時代はテレビ収録というと半日も拘束されることも多かったのでみんなショージキ乗り気じゃなかったね。 6ポイント。

初めての北海道

石川さんご承認のもとの連続もの(笑)
クルマや電車で通っただけ、途中下車しただけ、というのは除きます。

小さい時母親と飛行機で芦別へ行ったとき。
飛行機で千歳へ。
親戚の人に言わせると、芦別駅前の観光案内版をじーっと見つめていたことが印象的だったそうです。
一人では、周遊券を使い函館から冬の函館本線で長万部へ向かった旅。雪に覆われ真っ白の大沼、小沼、駒ケ岳が素晴らしすぎて、これが北海道かと思った。
宮脇俊三さんも、北海道に入ってすぐのこの景色を絶賛していましたね。(わいわい 18/2/26)

(寸評)芦別は映画「野のなななのか」のロケで一週間ほど滞在した。
長万部はそこから二股ラジウム温泉に柳ちゃん夫婦とうちの夫婦で混浴して一泊してキツネと遊んだなー。 6ポイント。

初めての青森県

クルマで下北半島へ行ったとき。
下北半島を逆時計回りで。仏が浦から大間崎、そして尻屋崎へ。尻屋崎は開園時間が過ぎていてクローズ。残念。
夕方一気に太平洋沿いを南下。三沢方面へ向かって走ったけど、とにかく人家がなくて寂しくて寂しくて泣きだしそうになった。
人と話したくて、小さな集落の雑貨店へ飛び込み、なんでもいいので買っておばあちゃんと話した。こんな寂しい風景は、北海道にはない。
どちらかというと北海道は「ザ・大自然」という感じなんですよね。(わいわい 18/2/26)

(寸評)青森の下北半島の下風呂温泉は結婚前に妻のボーナスが出たのでそれを使ってふたりで行ったな。
最近だと数年前に「青森」の地名発祥の地である善知鳥神社というところに呼ばれて境内でライブやった。
夏泊半島の凄い民宿の話は俺の「すごろく旅行のすすめ」というのに書いたので古本屋で見つけて読んでくだせえ。6ポイント。

はじめての家族で北陸旅行と思たらなにこれ呪われてるのか私ちょっとおいおいおい待て待て待て待て

新年を迎えてのある日のこと。家族旅行というものをまったく自分から提案しない自宅大好きっ子の私に抗議する意図を持ってか、嫁はんが私に提案をして参りました。

狸子「なぁおいオポムよ」
オポ「何じゃいな」
狸子「ぼうずももうすぐ小学校やろ」
オポ「せやね」
狸子「こいつ新幹線好きやろ」
オポ「好っきゃねぇ」
狸子「小学校入ったら、新幹線運賃要るよな」
オポ「ハッ・・・・・・!!」
狸子「この1〜3月が、ラストチャンスやで」

そうです。JRの旅客規約では、てかたいがいの交通機関は小学校に満たない子供は単独で座席を使用しない(膝に乗っけるとかね)限り運賃が掛からないのです。
つまり裏を返せば小学校に入っちゃえば膝に乗せようが袋詰めにして網棚に置こうが(するかいなそんなこと)、おおむね大人の半額が掛かってしまうため、遠くへ出かけるには今が一番のチャンスと言えるのです。言えましょう。

しかし春休みに入ってしまえば各地とも混雑が予想される。これはどっかの連休にでも先んじて済ませてしまうにしくはない。
てなわけで、乗ったことのない新幹線に乗れる、いままで私が行ったことがない場所。東北? ちょっと遠すぎる。じゃぁ北陸! ちょうど新しいW7系のブルーのかっこいい新幹線に乗れるじゃないかいな。しかも北陸地方に行くにはJRで北陸乗り放題切符、なんてなトクトクきっぷをやっとるやないの。こらええわー。ほいで春休みよりも手前の連休、2月の10日(土)〜11日(祝)で行ってきて12日(休)はうちで旅の疲れをのんびり癒そうではないか。そないしょうそないしょう(標準語訳:そうしよう、然うしよう)。

さてそうと決まれば電車の時間や宿のこと、旅行先で何処を訪れて何を喰うか、仔細に予定を組まねばなりません。嫁はんはそういった作業が嫌いですので私が組むことになります。まかせとけまかせとけ、と安請け合いしていっつも無茶苦茶になるのですがね・・・。ひとまずは直近の休日にショッピングモールへ赴いて、慣れない雪国対策に長靴やあったかインナーを揃えることから開始しました。

そして私は1月中旬からヤフー乗換案内さんとグーグル検索さんを活用して家を出る時間・北陸に着く時間・飯を喰う場所・訪ねるスポット・そこへ至る交通手段と所要時間をあれやこれやと検索・研究、なんやかやと頭を悩ませました。私も家大好き超インドア派なので、こういった細々としたプランニングは大の苦手。しかし嫁はんぼうずをろくに旅行にも連れて行ってあげていないという負い目があるので無い脳味噌をしぼって検討、嫁はんが起きているうちに許可をとって旅程を組み上げていきます。

オポ「ここの温泉宿やったら安いねんけど、なんかこの安さがかえって怪しいよな・・・」
狸子「加賀温泉とか言うけど、べつに今回は温泉にこだわらんでもええよ。金沢21世紀美術館と福井の恐竜博物館さえ押さえれば」

あっ、その2点だけでええんや。などと意見を擦り合せてゆき、どうにか苦労の末おおまかなタイムスケジュールが組み上がり、あとは適切な宿を確保しないとな・・・ と思った矢先に1月22日、どうも調子がおかしい。だるい。起きていられません。日課の手淫も投稿も忘れて寝てしまう。2日連続で。寝ても怠さがまるで抜けない。24日命からがら車で職場から帰るとお熱が38°C、わちゃぁ。インフルエンザに罹患した私はまる4日部屋からほぼ出られず、パソコンが触れないため宿も取れずにただただ文庫本を読み返し、とことん惰眠を貪り、ひたすら手淫に耽りました。

大きく後れをとった、さあ宿の確保だ、と思たら私のインフルがぼうずに伝染、園をほぼ1週間休むことに。私に続いてぼうずの世話を1日中焼かねばならなくなった嫁はんの疲労はピークに達し、私が宿を選んで許可を得ようとしても疲れ果てて眠ってしまっているために決定できません。しかもインフルで出遅れたせいで駅から近くて安い宿はあらかた予約でいっぱいで、しかも禁煙ルームはどこも満室。わぎゃぁ。
私は事後承諾で喫煙可ルームでもう押さえてやろうと思いましたがなんだか男の第六感がやめとけ、と申すので念のため嫁はんに確認すると、

狸子「ぜったい無理。いま喉の調子が滅茶苦茶わるいねん。旅先で喘息がひどくなったらどうにもならんわ」

・・・・・・聴いといてよかった。嫁はんは冬場に咳喘息がひどくなるのでした。そんななかで煙草の臭いが大嫌いな嫁はんが喫煙可能室で寝るなんて不可能、喫煙しか無かったらもう旅行は中止しよう、とまで言っています。
私は必死で検索条件をいじくりまわして探せばなんのことはない、朝飯抜きプランなら禁煙のツインルームはまだいくらかありました。よかったぁ。宿を確保して一安心、最後に切符を予約しましょう。
・・・・・・やっぱり出遅れは効いていました。もう北陸の乗り放題ゾーンまで行く特急サンダーバード号の指定席はどれも満席です。だってもはや10日前だもん。JRのe5489の会員登録をしてどうにか帰りの特急の指定席は確保、行きは始発駅の大阪で朝早くから並んで自由席を奪い取ることにしました。ネットで決済を終え、2月2日の仕事帰りに天王寺駅みどりの券売機でチケットを発券。15枚も出て来やがんの。さーてあとは10日を待つばかりだなー、と楽しみにしていた矢先に今度は疲れた嫁はんにぼうずのインフルがものの見事に伝播、4日(日)未明に39°Cなんて結婚してから見たことも無い高熱をマークしてこれまた見たことない衰弱っぷり、インフル連鎖のできあがりです。神よ。

ずぼらな私は家事を厭って、働きたい意志がある嫁はんを専業主婦にしています。そんな嫁はんが倒れるとどうなるか。家じゅうの機能が停止します。
私は日曜の朝から合唱団のお休みの連絡、自治会の委員会の欠席連絡と提出書類の手筈、洗濯、掃除、買物、飯作りに奔走、細い身体でいつもこんな大変なことをこなしてるのか、なんと偉大な嫁はんなのだろう、と驚愕、そのほとんどを手伝ってこなかった我が身の身勝手さを悔いました。病院に行くにも12時間経たないとヴィルスは検出されないので午前診は無意味、狼狽しつつ混乱しつつ半泣きで日曜午後から開いてる数少ないクリニックをパソコンで探して私は午前診だけの病院を勘違いして午後も開いてると誤認、よろよろの嫁はんを車に乗っけて連れて行った挙句当然の如く「本日の診察は終了しました」の掛札。私はこれほどまで己の粗忽さを悔いた瞬間はありませんでした。ふたたび車中で診察してもらえそうな病院を探すも時刻は16:40。しかもなめたことに私は知らなかったのですが家から歩いてたったの3分の場所に休日医療センターというところがあり、おまけに診察時間は16:30まででした。泣きっ面に包丁持ったシャブ中。私のメンタルはめった刺しにされました。

なんで? なんで旅行に行こうと思ってからこんな立て続けにトラブルが続出するの?? なんかわし悪いこと、した???

とはいえすべては己のせい。ベソをかきつつ嫁はんをベッドに戻し私は残っている洗濯物を取り込み、自分とぼうずの飯、嫁はんのおかゆと味噌汁を作成、このままでは明日に誰も嫁はんを病院に連れて行けないので職場の店長に午前休を取らせてほしい旨連絡、ぼうずも家に置いていても仕方ないから幼稚園にやりますが帰りのお迎えは私が勤務のため出来ないので実家のおかんに依頼、園の連絡帳に祖母が迎えに行くと記載、ぼうずを風呂で丸洗いし寝かし付け、洗濯機を予約してバタンキュー、朝6時に起きたらなんでか洗いは済んでるけどすすぎと脱水ができてないまま電源落ちとるやんけ、あわてて実行、ぼうずを叩き起こし飯を喰わせ、プラスチックごみをかき集め袋を縛り、布団をコロコロクリーナーで清めたうえ収納、服を着替えさせてゴミ袋持ってダッシュ、集積場に叩きこんでぼうずを幼稚園バスにライドオン、きびすを返して家に戻り掃除機、皿洗い、さあ洗濯干しと思たら驚愕、嫁はんは1日で熱が36°Cまで下がったと言います。私がこんな調子なのであまり長患いすると家が滅茶苦茶になる、と本能的に思ったのかもしれません。

ともかく洗濯物をどうにかでっちあげ、嫁はんを掛かり付けの呼吸器内科へ。私が院内に居るとまた余計な病気を貰ってしまいそうなので待機&診察中は車でその辺をうろうろ。もはや熱が下がってヴィルスは出ていなかったけどこの症状からしたらインフルだろう、と。薬局でイナビルを処方され即吸引、8回も吸わないといけなくって難儀したそうです。嫁はんを家のベッドに届けてから私はここしばらくバタバタしててやりそこねの手淫を手早くちゃっかり敢行ののち車で出勤、そう、2日サボると体調をくずしちゃう変人ですのでね。ごめんなさいね。誰に謝っとるねん。

仕事を定時で切り上げ実家へ向かいぼうずを回収、飯を馳走になりゴーホーム、嫁はんは怠さは残るもののもう動けるようになっていました。私が頼りないばかりに早期復活するなんて・・・ 苦労かけるねぇ。さぁあとは5日後に迫った出発日に、全員万全の態勢で臨めるか、という段階でニュースの時間。北陸道が記録的大雪のため通行止め、国道8号線では1300台の車が立ち往生、3日経っても同じ場所にいる、という恐ろしい映像が。私はあわてて週間天気予報を見ると、なんとちょうど10日と11日は気温が上がっているではありませんか!! 私は運の良さだけはいいのです。
ところが出発日が近づくにつれ雲行きはどんどん怪しくなり、北陸行きの特急サンダーバードは連日運休、数年に一度の最強寒波は北陸に居座り続け福井では例年の7倍もの積雪、おまけに2日目に予定していた恐竜博物館のある勝山市は山側の為にもう世界的な豪雪地帯で唯一の交通手段であるえちぜん鉄道がストップ、博物館も当然臨時休館です。しかも10日に一旦気温が上がるは上がるけど逆にそれを起因とした融雪洪水、落雪による被害が出る可能性が高い、とニュースされ、最後の最後まで行く気満々でいた私の心はようやっと、ぽきりと折れました。

負けや。わしの、完敗や・・・・・・・・・。

私は失意の中キャンセル料なし期間ギリギリの2日前にホテルをキャンセル、翌日9日は準備のためにお休みを取っていたので朝からJR大阪駅の払戻専用窓口で北陸乗り放題切符15枚を返却し全額返還、これも手数料は無料にしてくれました。そこだけは唯一の救いでしたが、それにしても・・・・・・

なんじゃ、こりゃ?
  だれか私が寝てる間に、へんなアイテム装備させたぁ? 「おぽむは のろわれてしまった! ♪ずだんだずだんだずだんだずだんだどぅーーどぅるる」なんてメッセージと効果音、聴いてないんだけどなぁ(※元ネタはドラクエです)・・・・・・・・・。また3月にでも、リベンジしようと思います・・・。(オポムチャン 18/2/26)

(寸評)わぁ、これは不幸・・・だが。
このスピード感溢れる文章、素晴らしい。
今回は内容ではなく文章に10ポイント!

はじめての「・・・・・・バカ・・・ な・・・・・・ こ、この私が31ポイント、だ・・・と・・・・・・・・・ ん?」

2018/2/20。毎月5と20は投稿王の日です! 私はこの半月の投稿の成果がどれだけポイントに反映されてるんかなぁ、といつもうきうきしながらこのコーナーを覗いています。ちらっ。げへへ。てな具合に。溢れてやまぬ変態臭。あっち行けしっしっ。

そんな私は前回2018/2/5の更新で嬉しいことに18000ポイントに到達し、同時に21000ポイントに到達された投稿の大先輩・波照間エロマンガ島さんのお変わりないポイントゲッターっぷりに敬服し、続々と登場するニューカマーの皆様をとても嬉しく思い、またこのペースで行くとわいわいさんはいつ私を飛び越えてくださるのかなぁとか考えながら、幸せな気持ちで黄色と白の画面をにこにこ眺めておったのでした。気色の悪いおっさんですね。

その時印象深かったのが、私とエロマンガ島先輩のポイント差が3100ポイントであったこと。懐かしいなぁ、2年前。毎日はぁはぁ言いながらネタも無いのに投稿を乱発し続けて血眼な私を慮って、エロマンガ島さんは2016/3/5に1000ポイント使用でまだ500ポイント以上差があった私に念願の投稿王の冠をかぶせてくださったのです。そこで私は己の狭くなった視野を拡げて頂き、周りの方々に感謝して、ネタも無いのに闇雲に投稿をひり出すのはもうよそう、と投稿のペースを落とすことにしたのでした。
その2年前、2位に戻った段階で約13000ポイントでしたので、年間およそ2500ポイントのペースになっていたのですね。・・・・・・って、今更気づきましたがそれでもたいがいなペースですね〈笑〉。投稿1年目は4286ポイントだったので、確実にペースは落ちてはいるんです。それが証拠に、ほら、私と投稿王との差は約2500ポイント増えて3100ポイントに。・・・ってこれも気づきましたが、確実にエロマンガ島さんの投稿のペースはこの2年でアップなさってますよね〈笑〉。1年で1000ポイント以上差が開いてゆくのですから・・・。もうこの際、どこまでも誰も追いつけない高みにまで登り詰めていただきたいです。というかすでにもうなってる説〈笑〉。

そんなポイントキチガイの私、投稿王を獲得した直前は意識的にペースを落としていたので半月のポイント獲得がほぼ無かった時期もありました。ただここ最近は関西と九州でそれぞれ10000ポイントを使用してマンマンコージを開催するんだい、という新たなモチベーションをこさえ、少し投稿ペースを上げてきたところでした。そんな折。

2018/2/20の投稿王2位の私の数字は、18121ポイント。
前回2/5の数字は、18090ポイント。

私は我が目を疑いました。
引き算しましょ、えーと、31ポイント。

・・・・・・・・・
私も、落ちぶれたなぁ・・・。
思えばこの2月はクイズにいっこも正解してないし、私の得意技であった「ファイブクエスチョン」も他の投稿者さんの投稿数が多くなってきたのとネタ切れで掲載数も減ったし、「王様の耳はロボの耳」も話題10点ぶん投稿する体力も無くなってきたし、当然と言えば当然の結果か。20000ポイント目指して再奮起したというのに、半月で31ポイントとは、なんてザマだ! 最盛期には半月250ポイントをマークしたほどのキチガイだったのに〈←さすがにやり過ぎ〉、もっとしっかりせぇ、私。

・・・ん? でもまてよ。
この2/6から2/19まで、ボーナスポイントのインディアンケートが2回あった。たしか5問全問答えたら20ポイント貰えたはず。
それに2回とも全部答えてる私は、最低でも40ポイントは増えていないとおかしい・・・?

よし。今回はこれをネタにしたれ〈笑〉。私は2018.2.4のファイブクエスチョンでも書いたようにまじめにポイント計算をしたことがほとんどありませんが、なぜか今回は気になってしまったのでご容赦ください〈笑〉。
ポイントが掲載時に付与されるという前提で考えると、

2/6 「王様の耳はロボの耳」 話題2・3・36・43・166に掲載、5 × 3ポイントで15ポイント。
2/7、2/8、掲載なし。
2/9 「インディアンケート」 1166〜1170に回答、5 × 4ポイントで20ポイント。
2/10、掲載なし。
2/11 「私のまわりのおバカさん」 1点掲載、8ポイント。
2/12 「ドキドキドキリコ初体験」 1点掲載、7ポイント。
2/13〜2/15、掲載なし。
2/16 「インディアンケート」 1171〜1175に回答、5 × 4ポイントで20ポイント。
2/17 「王様の耳はロボの耳」 話題1・7・17・39・337・344・376に掲載、7 × 3ポイントで21ポイント。
2/18、2/19、掲載なし。

この期間の「俺の日常クイズ」は全問不正解&不回答。合計すると・・・・・・ ジャン! 91ポイントです。つまり何らかのかたちで私の60ポイントは消滅している、ということになります。
とはいえ、こんな素敵なワンダーランドでタダで遊ばせてくださる石川さんには果てしなく感謝&敬愛しておりますので仮に60ポイントをポイされたところで激怒して私投稿辞めちゃう、とかも今更ありません。おそらく理由がなにかあるのでしょう。

1:私がなにかしら投稿上でご負担を発生させたため、手数料として徴収。
2:最近投稿内容がおもろないので、もっと頑張りましょう的な意味合いで減算。
3:前回の表示が実は60ポイント多く間違って載せてしまっていて、今回の更新で調整。
4:タイにいらっしゃるためパソコンが思うように動かず、計算が困難化し誤算。
5:単に計算し損じちゃった。テヘ☆

というわけで、どちらに該当しますか〈笑〉? 原因が判明してもお手間でしょうからポイントはそのままで結構です〈笑〉。自分ではそれなりにポイント稼いだなぁ、という実感があったのでビビったんです。こんなことまでネタにする卑猥な野郎で、どうも申し訳ございません。(オポムチャン 18/2/26)

(寸評)えーと、投稿王に「手計算なのでミスも時々あります。その際は気軽に連絡くだ さい。」と書いてあります。
他の事情のある場合は個々にメールをして説明しています。
最近も、とある人に「この投稿はこのコーナーではなく別の〇〇のコーナーの方がふさわしいのでそちらに変更させていただきます」と連絡しました。
60ポイントは加算しておきますね。 3ポイント。

初めて石川浩司さんと「マイミク」になる(2005年5月15日)

オールドSNSと呼ばれて久しいmixi(ミクシィ)。FacebookもTwitterもなかった時代、一世を風靡しました。

わたくし波照間エロマンガ島は2004年8月4日に入会して現在も継続して利用しています。石川浩司さんとは2005年5月15日に「マイミクシィ」(相互フォロー関係)になりました。他の多くのSNS同様にリクエストメールを送り、相手が承認すれば「マイミク」になることができるシステムになっており、めでたく有名人の石川さんとつながったのです。とてもドキドキドキリコしましたがうれしかったです(ニコニコ)。

きっかけは2005年4月に石川さんがミクシィに入会し、全体公開の日記を書き始め、それに私がコメントを書いたり、メッセージを送ったりするようになってからだと記憶しています。


今回、あらためて石川さんのページに行って、初めてわたしがコメントした日記を探しましたよ。あったー! 2005年5月16日にアップした「今回のカルタ」。このホームページでもコンテンツがある「おまぬけカルタコレクション」を紹介してました。

当時の石川さんはまだミクシィを始めたばかりで日記ページは試行錯誤しているようでした。そのうちにホームページのコンテンツをコピペして西暦2000年の同じ時期に書いていた「テキトー日記」を「5年前日記」とタイトルを変えて日記ページにアップするのが定例化していきました。

リアルの石川浩司さんに会うのはここから4ヵ月後の2005年9月15日、ニヒル牛2で行なわれたオフ会でした。その話はいつかしたかもしれないのでここには書きません。という初めて石川さんと「マイミク」になった話でした。(波照間エロマンガ島 18/2/26)

(寸評)ミクシィもねぇ、コミュニティとかは素晴らしいし他にないものなのでもうちょっと復活してくれると嬉しいのだが。
マイミクの人数が最大1000人というのもそれが近くなってきた時に承認許可を厳しくせざるを得なかったしね。
ゲーム部門とかは好調らしいので再度の復活を望みたいね。6ポイント。

初めての貴乃花光司

こんにちは、波照間エロマンガ島@バンコクです。昨年末より次から次へと不祥事が起き、世間を騒がせている相撲界。闇が深いですね。はてさてこれからどうなっていくのでしょうか。

さて、今日のお題は「初めての貴乃花光司」です。といっても、元日本相撲協会理事の貴乃花親方の現在の話ではなく、はるか30余年前、親方が相撲界に入門する前、明大中野中学に通うころの花田光司少年の話です。
当時わたくしは東京都中野区に住んでおりまして、住んでいたマンションの3軒となりが藤島部屋(のちの二子山部屋)でした。ご存知貴乃花親方の父上の初代貴ノ花利彰が引退後創設した相撲部屋です。入門前の光司少年はこの藤島部屋の母屋に住んでいました。入門前からちびっこ相撲で有名で、小学生の頃からガッチリした体躯をしておりました。

ある日のこと、わたしは地下鉄丸の内線の方南町支線に乗るために中野坂上駅で電車を待っていました。自宅のある中野新橋駅は中野坂上から1つ目の停車駅です。電車がホームに入線してきてドアが開くとわたしは空いているシートに座りました。そのとき「事件」が起きました。
わたしが座った隣に一人分の着席スペースが空いていたのですが、そこに学生服の花田光司がやってきて着席したのです。しかし、花田光司の身体の幅に対してシートの空いているスペースが微妙に狭かったせいで。

わたしは花田光司にぶちかまされてしまったのです!!

正確に言うと、花田光司の右肩から腰、下半身にかけた部分が、わたしの左半身全身に異常な勢いで当たって接触してしまったのです。すごい摩擦で耳が千切れるかと思いました。このとき感じた痛さは30余年経った現在も忘れはしません。花田光司とわたしは身体がぴったり接触したまま、一駅分電車にて移動しました。

ところが、このクソガキ、おっと花田光司少年はまったく謝ろうともしません。ガン無視を決め込んでいます。わたしは驚き呆れましたね。なんなんだ、こいつは。明らかに自分が接触して隣の乗客の身体に当たっているのに謝りもしない。こいつはクソだ、と。ろくな大人にならないだろう、と。

以来、花田光司が入門し貴花田として土俵にデビューし横綱まで昇進しましたが、わたしはこのときの恨みはけして忘れず、同じ町内に住んでいましたが、いっさい応援することはありませんでした。思い返せばこのとき、花田光司の無表情でぶっきらぼうな感じは、昨今相撲協会の理事会で椅子に深く寄りかかりふんぞり返ったときの貴乃花親方の表情と同じだなと思いました!!やっぱりろくな大人にならなかったんでしょうか…。

そんな「初めての貴乃花光司」の巻きでした。(波照間エロマンガ島 18/2/12)

(寸評)おおっ、そんなことが!
今や渦中の人の過去の恨みはらさでおくべきか・・・ですな!? 8ポイント。


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