ドキドキドキリコ初体験(90)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント?ー(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

初めて雑誌グラビアページに登場(1985年、22歳)



大学時代、毎日のように新宿や六本木のディスコや酒場に入り浸ってました。そこで知り合った人の流れで雑誌宝島(1985年12月号)の冒頭グラビアに登場しました。22歳のときのことだと記憶しています。というわけで、ピックアップした写真ページのどこかに波照間エロマンガ島が写っています。さてどこにいるでしょう(笑い)。正解は言いませんー、悪しからズー。(波照間エロマンガ島 18/2/12)

(寸評)おぉ、俺もどの人かは分からないが生粋の遊び人だったんだな〜。
グラビアを飾ったのが俺より早い! 7ポイント。

信号長調査のアルバイト

初体験の報告、これが初体験です。
もしよろしければ、少々お付き合い下さい。
今回は学生の時にやった楽々アルバイト「信号長調査」のご報告です。

交差点などでカチカチやってる交通量調査を何度か体験した後の事です。
交通量調査もそうなのですが、朝がめちゃくちゃ早く確か都内に6時集合でした。
始発に近い電車に乗っていきました。今回も交通量調査のつもりで来たのですが、
今回は信号長調査をして下さいと。信号長、つまり青信号の時間を測るとの事。
実際場所に7時開始です。そして測るのは7時〜19時までの12時間。
ものすごく気が長くなる。。。と思いきや、実際測るのは1時間に1回だけ。
交差点の二方向を測るだけなのでものの5分程度でした。そしてあと55分は休憩。
近くにたまたま図書館があったので本を読んで過ごしました。
つまり拘束時間12時間、うち実働1時間、11時間休憩で約2万円のバイト代を頂きました。
かなりおいしいバイトでした。
ちなみに交通量調査は3人1組で2時間やって1時間休憩×4ターン、渋滞長調査は信号長調査と同じ感じで、
拘束時間は長いですが結構おいしいバイトだと思います。(よこよこ 18/2/12)

(寸評)俺はバスの乗降客調査のバイトをやったが始発から終バスまで乗りっぱなしの超過酷な労働だった。
ちなみにディズニーランドが出来る前の浦安でのバス調査。
そちらは楽で良かったね〜。 6ポイント。

 

初めてのカラオケで「君が代」

2018年1月修論提出を終えた中国人留学生たちと大学近くのカラオケへ行きました。

中国人留学生はどういう曲を唄うかというと
・日本の曲
・日本の曲をカバーした台湾、中国人歌手の曲
・中国の曲

となります。メロディは分かるのでしょうが詞の内容まで分かるの、と質問したらだいたいわかるとの事でした。
いつものように大学校歌(応援歌は最後に〆る)を肩を組んで唄うと、日本の国歌を唄ってくれと言われました。
「えー知らないの? youtubeなので入っているでしょ」
「メロディはなんとなく聞いたかもしれないけど、よくわからない」

カラオケで「君が代」を唄うなんて初めてでした。最後にきちんと歌ったのはいつだったかなあ。高校や大学、スポーツで歌った記憶がないからもしかして中学の時までさかのぼるのかも。なーんだ4年振りか(うそ)。
サークルのバカ連中(日本人)と酔った勢いで入れた記憶があるかもしれないけど、あれは笑いながら聞いていただけだしなあ。
曲はちゃんとあり、マイク片手に歌いました。
彼女らの感想。
「短い」
・・・え、それだけですか(笑)。
私も代わりに中国国歌唄ってよ、とお願いしていろいろ探してくれたみたいですが中国国歌は入っていないようでした。 貴重な経験でありました。(わいわい 18/2/12)

(寸評)確かに短い・・・。これで印税(?)同じや!
しかもあんなにスローテンポなのにね。 6ポイント。

 

初めての利尻富士登山

私が初めて本格的登山をしたのは利尻富士でした。
利尻富士は標高こそ1719mですが、海抜ゼロメートルから登り、かつ日本最北端の離島という過酷な環境から富士登山よりもキツイ山と言われます。

さてさてここから投稿するため当時のYHのスタンプ帳を見直しました。今は無き利尻グリーンヒルYHに泊まった気もするし、山麓野営場のケビンにも泊った気がするし。
ユースホステルスタンプ帳を見ると、前日は礼文桃岩荘泊。翌日は利尻グリーンヒルのスタンプが押されています。確かに受付のおばさんに「桃の踊り踊ってもらおうかしら」とか言われた(礼文と利尻はライバル島である)のでYHに泊まったことは間違いありません。記憶では山麓野営から登った気が・・・別の年だったのかなあ。。。
誰も興味がなさそうなので、とっとと筆、いやパソコンを進めたいと思います。

港からタクシーで山麓のケビンへ。朝一で荷物を整え、午前五時ごろ登頂を開始します。当日は晴天。こりゃ縁起がいいぞ。山の湧水をペットボトルへ詰め、快調に登攀。長官山を経て、快晴の中午前11時ごろ山頂へ到達。そこで写真を取ったり、お昼を食べたりして30分ほど過ごし、下山開始。
途中展望台では、オーストラリアから来ていた若い女性と会話。まるごとトウモロコシを食べていました。海外ではトウモロコシを生で食べるのかあ。
登りも下りも結構登山者がいて、賑わっていました。
午後二時ごろ無事下山。下山証明書を記入。ケビンに置いてあった荷物を回収しタクシーを呼んで港へ帰りました。

あーこの時バスを間違えて、ヒッチハイクをしたのかも(前ヒッチハイク編参照)。実家に戻って資料をあさればなんとなく分かるのかもしれませんがすみません。(わいわい 18/2/12)

(寸評)俺はまだ富士山にも登ったことないんだよなあ。
もっとも六合目の先の宝永火口までは行って、そこでライブをやったことはあるのだが。
半ズボンでギター抱えて歌う俺に、本格的登山の人たちが横を通って呆れてた。6ポイント。

はじめての大人淫フル? (※下ネタ閲覧ご注意)

ここんところ仕事の瑣末な作業が入って多忙、うちに帰って来ても疲れちゃってぼうずの寝かし付けをしてる間にうとうとと眠ってしまい投稿もほったらかしで朝を迎える、という日が2日も続いてしまいました。これはいかん。以前にも書きましたが私は日課の手淫を2日もさぼると身体に変調をきたしてしまい、だいたい風邪をひいてしまうのです。睡眠時間的には22時〜6時と8時間も寝るわけでいつもの4時間半〜5時間の短い眠りと比べれば非常に健康的な筈なんですが・・・・・・どうも仕事でチョンボを連発するなど良く寝た(いや、常識的に寝た)日はもひとつ調子が上がらないことが多いのです。

昨今睡眠負債などと不気味な警告が流行っている世の中の流れに真っ向から逆らう愚人の生活。そう、私はポイントキチガイ。平日の夜は眠気の限界まで文量のわりに内容スッカスカの投稿文を考え、即書き、石川さんにメール送信し、ご覧の皆様から嫌がられるという(笑)一連のムーヴが定番なのです。それが崩れてしまうと、あっなんか全身に倦怠感が。あかん。あれっ? なんかどうもこのだるさ、しつこいぞ。寝て起きてもぜんぜん解消されない。なんて私の人生において日課の手淫は大事なのだろうか、と今更追い炊きのように追い手淫をかましてもあとの祭り、具合は悪くなるばかり。 とうとうまともに通勤するのも辛くなり自家用車で出勤、窓口で忙しく立ち働いているうちはいいものの、終業間際でお客さんが減るとてきめんに消耗が露呈し、ふらふらと1時間早退してしまいました。途中信号待ちで何度か気を失いそうになりつつもどうにか帰宅、床に転がるとにわかに倦怠感が上昇、これはあかんやつや。と、体温計を測れば38.4°C。ぅわっちゃぁあ。これ、アレちゃうん。

行きつけの内科は幸い開いている時間帯、徒歩10分の行程をよろよろ低速車で5分。開いてはいるが空いてない。1時間待って診察されるまでに今度は吐き気まで襲ってきます。厠へ走るもモノは出て来ません。苦しみつつ医師に現状を伝えるも「熱出たの今日の夕方でしょ? インフルは発熱後12時間経たないとウィルスが検出されないから、また明日の朝おいで。胃薬出しとくから」とのこと。なんじゃいそら。そういうもんなんかい。パスッと注射でも打ってもらってすぐ楽になると思っていた私の思惑はおもいきり外れました。
翌朝だるさは若干薄らぐもほぼ変わらず、車で医者へ、鼻の穴をコチョコチョってされて「申しわけないけどこの感触はインフルエンザじゃないと思うわ」と言われ院内の簡易ベッドで寝っ転がっていると5分ほどでまた診察室へ呼ばれ、「ごめん、インフルエンザです」だとよ。ええけど最初の「申しわけないけど」の意味がよう解らんぞ。誰が悪い方を期待するねん。たはは。ほいで看護師さんから衝撃の宣告、今日から4日間可能な限り一つの部屋から出ないように、とのこと。さほどにこのウィルスは感染力が強力だというのです。職場は解熱後48時間経てば出てよし、と。ああ、店長に早速電話しな。最速で復帰は月曜だな・・・。

ご覧のとおり無知もはなはだしいところですが何を隠そう、私は幼稚園以来40のおっさんになるまで、インフルエンザというものに永らく罹患していなかったのです。あほには伝染らないものだと信じ込んでおったのです。毎年周りで罹患された方の噂を聴いて、ああ、繊細な方々は大変じゃのう、と完全に他人事、予防注射などもってのほか、満員電車でもマスクをせずに傲然とふんぞり返っていたのでした。それがなんだ、40になってやはり抵抗も落ちて来たのか。手洗いうがいには気をつけてはいましたが日々のバランスの悪い食生活に慢性的な睡眠不足、それに歳が追い打ちをかけたのでしょう。あとたぶん手淫不足。
昭和52年組は今年は本厄だから無神論者の私も珍しく正月から神社にもお寺にも詣でたのに。なんやぼんやりしたお願いせんと「インフルエンザに罹りませんように」って具体的なこと言うたらよかった。どっちも賽銭50円しかやってへんけどね。だいいち今年はワクチンが初手から足りなかったから、患者数自体が多くて余計に私の罹患率を上げたのかもしれませんね。

薬局ではじめて「リレンザ」という吸入式のお薬を5日分いただきました。銀のディスクを専用のおもちゃみたいな吸入器に装着し、装置のツメを立ててから一気に吸入! 湿気にめっさ弱いからお薬に穴開けてすぐ吸わんとダメなんだってさ。というか初めて見るおくすりだからいろんなことがおもしろい、お薬の入ったディスクは4つのふくらみがあり、それぞれに粉末のお薬が入っていてその単位が「ブリスター」。鰤星? はじめて聴いた単位やわ。1日2回で1回2ブリスターずつ吸入・・・ へんなの。作ってる会社がグラクソなんちゃらだから、グラクソのブリスターってなんか響きが厭だなぁ。ははは。んでこのリレンザは「ザナミビル水和物ドライパウダーインヘラー」で、1ブリスター中にザナミビル水和物をザナミビルとして5mg含有、らしいです(笑)。宇宙語過ぎておもろなってきた。1日で4ブリスター付いたディスクは使い切りで、使用後ふくらみのまん中に穴があいた様はさながら4つのオパーイのようでした。

さて木金土日の4日間、ほぼ1つの部屋から出られない。枕元に文庫本は大量に持ち込んだものの、困るのが手淫事情です。その、ほれなんちゅうか、お菜、ちゅうんですか? パソコンから隔離される以上、円滑な完遂の手助けとなるものが存在しないのです(笑)。
しかし私はあきらめない。苦しい時こそサボってはいかん。詳細を記すことは控えますが、私はお菜なしでフィニッシュに至る新技を根性で開発、40にして新たなる奥義を習得したのです。嗚呼! こんなシンプルな方法がまだ残っていたなんて!! たまには病気もするもんです。
・・・・・・結局、熱は土曜の朝には引いて監禁生活の後半2日は元気だったのですが、元気不元気にかかわらず私はこの4日間、お菜もなしに新奥義による手淫にたいへん励み、計10回もの回数を重ねたのでした。もしかするとこの行為により精神に大きないやし(いやらし??)効果がもたらされ、回復を早めたのかもしれません。調子が悪い時には心にうれしいことを積極的にやるべきだ、というのは私の信条です。信条なのですよ。ていうかなにを偉そうに40のマスカキをいっしょけんめ正当化しとんねん(笑)。

そういえば昔から調子を崩して学校を休んだ時は、もう11歳頃から手淫に励んでたなぁ。中2の林間学舎でまる1日医務室に居た時もそうだった。それにしても4日で10回はちょっとおかしいなぁ。淫な気分で脳味噌がFullになってしまう「淫フル」エンザに罹ったんじゃなかろうか、と疑いもするような、40の手淫パラダイスとなったはじめての大人になってからのインフルエンザ罹患体験でした。いまは元気に出勤してます。家族や会社に迷惑かけちゃったので、今後は反省して日課は堅守します(笑)。もうええっちゅうねん。もうええ中年なのに(笑)。(オポムチャン 18/2/12)

(寸評)うわぁ、その方法知りたい!
もしかしたら回春の秘策かも!? 教えてーん。 7ポイント。

はじめての凍る視界

寒うござんす、冬でござんす、ひゅるるるるるるん。昨日も今日もよう冷えますねぇ。北風小僧の寒太郎もそこいらで野垂れてそうな勢いの寒さですね。
そんな寒さにめっぽう弱くなっちゃった貧弱な40のおっさん、白目を剥いて蒼い顔で地べたにころがる寒太郎を避けつ躱しつ、ちょうど去年の今頃のそらぁ寒い寒い夜の出来事を思い出しました。

当家のぼうずは当時5歳。卵白アレルギーや小児ぜんそくこそ患いましたがいずれも比較的軽度なもので、あとはちょこちょこ風邪ひいたりするくらいのものでここまでまぁ無事に成長してきました。乳児の頃に比べると夜泣いたり咳込んだりして眠れないことも随分減ってきて、我々も平和に睡眠を摂れる頻度が増えてきた矢先のことでした。

夜中の11時半。ぼうずが突如泣きだしました。
このぼうずは夜中に泣き出すととにかく嫁はんを蹴りまくり、そのうえまるでコミュニケーションが成立しなくなるのが特徴で、泣くのと暴れるのに必死で意思表示がぜんぜん出来なくなるのです。ゆえに単に小便がしたいのか、どこか痛いのか、息が苦しいのか、怖い夢を見ただけなのか、同じように見えてその時その時でまったく原因が違うので対処方法はこちらが推測して動くしか方法がないのです。わちゃぁ、始まった。今晩、寝れるかな・・・・・・

嫁はん「どしたの、お腹痛いの」
ぼうず「ぅううう、うぅううぅうぅぅう〜〜」
オポ「小便したいんか、便所連れていったろ」
ぼうず「ううぅ、ううぅうぅぅううう〜〜〜」

早くも「う」の字がゲシュタルト崩壊を起こしそうになっていますがもうほんまお前は生まれてこのかた「う」しか喋らんかったんかい、という具合に見事に「ぅううぅううぅぅ〜〜」しか発音しません。
とにかく膀胱に小便があろうがなかろうが問答無用で暴れるぼうずを抱えて厠へ。泣いても怒ってもパンツを下げてひとまず小便をさせねばなりません。こんな寒い夜に布団を小便まみれにされては後始末の際に凍てついてしまうからです。 あいかわらず意思表示はなく、泣きもって「うぅ(略)」しか言いません。単なる小便ではないようです。これは困ったぞ・・・。

深夜12時を過ぎても、1時を迎えてもぼうずは泣きやみません。熱はない。咳もしていない。風邪でもぜんそくでもない、とするとどこか痛いのか? もしくは気持ちわるいのか? 答えはぼうずにしかわかりませんが、当のぼうずは正解を黙秘したまま。これ以上泣かせ続けるのは可哀想だ。また我々の精神も持たない。嫁はんも伴って車で20分ほどの隣の市の広域こども急病センターへ向かおう、という結論に至りました。

うぅうぅ言うぼうずをだっこし階段を下り、玄関開けたら極寒の冬の夜。さっっっっっっっっっっぶ!!!!! 北海道や東北の方に怒られそうですが、夜間でも大阪で氷点下になることは稀で、たかだかその程度の寒さでも身体に耐性がないのです。さぁぼうずをこども急病センターへ・・・・・・

私は自家用車を見て戦慄しました。フロントガラスが一面、凍り付いているのです。
もちろん冬の夜ですからそんなことも普通に起こり得るでしょうが、私はそんな状態で車を運転したことはありません。急がないと。でも対処の方法がわからない。お湯? 馬鹿馬鹿、そんなものすぐに用意できない。沸かすまでに時間がかかるうえに2階まで上がって鍋を抱えて下りてくる、という段階で慌てた私が転んでアッツアツの熱湯を女房子供にスプラッシュ、という不吉極まりない未来予想図がドリカムでもないのに歌えてしまいます。てかそら地獄絵図。

私はとっさの判断でフロントガラスにウィンドウウォッシャー液を発射し、ワイパーを左右させましたがまったく歯が立たず、ワイパーがゴリリゴリリと厭な音を立てただけでした。完全に傷んだ音です。こうなったらこれしかない、と私は庭の水撒き用の水道の蛇口をひねり、キンキンに冷えた水を両の手にすくい、ダッシュしてフロントガラスにぶっかけました。いくら冷水とは言えども、水は氷よりも温度が高いから融けるだろう、と思ったからです。その行動に効果はありました。フロントガラスを覆っていた氷の層が一部崩壊しました。しかし一部だけです。
もうこれ以上ぼうずと嫁はんを待たせていられません。私は一部だけ視界が開けた車で、文字通り見切り発車でこども急病センターへ出発しました。

車中の暖房は全開ですがそう簡単に暖かくはなりません。前方もあいかわらず視界が極端に制限されています。私は運転しながら極端に身をかがめてどうにか前が見える状態をつくりだしました。悪足掻きにワイパーを作動させますがゴーリゴーリと悪くなる一方で氷は融けません。
そのうちぼうずがようやく喋れる状態になりました。

嫁はん「どう、どっか痛い?」
ぼうず「いたくない」
嫁はん「もう、病院いかなくても大丈夫なん?」
ぼうず「いかなくていいかも」

はにゃにゃ!!? ここまでして、ここまで来てそう来たかぼうずよ!!! しかしこれほど泣き続けたのです、なにかしらの不調があるといけないので限られた視界のまま私はこども急病センターへの道を進み続けました。暖房ガンガン&ワイパー(←すでに半破損)攻撃が徐々に効果をなしてきたか道程なかばでようやく氷が崩れはじめ、視界が7割がた回復しました。これでもうすこしスピードも出せそうだ。良かった。

倍近く時間が掛かって、ようやくこども急病センターに到着しました。けろりとしているぼうず、果たしてなにか症状は出ているのだろうか。事故覚悟でここまで来て原因不明でなにも処方されず帰るのが一番馬鹿馬鹿しいのですが。まぁ何もないのに越したことはないんですけどね・・・
と、私が車を降りた瞬間、けろりとしていたぼうずが嫁はんの衣服に、げろりとしました。

真っ白な、雪のような吐瀉でした。

液体状ですからもう上着に染みてゆくしかなく、どうにもならないまま上着をビニルに入れて車中に残し、嫁はんはガクガク震えながらぼうずを抱え院内へ。私も呆然として後を追います。
このぼうず、生まれてはじめての“吐き気”に対して、その状態を形容する言葉を持っていなかったのです。ゆえに、我々に訴えようもなかったのです。

結果何かしらの細菌による吐き気、ということで決着、まともに喰らった嫁はんもその後数日吐き気に悩まされましたが抗生物質なりを処方され、どうにか母子ともに回復しました。それにしても引き返さず命がけで進んでよかった。人も撥ねることなく済んでよかった。ノロノロながらも視界を制限されての運転があんなに恐ろしいものとは・・・、って当たり前ですが。

ぼうずは1年たった今も相変わらず他人に自分の思ってることを伝えるのが下手ですが、よくよく考えると40になっても医者に自分の症状がまったくきちんと説明できないパーフェクト駄目おっさんの息子なのでした。そら、しゃーないな。たはは。と、諦める私と憐れみの目でこちらを一瞥する嫁はん。今日もお外と配偶者の視線が刺すように寒いぜ。こんなとさんでごめんなさーい。(オポムチャン 18/1/30)

(寸評)「初めての嘔吐」だね。
そういや自分は初めての時どういう表現したんだろ。思い出せはしないな。7ポイント。

初めてのコンビニエンスストアで酒購入時の年齢確認タッチパネル体験

あれは2015年11月に日本へ一時帰国したときだったか。わたしは自宅近所のコンビニエンスストアで発泡酒を購入しました。レジでお金を払う段になり店員から「こちらにタッチしてください」とパネルを見せられました。その画面には『私は20歳以上です』という表示が書いてありました。「なんじゃ、これは??」とびっくりしましたね。何年も日本を離れていたら。いつのまにかお酒を買うのにこんなシステムになっていたのかー、と。あと一瞬、おれはパラレルワールドに紛れ込んでしまったのかー、とも勘ぐってしまいましたよ。こちらはこういう年齢認証のタッチパネルがある世界なのかも、と。

とにかくも「20歳以上のおっさんってわかるだろ」と思いつつ、年齢認証のパネルを押すのはあまり気分のよい体験ではありませんでした。という初めてのコンビニエンスストアで酒購入時の年齢確認タッチパネル体験の巻きでした。あれ、いつごろからそういうシステムになったのでしょうか?(波照間エロマンガ島 18/1/30)

(寸評)何年か前だったよね。店員も分かっていても義務付けられてるから仕方ないんだよね。
まあ未成年が押すのに一瞬躊躇だけを狙ってるわけだけど未成年だって堂々と押せばOKということになる。
今まで通り「明らかな未成年にだけ確認」でいいと思うんだけど。
というか昔はお酒やタバコ、子供のおつかいでも行ってたよね。飲んだり吸ったりしている現場以外はいいんじゃないかな〜。 6ポイント。

初めて都市対抗野球の応援に行く(2000年7月24日 @東京ドーム)

以前勤めていた会社の取り引き先であるシダックスが都市対抗野球に出場したとき、応援に駆り出されて東京ドームに初めて行ったときの話を以下に書きます。対松下電器戦で6対3で勝利。やったー! キューバ人選手がホームラン打ったのは迫力ありました。

生まれて初めて都市対抗野球を球場で生で見ました。生バンドや拡声器を使った応援合戦は最初「なんじゃ、こりゃ?!」な戸惑いを感じたのですが、しだいに慣れて違和感がなくなるのが不思議でした。PAシステムがあると応援にめちゃくちゃすごい迫力が出るんです!そして応援部やチアリーディングチームのパフォーマンスがかっこいいんですよー。でも、応援席にいるわたしたちは、シダックスの赤いキャップをかぶらさせられたのと、SHIDAXのロゴ入りの小旗を強制的に振らされる事には最後まで抵抗感はありましたけどね(苦笑)。プロ野球観戦とはちょっと感興は異なりましたね。

試合終了後、会社の人と軽く飲みに行きました。そこで飲む生ビールが美味しくまた気持ちのいいこと。私は大学は東京六大学出身ではなかったですが、神宮で野球の応援をした後の飲み会ってこんな感じではないか、と想像できる楽しさがありました。

そんな初めて都市対抗野球の応援に行ったという話でした。あ、シダックス野球部に野村克也氏が監督就任したのは、このときから2年後の2002年のことでした。(波照間エロマンガ島 18/1/30)

(寸評) 都市対抗野球かー。興味ないなー(笑)。
俺も本当は何かスポーツに燃えられるようになりたい。充実の興奮が味わえるからなー。
昔は相撲とかプロ野球にちょっと興味があった時期もあったのだがなんか続かなかったなー。 6ポイント。

初めての自宅に岩盤浴温石ベッド導入〔2006年6月20日〕

我が家に岩盤浴温石ベッドが届いたのは2006年6月のことです。業者の人が来て設置工事しました。弟の経営する整骨院が事業を拡大して岩盤浴&リラクゼーションのサロンをやる計画があるので、最初にモニターとして家族用に1台購入したのでした。リウマチを患う母の治療用目的も兼ねていました。



微弱ラジウムの出る石を敷き詰めた床を加熱しその上に横になると発汗による新陳代謝を促し、身体をリフレッシュさせてくれるベッドです。
早速私もやってみました。教わった作法に従い、鎖骨の切れ目に少しジェルを塗り、水分をマメに補給しながら、仰向け15分、うつ伏せ15分、計30分ベッドに横たわった。すると、すごい汗が出ました。汗には臭いはなくサラサラしてました。調べると「エクリン腺」という汗腺から出ている汗とのこと。初めての岩盤浴体験はとても気持ちよかったです。 その後両親とも他界したので、現在はこのベッドは弟のもとに返却されましたが、またいつか体験してみたいものであります。(波照間エロマンガ島 18/1/30)

(寸評)岩盤浴したことないなー。サウナ併設のところとかだと意外と高いからね。
俺もいつか体験してみたい。 6ポイント。

初めてチェンマイ空港脇の空軍基地内道路を通ってアパートに帰宅する(2009年4月14日)

こんにちは、波照間エロマンガ島@バンコクです。
2009年4月、2週間の日程で日本に一時帰国しました。当時タイ語を習っていたN先生と行き帰りとも同じ飛行機に同乗し、日本では共通の友人のいる関西へ国内旅行へ行き、とても楽しい旅行となりました。日本ではお花見シーズンとも重なり、桜の名所を周遊しました。

さて、タイに戻ってきてチェンマイ空港に下りた瞬間、蘭の花の香りが鼻腔を刺激しました。チェンマイの匂いってあるんだなぁ、と実感しました。空気の湿り具合も懐かしいです。数日前まで過ごした東京と同じ27℃の気温ですがまったく違う感じでした。

一緒に旅行した先生のお父さんが迎えにきてくれて、アパートまで送ってもらいました。
その際、初めての体験をしました。チェンマイ空港からニマンへミン通りへの近道。登録している車両にかぎり、空軍基地の中を通ることができるのです。ここを通ったおかげで、空港からアパートまで正味5分で着いてしまいました(通常市街地を通ると15分くらいかかります)。ふだんなかなかできないことを体験できました。



この通行証はチェンマイ在住の自動車を所有している人ならば誰でも、外国人でも得ることができます。チェンマイ空港のあるハンドン地区からニマンヘミン地区までショートカットになるので、自動車通勤の人はこの通行証を使って皆近道をしていますよ。

タイでは民間の飛行場に隣接してこのように空軍基地があることも珍しくないのです。このチェンマイ空港に隣接する空軍基地は「第41」空軍基地と言うそうです。

そんなチェンマイ空港の脇の空軍基地の中を自動車で初めて通った、という話でした。(波照間エロマンガ島 18/1/30)

(寸評)あそこ抜けられると早くていいよねー。空港ってどこも馬鹿でかいもんな。5ポイント。

初めてのそして最後の海岸通団地 @ 横浜市中区海岸通5丁目〔2004年10月24日〕

こんにちは、波照間エロマンガ島@バンコクです。
2004年初秋のある日、横浜在住の友人が引っ越したい物件としてあげていた横浜市中区海岸通5丁目にある海岸通団地に行ってきました。

この団地は1958年に住宅・都市整備公団が建設した5棟5階建ての集合住宅です。ワールドポーターズ前の運河を渡ったところに、こんな静かな場所があったとは驚き!
築30〜40年くらいの程よい古びた感覚がナイスでした。むかしはこういう団地よくありましたね。完成当時は横浜港を臨むいちばん海よりに立地していましたが、横浜港界隈のみなとみらい地区の大開発にともない、対岸に埋め立て地ができ整備されて、すっかり運河をはさんだ「内陸然」とした風景になってしまった場所です。とにかく行ってみてびっくりしたのは、まわりがすべて再開発されて近代的な風景になっているのに対し、この一角だけ開発から取り残されてしまった「戦後すぐの」風景が広がっていたということ!! 


こういう街区にわたしは目がありません。わたしも引っ越したいと熱望しました。しかし残念ながらこの団地はまもなく取り壊され、2012年に「シャレール海岸通」という高層集合住宅に建替えされてしまいました。なのでわたしが行ったこの景色は、もう永遠に見られなくなってしまった失われた風景であります。

という横浜市中区にある海岸通団地に初めて、そして最後に行ったときの話でした。(波照間エロマンガ島 18/1/30)

(寸評)50年を超えて生きてきてると、子供の頃にあった8割の家や建物は変わってるよね。
時々昔住んでたところに行っても景色が変わりすぎてサッパリその場所のヒントすらないこともある。
時は移る。人だけが変わらないはずもなく、遠い昔の僕らは子供たちもジジイになっていく。 6ポイント。

はじめてのヒッチハイク

礼文島へ長期滞在していた時、あまりにも暇だったのでとなりの利尻島へ遊びに行くことにしました。
荷物等はYHにおいたままにしてフェリーで隣島へ。
帰りは沓形港から礼文島香深港へ戻る予定でした。
散歩を終え夕方近く利尻の鴛泊港でバスを待っていると港の道向かいにバスが。
「あれ、どこへ行くバスかな。回送かな」
ぼーっと待っていると、運転手が不思議そうにこちらを眺めながらバスが発車していきました。
「ん・・・」
向こう側のバス停へ駆けつけるとそのバスが予定のバスでした。このバスに乗らないと沓形から礼文へ戻れません。
あわわわわ。
私はタクシーを捕まえて沓形へ向かおうとすると、タクシーの運転手は、
「稚内からのお客を待たなきゃならないんだよなあ」
などブツブツ言っています。
それでもいいからとなんとか説き伏せバスを追いかけます。
メーターは上がる上がる。2000円くらいで諦め下車。半分も来ていません。
最悪の場合はYHに連絡を入れてこちらで泊まることも覚悟しました。
一計を案じ、人生初のヒッチハイクをすることになりました。
指を立ててクルマで待っていると一台目でバンが止まってくれました。
沓形までお願いすると、
「いいよ乗っていきな」
と。利尻の人は優しい!
お話を聞いたところ、沓形で旅館をやっている有名な料亭の方で、名刺を頂き、いつでも遊びにおいでと言われました。私は丁寧にお礼を言い、ギリギリ間に合った沓形から香深行きのフェリーに乗ることが出来ました。

自宅へ帰ってから、お礼の手紙と地元の菓子を送りました。(わいわい 18/1/30)

(寸評)島はそういうところ融通が聞くところ多そうだよね。
テレビ「電波少年」でアフリカから北米までヒッチハイクした朋友(パンヤオ)の伊藤高史くんと演劇で一ヶ月一緒になった時「一番辛かったのは何だった?」と聞いたら想像していたアフリカのラクダの上で死にかけた時じゃなくて寒いヨーロッパで三日間ヒッチハイク出来なかったことだと言ってたもんなぁ。6ポイント。

はじめての作詞・作曲

私が最初に歌を作ったのは小五の時
友人の歌です。
彼の自宅はお米屋でした。

題「われら日本米」

われら日本米 われら日本米
韓国米には負けないぞ
われら日本米 われら日本米

われら日本米 われら日本米
減反政策 ごめんだよぜ
われら日本米 われら日本米

どーーーですか! (わいわい 18/1/30)

(寸評)小五で「韓国米には負けないぞ」「減反政策 ごめんだよぜ」はスゴいな。
今だったらTPPが入ってくるかも!? 7ポイント。

2017.12.23に松黒毛ぼっくすさんと知久さんのライブに行った後の宴会で知久さんからギターのレクチャーをしてもらったお話。

20年以上ファンやってる人によるとこんなサービス初めてだったらしいので、たくさんの人にとっての初体験だったのかなぁ、と思います。

ライブ終了後、松黒毛ぼっくすの大槻さん主催で一般客も参加OKの宴会があって、私と妹は本当は参加しない予定だったのですが、代官山駅の場所が分からなくて目黒駅の方まで来てしまい周りを見渡すと、知久さんがいたので「ああ、ここが会場だったのか。せっかくだから参加しよう」ということになりました。

今からでも参加できるかどうか関係者に確認を取りたかったのですが、関係者の顔を覚えてなかったのでもう知久さん本人に聞くしかないな、と思って知久さんに話しかけました。

私「さっきのライブ見ました!ファンです!飲み会に参加してもいいですか?」

知久さん「そうなんだーさっきの…。みんな参加してるよ」

私「…」

知久さん「…」

そこで私は石川さんのホームページのどこかで読んだことを思い出しました。
「ファンです!」と来られれば歓迎だけど、サインとか求めてるのか、ミーハーなのかコアなファンなのか考え込む時があると。
そしてたまのメンバー全員がきちんと考えてから話すタイプだということを。
知久さんが目の前でそういう状態になっているのではと思いました。

でもせっかく目の前に知久さんがいるんだし、どのくらい好きか伝えるぐらいはしないと、と思い、

私「Youtubeを見て半年前からファンです!妹なんか知久さんの影響でギター買って練習してるんです!どうしても分らないところがあるみたいなんですけど、毎日練習してるんです。私はベース練習してます!」

知久さん「分らないとこって?」

妹「あの曲のここの部分です…」

知久さん「その部分は弾き語り用に変えたところだから…そういうところも見てもらえてるんだね。ギターの話は飲みながらでもね」

まさかの、教えてくれる流れ!全く予想外でした。

飲み屋に入ったら知久さんは全然違う席で、すごく遠かったのに私たちの事を覚えてくれてて、ギターを下げて隣に座って歌いながら教えてくれました。
そしてレクチャー大会が始まって、他のファンのみんなもテクニックの事を聞いてとても盛り上がりました。

完全に酔っぱらった大槻さんがギターかついで「俺も…俺も…歌う…」と言いながらフラフラやってきて知久さんと二人で歌って、三味線弾きの樹海ちゃんも歌ってみんなで大笑いして…すごく宴会らしい楽しい楽しいひと時でした。こんなに楽しい宴会は初めての経験でした。

ファンの人が3人くらい私に「知久さんにギターテクニック聞く流れにしてくれてありがとう!」と言ってくれたのも嬉しかったです。

ライブが時間押してて「ぼくの曲は端折っていいです」って知久さんが言うくらい巻きで終わらしてたから歌い足りなかったのかもしれないですし、妹が分かんないって言った選曲が良かったのかもしれないし、いろいろ偶然が重なって楽しい宴会を過ごせました。

いつか同じような機会があったら石川さんとも飲みたいです。
それまでに面白い話を仕入れておかないと!と思う今日この頃です。(マジョライト 18/1/14)

(寸評)俺も「ここは桶がいいか、鍋がいいか」と聞かれれば答えるよ〜(笑)。
具体的に聞かれるとコアなファンだと分かって嬉しいもんなんだよね。
そして知久君の指導、良かったね! 7ポイント。

はじめての溝の中の人

そのむかし。未だぼうずも生まれていない結婚5年目くらいの夏の夕べ、私と嫁はんは家からほど近い回る寿司屋へ晩飯を喰いにほつほつと豊中市は岡上の町の能勢街道、という名の細道を歩いておりました。ちょうどお給料日だったのかもね。
すると前方に、なんとも不安げな足取りのご老人が、杖を突きつつよろぼいよろぼい進んでいるではありませんか。

最初に見かけた段階では道のまん中を歩いておったのですが、だんだんだんだん、左方向へ歩みが補正されてゆくのです。なぜだろう。答え:それはこのご老人が酒精を摂取なさっているから。足をすこし悪くされているご様子ですが、それ以上にただならぬ動きをなさっていることからもそのことが推測されました。ときおり呻き声のようなものも上げています。

お爺さん、大丈夫かいな・・・ と我々ミョート(標準語訳:めおと・夫婦・つがい)は心配しつつ後ろを歩いていました。左手の民家の壁にぶつかりかけてはふらりと戻り、また左へ寄りかかり戻り・・・・・・ と、道の端に幅30cm・深さ4,50cmほどの溝が現れました。
ちょうどやせた大人ひとりが横向きにすっぽり収まりそうなサイズ感です。

厭な予感がしました。
まさか、ね。マンガやコントのような、そんな事態が、ね。我々の目の前に現実に起こるなんて、ナンセンスで・・・・・・

ずぼっ。

ご老人は、道の左端の溝に、からだ全体、頭から足まできれいにすっぽり嵌まりました。

溝の、中の人。
目だけ、ひらいてる
いや、口も、ひらいてる
やっ、手指も、ひらいてる。

眼前の危機状態の爺さんにGさん的な感想を述べてる場合ではありません、ここに通りかかったのは我々ミョート2名のみ。ただでさえ人通りの少ないこの一方通行の狭い道、もしここでお爺さんを打ち捨てれば夜に雨が降るとブクブクがぼぼ、丘の上で土左衛門が一丁上がり、翌朝ポリスがこの辺をウーロウロするなんてな寝覚めの悪い事態に発展しそうです。

私と嫁はんはあわててお爺さんに駆け寄りました。

オポ「大丈夫ですか!?」
お爺「あ、あぅ〜〜」
嫁はん「引き抜こ、とにかく溝から!」
オポ「そ、そうやな! ぐっ・・・・・・ ふぐぬっ・・・・・・」
嫁はん「ぜんぜん動けへんやん!」
オポ「こ、これっ、ガッチリ溝に嵌まってもうてる・・・」
お爺「あ、あぅ〜〜」

私と嫁はんは成人の中では非力な部類です。このままではどうにもなりません、誰か助けを・・・ と思っていたところへ、自転車にのった眼鏡の若人がこの異常事態を見て停まってくれました。

眼鏡「どうされましたか!?」
嫁はん「お爺さん、転んで溝にハマってしもうて・・・!」
眼鏡「手伝います!」

嗚呼、神は何と清い心の眼鏡、いや若人を我々に遣わしたのでしょう。昨今の一般的な若い者ならば見て見ぬフリをするでしょうに・・・ 私と嫁はんと眼鏡の3人で力を合わせ、どうにかお爺さんを溝から引き抜きました。酒の匂い。ぎゃぶ。ぜぇぜぇ。ひとまずよかった、丘の上の土左衛門をこさえずに済んで。眼鏡はお爺さんを救出すると、「良かったです、それじゃ」と颯爽とチャリで去って行きました。ありがとう、眼鏡。もとい若人。

救出されたお爺さんは「いゃー助かった、ありがとう、ありがとう」と我々に礼を述べました。このホイデさん(仮名)というご老人はお一人暮らしだそうで、やはり駅前の呑み屋でひっかけた帰りだったようです。お近くにお住まいだとのこと、もっぺん嵌まられても大変なので送って行くことにしました。幸いホイデさんのお宅は我々の目的地の途上だったのです。

ホイデさん「わしここの路地入ったとこに住んでまんねん! なんかあったら声かけてな! ありがとう!」
オポ・嫁はん「お気を付けて!」

ホイデさんは昏い細路地の奥へと、消えてゆきました。

やぁ、とりあえずよかった。と気を取り直して、私と嫁はんは回る寿司へ到着しましたが、お店に入るなり店員さんがギョッとしたような表情になりました。
なんだなんだ、人がきもいからってあからさまにギョッだなんて失敬な。いや現にナチュラルにきもいおっさんですけれども。と憤慨しかけて気付く、私の白いTシャツは、溝で挫傷したホイデさんの体液で真っ赤でした。きゃぉ。おんもは薄暗くてわからなんだ。私はなすすべもなくブラッディなままで嫁はんと回転する寿司を12皿摂取、会計を済ませ帰宅したのでした。シャツはすみやかに鈴蘭の香りのニュービーズでお洗濯、綺麗になりました。

それからちょいちょい気になって、近くを通るごとにホイデさんの入って行った細路地を覗いてみたのですが、どうもその辺りに人が住んでいる気配がありません。私達は狐狸妖怪に化かされたのでしょうか?? 近くに森も林もないこの街中で。

数週間後。私と嫁はんは阪急豊中の駅前の呑み屋の近くで、見覚えのある特徴的な杖を持ったご老人を見かけました。ホイデさんです。

嫁はん「ホイデさーん!」
ホイデさん「?? なんで、わしの名前を?? どっかで、お逢いしましたかいなぁ」
嫁はん「こないだお家の近くで溝にハマってはって・・・」
ホイデさん「・・・はぁ・・・・・・ そんなこと、ありましたかいなぁ・・・?」

完全に、忘れとるの、この爺さん。なんかあったら声かけて、って、そもそも憶えてへんのやないかい。わちゃぁ。

まぁ、こちらも何かの見返りを期待していたわけでもなし、所詮は酔っ払いのお爺さんです。ものを忘却する能力はあらゆる人種の中でもピカイチでしょうから。足取りは相変わらず不安でしたが、こういうタイプの方のほうが案外、長生きなさるのかもしれませんね。関係のないひとに戻った我々は、ホイデさんを尻目に家へ帰ったのでした。雨の日は呑みにいかないでね。いろんな色のパラソルで助けに行ければいいのだけれど、私達もうたどって行けないほど遠くへ引っ越しちゃったの。どうか末永く、おげんきで。(オポムチャン 18/1/14)

(寸評)俺の知り合いのお母さんは酔っ払って自転車で転びたった数センチの溝に顔がはまり溺死した。
夫婦で酔っ払いの命、すくったで! 8ポイント。

初めて聞いた種類の機内アナウンス

波照間エロマンガ島@バンコク在住です、ごきげんよう。
2009年11月30日、一時帰国していた日本からタイへ戻る飛行機内での出来事です。ドキッとする機内アナウンスが流れました。

「お客様でお医者様、看護士の方はいらっしゃいませんでしょうか?もしおられましたら近くの乗務員に声かけください」と。

なんじゃこりゃーー??!
もう数え切れないくらい飛行機に乗っていますが、こういうアナウンスは初めてです。こういうのはドラマや映画の話だと思っていました。

まず考えたのが(1)機長が急病で倒れた。(2)お客さんの中に妊婦さんがいて産まれるーーー!!っていう非常事態になった のどちらかだと思いました。そのとき沖縄上空あたりを飛んでいたのですが、これは最悪成田に引き返すか、台北に緊急着陸するか、といっしゅん覚悟しましたよ。
しかし結局その後何もアナウンスはされず、問題は解決したようです。 無事バンコクに着陸しました。それにしても、何があったんでしょうね。

という初めて「お客様でお医者様いらっしゃいますか」のアナウンスを聞き、心の中ざわざわしたという話でした。(波照間エロマンガ島 18/1/14)

(寸評)日本だとそこで手をあげるのは勇気のいることだそうだ。
例えば診療科目が違っても診なくてはならず、それによって治療が失敗した場合その責任はその医者に全部のしかかるとのこと。
眼医者さんが心臓の悪い患者さんを診るのは大変だもんなあ〜。 5ポイント。

はじめてのVR

先日レイクタウンで初めてのVRにチャレンジしてきました。あれれれ確かお台場のジョイポリスでやった気もするがええい関係ないのてある。
VRとはゴーグルをつけて仮想空間で、恐竜に追いかけられたり恐怖の館に入ったり敵をライフルで打ったり高いところを歩いたりする体験型ゲームです。
残念なのは、実写でなく、アニメというかなんというかそういう映像。
これ、実写とかCGで作ったらどうでしょうか。

夏の甲子園でピッチャーができるVR。
箱根駅伝の大声援の中走るVR。
満員の旧国立競技場でラグビーができるVR。
ワールドカップ10万人の大観衆の中サッカーをするVR。
満員の武道館でコンサートができるVR。

私は敵の機械兵団を剣でなぎ倒すVRをしていましたが、ゲームの後ふと思いました。(わいわい 18/1/14)

(寸評)多分まず普通の人が考えるのはエッチなことなんだろうな・・・。 5ポイント。

前橋育英全国初優勝

やりました!
前橋育英高校が群馬県勢初の全国高校サッカー選手権優勝を果たしました!
悲願の全国制覇です!
おめでとう!!!!

インターハイでは群馬県勢は過去優勝が一度あったものの、冬の全国高校サッカー選手権では初めての優勝です。
幾度となくベスト4までは進んでもどうしてもファイナルへはいけませんてした。時は平成になり前橋育英が二度ファイナルへ進むもいずれも準優勝止まり。
怖くてテレビで見ていられませんでした。
私か高崎に住んでいた時期、家の近くにサッカー練習場と短大があったので感慨も一入(ひとしお)でした。(わいわい 18/1/14)

(寸評)正直、俺が中学生の時は「躾は厳しいが自分の名前だけ書けば入れる高校」と言われた学校。
時を経てこんなにスポーツ名門校になるとは。やったね! 5ポイント。

初めてのびっくりペナン島上陸作戦(2004年11月12日)

2004年11月、わたしはインドシナ半島をシンガポールからバンコクまで陸路で旅行していました。
その日は朝マレーシアのマラッカを長距離バスで発ち午後3時頃、錫〔すず〕の産地として有名なイポーのバスターミナルに到着しました。そこで遅い昼食をとったあと、もう少し北上してみようと思い立ち、バスターミナルにいたペナン島行きのバスに乗り込みました。夜8時くらいには到着するとのことだったので今日はペナンに宿泊しようと思ったのです。

イポーを出発してしばらくすると疲れからか眠りに落ちてしまいました。次に起きたときはあたりは真っ暗でどこを走っているのかわかりません。ただ左側が暗いので海岸の近くを走っていることだけはわかりました。時計を見るとあと30分ほどで到着時刻。あと少しだな、と安心して再びうつらうつら意識が遠のいていきました。

ギギー。バスがターミナルらしき場所に停車したのであわてて荷物を持って下車しました。いちばん前の席に座っていたので最初に下りました。しかしあとからバスを下りたのは数名でバスはすぐに発車してしまった。あれー、どういうことなんだ? ここは終点のジョージタウンではないのか? ちょっとだけ不安になりなす。近くにいたタクシーの運ちゃんに「ここはジョージタウンか?」と尋ねると「No,BUTTERWORTH」と言う。なんてことでしょう!ペナン島へ渡る橋の手前のバタワースという街に下りてしまった!!



仕方ないのでその運ちゃんにジョージタウンに行ってほしいのだがと尋ねると、橋を渡るよりもすぐそこにフェリー乗り場があるからそこからフェリーに乗れば10分ほどでペナンに着くよ、と教えてくれました。バタワースはペナン島へのフェリーの発着場でもあるのです。

そこからてくてくとフェリー乗り場に向かいました。5分ほど歩くとすぐにフェリー乗り場に到着。チケットを買い待合所のベンチで船を待つとさいわいにしてすぐにフェリーはやってきました。

フェリーに乗ると前方に街の灯が見えました。おー!すげぇきれいだ! バタワースから見たペナンの夜景の美しさは一生忘れないと思います。半島ではなく、島のほうが発展したというのが面白いです。この光景はストレートにペナンに着いていたら見られなかったんですよ! 逆にラッキーだったかも。と自分に言い訳をしました。15分足らずでフェリーは対岸のペナン島のジョージタウンに接岸しました。ペナン島は中華系テイストがふんだんに残っている島でその後2回ほど訪れ、わたしにとってはとても気持ちの良い島でした。

というペナン島初上陸のてん末でございました。(波照間エロマンガ島 17/12/30)

(寸評)俺もペナンには一週間ぐらい遊びに行ったことがある。
対岸のバタワースにも船で渡ってみたけど鉄道駅くらいでろくに店もなかったな〜。
ペナンではE&Oホテルという高級ホテルに泊まった。エレベーターにエレベーターボーイ(老人)がちゃんと居たのだがいちいち鍵を使って作動してたので悪くてあとは階段で移動した。6ポイント。

初めてのケロヨンが幼稚園にやってきた

1967年当時テレビにて放映されていた人気者、ケロヨンが通っていた幼稚園に来訪したことを思い出しました。50年前の話です。
ケロヨンとは日本テレビ系『木馬座アワー』のコーナー『カエルのぼうけん』の主人公であるカエルの着ぐるみ。影絵作家の藤城清治さん発案のオリジナルキャラクターで一世風靡しました。「ケロヨ〜ン!!」と言って登場して「バッハハーイ!!」と言って退場する愛嬌のあるキャラクターでした。

ある日とつぜん幼稚園にこのケロヨンがやってきたのです。テレビの人気者の来訪とあってかつてないほど高揚した記憶があります。ケロヨン以外のキャラクターは名前もすべて忘れてしまっているのですが、なんか子どもながらもクサイ小芝居をしてるな、と鼻白んだ記憶があります。
いや、それよりも5歳の私をトラウマに落とし50年経った現在も鮮明に記憶に残っているものがあります。それは番組進行役の森あきこお姉さん。当時からちょっと老けた印象だったのですが、至近距離から見た彼女は化粧がものすっごく濃く、真っ白に塗ったドウランが怖くて仕方ありませんでした。ケロヨンよりもあきこお姉さんの厚化粧のほうが強烈な印象として記憶に残っているくらいです。今どうしてるんだろうな。。。(波照間エロマンガ島 17/12/30)

(寸評)ケロヨンは俺たちの世代のまさにヒーローだったね。
今は歴史に埋もれて当時を知る人以外にはほとんど知られてない気もするが。
お姉さんは覚えてないなぁ。 6ポイント。

生まれて初めてのコンタクトレンズ

波照間エロマンガ島@55歳です。
わたしが生まれて初めてコンタクトレンズを購入したのは1997年1月4日のことです。当時わたしは34歳でした。
朝起きるととつぜんコンタクトレンズをつけたい衝動にかられ、当時住んでいた横浜市中区の自宅から歩いて関内駅近くの馬車道にあるショップに駆けつけコンタクトレンズを購入したのです。視力検査をするとまもなくコンタクトはできあがってきました。わたしはコンタクトレンズを装着したまま、近くの映画館へ映画を観に行きました。その映画とはシルヴェスター・スタローン主演の『デイライト』というパニック映画。
それまで近視用眼鏡をかけていて視界が狭くなる違和感を覚えていたので、コンタクトレンズをしての映画鑑賞体験を確かめたかったのです。大スクリーンを観るのはダイナミックで痛快な体験でした。日記には「コンタクトはメガネより視界が広くなるのでびっくり!これはいいよ! 」と興奮した様子が述べられています。

以来、しばらくはコンタクトレンズ使用者になりましたが、約10年後にタイに移住した頃から今度は老眼が進行し、コンタクトレンズを装着していると細かい文字が読めない事態に陥り、コンタクトをやめ眼鏡使用に戻り現在にいたる、というしだいです。(波照間エロマンガ島 17/12/30)

(寸評)最近は本を読む時に老眼鏡を使うことはあるが基本コンタクトはおろかメガネとも今のところ縁はない。
と言っても裸眼でいつまでいられるかは時間の問題なんだろーな。
体に何かを付けるのが気持ち悪くなってしまう俺は出来るだけ先延ばしにしたいもんだな〜。6ポイント。

はじめての小笠原

小笠原父島母島は、船で24時間かかる上、飛行場もなく、船は6日間に1便しか出ず、おそらく日本で一番行きづらい観光地でしょう。
私の席は安く上げようと二等雑魚寝席。ただし毛布が敷いてあって自分のスペースは指定されています。大量にカップラーメンやお菓子やジュースを買い込みます。船内にも売店やレストランはあるのですがやや高いのでみんな持参するのですね。ほかにもシャワーやビデオ室やゲームセンターや喫茶店(Bar)がありときどき気分転換に寄ったりします。
父島に到着して、三泊すると船は折り返します。これを一航海と言います。
面白い話があり新婚旅行で小笠原へ行って喧嘩をして帰ってくるときも同じ便だったとか、行きの船で「どこへ行くんですか?」とナンパしたらどう見ても父島しかありえなかったとか(笑)。

船が島へ着くと生鮮食料品や一週間の新聞がまとめて到着するので島はすごい熱気となります。小笠原では一週間というより船の寄港日が生活のリズムなんですね。
私は日本中の離島へ行きましたが、一番若者が多く町がおしゃれなのは間違いなく父島です。ちなみに子供が日本で一番多い島は沖縄の多良間島でした。
小笠原に憧れて移住する若者も多くみられます。問題は仕事とアパートなんですね。土地が少なく世界遺産認定されたのでアパートがあっても家賃は高く、仕事も男は土木作業員、女はレストランやパーの店員が多いです。あとはネイチャーガイドとかマリンスポーツの指導員に従事する人もいます。



沢山楽しんだ後、私たちは小笠原丸に乗って東京へ帰ります。その時、現地のダイビングショップや釣り船が小笠原丸に乗って見送りに来てくれます。中にはカヤックで一生懸命漕いでいる人も。みんな大爆笑。
みんなレイを投げたり手を振ったり。
出航風景は感動的で女の子の中には泣き出しちゃう子もいます。私もじーんとしてしまいました。
そしておがさわら丸のスピードが上がりもうついていけなくなるとボートはストップ。「それっ」と見送りに来た人はボートから海へ飛び込みます。船では大喝采! ぷかぷか浮きながら我々に手をふってくります。それを見送りに来てくれたボートが次々やってくれるんですね。

小笠原丸が出ていくと島は静かになります。引き続き滞在する観光客(二航海)と島民しかいません。ここで曜日にかかわらず休暇を取ります。次のおが丸がやってくるまでしばしの休暇となります。

島には戦争時の機関砲や陣地、廃船などの遺跡がのこり、ダークツーリズムがいたるところに放置されている歴史の島でもあるのです。

出典・小笠原村観光協会HPより。(わいわい 17/12/30)

(寸評)俺も行ってみたい場所のひとつだね。
もっともほぼカナヅチだしアウトドア派でもないので島を散歩するくらいしか無いのだが。
船でしかいけないというのはロマンがあるよね。 6ポイント。

はじめての石川さんへのクリスマスカード・メール

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***メリークリスマス♪ 石川さん ***
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(わいわい 17/12/30)

(寸評)あ、どうも・・・でもこれは。う〜む。3ポイント。

はじめての自動改札

生まれてはじめて自動改札を体験したのは、高校3年の冬、大学受験で東京か埼玉に行った時のことです。1990年秋から1991年冬の間です。

地元の駅の券売機では安い切符しか買えず、遠距離の場合は窓口で買ってボール紙の切符を渡されていた記憶があります。

厚くミシン目のついた切符を握りしめ、いざ受験へ。

どこの駅かは忘れましたが、生まれて初めて自動改札を発見しました。意気揚々とボール紙の切符を投入します。初体験!

「ドン!」 突然、左右対称の黒い何かが足を叩きました。通れない? すぐに駅員がやってきて、上に出てきたボール紙の切符を手に、「これは窓口ですね」

それにしても、あの衝撃はすごかった。何せ、「自分は通れる」と思い込んでズンズン行こうとしているところに「ドン!」ですから。

これでケチがついたのか、受験は全滅。全く勉強してなかったので当然ですが。自分の年代は団塊ジュニアで受験人口が多く、レベルが異常に上がっていて某大学のセンター試験など100倍以上を記録したそうで、勉強しないでどこでもいいから四大に、は難しかったのです。と言い訳しておきます。その後の自分は大学を諦めて、仲井戸麗市さんや高田純次さんの通った専門学校に行きました。(猪熊猛 2017.12.8)

(寸評)SUICAとか使ってても時々認識してなくて「ドン!」あるよね。
実際はもちろん大した衝撃じゃないんだけどメンタル的にビビるよね。
スーパーマーケットやコンビニなどでも出口の赤外線で何も盗んでないのに鳴るんじゃないかとヒヤヒヤすることあるよね。
一度ブックオフで誤作動でブザーが鳴って店員が駆けつけて来た時は焦ったなあ。何も悪いことしてないのに犯罪者になった気分だった。6ポイント。

はじめての焼き馬

さぁて年もいよいよ暮れかかって参りました。毎日さっぶぅ御座いますね。
そんな年末に向けて忙しくなりつつある私の一体何屋なのかよくわからない職場の、ちょいと気の早い忘年会が先日11月22日執り行われました。なんでかっちゅうと当該のお店が人気店で、12月に入っちゃったら瞬く間に予約でパンッパンになってしまうのだそうです。

そんな電光石火で予約がウマってまうお店って、一体全体ナニを喰わすお店じゃい? ってタイトルからモロバレやっちゅうの、お馬さんのお肉を提供しておるお店なのです。うちのぷりぷり課長が「年に一度の忘年会くらいちょっとエエもん喰いに行きましょうよ」と庶民感覚の欠如したコメントをなさったところ、店長がもっともだ、とその気になって10月の段階で予約をしてくれたのですね。ちょっとあの貧乏平社員の意見は? まぁしゃあないか、もともと私はいちばん年下かつ下級社員のくせに飲み会の段取りなどようせん(訳:執り行う能力に著しく欠ける)ため、モノ申す権利などはじめからないのです。ははは。店長の話では5000円では収まらない、とか。虎の子の定期預金を破壊しとかんならん。

当日閉店間際に手間のかかる手続きに当たってしまいてんてこ舞いの中どうにか仕事を終わらせ19時前、我々はJR大阪環状線福島駅へ降り立ちました。歩いて3分、お店の名はズバリ「けとばし屋 チャンピオン」。馬だけにね。一瞬元世界王者のキックボクサーの店かと勘違いしそうにもなりますが。
生まれは熊本の私、母の帰郷時に馬刺しは何度か食べたことはあるのです。生姜醤油でおいしくね。でもせいぜいそこ止まり、今回のお店は値が張るぶんいろんなヴァリエーションのお馬のお肉をいただけるのだそうです。

まずはお酒で乾杯。ほぼ下戸の私が愛飲するこどもビールことシャンディーガフはないので、今宵は柚子チューハイ。はじめにオーダーしたのはオーソドックスに馬刺し盛り合わせと生馬レバー。馬刺しはたっぷりの玉葱とにんにくと生姜醤油で、レバーは胡麻油とネギと塩でいただきます。おいしい! 熊本から直送のいいお馬。滋養が沁み渡します。

そしてここでかねてからの疑問。どうしてお馬のお肉すなわち桜肉は生ばっかなの? 焼いて喰ったらおいしくなくなるの??
答えはそもそも単純に桜肉自体があまり流通してないので牛豚等に比べて値段が高くなっちゃうということ、牛に比べて体温が低く寄生虫が少ないため生食に適していること、そして赤身が多く筋があるので焼きすぎるとどうしても硬めになっちゃうことがある、とのこと。脂の乗ったお肉が好きな方からしたらちょっと物足りないんでしょうね。

しかーし! このお店では焼き馬を提供しています。馬焼肉が桜肉の最高の食べ方だとまで書いてあります。しかも出てくるお肉には部位の書かれたちっちゃい札が添えられており、赤い字で書いてるのがほぼレアでもOK、黒い字で書いてるのもミディアムくらい焼けば多少赤くっても可、みたいな感じなのです。もともと生で食べてるんだから、それもそうですよね。専用の透明なタレと柚子胡椒をつけ、注文したご飯に乗っけてパクリ! う、ウマい!!! クセが全然なくって脂っこくなくて、スイスイ食べられちゃう!! なんで今まで焼いて出してくれなかったんだよ(笑)!!! 私絶対ウマくさいから馬焼肉はNGなんだと勝手に思ってたのに、こんなにヘルシーで美味しいなんて早く言ってよ(笑)!! 

これからは提供するお店が増えるといいなぁ、馬刺しよりも馬焼き。私は新鮮な感動に超ご機嫌になり、ホルモン唐揚げと桜コロッケとローストホース(これまた絶品だった)を追加オーダーのうえ凍った柑橘入りグラスに入れたサワーが無くなればサワー部だけを追加で注いでくれる「追いサワー」を2杯もおかわりし回る視界、ありえないくらいのハイテンションでお店を出ました。意識はしっかりあったので憶えていますがひとり5000円できっちり収まりました。よかったぁ。保守的な私もたまにはエエもん喰いにいってみるもんだなぁ。桜ちゃん、だぁいすき。きゃははっ。異常なまでにテンションの上がった異常者の私はそのあと何処へ。エッチなお店には行きませんよ期待外れでごめんね(笑)、またしても続きは「おバカ」で。べつに読まなくていいですからね。しっかしほんと美味かった。馬だけに。もうええっちゅうねん、この中年。たはは。(オポムチャン 2017.12.8)

(寸評)俺の「まちあわせ」でハムカツを食う歌詞があるが、あれは俺の小学生時代に習っていた柔道の帰り道にハムカツを買い食いするのが常でそこから出て来た歌詞。但しヨシムラというのは仮名。
数十年が経ちある雑誌の企画でそこら辺りを歩くことがあったのだが、なんとその肉屋も営業しているかどうか微妙な感じだったが残っていた。そしてそこに衝撃的なノボリを見た。
「馬肉専門店」。
俺のあのハムカツは馬肉だったのかもしれない。 6ポイント。

初めてのニャチャン。とつぜんのスコールで膝下まで冠水、そして2段ベッド付き寝台バスに乗って移動するの巻き(2011年7月14日)

波照間エロマンガ島@バンコクです。2011年7月にタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの4カ国を陸路で一筆書きのように旅行した話はここでも以前書きましたが、細かいエピソードはいっさい書いてなかったので思い出してぼちぼち書いていきます。今回はベトナムのビーチリゾートのニャチャンでスコールに遭遇した話など。

2日連続で石川さん夫妻と夕食をご一緒しお別れした翌日、いよいよホーチミンからベトナムを北上することにしました。朝7時にホテルをチェックアウト、ベトナム全土を網羅しているバスツアー会社のシンカフェ・ツーリストへ。受付であらかじめ予約していた旨伝え、さっそくバスに乗り込みました。本日の目的地はベトナム東部のビーチリゾート地、ニャチャン。ホーチミンの北東450kmに位置します。日中8時間の道のりです。

実はわたしは長距離バスの移動は嫌いではないです。タイに住むようになってからバンコク=チェンマイ間700km、バンコク=プーケット間900km、チェンマイ=ウドンタニ間700kmなど移動する機会が何度もあり、バス旅の旅情を楽しめるようになりました。タイは車窓の風景の変化は日本に較べたら単調そのものですが、道路の舗装状態が全体的に良いので高速で飛ばすと気持ち良いんですね。それにバンコク以外では渋滞はまずいっさい存在しないので、ノンストップですいすい都市間を移動できるのます。ベトナムやカンボジアも道路事情は同じでした。この旅では修行僧のようにただひたすらバスの中でじっとして移動していました。

さて、あっという間に4時間ほど経ったところでとつぜん海辺の町のドライブインでバスが停車し、荷物ごとおろされました。もうニャチャンに着いたの?と思ったらここで昼食休憩とバスの乗換えとのこと。最初に乗ったバスで当然目的地まで行けると思い込んでいたのでバスの乗り換えと聞き、少しだけ不安な気持ちになりました。そしてバスを乗り換えて午後1時すぎまた出発しました。



この2台目のバスがとても変わっていてびっくりしました。ベトナムのシンカフェ名物の2段ベッド付きバス!!写真をご覧になるとわかりますが、全座席がリクライニングになっていて、上下2段に席が作られていたのです。最初は楽しかったですが、狭くて寝返りが打てないので、すぐに不快感いっぱいになり本当に難儀しました。仮眠さえすることができないんです。この仕様のバスにベトナム国内を移動中あと3回くらい乗ることになるとは、このときは思いもしませんでした。

その日の午後はこの2段ベッド付きバスに乗り、夕方なんとかニャチャンに到着しました。ニャチャンで1泊し、翌日夕方に次の目的地の古都ホイアンへ向かうまで丸24時間滞在しました。
ニャチャンはビーチが7kmほどつづく海浜リゾート地で、外国人観光客が多いのでウエスタナイズされたレストランやホテルもたくさんあり、過ごしやすい街でした。翌日の日中はあちこち散策しましたが、おしゃれなカフェにも何軒か出会い、イタリアと同じくらい美味しいアイスクリームも食べました。そんな散歩の最中とつぜんスコールが降ってきたので雨宿りしていたところ、あっというまに膝丈まで冠水したのもよい思い出です。ニャチャンにはいつかまた訪れたいなー、と思いました。(波照間エロマンガ島 2017.12.8)

(寸評)ニャチャン俺も行ったなぁ。最初幽霊屋敷の様なホテルに泊まってうちの夫婦は楽しんだが同行の友達は皆怖がってた。
その後素晴らしいリゾートホテルに泊まり、それまで何となく薄汚れていたベトナムのイメージを払拭するほどだった。
それが20年くらい前だから今はだいぶ変わってるんだろうなあ。 7ポイント。

初めてのフィンガーサイン

波照間エロマンガ島@バンコクです。 このあいだ英語圏の国からいらした西洋人のお客様と商談していたところ、彼が話しながら不思議なフィンガーサインをしたので気になりました。

両手でピースサインをして、人差し指と中指を2回曲げたのです。

わたしは以前観た映画『オースティン・パワーズ』で敵役のドクター・イーヴルが同じ動作をしたので見覚えはありました。でも意味はわかりませんでした。

会社に帰って調べてみると、これは「Air Quotes」と呼ばれるものだそうです。日本語に訳すると「エアー二重引用符」。つまり、会話上で引用したり強調したり皮肉を言いたいときなど、このフィンガーアクションをするとそれが強まるというわけです。

彼はそのとき「so cool」と言っていたので、それを強調する「超絶かっこいい!」みたいなニュアンスで使ったのかな、と思いました。
ふだんはタイ人と話すだけなので、タイ人はほとんどフィンガーサインは使わないのでこれは新鮮な体験でした。
以上、初めての「Air Quotes」体験の巻きでした。また、何かあったら投稿します。 (波照間エロマンガ島 2017.12.8)

(寸評)4本指のサインをやたら繰り返してくる人がいたら、ただの小指を取られた人だったりして。 6ポイント。

初めての成田空港第2滑走路着陸体験

2002年10月30日、カンボジア&タイ旅行から帰国したときのことです。

飛行機が着陸体勢に入り高度を下げてきたときに以下の機内アナウンスがありました。

「乗客の皆様にご案内申し上げます。当機は成田新東京国際空港の第2滑走路に着陸いたします。そのため、普段より強くブレーキをかけますので、激しく揺れる可能性があります。どうかお座席の安全ベルトはくれぐれも忘れぬようお願いいたします」

そうだ、この滑走路は全長2180mしかないって『ニュース・ステーション』で模型を使って久米宏が解説していたのを思い出しました。日韓ワールドカップ開催のために大急ぎで建設した滑走路なのです。だいじょうぶかなぁ?こういうアナウンスがあるとやはりちょっと不安になります。

はたして着陸するとブレーキはさほど気にはなりませんでした。でも着陸してから停止するまでの制動距離が短いのは素人感覚でもわかりました。これが第2滑走路か、と心の中でつぶやきました。

飛行機が完全に停止してからタラップを下りて機外に出て、バスに乗ると空港施設までなんと20分もかかりました。そうとう離れたところにこの滑走路は存在するのですね。航空文化後進国日本の惨憺たる現状がこれだと落胆しました。国を代表する飛行場に国際線の滑走路がたったふたつ。夜行便で到着した朝の陽光が寝ぼけまなこにはとってもつらかったです。

ちなみに8年後の2010年に本来の長さである2500mに滑走路は延伸され、飛行効率はあがったそうです。なぜ滑走路が短かったかというと1960年代の用地買収をめぐる成田闘争まで時代はさかのぼることになります。つまり第2滑走路建設時にはまだ空港建設反対の民家があったそうです。

そんな成田空港第2滑走路初体験の巻きでした。(波照間エロマンガ島 2017.12.8)

(寸評)ああ、成田闘争。俺の知り合いも参加してたと言ってたなぁ。昭和の話。 6ポイント。

はじめての相撲観戦

残念ながら本場所は一度も見にいったことがありません。
群馬県の太田市へ地方巡業が来たときに家族四人で行きました。升席一人一万円だったかなあ。
もちろん午前中から観戦!
相撲甚句とか、子供との対戦とか、相撲太鼓とか楽しかったですねえ。
その中でも初っ切りが最高! いつ見ても楽しい。
外では力士が稽古したりうろうろしたり、力士名はほとんど知っているのですが、現場でハタと会うと何関かわからん・・・。「誰ですか」と聞くわけにもいかないし(笑)。

相撲はそもそも芝居的な興行でそこに神事が加わったもので見世物なんですね。なのでお茶屋制度とか、ご贔屓とか、お抱えとか、部屋とか独特の制度が残っています。
いろいろとお弁当屋やお土産を貰い帰宅しました。力士湯のみとか力士座布団とか・・・うーむ。どうやって使えばいいんだ。

ラジオとかテレビの実況がないので詳しい取り組みや、リプレイがないのもまた一興(時間割、取り組み表は当日配布される)。(わいわい 2017.12.8)

(寸評)今は「相撲はスポーツ(ガチ)なのかある種のプロレス的なもの(神事)」なのかで揉めてるよね。
どっちも一理あるから難しいね。 6ポイント。

初めての投票所アルバイトの

今回は選挙の投票所バイトについて書きます。
二度ほどやったことがあります。一つは小学校、一つは市民センターでアルバイトを行いました。
拘束時間は0630-2030。0700からの投票開始と閉場後の片付けがあるのでかなり拘束されます。14時間拘束(13時間勤務)、トイレは自由に行けます。飲み物はどうだったかなあ・・・。その場でなく中座して飲んだ記憶が。場所によっては事前準備のバイトもあります。
投票所へ一度入ると二度と外出は出来ません。自分の車にもです。
投票所内は移動可。小学校の時は図書室で休憩しました。公務員扱いなので何時間に何分とか食事時間とか休みはきっちりとることができます。弁当は自前です。

投票所は、立会人(近所の役員おじさん)が二人(半日交代なのでのべ四人)、アルバイトが二人、市の職員が二人、選挙管理委員会の人が二人でした。
私は投票券を渡す役とPC端末で選挙名簿を操作する役でした。
感想は・・・とにかく暇です! めちゃくちゃ暇です! みなさん投票に来てください!!!(笑)
投票者が誰もいないときはしゃべったりできるのですが一人でもいるとおしゃべり厳禁です。もちろん携帯スマホなどいじれません。ただじっと椅子に座っているだけです。入口に立って誘導する役もあるので、そっちの方が体が動かせるので楽でしたね。
立会人の人はおじさんなので「大学生とドリフターズは荒井注がいたんだよ」とかどうしょもない話をしていました(笑)。大学生とはどうやって通学しているのかとか。本当に世間話です。
鉛筆も少し使っただけで削り、なんとなく気を紛らわせり。

じっとしていても平気な人はこのアルバイトやってみてください(笑)。(わいわい 2017.12.8)

(寸評)あ〜そういうのが大丈夫な人には天国のようなバイトだね。
俺はだめだな〜。意味なく不穏な動きとかしちゃいそう(笑)。 6ポイント。


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