ドキドキドキリコ初体験(86)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント?ー(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

初めてのソンクラン〔タイ旧正月・水かけ祭り〕体験 2003年4月13日

波照間エロマンガ島@バンコクです。タイではもうすぐ旧正月の休暇に入ります。タイの旧正月というと水かけ祭り。今年2017年は前国王逝去の服喪期間につき自粛のお達しがあり、バンコクのカオサン通りの水かけは中止になりましたが、全国的にはどうなるかはわかりません。

ストリート上での水のかけ合いが有名ですが、もともとは新年の到来とともに、寺院の仏像や仏塔を清め、年長者、つづいて友人や通りがかりの見知らぬ人などに「お清め」のために水を掛ける風習が拡大解釈されたものだと聞いています。



例年ですとこの期間は国じゅうで水かけに終始します。1年に1回の無礼講、老いも若きも馬鹿になって問答無用、町中で水をかけ合います。バンコクでの基本的スタイルはピックアップトラックの荷台にでっかいポリバケツ(もちろん水満タン)を積み、町内の子供たちを乗せてシーロムやスクムヴィットなど繁華街に乗り付けます。通りの角にはおおきなバケツに水を入れて地上部隊が待ち構えています。この両者が接近して出会い頭に水をかけ合うのです。あとカオサンやチェンマイなどの歩行者天国では、通り過ぎる人に水で溶いた白粉を顔にべっとり塗りあうこともします。
まぁ単純といえば単純、馬鹿馬鹿しいといえばこれほど馬鹿馬鹿しい祭りもないのですが、観光客でも平気で水かけの輪に入れるところが素晴らしい。とにかくこの時期は1年でいちばん暑い時期で、連日35度近くまで気温が上昇するので水をかけても気持ち良いのです。

私がソンクラン祭りを初めて体験したのは2003年4月13日、旅行者としてでした。懇意にしていたバービヤのオネエサンとカオサン通りに繰り出して思いっきり発散しました。カオサンの帰りには王宮前広場にお出ましになったシヒン仏に聖水をかけてお清めをし手を合わせてお祈りました。最近はこの時期は旅行するのでお祭りには参加しませんが、タイにはまだまだ住み続ける予定なのでまた体験すると思われます。(波照間エロマンガ島 17/3/31)

(寸評)昔、ネパールでも同じような儀式に出会ったことがある。
子供たちに赤い色水とかを水鉄砲でかけられまくった。
全然その祭りを知らずに初めて行ったネパールでいきなりあったので「なんちゅう国だ!」と思ったものだ。
でも子供たちの無邪気な笑顔が最高だったな。 7ポイント。

初めての不在交番から110番通報

今から15年ほど前、横浜で深夜にキャバクラ嬢の送りの仕事〔副業〕をしていたときのことです。
JR某駅前ロータリーでキャバ嬢を一人おろしました。すると、そのすぐ近くにお客さんの乗ったタクシーがハザードランプを点灯して停車しているのが見えました。見るとはなしに車内を見ると、3人の暴力団員風男性が老運転手を脅しているような風景を目撃しました。わたしの車の助手席に乗っていたキャバ嬢は「あれ、運転手さん脅されてるよね、おまわりさんに連絡したほうがよくない?」と言い、さりげなくその場を離れて交番に警察官を呼びに行くことにしました。

駅前から2〜3分のところに交番がありました。しかし警ら中なのか人はいませんでした。キャバ嬢は電話をとって110番通報しました。状況を説明してタクシー運転手の保護を依頼。すぐさま駅前に戻りさりげなく観察していると、すぐに自転車に乗った警察官がやってきてくだんのタクシーにノックをし職務質問、運転手は無事その場を解放されました。

ちょっとだけドキドキした出来事でした。そんな初めての不在交番で110番通報して脅されているタクシー運転手を助けたの巻きでした。でもあれは何を脅されてたのかな。(波照間エロマンガ島 17/3/31)

(寸評)「おい、俺のをしゃぶれや。俺はジジイにしゃぶられると最高に興奮するんだ。へへへへへ」かな? 7ポイント。

初めてのボーサン・アンブレラ・フェスティバル(2009年1月)

波照間エロマンガ島@バンコクです。今回もチェンマイ在住時に体験したお祭りの話題を。

チェンマイの東方10kmほど行ったところにあるボーサンという町で行われた「ボーサン・アンブレラ・フェスティバル2009」というお祭りに行ってきました。この町はハンディクラフト、とりわけ「傘」で有名です。チェンマイの東側、山の近くにあるサンカンペーン郡にボーサンの町はあります。

長さ1.5kmほどの小さな町は、色とりどりの傘、傘、傘でいっぱいになりました。原色が眩しかったです。

とにかく界隈の店はこれでもかというくらい傘でデコレーションされてました。イベントステージがところどころにあり、子供たちの傘をもった伝統ダンスはとても可愛らしかったです。



  時間が合わなかったのでパレードは観られませんでしたが、おそらく傘を手に持ったタイの民族衣装を着た女性たちが通りを歩くのではないかと想像しました。
ずいぶんと心洗われた時間を過ごしました。時間が早かったので人出がそれほど無く、人いきれで息がつまらなかったのも和んだ一因かもしれません。

たくさんの傘を見ながら私は日本初の本格的オペレッタ映画として名高い作品、マキノ正博監督の「鴛鴦歌合戦」(1938年日活)を思い出していました。あの映画もこのボーサンのお祭りのように、たくさんの傘が小道具で出てきてほんとに綺麗だったのです。たしか主人公の浪人役の片岡千恵蔵が傘貼り職人の内職をしている設定ではなかったかな。
町の名称も日本語の「坊さん」を想起してしまい、なにやらクスクスしながら通りをそぞろ歩きしていたのも事実です。 機会があれば、遊びに行ってみてくださいませ。(波照間エロマンガ島 17/3/31)

(寸評)でもタイ人ってほとんど傘ささないよね。
雨の時はスコール的なのでほとんど傘役に立たないし。
あっ、日除け笠ということかな?
あんまり差してる人見たことないけど。 7ポイント。

初めての美容院で美容師に言われた一言

18歳の時、ヘヤ雑誌に出ていた青山の美容院に初めて行きました。
当時わたしはオシャレに目覚めた頃で髪型にものすごーく興味があり、初めて行ったにもかかわらず、担当の美容師さんにあれこれ細かく注文をつけてしまいました。途中までカットしたところでイメージとかなり違うので、クレームというわけではありませんが「こういう髪型にしてほしい」と具体的に伝えると、その美容師さんはしばらくしてこう言いました。

「すいません、お客様は水商売関係の方ですか?」

なんとその美容師さんにオネェ系の仕事をしていると思われたのですね(笑)!「い、いぇ、違います。学生です」と答えましたが、なんかあたふたしてしまい、気持ちはトーンダウンしてしまいました。
でもその後、この美容師さんとはわかりあうことができ、自分の好みの髪型を正確に再現してもらい、10年くらいずっとわたしの担当として髪を切ってもらうようになりました。めでたしめでたし。(波照間エロマンガ島 17/3/31)

(寸評)坊主頭は生涯担当がいないからなぁ・・・。
まぁ喫茶店とかでも「馴染み」になるのが苦手なので丁度いいのだが。 6ポイント。

初めての生プロレス観戦(KAIENTAI-DOJO @ディファ有明) 2002年5月25日

今から15年くらい前、旧友のレスラー某さんが出場するKAIENTAI−DOJOのプロレスを観に行きました。
WWF(のちのWWE)やみちのくプロレスで活躍したTAKAみちのくがこの年立ち上げた新団体で、友人がここからレスラーデビューしたので初期の数年間よく応援しに行きました。

2002年5月25日はわたしにとって生まれて初めての生プロレス観戦で、めちゃくちゃ面白くて興奮し、はまりそうになりました。昔の仲間がプロレスラーになるってこんなにわくわくするものなのか!と思いました。



友人15人くらいで行ったのですが、選手紹介時に紙テープをリングに投げ入れたり楽しかったです。席もリングサイド5列目で大迫力でした。
このKAIENTAI−DOJO(海援隊道場)、このときはまだ2回目の独立興行でした。一番びっくりしたのが映像と音響効果。凝りに凝っていて圧倒的な迫力でショーアップの要素が強い。あとからいろいろ興味をもって調べてみると主宰のTAKAみちのくの在籍していたWWFの影響が色濃く出ています。現在のプロレスが「ガチンコ」系と「エンターテイメント」系の二極に分解しているとしたら、圧倒的に後者のサイドにある団体でした。なんでもありというか。ギャグ的な要素もいろいろあって面白かったです。海外に在住ししばらくご無沙汰なので機会があれば帰国時また観に行きたいですねー。(波照間エロマンガ島 17/3/31)

(寸評)俺も知り合いが出てるので大仁田の試合観に行ったり、キャットファイトで何故かリングの上で一曲歌わせてもらったりした。
体を使ったエンターテイメント、自分には絶対無理なだけに素晴らしかったな。 6ポイント。

初めてのホワイトイルミネーション

今でこそ全国各地で見られるイルミネーションですが、今まで一番感動したのは、札幌のホワイトイルミネーションでした。
雪景色の中、イルミネーションはきれいだった。
ぼーっと突っ立っているだけで、「ああ今北国にいるんだな」と感じずにはいられませんでした。
初めてのホワイトイルミネーション、本当にきれいだったなあ。。。(わいわい 17/3/31)

(寸評)昔、中国の田舎町を車で走っていたら長い平屋が立ち並ぶ集落があってホワイトイルミネーションでは無いけど延々と裸電球が連なってるのを見てなんだかすごく遠い世界に来た気がして泣きそうになった記憶がある。
光っていいよね。 6ポイント。

はじめてのネクタイ

私がはじめてネクタイをしたのは、小学6年の時の謝恩会でした。
会では出し物をしたり歌をうたったりしました。
全員参加のもので、ほらよくあるじゃないですか、一人一人が台詞を言うやつ。
A「みんなでがんばった」
B「秋の大運動会!」
C「とても楽しかった」
D「修学旅行!」
というもの。
その幕間、私は親のダブダブの背広を着て、ネクタイをしめて、妻役の女の子と舞台に出ました。
台詞の後、
私「あ、今日も遅くなるからね」
妻「また、飲んでくるの〜?」
このセリフで保護者は大爆笑。

懐かしい思い出です。(わいわい 17/3/24)

(寸評)俺の初めてのネクタイってそういえばいつだろう?
誰かの葬式の時か病院受付バイトの時のどちらかかなあ。
いずれにしても日常ではこんな大人になってもほとんど縁がないものだなー。 6ポイント。

チェンマイのローイクラトン初体験(2008年)

こんにちは、波照間エロマンガ島@バンコクです。
わたしがチェンマイのローイクラトンを初めて体験したのは2008年11月でした。同年5月からチェンマイに語学留学して半年くらい経った時のことです。それまでは旅行者としてタイには来ていましたが、ローイクラトン祭りを体験したことはありませんでした。

ローイクラトンとは、陰暦12月の満月の夜に農民の収穫に恩恵深い水の精霊に感謝を捧げ、また罪や汚れを水に流し、魂を清めるというお祭りです。バナナの葉や紙で作った灯篭をロウソクや線香や花で美しく飾り、満月を映す水面に流します。

タイ語学校の先生や同級生と一緒に灯篭を作り、それをピン川まで持っていって川に流しました。

日本で「灯篭流し」というと、ゆったりとした雰囲気の中、もの静かな夜に虫の鳴き声などバックに川に流すイメージがありますが、タイは日本とは大幅にイメージは異なりました。



ピン川周辺は大音量でタイの曲がかかっていて、橋の上からは爆竹や打ち上げ花火が絶え間なく投げ込まれ、その感興たるや騒音としか形容できないほどでした。お国柄の違いといえばそれまでなのですが、タイ人はしんみりとしたお祭りは嫌いなのかもしれません。
川に灯篭を流すとすぐ下流に子どもたちが待機していて、灯篭の中に置いたお賽銭を盗み取る輩がいるのも興ざめでした。

それともうひとつチェンマイのローイクラトンの特徴は「コムファーイ」という熱気球があります。これを夜空に打ち上げる風習がチェンマイにはあり、毎年多くの観光客が訪れていました。チェンマイの上空がコムファイでうめつくされ、幻想的で美しい風景が現われていました。

コムファイの灯りは布にアルコールを浸して燃えている火です。空中高く上がってアルコールがなくなると火が消えて、バルーンの皮がひらひらと落ちてきます。

タイ語学校の先生の話では、タイ人はすべてこのお祭りを礼賛しているかというとそうでもなく、大量に出るゴミなどを問題視するエコ的考えを持つ人(インテリ層)も増えてきている由。それはわかるような気がしました。灯篭は下流で役所の人が待っていてすべて回収するんですね。

とはいえ、古代から続く伝統行事の良い部分ももちろんあるので、わたしはローイクラトンに反対する意見には与しません。

大通りを練り歩くパレードを見物したあと、同級生や先生と別れ家路につきました。部屋に戻ろうとマンションのエレベーターを降りると、顔なじみのマンションの女性スタッフに会いました。すると「今屋上でカラオケやってるからこない?」と誘われて、マンションの屋上に行き、お酒を飲みました。タイ人と一緒にわいわい飲んでおしゃべりしてとても楽しかったです。そして空には360°全方位視界の中、無数のコムファイがまるで星のようにゆらゆら浮かんでいました。最高の酒の肴でした。

何年か前は石川さんご夫妻もこの時期遊びに来られたこともあります。というわけで皆さんも一度、コムファイでいっぱいの幻想的な夜空を体験しに11月のチェンマイに訪れてみませんか。お勧めですよん。(波照間エロマンガ島 17/3/24)

(寸評)あれ本当とても光景は幻想的なんだけどあまりのお祭り騒ぎ的爆音に興ざめしたのも事実。
でもその翌日深夜に小さな路地で女子高生たちが必死にお祈りしながらあげていて、通りかかった僕らにもひとつ一緒にあげさせてくれて、あの瞬間の為にだけでも行って良かった。 6ポイント。

はじめてのオフ会

私が初めてオフ会を行ったのは今は無き「アメリカ横断ウルトラクイズ」のオフ会でした。毎年番組をやっていた時代は、18歳という年齢制限があって出場できなかったので「今世紀最後」で復活した時に出場を兼ねてオフ会を計画しました。
日本テレビの公式HPにウルトラクイズの掲示板があり、そこへいろいろ懐かしい思い出などを書き込んでいたのですが、いつしか「みんなで出場しないか」という運びとなって私がいつしか幹事となり動き始めました。
番組は当時から大学クイズ研究会や、社会人のクイズ研究会などでまとまって出場する人が多くどこにも属していないウルトラクイズ好きの人で「一人で出るのつまらない」という趣旨のもと参加者を募りましたた。
当日は、手作りのでっかい旗を用意し東京ドームで待機しました。来てくれた人には色紙を渡し、何か一言書いていただきました。次々と旗の写真を撮っていく人が多く恥ずかしかったです。今でも悔しいのは、当日、ドームで過去のウルトラクイズのグッズを販売していたのに、仕事に忙殺されていて全く覗くことすらできなかったこと(笑)。
オフ会の経験が無く、当時在籍していた某チャットのオフ会の様子を参考にし、一人で企画したのはきつかったです。 なんだかんだで当日は200人くらいの人が集まってくれて、そのうち50人くらいで一緒に行動したと思います。
残念ながらドーム突破者は無し。その後、有志で池袋の白木屋(なつかしい)の一番でっかい会場に移動して、100人くらいで二次会をしました。みんなクイズ好きだったので盛り上がること盛り上がること。

 このオフ会があまりにも楽しかったので、その後、ウルトラクイズの過去の優勝者を呼んでの「札幌オフ」「福島オフ」「大阪オフ」「群馬オフ」「埼玉オフ」「福岡オフ」「富山オフ」などを企画し、私は全国を転戦、クイズ大会の後飲み会という黄金のパターンを作りあげ、いろんな人とお友達になりました。
 その時のハンドルネームは「わいわい」。当時のハンドルネームを現在でも使っています。
 私はパソコン通信ニフティクイズフォーラムには入っておらず、ツイッターやfacebookはおろかミクシィすら無い時代だったので、クイズ王を探すのは本当に苦労しました。オフ会の日程が決まると、私の個人HPの掲示板でオフ会を募集し、みんなが来てくれる流れでした。個人HP全盛の時代でしたね。
 会場はコミュニティセンターや公民館が多く、打ち上げとなる飲み会会場をさがします。時によってはオールナイトになることもしばしば。京都オフでは関西の幹事さんが一泊で企画してくれて、夜中に抜き打ちクイズとかしたなあ。
 クイズを作り、小道具も制作します。現場の下見もします。船や観覧車や公園でクイズをやる場合もありました。参加者は概ね一回50人くらいだったですね。今思うとネットが発達していない時代によくこれだけの人を集めたなあ・・・と。その後「ミスターオフ会」というありがたい称号を参加者から頂きました(笑)。
 ウルトラクイズ優勝者で来てくれた人は、第3回宗田さん、第6回高橋さん、第7回横田さん、第9回金子さん、第11回稲川さん、第12回瀬間さん、第15回能勢さん、第16回田中さんでした。
 懐かしていですね。(わいわい 17/3/13)

(寸評)おおっ、あの時代にそれだけの人、しかもほぼ知らない人を集めて幹事するのは凄い!
不便だから大変だったけど面白かったことってあったんだよねえ。
一度便利になると、簡単にはそれに戻れないよね。よくやった! 8ポイント。

はじめてのぼうず連れハイク on 海の日

2016年の海の日。7月の20日でしたっけ? まぁその辺。祝日だもんで暇をもてあました我々オポム一家は、お昼前からまたぞろ闇雲行先不明ドライヴに繰り出すことに。折角海の日なのですから海方面に行きゃあ良いものの天邪鬼な私は海にケツを向け、山方向へハンドルを切り、ばぶーん。

随分家から北にやって来ました。山深い、とまではいかないにせよかなり緑も多くなってきたここは兵庫県川辺郡猪名川町。「道の駅 いながわ」にてお昼、農産物販売センターで手作り感あふれる巻き寿司をもとめかつ喰らい、ぼうずはブルーハワイかき氷で舌先を禍々しい色合いに染め上げ、嫁はんは河原で玉虫を発見した見知らぬ小僧に嫉妬、血眼でそこいらを探し回った挙句なんと玉虫(故)を見つけ、よろこび踊っておりました。
こんな自然あふれる川べりでは空想上の昆虫と思われていた玉虫にも出会えるのだなぁ。嫁はん拾ったのは(故)やけど。都会っ子(←調子に乗るな)の我々はいたく感動、そこで私はこれまでに行った事のない、道の駅から西側のさらにヤバそうな山深い道へと車で突き進むことにしました。ぶろろろろ。

川辺郡から西へ進むと宝塚市に入ります。歌劇とかのある栄えた場所のほうじゃないよ、めっさ山だよ。
まったく当てどもなく彷徨ううち、標識に「県立宝塚西谷の森公園」という文字を見つけました。おお公園じゃ。ぼうずも楽しめるような施設があるやもしれん、と矢印を辿って着いた場所は申し訳程度の広場と休憩小屋とハイキングコースの立札でした。

わちゃぉ。4歳(当時)のぼうずと山登りかいな。思てた公園とイメージ違ごた。でもせっかくここまで来て何もしないで引き返すのもあほくさい、日もまだ高いことだしちょっと冒険だがはじめての子連れハイキングをしてこまそうか。展望台まで1.3kmって書いてるし、けっこう楽にいけるんちゃうん。ほほほ。海の日に山を満喫、このひねくれ具合がええがな、ええがな。と、調子に乗った私は不安そうな嫁はんをよそに展望台へ向けて歩を進めました。ほてほてとぼうずが続きます。
意外と平坦な道が池沿いに続きます。これもしかして楽勝? 嫁はんは玉虫を探しつつ私は鼻歌を奏でつつ、呑気に歩いていくと林に入ります。道が整備された感じから山道に変わった途端、ぼうずの足が止まりました。

オポ「おいどうしたぼうず、早よ来いや」
ぼうず「とさんかさん、やっぱりかえろっか」
オポ「何でぇな」
ぼうず「くろいつち、ふむのがいや」

なんとこの4歳児は黒い土道を通ると靴裏が汚染さるるが故にこの先歩きたくない、などとたわけたことを吐かすのです。

オポ「アホンダラ、山に来て山道を歩かん奴がおるかい、ちゃっちゃと歩け」
ぼうず「いやー」
嫁はん「ええから来い」

虐待と言われてしまえばそれまでですが、単に湿り気があるだけの土さえ踏めないなんてこの先の人生に支障をきたします。ぼうずは我々を凌駕する都会っ子であったのです。無理矢理手をとり、諦めて自力で歩くまで嫁はんと2人でぼうずを「捕らえられた火星人状態」で引きずりました。これは乗り越えるべき壁だ、と言い聞かせながら。

ようやくどうにかぼうずも観念し、15kgを運ぶ労働からは解放されました。しかし道が林に差しかかってから、西谷の森公園は本気を出してきました。
これまでの平坦な道から、じわじわ勾配をつけてきたのです。たまらず我々は分岐点の先にあるベンチでお茶休憩にしました。地図によるとこの先はこれまでよりさらに急な勾配になる模様です。おい、これ大丈夫か・・・?
と、思ったのもひととき、勾配がきついと必然階段が多い道になります。ぼうずは道が階段中心になった途端にわかにテンションが上がり、嫁はんが置いて行かれるくらいにバリバリ進みだしたのです。
嗚呼、君はいのちに一番近い。幼児はエネルギーの塊です。のっぺりした上り坂の連続より、起伏のある階段道のほうが楽しいのでしょう。私自身も運動はからっきしだったけどハイキングではやたらと元気だった小学生時代を思い出しました。

結局ぐずったのははじめの林に入るところだけ、ぼうずは展望台までの行程のほぼ9割がたを、自力で歩覇したのです! 犬を連れた老夫婦も、こんな4歳の小僧がここまで来たのに驚いていました。スタートから距離にして1.3km、標高差約110m、所要時間約1時間。たしかにすれ違う人々の中にこんなちっこいのんは居ませんでした。結局嫁はんが一番こたえていました。
いい景色です。茶もうまい。頑張った。私も嫁はんも、そしてぼうずも。無理にでも歩かせて、良かった。

しかし山に登ったら降りねばなりません。当然の理です。

ぼうすは登るのにスタミナを使い果たし、だっこおんぶを要求するようになりました。
そのうえ下りのルートもなかなか恐ろしいもので、この公園の名物である岩場の尾根道「馬の背」などは景色こそ絶景なれど足を滑らせれば確実に終了です。また地図と標識がどうもリンクせず、近道したつもりが足場の狭い回り道を選んでしまったようで予定より距離が増え、そのぶんぼうずをおんぶする時間も延び、先ほどの分岐のベンチに戻ってくるまでに私はへろへろになりました。

その後も玉虫は見つからず、私も当面の間筋肉痛に苛まれましたが、ぼうずははじめての山登りで自信を付けたらしく、以降歩いて遠くへ行くときにだっこおんぶをあまりせがまなくなりました。自己肯定感がいちじるしく低い私にとって、ぼうずが自力でできることが増えるのはなにより嬉しい事です。あまり親の願望を託し過ぎるのも良くないんですけどね。

親子ともに思い出に残った、はじめての海の日の子連れハイクでした。ちなみに玉虫(故)はじきにえらい臭いがしてきたためバイバイしました。アデュ。(オポムチャン 17/3/13)

(寸評)そうやって大人に、男になっていくのだなあ。
子供のいない俺には懐かしいような人生で出来なかった悔いのような。 7ポイント。

はじめてのケーブルがないなら歩けばいいじゃない

12月上旬。いつものように暇を持て余したオポム一家はぼうずの退屈だだこねをどう躱そうか、と思案していました。

闇雲ドライヴはこないだやったし、だんだん車で行く場所も思い付かなくなりました。そいじゃあどうしよっか。そういえば夏に海の日山登りをやったなぁ。冬でも手軽に高いとこまで行ける山はないかなぁ、と考えたところ、箕面(関西有数の猿の生息地)は近すぎる。金剛山(大阪・奈良・和歌山の県境)では遠すぎる。では大阪南端の金剛山はやめて北端の妙見山(大阪・兵庫の県境、北極星を祀っている)へ行ってこまそう。と思い立ちました。

寒さが増してきたとはいえ比較的暖かい瀬戸内気候に属する大阪、まだ妙見山に積雪はみられません。これならケーブルカーとリフトで楽々上の方まで行けそうです。やっほぅ。楽しみだなぁ。結婚して2年くらいの時に嫁はんと行って以来、久し振りです。そのうえ山の中腹には森林鉄道が走っており、電車大好きなぼうずも大満足でしょう。これには私も乗ったことがないのでワクワクです。

早速午前中に家からバスに乗り阪急豊中駅へ、川西能勢口駅から能勢電鉄に乗り換え妙見口駅へ北上します。
そんで、終点・妙見口駅で我々が目にしたものは。

『妙見の森ケーブル・リフトは12月5日(月)〜3月17日(金)まで冬期運休となります。』

暦は12月10日(土)でした。がぁぁぁぁぁぁぁぁぁん。畜生、1週間早ければ、早ければッッ・・・・・・!! おのれ妙見の森、ホームページも見たのに皆目気付かんかったわ! もっと大々的にそこはアピールしとかんかい!!! と文句を垂れたところで仕方ありません、だってもう来ちゃったんだもん。今更なんにもしないで帰るのもおもろない極みです。しかしそんな我々をおちょくるかのように雨まで降ってきやがりました。
折角なので駅を出た所にある、おばちゃんがやってる古びた食堂「津の国屋」さんでお昼をいただきます。こういうお店のメニューはレストラナイズ(←?)されてなくっておいしい。家庭寄りの味。中華そばなんてここ最近たべてない懐かしい美味しさでした。食べてる間に、私と嫁はんはある決め事をしていました。もし、食べ終わって雨がマシになってたら。

ケーブルがないなら歩けばいいじゃない。

恐ろしい発想です。なんでケーブルカーがあるのか、との問いに答えるならば、それは坂が急な場所をらくらく登るためです。よね。それをば歩くということが一体どういうことになるのかは自明の理です。よね。しかしハイキングコースとして道は存在します。ひょっとするとケーブルは止まってても森林鉄道はやってるかもしれません。そして私は小中学校の頃、何度も妙見山のハイキングに来たことがあるのです。かすかに記憶が残っているかもしれません。いっちょやってみっか。

雨は小止みになっていたので、我々はハイキングコースの入り口まで15分ほど歩きました。途中止まっているケーブルの前で呆然と立ち尽くす一家を見ました。ショックは我々以上でしょう。そんな彼らを尻目に、我々はケーブル黒川駅横の山道を登り始めました。
いきなり何処を歩けばよいのかわからない坂路に突き当りました。
心を折られた私は嫁はんに
「こらあかんわ、帰ろっか」
と申しましたが、この嫁はんは都会っ子の割に妙に野性味のある奴で
「いや、この道やわ。行こう」
と枯葉で埋めつくされた急な坂道を進みます。さすが私と結婚するだけあっていい根性しています。

どうもこのコースは私は初めて通るルートのようです。案内板を確認すると小中学生でも歩けるもっともイージーな上杉尾根コースは森林鉄道のある中腹にはつながっておらず、そもそも入り口はとうに通り過ぎてしまっていたのです。つまり森林鉄道を拝むにはこの道しか選択肢はない、ということみたいです。ひょぇえ。
急な勾配で、早速ぼうずが音をあげました。そのうえ夏に克服したはずの土道踏むのコワイコワイ症候群がまたしても発動し、地面に足を付けるとぎゃぁぎゃぁ泣きだして一向に自力で進もうとしません。あの夏の日の勇姿は何処へやら、5歳のぼうずは15.6kgの荷物と化しました。
これまでに登ってきた中でも1,2を争う急かつ荒い山道、幅も狭く足を滑らせれば道へ戻ることが困難な場所もあります。そらケーブルカーも作るわな。そしてぼうずは地面に降ろすと半狂乱、私はぜぇはぁ言いながらぼうずをおぶりつつ悪路を往きます。

途中、森林の手入れをしているおじさん達に逢いました。

おじさん「何処まで行かれますか」
オポ「森林鉄道の広場まで」
おじさん「冬は日が落ちるのが早いですからね、お気を付けて」

エッそうなの!? まだ14時前じゃん。しかしよく考えてみると、山道はおしなべて高い木々に囲まれています。つまり日が高い所にあっても、15時にもなれば高い木に日の光は遮られ、没したと同様に辺りは暗くなってしまうのです。そうなるとどうなるの。そうなんです、遭難です。山道に電灯はありません。この悪路、光を失えば間違いなく足を滑らせるでしょう。そして暦は一年でも特に昼の短い、冬至前。

私は一気に怖気づきました。

そして決めました。14時半までに広場に出る目途が立たなければ引き返そう、と。
この提案にぼうずは反対、しかし自分の足で登りもせんと文句ばかり垂れるので聴く耳をもってやりませんでした。嫁はんはもっと早めに引き返した方が良いんじゃないか、と言いますが、はじめての道、どのくらい登ったかもわからないのです。もしかしたら、あとちょっとかもしれないのです! だとしたら、引き返してしまっては此処までの苦労も報われません。
・・・しかし無情にもタイムアップ。大堂越、と呼ばれるポイントに差しかかったところで、私は無念の撤退を決めました。
ぼうずはぐずりますがナビスコオレオを与えるとすぐ機嫌を直しました。誰に似たのだ。私だ。ここで尿意をもよおしたぼうずは人生初めての野小便をかましました。おむつか厠でしか用を足したことが無かった奴にとっては思い出深い行為となったようです。

往路よりも森陰はその濃さを増しています。私は歩みを早めます。

おじさん「どうでしたか、広場には着けましたか」
オポ「いえ、諦めました。この子が歩かないしうるさいもんで」
おじさん「そうですか、ここは春には桜も咲きますから、是非また登りに来てください」
オポ・嫁はん「有難うございます」

そうよね。そもそも冬に思いつきで山に登るもんじゃないよね。私はあほです。すなおに春を待ちケーブルに乗りゃあ良かったのです。こんなコース子連れで登ること自体が無謀だったのです。ケーブルがないなら帰るのが正解だったのです。
ほのかな屈辱を胸に、私は山を下りました。いつの日か、雪辱を果たすことを誓いながら。

後日談。まだケーブルも動かない2月にドライヴがてら、車で妙見山に登りました。思いがけず雪が残っており、大量の雪を初めて見たぼうずは大喜びでした。妙見山本殿では読経する沢山のお坊さんがシと#ファで綺麗にハモっており、私が「ここに#レが入るとさらに綺麗になるなぁ」とかほざいたら故意か偶然かあいだに#レの読経が挿入され、美しいBの和音が顕現しました。爆笑する私と嫁はん。なんじゃこりゃ。
あ、結局森林鉄道はケーブル運休中もやってるかどうかはわからないままでした。(オポムチャン 17/3/13)

(寸評)ほのぼの家族日記だね。タイトルは初めての野小便でも良かったね。
ナビスコオレオは携帯必須だね! 7ポイント。

初めての講演会

私は精神疾患の当事者で普段は精神保健福祉施設に通っています。喫茶店、リサイクルショップ、ケーキの製造などの仕事をしておりますが、病気も徐々によくなっていく一方、私の上司の男性が、大学の講師をされている方と付き合いがあり、そこから当事者の者を一人選んで、病気の回復やリカバリーについて講演発表をしてほしいと依頼を受けたようです。

その事業所のスタッフ会議で全員一致で私に決まったそうです。さっそく原稿書きに取り掛かり上司のチェックの元、原稿を完成させました。
余談ですがこれ以前にも講演をさせていただいたことがあり、何の準備もなくぶっつけ本番のシドロモドロで本当に準備の大切さを思い知りました。

文京区の茗荷谷駅、跡見学園女子大学が会場でした。講演といっても一つの教室の講義のひとつだったようで、聞き手も15〜20人ほど。どんな人たちか分からないところは本当に緊張しました。学生さんたちはどんな勉強をしてきて、今回何を聞くことを目的としているのか。考える材料は尽きません。
結果的に私の半生と回復のポイントになった出来事を中心に話しました。緊張もしましたが、人生のいろいろな出来事を振り返るのは楽しく、40分ほどの時間があっという間に過ぎました。
そしてなんと上司が講義の担当の方に、私がシンガーソングライターであることを伝えてくれて、一曲歌わせていただく時間までいただきました。

一つ重大な失敗をしたのですが、手持ちの録音機材を持ってくるのを見事に忘れました。
自分にとって本当に貴重な時間だったので本当に残念です。

イベントが終わり上司と駅前の食堂に入りました。その後、池袋のサンシャインで働いている知人店や、ブックオフを巡り帰路につきました。

後日、もう一仕事あり、生徒さんたちがレポート用紙に書いた感想や質問に返事を書きました。正直講義をしているときは皆さんは案外無反応で、本当に伝わっているのか不安にもなりましたが、いざレポートを見てみると本当に充実した内容でレポートが書かれていて、こちら側も充実感や達成感を感じました。

2016年の1月の出来事でしたが、やっぱり快い出足の年でした。新しことが少しずつ手にかかってゆく。少しずつの歩みだとしても、前とは違う新しいことができるのは人生の楽しみです。(Sankaku 2017/3/3)

(寸評)それは貴重な体験をしたね。
今度は歌で呼ばれるといいね! 8ポイント。

初めてのガンプラ

私の仕事はリサイクルショップで働くことがあり、お客様から「検品」という形でタダで不用品をいただいています。本当にさまざまなものをいただきますが、一番のメインは婦人服です。

そこで働き始めた時分に、ガンダムのプラモデルの新品がまるまる一個入ってきたことがありました。ガンダムにはほとんど興味はありませんが、なぜか自分が衝動買いをしてしまいました。ダブルゼータガンダムというキャラクターでしたが、箱を開いてみてその部品の多さと作りの緻密さには本当に感嘆するしかありませんでした。仕事が休みの日に6時間くらいかけて完成させることができました。

といっても完成させても飾るところはありません。どうしようかと思ってる時に、ちょうどホルモン鉄道の山梨の黄金温泉のライブで、ゲームをするのでなんでもいいから景品を持ち寄ってくれ、とメールをいただきその完成させたガンプラを持っていくことにしました。
親子連れの方にそれは渡ったようですが、果たしてどうなったことやら。完成させたといっても塗装などはほかの材料を買わねばならず、もうひと手間かかります。

もうガンダムが誕生してから40年近くたちますが、その歴史の一端を垣間見た感じでした。ホビージャパンという雑誌には毎号ガンプラのページがメインですが、ほんとにヘビーな趣味の世界です。(Sankaku 2017/3/3)

(寸評)先日のクイズにも出したけどチェンマイのデパートにもガンプラ専門店があるほどだからねー。
俺はほぼ世代的に知らないのだけど。 7ポイント。

初めてのインド・マサラムービー体験

私が初めてインドのボリウッド製作の「マサラムービー」を体験したのは、1997年日本公開の「ラジュー出世する」という映画でした。
日本でインド映画がロードショー公開されたのは、実に42年ぶりとのことでした。
キャッチコピーは「アジアン・エンターテイメントの最終兵器(リーサル・ウェポン)ついに登場」「ちょーお色気、めちゃお笑い、こてこてインドの大娯楽映画、42年ぶりのロードショー」。歌あり踊りあり大げさな恋愛模様ありで、とても楽しい映画でした。上映時間159分。

当時わたしは毎月30〜50人くらい友人を集めてアウトドアやインドアで「遊びの会」イベントを主催していたのですが、そこでインド大使館関係の友人に頼まれてこの映画を宣伝することになったのが、この映画と出会ったきっかけでした。

まず1997年の某月某日、銀座の東映本社に出向いて試写会を鑑賞しました。会場には作家の田中小実昌さんや比較文学者、映画史家で明治学院大学教授の四方田犬彦さんらがいました。たまたま四方田さんの隣りの席だったのですが、四方田さんはしじゅう大笑いし、興奮している様子が毛穴からびんびん伝わってきました。私も初めてのインド映画体験を存分に堪能しました。

イベントでこの映画がいかに面白いかとうとうと伝えましたが、宣伝のかいなく、映画はヒットしませんでした(苦笑)。しかししばらくして同じ配給会社で「ムトゥ 踊るマハラジャ」というインド映画が日本で大ヒットしたのはご存知のとおりです。
「ラジュー出世する」はそんな想い出のあるインド・マサラムービーでした。機会があれば、ご鑑賞いただければ幸甚です。(波照間エロマンガ島 2017/3/3)

(寸評)いろんなことやってんねー。
最近はジャッキー・チェンもボリウッド映画に出演とか噂になってるね。 7ポイント。

初めての革靴

私が初めて革靴を履いたのは、高校へ入学した時です。
しかし私は足のサイズがめちゃめちゃ小さいのです。ん、これはおバカネタか(笑)。
身長は、168なので、まあ普通と言ってよいかと思いますが、足のサイズは男なのに24..0なのです。
ご存知のようにメンズの靴サイズは24.5からが主流なので、なかなか私に合うサイズがありません。
高校生の時はローファー、しかもリーガルが指定靴だったので、一番小さい25.0のローファーに中敷きを敷いてさらに女性のストッキングを先に詰めるというなんとも情けない恰好でした。足は痛いわ、パカパカするわ、いい思い出がありません。
二足目からは、女子の24.5でHARUTAを履きましたよ。
現在でも、靴は、メンズの24.0が無いと、レディースの24.5を履いております。
情けないです。(わいわい 2017/3/3)

(寸評)俺も頭が小さいので帽子は本当は児童用のがちょうど。
でも流石にアブナイ人と思われるのでブカブカのSサイズをかぶってる・・・。 7ポイント。

はじめての暴力パーキング??

2017/1/21。私は女房子供と先日からお気に入りの某ステーキ店へ出かけました。
某所のイオンモールに駐車し、早速お店へ。その日は風が冷たく、入り口付近に案内された我々は来客の度に差し込む寒風に凍えながら豪華なお昼を頂戴しました。ウマ寒かった。

ついでに買物を済ませ、駐車券も割引してもらいさあ帰宅、という段階。私は駐車場出口でポケットから取り出した駐車券を精算機に投入しました。

音声はこう告げました。

『セイゲンジカンヲチョウカシマシタ。リョウキンハ、ハチマン・ナナセン・ヨンヒャク・エンデス』

・・・・・・・・・

ほ?

いやいやいやいやいやいやいやいやいや。
ショッピングモールの駐車場で3時間ちょっと停めて割引まで利用して、は、は、87400円、ですって??

んなわっきゃあるかい!!!

私はただただ混乱しました。ここは日本国の兵庫県です。わけのわからないインフレとかは発生していません。アラブの富豪でもこんな法外なパーキング料金は支払わないでしょう(知らんけど)。善良な(?)イオンがそんな悪質なぼったくりを仕掛けてくるとは考え難い。しかしこれではぼったくりバーならぬぼったくりパーです。

「取消」ボタンがあったので、とりあえず間違ってもそんな金は払わないように押しました。そして帰ってきたカードを見ると、入庫時間は12:10。おおむね今日パークした時間です。出庫時間、16:00。なんでこれで87400円ですのん。 しかしよくよく見れば、日付がおかしなことになっていました。

2017/1/12。

おひょん?? 今日は2017/1/21。機械が、日付を間違うはずはない。ということは・・・・・・
私は財布を確認しました。あった、今日付けの駐車券が・・・!!
『リョウキンハ、ニヒャク・エンデス』
た、助かった・・・!! 後ろから「なにモタモタやっとんねん、あほ」とクラクションを鳴らされつつ、どうにか無事私共はイオンモールから脱出、度肝を抜かれるパーキング代を払わずに済んだのでした。

説明を要します。
このイオンの駐車場では車台番号認識システムで出庫をスムーズにする方式になっており、事前精算機で駐車券を通せば出庫時に精算機に駐車券を挿入せずして自動的に出庫ゲートが開く仕組みになっているのです。詳しい理屈はさっぱり解っちゃいませんが。
つまり、前回来店時(またまぎらわしいことに12日、しかも入庫時間もほぼ同じ)、自動で出庫ゲートが開いたが故に精算機に投入しなかった駐車券が、私のポケットに残っていたのが敗因だったのです! たしかにいま計算したら、1時間400円で9日ちょい停めたらそんな金額です・・・。また今回は駐車場と訪れた店舗の位置の関係上たまたま事前精算機が近くになかったんですよね。

教訓:挿入しなかった駐車カードは即座に破り捨てましょう。しっかしこういった事態を想定して、未挿入のカードは即廃棄せぇ、とかのアナウンスでもしてくれりゃいいのにね・・・・・・、ってこんなあほなことするの、私だけか。失礼しました。それにしても駐車場の自動音声で8万とか、はじめて聴いたわ(笑)。ちゃんと音声用意してんのね。ご苦労様です・・・ (オポムチャン 17/2/7)

(寸評)なるほど。例えばショッピングセンター内で急病になって救急車で運ばれて緊急入院、10日後に退院してやれやれと思ったらこの請求は妥当なものになるっちゅうわけね。
あと忘れて電車で帰ってしまったりしたら・・・。
これだから車社会は怖い! 8ポイント。

初めての東京藝術大学

上野の博物館巡りをするときは、昼食はいつも決まって東京藝術大学の学食です。
4年くらい前のちょうど今頃、私は藝大へ行きました。大学ではちょうど修了/卒業作品展を行っていました。
何気なく見ると・・・それは凄かった!
私は美術館には全く興味のない人間なのですが、藝大の修了/卒業作品展は全くの異次元でした。私なんて上野の西洋美術館なんて無料で入れるのにまだ一度しか行ったことがありません。ま、それはそれで問題ですが。

彫刻、絵画、油絵などどれをとっても個性的なものばかり。
プロでない学生の突飛ない発想、溢れるばかりの想像力、思っても見ない自由な方向性が作品に突き抜けているようでした。学生パ ワーの賜物かもしれません。
そうして、私は藝大の修了/卒業作品展に圧倒されました。
はじめての素人の作品群はとても素晴らしいものばかりでした。

その後再訪したかったのですが、一月下旬はイベントや仕事やらが立て込んでいてなかなか行く機会が得られませんでした。
今年(2017/1/31)、やっと行く機会に恵まれ中国人留学生二人と最終日の修了/卒業作品展へ行って参りました。4年ぶりです。
今回も彫刻、美術教育、日本画などたくさんの展示がされています。
多くの来場者が写真を撮っております。

藝術大学の展示は独特で、展示品の前に、名刺、作品ファイル帳、記名帳(住所を書くと個展通知が送られてくる)が置かれています。
大ホールでの集合展示から、教室や制作室1つを 使った個人展示まで展示方法は多々あります。
まともな芸術作品も多いものの、私が感動したのは、前衛的作品でした。

・90ℓくらいのビニル袋を大量にばらまき、袋に入って抜け出たり寝ていたりじっとしている学生。
・天照大神の天岩戸を教室に作り、お金を投げ入れると岩から出てきて、人の目をじいいっ見ながらお菓子や石を参拝者へ与え、また岩の陰に半身だけ隠れる巫女服の女の子。私の時は、袋に入ったチーズをなぜか手で絞って頂きました。留学生は一口飲んだ缶ジュースをそれを与えられ困惑していました(笑)。食料とかお賽銭とかいろいろ雑多なものが教室の天岩戸にばらまかれています。うん、めちゃめちゃかわいい巫女さんでした。
・裸の男女が音楽に合わせてペンキを塗りあ っている作品(さすがにVTR)。
・いかにもと言ったお兄さんが屋外で屋台を引き、何かわからない8種類のソースを選択させ、焼いたトルティーヤを絵具パットに見たて提供するもの。代金は気持ちで良いとか。

などなど。これが大学祭でなく修了/卒業作品展なんですよ。藝大の展示は自由すぎます(笑)。
学生のツイッターとかブログを追っていくと、搬入、搬出の苦労など、バックステージの部分が見えてさらに感動しました。「誰か手伝ってくれーぇぇぇぇ」とか。
大量の空き缶を使ったアート作品もありました。

無論ただ勝手に展示すればいいわけではありません。卒業作品なのですから、指導教官もちゃんといて、作品の目的や得られる結果などをきちんとまとめなければなりません。これは 普通の卒業論文と変わりません。その証拠に、専攻によっては、抄録や論文自体を制作して展示、販売している専攻もあります。サマリーを立ち読みしたところ先行研究や、論文の目的、方法論、得られた結果、結語など論文形式で書かれていました。
私がただ単に「うぇーい」と言って展示しても、おちゃらけた展示になってしまいます。基礎があって、目的があるからこそ、人を呼び感動を起こさせる展示なのですね。ただ自由にやればいいというわけでもないのです。

石川さんの音楽も私なんかがやったらただの遊びですが、基礎があり目的がありコンセプトがしっかり完成されている石川さんが歌い演奏するからこそ、人を笑わせ感動させてくれるのだと思います。
また来年行くぞー(わいわい 17/2/7)

(寸評)ニヒル牛というお店もまさにその為に作った。
完成されたアートももちろん素晴らしいのだがそれは他の所でも見られるし何より冒険心は薄い。
アマチュアリズムの本業じゃないからこその「やっちまえ!」感の見られる小さな美術館でありそれを買える商店でもある。
それがニヒル牛の根本です。 7ポイント。

初めての貞操の危機?

波照間エロマンガ島です。今から15年くらい前、横浜でキャバクラ嬢の自宅送りのバイトをしてました。そのときの話です。

わたしは送りの仕事を終え茅ヶ崎海岸付近を走ってました。ある交差点で右折する時に左側からきた車とすれ違いました。その車はすれ違ったあと急にUターンして、私の後ろにぴったりついてきました。信号で停車すると、その車は横にはみ出してわたしの車の横にぴったりとつけました。「おぃ危ねぇじゃねえか」と思わず声を上げそうになりました。その車には大学生風兄ちゃんが2人乗っていた。目が合った瞬間、ぎょっとしたような驚きの顔をしてました。その瞬間わたしはすべてを理解しました。こいつらは交差点でわたしを見たときに、マッシュルームカットをしていたことから女だと勘違いしたのです。それで追っかけてきたナンパ野郎だったわけだ。でも怖かったぁ。バツが悪くなったやつらはそ のままわたしを追い越して猛スピードでどこかへ行ってしまいました。カーナンパされかかったのは初めてでした。そんな湘南地方でのお話。(波照間エロマンガ島 17/2/7)

(寸評)今ならナンパされても付いて行くかも!? 7ポイント。

初めて「黄金餅」を聴いて江戸の地勢を想起した

古典落語に「黄金餅」という演目があり、外国に住む現在もよく聴いています。五代目古今亭志ん生の名演で有名ですが、その中に江戸市中の下谷から麻布まで死体を桶に入れ移動するシーンがあります。いつも地勢を頭に浮かべながら聴いています。現在もほとんど同じ道路が残っているのでとてもイメージしやすいのです。かつて東京の会社で営業車に乗って仕事をしていたので、尚さら親近感をもって江戸=東京を重ね合わせて頭の中で移動できます。ネットを検索すると文字起こししている人がいて下記に引用したので、東京に住んでいる方はイメージがしやすいのではないでしょうか。 それにしても「黄金餅」は陰惨な噺です。しかし人間心理の深遠を憑いていてとても惹かれます。いつも思うのは日本の話芸の伝統上にありながらも、1930年代のイギリスのクライムサスペンス映画(渡米前のアルフレッド・ヒッチコックなど)を想起してしまうのですが不思議ですね。こういう風に古典芸能の落語から≪江戸の風景≫を具体的に想像したのは「黄金餅」が初めてだったと記憶しています。(古典落語は江戸から明治・大正時代までの新作落語は含むという解釈がされたとしても)

(志ん生版「黄金餅」を書き起こし)
下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ 団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私(志ん生)もくたびれた。(書き起こしここまで)

噺はこのあと麻布から桐ヶ谷(現在、品川区西五反田)の火葬場に行く描写が続くのですが、桐ヶ谷斎場と言えば現在も存在する民間の火葬場であり、私にとっては前職の仏事返礼品の商事会社に勤めていた時には縁の深い場所でした。また地元でもあり、多くの知人友人親戚を見送った場所でもあります。

それにしても志ん生は凄いです。1973年に亡くなって40年以上経っているのに録音資料が豊富に残り、いまだに現代の日本人に親しまれているという事実。この石川さんHPにも志ん生の最後の弟子志ん駒が知久さんと同郷の川口出身だったことは先日どこかに書きました。あと、志ん生の孫の池波志乃とその旦那の中尾彬のカラオケの話を書いたことがありますね。そんな感じでまた志ん生について思い出したら何か書いてみたいと存じます。(波照間エロマンガ島 17/2/7)

(寸評)それにしても波照間エロマンガ島はいろんなことに造詣が深い。
落語、映画、絵画、音楽・・・。
評論家として何か残そうというような気はないのだろうか? 7ポイント。

はじめての遺跡発掘

「遺跡発掘のバイトをやっていたんですよ」
というと意外に受けがいいです。
バイトをどこで見つけたかというと、考古学専攻の教授からの紹介というルートもあるのですが、私はハロワで見つけました。ハロワを侮ることなかれ、遺跡発掘とかミュージアムの受付とかいろいろ面白いバイトが転がっているものなのです。

私は大学が休みだった2月と3月の二か月やりました。実際は前期二か月、後期二か月の計四か月が募集だったのですが、4月からは新学期が始まってしまうので前記の二か月だけで。

場所は、イオンレイクタウン近くの川の近くの丘陵でした。そこへ土手を作るための河川工事をするので、予め遺跡発掘をするとのことです。
バイトの人数は男女合わせて30人くらい。1/4が主婦の人、1/4が学生とか遺跡マニアの人、1/4が職を探している人、1/4が定年後の人という感じでした。
プレハブ小屋が二つとトイレ、このときのためだけに水道と電気を敷きます。プレハブ小屋は、休憩したり、土器を洗ったり、物をしまったりするために使用します。

正職員は、文化財センター2人。公務員の管轄下なので、土日は休みでした。勤務時間は、0900-1700くらいだった気がします。ちゃんと1000とか1500には公務員らしく休憩が与えられます。

遺跡発掘はどんなイメージがありますか。多くの人がイメージするのは、モンペや頬っかむりをしたおばちゃんが土を削っているという地道な作業だと思われます。
しかし実際は、まず重機で発掘の地層まで一気にどどっと削っちゃいます。これは外注ですね。そしてシャベルカーである程度までならします。このとき重機が削り取った土の中に意外と土器が混じっているものなのです。

その後、鋤簾(じょれん)という鍬(すき)で地層を鳴らします。このときの土は、ネコ(一輪車で)土を運びます。発掘後期には、残土が山のようになります。これは土が飛ばないようにブルーシートで囲まれるのですが、ちょっとした丘のように凄い量になります。
同時に余った土で、土嚢を制作します。
このように結構力仕事で、最初のうちは筋肉痛で歩くのもままならない状態になります。

鋤簾で平らにすると、遺物がでる地層や、炭などの燃え跡が見つかります。見つかると、石灰でマークをし、そこをスコップで丁寧に削ったり、溝の場合はスコップで土を取り除いたりします。

出てきた遺物は日付の書かれたかごに入れます。

力仕事でしたが、なかなか面白かったです。(わいわい 17/2/7)

(寸評)まだ腐りかけの死体が出て来た時はそっと埋め戻すのだろうか・・・。 7ポイント。

はじめての海外旅行

わたしの正式な初めての海外旅行は、高校二年生の時の修学旅行で訪れた韓国でした。
飛行機で三泊四日。確か成田出発だった気がします。羽田じゃなかったよな。
出入国のハンコは押してもらえるのですが、韓国(ソウル)での持ちのもチェックはありませんでした。とどのつまり税関でフリーパスです。
帰国時の申告も一応はあるものの誰も高価なものは買っておらず、酒もたばこも当然買わなかったので、みんなパスでした。
それでもませている年頃なので、ネクタイピンとかペンダントとか、家族へのお土産で1万くらいのみのはみんな買っていました。

韓国でずっと私たちに付いていた通訳の方がとてもかわいくて、ツーショットで写真を撮ってもらったのは、いい思い出です笑。
私はガイドの人に「なんで日本語の通訳をしようと思ったのですか」と質問をしました。
ガイドさんは「なんでその質問をしようと思ったの」と笑顔で返されました。ここは大人の会話ですね。
ガイドさんは途中の高速のサービスエリアでお饅頭を買って、何人かに配ってくれたりして。

三泊四日の海外旅行。ソウル-板門店-慶州と回りました。
この旅行で、高校生の時に思ったことを上げてみたいと思います。
●高速道路が一直線で、センターラインは取り外し可能な道路だった。
●緑色の雪見だいふくがあったり、焼き肉ではキムチや野菜類が食べ放題だった。
●物価が安かった。
などが、高校生ながらに、印象深かったものでした。(わいわい 17/2/7)

(寸評)韓国って定食にキムチ類が食べ放題でドッサリ来るのが嬉しいよね。
なんならメインなくてもそれだけで飯食えるよーというほど。
政治的な問題などでは反日の人が結構いて怖いんじゃないかなと思ってたけど全くそんなこと無かったな。
昔すごろく旅行で一周もしたな。 6ポイント。

初めての「ワニに注意」の海浜公園

私はシンガポールへ旅行したことが7〜8回ほどあります。主にバンコクへ行く途中に途中降機で入国したことがほとんどですが、学生時代の友人が駐在員として住んでいることもあり、とても馴染みの深い国です。

2003年2月13日、私は初めてクランジビーチ公園に行きました。この公園はシンガポールの北方のジョホール水道に面していて、第2次世界大戦の戦場になった場所です。

1942年2月10日朝、大日本帝国陸軍は干潮に乗じてこの海岸線に侵攻上陸しました。英国軍と交戦状態に入ったのですが、やがて英国軍は撤退するに至ります。日本軍は上陸を果たし、シンガポール侵攻の足場を固めたのでした。そしてシンガポールの都心を攻略し、ついには山下奉文大将は英国指令官に対し「イエスかノーか」と最後通牒を突きつけた、とされています。

画像を見ると対岸のマレーシアのジョホールバルまでわずか数キロ足らずで、対岸の建物施設がよく見えます。考えてみると対岸の外国を肉眼で可視できる場所というのは非常に珍しいのではないかと思います。そしてこの公園にあった警告標識「ワニに注意」には驚かされました。



戦没者慰霊塔のある日本人墓地が市内にあり、お参りしたこともあります。そこにはこの地で客死した二葉亭四迷のお墓があったのが印象的でした。戦争の爪痕が残っているところへはできるだけ行こうと思っています。過去の日本人が到達した場所に立ち、その日本人が感じたことに想いをめぐらせてみたいのです。いつか死ぬまでに伯父が戦時中駐屯したジャワ島は訪ねたいです。
というわけで、初めての「ワニに注意」の標識のある海浜公園に行った話でした。(波照間エロマンガ島 17/2/7)

(寸評)あ、俺もひとりでシンガポールに行ったけどホテルが高かったので橋渡ってジョホールバル行って泊まったなぁ。
ジョホールバルの動物園ものんびりしてて良かったよー。 7ポイント。


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