ドキドキドキリコ初体験(85)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント?ー(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめてのチャレンジ! 牛の肉450g

ここんところ喰い過ぎネタだらけで恐縮です。
さて年の瀬に欲望が爆裂した際にはじめて入った某ステーキ店(「おバカ」17/1/8参照・・・ しなくていいです)。もうあんまりお店の名前出すと今流行りのステルスマーケティングすなわち宣伝の体を成さずして潜在的に特定の物・事を宣伝してこますという卑怯行為いわゆるステマとお思いになる方もいらっしゃるかもしれないので某店としますが(長いな)、そのお店で受けた衝撃が年を明けてからも忘じ難く、三が日も過ぎてまたぞろ自主的ラマダンを開催し始めたというのに私の心は分厚いレアステーキに支配されたままになっておったのです。

前回そのお店でいただいた牛ステーキは300g。これまではせいぜい金銭的理由もありファミレス等で180gを突っつくのが精一杯だった私。しかしそんなケチケチ牛肉はステーキの本来の醍醐味を損なっており、ぺらぺらで少量では牛の肉の本来の旨味を充分に味わえないということを思い知らされたのです。知りたくなかった。出来ることなら慎ましく足ることを知り生きていたかった。されどされどお肉大好き人間として知っちゃったものはしょうがない、こうなったらとことん満足のいくまで(つまりやり過ぎて失敗するまで)普段のお買い物では高価すぎて見向きもしない牛のお肉を喰らってやろうではありませんか。私も懲りないぽっちゃりです。

しかしそうはいっても特段の用事がなければ基本的に晩御飯はお家で嫁はんがぼうずの相手で忙しい中こさえてくれています。それをば己が欲望を振りかざしたいがために無下にするなどということは罰が当たってしまいます。夫婦仲の危機です。折角慌ただしい中こしらえたのに貴様はお外で牛の肉か、ええご身分やのう、おぅ? こら。となることは必定です。

と悶々としていた私に、早々とチャンスが転がり込んできました。
1/12にたまたまお休みをいただいた私、普段ならば嫁はんと質素なお昼をいただくのですがこの日嫁はんは幼稚園のPTAの打ち合わせでお昼を食べてくるとの事、私は適当に食べてて、といった次第に相成ったのです。
こりゃ重畳、某ステーキ店にはお得なランチメヌューがあるのです。年末にはじめて食べたのはリブロースステーキ300gでご飯・ミニサラダ付きで税込2750円でしたが、お昼のメヌューはなななんと厚切りステーキ450gをライスとミニサラダさらにスープも付けて1944円税込で提供しているとの事ではありませんか!!! こないだより肉の量も多くってしかもスープまで付いて800円も安いだなんて、こんなチャンス逃すわけにはまいりません。また普段はお弁当を自分でこしらえて職場に持ってってるので、こんな日でないとステーキ店のランチメヌューなんて食べられませんからね。お昼に私は昼12時過ぎ、心をウッキウキに躍らせて寒風吹きすさぶ中イオンモール伊丹店へ車を飛ばしたのです。びょう。

さすがにお昼時、某ステーキ店は大人気大盛況でした。この近辺にお店がここしかないことも人気の理由のひとつでしょう。大阪北部周辺では2店しかお店がないのです。
ようやく席の準備が整いました。私ははやる気持ちを抑えつつ店員のお姉さんに「450で・・・!」とオーダー。紙エプロンをおぼつかぬ手つきでタテ結びにして待つことしばし、ほどなくして見たこともない巨大な牛の肉の塊が表面をかるく焼いた状態でジュウジュウ音を立ててやって来ました。

きょっほぉぉぉ。

私は天にも昇らんばかりの幸福感に見舞われ眩暈がしそうでした。
それにしてもデカい。そしてレアだ。アッツアツの鉄板に乗って来るので、お好みの焼き加減にして召し上がれ、とのこと。
早速私はソースをかけて肉片にむしゃぶりつきました。
嗚呼嗚呼嗚呼。
なんて幸せなのだろう。
これが私の求めていた、牛のお肉だ。

しかし幸せはそう長く続きませんでした。
さらにソースを鉄板にかけようとした私は、焦ってけっこうな量を流し込んでしまいました。その結果。

じゅおわぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!!!!

ヒッッッッッ!!!???

凄まじい勢いで鉄板の上のソースが湧き立ちました。
激しく上がる飛沫。私のテーブルは瞬く間に跳ねたソースで汚染されました。紙エプロンを装着していなければ、今頃私の衣服は油ハネの点々で無様に染まっていたことでしょう。しかしエプロンの及ばない部分や膝に掛けていた外套はいささか汚れてしまいました。

先程まで小気味よくジュウジュウ音を立てていた鉄板は、ひとしきり咆哮をあげたのちにちーーんと黙しました。 すなわち、急激なソース投下によって温度が下げられたが故に、これ以上お肉を焼き上げる機能を失した、ということです。

私は全身にぽつぽつ模様を作り、呆然としていました。

前回のステーキに比べて、今回はかなり厚切りです。そして、ろくに中身を焼けもしないまま、鉄板は冷め切りました。 つまりこのあと、のこり大半をほぼ内側は生の状態で食べきらないといけない、ということです。

で、で、でででも私お肉大好きだし、イケる、よね? 生だって、ね。生好きじゃん私。い、いやユッケとか苦手だけど? 生が好きなのはアッチの方だけだ。あほか。気を確かに。正気を保つんだ私。いくぞ。
がぶり。うん、ウマい。大丈夫。大丈夫、大丈・・・・・・・・・

のこり150gあたりで、肉が噛み切れなくなってきました。
そもそも前回300gでだいぶパツパツだったのに、その1.5倍のお肉を胃袋にぶちこむのです。たとえ焼けていたとしても、この勝負はキツかったでしょう。そのうえ今回は厚切りかつ生焼けというハンデを背負っているのです。私は悪足掻きにお肉をソースでびしゃびしゃの鉄板に押し付けます。焼色はかすかに付きましたが、食感はやはり生肉でした。哀しい。
しかし出されたものを残すことは私がもっとも忌み嫌う行為です。喰うことは本来いのちをつなぐ、という生存本能に基づく行為。それをこの飽食の時代、完全にエンタテインメント化して楽しんでいる贅沢な己。食べられないことでたくさんの人々が死んでいるというのに、ただでさえ食べるという行為を欲望のままに貶めている私の、無意味とは解っていながらのせめてものこだわりなのです。

何度か噛み切れずに喉に引っかかりそうになりつつも、どうにか、窒息せずに完食しました。
お腹が、異様な膨満感でどすどすです。
車を運転している最中も、頭がくらくらしました。どうも人間許容量を超えたお肉を摂取すると、全身の倦怠感や思考能力の低下が起こるようです。相当回数の咀嚼を強いられたことも関係しているかもしれません。
いままでに食べたことのない量のお肉(しかも半生)を胃袋はなかなか消化しようとはしません。晩御飯はほとんど入りませんでした。
翌朝も食べず、お昼はおにぎり1個にして、1日中虚脱した表情のまま、ようやく晩にお腹が減りました。減量はふりだしに戻りました。愚物。ぐぶぶ。

あほにお肉450gはちょっとレベルが高すぎました。案の定のやり過ぎて失敗コース。それにしても鉄板を台無しにしたソース、ソースの野郎・・・・・・ とひとり勝手に悔恨極まってたら、他のひとの食べた感想にこう書いてありました。

「・・・お店の壁には『鉄板再加熱承ります』の文字が。これはありがたい・・・」

イエイ。これは「おバカ」の投稿文ですか? 減量が成功したら、リベンジです。もうええっちゅうねん。(オポムチャン 17/1/23)

(寸評)俺も久しぶりに先日沖縄でステーキ喰らった。
テレビの仕事の打ち上げも兼ねていたのでお代はテレビ局持ち。
いや〜 ただで喰うステーキはまっこと旨かった!
それにしても450gは・・・食い続けて牛人間になってクネクネダンスを踊ってくれ。
そしたら俺は「夜の牛たちのダンスを見たかい」を歌うだろう・・・。 8ポイント。

mixi初体験、その第一印象〔2004年8月4日〕

こんにちは、波照間エロマンガ島です。今から12年前の2004年、SNSサービスのmixi(以下、ミクシィ) に友人から誘われて入会しました。今となってはインターネットの世界では当たり前のソーシャルネットワークサービスですが、2004年当時はまだ珍しく、それなりに新鮮な印象がありました。12年経った現在もアカウントをもって利用していますが、後発のSNSに顧客を奪われてすっかり萎れてしまった感じです。

初めてミクシィを利用したときの印象を日記に書いていたので下記に採録してみます。

(ばっすいここから)

ある人からの招待状を半月以上も放置していたのだけれども、ふと魔が差してその招待状を開けてある空間に行ってしまった。登録後の画面(自分のホームページ)はどうってことないんだけど、そこから先は魑魅魍魎(ちみもうりょう)、漆黒(しっこく)の闇に鬼畜外道妖怪が激しく跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する濃密な世界が展開していた。聞くところによると30000人以上の人がすでに登録しているという。コミュニティーもディープでアダルティーで趣味的なグループが多く惹きつけられた。でもデザイン的には今イチかな。

しかし、最高に、気持ち悪かったのは、何なの、あの、「足あと」って機能は???

まだ誰も知らないはずの登録したばかりの私の部屋に足あとを辿って、すぐにやってきた奴がいるぞ!!だれだぁ!!気持ち悪ぃ〜〜!!!そうか、たやすく逆探知されてしまうということなんだな。だれが部屋に来たかの履歴がわかるの。ハリーポッターでいう「魔法の地図」が標準機能として装備されているんだ。これではのぞき見やROM、潜入は難しい。メンバー同士のコミュニケーションが前提となるサイトなのだな。

というわけでミクシィ初日はそういうショック体験とともにありました。自分にとってはブログのほうが落ち着くね。初めての「女」(「男」)だからか。あっち(ミクシィ)は手練手管の百戦錬磨のプロスティチュートみたいな印象。 これはあくまで私見であって、みなさんがどう思うかはわからないよ。ミクシィのほうが合う人もいると思うし、とフォロー入れつつ(笑)。(ばっすいここまで)


なんたって 魑魅魍魎(ちみもうりょう)、漆黒(しっこく)の闇に鬼畜外道妖怪が激しく跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する濃密な世界ですから。すごい第一印象だね(笑)。 今はなんとも思わなくなっていますが。すっかり焼きがまわったなー!!

実は石川さんとはミクシィを通じて知り合いになりました。2005年頃、石川さんが書いたミクシィ日記にコメントを入れたらすぐにレスがかえって来て、意気投合し「マイミクシィ」になったという次第。リアルの石川さんに初めてお会いした機会もこのホームページ経由からではなく、ミクシィで石川さんが呼びかけたオフ会〔2005年9月15日〕に参加したからだったし。そうか、ミクシィがなければ石川さんと知り合いにならなかったかもしれなかったんですねー。そういう意味でSNSは人と人を結ぶ、つとめて今日的な面白いツールであると思います。この先、また新しいソーシャルプラットフォームができてくるんでしょうけどね。(波照間エロマンガ島 17/1/23)

(寸評)そうだったよねー。
今でもFB(フェイスブック)等で繋がっていると実際会ったことのない人でも友達になった気がしてしまう。
そこには良い意味も微妙な意味もあるけど、趣味が近い人と遠く離れていてもコミュニケーションが取れるってやっぱりネットが無い時代には考えられなかったもんね。
なるべく良い意味での部分を多めにうまく使えば世界は確かに広がるんだよね。
僕にとっては場合によっては仕事にも繋がる遊び道具。 7ポイント。

初めてのカットモデル

信じがたいかもしれませんが、現在カットモデルをしています。
通常であれば、カットだけで6000円さらにシャンプー代やセット料金が掛かるのですが全て無料になります。
むははははははは、凄いでしょ。
まあカットモデルと言っても実際は新人さんの練習台なんですけどね(笑)。

でもしてもらうにはちゃんと条件があります。
1・あくまでも練習なので、髪を揃えるだけとかはダメ。この点、女性の方がモデルをお願いしてきても断る場合があるそうです。
2・時間が2時間から3時間かかる。
3・日時は美容院の都合に合わせる。閉店してからの1900-からが多い。

担当してくれるのは若い初々しい新人さんです。普段はシャンプーとか髪の色付けとか美容師の補助的な役割をしている人で、インターンではないんですね。
まず髪型の雑誌を見せられ、どういう髪型にするか私と担当者で決めます。これで20分くらい。
次に、病院でいうスーパーバイザーみたいな人がやってきて、にこやかに私に対して「一緒に担当する。**です。どうぞよろしく(にこっ)」と笑顔であいさつをされるのですが、担当者に向かっては「どんな髪型にするの?」「どういう順序で切るの?」「コンセプトは?」「切り方は?」と矢継ぎ早に質問します。
担当者は、しどろもどろに答えますが、スーパーバイザーは強い口調でさらに質問します。
私はただ縮こまっているだけです。

ここまでで約50分。切る前に4方面から写真を撮られ、シャンプー台へ。
そしていざカット補始めるのですが、新人さんなのでそんなにうまく切れません。遠くからじっと見ているスーパーバイザー。
きごちなくなっていると、やってきて「そこはこうやって・・・」とチョキチョキと手本として切っていきます。さすがに早くうまいです。担当者は必死にメモを取ってます。
「じゃあ続きやって」と指示を受け、また不器用にカットを始めます。
「なんでそうやって切るの?」「ここをこっちの角度から切らないとダメでしょ」
私は引き続きドキドキ。
担当者は泣き出しちゃうんじゃないかと思う位です。
切り終わるのがおおよそ2時間。そしてまた髪を洗ってセットします。セットとか髪へスタイリング剤を付けます。これはあくまでも練習なので、いらないといっても付けさせてくださいということです。そしてセットとが終わると、また写真を4方向から撮られます。

やっている間は一応おしゃべりとかは可能なのですが、担当者はそれどころじゃないみたいで、ゆっくり話せるのはシャンプーの時だけですね。
やっと終わって3時間。

ありがとうございましたと担当者から言われ、スーパーバイザーからもいろいろお礼を言われます。
イメージ的に、病院の看護師やPT、OTの実習と思っていただけると「あーなるほど」と感じられるかもしれません。
反省会をしたり、いろいろなものを干したり、閉店後の美容院を見られるのも勉強になります。
担当者も大変ですが、夜遅くまで付き合わされるスーパーバイザーも大変ですね。

以上カットモデルの話でした。(わいわい 17/1/23)

(寸評)へ〜いいなあ。新人さんじゃたいてい若い女の子だろうし。
丸刈りのカットモデルの需要はないのかな?
多少短く切ってもいいよ! 7ポイント。

初めて後楽園ホールの二階から飛び降りた知人

もう引退はしましたがプロレスラーの松永光弘(50)という選手がいます。かつて大仁田厚らと抗争をした選手で、凶器を使う日本人の悪役レスラーです。
彼を一躍有名にしたの、後楽園ホール二階バルコニーからのダイブで、これを期にレスラーとして一気にブレイクしました。
現在では引退し、東京でステーキ店を経営しています。プロレスラーとかプロ野球選手は、引退するとよくラーメン屋とか居酒屋を始めますが、結構すぐに潰れてしまいます。そこで彼は別のステーキ店で修業をし、仕入れも自分で考え、人気も付き、そのせいもあって今年でオープンして20年目になります。

プロレスはあまり興味が多い人が多いでしょうなあ。
さてさてここからが本題だど。彼は自作の楽器で演奏をするミュージシャンでもあるのですっ。
先日ニュースにもなりましたので紹介したいと思います。

☆自作のシャベルギターを弾きこなす元プロレスラー「ミスターデンジャー」
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1479110990909.html 

「シャベルギター」「ほうきとちり取りのギター」「自分が使用していた鎌のギター」「ホルンギター」などなど。
「換気扇ギター」はともかく「トイレのスッポンギター」などはすごいい音がします。
ただ楽器を作るだけなら誰でもできますが、彼の凄い所はその楽器で実際にライブやコンサートを行っているということです。弾き語りとかです。

どうですか、石川さん。セッションをしてみたくなりませんか?(わいわい 17/1/23)

(寸評)なるなる! こういうの大好き。誰か企画してくれないかな〜。キワモノ音楽祭。 7ポイント。

初めてのライブハウス

コンサート以外で私がライブハウスへ行ったのは、わずか一回。新宿歌舞伎町の「セントラルパーク(という名だったかな)」の桃岩荘の東京大会でした。
ワンドリンク別、というライブハウス独特のシステムもここが初体験でした。

その後大会は、同じ歌舞伎町の「忍者屋敷」で開催されていたようですが昨年閉店してしまったため「party space Alpha」になりました。
東京大会とは、YH閉所後、毎秋同志で開かれるイベントで、ステージにギターマン(アコギ)が5、6人出て、毎年一曲ずつ作られる「今年の歌」や旅の歌を歌いまくるものです。
イメージ的には歌声喫茶が近いかもしれません。合いの手やコールやただ聞いているだけでなく、みんなで一緒に歌を歌うイベントです。

ちなみに同様の京都大会では、11月に鴨川にじゃぶじゃぶ入り衆人看視のもと歌いまくります。(わいわい 17/1/23)

(寸評)ライブハウスもほんとピンからキリまであって個性的で面白い店も多いよ。
大きいところはほとんどホールに近い所から小さいところは「ここ、友達の部屋!?」というところまで千差万別。
是非俺のライブにも足を運んでおくれ〜。6ポイント。

 

はじめての全裸で VS アシタカグモ(虫嫌いの方閲覧注意)

新しい家に越してきてからもうすぐ3年。暮らしには随分なじみましたが、ひとつ困っていることがあります。
それは以前のマンション暮らしの時にはいなかった、虫さんが多発することです。

地上7階にもなるとあまりそういう子(?)らも飛んでこない、ないしは這ってこないのか遭遇率は低く、昆虫類がおしなべて不得手な私は安心しきっていたのですが現在の住まいは家主である嫁はんの叔父さんがたいへんなガーデニング好きで、四季折々の植物が目に優しいのですがかわりに植物目当ての虫さんもちょいちょい現れ、そういった遭遇をするたびに嗚呼、私には自然の多い地域での生活は絶対に無理だ、と大阪に骨を埋める決意を新たにするのです。40にもなって不細工なびびりっぷりですが苦手なものはしょうがない。

さてそんなはじめてお目にかかった虫さんのなかで、私が最も恐れているのが、益虫でいらっしゃるアシタカグモさんです。

あんまり名前を書くのも書き手側も読み手側もダメージを被るので以降「彼」としますが(笑)、彼はどちらのご家庭にも頻出なさる、かの褐色・疾風のGをお召し上がりになる益虫で、こちらとしては有難い限りの存在、と言えなくもありません。
しかし。当方では疾風のG対策としてコンバットを多数仕込んでおり、爾来Gの姿はほぼ見かけることがありません。

だのに彼ときたら、「おっかしいなぁ、この家Gがおるはずやのに全然見当たれへんやんけ」といった風情で、我々の生活圏にちょいちょい姿を現すのです。これがいただけない。
かのGをハント&イートなさるなら、是非とも目につかない場所で秘密裏におこなっていただきたいものなのですがなにぶん見た目がよろしくない。色目は地味ですが白い壁にはよく映えます。名前とは異なり平たいのですが彼はお身体が5mm程度で脚が1.5cmほど、八方に綺麗に45°ずつ伸ばしておっそろしい高速で移動します。Gのように飛来こそしませんがその疾風のGをとらまえるほどですからその敏捷性たるや・・・ サイズも厭だしスピードも厭です。
ゆえに、益虫とは言い条あまりにも気色が悪いので私はご登場のたびに申し訳ないけれども駆除に踏み切るのですが、あまりにも速いので毎回苦心します。叩く等するとあとが絶望なので掃除機で吸い込み、粉微塵になるまで吸引しつづける、という方法しか今のところとれていません。もう出てきてほしくないのですが、どうも彼はGをすべて喰らい付くしてからでないとその家から退去しないらしく、ほなわしゃどんだけコンバットを家じゅうに設置せないかんねん、という話になり、気をおかしくしているのです。

で、ある冬の夜。
私はくたびれて帰宅しました。嫁はんは「お風呂入れてるから、冷めんうちに入りや」と入浴を促してきます。おおそりゃ有り難い。だいたいいつもシャワーで済ます我が家では冬場の湯船はひとつの贅沢です。
さーて今日の疲れを湯船で癒すか、ふふふんふん、とご機嫌で全裸、浴室の扉を閉めたその時。

壁に、彼が張り付いていました。

ぎゃぼぇわあ。

わけのわからない声を上げ、私は咄嗟に湯桶で風呂の湯をすくい彼に叩きつけました。
すると当然の結果、彼は風呂の湯の中へ転落します。
されどここからが彼の凄いところで、突然水中に転落した彼は本気を出し、水面をさながら忍者のように走って浴槽の壁を登ってきました。

ぎょべびょゎえゃぁ。

私は気が狂いそうになりました。来るな。此方へ。服を着て対峙するのと全裸で立ち向かうのでは、恐怖感がまるで違います。この身を這い上がってこられたときの、おぞましさが段違いです。しっかし忍者が堀などを渡るときに履く「水蜘蛛」のとおり、奴らは高速ゆえか沈まずに水面を走って来るとは想像もできなかったので恐怖はいや増します。私はさらに動転し、何度も何度も桶で湯をすくっては叩きつけますが彼ときたら一向に怯む様子もありません。

私は優雅なバスタイムを諦め、浴槽の栓を抜きました。このまま湯ごと流し去ってやろう、という魂胆です。
しかし油断をすると奴は水中から這いあがり、強靭な8本の足で高速でこちらへ向かってきます。私はシャワーの湯温を最高に設定、あわよくば途中で熱により彼がギブアップすることを目論んで壁に寄りつかぬよう浴びせ続けました。

彼はタフでした。
いくら湯を浴びせようとも、不撓不屈の精神で湯から脱却し、壁を登ろうとしてくるのです。私は髪の毛と陰茎と精神を振り乱しつつ的確なノズルコントロールを余儀なくされ、いかに浴槽の中心に彼をとどまらせるかに、非常に苦心しました。全裸で。
湯が尽きようとしています。しかし彼は吸い込んでくる水流にさえ抗います。なんというタフネス。私はもう泣きだしそうです。どうして疲れ切った寒い夜に、全裸で益虫に向かってかかる残虐行為を続けなければならんのか。そうです、私のこの行為は人間のエゴ。ただただ気色が悪い、という理由だけで、なんら当方に害悪をくわえてこない彼を涅槃の彼岸へ葬り去ろうとしているのです。彼はただ、生物として必死で本能に従って生きようとしているだけなのに。なのに。なのに。

じゃかあっしゃい、こっちが気色悪いもんはもうどないしょうもないんじゃい、どのみちわっしゃ地獄行き確定じゃい、と開き直り、私はシャワーの角度を的確に調整し彼を排水口へ導き、浴槽の湯が尽きる手前でようやく流し去りました。這いあがってこないように、その後10分ほど排水口に向かって湯を流し続けました。

ごめんな。でも、無理やねん。君と一緒にお風呂に入るのは。

闘いは終わりました。
でもなんだろう、この心の空虚な感じは。
自分も充分かわいそうな目に遭ってる気がするのに、極悪な手段で敵意のない生き物をあやめたという、確固たる事実。 早目に勝負をつけるならルックお風呂の洗剤などを投入すればよかったのかもしれませんがそれすらせず、むしろ最終的に手を下したのは水流で私はただ水を流しただけ、みたいなことにしようとした、なんだか卑怯な心理。

冷えた身体のまま、私はしばらく浴室に佇んでいました。(オポムチャン 17/1/12)

(寸評)それ、お陀仏になってないね。
排水溝の途中の窪みのところにしばらくじっとしてたね。
だから、きっときっと来るね。
夜中の2時頃「お邪魔します」と・・・。 9ポイント。

2017年閨房での初めての遊戯はAF

2017年1月1日はひと晩中ベッドで全裸になっていちゃいちゃしてました。ジョンソンのベビーオイルを使ってマッサージごっこをして遊びました。わたしはうつぶせになって相方に背中からでん部、太もも、足首まで入念にマッサージしてもらいました。極楽きぶん。その途中、腰からでん部にかけてもみほぐしてもらっているときのこと。相方の睾丸がわたしのケツマンコを刺激するので思わず身体の緊張の線が切れてしまったかのように力が抜けてしまったところ、相方の硬質のおちんちんがわたしのケツマンコにすぽっと挿入されたのです。これはサプライズでした。宇宙遊泳の命綱が途切れて銀河系の果てまで放り出されたかのような無重力の快感が全身を襲いました。そのまま激しくピストン。わたしは何度 も絶頂を感じました。
御礼にわたしがマッサージをしてあげることにして同じ体位同じ方法でセックスしました。わたしは興奮して気が済むまで突き続けやがて果てました。朝までにわたしと相方2回ずつ射精しました。思うに同性同士のセックスって異性とのそれよりもはるかに遠くに行けるような気がします。最初に相方のきんたまが私のでん部に触れた瞬間、電撃が走ったように感じてしまいましたもの。あれから数日経ちましたが、 気がつくとあの元日の夜のことを反芻しています。ちょっと離れたところに住んでいるのでまた次に会う日が待ち遠しくてなりません。以上2017年秘め事始めの記でした。(LHOOQ 17/1/12)

(寸評)そ、そんなに気持ちいいものなのか・・・。
同性の恋人だとそんなにお金もかからないような気がするからいろんな面でいいこともあるのかもね。
う〜む、そういう性癖が無いのはもしかして悲しいことなのかも? 9ポイント。

初めてのコンサート

初めてこのコーナーに投稿します。ネタは、過去の投稿を真似させて頂きまして、コンサートとしました。
自分の初めてのコンサートは、群馬県民会館でのプリンセス・プリンセスです。
もしかしたらライブと言うのかもしれませんが、コンサートと言い切ってしまいます。
隣の市から自転車をこいでたどり着きました。
奥居香さんは、MCで、「前橋と言えばラタンというライブハウスがあって、出たけど全くお客さんがいなかった」、という無名時代のエピソードを紹介し、客席から「俺行った!」と声があがると、「うそ! 誰もいなかったもん!」と笑わせていました。(同じ年度に同じ会場で筋肉少女帯にも行きましたが、大槻ケンヂさんも前橋ラタンのことを言っていました)
席は遠かったけど、大満足のライブでした。有名人は本当に手の届かないところにいるんだなあ、とも思いました。

数年後に東京に出てきてライブハウスに行くようになった時、群馬県民会館の規模が基準の私には、ライブハウスの、アーティストとファンの近さは衝撃でした。(猪熊猛 17/1/12)

(寸評)プリンセス・プリンセスの人たちはたまのどこかのホールコンサートを観に来てくれたことあったな〜。
群馬県民会館はたまでやったっけかな?
やってなくても俺ひとりで一度だけ出たことある。
と言ってもステージの上にあがったものの、何もしてないのだけれど。
中学生の時に「前橋市民の歌募集」というのに作詞して応募したら何故か選ばれちゃってその俺作詞の歌がオペラ歌手みたいな人に歌われるのを照れながら舞台上で観ていたのだ〜。 6ポイント。

初めての石川さんへの年賀状

明けましておめでとうございます。
今年も石川さんにとって良い年でありますように。(わいわい 17/1/12)

(寸評)タイトルに偽りあり!
年賀挨拶投稿ではあるが「年賀状」では無い。残念! 3ポイント。

チェンマイで初めての鍵紛失体験

チェンマイに住んで5ヶ月ほど経ったある日のことです。終日雨が降る日でした。そんな日にある災難に見舞われました。

部屋の鍵を失くしてしまったのです!!!

それは朝の支度をして語学学校に行くために部屋を出ようとしたときのことでした。いつもの置き場所にあるはずの鍵がないことに気がつきました。「あれ???」とテーブルの上からベルトポーチの中、昨日着ていたずぼんのポケットなどありそうな場所を片端から探しましたがありません。刻々と迫る出宅時間。「なんでこんな目に遭うんだよー!!」と心の中で叫びながらタイムリミットを迎え決心しました。

「しょうがない。鍵を開けっ放しにして学校に行こう。4時間後に戻ってくるからそれから鍵を探せばいい」

そう決意すると、私は部屋の鍵をかけないまま外出しました。これが外出先で鍵を失くしたのだったら、すぐさま警察に行き紛失届けを出したり、大家さんに連絡して次の指示を仰いだりしなければならなかったでしょうが、鍵は家の中にあることは確かなので、あとで探せばいいやと思い、家を出たのでした。マンションの入り口にはセキュリティーシステムがあり外部からの人の出入りは制限されています。

午後1時過ぎ、速攻で部屋に戻ってきました。心の片隅に鍵がないことが気がかりでその日はタイ語の授業があまり身に入りませんでした。また探し始めます。しかし、物がそんなに置いてない部屋で鍵を探しても、探す場所は限られていてすぐに終わってしまいます。鍵はありませんでした。

わたしはすっかり途方にくれてしまいました。

そこで昨夜部屋に戻るまでのことを思い出そうとしました。

「えーと、隣の酒屋に行って、ミネラルウォーターと朝食用の菓子パン、惣菜を買ったんだよな。ふだんは2リットルのペットボトルを買うところ、昨夜は気が変わって、大きな6リットル入りのペットボトルを買ったんで、買い物袋が2袋になってしまったんだ。両手がふさがった体勢でマンションに戻ったんだよ。部屋の前で片方の袋を床に置いて、鍵を取り出し、開錠して部屋に入ったんだ」 ここまでは記憶が蘇りました。

しかし、そのあとの鍵の行方はまったく思い出せないのです。

「部屋に戻ったら、すぐに6リットルの水を小さいペットボトルに移し変える作業をした。それから冷蔵庫に入っている有り合わせのもので夕食をとったよね。でも、そのとき鍵はどこに置いたんだろう。もしかしてドアのノブに鍵を指しっぱなしにして、それを誰かが持っていってしまったという可能性はないだろうか…。」

などと、いろいろなことを考えてしまいました。だんだん悲観的になっていきます。
そんなこんなしているうちに今度は別の用件が頭をもたげ始めました。

レンタルバイクを午後2時半までに返却しなければならないのです!!

「プギャー!!外出しなければならない。どうしよう。また鍵を開けっ放しで行くか。そのときにお昼ごはんもいっしょに済まそう。1階の入り口のガードマンに事情を言って度々通してもらうのも面倒だからな」

いろいろな会話が頭の中で渦巻く中、また決断しました。鍵をかけずに部屋を出てバイクを返しに行って、お昼ごはんも食べてくることにしました。そのとき外は大雨でした…。わたしはびしょぬれになってバイクを返しに行きました。

再び部屋に戻ってきたのは午後3時半過ぎでした。

「はてさて、本当に困ったことになったぞ。絶対にあるはずの鍵がない。もうちょっと粘ってみてもよいが、最悪は大家さんに連絡して、鍵の付け替えだな、そのときにマンションのセキュリティーカードも再発行だからまた金がかかる。いったいいくらかかるんだろう…」

わたしの住む部屋はチェンマイ在住の日本人の不動産屋さんが管理をしていて、その会社は午後5時まで営業しています。

どうしようかと思案しているうちに、ふと昨日東京堂書店で買ってきたばかりのGダイアリー(タイの岡場所情報がすごいボリュームで載っている男性雑誌)の100号記念特大号が近くにあるのに目が行き、それを手に取り読み始めるとすこぶる面白く、いい具合に現実逃避してしまいました。気がつくと午後5時を過ぎていました。

それからは鍵がないことは意識しながらも、いつもの生活に戻りました。
授業の復習と山ほどある宿題をやり、冷蔵庫にある惣菜で夕食をとり、ちょっとネットをして気がつくと寝る時間になっていました。そのころにはもうすでに心持ちは決まっていたようです。

「明日朝9時に不動産屋さんに電話して、鍵の紛失を説明して次の指示を仰ぐ。その際、鍵の弁償する件はこちらから切り出す。朝電話して明日じゅうに業者さんに来てもらい作業を完了する」

そのようなことを決心し寝床に入りました。

翌朝起きてみると、まだ未練たらしく辺りを探してみましたが、やはり鍵はありませんでした。愚図愚図しているといつの間にかまた学校へ行く時間が近づいてきました。

電話しなくちゃ。でもお昼帰ってからでいいかなー。

そんな結論を後伸ばしにする会話が頭で起こっていたそのとき。

昨日から何度となく見ていたキッチンの棚の上に置いてあったフリーペーパー。ふと何気に手にとってみると、あーら不思議。

フリーペーパーのあいだから鍵がポロリと床に落ちたではありまえんか!!!

わたしは思わず声を出して笑ってしまいました。もう99%以上あきらめて鍵の交換をしようとしていたので、まさかこんな死角のような場所に鍵があるとは思ってもみなかったのでした。

「ああ、電話しなくてよかったぁぁ」

ふりかえると鍵を失くしたことが判明してからちょうど24時間経っていました。まさしく「24時間の憂鬱」でした。

わたしは無神論者ですが、このときばかりは神様がいて、自分に何か教えてくれてるのではないか、と考えてしまいました。

よく考えると、この24時間にわたしがとった考えと行動は、46年間生きてきた人生のパターンがぎゅーっと凝縮されていたことがよくわかります。答えを後伸ばしにしたり、深く考えずに動いたりするのは、自分の人生そのものだと思いました。また、諦めるのが早いという欠点もすごいです。わたしは早々に敗北を認めて、次の鍵を弁償するということに意識が100%移動していました。われながらあきれます。
希望の光としては、こういう自分を客観的に見せてくれる機会だったということ。それが神様のくれたチャンスではないか、と思ったりしたわけで。

人間、どこからでも生きていけるということを、あらためて思ったしだいでした。 そんなことがあったことを報告いたします。(波照間エロマンガ島 16/12/29)

(寸評)はは、よくありそうなことだけど文章力で読ませたね。
失くし物って時々「何故ここに!?」という場所に置いてあることあるよね。
無意識がなせるわざ。
でもこれが日本とほとんど治安の変わらないチェンマイで良かったね。
他の国だったらこんな悠長なことやってられないものね。 7ポイント。

初めてのアンドレア・マンテーニャ「死せるキリスト」@ミラノ・ブレラ美術館

イタリアのミラノには1986年と2005年の2回行ったのですが、2回ともブレラ美術館でアンドレア・マンテーニャの「死せるキリスト」という絵を観たことが記憶に残っています。
アンドレア・マンテーニャは15世紀イタリア・ルネサンス期の画家で、北部イタリアのパドヴァで生まれ没しました。この「死せるキリスト」は、図像を見てもらえるとわかりますがきわめて斬新な構図をしていて、磔刑になったキリストの遺体を寝台に寝かせ、その足元の方向から身体全体にかけて観た急激な省略法で描いた作品です。1回観ると一生忘れられない絵画であると思います。

実はこの作品、わたしはそれ以前にマンテーニャの作品とは知らずに観て覚えていたということがありました。
1981年製作のジャン・リュック・ゴダール監督の「パッション」という映画の中で、この絵を引用しているショットがあり記憶していたのです。とはいえ、それはたくさんのコラージュのうちのひとつで秒数でいうと2秒もないような短いショットでした。

この映画はルネサンスからバロック、ロココ期にいたるまでの泰西名画の構図を借りてきて、活人画〔適切な衣装を身につけた役者や芸術家の集団がポーズをとって絵画のような情景を作るアートパフォーマンス〕に再現しようとする映画内映画が撮影されているという設定で、そのために七転八倒する映画スタッフたちの姿が描かれています。面白いのは映画監督役にはゴダール自身が演じ、撮影監督役には実際の撮影監督でもあるラウール・クタールがその役を演じていました。
そして映画の中でたくさんの泰西名画の構図を「引用」した中に、このマンテーニャの「死せるキリスト」の構図も紛れ込んでいたのです。わたしはブレア美術館でこの絵画の前に立った時、興奮を禁じえませんでしたね。「おぉぉぉぉ、ゴダールの『パッション』にでできた絵だー!」と無意識から召還された記憶の立ち現れ方に心底驚かされたのです。ゴダールは天才だと改めて実感しました。
(参考サイト)http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/mantegna_cristo.html (波照間エロマンガ島 16/12/29)

(寸評)ああ、そういうのって感動するよね!
俺は昔千葉県の太見という集落を何気なく歩いてた時に突然つげ義春のねじ式の「あっ、ここは元の村ではないか!」の景色を見つけてしまい大興奮したことがある。
明らかに構図が一緒。あとで調べたらやはり彼はこの辺りにはよく来ていたとのこと。
きっとデッサンして描いたと思われる。つげファンなら是非行ってほしい。房総の太見の駅から仁右衛門島に行くまでの一本道の右手に出てくるよ。 7ポイント。

初めて羽田空港からタクシーに乗って帰宅…。

数年前のこと。バンコク〜羽田間に就航したばかりの航空便で日本に一時帰国しました。それまで海外からの行き帰りは100%成田発着だったので、成田からリムジーンバスか京成スカイライナーを使って都内に出るルートは熟知していたものの、羽田から家に帰るというのはまったく慣れてないので、モノレールからJR線に乗り換えるかリムジーンバスにするか迷ってしまいました。それで電車の時間が中途半端な時間になり、荷物もたくさんあったので、タクシーで帰ることにしました。

と・こ・ろ・が。

タイに住んでいる感覚でタクシーに乗ったはいいのですが、初乗り料金の高さから始まってメーターのあがる課金スピードが恐ろしく速いこと!! 羽田空港から穴森八幡の環状8号に入るまでにウン千円になってしまっていたー!!ぎゃー!! これはもう駄目だ。家に着くまでに2万、3万コースだー、と恐れおののき、蒲田駅で下ろしてもらい、電車で帰りました。羽田空港の滑走路の外郭道路を通って埋立地から市街に入るだけでタイで性風俗行ったくらいの料金になるんですねー。これではよう乗れんわ。

というわけで初めての羽田空港からタクシーで帰宅を試みるも、料金の高さにビビり目的は中途で頓挫となったという話でした。(波照間エロマンガ島 16/12/29)

(寸評)たまが売れてた頃は成田から埼玉までタクシーで帰ってたりした。
確か料金5、6万。
やっぱりバブリーだったな・・・。 7ポイント。

初めてチェンマイで年越し(2009年)



波照間エロマンガ島です。ふだんタイで生活していますが年末は旅行に行くか日本に帰国するかなので、タイの自宅で年を越すことはほとんどありません。タイに住むようになってから初めてチェンマイの自宅で年を越したのが、2009年-2010年の年末年始でした。

夕方までニマンヘミンという盛り場エリアでぶらぶらしていました。2016年現在はMAYAというショッピングコンプレックスの建つ空き地にて行なわれていた、山岳民族の衣装を着た子供たちのバンド演奏ショーを見物しました。そのうちドーイステープに夕日が沈んだので、コンドミニアムに戻りました。すると、エレベーターホールに「スタッフ主催の忘年会をオートバイ駐車場で行なっていますので住人の皆様ぜひどうぞ」という張り紙がしてありました。そういうのに目がない私は早速出向くと、カラオケを交えてビールや食べ物をふるまうささやかな忘年会が行なわれていました。
300世帯近いマンモスコンドでしたが、住人はほとんど帰国するか旅行に行っているので数は少なく、鄙びた雰囲気のパーティーで和めてよかったです。タイではアパートレジデンスなどではこんな感じで年末を過ごすことが多いですね。盛り場のほうへ行くとたちまち花火やら爆竹やらで大騒音のカウントダウンライブになるのですが。別の年にプーケットやバンコクでカウントダウンを友人と体験しましたが、あれは五月蝿いだけなので私は「マイアウ(不要)」です。この2009年のように懇意のタイ人アパートスタッフとささやかに過ごすカウントダウンのほうが気持ちよかったです。(波照間エロマンガ島 16/12/29)

(寸評)わかるわかる。
特にある程度の年齢になると何というか昔は楽しみだった喧騒がどんどん鬱陶しくなってくるんだよね。
もちろん時にはいいんだけど。
こういう日本の昭和の「団地祭り」(つげ義春)みたいなちょうどいい感じの集まりってなかなかないからね。
しかもそういうのってふいに来るのもいいよね。
さて、ここ最近恒例になって来た俺の定宿での「芝生祭り」(俺の宿の前には芝生が敷き詰められていて友人たちからは「今夜は7時に芝生集合ね!」などと言われる)でもやらないかなー。
でも人となるべく顔を合わせないのがモットーのオーナーなので絶対なさそうだが(笑)。 7ポイント。

初めてのユーロスター超特急でパリからロンドンへ鉄道移動



2007年2月にフランスとイギリスを旅しました。
タイ国際航空で成田=バンコク=パリ(往路)、ロンドン=バンコク=成田(復路)というオープンジョーの航空券を購入しました。タイ国際航空は乗り換え地のバンコクで往き帰りともに途中降機〔空港の外に出ること〕ができるので、結果的にこの旅ではパリ、ロンドン、バンコク、チェンマイという「4都」をめぐることになりました。ちなみに帰りに立ち寄ったチェンマイでは、長期滞在中の石川浩司さんとお会いしました。

旅の目的というものは特にはなかったのですが、パリからロンドンまでは空路による移動ではなく、陸路で移動してみたいとばくぜんと思ってました。

パリではモンマルトルのサクレクール寺院の近くに宿をとり、モンマルトル界隈を拠点にパリの地下鉄や路線バスを乗り倒しました。パリの地下鉄というと別のコンテンツでも書いたことがありますが、映画「シャレード」(1963年)でのケイリー・グラントとオードリー・ヘップバーンのチェイスシーンが大好きで、子供の頃から繰り返し鑑賞していました。パリを縦横に走る路線を乗りまくり脳内妄想に明け暮れました。また、宿の近くのサクレクール公園周辺は、フランソワ・トリュフォーの長編デビュー作「大人はわかってくれない」(1959年)の舞台でもあり、トリュフォーが少年時代見たであろう景色を自分も追体験し、50〜60年前のパリを想起したものでした。映画や小説の舞台を訪ねる旅を私はよくします。

そして、パリからロンドンへは鉄道で移動しようと思いつきました。1994年英仏海峡トンネルの開通の年に開通したユーロスターに乗って、ロンドンに行きたくなったのです。これを今回の旅のメインイベントにしようと決め、チケットを購入しました。
ロンドン行きの特急列車はパリ北駅が始発。ヨーロッパでよく見かける車止めのある、大きな屋根のあるプラットホームのはじっこに2階建ての駅舎がありました。エスカレーターでフロアを上がり、2階でチェックインします。国際列車なので税関や出国審査があり、国際空港のような趣きがありました。と言っても国際列車の本数は日にたくさんあるわけではないので、施設もどことなくコンパクトにまとまっていました。国際空港でいうところの搭乗ゲート前で何十分か待ち、列車の入線とともに専用のエスカレーターでホームに下り、列車に乗り込みました。

パリ=ロンドン間は約3時間の道のり。13時に出発して15時に到着しました(フランスとイギリスとの間には1時間の時差がある)。車内では特筆すべきことは特にありませんでした。パリからカレーまで北上し、ドーバー海峡トンネルをくぐりイギリスに入り、小1時間ほどでもう着いてしまいます。景観も変化には乏しく、それほど楽しめる感じではありませんでした。 「まぁこんなもんか」という印象です。ただ、国が変わっただけで車窓から見える住宅の風景はまったく変わってました。ロンドンのほうがモノクロームに近く色彩がくすんだ印象を受けました。

ロンドンではウォータールー駅に到着しました。1950年代菊田一夫原作のラジオドラマと佐田啓二、岸恵子主演で大ヒットした「君の名は」のオリジナル版であるところの、1940年製作のヴィヴィアン・リー主演の映画「哀愁(原題 Waterloo Bridge)」の舞台となった橋の目の前にある駅です。もしこの邦題がつけられてなかったら「ウォータールー」の名前はもっと日本人に身近な印象をもったんだろうな、と思いました。

ウォータールー駅でその日の宿探しを含めた作戦会議を開こうとツーリストインフォメーションに行こうとすると、駅員さんに「この駅にはツーリストインフォメーションはない」と言われてしまいました。OMG!どうしよう、と途方にくれてしまいました。

というわけでロードスター超特急に乗り、初めてフランスからイギリスまで国際列車で移動したの巻でございました。このあとの話はまたいつかどこかで。♪また、漫演つかまつる〜(根本敬風に)。(波照間エロマンガ島 16/12/29)

(寸評)俺はユーロスターは乗ったことが無いがロンドン(ガトウィック空港)からパリまでパスカルズのツアーで飛行機に乗ったが、なんとフラット飛行が無かった。
つまり上昇したな〜と思ったら下降し始めた。そのくらい距離が短いということね。
そしてそんな僅かな距離なのに国が違えば全てが違うのも驚きだったなー。
なんせパリでワンツースリーが通じなかったことがある。よく嫌味で英語が分かってもフランス語で喋らないと見向きもしないという意地悪を聞くがそれではなく、本当に若い店員が真剣に聞いて来て分からなくて指差しで何とか意思疎通したことがある。
いろんな国があってでも世界は時間的には狭く近くなってきて、そりゃあ細かい軋轢はあるよな〜と思ったものだった。 8ポイント。

初めてのインターネット番組レポーターデビューの巻き

今から15年前の2001年の某日、インターネット映像配信会社で働く友人男性のたっての願いで、スクリーミング放送番組のロケに協力しました。なぜだか理由はわかりませんが、私がレポーターになって、葛西臨海公園とお台場海浜公園と横浜みなとみらい21の観覧車に乗ってそこから見える夜景をレポートするという企画でした。その映像を観てスタジオから阿部美穂子など女性アイドルタレント〔当時〕がツッコミを入れるという番組でした。
インターネットの映像配信番組というのは地上波のテレビと違って恐ろしく低予算なので、友人はディレクター兼カメラマン兼放送作家とすべてをこなしていました。それにしても夜間に3ヶ所まわり観覧車に乗り、最後の横浜みなとみらいに着くころにはくたくたに疲れてしまいました。

完成した番組を観ると死ぬほど恥ずかしくて凹みましたわ。やはり素人は素人の本分でいようと心に決めたしだいです。 (波照間エロマンガ島 16/12/29)

(寸評)いろんなことやっとるねー。それは是非観てみたい。動画はないの? 8ポイント。

はじめての「夏の甲子園」

私が初めて甲子園球場で高校野球を見たのは、群馬代表桐生第一高校が群馬県初の甲子園優勝を飾ったときです。
石川さん、桐生第一高校ってご存知ですか。昔の桐ヶ丘高校です。
我が群馬代表は、比叡山、仙台育英、静岡、桐蔭学園、樟南高校を次々と撃破、群馬県民悲願の甲子園制覇にあと一勝まで迫りました。かつて県立の桐生高校が何度か決勝まで行ったものの優勝旗は上州へ持ち帰れませんでした。
準決勝で勝った瞬間、即座に私は旅行会社の応援団ツアーに申し込みました。もういてもたってもいられなかったんですね。
日帰りで、新幹線往復。前橋、高崎発だったか、東京発だったか、もう覚えていません。新幹線の自由席だったのは記憶にあります。
甲子園着。普段だったら、甲子園の内外をうろうろしてお土産を買ったりいろいろな所を見てまわるのですが、蔦の球場を一見しただけで、応援席へ。
・・・うわでかい。というのが最初の感想でした。
よく高校球児が甲子園を見ると「とにかく広い」と言いますが、まさにその通りでした。
満員の甲子園球場。わくわくドキドキ。
試合は、一回表に一点取られたものの、のちにパリーグ新人王になる正田が踏ん張り、打線も14点挙げて逆転勝利。見事群馬県勢初優勝しました。
帰りも新幹線。胸にツアーのリボンを付けているちらほら人がいて、思わず声をかけたくなりました。
翌日、駅の売店へ行くと、スポーツ新聞が売れていること売れていること。みんな喜んでいたんですね。

付記
かちわり氷が美味しかった。(わいわい 16/12/29)

(寸評)群馬と言えば俺の出た東京農大二校も俺が卒業した年に甲子園に出た。
ところが俺は卒業と同時に親の転勤で茨城に行ってしまった為、まわりで盛り上がってる人が誰もおらず・・・。
今のようにネットがあれば離れていても友達などと熱狂を共有出来たろうに。
時にはスポーツで夢中になってみたかった・・・。今更ながら優勝はスゴい。おめでとう! 8ポイント。

はじめての女房子供を帯同して石川さんライヴしかも京都の山中

さて「おバカ」にも投稿しました石川さんの2016.11.27の京都・京北の「山の家具工房」さんでのライヴ、ギリギリまで粘って結局行くことにしたのですが、そこへ至るまでに様々な葛藤や間抜けをしたことは先の投稿でお伝えしましたね。ええ、大したことは書いてませんので「知らん」と仰る方は無視してください。

ほいで私が何故にわざわざそんな怖ろしい場所(失礼)に女房子供を誘おうとしたのか? それには様々な理由があります。
まずは私がひとりで行くことによって嫁はんに不安を与えてしまうこと。車以外で行く術のない、まったく知らない土地、しかも山奥、しかも雨、しかも夜。この無謀なすかたん父ちゃんがそんなリスキーな状況で行方をくらますくらいなら私が付き添ってサポートせねば、と思わせてしまいがちです。それほどに、私の迂闊さは嫁はんに恐怖を与えるレヴェルの酷さなのです。
それに私が出かけてしまっては、日曜の長い時間を嫁はんひとりでぼうずの相手をさせてしまうことになり、負担をかけてしまう、という配慮からです。車にさえ乗せてしまえばいかな我が儘ぼうずでも文句は言いませんからね。
もう一つは、これほどまでにハマっている私の趣味である石川さんのライヴ観覧。それを家族にも体感して欲しかった、という点です。それに今回は恐らく石川さん初見のお客さまが大半だし組んでるメンバーもよしこストンペアのお2人、アングラ色やいささか性的に振りきれたちょい危険ソング(笑)が比較的抑え目になるのではないか、という目論見もあったからです(笑)。
さらにチャンスだと思ったのが17時開演、という開催時間。ふつうの大阪市内でやるライヴに比べて2時間は速い。これなら帰りの時間を含めてもぼうずを風呂に入れて寝かしつけるギリギリの時間は確保できます。21時半とかに終わるライヴだと家に着けばもはや23時。幼稚園に行くために翌朝6時に起きないといけない5歳のこどもがそこから風呂に入って寝る、となると不健全極まりありません。

今年最後の関西石川さん。これを逃せば、今後なかなかこの2人を連れて行けるライヴなんて無いんじゃないか。しかも客席には投稿仲間のマンドリニスト・でゅおめいぷるようこさん、そのようこさんのコンサートで何度もお逢いしているて〜お〜さん、と女房子供も顔馴染みのお2人がいらっしゃるようなのでこれまた好都合。私は勇気を出して嫁はんに提案しました。最初相当引かれましたが上記の諸条件をギラついた目で私に熱心に語られて耐えきれなくなった嫁はんは結果折れてくれました。ヤッタネ! あとから聴きましたが当日も朝から相当イッた目をしていたらしいです。私らしいですね。

そうと決まったからには(とはいえ雨のこともあるし結局当日の雨模様次第、とはなりましたが)私は道順を完璧にラーニングせねばなりません。当方の所有車輌にはカーナヴィゲイションスィステムが搭載されておらず、車中に搭載してある道路地図も古くて京都縦貫自動車道が途切れ途切れしか載っていないうえに今回の目的地は観光で訪れるにはあまり一般的な場所ではないようで、地図の端が切れてしまっていて道が判りません。
そこで頼りになるのがグーグルマップさん。我が家から山の家具工房さんまでの最短ルートを案内してくれます。ちなみに私共メオトの携帯電話は古代電話なのでこれが閲覧出来ず、もっぱらこの投稿文をこさえているノート型パーソナルコンピュータで拝見するしかありません。つまり実際の道中ではもう確認できないので、事前にこの最短ルートのストリートヴューを何度も何度も繰り返し見続け(帰りヴァージョンもね)、景色を脳味噌に焼き付ける、という作業が必要でした。当日は行きは夕方で雨だし帰りは真っ暗だろうから、イメージを確実にしておかないと車と言えども遭難してしまいます。それにしても世界各国の道の画像が無料で提供されるなんて、なんという菩薩行をやってのけるのでしょうかグーグルさん。有難いことです。南無南無。

根気よく確認した結果わかったのは、道中には一切コンビニが無い事。信号さえほとんどないこと。あまつさえ電灯すら怪しいということ。そんな場所、行った事ありません、私。かろうじて道の駅をひとつ発見しましたが帰りにはもう閉まっています。晩飯は用意しておいた方が無難でしょう。そして最短で1時間32分で到着、とグーグルさんは告げましたがこんなもの最高時速で突っ走ったら、が前提でしょうから2時間はかかることを想定した方が良さそうです。93kmを1時間半、ってことは平均時速60kmってことですからね。そら無茶ですわ。

悪い頭をかえりみず血走った眼で研究を重ねた私。15:00、雨降る中、いざ出発です。まずは大阪府道2号、中央環状線を千里万博公園まで進み名神高速道路吹田ICへ突入、大山崎で京都縦貫自動車道へ入ります。雨でスピードが出せませんが道路自体は空いているのでなんとか90km/hくらいで頑張ります。トンネルが多くて霧も出ている京都縦貫道。はじめて通る高速です。1時間くらいで園部ICから一般道へ下り府道19号へ、ここから30分くらいらしいですがきっと無理です。これはいささか遅刻も覚悟しなければ・・・ 焦る気持ちを必死で押しとどめ、見知らぬ土地をゴール目指して突き進みます。途中で飯を喰う場所も小便をこく場所も一切ありません。外へ出た所で冷たい雨です。過酷なレースによくもこの2人は付いてきてくれたものです・・・。果てしない行程。しかし私は度重なるグーグルさんによる予習でそらもう完璧なまでに道をイメージできており、一路の間違いもなく目的地に辿り着いたのでした!! おまけに開演10分前に到着できたので、スタートからいい席でライヴを楽しむことが出来ました。あほの一念、ライヴも間に合わす。よかったぁ。

嫁はんはとても楽しめた様子、何度もケタケタ笑っていました。「ハゲアタマ」のアワアワ写真を彼女が撮影し、ようこさんに送ったものが石川さんにリトゥイートいただいたのは嬉しかったようですね(まわりくどい)! 特に即興パーカッションをあらためて凄い、と呻っていました。
ぼうずは信楽のパスカルズ以来のみみのびるのおっちゃん(石川さん)、曲によって面白がったり怖がったりと反応はさまざまでした。若干トラウマ気味になる歌詞もあったようですがいろんな物事を吸収し消化すればいい、と思います。安全キレイなものばかり見聞きしていては世間に出てから心がこわれてしまいますものね。
この2人を連れて来られて、本当に良かった、と思います。

さて来たからには帰らないといけません、予報では日付が変わるまで降り続けるはずだった雨は幸い石川さんの念力で(笑)止み、19時20分ごろ会場を発ちました。月も星もない、真っ暗な、驚くほど真っ暗な夜でした。街灯がない場所の空は、こんなにも暗かったのか、と驚きを隠せませんでした。帰り道も車のライトはほぼずっとハイビームでないと走れないほどの真っ暗パラダイス。この道中でライトが故障すれば一巻の終わりです。雨が止んでて、本当に良かったです。こんな暗くて路面も濡れた道なのに後ろから来る車は軒並みハイスピード、おそらく地元の方でしょうががんがん煽られ恐ろしかったです。60kmは出てたのに・・・・・・ 帰り道も完璧に憶えていた私、エライ。もと来た道を忠実に辿り途中PAで休憩をはさんでも21:30に帰宅できました。よしっ、まだどうにかギリギリ健全な時間! これでぼうずも寝不足にならず明日の幼稚園に備えられます。よかったよかった。相当無茶な旅程に付き合ってくれた嫁はんぼうずに、心から感謝です。

いやがんばった。ドキドキした。遠かった。暗かった。
でも、その場所に行くことだけで投稿ネタが3つも出来るなんて(笑)、こんなレアな土地でのライヴなんてなかなか体験できませんからね! それだけ行った甲斐もあったし、記憶としても絶対に残りますからね。馬鹿なことしたなぁ、って(笑)。
でも無駄なこと、馬鹿なこと、って、人生の宝物になったりするんですよね。それを私に教えてくださったのも石川さんでしたから、今回身を持ってそれを実践させてくださったのですね(笑)!! 素敵な思い出がまたひとつ増えました。ありがとうございました。(オポムチャン 16/12/29)

(寸評)うん、特に子供たちの「家族での深夜のドライブ」「木造りのでっかい家でのライブ」などは一生記憶に残りそう。
一生家族で一緒に思い出すことが出来る思い出ってプライスレス。
とてもいい経験をお父さんはさせてやったと思うよ。 9ポイント。

チェンマイのショッピングコンプレックスの美容院で初めて毛染め

波照間エロマンガ島@バンコクです。
2016年12月2日から2泊4日でチェンマイに遊びに行ってきました〔往きは夜行バスで車中泊〕。短いスケジュールでしたが、4ヶ月ぶりのチェンマイを存分に満喫しました。最終日の5日はお昼に宿をチェックアウトし、石川さんもお好きなショッピングコンプレックスのガッサンゲーオで半日ぶらぶらして夕方6時半の飛行機でバンコクに戻ることにしました。国内線は1時間前に空港チェックインなので、夕方5時くらいに空港に向かえば十分間に合うと算段し、それまで何をするか想いをめぐらせました。タイマッサージがいいかなと思っていたのですが、とつぜんあることを思い出しました。「あ、そういえば俺はこの半年間まったく髪の毛を染めてないのだった!」と。というわけで美容院に行って髪を染めました。 以前チェンマイに住んでいたときにはアパートの近所の理容院で染髪はしていたのですが美容院では初めての経験でした。

業界用語で言うところの「ケツカッチン」なのでできるだけお客さんのいない店を探します。するとデパートの奥のスポーツ用品が多く売っているフロアの近くに、美容師のオネエサンが暇そうにしているお客さんのいない美容院を発見しました。「カラーできますか?」と声をかけると「できますよ」とオネエサン。色見本を見せてくるので明るい茶髪を指さすと、「あなたは白髪がいっぱいなのでこれをやるとこの色になりません、こっちがいいですよ」と栗色の髪を勧められました。わたしはしぶしぶOKをしました。金髪っぽい明るい茶髪は1回栗色にして次にすればいいかな、と思い、この店で染めることにしました。「じゃあシャンプーしましょう」と奥の部屋のシャンプー台を促されます。しかし、この店 には扉と窓がないことにちょっと防犯上の不安を感じました。シャンプー中に誰かに泥棒されるのは嫌なので財布だけを取り出してシャンプーしてもらうことにしました。8年タイに住んで身についた防犯意識です。また、こちらの美容院のシャンプーはお湯ではなくて水で髪を洗います。常夏の国ならではの習慣ですね。

そして席に座ると栗色のヘヤカラーのカラー液を髪に塗っていきました。待つこと小1時間、ふたたび髪を洗ってドライヤーで乾かして終了です。白髪頭のオッサンが若作りの栗色頭のオッサンに仕上がりました。髪を染めるとしばらくカラー液の匂いが鼻腔を刺激するのでヘヤカラーは好きなのです。「ああ、オカマちゃんの髪の匂いかぎたい」と何週間か会っていないバンコクに住む好きなオカマちゃんのことを思い出して遠い目になっていた私でした。
そんなチェンマイのショッピングコンプレックスの美容院で初めて髪を染めるの巻きでした。(波照間エロマンガ島 16/12/13)

(寸評)俺まだ髪を染めたこと一度も無いんだよなー。最近は坊主でもカラフルな色に染める人も多いよね。松ちゃんとか。
その後オカマちゃんはちゃんと抱いた? 7ポイント。

海外で長距離バスを乗り換える時に初めて起こった心理状態

波照間エロマンガ島@クルンテープです。あれは5、6年前だったか、マレーシアをバスで旅行していたときのことです。 そのときはインドシナ半島をチェンマイからシンガポールまで陸路で縦断する旅の途中でした。タイ国内ではある程度勝手はわかるのですが、マレーシアは長距離バスと鉄道路線がタイよりも複雑に進化していて、その独特なシステムに困惑することが多々ありました。

ペナン島の対岸のバタワースからマラッカに向かったときだったか、途中首都のクアラルンプールのバスターミナルに休憩で停まったんですね。20分間の休憩時間というので私はトイレに行って水やお菓子の買い物もせずにすぐにバスに戻って席に座っていました。するとバスの乗務員が私の席に来て「これからバスを乗り換えますから、すぐに荷物をもって来てください」と問答無用に指示するので驚いてしまいました。私は乗り換えなしでマラッカに行けると今の今まで思っていたのですが、乗務員サイドではクアラルンプールのバスターミナルで、私がバスを乗り換えることははじめからわかってきたようでした。私は乗務員に先導されて、ずいぶん離れたところに駐車している別のバスに乗り込みました。

その時感じた心理状態はというと……。「まるで奴隷が売られていく時ってこんな心理状態なのかもしれない!」ということでした。

どこへ行くのかわからないままモノ扱いされて連れて行かれて檻の中に放りこまれる、そんな気持ちでした。とても不安でした。それは外国人で言葉が不自由という理由もあったからかもしれません。
このクアラルンプールのバスステーションはとにかく広大な広さで目印を確認しておかないと必ず迷子になってしまうような場所なのです。ここに各地方から長距離バスが集まってきて、奴隷、もとい乗客は目的地に向かって振り分けられるシステムができているようでした。

慣れればなんてことないんでしょうけどね。そんなマレーシアのバスの乗り換え時に起こった私の心理状態の話でした。(波照間エロマンガ島 16/12/13)

(寸評)狭いボロ船に乗せられたらとりあえず降りた方がよい。 7ポイント。

はじめてのコンサート

はじめての自分でお金を払ってのコンサートは、前橋市で行われた松田聖子さんのコンサートでした。
場所は群馬県民会館。どうです、石川さん懐かしいでしょ。
今調べたら、ベイシア文化ホールという名前なんですね。

二回公演で昼の部へ一人で行きました。太田に住んでいたので、夜の部だとちょっと遠かったんですね。
指定席、当時は安く2500円くらいだった気がします。

聖子ちゃんが新曲を歌っていると、途中で間違えちゃって、
「あわわわ、間違えちゃった」
と途中で中止。
会場はヤンヤの喝采。
「あー、明日夜のヒットスタジオがあるのにぃ〜。どうしよう」
と困ってました。 そして歌い直し。

ここから、コンサートは日曜だった、今思うと、わざと間違えた?、ということをなんとなく考えました。

初めて好きな歌手のコンサートへいって、コンサートでは過去のヒット曲を歌うというよりか、一番新しいアルバムの曲を多く歌うんだということが分かりました。(わいわい 16/12/13)

(寸評)松田聖子ならわざと間違える演出もありそう。ドジっ子ってかわいいからね。
俺は群馬県民会館では内山田ひろしとクールファイブを見たな。もっとも貰ったチケットで興味が無かったので退屈だったけどね。 7ポイント。

初めての異人扱い

以前オポムちゃんが投稿した「はじめての異人扱い」http://ukyup.sr44.info/sy72.html という初体験話を読んで、数十年前わが身に起こった体験を思い出したので書いてみます。

1984年、大学3年生頃の話です。ホモセクシュアルの友人男子Sくんが、留学生のアメリカ人Tくんとひょんなことから知り合いになり、私もその流れでTくんと親しくなり、一時期Tくんの友人の留学生グループとよく遊んだ時期がありました。SくんとTくんは新宿2丁目のハッテン場サウナで知り合い肉体関係をもっていたのですが、双方ともにわたし以外には公にはゲイであることをカミングアウトはしていませんでした。Tくんは同じ留学生であるアングロサクソン系アメリカ人のCさんという女性とつきあっていたのですが、どうしても女性が苦手で「肉体関係を求められてもうまくいかない、どうすればいいんですか」とカウンセリングをわたしに求めてきたりしました。TくんもCさんもアメリカ西海岸の出身なのですが、二人ともエスタブリッシュな家庭に育ち、道徳心も強くキリスト教にも深く帰依していた真面目なカップルだったので同性愛については口が重かったのが印象的でした。それに対して日本人のSくんも私も、宗教心のかけらも持ち合わせずにエログロ生活をエンジョイしていたほうですから「日本人にとってセックスってどうなの?」と思われていたかもしれません。

ある日Cさんのバースデーパーティーがあるというので誘われて六本木に行きました。六本木のアマンド前で待ち合わせなんてほとんど経験がなかったのですが、アメリカ人留学生のグループの中にわたし一人だけ日本人という団体で近くのディスコに遊びに行きました。当時わたしがよく行ってたのはツバキハウスや328、ピカソ、クラブジャマイカ、ピテカントロプスエレクトス〔のちのクラブD〕など、どちらかといえばパンクニューウェイブやレゲエ系のクラブが多く、六本木のメインストリームなディスコはあまり行ったことはありませんでした。驚いたのは外国人割引で格安で店に入れたこと。わたしは外国人の団体の中に紛れ込んでいたので「うむ、これはすごい」と外国人気分を味わっていました。VIP席に案内されてグループの留学生たちとおしゃべりを楽しんだりフロアで踊ったりしました。すると日本人のナンパーマンがネライをつけてきて、わたしたちに近づいてきました。そしてわたしやTくん、そのほかの男たちをさしおいて女の子たちをナンパしてきたんですね。これにはムカついた!
グループの中でいちばん短気だったのが私だったので、そのナンパーマンのひとりの襟元をつかみ「てめぇいいかげんにしろよ」と凄みました。するとそのナンパーマンは「暴力はやめてくださいよー、国際親善の場なんだから仲良くしましょうよー」と言ってきたのです! つまり私はその場で日本にいるのに「異人扱い」されたのですね。そういう状況であることを認識すると、むしょうに笑いがこみあげてきました。「あー、おれはストレンジャーなんだー。日本で外国人扱いされるってこういうことなんだー」と思いました。それからその夜はずっとニヤニヤしていましたね。その留学生グループとはその後も交流を持ち続けました。わたしの通う美術大学の学園祭に遊びに来たりして楽しい日々を過ごしま した。そんな「初めて異人扱いされた」わたしの話でした。(波照間エロマンガ島 16/11/30)

(寸評)全然関係ないかもしれないが、たまのレコーディングでヨーロッパに行った時に道でアジア人の子どもたち が話しかけてきた。
子ども「Are You TAMA?」
俺「Yes.I am TAMA member….Do You come from?」
子ども「I came from JAPAN」
俺「Ahh Hhhh ・・・って日本語でいいんじゃん!」
子ども「あっ、そっかあ」
異国にいるとつい変な感じになってしまうお話しでした〜。 6ポイント。

初めてのコンサート

私が初めて行ったコンサートは、地元太田市民会館に来た小泉今日子さんでした。
友達が無料招待券を持っていたのでそれで二人で行きました。
行ったのは昼。

コンサート中、キョンキョン(うわー懐かしい響き)が、Mc中、
「***ってあるよねー」
と言ったら、前の方の男子が、
「知ってるー。***だよねー」
とネタばらししちゃいました。
キョンキョンは、
「あー、ああやってなんでも先に言っちゃう人がいるんだよねー」
と注意したら、男子が、
「ごめんさない!」
と叫んだので、
「謝るところはえらい!」
というやりとりがあった のをおぼろげに覚えています。(わいわい 16/11/30)

(寸評)俺はやはりチケットが余ってるからと無理やり行った内山田ひろしとクールファイブだったかな。
正直興味の無かった音楽は退屈だった。今ならもう少し楽しめるだろーにな。
「夜のヒットスタジオ」という番組の冒頭でたまが「なんてったってアイドル」を歌ってキョンキョンにマイクを手渡したことがあるな。懐かしい。6ポイント。

初めてのチェンマイからバンコクへ800kmのお引越し

2012年2月末日、わたくし波照間エロマンガ島は、3年10ヶ月住んだチェンマイをあとにしてタイの首都であるバンコクに引っ越しました。チェンマイに不満があったわけではなく、かえって住み心地は最高だったのですが、いかんせん日本人向けの求人が少ないことだけが懸念で人生設計を再検討した結果、いったん首都のバンコクに生活の拠点を移すことを決意し引越しをしたしだいです。

アパート探しは2月中旬、ちょうど日本からチェンマイに遊びに来ていた「チェンマイ逃避組」友だちのKさんが、レンタカーでチェンマイからバンコクまで往復でドライブするというのでそれに便乗することにしました。陸路でチェンマイとバンコク間を往復したのは長距離バスや列車ではありますが、乗用車では初めての体験でした。早朝チェンマイを出発して国道1号線をひたすら南下、その途中にスコータイ遺跡にちょっとだけ立ち寄り仏教遺跡を見学した後、また出発し夕方バンコクに到着しました。以前定宿に使っていたバンコク北部のラチャダピセークのホテルにチェックイン。800kmの移動でかなり疲れていたのでその夜は食事をしたあとはすぐに部屋に戻って休みました。

翌日は1日の予定でKさんとは別行動で朝から部屋を探すため外出しました。物件のあたりをつけていたのはチャオプラヤ川西岸のトンブリー地区。チェンマイ県出身の友人女性がそのエリアに住んでいて「物価は安いし、暮らしやすいよ」と勧めるのでこのエリアでアパート探しをしました。BTSシーロム線でウォンウィアンヤイ駅で下車、界隈を歩き回ります。その前年バンコクは洪水に見舞われたので水害について不安があったのですが、換金に入った銀行の行員の人に「洪水は大丈夫ですか」と聞くと「この辺りは標高が川に較べて高いから大丈夫です!」と即答されました。聞くとここは19世紀にトンブリー王朝の首都があったエリアで運河が隅々まで発達していて、洪水に関しては安心だということがわかりま した。
そして、何軒かまわって3軒目に訪ねたアパートが気に入り、即決で手付け金を払い引越しを決めてしまいました。特に条件について妥協したということはなく、すぐにお気に入りの部屋に出会えてよかったと思います。もし今日アパートが見つからなかったらKさんにはひとりでチェンマイに帰ってもらい、あと数日バンコクを回ろうと思っていただけにとてもラッキーでした。そしてKさんのレンタカーで翌日チェンマイに戻りました。

そしてそれからは引越しの準備に忙殺される日々が始まりました。まず引越し屋さんの手配をし、引越し日を決め荷造りを始めます。最終的には、段ボール49箱、OQ山バッグ7個、スーツケース4個、PC機材用ショルダーバッグ3個、バックパック4個、中型リュックサック3個、プラスチック衣装ケース1個、松葉杖1脚、自転車1台、アナログレコードケース2個、扇風機1台、電気式ポット1個、折りたたみ式ちゃぶ台1脚という膨大な量の荷物になりました。ちなみに「OQ山バッグ」というのはビニール製の大きなバッグでフリーマーケットなどで業者が洋服などを入れるために使うズタ袋をことを指します。友人のOQ山さん〔ニヒル牛マガジンでも御馴染みの女性です〕が毎年チェンマイ旅行に持ってきていたので、いつのまにかその名前が定着してしまいました。また「松葉杖」というのは、この年チェンマイにやってきた石川浩司さんが到着翌日に転倒して足を骨折し使用していた松葉杖で、骨折が治ってきたので石川さんからいただいたものです。



そして無事引越しは終わりました。さいわいなことに2012年3月からバンコクで生活を始めたらすぐに仕事が決まりました。そして早くも4年8ヶ月の年月が経ちました。もうすぐ5年目の春を迎えます。もう日本には帰れないなー、と思いつつタイにて働いている今日この頃です。(波照間エロマンガ島 16/11/30)

(寸評)アパートひと部屋の引越しだけでその荷物だものな〜。
我が家が引越しするとしたらまず空き缶の入った衣装ケースだけで200以上。ゾッ。
もうこのまま一生引っ越さなくてもいいです・・・。 7ポイント。

はじめての小林克也さん

私が仕事として最初に芸能人と接したのは、WOWOW(JSB)でアルバイトをしていたときに小林克也さんとお会いした時です。
私はそこでADをやっていました。
当時のWOWOWでは、生放送の情報番組を毎朝3本持っていました。
その中の一本を小林さんが司会者として受け持っていました。

小林克也さんは、毎朝会議室というか打ち合わせ室で、番組スタッフと台本を読んでいます。
そこへ私は小林克也さんだけにコーヒーを持っていきます。
ヘタレな私は、もう緊張しまくりで、もはや小刻みに震えています。
小林さんは打ち合わせの真っ最中です。
テーブルの上へコーヒーを無事置きました。
小林さんから感謝 の声をかけて頂きました。

そのあと先輩に注意された言葉をしっかりと覚えています。
「コーヒーを出すときは、お皿の上にカップを乗せで一緒に出すのではなく、皿とコーヒーを別々にしてお盆へ乗せ、お出しするときに先にお皿を、次にカップを出した方がいい」
ということです。
皿を持ってカップを出すとカップが揺れてしまう。しかし、別々に出せは、カップは取っ手を持って出せる、ということなんですね。
へぇーと思いましたよ。すごいなあ。

現在でもこの注意された言葉をはっきりと記憶しています。
そんなにコーヒーを出す機会はないのですが、注意されたことは、大人になってもしっかりと身についているものなんで すねえ。。。
しみじみしみじみ。

小林克也さんは優しく、思ったより背の小さかった、という印象が今でも残っています。(わいわい 16/11/30)

(寸評)へえ〜それは知らなかったなあ。
小林克也さんは一度日本とフランスでラジオ中継でお話ししたことはあるがお会いしたことはないな〜。 7ポイント。

ニヒル牛に初めて箱をもつ(2013-2015年)

こんにちは、波照間エロマンガ島@バンコクです。ニヒル牛に箱をもっていた時期のことを思い出したので書いてみようと思います。
あれは2013年だったか、わたしが籍を置いているWEBマガジン「ニヒル牛マガジン」の中、火曜日担当のニヒル牛オーナーの石川あるさんのブログでとつぜん「こんなの始めました」と、ニヒル牛でマガジン執筆陣の箱を曜日ごとに設置したというニュースを読みました。オンライン空間からの情報発信だけではなく、ニヒル牛にリアルな展示を行なうことによってマガジン読者と執筆陣のパイプを作っていこうという試みとのこと。わたしはとてもうれしかったです。思いもよらず「ニヒル牛に箱をもつことができる!」と 東京・西荻窪から4614kmはなれたバンコクに住むわたしにも機会が訪れたのだと小躍りし、幸せな想いでいっぱいになりました。

早速、箱に展示する陳列物を作成することにしました。どうしようかなぁ、と悩み、わたしのパブリックイメージにもっとも近いのは「バンコクに住んでいるちょい変態なおっさん」ということに思い至り、その手の写真を額に入れて飾ることにしました。それが下記の写真です。尊敬する緊縛師の方に吊るされた自分の写真ほか何枚かをプリントアウトして額に入れ、ニヒル牛に送りました。そのほかタイ語の本にポストイットをぺたぺた貼り付けて、そこに手書きでポエムを書いたり、タイで生活していての面白いことを書き綴った随想などを日本語で書いたりした スクラップブックを飾ったりしました。日本に行く時間がないので、友人でグラフィックデザイナーのジャン子アヤさんに展示はお任せしました。


このニヒル牛マガジン箱は約2年弱ニヒル牛に陳列されていたので覚えている方もいるかもしれません。が、2015年の年末、ニヒル牛2が建物老朽化で閉店し、2016年2月にニヒル牛がリニューアルオープンするタイミングで撤去されることになりました。良い思い出となりました。
そんな思い出の「ニヒル牛マガジン箱」の話でした。また機会があれば、ニヒル牛と何かコラボレートしたいと存じます。 (波照間エロマンガ島 16/11/30)

(寸評)是非バンコクで培ったさらなる変態作品をお願いします! ワクワク。 7ポイント。

初めての喫茶店

喫茶店に行く年頃になると「ああ俺も大人になったなあ・・・」と思っていました。
初めての喫茶店は高1のとき、地元太田市のショッピングモール、ベルタウン内にあった「珈琲館」という喫茶店でした。 男友達と入ったのですが、頼んだのは「ウインナーコーヒー」。うーん大人ですね。

一人で入った喫茶店は、銚子・犬吠埼へ旅行したのときの我孫子駅前の喫茶店。
店名は忘れましたが「レモンスカッシュ」を頼んだのは今でも覚えています。

女の子と初めて入った喫茶店は、松本市駅前のこちらも屋号は忘れましたが、なかなかオシャレな山小屋風の喫茶店。
松本市へ一人旅の最中で、当時入っていた旅サークルの地元の年上のお姉さんと入りました。頼んだ品は、紅茶でした。 その紅茶は、上からプシュっと押すタイプのものでした。初めて見て感動した思い出があります。(わいわい 16/11/30)

(寸評)俺が初めて入った喫茶店ってどこだろう?
ひとりで入ったのは多分ロック喫茶。レコードのリクエストを聞かれて咄嗟に「バッド・カンパニーを」と言った記憶がある。
今はもうロック喫茶ってほとんど絶滅したよね・・・。 6ポイント。

初めての追突事故

今から30年近く前、1987年のある日のことです。
仕事で営業車に乗って移動していた私は追突事故に遭遇しました。いわゆる「玉突き衝突」というやつです。2台前の小型乗用車が陸橋のオーバーパスのたもとから側道に入ろうとしたのですが、その際ウインカーを出しての車線変更がぎりぎりだったためにその後ろを走っていた4トンの大型トラックが急ブレーキをかけて停車するも間に合わず小型自動車に追突、その後ろを走っていた私もブレーキが間に合わずにトラックに追突してしまったのです。そのとき運転していたのはワゴン車タイプの営業車でボンネットがなかったため、衝突箇所はかなりひどく損傷しハンドルが動かなくなり自走不能になってしまいました。さいわい私自身は怪我はありませんでしたが、衝突事故は初めてだったため、精神的ショックはすごかったです。

時速40キロの法定速度で走っていたのですが、前のトラックが急ブレーキをかけて私もブレーキを踏んだ瞬間、映像がとつぜんスローモーションになったのが記憶に残っています。「あー、ぶつかる、ぶつかるー」と心の中に浮かんだ言葉がすでにスローモーションで、その前後は死ぬ前走馬灯がかけめぐるという映像にも似た心象風景が頭の中かけめぐりました。交通事故で死ぬときはこんな感じなのか、と実感しました。さいわい死なずに現在まで30年近く生きながらえましたが。

事故現場はしばらくの間、嫌な記憶として心に残り続けました。通過するたびに思い出しました。そしてしばらくは法定速度を守り、スピードを出さずに慎重な運転になっていました。営業で外回りの仕事をしていたのは7〜8年でしたが、仕事で事故に遭ったのはそのとき1回でした。という初めての追突事故の巻きでした。(波照間エロマンガ島 16/11/30)

(寸評)波照間エロマンガ島が「玉突き」と言うとどうしても他のことを思い浮かべてしまふ・・・。 7ポイント。


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