ドキドキドキリコ初体験(83)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント?ー(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめてのユカイで新しい楽器

私は数年前、曲を作ることにハマっていた。
とはいえ、ろくに楽器が弾けないので、かなり乱暴で珍妙な奏法ばかりしてた。
アコースティックギターの弦をハーモニカでガンガン叩いたり、バイオリンの弦をベインベインと乱暴に指ではじいたり、即興でテキトーに弾いたピアノを逆再生させたりして、ブキミで怪しげな曲ばかり作ってた。
そこで、曲を作っていると誰でも思うこと(だと個人的に思う)だが、「何かユカイな新しい楽器を作りたい!」という思いが強くなり、「ユカイな新しい楽器」を作ることにした。
これが今回の初体験話、「新しい楽器を作った初体験」である。
突然だが、私はカサブタが好きだ。カサブタというのは、あの、血が出た後に固まってできるあのカサブタのことである。
私はアトピーという皮膚病で、体のあちこちや頭部に多くのカサブタがある。普段は私は、はがしたカサブタを食べちゃうことが多い(これは小さい頃からのクセ)けど、このカサブタを使って、何か「ユカイで新しい楽器」を作ろうと企んだのである。カサブタを使って作る楽器・・・
これはいいぞいいぞ、新しいぞ、と勝手に一人で盛り上がっていた。そして、思いついたのは、
「カサブタをたくさん集めてマラカスを作ろう!」と
いうことである。カサブタを集めて作るマラカス・・・
なんだかとてもユカイで面白そうだぞ、名案だぞ、と一人で自画自賛していた。そして早速、カサブタを集めるための空き箱を用意した。
母ちゃんからもらった何の変哲もない空き箱である。
それから毎日、私はカサブタを集めることに熱中した。まず、頭をボリボリと掻く、すると、たくさんのカサブタが髪の毛に引っかかる。
髪に引っかかったカサブタをクシでとかして空き箱に入れる。この、空き箱にカサブタを入れるときにパタパタと音がするのが快感だった。
「とりあえず、この空き箱にある程度カサブタが溜まったら、マラカス作ったるぞー!!」なんて、気軽に思っていたのである。しかし、事件はある日、突然に起きた。いや、突然というよりは私が今までその事件に気がつかなかったというのが正しいのであろう。ある日、いつものように空き箱にカサブタを入れていたら、なんだかカサブタがうねうねと動いている。
なんだ?と思ったら、なんと、
茶色いウジウジした謎の虫(名前はわからない)が湧いているではないか!!?
しかも、1匹だけではなく、たくさんのウジウジ虫が湧いているのだ・・・。
私はゾッとして、すぐさま、今までに溜めたカサブタをゴミ箱にザザーッと流すように捨てた。
・・・そうなのだ、カサブタだって、たんぱく質であるから、虫にとっては食べ物なのだ。そんな栄養たっぷりのカサブタをたくさん集めていたら、虫が湧いても当然である。
・・・というわけで、私のアホさが露呈した「初体験」でした。
悪い意味でドキドキした初体験だった・・・。
それじゃ、読んでくれた方、ありがと!(沼子 16/10/1)

(寸評)ユカイというよりカユイ話だな。
しかし発想はすごい。あんた、天才かもしれない!
カサブタじゃなくてチンコのカス入れたら本当のマラカスになるがな。
素晴らしい! 10ポイント。

はじめての大回り

王様の耳はロボの耳の話題24や173に時々出している、友達であり患者でもある、路線派鉄子。「西大路ちゃん、何で私に大回りしたいて言ってくれへんかったんよ!」と、自宅の近くのファミレスで言われて1年。やっとお互い空いてる日が合い、ついに大回りを実行する事になったのだ。今年8月更新の、おバカの大回りではなく、正真正銘の大回りである。関西のJRの鉄道路線図を見ながら読んでいただけるとわかりやすいであろう。

本論に入る前に、大回りとは?

東京周辺や大阪周辺のJR線に設定されている、「大都市近郊区間」内でやる事のできるいくつかの乗車方法なのだが、俺がやったのはJR京橋駅から初乗り料金120円で1日有効でできる大回り。これをやるのに必ず守らなければならないと言うのが、途中で改札を出ない事。同じ駅を同じ路線で二回以上通らない事。改札を出る駅はスタート駅の隣の駅である事などである。

で、実行する事になった日は9月18日。前の日に治療に来ていたため、治療終了後に具体的な路線を決めるのと、当日はこの路線派鉄子の長男(中学2年)も参加する事、当日は朝8時に京橋駅北改札口を出た所に集合する事を確認。

そして当日。しかし、ちょっとこの鉄子さん燃えすぎたようで、行程表を作るのに時間がかかったらしく、「ぎりぎりになりそうやから120円の切符買って先にホームに行ってて」と俺に電話。ところが、指示された俺は階段を間違え南改札口手前へ。ありゃー、せっかくの行程表無駄にはしないよ、路線は前の日に決めたまま、そしてもらった物は別の友達と使えば良い。

まあ何とか無事には合流し、30分遅れで隣の桜宮駅に向かって出発進行。

最初に乗ったのは、8時42分発快速木津行。片町線(学研都市線)を通る電車ですな。駅で言えば、放出(ハナテン)、住道(スミノドウ)、星田、松井山手、京田辺、祝園(ホウソノ)などの駅である。京田辺から祝園の先までは、左側に近鉄京都線が併走していて、鉄親子はこの近鉄の車両の話で盛り上がってましたなあ、俺は車両は殆どわかりましぇーん。そして、9時40分過ぎやったと思うが、木津到着。実はこの日の大回りで一つの路線を端から端まで走破できる一つ目がこの学研都市線なのだ。

さあここから、鉄臭い三人組は関西本線に入って行くのであります。

木津ですぐの乗り換えで隣駅の加茂まで行くとここからは、10時41分発の亀山行普通列車。この日唯一通る非電化区間。笠置、大河原、月ヶ瀬口と、山間部をのんびりと走るのだ。そして、三重県に入り、島ヶ原、伊賀上野、佐那具、新堂を通り、11時半過ぎに柘植到着。ここで乗り換えとなります。

次にのる電車は、12時1分発、普通草津行。草津線を端から端まで走り抜ける電車。柘植を出るとすぐに滋賀県に入り、油日、甲賀(コウカ)、寺庄、甲南を通り、貴生川に着くのだ。この貴生川駅は、近江鉄道と信楽高原鉄道への乗り換え駅でもある。そして、三雲を過ぎると甲西駅(所在地滋賀県湖南市)。ここは重要な駅ですよん、駅着いた瞬間、しっかり友達にメール(笑)。来月(10月)30日に利用予定の駅であります。そして、石部、手原を過ぎ、12時45分草津到着、草津線走破。ここで駅内にあるコンビニで弁当を買って、待ち時間の間に昼飯。中学2年男子が薦めてくれた地元にしかなさそうな肉と葱入りの入った弁当美味かったなあ、でも正式な名前覚えてないわ。

さて、飯食べた後次に乗る電車は13時20分発、新快速近江塩津行。米原までは東海道線、米原からは北陸線に入るのだ。しかし、事前に駅案内で聞いてはいたものの、俺らが乗った車両は米原で切り離されるのだとか。かなり後ろに居たため、彦根を過ぎると車両内を前まで移動。ところが、近江塩津まで行く車両に通り抜けができないため、米原で一回降りて乗り移り・、先ほども書いたように、米原から先は北陸線に入る。

新快速とは言っても、米原を出ると、坂田、田村、長浜、虎姫、河毛、高月、木之本、余呉。こんな感じでご丁寧に各駅に止まって行く。実は、中学3年の時の学校行事で余呉駅近くで宿泊した時この余呉駅に降りた事はあるものの、北陸方面に電車移動の場合関西からは、この後書く湖西線で移動になるため、余呉から次の近江塩津までは初走行という事にこの時気づかされる。そして、近江塩津到着、乗り換え6分待ちで14時40分発の新快速網干行に乗る予定なのだが?

さすがにここまでくると鉄ちゃんではあっても、中二の男子に疲労は隠せない。

「家には何時には帰れるん?新快速と快速の違いは何?今何時?」などという質問が増えだした。でもこの男子、元々は母親思いの子でそれが証拠に、「冷蔵庫の中の何々食べても良い?」と、治療終了後に電話でやりとりしてる内容はこんな話なのだ。「そんな事で電話せえへんでええやんもう!」、と鉄子。そんなやりとりを聞く旅に、「あんたこんな事で電話してくれる息子居れへんよ。しっかり答えたりいな。さすがやな、この母親にこの息子ですな。働きぶりに気遣いぶりよう見てるわ。でもこんな日ぐらい、勉強の話止めたりいな。コーラ開けて吹き出したぐらいでカリカリせんでも!」などと、次の電車が8分遅れというのがわかると、そりゃしゃあないよ。

さてさて、8分遅れでやってきた新快速網干行き。途中の山科駅までは湖西線、山科から先は東海道線、神戸から先は山陽線へと入って行く。この中学男子も言っていたのだが、姫路の更にまだ先まで行くんやからすごい距離ですな。

ところでやはりこの新快速も近江塩津を出ると、永原、マキノ、近江中庄、近江今津。ここで車両が連結され12両に。そして、新旭、安曇川、近江高島、北小松、近江舞子の順に、各駅停車。「この辺は近江のつく駅が多いなあ」と、中2男子。そしてここから新快速は本領発揮。停車駅は省くが、大津京まで来ると昼飯を食った草津から琵琶湖をほぼ一周した事になる。そして、山科で湖西線走破。

東海道線に入り、京都、高槻、新大阪と止まり、大阪で環状線外回りに乗り換え。

ここまで来るとすぐですわよ。天満を過ぎると次がゴール駅の桜宮。到着時間は16時30何分だったか?

8時42分に京橋を出発してからほぼ8時間。鉄組3人は無事に桜宮駅に到着したのでありました。

ちなみに、「この距離、普通に行ったら交通費はいくらかかるん?」と中学男子が聞いてきていたため、帰宅後駅探で乗換駅も打ち込んで検索したところ、はいしっかり出ましたわよ、120円。JRが認めている大回りは駅探検索にもしっかり反映されておりました!(西大路 16/10/1)

(寸評)俺も昔東京圏で大回りしたことがある。丸一日乗ってた。
さて、その時ルールである「途中で改札を出ない事」を破った。いや、破らされた。その駅とはどこ?
鉄チャンには簡単な問題かな? 10ポイント。

初めてづくしライブ

今日は初めてづくしのライブでした!!

今年の5月にシンガソングライターのちくわ朋彦さんがツアーで布施に来られました。
元々、誰からの繋がりかも忘れてしまったのですが、とにかく「たま友フォロワー」さんとして、SNS上でちくわさんとは仲良くして頂いていました。
そんなちくわさんと、もう数年来の約束(お互いのCDを物々交換する(笑))をしておりまして、もう今回を逃したらチャンスはないかも!?と
布施のライブにCDを携えお邪魔したのがきっかけなのですが。

今回、初めて「ちくわ朋彦さんと2マンライブ」というのをやりました。
2マンという事はワンマンX2。当たり前です。
ですが、私は普段「デュオ」「トリオ」「カルテット」という形で活動しており、そこではただひたすらメロディーを弾く役をしています。
それが、今回、初めて、誰の援護も受けずたった一人で舞台に立つという。あー恐ろしや!!

ギターマンが「伴奏を録音した物を作ろうか?」「メトロノーム持って行く?」「最悪、お客さんに手拍子してもらうとか」
心配して色々な案を出してくれましたが「ひとりでできるもん!」と、今回も足鈴ひとつを友に行ってきました。

さて、何をやろう。
石川さんの前座をさせていただいた時はまだ2曲だけだったので何とかしのげました。
けど今回はそこそこやらないといけない(笑)
だからと言って、いつも演奏している曲の伴奏抜きをただやるだけでは、本当に間が抜けていて変な感じです。
そして、ちくわさんのお客さんに延々とマンドリンだけを聴いていただくのはなぁ。歌も入れたいなぁ。

そこで考えました。
普段演奏しているアイリッシュやスウェディッシュは実は使用されているコードがとても少ないのです。
これなら覚えられるかも・・・覚えたら弾き語りができるぞ!!
今回そんなワケでもうずっと避けて通ってきた「コード」の勉強から始めました(遅い)

コードに気を取られて歌詞が飛ぶ、コードにつられて音程が不安定になる、コードを間違えてテンパって歌が止まるなどの失敗を経て本日無事アイリッシュの定番「サリーガーデン」を初めてマンドリンで弾き語りしてきました。
結果はどうあれ、やりきった感がありました。

あと初めてだったのがMC。
どうも私が一緒にいる男性ミュージシャンはお話好きな方が多く、普段私はほとんどMCをする事がありません。
ただちょこんと真ん中に座って、うんうんうなずいてるか、曲名を言うくらい。
それが、まるまる自分のコーナーの進行をしたんです。誰か褒めて。

次の初めては、お互い「たま」のファン繋がりという事もあり、何か二人で「たま」の曲をやりませんか?という事になり、マンドリンが出てくる曲の中から「たかえさん」はどうですか?とちくわさんから。
おふっ・・・実は「オリオンビールの唄」「オゾンのダンス」「れいこおばさん・・・」「レインコート」などは音が取れていたのですが「たかえさん」を弾くのは初めてでした。
上手くいくか心配でしたが、お互いの「たま愛」の賜物でしょう。ぶっつけ本番でとても良い雰囲気に仕上がりました。

もう一つの初めては、当日リハの時に、ちくわさんから渡されたコード譜を見て、演奏するという事です。
(は〜コードの勉強しといてよかったー)
曲は滝本さんの「星を食べる」です。本来この曲にはマンドリンは入っていません(確か。入ってたらすみません)のでその場で考えていい感じに。
気付いたらちゃんとハモってるのは、たまカラのおかげなのか(笑)
しかも見せていただいたスコアが滝本さんの直筆の物と訊かされて、汚しちゃいかんと変な緊張もしました。

最後の初めては、これまた予定外の、ちくわさんのオリジナル「おやすみ街の灯」をジョイントした事です。
途中、私のアドリブ部分を作ってくださったのがありがた迷・・・ゲフンゲフン・・・ありがたかったです。

とてもアットホームでよいライブになりました。
もう「初めて」は無いだろうと帰り支度をしていたら、お客さんからの差し入れがあるからようこさんもどうぞと勧められたのが、大量の「竹輪」!!
差し入れに竹輪頂いたの、初めて!!美味しかったです(*´ω`)

こうして「初めてづくしライブ」は閉幕致しました。(でゅおめいぷるようこ 16/10/1)

(寸評)おぉ〜っ、初めてが詰まってるね。たまという共通項が成せる奇跡だったかもね。
次回は是非「初めての腹太鼓」を・・・。 8ポイント。

ダルシマー奏者デビュー

突然ダルシマーを始めた昨年の11月から9か月。
初めてお客様の前で、ダルシマーの演奏をしました。

習い始めた時に先生から言われた「僕といつかデュオ組みましょうね」という甘いささやきを信じてやってきましたが、いやはやなかなかに難しかったですね。
趣味で「先生と生徒」として発表会でデュオやりましたレベルでは絶対ダメだからな!とPから厳しく言われていたので、かなりのプレッシャー。
ここ数か月は多分、ダルシマー練習量がマンドリンの練習量をはるかに越えていたと思います。

だから上手く行くだろうと思っていたのですが、当日リハの時アクシデントがありました。
本番用の照明にすると、85本(2本の復弦)の弦が光ってしまって、全く見えないのです(;_;)
普段から「弦ではなくコマを見て練習する様に」と言われていたのに、知らない間に弦を見ていたのですね。

「ああ、これはマズイ。叩く弦が全く分からない」

あとは椅子の高さ。家で練習する時の椅子よりも会場の椅子が高かったのです。
そうなると打点が全部狂う。ミスタッチが増える増える。。。

もうアカン。デビューは見送り・・・というワケにもいかないので色々対策をしてもらいました。

スタッフの人の協力で、何度も何度も照明の種類を変えてもらって、一番見えやすい状態にしてもらいました。
椅子の高さは変えられないので、ダルシマースタンドの高さを先生が調整。
ついでにチューニングも全部先生にやって頂く。

アカン、このままでは「先生と生徒」やん(;_;)。

けどその2点が解消されると、普段通りに演奏ができ、嬉しくなってPに黙ってダルシマーデュオの曲を勝手に増やすという調子乗りな私。
(あとで怒られましたが)
でも撮影した物を見てまたへこむ。うわー。まだまだだなぁ。

ただ黙々と楽器を見つめて弾いている姿は、奥ゆかしく見えもするけど余裕がないだけ。
先生は何度もこちらの様子を伺ってくれているのにアイコンタクトの余裕なし。
私がミスタッチし始めると(ダルシマーは一旦崩れると暫く戻れない)先生がユニゾンでメロディを私が持ちなおすと、そっとハモリと伴奏に戻ってくれている。

むーさすがプロは違うな。

と先生にお伝えすると「いやーあれだけのお客さんの前で、初めてであれだけノビノビ演奏する人滅多にいませんよ。 しかも衣装の翼がお客さんから見えやすいように席をセッティングしなおしたでしょ。さすがプロだなと思いましたよ。」と。
どこを褒めて・・・?喜んで良いのか悪いのか(笑)

プロのダルシマー奏者になるにはまだまだ時間が掛かると思うけど、今後も続けていこうと思います。 良い経験ができました。(でゅおめいぷるようこ 16/10/1)

(寸評)知り合いの小樽のプロダルシマー奏者の小松崎健さんとはセッションしたことあるけど、初心者が気軽に弾ける楽器じゃないことは一目瞭然。
よくチャレンジしたねー。
マンドリン、ダルシマーと高音の硬い弦楽器が好きなのかな。
もしかしたらバンジョーなんかもいいかもね。マルチプレイヤーとしてセッションしよう! 8ポイント。

はじめてのP・B・H

しょっぱなから一体なんじゃい、PBHて、と思われるかもしれませんがそら当然、私の造語です。その正体は以下でご案内しましょう。

時は1994年、たまがメジャーシーンから徐々に姿を消し始めていた頃。私は高校2年生で南九州へ修学旅行に来ていました。たしか初夏でした。
学校では大して友達も上手に作れずクラスの地味な連中と已む無くつるんで行動して、グラススキーでこけて肩を傷めた以外にさしたる思い出も無かったのですが、ふと思い出したのです、P・B・Hのことを・・・

旅程終盤の午後。我々修学旅行生を載っけたバスは宮崎県の浜辺に到着し、高校生たる我々の大半は砂浜で無邪気にほたえまわっていました。もちろん、我々チーム地味はそんなことするわけもなく椰子の木陰で陰鬱に涼をもとめていましたが。
そんな陽気な一部陰気な昼下がり、暑くて清涼飲料水を欲した私。されど先般から水気はしこたま摂取しており、自販機のラインナップにも飽いていました。

と、そこへ集合時間を告げる引率教師の笛がピィィと鳴り響きました。
皆浜辺から離れ、バスへ向かって戻ってきます。もとよりバスの傍の木陰にいた我々陰気ーズは難なくバスへ帰還、早々と座席に着きました。
すると、バスの外から此方へ微笑みかけるもの1人。頭に手拭いを巻いたバァさんが、手に籠を提げて何やら言っています。

バァさん「パイナップル、要らんね? 100円よ、美味しかよ」

籠にはビニール袋に入った、屋台のチョコパインのチョコがなくてお箸の刺さっていない状態のやつが沢山入っていました。
こりゃ丁度いい。結局飲料が買えなかった私はパイナップルが大好きなのでした。それに母方が熊本で九州のお婆さんの言葉がなんだか懐かしく感じて、私は車窓から100円を渡し、バァさんからパイナップルをもとめました。

しゃむしゃむ。おいしか。ひとり幸せを噛み締めていた次の瞬間、待っていたのは予想だにしなかった光景でした。

先程までは誰もいなかった筈の椰子の木陰から、ニッコニコ顔のパイナップルを提げたバァさんが続々と現れ、バスに群がりだしたのです!!

「パイナップル要らんね」
「そのお兄ちゃんも買うたばい」
「パイン100円ね」
「買わんね」
「美味しかよ」
「パイナップル」「パイ」「パイナ」「100」「美味しかよ」「要ら」「パ」・・・・・・・・・

ぎょえぇぇぇぇえええええぇえぇぇぇぇえ!!? こっ、此処は東南アジアか!? そらまぁ確かに東アジアの南部地域には違いないけれども。言うてる場合か、今や車窓からの光景はニコニコパイナップルバァさんで埋め尽くされんとしています。

クラスメート「誰やパイナップル買った奴は!? あっお前か、オポム!!」
オポ「せっせやかて、だってパイナップル好きなんやもん」
クラスメート「好きなんやもんちゃうわ、ボケ!! 観光地やねんからこないなることくらい想像せえ、アホ!!!」

ただただ私は、パイナップルが食べたかっただけなのに・・・ ガラスのハートの私は深く傷付きましたがこの事態、それどころではありません。さながらホラー映画、そう、バイオハザードのような・・・・・・ いやバァさん達は紛れもなく生者ですからこれすなわちパイナップル・ババァ・ハザードです。

担任「全員おるな!? 運転手さん、出して下さい!」
「パイナッ」「パイ」「パ・・・」

さすがのP・B・Hも車には勝てません。バスは戦慄の大群を振り払い、無事に次の目的地へ向かったのでした。

虚脱。

あの邪気のないバァさんの笑みを信じた私が馬鹿だったのでしょうか。そう、女性は恐ろしい。微笑みひとつで本心を秘匿し、男を手玉に取るのです。パイナップルバァさんとて例外ではなかったのです。私のような間抜けを、一団で手ぐすねひいて待っていたのかもしれません。
そんなことを想いながら、私は手元に残ったパイナップルをひとりしずかに囓ったのでした。

・・・・・・おいしか。(オポムチャン 16/10/1)

(寸評)フルーツが好きじゃない俺もチェンマイに行くとカットのパイナップルだけは買ってしまう。
冷凍庫で冷凍パインにして食うのだ。旨し! 7ポイント。

初めての「L' Amant (ラ・マン)」

波照間エロマンガ島@バンコクです。日本で働いていた30代前半の頃の話です。

ある日のこと、女性新入社員がオフィスに現われ、ミーティングで紹介されました。彼女は年の頃なら40代後半。派手な化粧で豊満な肉体をもちくいこむような肢体のラインの出るボディーコンシャスなスーツを着ていました。そのオーラは事務系オフィスレディーもしくは総合職女性社員というよりかは、どうみても水商売のやり手マダムという雰囲気で、昼間の健康的なオフィスの空気を唐突に違和感いっぱいにするのに十分なイムパクトがありました。

ここで会社の説明を簡単にすると、従業員数200名くらいの食品関係の商社で、定期採用があるわけでもなく年度替りの時期でなくても頻々と縁故で社員採用されていました。本社の社員は専門学校や短大・大学卒の20代社員が多かったのですが、ときたま社長の関係者でいろいろな方面から変な出自の社員が雇用されるので、やたらなことでは驚かなくなっていました。

たとえば、社長がゴルフを習っているレッスンプロのプロゴルファーが政財界芸能界各方面に有力なコネクションがあるというので、経営企画室長として雇われたことがありました。そのほか、社長の息子の友人で香港出身の怪しげな中国人がうちの会社に商品を売り込みに来たので、その商売ごとその中国人を雇い入れ、日本で販売するのと同時に香港支社まで作ってしまうという荒技をかけたりしました。そのために日本人の同僚社員が駐在員として香港に派遣されました。また、社長はどういうわけかタイ王室ともつながりがあって、会社に王族のひとりが会社訪問し、香港支社と同様にタイにも支社を作る計画もあったのですが、計画はあえなく潰えました。わたくしは計画が始まったら先遣部隊としてタイ に行く気まんまんであったのですが、それはかなわぬ夢に終わりました。
しかし、当然のことながら当時会社に出入りしていた人たちは、一山あてて儲けた成金の社長から金をむしりとろうとするペテン師がほとんどであり、新事業のプロジェクトが始まると嵐のような波乱万丈な日々が続くのですが、うまく行かなくなり事業撤退とともに嵐が通り過ぎて静かになる、ということを繰り返している会社でした。ときたま嵐に巻き込まれて散々な目に遭ったのですが、「おバカ」で「初体験」な出来事満載の面白い会社でした。(また面白い出来事を思い出したらこのHPに投稿してまいります)

そんなさなか現われたくだんの中年女性新入社員。思ったとおり「わけあり」な人でありました。出社して何日かするとほかの女性社員と同じように事務職用制服があてがわれたのですが、それを着ると異常にエロエロになったのです。日活ロマンポルノに出演していた女優が洋服を着てテレビに出ているのを観たことがあるのですが、ふだん全裸で勝負している人は洋服を着るとフェロモンが洋服からはみ出て表出されるのです。それと同じフェロモンを感じました。(エロだけど、ちょっと場違いだな・・・)、本社の男性社員はみな同じことを感じていたようです。

そのうち、驚くべき情報が入ってきました。この女性社員、実は取引先の某大手食品会社の社長の2号サンだというのです!その社長に頼まれて雇ったとの由。「おぉ、やっぱり!」とわたしは心の中で叫びました。
頭の中では妄想が高まり、いつナンパしてどこかに連れ出そうか、というほど気が動転していたので、彼女が「愛人」だという情報はちょっと落胆したものの納得する部分もあり、「すでに誰かのものである」ということは、少しだけ欲望のストッパーになりました。
しかしアダルトビデオで「MILF」という熟女ものの分野が大好きだったわたしにとっては、二度とありえぬ黄金の日々だったといえるでしょう。
もしかしたら本社の男性社員で欲情していたのは熟女好きの私だけだったかもしれないと、今ふりかえると思います。 彼女は何ヶ月か働くとすぐに会社を辞めていなくなってしまいました。もちろん彼女とは残念ながら何も関係はありませんでした。

という初めての「愛人 L' Amant (ラ・マン)」社員との出会いと別れの巻きでした。(波照間エロマンガ島 16/10/1)

(寸評)そういえばミュージシャン関係で愛人って知らないなぁ。
ヒモならいくらでもいるけれど・・・。6ポイント。

初めてのタイで虫料理を食べるの巻き

2002年6月、バンコク旅行中のこと。
同じ時期にバンコク滞在していたアーチストの友人Y君と夕食のアポイントをとっていたのですが、急遽彼の都合が悪くなったのでキャンセルになりました。

当時も今もそうですが、また性懲りもなくふらふらと夜のバンコクにくりだし、あてどもなくさまよったのでありました。

トンローに女の子がお酌してくれる日本風居酒屋があるという情報を思い出し、行ってみることにしました。場所はトンロー通り入ってすぐの右側。場所はわかりやすいです。
店内は明るく、カウンター席と座敷席両方あり雰囲気は和み系でした。揃いの黄色いTシャツを着たおへちゃな顔立ちのイサーン風女の子たちが出迎えてくれました。お運びをやりながら、あちこち席をまわって話相手になってくれるのです。客はバンコク在住の駐在員や事業主ふうの日本人男性がほとんどでした。 居酒屋キャバクラみたいです。
ひとりで所在無くカウンターに座っていると、美人のママとチィママを紹介され、タイ人の板前に目の前で刺身を作ってもらいました。なんでも日本から仕入れているそうで美味かったです。そのほか煮物、焼き物、つまみ類、……料理は総じて水準以上でしたよ。女の子は化粧っ気がなく素朴な味わい。なにより日本語を話すのが気持ちよいです。おそらく客は遠い祖国のことを想いつつ癒されているんだろうなぁ、なんてことを考えながら飲んでいました。かなーり酔っ払っていきました。調子にのってボトルまで入れちゃった〔笑〕。とっても気持ちよかったです。

もうお腹いっぱいになった頃、チィママが「これサービスです」と言って、お皿に盛った料理を運んできた。それがこれ



ぎゃー!!!なんだよこれ!?

びっくりしちゃった。これは虫を油で揚げた料理。「これってメンダー?」「ちがう。この足のあるのがタッカターン。この丸いのがマイー。そしてこっちがカッソーン。イサーンではみんな食べるね。美味しいよ。食べる?」「…………」おもわず固まってしまう私でした。
でも勇気を出して食べたら、美味しいとは言えないけど、食べられないことはなかったです。煮揚げているのでちょっと甘く味付けてあり、なんか懐かしい味がしました。
「日本人、あまり食べないね。美味しいのに」と女の子。どうやら、この虫料理はメニューに入っていたわけではなく、ちょっと日本人観光客の私を驚かそうというシャレっ気があったみたい。でも貴重な体験をさせてもらいました。

このときは旅行者として、擬似駐在員、擬似現地採用社員気分を体験したのですが、その後10年して、実際に自分が同じ立場になって、この店に再度訪れるとは思いもしませんでした。

という「虫料理」初体験の巻きでした。 (波照間エロマンガ島 16/10/1)

(寸評)俺もチェンマイで初虫食いしたなぁ。
竹虫は見た目はともかく味は小エビの唐揚げとほとんど変わらなくて美味しかった。
一緒に行ってたZくんはすっかりハマって市場で大量買して毎夜ビールのツマミに「旨い・・・旨い・・・」と言いながら食ってたほど。
まぁ俺は積極的には食わないけど悪く無いと思ったね。 7ポイント。

初めてのジャックフルーツ



2008年、タイのチェンマイに引っ越しタイ語学校に入学し、いろいろな初体験をしました。
その中で、日本にあまり入ってこないタイ独自のフルーツを食べる機会に恵まれました。今日はその中で「ジャックフルーツ」を食べたときの話を紹介します。

ジャックフルーツ(ハラミツ、パラミツ、波羅蜜、カヌン)は東南アジア、南アジア、アフリカ、ブラジル に広く生育し、なおかつ果樹などとして栽培されるクワ科パンノキ属の樹木である。インドからバングラデシュが原産地と考えられている果物である。
幹や太い枝に連なってぶら下がる果実は長さ70cm、幅40cm、重さ40-50kgに達することもある、ときに歪んだ円形から長楕円形で、 世界最大の果実といわれる。果実の表面には数ミリのいぼ状の突起があり、熟すと全体に黄色になり、強烈な甘い匂いを放つ。果実はクワ科の特徴である集合果で、花序を形成する組織の多くが合着して果実となる。繊維状にほぐれる淡黄色の果肉や仮種皮を食用にする。種子は2cmほどのやや長円形で、これも食用になる。

というわけで、タイ語学校の授業で果物の名前を勉強したのですが、参考にと、先生がジャックフルーツを持ってきてくれました。

それでは食べます!!


ワーンマー(めちゃくちゃ甘〜〜〜い)!!!

うーん、なんて表現したらいいんだろう、果肉はたいそう甘いです。しかも口の中にいつまでも残る。日本の干し柿に甘みを加えたような味にも感じました。ドリアンとは甘さの種類が違いますね。くせはありますね、人によって好き嫌いはあるかも。でも美味しかったです。

添付画像は、生っているジャックフルーツ果実と、果肉を冷凍した状態のもの。(波照間エロマンガ島 16/10/1)

(寸評)甘さも色々あるよね。
ちなみに日本の餡子は欧米人には「スイーツ」の範疇には入らないんだとか。
でも俺はフルーツ全般に興味がない・・・(フルーツ味のものは好き)。 6ポイント。

初めての「スケベニンゲン」

珍名の地名クイズをすると必ず「エロマンガ島」と並んで話題になる「スケベニンゲン」という地名があります。
正式には、Scheveningen と記述し、「スケベニンゲン」というよりも最近は「スへフェニンゲン」と音読、カタカナ表記することが多いようです。オランダにあります。

わたくし、波照間エロマンガ島、この「スケベニンゲン」に行ったことがあります。といってもオランダではなく、東京・銀座にあるその名前をもつレストランに、です。なぜかイタリア料理の店でした。

(以下、2005年11月18日の日記よりばっすい)
スケベニンゲンとはなにやらすごいネーミングであるが、れっきとした実在の地名である。といっても、もちろんオランダのスケベニンゲンに行ったのではなく、銀座に同じ名前のレストランがあるのである。スケベニンゲンのスケベニンゲン料理とはどういうものなのか以前から注目していて、たまたま昨日の昼間時間がとれたので、友人女性とランチをご一緒したというしだいである。

銀座スケベニンゲン

それにしても、オランダなのになぜイタリア料理なのか。よくわからない。ホームページを見てもわからず実際に足を運んでも謎は謎のままだった。
11時半に待ち合わせをして店に入ると人懐っこいイタリア人オーナーシェフの親父が「ボンジョルノ〜!」と歓迎してくれた。そして注文もしないのに野菜サラダと水をもってきた。これがスケベニンゲンの流儀なのであろうか。

わたしの注文したのは「アリオ・エ・スペシャル」(ガーリック・ベーコン・レッドペッパー)。
友人女性の注文したのは「マンマの怒ったパスタ」<すごいネーミングww

シェアしましたがどちらのパスタも味はなかなかよろしかったです。(ばっすいここまで)

ところで私は10年ほど前オランダのアムステルダムへ旅行したのですが、そこで「World Naked Bike Ride」という真っ裸で自転車に乗りアムステルダム市内を駆け回るヌーディストイベントに参加したことがあり、この「初体験」 でも投稿したことがあります。「初めての海外野外ヌーディストイベント参加体験!」 http://ukyup.sr44.info/sy62.html (波照間エロマンガ島 16/10/1)

(寸評)スケベニンゲンワヨクガフカイカラアジモサイコウキュウヲツイキュウ。スケベニンゲンバンザイ! 7ポイント。

 

初めての定期

私が初めて大人になったなあと思ったのは、高校の時に初めて定期券を使ったときですね。
うちの高校は最初に学校で定期を用意してくれて、ガイダンスの時に渡されるのですが、それを初めて使った時の緊張。
当時は、SUIKA/PASUMO、磁気定期どころか紙の定期で、駅員さんへ提示する時代でした。
定期の見せ方なんて練習なんかしてないので、改札を抜けるとき、どきどき。はじめての定期でした。
友達は何の気なしに駅員さんに見せていたのが印象深かった。もしかすると、向こうもどきどきしていたのかも。

初めての革靴、初めてのスーツよりも緊張した瞬間でした。(わいわい 16/10/1)

(寸評)ああ俺も高校の時だったなぁ。前橋から高崎までの定期。
もっとも家から前橋駅も、高崎駅から学校も離れていたので双方の駅に自転車置いて毎日往復16kmは走ってたんだなあ。 6ポイント。

はじめての博多ドライヴ観光 〜2016.9.4九州たま会翌日〜

さて「おバカ」に投稿したたのしいたのしい九州たま会の翌日、オポム一家は投稿者&ニヒル牛作家&今回の総合プロデューサーであるジェレ美さんのお計らいで、大阪行きの新幹線が出る14時48分までの間昨日のメンバーの一部のみなさんと車で博多観光をするのでご一緒しませんか? との有難いお誘いを頂いていたのです。昨日は嫁はんぼうずを観光ら しい観光もさせず博多駅構内&周辺で5時間も粘らせたのでこいつぁ渡しに舟、我々は一も二もなくそのお誘いに乗りました。ぴょい。

朝に長浜鮮魚市場会館でおいしい海鮮料理に舌鼓を打った我々、9時にジェレ美さんがレンタカーを借りて迎えに来てくださいました。同乗にすこんぶさん、じきにRKさんとNHさんもRKさんのお車でお越しになりました。
運転をジェレ美さんから引き継ぎ、そしてすこんぶさんはRKさんの黄色い車に乗り換えて、いざ博多観光ドライヴへゴー。台風で雨の予報だったのに、一粒も降りゃしませんでした。ヤッタネ☆ ちなみに昨日のたま会で熱唱した私とジェレ美さんの声はものごっつい低音になっており、何度か力士風の声をしたジェレ美関がご本人も予期せず現れました(笑)。

まず初めに向かったのは下月隈1号緑地。こちらは福岡空港の南端に位置しており、離着陸する飛行機が間近で見られ大迫力!! しかしぼうずはさして飛行機に目もくれず、ベンチの周りを何周も回ってはそのたび決まった場所で羽虫の大群にぶつかりギャーと無闇にはしゃぐ遊びをひとりで何度も繰り返していました(笑)。飛び往き飛び来る飛行機をしばらくぼうっと眺めて、昨日の疲れを皆で癒しました。

お次は月経散歩特別編?? たまの演奏した場所の前を通り過ぎます。石川さんも著書の中で書いていらっしゃった九大「ドグラマグラ教室」の前を通り、柳原さんがライヴをよく行われる箱崎水族館喫茶室も尻目に走ります。道が狭いので路駐はせず、車窓からたまのかけらたちに想いを馳せつつ過ぎ去ります。今度は私が後ろのRKさんカーを先導するので迂闊はできません。なるべくスピード落とし目で・・・ ってうわっカーナヴィゲイションスィステムの野郎が紛らわしいこと言いよるから一本筋間違えた(笑)!! 知らない道を走る時はこういうプチトラブルも醍醐味のひとつ。ってか先 導される後ろの車はたまったもんじゃありません(笑)。ごめんなさい・・・・・・

そして台風の野郎も我等九州たま会の勢いにビビッて怖気づいておるので海へ。百道浜だ!! 室見川だ!! 椎名林檎だ(?)!!
砂浜に出てきゃっきゃきゃっきゃ。波が引いた瞬間に水のないギリギリまで攻め込んで返ってきたらダッシュで砂浜に逃げる私。おっそろしいほど海が似合いません。ひたすら貝を拾う嫁はん、ぼうずと水際で裸足になって遊んでくれるジェレ美さん、同じく裸足でたわむれるRKさん、昆布を海に投げるすこんぶさん(笑)、浜辺の貝に開いた謎の小さな穴を不思議そうに見つめるNHさん・・・ たわいないことがたのしい。海はいいなぁ。私はついええ声で「ジンガは静かにしなさい」の導入部を低く歌うのでした。♪なぁ〜〜つ〜の夜ぉぉぉお〜〜〜・・・ 夏の朝だけども。ってかもはや半分秋だけども。

若人に混じって青春ごっこを堪能しおっさんは気を良くしてドライヴ再開、車中には石川さんも参加なさったアルバム、デュオ・メイプルの「楓・二人囃 II」が流れいい気分。ジェレ美さんの「次はゲンコウボウルイの跡を見ましょうか」とのお言葉に脳味噌がきちんと変換をできません。原稿傍類? 拳固うヴぉう涙? 幻光ボールE?? とわけのわからん物体を想ってへらへらしておるとどうも九州の皆様は知ってて当然の史跡・「元寇防塁」であることが判明しました。なるほど1274年と1281年・・・ だったっけ・・・・・・ にこの博多の近くに元の国が船で攻め込んできたけどカミカーゼが吹いてジンギスカンとかエビフライゴハンかなんかうまそうな奴らがあの国ヤバいからやめとこ、ってなったやつの名残ですね(滅茶苦茶)。住宅街の細道のなかに、ひっそりとそれはありました。これで元さんの攻めを防御したのですね・・・ ありがとう当時のひと。あとカミカーゼ。防塁ではNHさんがぼうずの相手をしてくれました。

さてそろそろお昼の時間です。この日のランチはなんと・・・ りょ、料亭!!!
ひょぇぇぇええええ!!? わ、私Tシャツにカーキの綿パンとかなめた格好なんですけど、だ、大丈夫でっかジェレっさん!? と怯えていましたがこの老舗料亭・稚加榮さんは予約なしで特製お昼定食を限定500食提供しており、巨大生簀(すこんぶさん達がハイテンションでイカの群れを撮影してた)のある高級料亭であるにもかかわらずお値段は1500円に満たないリーズナブルさ。まぁ普段の私の昼飯に比べれば約6〜7倍のお値段ですが折角の博多旅行、これくらい罰はあたらないでしょう。昨日は超お手頃なラーメンだったし、ね。あぁ・・・蟹の入った味噌汁なんて初めて食った・・・・・・ 昼間から刺身と天麩羅なんて、私は地上の楽園に居るのだろうか。最高です。
そしてこの場で面白い事実が発覚、驚くべきことにこの食卓を囲む面子の7人のうち、なななんと4人(NHさん・すこんぶさん・嫁はん・ぼうず)が左利きだったのです!! つまり右利きが数的に敗北を喫したのです(笑)!! こんなことは初めてです。ちなみに昨日のたま会メンバーでは頼れるベーシスト森嶋さんも左利きだったので、この会は有り得ない左利き率であったのです。私は即座に「まずい、これは寝返ろう」と箸を左に持ち替え裏切り、するとNHさんが対抗して箸を右手に持ち替えるというわけのわからない抗争が勃発(笑)、高級料亭でも変わらずあほなことをしでかすおっさんでありました。この稚加榮さんは明太子でも有名で、お食事後も隣のお店で販売していたのを購入しました。ただしこども明太チューブですけどね(笑)。自分からは絶対に怖じ気づいて入れないであろう料亭に入らせてくださったジェレ美さんに感謝です! ちなみにジェレ美さんは昼食の間うちのぼうずに大変なつかれてしまい、やたらめったらチュッュされていました。

さぁいい時間になってきました、港の方にも行きたかったけどそろそろ博多駅に戻りましょうか? とのご提案に、いや折角だから行きましょう、と強行を宣言、博多ふ頭へ向かったのですが・・・ 後ろを走っていたRKさんの車が見えなくなりました。今回は私の先導ではなくカーのナビでふ頭に向かってもらったので、大丈夫でしょう・・・ と話していたのですが、予想外の展開に。
不意に助手席のジェレ美さんの電話が鳴りました。
ジェレ「はいもしもし・・・ あっ、こんぶ先輩? え、ナビでふ頭まで、フェリーで謎の島を経由して7時間かかる、って表示される・・・!?」
我々は爆笑しました。
仕方がないのでふ頭にはジェレ&オポ一家だけで行くことに。筒状のアクアリウムが見られて飛ぶように水中を舞うエイ達に感動、してたらもはやええ時間。そういえばちょっと無理をしてここまで来たのでした。フェリーは乗ってないし7時間もかかってないけど(笑)。

まっすぐ博多駅へ戻り、レンタカーをお店にぶちこんでダッシュで土産屋へ。ジェレ美さんはぼうずのためにチャイルドシートまで手配をしてくださっており、本当にお世話になりました。そのジェレ美さんから「お土産は『日本市』さんがおすすめです! 奥様の好きそうなものが揃ってますよ!」といただいた言葉のとおり筑紫口から右へ入ればありましたありました、まさに嫁はん好みのかわいらしい和風のグッズがずらり。どこまでこのお方は気が利くのでしょうか。
時間に迫られた私はこれならハズレはなかろう、とこれまたおすすめの「博多通りもん」を5箱もとめて改札へゴー、するとたま会2日目のメンバーが待っていてくれました。いつも会に来てくれて(東京のたま鑑賞会でもお逢いした)今回車まで出してくださったRkさん、一度お逢いしたかったヴォーカル&若くして文章の名人すこんぶさん、逢う度に楽器演奏の精度と幅がどんどん広がるNHさん、そして全編にわたりお世話になりまくった名キーボーディスト・ジェレ美さん・・・ 皆さん、九州たま会のステキなボーナスステージをありがとうございました!!

全力で遊びきったたま会。いまもはやたま会ロス状態です(笑)。演奏も観光も、本当に楽しかった・・・!! 嫁はんはお土産の小鳥の器をニコニコ使い、ぼうずはジェレ美さんにいただいたチョコをへらへら頬張り、私は「博多通りもん」が各方面に大好評で鼻高々。台所では百道浜で拾ったちいさなちいさな貝殻が、楽しかったあの日をずっと思い出させてくれるのでした。(オポムチャン 16/10/1)

(寸評)なんか良かったねー。どんどん人が繋がっていくね。さぁ、これからますます楽しいぞっ! 8ポイント。

はじめてのぼうずが迷子に

こないだ「おバカ」で「唐突な遺棄」の題で自分が親に海水浴場で置き去りにされたお話を書いた際に、私はその経験のせいかぼうず(息子)が出先で姿を見失うとパニックを起こす、と書いた矢先、大型ショッピングモールでぼうずがふぃ、と消えました。

平日にお休みをいただいた私は嫁はんに請われ伊丹のイオンモールへやってきました。嫁はん目当ての買い物も済み、あとは食料品を買い足すのみ。ぼうずは先ほどにつめた〜い果物ジュースを飲んだのですが、「おやつまだ?」などとぬかしやがり、「さっきジュース飲んだとこやろがい、もうないっ!」とあしらうと駄々をこねはじめ、そのままいなしながら私と嫁はんはモール内の巨大なイオンで食料品を購入しはじめました。

ぶつぶつと文句を言いつつ我々メオトの前を歩くぼうず。自分に関係のない買い物なもんですから不機嫌で気もそぞろ、早足がちになります。
棚で嫁はんとふりかけかなんかを品定めしていると、ぼうずは棚の端を曲がって姿が見えなくなりました。
まさか我々が視界に入らない場所には行くまい・・・ とタカをくくっていたのですが、ふりかけを閲し約15秒後、棚の先で待っているであろうぼうずにお待たせ、とでも声をかけようとしたら・・・・・・ いない。

私は一瞬視界が真っ暗になりました。

いない。いない。右を見ても左を見ても。棚を右から左へ駆けまわりいろんな列を覗きますが、いない。いない。いない。いない。いない。

ショッピングモールは巨大です。平日とはいえお客も多く、こんな広くて人の多い場所で言葉もろくにおぼつかぬぼうずを捜す/捜してもらうのは至極困難です。とはいえ大きな声でぼうずの名を呼ぶのもためらわれます。私は声が異常にでかいので、他のお客様が気を違えてしまうといけないから叫べません。だいたいうちのぼうずは呼んだって返事など返しやしません。嫁はんも捜すけど見当たらない様子です。

捜すうちに、嫁はんが動いているのだから私はひとつところに留まっていた方が良いのではないか、と思いはじめ、購入予定だった冷凍食品のコーナーで買い物をはじめました。それを見つけた嫁はん、
「ちょっと、ぼうずは見つかったん」
オポ「いんや」
嫁はん「お前はアホか、見つかりもせんうちに冷凍食品なんか籠に入れて、見つかれへんかったらどうすんねん? 融けてまうやろが!? はよ捜しに行け!!!」

もっともです。私は錯乱していたようです。
屈辱と不安でもう胸中はぐずぐずになりながらも、私はまだ捜していなかった食料品売り場とショッピングゾーンの境目に向かってつかつか歩き出しました。もうどんな服を着ていたかさえもわけがわからなくなって思い出せません。親がこれでは捜してもらうことさえ困難です。どうしよ。どうしよ。どうしよ。どうしよ。連れ去られてバラ肉にされてるかも知れぬ。どっかの半島の工作員の大きなリュックに放り込まれてよその国へ行かんとしているやも知れぬ。そんな絶望的な想像しか出てこないほど、まるで見つかる気がしないのです。でも捜し回るしかない。つかつかつか。

すると。目の前に見覚えのある背丈の頼りない歩き方の栗毛の後姿が現れました。
なんと私は、嫁はんに罵倒されてからぼうずまで最短距離のルートでまっすぐ辿り着いたのでした!! このバカっ広いショッピングモールでこの邂逅はもはや奇跡です。
私は「おいっ」と声をかけながら、ぼうずの頭をはたきました。
ぼうずは無表情で、こちらへ寄ってきました。
私に抱きかかえられると、ぼうずはようやっとさめざめ泣き始めました。
はじめて親とはぐれて、その胸中は私と同様、恐怖でいっぱいだったのでしょう。

オポ「お前、お父さんと母さんが見えへんとこには行くなよ。もうこんな迷子になるの嫌やろ? ここみたいに広いところやったら見つけられへんで」
ぼうず「・・・(しゃくりながら頷く)」
嫁はんを見つけると、ぼうずは声を上げて泣きつきました。発見時はどうにか保っていた気持ちが決壊したのでしょう。

完全に我々の油断でした。なにぶんこいつは4歳、口は立つもののまだちゃらんぽらんなのです。
今回は運よく私の野生的な嗅覚で発見できましたが、このご時勢どこぞの狂人に命を持っていかれるかわかったもんじゃあありません。見失ったが最後、二度と出会えない可能性だってあるのです。
私達の子は、このぼうずひとり。失ったらば、立ち直れる気はしません。
やはり私のとるべきは、お買い物客が卒倒するのも省みずすぐさま大声でぼうずの名を呼ぶことだったのでしょう。
最近は大人同士の待ち合わせは携帯電話の普及で至極便利になりましたが、そのせいで人を捜す、という能力を我々は退化させてしまった気がします。ぼうずのような電話を所持しない人間をいざ捜せとなると、まるで無力なのでした。

これを教訓に、ぼうずもすこしはかしこくなったでしょう。もちろん、私も。恐怖を感じることで、ヒトはかしこくなってきたのですから。(オポムチャン 16/9/15)

(寸評)俺も小さい頃に駅のホームで母親と思って手を繋いだら全く知らないオッサンだった時に恐怖を覚えたなあ。
あのオッサンが狂人じゃなくて良かった・・・。 7ポイント。

はじめてのチャリで迷子に

今度は私の話です。
さすがに自分のはじめての迷子は思い出せませんが、中学時代になって私は自身の住む大阪府・豊中市で迷子になってしまいました。あほなの? と仰るなかれ、いやあほには違いありませんがこんな理由だったのです。

中学3年の秋。私は地元阪急曽根駅から自転車で10分ほど、パスカルズなどが出演したこともある服部緑地の方面へ向かったところにある履正社高校へ公立高校模試を受けに行きました。
会場へは同じクラスの優等生A本、そのA本と同じ水泳部のT倉との3人で向かいました。私は中学1年の3学期からこの豊中市へ越してきたので、あたりの地理には自信がなかったからです。

お昼から5科目をこなしたため、秋も深まるころ、模試が終わればもう真っ暗です。
暗い中、私は先行してペダルを漕ぐA本とT倉を頼りに追従します。
ところが。A本が急にふざけてT倉に喧嘩を販売し、T倉がそれをば購入したため2人は私の通ったこともない裏通りを物凄いスピードで競争しだし、あまりに慣れた様子で細い道を疾走していったため私はたちどころに置いてけぼりを喰らったのでした。

真っ暗。知らない道。方角さえわからない。
ヤマカンで進んでみますが、まるで知った道には出てきません。それどころか随分進んだというのに、大きな道路にまったくぶつかりません。せめて国道にでも出れば方角くらいは判るのですがそんな気配は一切なく、街灯の少ない住宅街、電信柱の地名を見ても皆目自分がどのあたりにいるのかわかりません。

遠い幼い頃に味わった、恐怖。
こんなに大きくなってからふたたび味わうとは、思いもしませんでした。もちろん当時は携帯電話も、ポケベルすらない大昔です。走っても走っても住宅街。出口のないラビリンス。もはや人通りもなく、助けを請える人さえいません。15にもなったのに私は恐ろしくってべそをかき、ただひたすら息を切らして闇の中を方角もわからずにペダルを漕ぎました。

あきらめて泣き崩れそうになった時、不意に、遠くから聞きなれた音が耳に入りました。
踏み切りの音です。

助かったあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああ!!!!!

その時の私の安堵の気持ちといったら・・・!! そう、この辺りを走っているのは阪急宝塚線、一択なのです! 線路にぶちあたりさえすれば現在位置の特定が可能です。
さんざん走ったため、私は阪急曽根駅のひとつ南の駅・服部(現・服部天神)駅まで南下していたのです。あらためて地図を見ると、履正社高校から南の方向はなにもなく、私はちょうど国道と平行に走り続けていたのでした。遠くの踏み切りの音に近づいてゆき国道に出たときは、えっここ!!? とわが目を疑ったものです。
それにしてもA本とT倉の薄情なこと・・・ 翌日詰ったところで何処吹く風、やはり私は所詮よそ者だったのです。

おっさんに成り果てた今は少々気が大きくなりましたが、車で出かける時に見知らぬ場所を走っていて時おり同じような感覚に陥ることがあります。何故なら私の車にはナヴィゲーションシステムを搭載しておらぬからです。
でもこういったドキドキはなんでもオンラインや衛星追跡で便利化した今の世の中ではなかなか味わえないもの。後になればそれはきっと愉快な想い出となるのです。私は少々不便でも、便利より大分いいスタイルを可能な限り継続したいと思っているのでした。(オポムチャン 16/9/15)

(寸評)その通り!ぶっちゃけ日本じゃ山の中でもない限り少々迷ったって死ぬことは無い。
もちろんその時は「どうなるんだろう!?」と不安でいっぱいになったとしても。
今はその「不安の思い出」も無くなろうとしてる。
不安に会うことも無く大人になった者が突然何かの理由で大きな不安に襲われた時の方が怖い気がする。7ポイント。

はじめての「Tama」ライブ

2016.8.27(土)イオン春日部へ花火を見に行きました。春日部市花火大会の時には、イオンは毎年屋上駐車場を開放しシートなどを敷き花火を見るという粋な納涼夏祭りを開催しています。そのとき有名人のライブを30分ほど屋上で行うのが恒例となっています。
 私はのこのこイオンへ出かけました。館内放送が流れます。
「・・・昔活躍された・・・たま・・・ライブを行います」
 あまりよく聞こえませんでした。ん? 昔活躍した?  たま? あれ今石川さんは関西で行っているはずだ。知久さんのライブ情報にも春日部は無かったぞ。もしかして、Gさんと柳さんが二人に隠れてこっそり復活ライブでもやっているのかもしれない、と勝手に考えた私は、イオンの屋上へどたどた向かいました。たまと言って思いつくのは他には玉川カルテットしかありません。
 屋上に出ると、観衆を前に一人の女性アーティストがライブを行っています。
 納涼ポスターをのぞき込むと、元ヒステリック・ブルーのTamaさんでした(笑)。

 ライブが終わると、花火大会が遠くで始まりました。途中から雨が降ってきて、シート組はほうほうの体で館内に入ったり傘をさして大変でした。雨が降ったとはいえ、花火は見ることが出来、煙幕がじゃましたもののまずまずの花火大会でした。ちゃんちゃん。(わいわい 16/9/15)

(寸評)まあ他にも猫のたま駅長とかたまはよくいるからね。
ヒステリック・ブルー嫌いじゃなかったな。 6ポイント。

初めて海外でゴジラ映画を観るの巻き

2016年9月8日木曜日、日本公開から遅れること約1ヶ月、こちらタイでも「シン・ゴジラ」が公開されました。東宝製作としては12年ぶり29作目のゴジラ映画です。ご承知のように現在大ヒット上映中です。石川さんも鑑賞されたと聞きました。評判がかなり高いのでこれは何がなんでも初日に観なくてはと強い使命感から初日に映画館に足を運んだしだいです。
「ゴジラ映画」ということでこれまで何十作と観てきてある程度の鑑賞後の感想は予想できたのですが、実際の感想はそれらの予想をはるかにうわまわるイムパクトで、陳腐な言い方ですが「す・ご・い」という圧倒的力量の映像の洪水にただただひれ伏すばかりでした。そして翌日、翌々日と3日間連続でこの面白さは何なのか探りに劇場に駆けつけて連続視聴体験しています。
すでにネット上ではこの映画から煽り出された感想や批評がさまざま出回っており、それらも探索しています。頭の中が「シン・ゴジラ」でいっぱいになっている事態。

海外でゴジラ映画を観るのは初めての体験です。今までゴジラ映画は日本でしか観たことはありませんでした。今回一番つよく感じたのは、今まで観てきたゴジラ映画は、自分の住んでいる環境がゴジラによって蹂躙される、踏み潰され、破壊されまくる、その「災害当事者」疑似体験の恐怖が映画感想と連なっていることが海外でゴジラ映画を観ることによってあらためて実感されたこと。特に今回ゴジラが上陸して移動したルート上すぐ近くにわたしの実家があるので、「もしもゴジラが本当に出現したら」という恐怖感を存分に味わいました。とりわけイムパクトがあったのは幼い頃よーく遊んだ多摩川の河原がゴジラ阻止作戦の現場になっていたこと。あれにはぶったまげました。ゴジラ@多摩川。50年以上 生きてきてこんな場面、想像したことはありません。長生きして良かったと思いました。

あと、一ヶ月ほど前、この「初体験」のコーナーに「初めての陸上自衛隊富士総合火力演習」というネタに書いた自衛隊員の秒読み方法「5・4・3・2・1・今!」というのが映画中出てきたときはシンクロニシティーを感じました。これを投稿したときには「シン・ゴジラ」の存在は知らなかったんですよ。
という初めて海外でゴジラ映画を観たの巻きでした。(波照間エロマンガ島 16/9/15)

(寸評)俺も久々に映画で興奮したなあ。
個人的にはゴジラは大地震や原発事故の擬人化であり、政府の行動はリアルな比喩だと思った。 6ポイント。

初めての「タイの東大」キャンパス

こんにちは、波照間エロマンガ島です。昨夜のできことです。

私は毎日通勤でBTSスカイトレインを利用しているのですが、仕事が終わり自宅への帰り道、乗り換えのサイアム駅で電車を待っていました。ところがふだんは2分おきくらいに着く電車がまったく来ないのです。するとアナウンスが流れ、別の場所で電気系統の故障で全線電車が止まっているとの由。気がつくとあっというまにホーム上は人間であふれてしまいました。結局20分以上待っても電車は到着しないので、タクシーで帰ることにして改札口から外に出ました。

ところが駅周辺で待っていてもタクシーはぜんぜん来ません。なので少し駅から離れた場所に移動することにしました。ちょうどそこにバスが来たので、行き先も何も確認せずに乗り込みました。バスは車掌がいなくて無料。大学生が多く乗っており、どうやらサイアム駅とチュラロンコーン大学構内とを循環しているシャトルバスのようでした。駅からどんどん離れ南の方角へ向かっていきます。

しばらくするとバスが大通りを左折してキャンパスの中へ入っていきました。じつは私はどこでバスを降りるか決めかねていました。できるだけ家に近いところで下車してタクシーを拾おうと思ってたのですが、バスは大学のキャンパスの奥のほうへと進み、あちこち右へ曲がり左へ曲がりいっこうに表通りには出ていきません。そもそもチュラロンコーン大学というのは、タイの国立大学の最高峰の大学で「タイの東大」と言われている大学。キャンパスはやたらに広い。時刻は夜10時近くなりバスは闇の奥に進んでいくばかりで何処へ行くのか、と私は不安を感じ始めました。

そのとき地図をもってない私は「そうだ!」とひらめいて「ポケモンGO」を起動させました。こちらにはGPS機能があるので自分がどこにいるのかわかるだろうと思ったのです。ところがこれがまったくダメダメで。この地図にはポケモンスポットは多く表示されますが、駅や通りの位置関係がまったくわからないのです! 私は久々に不安が大きくなりましたよ。さっきまで「通勤」という名の「日常」にいたのに、あーっというまに気がつくと「非日常」の真っ只中に投げ出されてしまったのですから。まさか都会のど真ん中で遭難するかも? と、ちと大げさですが大学の外に出られなかったらどうしよう、という恐怖感が出てきました。

バスは終点に着きました。このバスにそのまま乗っていればさっきの駅前まで戻ることはわかるのですが、それでは「ふりだしに戻る」と同じでまったく意味がないと思い、ポケモンGOのマップをたよりに、歩いて表通りを探すことにしました。あたりは街灯もなく暗かったですがどうにかこうにか表通りを発見し大学構内から脱出することができました。私は自宅へ向かうために歩道橋を渡って通りの反対側に出てタクシーを待ちました。

さいわいタクシーはすぐに来て乗車したのですが、最後に強烈なオチが待ってました。行き先を告げると運ちゃんは「OK」と発進させたのですが、すぐ次の十字路をUターンしたんですね! そうです、私は自宅のある方角を180度反対方向と勘違いして認識していたのです!今まで方向音痴になったことはほとんど経験ないのでこれはショックでした。
というわけで、方向感覚を麻痺させる魔境のチュラロンコーン大学、次は昼間の明るい時分に来てやるゾ、とリベンジを誓ってタクシーで帰る私でありました。(波照間エロマンガ島 16/9/15)

(寸評)医学部に迷い込み解剖標本のひとつとなった波照間エロマンガ島と再会するのだけは、勘弁してくれ。6ポイント。

初めてのレンタル日記サイト

SNS&ブログ時代になる少し前、「レンタル日記サイト」というのが流行った時代がありました。時期的には1990年代終わりから2004年前後までくらい。のちにアルファブロガーとして有名になったきっこさんや、文藝春秋の記者出身でテレビやラジオの売れっ子コメンテーターになった勝谷誠彦さんが日記をアップしていた「さるさる日記」を始めとして、MEMORIZE、ひまじんネット、エンピツ等々・・・多数のサイトがありました。特徴だったのは無料で気軽に登録できること、HTMLの知識がなくても簡単にアップできること、BBS機能など内包しているので気軽に書き込みでき同好の友人ができやすいことなどがあげられます。ホームページにもリンクできるので一時期はパーソナルウェブサイト用の日記スペースとしても重宝されていました。日記を書くのが好きな日本人と親和性の高いウェブツールでした。

私も某サイトに登録して日記を書き始めました。日記には掲示板を設置したので同じサイトで日記を書いている人がコメントをくださるようになり、交流を持つようになりました。合計数10000人くらいのサイトなのであっというまに日記書きの仲間の輪ができていきました。その中には15年近く経った現在も交流のある人が何人もいます。人間関係がうまくいき長続きする秘訣というのはそれほど難しくなく、オンライン上であっても自分を偽らずに自然体でいること、これにつきます。キャラクターを偽ったり、自分を盛って存在感をアピールするような人は必ず化けの皮が剥がれてしまうからです。さすがに本名で登録する人は無く皆ハンドルネームを名乗って呼び合ってましたが、それでもそのハンドルネームが 定着すると、まるでそのハンドルネームが自然の名前のように感じられるのが面白かったです。いつのまにか似たような趣味をもつ10〜15人ほどのグループができました。別のチャットスペースを借りておしゃべりをしたり、オフ会でカラオケやコンパなどをしたこともあります。
あれから15年くらい経ち、レンタル日記サイトは離合集散が激しく今も存続しているところは少ないですが、今もその頃書いた日記をハードディスクに保存して往時を懐かしんでおります。良い想い出です。(いずれあやめかかきつばた 16/9/15)

(寸評)サイトやSNSなどにも流行り廃りがあるよねー。
俺はこのダサいホームページでずっとやってくぞ! 6ポイント。

はじめての「たま」駅



先日、葬儀があったので西武多摩川線に乗りました。
葬儀場の最寄駅の名がなんと「たま」駅でした。
これはネタになると思わずパチリ。
石川さんは駅を訪れたことはありますか?(わいわい 16/8/31)

(寸評)ん?そんな駅があったらたまがデビューした時に撮影とかで使いそうだがな・・・と思って調べたら、そこは元々多磨墓地前という駅だったんだね。
2001年3月に多磨墓地前駅から多磨駅に改名とのこと。
なので多磨駅には行ったことが無いが多磨墓地前駅なら行ったことがある。
何故なら多磨墓地には我が家の祖先も眠っているから。
近々俺もそこに入る予定で〜す。元たまinたま。 7ポイント。

初めての戦艦三笠

2007年12月、横須賀港に停泊展示されている戦艦三笠を初めて見学しました。1904年の日露戦争時、日本海大海戦でバルチック艦隊を破り、日本を勝利に導いた連合艦隊旗艦だった軍艦です。東郷平八郎司令長官は砲弾飛び交う危険の中、操舵室に入ることを拒みこの軍艦の艦橋に立って指揮をとる姿は、水兵たちを感激させ士気を高めたといいます。

実際ここに立ってみると四方を遮るものは何もなく、当時の大日本帝國海軍魂を垣間見た想いでいっぱいになりました。 甲板下は船室を改造した記念館になっていました。日本海海戦にいたる世界情勢の説明から始まり、当時の薩摩閥を主体とした海軍の重鎮の紹介、史上名高い東郷ターンの模型パノラマなど、結構楽しめる内容となっておりました。それにしてもまず感じたのは軍艦三笠が想像したよりも小さかったこと。全長131.7メートル、全幅23.2メートルというのは20世紀初頭の軍艦としては平均的大きさだったのか。検索すると、三笠は初期の戦艦の形態、「前弩級戦艦(ぜんどきゅうせんかん)」という種類で1910年以降は「弩級戦艦(どきゅうせんかん)」に世代交代していったとのことです。それにしても飛行機が発明された1903年以前は世界の戦争は戦艦による海戦をもっての制海権をめぐる戦いだったことが三笠を見学して想像することができました。
戦艦三笠を見学した帰りには大日本帝國海軍の糧食として広まり現在まで発展した海軍カレーの店に寄り、カレーを食べて帰りました。 美味でした。(波照間エロマンガ島 16/8/31)

(寸評)戦艦。厳しいことしか想像出来ない。
海軍は何曜日は必ずカレー、と決まってたんだよね。他の日はどんなメニューだったのだろう。 6ポイント。

20歳のとき、アートファッションイベントにてボディーペインティング初体験

今をさかのぼること30余年前。1982年12月、新宿ACBニューヨークシアターにて行なわれた「TRA」というアート集団主催の「オルターナティブ・ファッション・ワールド」というイベントで小生、舞台デビューしました。大学1年生、20歳の時です。どんなイベントだったかというと…、それがあまりよく覚えてなくてすみません(汗)。

「TRA」というのは式田純(クラブオーガナイザー)、伊島薫(フォトグラファー)、ミック板谷(アーチスト)という3人の「最先端な」人々が創っていたアート系カセットマガジンで本屋さんで売っていました。そこで紹介されて有名になった人はけっこう多くいて、ゴンチチ、ショコラータ、メロン、立花ハジメ、The Spoilなど音楽系が多かったかな。あ、アート系では安齋肇さんもいたかな。
そのカセットブックに出演した人たち周辺の「オシャレ」系の業界人っぽい人たちで何かアートイベントをやりましょう、ということで始まったイベントではなかったかと記憶しています。雑誌で出演者が募集されたわけではなく、なんとなく内輪のつながりなようだったような。私は当時某美術大学に通っていて、先輩がこのTRAに繋がっていた流れで、友人と出ることになったのでした。

覚えているのはオープニングに出演したミック板谷さんがドラムを叩いたZazouというバンド。これがめちゃかっこよかった。あまりに良すぎてあとからレコードを探して買ったほどです。ノンミュージシャンの音楽的アプローチとしては同時代のスロビング・グリッスルやPILなどに通底する世界観を持っていると思いました。あと、戸川純さんが小太鼓をもって登場してなにやら歌っていましたね。1982年はもうゲルニカで戸川さんのライブは何度か見ていてドラマでも有名になっていた頃なので固体認識はしていました。

さて、私たちの出番になったのですが、何をやったかというと、東急ハンズで買った2掛1メートルくらいの発砲スチロールのパネルを何枚か舞台に立ててそれにペンキでニューペインティング風の絵を描く。私は丸くくりぬいた部分に顔や手や足を出してその上に無残にも生贄としてペンキを塗られていくというギャグの役割。最後は雪だるまの形にくりぬいた板がどかーんと飛び出て、雪だるまを手にもったわたしたち踊りまくる、といった内容でした。まぁまぁウケテいたのでちょっとだけ嬉しかったです。家に帰ってからだじゅうについたペンキを洗い落とすには難儀しましたが。
私はただただ顔にペンキで塗りたくられるだけだったのでどんな変容ぶりかはわからなかったのですが、しばらくして流行通信という雑誌に大きく写真が出ていたのを見たときにはさすがにびっくりしました。
という、アートファッションイベントにてボディーペインティング初体験の巻きでした。(波照間エロマンガ島 16/8/26)

(寸評)おぉ、是非またやって欲しいな〜。
50代でやると、また違う意味が生まれるぞっ! 8ポイント。

タイの仏教行事「仏誕節」でチェンマイ地方独特の風習「クンドーイ」に初めて参加するの巻き

2008年4月、私は日本からタイのチェンマイに引っ越してきました。語学を学ぶためにチェンマイの学校に入学したのです。
でも、ただタイ語を勉強するだけではつまらないので、できるだけタイ人と文化的な交流をしたいと思っていて、タイ人から何か誘われたら積極的に参加しようとは決めていました。そして翌月5月に最初の機会が訪れました。

5月19日月曜日はタイの祝日でした。タイでは旧暦6月の満月の日を「仏誕節(ワン・ウィサーカブーチャー)」として祝う習慣があり、その年は19日がその日だったのです。お釈迦様が生誕し、成道(悟りを開くこと)し、入滅した日として、この日はタイ上座部仏教でもっとも大切な日とされています。そしてチェンマイではその前夜、近郊のドイステープ山の頂上にあるドイステープ寺院に歩いて登ってお参りする「クン・ドーイ」という行事があってこれに参加したというわけです。長い距離を長時間かけて歩いて参拝することによって徳を積むという意味があるようです。

ドイステープ寺院はチェンマイ市西方のドイステープ山に位置し、標高は1676m。仏舎利を収めた仏塔は金色に光り輝き、天気のよいときは、チェンマイ市内からもくっきり見えるほどです。寺院までは麓のチェンマイ動物園から約11kmの道のりで、道路は舗装されています。私はドイステープ寺院にはそれまで3度お参りしていますが、交通手段はいずれも自動車かバイクでした。このとき初めて歩いて登ったのでした。

アパートからファイケーオ通りを20分ほど歩いて午後8時過ぎにチェンマイ大学の門に到着すると、すでに大勢のチェンマイ市民が山のほうに向かって歩き始めていました。タイ人が長い距離を歩いているのを見たことがなかった私は、この光景には強いカルチャーショックを受けました。なにしろ沿道は道の幅すべて、人ひとひとで埋め尽くされているのです!信仰の力をまざまざと感じました。そして老若男女という表現がこれほどふさわしいと思ったことはないほどいろいろな階層の人がいました。子どもから若者からお父さんお母さんから壮年層まで。また制服や体操着を着て学校行事で来たとおぼしき高校生、大学生もたくさん見ました。もちろん修行中のお坊さんも。

象さんの模型やら山車(だし)やらにのせて歌舞音曲の類もにぎやかでした。スピーカーからは大音量でお坊さんの説法も聞こえてきました。これがタイなのか、と感心しました。

私は、はじめのうちは物見遊山な気持ちであちこちきょろきょろ見ながら歩いていたのですが、なにしろ人が多いので途中で止まることすらままならないのと、地面のアスファルトの硬さで、たちまち余裕がなくなり、疲労が蓄積してきました。けっこうきつい上り坂が11kmも続くのです。歩き始めからの距離も合わせると13kmくらいになり、これは渋谷から多摩川近くの私の実家までと同じくらいの距離なのです!はじめの5kmくらい(1時間ほど)で早くも気持ちはめげてきました。

ところがタイの人たちはまったく意に介さず普通に歩いています。途中休む人はもちろんいますが、みんな歌を歌ったり笑ったりしながら楽しそうに歩いていました。途中マラソンの給水ポイントみたいに水や軽食を無料で出してくれる場所があるのですが、皆わいわいやりながら、そのポイントで休息しながら、各々のペースで寺院を目指しているようでした。

そして登ること、なんと4時間半!!

ついにドイステープ寺院に到着しました。時間はすでに深夜0時をまわっていました。とにかく人の数は尋常ではありません。実は寺院の入り口でタイ語学校の先生の女性と待ち合わせしていたのですが、あまりの人の多さに会えずじまいでした。迷子も続出していたんだろうな、と思うほどでした。

おしあいへしあい、まるでお正月の明治神宮のような人ごみの中、寺院の階段を登り、参拝しました。仏塔のまわりを3周すると功徳があるというので、3周回っていちばんフロントにある仏像に拝みました。そして帰りました。

さすがに疲労こんぱいだったのでソンテウに乗りました。登りは4時間半かかりましたが、下りは30分で降りてきましたとさ(笑)。

大変疲れましたが、本当に貴重な経験をさせていただきました。
でもあれだけ人がいたのに(おそらく十万人近い人出だったでしょう)、観光客にはほとんど会わなかったことを最後に書いておきます。ファラン(白人)に何人か会っただけでした。日本人には会わなかったです。

功徳が積めたかな。あれから8年経ち、私はまだこちらタイ国にてなんとか生活しています。という、タイの仏教行事「仏誕節」でチェンマイ地方独特の風習「クンドーイ」に初めて参加したの巻きでした。 (波照間エロマンガ島 16/8/26)

(寸評)うわー、俺は脱落しそう。そんでタイ人に蔑んだ目で見られるんだ。ワー。
日本人代表としてご苦労様でした〜。 7ポイント。

初めての処方薬紛失

ある週末の話です。
毎朝定期的に飲んでいる薬(1回9錠一ヶ月分)を会社に置き忘れたと思いこみ、日曜日は前々回処方された薬の残りを飲んだのですが、週明け月曜日出社して自分のデスクまわりを探してみると薬が無くなっている! すわっ、もう一度薬を処方してもらうんか、高そうやなー、と絶望していると、土曜日に朝食をとったレストランに薬を忘れたかも、ということに思いつきました。はたしてそのレストランにさがしに行くと薬はレジに置いてありました。処方薬の紛失と再配布は患者が全額負担するらしいので危ないところでした。ふーっ、助かった。

というわけで薬を毎日飲んで健康回復に努めています。来月はまた検査してメディカルチェックいたします。(波照間エロマンガ島 16/8/26)

(寸評)俺もいろいろ飲んでる。ま、そういうお年頃だもんね。
そうか、無くすと全額負担で高くなるんだな、気をつけなければ。
まぁ薬は盗みづらいよね。トンデモナイ薬以外はね・・・。 6ポイント。

初めての「喜寿童女」体験

石川淳の小説に「喜寿童女」という作品があります。天保年間、江戸下谷敷数奇屋町にいた名妓・花は幼い頃から精気さかんで、生涯に男を知ること千人を越えるも、それが天保四年癸巳三月一日、七十七歳の喜寿の賀宴のさなか、とつじょ行方知れずになった…、喜寿の花は11歳の童女に転生して将軍家斉に輿入れされるという奇談でした。喜寿を迎えた芸妓を表現していく石川淳のタッチに魅せられ、短編ながら印象に残る作品で学生時代から繰り返し読み返したものでした。

今から15年ほど前、ユナイテッド航空に乗り、アメリカ合衆国を旅したときのことです。
いつものようにエコノミークラスを予約してマイレージを使ってビジネスクラスに アップグレードする裏技を使って搭乗しました。この方法を使うとエコノミーの航空運賃でビジネスクラスに乗ることができるのです。快適な空の旅を期待して搭乗しました。
離陸前のキャビンアテンダントの安全確認のデモンストレーションが始まりました。そのときわたしは前方の操縦室前の通路に奇妙な「物体」を発見しました。

年齢は60代から70代くらいの老女のキャビンアテンダントが日本のメイドカフェのメイドさんの衣裳を着て立っていたのです!!

私は目を疑いました。あんな老齢のすっちーがいるなんて。ユナイテッド航空は何を考えているのか。あの人ははたして本当にすっちーなのだろうか。疑惑を向けましたが、その老女キャビンアテンダントは仕草こそスローモーですが、た んたんと給仕の仕事をこなしていました。私の席にもドリンクや食事などサーブしました。

私は彼女を見て前述の「喜寿童女」を想起したのです。お婆ちゃんなのに童女のよう。メイド服は可愛らしく倒錯した感情が沸き起こるのを止められませんでした。ピグマリオン(人形)に感じました。好き、かもしれない。好き、かも。自分の中で会話をして過ごしました。目的地まで夢のような時間でした。今から振り返るとあれは白日夢ではなかったか、と思ったりもします。そんな初めての「喜寿童女」体験。(波照間エロマンガ島 16/8/26)

(寸評)でもCAでも定年ってあるよねえ。特に大手なら。
結構体も使うしねえ。
他の乗客にもその人は見えたのだろうか・・・? 7ポイント。

初めての著書

恥ずかしながら私も本を2冊出したことがあります。かなーり昔、自費出版でなくちゃんとした大手から。本名でも、わいわいでもなく、ペンネームです。今読み返すと恥ずかしいですね。国会図書館にもちゃんと納本されています。
椎名誠さんらが作っていた『本の雑誌』ってみなさんご存知ですか。毎年、オール・タイム・ベスト20という企画をしておりその本が「タイトル部門」で選ばれたこともあります。
石川さんもご存知のように、本を出すとかなりの本が出版社から頂けます。それは家族や知人に配りました。
さてその後、私はどんな策をとったと思いますか。私は図書館が好きで、近くの図書館の利用カードを何枚も持っていました。現在では相互貸し出しと言って、図書館同士で所蔵していない本を取り寄せるというシステムが構築されているものの当時はそれほど盛んでもありませんでした。私は近くの図書館一館一館を回って(同一市内図書館はダメです)、自分で自分の本をリクエストしたのです。今思うと、恥ずかしいですねえ(笑)。そうしてなんとかたくさんの人に読んでもらい、たくさんの図書館に買ってもらい、重版を狙いました。
書評を持っている主だった週刊誌、週刊文春や週刊現代とかにもにもせっせこ送りました。そんなことは既に出版社がやってくれていると思うのですが、なにせ若かったもんで。でもそのおかげで送った『本の雑誌』の座談会に登場したので、結果良しでした。
ちなみに、まだレコードやCDは出したことありません。かしこ。(わいわい 16/8/26)

(寸評)ほう、何という本か知りたいね。
俺は芸名もペンネームも無く全部戸籍と同じ本名・・・作戦が出来ませぬ(泣)。 7ポイント。

はじめての顔のYシャツの店

石川さんに教えられて小川町へ。最寄駅は、なんと私がほぼ毎日乗り降りしている新御茶ノ水/小川町駅じゃないですか。
B5階段を出るとすぐ目の前。どーんという感じでありました。
ここで音を録音したんですね。

名曲「まちあわせ」ですが、「いか天復活祭」では曲が途中で切れてしまい肝心の「顔のYシャツ」の部分は出てきませんでした。
これじゃ歌のタイトルは「ハムカツ」ですよねえ。
私はまちあわせ」と「ハムカツ」とは別の曲かと思っていました。
石川さんなら「ハムカツ」という曲も作りそうだし(笑)。(わいわい 16/8/26)

(寸評)ここはたまファンの「聖地めぐり」のひとつみたいね。あとは赤水門とか木星とか・・・。6ポイント。


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