ドキドキドキリコ初体験(81)
さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント?ー(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!
初めての西郷山公園にて妖しいグラビア撮影の巻き
目黒区青葉台に西郷山公園という公園があるのをご存知でしょうか。
代官山から南平台に続く旧山手通りの途中に入り口があり、「山」という名の通り台地の斜面を利用した高低差のある、都心部では珍しい緑の多い公園として、地元の人に親しまれています。
歴史的には明治時代の初期に薩摩藩出身の軍人、西郷従道が兄の隆盛の私邸用にと土地を購入したところ、西南戦争で隆盛が戦死してしまったので従道の私邸として利用されていたといいます。その後、西郷家の手を離れ、戦時中は鉄道省の施設になり、戦後はその関係でプロ野球チーム、国鉄スワローズの合宿所や練習場に使われていたといいます。明治期に建設された洋館は愛知県犬山市の明治村に移築され、国の重要文化財に指定されています。そしてその後、施設を整備し1981年5月に公園としてオープンしました。
この先はWikipediaにも出ていない情報なのですが、国鉄スワローズ出身の金田正一投手は目黒区青葉台に私邸を建設しました。その理由は西郷山のチームの練習場に近かったということもあるのではないか、と私は類推しています。この界隈は新興の住宅地として戦後開拓され、美空ひばりをはじめとして、多くの有名人が住んだ高級住宅街に発展しました。1958年に目黒区鷹番に生まれ当地で育った漫画家の根本敬は、小学生時代に青葉台の金田邸を友人と訪ねたことがあるそうです。根本の「金田愛」は「天然」という作品に結実しています。また、映像考古学的には川島雄三監督、鶴田浩二主演の「天使も夢を見る」という作品にノンプロの野球チームの練習場の設定でこの西郷山近辺でロケーションが行なわれていて1951年当時の当地の風景を見ることができます。
さて、大きく話がそれましたが、この西郷山公園で初めてグラビア撮影を体験したときの話をしたいと存じます。
1996年頃ゴルフ雑誌の編集をしている友人の男性から、わたしに雑誌のグラビアページで写真を撮らせて欲しいというオファーが突然ありました。ゴルフなど一度もやったことはありませんが、「ゴルフクラブも設計してしまうハイパー新人類のゴルファー」という設定でグラビア特集をしたいとのこと。わたしは最初戸惑いましたが、面白そうなのでオファーを受けることにしました。ロケは西郷山公園で行なうことになり、約束の日に現地へ向かいました。でも予算が少ないのか、スタイリストもいず、全部自前の私服での撮影なのでした。自分のふだん着でいちばんゴルフからほど遠い服を着てきてください、というリクエストだったので、上半身がドレスシャツで蝶ネクタイをして下半身はアーミーショップで
買ったパラシュートパンツ(つまり軍服)、編み上げのブーツというような奇矯なスタイルでした。あてがわれたゴルフクラブをもちポーズをとって撮影しました。そして最後には芝生の上にシートを敷き、上からわたしのアップショットを撮ることになりました。でも、ここからがあれなんですが、私を撮ったカメラマンはどうやらゲイだったんですね。初めてお会いしたときからなんか私を見る視線に熱いものを感じていたのですが、それがいよいよエスカレートしてしまったのです。シートに横たわったわたしを撮っているうちに興奮してきて足でわたしの股間を「電マ」しながら「はい、いいよー、いい顔してるねー、かわいいよー」とかなんとか言いながら撮影されてしまったの。そのカメラマンはフリー
で活動している人らしいのですが、ゴルフ雑誌からエロ系までなんでも心得ているようでした。そう、いちばん書きたかったのは、このグラビア撮影でおちんちんを刺激されながら撮影され恍惚の表情を浮かべている写真が有名なゴルフ雑誌のグラビアに出てしまったのでした。まさにドキドキドキリコな初体験でした。(前半と後半が分裂していてすみません、波照間エロマンガ島)
(寸評)それが今の波照間エロマンガ島の趣味嗜好に繋がっているのか・・・。
気持ちよくて良かったね! 9ポイント。
初めての『いか天年鑑』
初めて『いか天年鑑』を読みました。表題は、『イカ天』でなく『いか天』でした。
なぜ人間椅子がチャレンジャーに選ばれなかったのかとか、マリア観音が「掲載拒否」とかなっていて、いろいろ面白かったです。
巻末の一日のスケジュールでは、たまの回が選ばれていましたね。
今回初めて知ったのは、その一日のスケジュールで、今まで当日(土曜日)に全てのバンドの収録が行われていたと思っていたのですが、当日に演奏収録するのは、イカ天キングと地方から出てくる当日出演バンドだけだったそうですね。
ではほかのバンドはというと、日曜日の放映が終了してから、片付けや準備や休憩を経て、そのまま日曜日に行われていたとか。理由は、日曜日は休みなのでバンドが集まりやすかった為だそうです。
放送当日に続けて収録するなんて、スタッフすごい。
いろいろ初めて知ることが多い本でした。(わいわい)
(寸評)それ俺も初めて知った。
でも俺たちの一週目は少なくとも当日収録だった。TBSのスタジオでまず「らんちう」を演奏し、その後マンダラ2に戻って夜ライブをやり「これからイカ天出ま〜す」とお客さんに宣伝してまたスタジオに戻ったの覚えてるから。
ケースバイケースなのかもしれないね。
尚ビギンなど歴代のグランドチャンピオンすべての中で最優秀を決める「イカ天大賞」は俺たちが貰ったよ〜ん。7ポイント。
初めての毛断つ・・・解脱
いまから10年ほど前、初めて坊主頭にしました。
子供の頃から坊主頭には抵抗があり、部活動も髪型自由を条件に選ぶほどでした。
学ランのポケットにはいつも折り畳みのクシを忍ばせ、休み時間のたびに髪を梳くほどツヤばコイテ(カッコつけて)おりました。
中学3年生からは毎月1回、理容室でのカット(3,300円)も欠かしませんでした。
それから約20年が経ったある日、理容室を二人三脚で経営されていた70代後半のご夫婦が引退されることになりました。
ご本人たちは年金で生活をされカット代はおこづかい(パチンコ代)だと悠々自適に暮らしておられたのですが、100歳を超えるツーリング好きの父親の介護が必要になってきたとのこと。
最後の日、「20年間、ありがとうございました!」とお礼を言い深々と頭を下げ理容室を後にしたのはいいのですが・・・これからどうすっぺ。
理容椅子に座れば「お願いしま〜す」の一言でいつもの髪型にしてくれるほど気楽だったのに、極度の人見知りが新しい理容室を開拓できるはずもなく・・・(苦笑)。
半年間は普通のハサミを使い自分でどうにかチョキチョキとやっていたのですが、とうとうボサボサ頭が鬱陶しくて我慢できなくなってきました。
そこで大型電器店で電動バリカンを購入。価格は1回分のカット代よりも安かったです。
思い切って3cmの長さにカットしましたが、何だかサッパリ感がありません。両サイドはもっと短めにカットしてみるか。
はい、ここで不器用の本領発揮!
左サイドをカットすれば右サイドより短い。右サイドを左サイドに合わせようとするもカットし過ぎ。
うわ、手元が狂った。
あちゃ〜、こんなはずじゃ・・・。
気付けば両サイドはかなり上まで短く、いわゆるモヒカンになっていました(苦笑)。
あ・・・え? ああ・・・うう。
諦めました・・・観念してモヒカン部分も断髪しました。
意に反して、初めてクリクリ坊主になっちゃいました(涙)。
ショック状態の沈んだ気持ちのままシャワーを浴びると・・・あれ?
気持ちいいーーーっ(笑)! 何じゃこの爽快感は(笑)!
乾燥もタオルで一拭きだし、楽でいいかも〜〜〜(笑)。
ほえ〜サワサワサワサワ〜、もっと早く坊主頭にしてりゃよかった〜。
いままでの整髪の時間やカット代は全部無駄だったな〜。
よく「中学時代の自分に会えたら伝えたいこと」ってあるけど、坊主頭のメリットを教えてあげたいよ〜。
てなわけで、それ以来ずっと坊主頭で過ごしています(笑)。
知久さんに「俺と同じ頭してるね(笑)」と認めてもらえるほどになりましたが、下手なバーコード頭にならずに済んで良かったなと思っています(笑)。
いつか頭に本物のバーコードのタトゥー(ヘナ)を入れて「バーコード頭!」と言ってみたい夢もできました(笑)。
本当、坊主頭はいいよ〜の初経験でした(笑)。(デクノボー)
(寸評)でしょう?
坊主頭の楽さを知ったらもう二度と他のヘアースタイルの世界には戻れない・・・。
♪坊主だよー(坊主〜)7ポイント。
初めての・・・消失事件
サルのようにセックスしまくっていた時代の出来事です。
その夜は五反田のラブホテルにて、パートナーの女性のからだじゅうを愛撫したのち挿入の運びとなりました。枕元に置いてあったコンドームを装着し、彼女の秘所へ肉某を差し込んでいきます。
あれやこれやいろいろな方法での体位を楽しみ、二人ほぼ同時に「果て」ました。
しかし、肉某を秘所から取り出すとき、あるはずのコンドームがなんと無くなってしまったのです!! わたしは必死になって彼女の「中」を探しましたが見つかりませんでした。ひょっとすると何かの拍子に脱げてしまい膣外に投げ捨てられたのかと、ベッドのまわりも捜索しましたが発見できず、しかたなく捜索本部は解散しました。彼女は激怒して口も聞いてくれませんでした。
ところが24時間後、彼女と仲直りし再び別のラブホテルへ入り、昨夜の続きをこころみようとしたときのことです。彼女の秘所からコンドームが出てきたのです。これには驚きました。いくら探しても見つからなかったコンドームが彼女の身体の中から発見された。これってどゆこと?! 女体の神秘をあらためて実感したしだいです。
という初めてのコンドーム消失事件は事件発生後24時間後に無事解決の巻きでした。(波照間エロマンガ島)
(寸評)そのコンドームはその24時間内に浮気した別の男のだったりして。
バキュームコンドーム女!? 8ポイント。
初めてのシュナーベルのプレートペインティング@アムステルダム
1980年代、現代美術の世界に「ニューペインティング」とか「新具象主義」「新表現主義」と言ったムーヴメントが世界同時に起こったのを覚えている方はいらっしゃいますでしょうか。アメリカではジュリアン•シュナーベルにキース•ヘリング、デビッド•サーレ、ジャン・ミッシェル•バスキアなど、西ドイツではアンゼルム•キーファー、イタリアではエンツォ•クッキやフランチェスコ•クレメンテ、そして日本では大竹伸朗、日比野克彦、等々。
わたしはちょうどその頃美術学生だったのでそれらのアーティストが起こすムーヴメントを興奮して受容していました。その前世代のミニマルアートやコンセプチュアルアートがあまりに理屈をこねた左脳的世界で辟易していたからでしょう、スプレー缶だけで落書きグラフィティーアートとして登場したキース•ヘリングなどは世界中で熱狂的に支持されました。
そんな折、1986年ヨーロッパ旅行に行った私はオランダのアムステルダムでジュリアン•シュナーベルの作品にじかに邂逅したのです。それは出会い頭事故とも言うべき事件でした。シュナーベルのプレートペインティングとは巨大なキャンバスに描いた風景画に割れたコーヒーのソーサーや皿を無雑作に貼り付ける作品のことで、実際に美術館で観たときにはその迫力に衝撃を受けましたねぇ。それまでは美術雑誌でしか知らない「実物」の衝迫力はもの凄いものでした。
あれから30年ほど経ち、今やすっかり当時のことを語る人も見なくなりましたが、近いうちに必ずやニューペインティングのリバイバルブームの日が訪れると確信してやみません。そんなニューペインティングの騎手、ジュリアン•シュナーベルの作品を初めて体験したときの話でした。興味を持たれた方は是非ググッてくんなまし。 (波照間エロマンガ島)
(寸評)俺もスイスのアール・ブリュットで20年以上前に観たアウトサイダーアートがニヒル牛を作るひとつ大きなきっかけとなった。
精神障害者や犯罪者の絵から出る圧倒的なオーラにぶちのめされた。
その後ヘンリー・ダガーなどは日本でも有名になったがとにかく人生を変える大きな衝撃であったことは間違いない。
そういう出会い、是非皆にも訪れて欲しい。 8ポイント。
初めての救急車ストレッチャー搬送でバンコクの病院に入院の巻き
今から2年近く前の出来事です。
朝目が覚めると右側の腰が痛くて痛くて寝返りさえうてない状態になっていることに気づきました。その前日オフィス内で椅子から立ち上がる際に腰に違和感を覚えて嫌な予感はしていたのですが、睡眠後翌朝になったらもうどうしようもありませんでした。
しばらく様子をみていたのですが会社へ出勤できる状態でないので、上司に電話して休みをいただき病院に行く旨連絡しました。ところが腰が痛くて起き上がることすらできないのです。おしっこしたくなったので這うようにトイレに行き用を足しました。排泄することすらままならなくなっていました。
数時間じっとしていました。発熱もしているようでうなされるようにベッドに横たわっていました。午前10時くらいになり体調はまったく改善されぬまま、なんとか気力をふりしぼってアパートの出入り口まで行きました。数年前にチェンマイで石川さんが骨折したときにいただいた松葉杖に全体重をかけて一歩一歩踏みしめるようにして出入り口まで下りる。そこでミャンマー人のアパートのメイドさんにバイクタクシーを拾ってもらい、いちばん近い病院に行きました。救急病棟に着くと倒れるように救急ベッドに崩れ落ちました。そこで寝ながら看護士さんにタイ語で病状を説明しました。
その病院で点滴をしてしばらく休息したのちレントゲンと尿検査をしたのですが、わたしの持っている社会保険の適応外の病院だったのでお金がかかることが判明、保険の使える病院まで移動することになりました。そのころには同僚が心配して駆けつけてくれました。ズキンズキンと疼くような痛みが最高潮に達し意識もうろうの中、転院する病院の救急車が到着しました。
病院のベッドの横にストレッチャーという担架が置かれました。看護士さんたちに「どっこいしょ」と寝返りさせてもらってストレッチャーに身体を乗せると寝た姿勢のまま、救急車に運び入れられました。救急車にストレッチャーのベルトを締める「カチャ」という音は覚えています。そしてそこから約5キロほどの距離にある病院に搬送されました。
初めての救急車は不思議な感覚でした。サイレンの音はほとんど聞こえず車内は静かでした。そしてこれは当然なのですが信号に止まらずにノンストップであっという間に目的地の病院に着きました。そして着くやいなやすぐに救急病棟の処置室に運ばれ、5分もしないうちに検査が開始。
結局のところ3日間入院し、会社も10日間ほど休みました。病因はウイルス性の腰痛。ばい菌が血液から入り腰を圧迫してしまい負担が集中してしまいダメージを与えてしまったらしい。でも内臓系疾患や椎間板ヘルニアなどの深刻な原因ではなかったのが幸いでした。全快するまで3〜4ヶ月もかかりました。一時はもう治癒しないのではないかと思うほど絶望しました。それくらい痛かった。
あと、入院にあたってはタイの社会保険のきく庶民の行く病院だったので治療費は無料でした。また、いろいろな人間模様が見られたことが回復した今となっては良い想い出として記憶されています。家族や親戚のいない異国の地でとても心細かったですが、同僚や友人が日用品の買い物をしてくれてお見舞いに来てくれてなんとか乗り切ることができました。
そんな、初めての救急車ストレッチャー搬送で病院に入院したの巻きでした。(波照間エロマンガ島)
(寸評)うわぁ痛そう・・・。
確かに異国の地で病気になると不安になるよね。もし誰も知っている人がいなかったらと思うとゾッとすることもある。
ウイルス性じゃ注意しきれないしね。治って本当に良かった。7ポイント。
チェンマイ留学中、初めて素の自分に出会った瞬間
2008年、私は14年間勤めた会社を退職し45歳という年齢でタイのチェンマイに語学留学しました。生まれて初めて海外に住むことになりました。旅行者としては何十回と訪れたタイに実際住むとなると、あれこれ予期せぬトラブルが身に起こったことも事実です。しかし、感受性が鈍いせいか、まわりの夾雑物にはほとんど意識は向かずタイ語の勉強にのめりこむことができて、刺激の少ない地方都市のチェンマイで勉強できたのは本当によかったな、と今振り返って思います。
タイ語を勉強しはじめて3ヶ月くらい経った頃でしょうか、私はニマンヘミン通りのタイレストランにランチを食べに行きました。もうランチタイムが終わりかけていたからか、店内には一人しかお客さんはいませんでした。わたしは食事を注文しランチをいただきました。
ふともう一人のお客さんに視線を投げかけると、そのお客さんもこちらを見ていました。その瞬間、わたしはびっくりして腰がぬけそうになりました。もう一人のお客さんは鏡に映ったわたし自身だったのです!! なんかさえない中年男が客でいるなー、と思っていたのですが、それは自分自身だったわけです。
私はそのとき、ロンドン留学当時の夏目漱石の日記の描写を思い出しました。
「往来ニテ向フカラ背ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ来タト思ヘバ我姿ノ鏡ニウツリシナリ」。往来にて向こうから背の低い妙に汚い奴が来たと思ったが、それは鏡に映った自分の姿だった、というのと同じシチュエーションに出会ってしまったのです。
普段自分のことは意識してなかったのですが、客観的に観ると、こんなに気持ち悪い情けない無様な姿かたちをしているんだな、と思いました。チェンマイに住んで初めて「素」の自分と出会った瞬間でもありました。45歳、けして若くはないスタートを切っているんだな、調子に乗るまい、と自戒したのです。
以来何の因果か8年位この国で生活していますが、今の心境としては傍から見て醜く無様でも仕様がない、でも驕らず高慢に見られないよう慎ましく生活したいということが生活信条として思い浮かびます。気障な文言を吐いてお恥ずかしいですが、今の心境はチェンマイのレストランで初めて素の自分に発見した瞬間のことを忘れないで生きたいな、ということでございます。
これからもよろしくお願いします。 (波照間エロマンガ島)
(寸評)俺もそれ経験ある。
なんか不格好な太ったオッサンが前から歩いて来るな、と思ったら鏡だった・・・。
自分を無意識に観るってことがまず無いからちょっと驚くよね。 7ポイント。
初めてのピチカートバイオリン
あれは今から30年前くらいのこと。
友人の女性がバイオリンを習い始めたので、部屋に遊びに行ったとき初めてバイオリンを弾いてみました。もちろん弓を弾いても最初はまともに音など出るはずもなく、日本の童謡などをつっかえつっかえ自己流で弾いた記憶があります。
でも弓を使った奏法はすぐに飽きてしまい、弦を直接つまびく「ピチカート」奏法に切り替えてみました。すると面白いことに弓で弾くときよりもはっきりと音が出るのですぐにのめりこみました。ちょうど同じ時期に観た昔の東宝映画「社長漫遊記」の神津善行さん作曲の主題曲がピチカートバイオリンが旋律を奏でる曲だったので頭の中でコピーして演奏してみました。そんな思い出の初めてのピチカートバイオリン。(波照間エロマンガ島)
(寸評)へー、今度聴かせておくれ! 6ポイント。
初めてのオープニングアクト
5月26日㈭、京都にて開催の石川さんのライブ
石川浩司「アイドルになっちゃった!」ライブ&トーク
にて生まれて初めて『オープニングアクト』をやらせて頂きました!!
4月中頃、個人的に落ち込んでいる時期でした。
届く事は稀だと知りつつ作っていたメールの『石川浩司』フォルダーに受信1通。
えっ!?石川さんからメールっ!?えっ!?えっ!?
心の臓がぎゅーっとなりながら震える指で開くと
石川さん「京都での僕のライブでよかったらオープニングアクトやりませんか?僕とセッションもしましょう。」
私、心の声「なんですって!?」
にわかに信じられず、石川さんの名を語った新手の詐欺か・・・?
(何があったんや、その時の私、かなりやさぐれてましたw)
しかし、送信元はウキュピのアドレスから。間違いないっっご本人だ!!
スケジュールも調べず、できるかどうかも分からないまま即返信しました。
私「やりますっ!!やらせてくださいっっ!!」
石川さん「では、鍋とかフライパンとかいくつか持ってきてね」
私「えっ!?私、鍋とか叩くのあんまり得意じゃないんですけど・・・でも頑張りますっ」
石川さん「いや、鍋は俺だからっ。君はマンドリンだからっ。」
私「はっ!あ、そ、そうですか。そうですよねっ!!」
私が石川さんの弾き語りの横で鍋を叩くなんて、なんて恐れ多いの・・・!!
と本気で思いこんでしまった。本当に頭の悪い子でスミマセンでした。
それから一か月。
さて困ったのは、私は普段全くのソロで演奏する事など皆無で、いつもギタリスト又はそれに代わる「伴奏をしてくれる人」とのデュオ以上で活動をしています。
「最初はようこちゃんのソロで何曲かやってね」
ハイ!!と言ったものの何しよう・・・。
メイプルメンバーの北門氏「ワシ、伴奏だけやりに着いて行ったろか?」
岡崎氏「僕、ギターだけ録音するからそれを持って行く?」
優しい・・・つーか、甘い。コイツらが私を過保護に育てたんだな。。。(!)
ここは甘えてはいけない。一人でやらなくてはっ。
と奮起し、いつもデュオでやっている曲を一人用に作り替えました。
金魚鉢の時の石川さんの「鈴サンダル」を参考に、足に鈴を装着したのも初めて!!
あれは見てるとやるとでは全く違って、難しいのですね。
演奏に集中していると、足が止まるか、一定のリズムしか刻めない。
クールに演奏しながら、鈴で後打ちをしたりとリズムを変える練習、ひょっとしたらマンドリン本体よりそちらの練習の方がたくさんしたかも。
そしていよいよ本番。
楽しかったーっっっ
私のソロのコーナーを石川さんがかぶりつきで聴いてくださっていて緊張した〜!
石川さんとのがらくたセッションは、できれば私のオリジナルがいいとの事だったので、石川さんに参加して頂いたメイプルのアルバム「楓・二人囃子?」1枚2500円ニヒル牛にて絶賛発売中(さりげなく宣伝)に収録されている『メイプルマーチ』そして来年発売される私のアルバム「Dream」1枚2500円ニヒル牛にも置いていただくよ!(さりげなく告知)に収録予定の『ラティーナ』の2曲をやりました。
どちらも弾きなれている自分の曲。間違える事などほぼないハズが、曲の途中で横を見ると、石川さんが私が持ってきたヒノキやらなんやらを一心不乱に叩いていらっしゃる。(当たり前)
そしたら急に「わ〜!石川浩司が叩いてる!」って見とれてしまって気付いたら手が止まってた(;´Д`)
石川さん「え!?終わり!?」
私「いえ、まだ途中です!」
石川さん「だろうね!これで終わりだとしたら、なんて斬新な曲だ!と思ったよ」
私「すみません!では続きを!」
お客さん爆笑…!
本当はあってはいけないハプニングも何故かプラスに働く石川さんパワー。偉大です!
アンコールでもう1曲何か石川さんの曲を一緒にと言ってくださったので、大好きな曲「秋の風」をリクエスト。
最後に思う存分哀愁たっぷりに、メロディアスに演奏させて頂きました。
最前列のお客さんOPちゃんとTOさん(イニシャルの意味なし笛・・・)が手で顔を覆って下を向いていて、感動して泣いてるのかと思いきや、腹がよじれるほど笑っていたのだそうです(笑)。
終わってからOPさんが「ようこさん!あれは反則ですわ!」と大賛辞のお言葉をかけてくださいました。
ああ、よかった!!私のミッションはとりあえず成功したのかな?と思いました。
石川さんも「最後決まって良かったねーっでないと『曲の途中で止まる人』で終わっちゃうトコだったね。危ない危ない(笑)」
本当に危なかったです。アンコールにも呼んでくださって助かりました!!
またチャンスがあればご一緒したいです❗
石川さんありがとうございました!
お家からお鍋を持ってきてくださったMちゃんありがとう。
京都駅まで車に乗っけてくれたUさんもありがとう。
見にきてくださったお客さんも皆さんありがとうございました!
あ、そういえば石川さんが控室で「みかみかんも来るんだって」を勝手に「三上寛」さんだと勘違いして必要以上に緊張していたのですが三上寛さんはいらっしゃらず、ふなっしーまみれの美佳みかんさんがいらしてました。
なおちゃん、お花ありがとう!
おかげで「いい感じのライブ」になったよ🎵
こうして私の初前座の一日は更けてゆきました。。。(でゅおめいぷるようこ)
(寸評)ソロでやるのが初めてとは思わなかった〜。
そうか、マンドリンという楽器はあまりひとりでは弾かないもんなんだね。
いつもはコンサートでトリを取るような人に前座なんてものをやらせてしまって申し訳ない。
でもとっても楽しかった。ソロもパーカッションとのセッションも、そして秋の風も!
特に秋の風は自分の歌が2ランクぐらい上等になった気がしたな。
ありがとー。また是非付き合ってくださいな! 8ポイント。
はじめての女子へのセクハラ
なんか卑猥なタイトルごめんなさい、これは私が初めて明確な意図をもって女性に性的嫌がらせを加えた卑劣な一幕です・・・ って、幼稚園時代なんですけどね(笑)。
このお話を思い出したのは「ニヒル牛マガジン」の金曜担当のデニス・イワノフさんのおもしろエッセー「お肉の次にキミが好き」の2016/5/7アップ分の「あの子の牛乳」がきっかけです。波照間エロマンガ島さんも絶賛なさっていましたね。
私にも、いました。病気を告げられて園に姿をあらわさなくなり、そのあと二度とその顔を見ることがなかったお友達が・・・。
アカネちゃんは年中のきく組から一緒になった、と記憶しています。そして、そのきく組に在籍している間に、先生から「今度アカネちゃんはおおきな手術をします。みんな応援しようね。せーの、」と言われ、みんなで「アカネちゃんがんばってね」なんてやったのを憶えています。ニコリともせずその声を聞いていた、アカネちゃんの表情も・・・・・・
というか、もともとアカネちゃんはいつも怒ったような顔をしていました。おかっぱでほっぺが赤く眼つきが鋭い近所の散髪屋のお嬢さんで、見た目通り勝気な性格でした。
幼稚園の頃は人見知りも無く女の子とも無邪気に遊んでいた私。その中でもいつも怒ったような顔と態度に終始していたアカネちゃんともおしゃべりはしましたが、毎回なんか怒られてまともに会話は成り立ちませんでした。
そこで私は、アカネちゃんを笑わせようと少々エッチなことを言ってやろう、と4歳の洟垂れぼうずにして思い付いたのです。じつに無邪気に。ナチュラルに。やはり私はデフォルト変態、3つ子の魂はガチで100まで不変です。
つってもたわいない内容です。
その日はきく組のおおきな教室の窓際で、椅子に座りながら「いとまきのうた」をほがらかに歌っておりました。
「♪で〜きたできた、こーびとさんのお・く・つ」
そこで私はすかさず隣のアカネちゃんに、とびきりのニヤニヤ顔でこう言いました。
「♪つ〜いでにアカネちゃんのパンツ〜も」
私は即座にアカネちゃんにひっぱたかれました。めっちゃ怒ってました。失敗でした。しばらく引きずりました。
結局ニコリともしてくれなかったアカネちゃん、どうしても彼女の笑った顔が見たかった私はとくに笑わせる策もないくせにとある雨風の強い日曜、母親に「アカネちゃんのうちにいってくる」と告げました。
散髪屋さんは閉まっていました。
雨に打たれながら、私はお店の前で叫びました。
「ア〜カネちゃん、あ〜そ〜ぼ」
お家へ行って遊んだことなんて一度もないのに。それでも私はアカネちゃんの笑顔を一度でいいから見たかったのです。
「ア〜カネちゃん、あ〜そ〜ぼ」
「ア〜カネちゃん、あ〜そ〜ぼ・・・・・・」
一陣の風が私の安物のビニール傘を襲います。あわれビニール部分は風に舞い、瞬く間に私の傘は骨だけになりました。
いくら呼んでも返事はなく、おまけに傘はぶっこわれ、私はとうとう泣き出して骨だけの傘でおんおん言いながら家へ帰りました。
そのうち冒頭のアナウンスがされ、アカネちゃんは園から姿を消しました。
オポ「お母さん、アカネちゃんいつもどってくるやろ」
母「どうやろね、そのうち帰ってくるで」
デニスさんのエッセーの女の子同様、その後のアカネちゃんの情報は、なにも入ってこないままでした。
もしかするとアカネちゃんは早くから自身の状態をよく知っていて、そのあまりの不条理さに、ずっと怒り続けていたのかもしれない、と、今になって思いました。
もしそうだったとしたら、そんな気持ちも知らずに、ごめんね。アカネちゃん。でも残念ながら僕はいまでも、お調子者でエッチです。(オポムチャン)
(寸評)アカネちゃんはお引っ越しをしただけだよ。
それは隣町か、もう少し遠いところかは分からないけど。
「ごめんね。意地はってちゃんと挨拶できなくって」
って声が聞こえるよ。 聞こえるよ。 8ポイント。
はじめての2Dドッグ
いまから20年むかし。大学を卒業必須単位ジャストすれっすれでおん出た私、さぁ就職だい、ってこんな狂人かつ無能者どっこも雇いたいはずもなく敢えなくニート、というか在学時からアルバイトしてたコンヴィーニエンスストーァで夜勤務を続けつつこんなすかぽんたんでもどうにか務まる仕事を探すことにしました。
日々しょぼくれた顔面をして通う某コンビニ店。私のシフトは21:30から翌6:00まで、家を21:15に出れば十分間に合います。
そんな夏の宵、夜勤に向かう道中で、奇妙な物体が私の目に飛び込んできました。
うす茶色で平べったい毛皮が、地面に貼っ付いているのです。
薄暗くてよくわかりませんでしたが、ようよう目を凝らすとそれは轢かれちゃったわんこでした。
しかし轢かれてお陀仏しているとはいえスプラッタな感はすでに無くただぺらぺら、恐らく私がシフト外だった昨日のうちに繰り返し踏ん付けられて出来たものでしょう。可哀想に完全に地面に同化するというか厚みをまるで感じません。
とはいえ私も可哀想とは思えど触れたいという気持は湧かずむしろそういった類は苦手なので、なるべく見ないように見ないように見ないようにその場をやり過ごしたのでした。きっとそのうち誰かがどうにかしてくれるだろう・・・ 南無南無。
翌バイト勤務日。平面わんこは前回と同じ形態でその場にぺらぺらしていました。
わぉん。誰もどうにもしてくれねぇ。というのもまず轢かれちゃった場所も場所で、信号のない高速道路下を横切る道路の隅でぺしゃんこになっていたので人目に付きにくく、また誰の家の前でもないので別段気に留める者も居なかったのでしょう。
どうしよう。私が始末してあげるべきなのだろうか。しかしでも厭だ。生きてる犬だって家で飼ってるけど大嫌いだ。生きてなければなおさらだ。保健所に電話すればいいのか。しかしでも立会とか依頼されたら厭だ。許せ、わんこ。こうして私はまたしてもわんこを尻目に、バイトへの往路をふらふら進むのでした。
あくる日もあくる日も、見ないように見ないようにしているのだけどどうしても見てしまうわんこ。変化に乏しいのは真上の高速道路が傘の役割をして雨風を防いでいることと、「おバカ」の吸い殻の話にも書きましたが土ではなくアスファルトの上では分解の進みがどうしても遅く、てかほぼ分解されぬままとなるので、いつまで経ってもわんこはその憐れな姿を留め続けるのです。嗚呼・・・・・・
結局すこしづつすこしづつ摩耗してゆき、地面から2Dわんこが完全に消え去るのに、約20日かかりました。
風とタイヤに削られ、日々僅かずつ朽ちていったのでしょう。
なんという切ない、この世からの消滅の仕方でしょうか。
そんな彼に気付いていながらも何もしなかった私は、きっと死後裁きに遭うでしょう。まぁそんなこたどうでも良いのですが、何というか・・・ アスファルトによって覆い隠された土の慈悲深さ、みたいなものをもはや我々は享受できない世界を作り上げてしまったのだなぁ、と変なことを想ったのです。かつてなら、命絶えたものは自然が自然と自然にもどしてくれた、だろうに・・・・・・
まとまった考えにもならなかったですが、そんなあほが思い出した切ない夜々の邂逅でした。(オポムチャン)
(寸評)分かるねえ。ヒートアイランド現象だけじゃなくアスファルトで覆われた土地というのは何かね・・・。
もしかしたら本来だったら自然に還っていたものも還る場所が無く、仕方なく霊になって彷徨わざるを得ないものもいるかもしれんのー。 8ポイント。
初めての海ほたる&車中泊
先日の千倉でのイベントの日のことです。過去2回のイベントの時は海外滞在中だったため、3度目の正直で、必ず行こうと考え、予定を開けておきました。
しかし、前日は親戚の住んでいる地方で法事の予定が。なので、法事へ日帰りで行ってきてから、前日の夜10時頃に車で出発しました。
ちなみに、このイベントの翌日は朝6時半から夜までの仕事で、その次の日も午前出勤。4日連続の早朝からの起床が必須なスケジュールで、このイベントはその四日間のうちの二日目。車での往復となると、相当体にも応えそうに思えます。また、高速料金節約のため、一般道で行く事も考えましたが、それでも埼玉から千倉までは5時間。普段の自分の睡眠時間に匹敵する長さで、金銭の負担こそあれ、体調と時間の管理を考えて、東京湾アクアライン経由の往復で行く事にしました。
連休の初日でしたが、アクアラインへ向かう国道は思いのほか空いていました。アクアラインに入ってからはあまりの車の少なさに、飛ばさないと後ろから煽られやしないかというほどでした。
海ほたる到着は出発からちょうど2時間ほど。コンビニでばったり出会ったのも意外でしたね(笑)
しかし、最初に高速に入った時にもらった領収書の文言が引っ掛かりました。「連続利用有効日時 2:10 本書を発行した料金所を通過後、首都高速の出口を出ることなく、首都高速の料金所を連続利用する場合は、本書をご呈示下さい。ご呈示がない場合や一旦出口を出られた場合は再度料金を頂きます」とあるのです。ということは、この時間以内に高速を降りなければ、追加料金が付加されるということなのか…?
当初は宿代節約のため、海ほたるの駐車場に車を止めて、そのまま後部座席で寝て、夜を過ごそうと思ったのですが(そのために毛布とアイマスクも準備していました)、この文言で一気に安眠できる気が失せてしまいました。加えてこの日の到着は夜12時ごろ。通ってきた川崎側の海や海底トンネルとは反対側の人工海岸、風の塔を眺めてみようと考えていたものの、風も強く、眺めようにも、全くリラックスして眺められる状態ではありません。
少し考えた末、40分ほど後に千葉方面へ向かって出発。風で煽られそうになりながらも、木更津インターへ到着し、料金所の人に、この時間のうちに降りなければならなかったのか、尋ねてみました。しかし、「入った川崎の料金所は首都高速の管轄なので、わからない。ここで受け取っているのは、アクアラインの通行料だけ」との答えが返ってきました。
…結局、海ほたるで夜を明かしててもよかったのかと後悔しつつ、夜の市内を回っていると、周囲に何もない原っぱの中に、広めの駐車場のあるコンビニを発見。夜食を買ってから、そこに車を止めたまま、寝ることにしました。
車の後部座席は幅が狭く、完全に横になると、ひざを折り曲げなければならず、途中に何度か目が覚めたものの、一日の行程でそこそこ疲労もたまっていて、朝6時ごろまで何も文句をいわれず、寝られました。
高速の出入り口や、このような広い駐車場を持ったコンビニであれば、長時間駐車兼仮眠で止めたままの車やトラックもよく見かけるものですが、どんな所ならいいのか、どこまで駐車が許されるのか、つくづくわかりづらいなと、思った次第です(この数日後に会った友達によれば、無料の駐車場を持つコンビニやスーパーなどの店側も、いちいち駐車してる車が店舗の利用者か確認したり、やめさせたりしていると、絡まれることもあり、面倒極まりないので、放っておくことがほとんどだそうですが)。自分の家の車の他にも、大型ダンプカーが後からやってきて、朝まで止まっていましたが。
目が覚めてからは、千倉方面へ一般道で移動し、途中で宿泊施設の温泉に入ってから、イベント会場へ向かいました。(Hi-)
(寸評)まさか夜中にあんなところで会うとは思わなかったね。ビックリした。
もっともこちらは女だらけの車だったけどね。ムフフフフッ! 7ポイント。
初めてのホットストーンマッサージでフル勃起、快楽の極致に
マッサージ好きが高じ、タイ古式マッサージ、タイフットマッサージの資格をとってしまった波照間エロマンガ島です。
さて世界にはさまざまなマッサージがありますが、ハワイには「ロミロミマッサージ」というマッサージがあり、その施術法の中に温めた石を患部に置く「ホットストーンマッサージ」というのがあります。1999年初めてハワイ島に行ったとき、そのホットストーンマッサージを初めて体験しました。
調合されたアロマの香りで満たされた施術室で全裸になってうつ伏せでマッサージを受けます。ハーブ系のオイルで入念に肩、背中、腰、両腕、でん部、腿、足首をマッサージしていきます。男性機能の回春効果も狙っているせいか、快感がじわじわ身体全体に押し寄せてきます。男性施術師のマッサージの動きはハワイの海岸に寄せては返すさざ波のようなゆるやかな動きがありました。そして一個ずつ、ゆっくりとホットストーンを背中の患部に置いていきます。最初は熱く感じるのですが、じわじわと刺激が肌の下に浸透していくようです。私は施術師の男性にいざなわれて遠くのどこかへ連れて行かれるようでした。背中からでん部、腿までホットストーンを置かれました。しばらくそのままで放置されたあと石を取っていきました。下半身も一連の動きに連動しフル勃起してしまいました。
そんな反応してしまった愚息を弄ぶかのように施術師の男性は「仰向けになってください」と言いました。「いやん、だめ」と心の中でつぶやく私。仰向けに寝た私の下半身は隆々とそそり立っていました。(以下、省略) (波照間エロマンガ島)
(寸評)病院の検査とかでもそういうのあるよね。
でも何をしてもヘナヘナよりいいかも・・・。7ポイント。
初めての初期裏ビデオ傑作の再発見と、思い出したおバカな逸話について
波照間エロマンガ島です。 最近アダルト動画サイトで1980年代に製作されていた日本の裏ビデオを探しているのですが、けっこうアップロードされている作品が多いですね。その中で傑作と当時評価されていた作品を発見しました。
その名も「極悪非道ホテトル荒らし」。これは「洗濯屋けんちゃん」「Hot Line」と並ぶ三大傑作の1本だとわたしが評価しエロ好きの友人と情報を共有していた珍品です。内容は精力絶倫な男がホテトル嬢を呼んでHをするのですが、その男、呼ぶ前からエロ雑誌をおかずにマスターベーションをし、嬢が来たらシャワーも浴びずに女性を押し倒して鬼畜のようなプレイをしまくる…といった内容。まあ、詳しく書くのもどうかと思うので(笑)これくらいにしておきますが。
この「極悪非道ホテトル荒らし」についておバカな逸話があるので紹介します。
(以下、2002年9月2日日記よりばっすい)
「中上健次〜没後10年」(河出書房新社)を買った。
いちばん面白かったのが1985年に行なわれた中上健次、柄谷行人、村上龍の公開座談会。これが滅茶苦茶脱線していて、部分的に爆笑、部分的にむかっ腹が立つ内容となっていた。しかし内容が清濁併せ呑むのは中上の引力圏が生み出す真骨頂だと、そこだけは感心したのだが。
村上龍が中沢新一との初めて会ったときのことについて、引き合いに出したエピソード。
ふつうの雑誌なら以下の内容はぜったい削除されるだろう(笑)。―――村上龍が坂本龍一に用があって連絡したら、坂本に「今からこっちに来ない?」って誘われてホテルセンチュリーハイアットの坂本の部屋に行った。
すると坂本のほかに浅田彰と中沢新一と糸井重里がいて、みんなで『ホテトル荒らし』という裏ビデオを見ていた、と。気鋭の学者、コピーライター、音楽家、作家がホテルで裏ビデオを鑑賞しているという馬鹿馬鹿しさ。しかもこの正式名『極悪非道ホテトル荒らし』は当時傑作と言われた作品で、わたしも所有していたんだけど、その内容についていい大人が真面目に論評して語っているところがくだらなくて面白かったのね。中上健次はその場所にはいなかったけど、村上のその発言はその場の空気から中上が引き出したものだと確信している。(ばっすいここまで)
つまり「極悪非道ホテトル荒らし」は、当時気鋭のクリエーターたちの網膜と下半身を通過した作品だったわけですね。おバカなのは村上龍が前記の人たちの固有名を出して「皆この裏ビデオを見ていた」と暴露したこと。これ、21世紀の今日読み返すと相当に恥ずかしい出来事だったりすると思うのですがね(笑)。
そんな初体験かおバカかどちらに投稿しようかと迷ったけど、初体験に投稿してしまった、どうでもいいくだらない話でした。(波照間エロマンガ島)
(寸評)ほ〜、そういう話面白いですなー。当時最先端の若者文化人の性事情が一致していたとは!
『極悪非道ホテトル荒らし』・・・探してみます!(多分ここを読んだ多くの人たちが同じ行動に出ると推察)8ポイント。
タイ入国後初めてのオフラインの夜
波照間エロマンガ島@バンコクです。先週末は酷い目に遭いました。それはアパートのWifiがなぜか断線し自分のスマートフォンも電話代を払い忘れて止まってしまい、実質上オフライン状態に陥ってしまったのです。心にぽっかり穴が空いたような状態で、インターネットがいかに生活に密着し無くてはならない存在になっているのか思い知らされました。すぐに電話代を支払い完全オフライン状態は丸1日で解消されましたが、それでも仕事で重要なメールが入り返事が少し遅れお客様に迷惑をかけてしまいました。
しかしいろいろな人為的要因があったとはいえ、インターネットから強制的に解放される状態はとてもリフレッシュしたことも事実です。インターネットやメールなどここ20年足らずの歴史しかなく、それ以前はそんなものは存在してなかったわけですから、ちょっと昔に戻っただけです。本を読んでメモをとり、ノートを広げて考え事をすることができました。知的なストレッチを久しぶりにしたようで大いにリラックスできました。
これから週末はノートパソコンやスマートフォンをいっさい持たずに旅行したら、心も身体もリフレッシュできるのではないかと思いました。試してみたいでっす。(波照間エロマンガ島)
(寸評)ほんと、20年前はそれでやっていて日常生活に不便はしてなかったんだから。
多分この先20年後に「2016年はあんな状態でよく生活してたなー」と思うんだろうね。 7ポイント。
初めて目撃した首絞め
小学1〜2年生のある日、担任の教師が連絡事項を述べる「帰りの会」の時でした。
ある生徒が、「てつや(仮名)君が僕の首を絞めました」と担任に告げました。
すると担任、顔を赤くしながらてつやの前に猛然と進み、
「お前はこんな事されて嬉しいかあぁぁぁぁあぁあああああぁ!!!」と絶叫。
てつやの首を絞めて持ち上げました。てつやは泣きながら顔を赤らめました。
てつやは乱暴者でクラスメイトから嫌われていたため、自業自得と見る向きがありましたが、あの担任はかなりやばい人物だったと今になって思います。(猫のチップ)
(寸評)実はMの人で「嬉しいいぃいいいいぃぃいいいぃぃ!!!」と言ってたらどうなってたんだろう・・・。6ポイント。
初めての交通事故
大学へ向かう道中、信号のない交差点で車が止まっていました。
その車の前を横切った瞬間、車が急発進。
車は軽の商用車でしたが、思いのほか遠くへ撥ね飛ばされました。
立ち上がると、足ががくがくと震えました。怪我は特に無い様に見えます。
突然のことで、車の運転手も私も何をしたら良いか分らず、電話番号だけ聞いてとりあえず病院へ。
診断は軽度の打撲でした。
診察した医師に、
「相手の住所は聞き出したの?もし聞き出してないなら逃げられる可能性があるし、病院代もあんたが払うことになるよ、保険も適用にならないから高くつくよ」と叱られました。
次に交番へ。実は撥ねられた現場の目と鼻の先にこの交番があったのに、気づきませんでした。
「すいません、そこで車に撥ねられました」
「え、いつ?」
「今日の午前中に。先に病院へ行きました」
「何、先に病院へ?馬鹿だねぇ、撥ねられたらまず交番に来るのが当たり前でしょ!逃げられたらどうすんの!」
私を撥ねた運転手は無事にやって来ました。撥ねられた上に二度も怒られ疲れる一日でした。次があったらとりあえず交番に行きます。(猫のチップ)
(寸評)撥ねられて体が引き千切れながら交番にズルズルいったりして・・・。 6ポイント。
初めてのミクロゲン・パスタ
前々から自分の顔が気に入らなかった私は、ある事に気が付きました。
「目と眉毛の間隔が狭まれば、若干イケメンになれるのではないか?」
眉毛は男性ホルモンの影響で生えてくるらしい(諸説あります)。
そこで無駄毛用育毛剤を探した所、「ミクロゲン・パスタ」なるものを発見。
男性ホルモンであるテストステロンが含まれている。これは期待できそうだ。
薬局で買うのは恥ずかしいので、ネットで注文。
届いたその日から眉毛の下の毛のあまり生えていない位置に、説明書に書かれている量をひたすら塗りこむ。
これを毎日繰り返し気が付くとはや半年。果たして効果はあったのか。
何 も 生 え て き ま せ ん で し た 。(猫のチップ)
(寸評)死んでから死体に生えてきたりして・・・。 6ポイント。
初めてのエロサイト
幼稚園のころから、スーパージョッキーの熱湯コマーシャルを水着目当てで楽しみにしてたり、うる星やつらのラムちゃんを脳内で脱がしたりしてた自分。
小学校二年生のころ、友人のあまりいない私は、親に教えてもらったインターネットで怪獣人形のHPを大量に閲覧しておりました。
そしてある日、興味本位で、アルファベットの「H」だけを入力して検索をかけると・・・
そこには解像度の低いジャギーなおっぱいの写真がドーンと出てくるではありませんか。
そのころは、勃起もセックスもオナニーも女性器名称も知らない自分には強烈でした。
その後も、玩具改造サイトからランキングサイト→カテゴリの「アイドル」→美少女ヌード写真館(仮名)にとび、至福のひと時をすごしました。
それからというものの、親の寝ている深夜にこっそり起きて、パソコンを起動させては消しても消しても消えないエロ広告を出してぶっ飛ばされてみたり、エヴァンゲリオンの有名パロディアニメを見てウイルスに感染させてみたり、女性器の中にヘビが入った白黒写真にアンダーグラウンドな感じになってみたりと、性のパラダイスを極めていました。もちろんパソコンを壊したこともたくさんありましたが、お目当ての画像、動画をみつけたときの達成感は忘れられません。
少しさびしいのは始めてみた解像度の低いモザイクみたいなおっぱいの画像が見れないということです。
高画質なエロもいいけどやっぱりあのころみたもののほうが味があって素敵だなとおもいました。(カルロスイベリコ豚)
(寸評)あぁそういうのあるよねー。
俺の中高生の頃はパソコンどころかビデオも無く、エロは本オンリー。
ヌードになってる女性も今のような美女なんてあり得なくてくたびれたおばさんばかり。
でもそれが俺の性の原点だから今だに好きだねー。
はっ・・・俺が熟女好きなのはそのせいかも!? 7ポイント。
初めてのエロ漫画
さて、エロサイトを見始めて数年後、たまたま押入れを物色していたところ、一冊の雑誌が。
はい、レディコミです。
そこにはベルバラ風の少女コミック風の淑女とナイスミドルなイケメンとの性交渉ものがたっぷりのってました。
その中で記憶に残ってるものを二点ほど
・部長のクリスマスパーティーに呼ばれた人妻(OL?)がバニーのコスプレをして「バーニちゃん バーニちゃん アーナルが気持ちいの そーよク○ちゃんもすきなのよ〜」と歌いながらアナルと女性器にバイブを突っ込まれる。その後、ドラえもんのコスプレをして、「おっぱいふりふ〜り おっしりふりふ〜り お○○こだいすきぼくド○○○ん〜」という歌を歌い、四次元ポケットにバイブを突っ込む。その後は覚えてません。
・ヌーディストビーチに遊びに行った女性二人が、秘密のコテージに誘われて、集団レズプレイを含む乱交パーティーで乱れる。
という二本の作品が強烈に頭の中に残っています。
この話、また読みたいのですがおそらく単行本にはなってないのが残念です
そして私がこっそり読んでるとわかった母親は、過去十年分ほどの大量のレディコミコレクションと母所有のAVを処分してしまいました。残念(カルロスイベリコ豚)
(寸評)エロ系はほとんど単行本とかにもならずに一期一会だよね。
俺も昔何十回も読み直したエロ漫画と再会してみたいなあ。 7ポイント。
初めての体罰
私が小学1、2年生の時の担任は、定年間近のおっさんでした。
入学して間もなく、初めての算数の授業があり、問題を解いていたときです。
「バッカ者ぉ!」
叫び声が教室中に響き渡り、声のしたほうを見ると、担任が顔を真っ赤にして下顎を震わせていました。
ひとりの生徒が頭をおさえています。頭を殴られたようです。
「何でこんな簡単な問題も出来ないんだ!」
このとき、担任は問題が解けない生徒を見つけ出しては殴る人間である事を初めて認識しました。
次に女子生徒が殴られ、泣き出すとこう怒鳴りました。「泣いたって無駄だあ!」
数日後の授業中、頭にドカッと衝撃が走る と同時に叫び声が。「ばか者!」
算数の問題を解けずにいると、やはり殴られました。
「私が子供の頃は、授業中居眠りが出来ないように机に針が置かれていた。だから私がお前らを殴るのは大したことではない。」
生徒を殴る理由をこのように述べる担任でした。
その後約2年間、毎日のように誰かが怒鳴られ殴られ続けました。(猫のチップ)
(寸評)今は大問題だよね。
でも確かに俺の子供の頃はそんな感じだった。昭和という時代は。
教師や親からのビンタはしょっちゅう。子供たち同士でも殴り合いの喧嘩は日常茶飯事。
なので「親にも殴られたことない」なんて言葉が信じられなかった。「そんな人いるの?」と。
でもやっぱりほとんどの場合憎しみに変化して、それがやがて戦争にまで繋がる。
どこかで社会が止めていかなければならないんだよね。 7ポイント。
初めての保健室
担任に殴られるのが嫌だった私は、仮病を使って保健室へ逃げる事にしました。
「頭痛がひどいので保健室へ行ってきます。」
仮病がばれる恐怖に耐えながらそう担任に告げました。
担任は不満げな顔をしながら、「そうか、じゃあ行ってこい。」
保健室で「頭が痛い」と言うと、ベッドで寝かしつけられました。
しかし小学1年生の時、普段全く眠気を感じなかった私は、徐々に疲れていきました。
自分だけ教室から逃げた罪悪感。
結局、頭痛が直った事にして保健室を出ました。
それ以来、仮病を理由に保健室に行く事は二度とありませんでした。(猫のチップ)
(寸評)本当に怪我した時以外は保健室に行ったこと無いなぁ。
仮病じゃないかスゴく問いただされるとのことなので。保健室の先生も怖かったしね。 6ポイント。
初めての英会話
大学2年生の時、教室に置いてあったモグラのぬいぐるみを指差して、「これは何」と留学生に聞かれました。
モグラは英語で"Mole"です。しかしその単語を知らなかった私は、適当に
「Sand...snapper…」
と答えました。留学生はキョトンとした顔をして首を傾げました。
後々調べてみると、sandは砂、snapperはフエダイ(魚)でした。
私は一体何が言いたかったんだろう・・・恥ずかしかったです。(猫のチップ)
(寸評)えっ、ということはショッピングモールはモグラの買い物!? 6ポイント。
初めての南部タイ「陸の孤島」リゾートへ
こんにちは、波照間エロマンガ島@バンコクです。タイは先週旧正月を迎え1週間休暇がとれました。この期間タイ人の友人女性2名に誘われてタイ南部のマリンリゾート地のクラビーに旅行してきました。ニヒル牛マガジンで連載している拙ブログで一部紹介してありますのでご興味のある方はこちらもどうぞ。
http://rive-gauche.jugem.jp/?eid=275
クラビーはもう4回くらい訪れているのですが今回は初めてライレービーチという「陸の孤島」のリゾートに行ってきました。「陸の孤島」というのはこのビーチ、マレー半島に属しているのですが断崖絶壁だらけで陸路からは行くことができず、小ボートに乗って近隣の船着場から行くリゾート地という意味です。ここが文明から遮断されていて自然がいっぱいで素晴らしかった!近くのアンダマン海には石灰岩が海上に切り立った奇岩島がたくさんあり、風光明媚の絶景が続きます。2000年にレオナルド・ディカプリオ主演で映画化された「ザ・ビーチ」の舞台と言えば思い出す方もおられるでしょう。この近辺の島のクルーズツアーをしてシーフード料理を食べ、アクアラングをし、マッサージを受け、象さんトレッキングをし、温泉にて足湯をし、エメラルド色の池に行き、あっという間に休暇は終わってしまいました。
唯一がっかりしたのがピピ島サンセットクルーズツアーへの帰りディナーを食べに最後の島に立ち寄るかと思ったら、着いたのがライレービーチで私たちの宿泊しているすぐ裏のレストランだったということ。私たち以外のツアー参加者は違うビーチに宿泊している人たちだったので不満もなかったのですが、私たちははっきり言って興ざめでした。とはいえ、アクティビティーを思いっきり楽しみ、夜はぐっすり眠り、仕事のことをつかの間忘れられて楽しい休暇でした。わたしはひとり旅も好きですが、友人とわいわいしながらする旅も大好きなのでした。
というタイ南部の「陸の孤島」リゾートに初めて行ったの巻きでした。 (波照間エロマンガ島)
(寸評)タイの人でもまだ象さんトレッキングするんだね(笑)。6ポイント。
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