ドキドキドキリコ初体験(76)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント?ー(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめての誰よ①

バイト先の病院での事。

暫く来院のない患者様の古いカルテは、常に動いているカルテとは別の部屋に保管してあるのですが
ドクターの指示で時々その古いカルテを取りに行かないといけない事があります。

ある日、その旧カルテ室に入った時の事です。
カルテ室の鍵を開けて目的のカルテを探していると、半分開けておいた扉が、スーっと締まりました。
廊下を通った誰かが、開けっ放しはダメだよと締めてくれたのかな、とその時はカルテを出すのに必死で
気に留めませんでした。

次々とカルテを出し、さあ診察室に戻ろうとした時、内線が鳴りました。
きっと催促の電話だなと思い慌てて出たのですが切れました。
こちらから折り返し「今から戻ります」と伝え電話を切り、カルテ室を出ようとしたのですが扉が何故か開きません。

「え・・・!?」

何だか急に怖くなり、何度も扉をガタガタと引っ張ったのですが開きません。

すぐにもう一度内線を掛け「誰か外から鍵をかけました?開かないんですけど」
と言うと「いや、鍵はあなたが持ってるんだからそれはないわよ。忙しいから早く降りてきて」という言葉が返ってきました。

そうだ。鍵、私が持ってる。。。

いよいよ怖くなり「だ、誰か開けに来てくれませんか?扉が開かないんです( ;∀;)」と伝えて、助けが来るのを待ちました。
暫くしてパタパタと廊下を走る足音が聞こえたので、ホッとして部屋の中から「すみません。ありがとうございます!!」とお礼を言ったのに
返事がありません。
忙しいのに呼び立てて、怒ってるのかな、と思い「お騒がせしてすみません」と付け加えました。

扉の向こうでガチャガチャと音がしたので、助かったーと勢いよく扉を開けて外に出ました。

はい、誰もいません。。。。

。。。。。。Σ(゚Д゚)

廊下でたくさんのカルテを抱えて、ボーっとしてると、ようやく先輩が歩いてくるのが見えました。

「何だよ。開いたのかよ。」
「えっと。はい、今。誰かが開けてくれました。」
「誰かって誰?誰ともすれ違わなかったけど?」
「・・・・・( ;∀;)」

私を閉じ込めて私を開放してくれたのは、一体誰だったんでしょうね。。。入ったばかりの頃の話。未だに謎です。(でゅおめいぷるようこ)

(寸評)俺も病院バイトしてたからカルテ取りとか行った。
こんな経験はしてないけど、霊感の無い俺でもゾクッとする部屋とかあったね。
まぁ人はほとんど病院で死ぬんだから地縛霊というのがいるとするならこりゃあもう宝庫だね。
きっと人口密度半端じゃないね。声の無い彼(彼女)によろしく。 10ポイント。

はじめての誰よ②

ウチの病院。点滴室は2階にあるので、点滴が終わったらブザーを鳴らしてもらい、針を抜きに上がります。
ある日の夜診。

その日は珍しく、閉院時間の10分くらい前から患者さんが来なくなり、何となく片づけモードに入っていました。
「今日は早く上がれそうねー。」
などと看護師さん達と話をしている時、ブザーが鳴りました。

「えっ!?」

「点滴中の患者様、まだ居た?いや、もうどなたもいらっしゃらないハズなんだけど・・・。」
「やだー。誰ー?何ー?」
「ひょっとしたら誰か職員が用事があって鳴らしたんじゃない?」
「いや、それなら内線でしょー。わざわざブサー鳴らす必要ある?てか、全員いるよ、ここに。」

うーーー。

誰が出るかで暫くもめたけど、結局看護師長が出る事に。

「はい。どなたですか?」

(・・・・・・○×☆△〜oh〜oh〜。。。)

ヒィィィィィィーーーーーーっっっ(;´Д`)!!!

全然聞いた事がない、外国人の男性の声で返事があったのです。

だ、だ、だ、誰?え?え?今日外国人の患者様いらした?
いや、いらしてません。つーか、もう誰もいませんって!!
でもでも返事が。。。
でも全員終わってますっっ
誰か点滴室見てきて!
嫌ですよっ。

結局、全員で点滴室に行きました。

もちろん誰もいませんでした。

あれ、一体、誰だったんだろう。こちらもいまだに謎です。

ドキドキドキリコ怪奇現象初体験2本でした!!(でゅおめいぷるようこ)

(寸評)誰もいませんって・・・病院から君の自宅に付いて来てあれからずっと寝室の東北の角にうずくまってるよ。 10ポイント。

はじめてのツィッターでぼうずが心配される

はい。えらいすんませんでした。
何気なく卑猥な投稿をしたあと、しばらく日を経てからまた何の気なしにトゥイターを覗き見したらば、その卑猥な投稿にうちのぼうずが入院した旨をちょろっと書いたことに石川さん周辺の皆様が心配され、大丈夫だろうか、今も入院してるのか、とのつぶやきが少数ですがなされていました。

わびゃぁ。ぼうず入院中にちょっと書いてみた投稿のに、ここまで反応されてしまうとは予想外だった! ほんで石川さん宛てにはすでに退院した旨の投稿をしていた後なので、私はあばあばしてしまいました。というか何でも投稿のネタにしてしまうこの不謹慎な態度はいただけませんね。まぁあまりにも洒落にならない、深刻に過ぎることは投稿しないようにはしているつもりなのですが、こないだの書き方では長い入院を強いられたように受けとめられても仕方ありませんでしたね。その上私はSNS、っていうんでしょうか、が嫌いで、メール以上のことはしたくない(チャットも精一杯)時代遅れなのでトゥイターを始めてみなさまに報告する、なんてことも絶対にやりたくありません。ゆえに報告も投稿でおこなうのが一番私らしいと思った次第です。その結果心配されてる皆さんに石川さんが直々にぼうずの状態を伝えるという珍妙な事態に・・・。私が偏屈なせいで余計なお手を煩わせてしまいました。申し訳ございません、そしてありがとうございます。

入院は6日で終了。ちょこちょこ咳こそしますが元気に幼稚園に通っており、運動制限もなくだいたいご機嫌にしています(泣き出したらビックリするほどとまらないぞそういう感じだぞ、は元々のことです)。半年は気管支を拡げる薬を飲み続けますが、それも苦にしていない様子です。ご心配頂いた皆様、どうもお騒がせしました。あたたかいお心遣い、感謝いたします。
というかトゥイターすげぇ。広く公開される場所への投稿内容は今後一層気を付けます・・・。(オポムチャン)

(寸評)いや、いいんじゃない?
そういうとこから友達関係って始まるから。
友達なら当然その子供が入院したら気になるのは当たり前だからね。「たいしたことないです〜」くらい付けておけばいいんじゃないかな。
ということで遠慮せず何でも投稿を。
もうみんなもオポム家のいろんなこと読んで知ってしまってるから感情移入もあるのさ。 6ポイント。

はじめてのバクナキボクチャンワンナワーカナワンワー

ことし2015年の3月上旬。このHPの投稿者の皆さんと大阪は梅田で楽しくたまカラオケをしようやないか、と企画、ウキウキ気分の土曜の朝。しかし休みの日に家族をほっぽらかして1人ウキウキしに行くのも配偶者とぼうずに悪いので、お昼からのカラオケ前に気持ちだけ家族サーヴィス、ぼうずの好きな新幹線を観に新大阪駅までやって来ました。

入場券を買いホームに上がり、行き交うみずほ、ひかり、のぞみ、なんかお嬢ちゃんみたいな名前の高速鉄道たちを迎えては見送り、売店で新幹線グッヅをゲット、さぁ駅の建物にあまたある食べ物屋さんでお昼にして私は梅田、女房子供は帰宅・・・ という段取りにしたのですが・・・。

改札のフロアから階下へ、食堂街のなかで呑み屋さんだけどお昼は定食もやってまっせ、的なお店へGo。なんか豚の筋肉を玉子と小麦粉とパン粉でめちゃくちゃにしたものを大量の油にぶち込み揚げてこます環境破壊的な野蛮な食い物を注文、ぼうずはエッグにアレルギー反応が出るのでかまぼこ抜きのおうどんをオーダー。私は野蛮に畜肉を貪り、お昼からの長丁場に備えて英気を養いまくりました。嫁はんも大量に捕獲した海老を殻を剥いだ挙句残虐に頭部かつ尻尾をもいだうえグシャグシャにしたやつを大量の油で揚げたおすという暴力的な海産物料理をフィニッシュ、いっぽうぼうずは低アレルゲンおうどんをもちゃもちゃしてなかなか食べ終わりません。

嫁はん「もうええか? 行くで」
ぼうず「(無言でぼんやり)」
嫁はん「ほしたら靴履き、こっちおいで」
ぼうず「ううん」
オポ「もうええんやろ? お父さん行くとこあるから、お店出るで」

埒があかぬのでひょいとぼうずを抱え、靴を履かせようとしたのが災いの始まりです。

ぼうず「いや゛ぉああ゛、ぼぇああ゛ああああああああああああああああああああ」

お店の人もビックリして見に来るほどの爆泣き。
あんまりやかましいので、さっさとお会計をして出るにしくはありません。
どっこい、ぼうずは無理から喰いかけのうどんからひっぺがされた挙句自分で履きたい(3歳ちょいは色んなことを自分でやりたがります)靴を強引に装備させられたというダブルショックで絶望の極み、とれとれぴちぴちの大魚の如く両腕のなかでびったんばったん暴れ狂います。

びびった私は会計を嫁はんに委ねあわてて店舗からぼうずをかかえ逃走、なんやかんやとあやしますがまるで治まりません。

ぼうず「あぼぇ゛お゛ああ゛ああぁぁぁぁあああああ、だべだがっだお゛おおぉぉぉぉおおおおあああ」
オポ「こらっしずかにせぇ、もうお店出たから後でなんか母さんにもらえ」
ぼうず「いびゃぁぁあああああ、ぶごべやばわぁあああああああああ」

そのうち自分で履きたかった靴も脱ぎ散らし、そっくり返ってびっちんびっちんするぼうずをどうにか地べたに這わぬよう抱え、私と嫁はんはなるべく人の少ない場所へ移動しようと駅建物を右往左往しますが、土曜の新幹線新大阪駅なんかだいたい何処へ行こうが人なんて溢れています。
それでも比較的人通りの抑え目な1階道路沿いのフロアで鮮魚の始末に途方に暮れるアラフォーメオト。何を言っても聴かないし、どう脅しをかけても余計に泣くばかりです。みなさんと約束があるのにまるで止まぬ爆発的ウィーピング、こっちが号泣嗚咽したくなってきました。

嫁はん「もうこの子置いて、梅田に行き。あたしが最悪(あんまり暴れて抱っこもできないので)タクシーで連れてかえるわ」
オポ「そんなんきっついやろ、どうにかあやさんとこいつ永遠に泣き続けよるで」

私達は思いつく限りの言葉でぼうずの機嫌の回復に努めました(ただ何かを買ってやるから、とかは禁句です。向後泣くたびに物を買う羽目になります)。
苦し紛れに、ぼうずの携帯していたミニカーを取り出し、

オポ「な、ほれ、(なんか忘れたけど車の車種名)もお腹減ったから家に帰りたい、って言うてるで?」

と言うと、

ぼうず「・・・うん、(なんか忘れたけど車の車種名)おなかへったから、かえろか」

と、今までのこの世の地獄みたいな泣き方をしていたのが、すとんとおさまりました。

なんじゃ、そりゃ。
時計を見ると、ひる1時15分でした。
お店を出たのは、12時10分前後。
オゥノゥヒィケプトクライングフォーアンナワー。ワォウ!

私はようやっといささか安心して嫁はんにぼうずを託し、愉しげに大阪市営地下鉄御堂筋線の改札内へ向かうぼうずを見送ったのち精神的疲労をこらえつつJR大阪行きの電車へ乗り込んだのでした。なんとか待ち合わせ時間のお昼の2時には間に合いましたが、たのしいたまカラ開始前からすでにへとへとでした。
ちっさい子供の、気持ちの地雷と解除キーは、一体どこにあるのか本当にわかりにくいです。こんなに長時間、外でどうやっても泣き止まなかったのはこれが初めてです。
自分もこんな子だったなぁ。親になるって、大変。生まれ出でたもとより偏屈だった自分を育ててくれた親に感謝すると同時に、自分がろくに覚悟も無いのに子供をこさえてしまったことに罪悪感をも覚えた、肌寒い3月のお昼のぼぇわやお゛ぁゎあああ゛あああでした。(オポムチャン)

(寸評)こらあ大変だにゃー。
俺は多分こういう責任が取りきれないというのもあって子供作らなかったというのもあるからそれだけである種偉いなあと思う。
そして基本的により多く子供の側で面倒を見ることの多いかあちゃんはそれだけでスゴい。尊敬。 9ポイント。

はじめてのカズー購入

さてろくすっぽギターも弾けない分際で関西のライヴでは強引に石川さんとセッションさせて頂いた経験がなんと過去3度もある恥知らずの罰当たり・私ですが、ちょいちょい困ったことがありました。
そう、石川さんがギターを弾けない曲をおこがましくも代行ストロークする場合、たいていその曲はたま時代の楽曲で、前奏間奏にリード楽器が入らないとなんだか間抜けな演奏になってしまうのです。
そういうとき私がどうしたかというと、リード楽器のメロディをすっかすかの口笛で代用するか、無理矢理歌っちゃうか、という至極締まらないスタイルでお茶を濁しておったのです。

そのうち観客のひとり、かえるっ子の323ちゃんからお言葉を頂戴しました。

323「オポさんカズーは持ってらっしゃらないんですか? いつもスカスカの口笛じゃ折角の石川さんとのセッションが勿体無いですよ」
オポ「そうなのよ、カズーが無いからいつもクネクネ策、じゃねぇや苦肉の策で」

とクネクネしながら詫びておったのですが、良く考えたら無いんなら買やぁいいじゃん。ハモニカは無理だがカズーなら出来そう。な気がする。今度の大阪の非公開出前ライヴでもニヒル牛作家そよ子ちゃんから「全裸でゴ・ゴ・ゴー」のリクエストを頂戴していたのですが石川さんはリード楽器が欲しいな〜、とおっしゃっていたのでこれは購入の良い機会だ、と出前ライヴの2日前の土曜、私は大阪北部の千里中央略して千中のヤマハの楽器屋さんへぶーん。楽譜や関連書籍を冷やかしつつどこやどこやカズー、ほんでライヴでギター弾きながらしかもコーラスもやるならカズーだけ買っても演奏できません、手ぇは使えないからね。咥えっぱなしじゃコーラスできないからね。知久さんとかがやってたのを思い出そう、ハモニカホルダを買えばええねや。輪ゴムでグルグルにしてはったしてはった。
固定の仕方はどうにかなろう、カズーカズー・・・ あったこれじゃ、ってこれしか種類が無い。えぇとうっどすとっくのおりじなるかずうめぇどいんあめりか・・・・・・ 全部英語表記やんけ。まぁ楽器として吹ければ問題はありません。そんなに高くなかったので一安心、ハモニカホルダの方が倍近く掛かりました(笑)。

帰宅後さっそく輪ゴムでグルグルにして装備、慣れないストラップ付きギターとともに構えれば、おおっ! なんかちゃんとしたミュージシャンみたいだ! さぁなんか練習してみよう、私はカズーを吹いたことが無いしもう時間がないので、とりあえずハモニカホルダと《平行に》カズーを取り付け、ぶっぶぶっ、と音を鳴らしてみました。意外と難しいなぁ。声を出すだけでもっとブー、とスムーズに鳴るイメージだったけど。でもどうにか音が鳴るようになったしたぶんこれで正解だろう、と意気込んで練習、嗚呼っ! カズーとホルダが邪魔してギターのフレットが見えないっ(笑)!! なぁんにも見ないでも弾ける「全裸〜」や「東京パピー」なんかでは問題ないのですが、今回は「汽車には誰も乗っていない」のギターも担当することになっており、あの曲はコードが若干特殊でフレットが見えないと間違ってへんてこな音になってしまうのです。どうにか猫背でぶさいくなポジションを編み出し、カズーを吹きながらフレットも垣間見える形を作れました。さぁあとは本番だ、当日も休暇を取って朝から練習、だって買ったのおとといだもん(笑)、顔面と《平行に》構えたカズーを必死で練習ののち、会場へ向かったのでした。

なんっかおかしい、と思われた方もいらっしゃるでしょう。続きは、「おバカ」へ投稿します・・・。(オポムチャン)

(寸評)ああ、そういうことだったのね。ご苦労様。
続きは俺も知ってるアレだね。ププッ(笑)。 8ポイント。

初めての「ほけんたいいく」の教科書

私は幼い頃から自意識が過剰に強く、人からどう見られているかについていつも気になり「自分だけほかの人と違うのではないか」という悩みをもっていました。親から買い与えられたものが同級生のもっているものとは明らかに違うセンスで、それを身に着けて小学校に行くのがとてつもなく苦痛であったりしたことがあります。他人との違いを指摘され、からかわれたりしたことはなかったのですが、でも内心は他人と自分の違いばかり比較し気にする子供でした。

小学校に入学して、初めて教科書が渡され授業がはじまりました。私の「ほけんたいいく」の教科書は、日本の印刷技術としては珍しい、多色刷りの「版ずれ」をおこしていて色彩の輪郭線が二重になっていました。それをすぐに取り替えてもらえばよかったのですが、その教科書が何がおかしいのか6歳くらいの頭脳では理解できず、「なんとなくきれいじゃん」と思う程度でそのままにし、この教科書を使っていました。

ある日、保健体育の授業で隣の席の女子が教科書を忘れたので、席を近づけて私の教科書を見せてあげました。すると、その女子は「版ずれ」にすぐに気がついたのでしょう。すぐに手をあげて「せんせい、エロマンガしまくんの教科書が変ですー!」とみんなの前で発言してしまったのです。先生やまわりの児童が近づいてきて私の版ずれの教科書をのぞきこみます。あちゃー!!みんなの好奇の目で私は消え入りたいほど恥ずかしくなりました。
その頃なんとなく自分が他の人と違うのは錯覚で、本人の思い込みだけに過ぎないのではないか、という理解をし始めていた私は、そこでいっきょに「やっぱり自分は他の人とは違う人間なんだ(マイナスな意味で)」というコンプレックスを植えつけられてしまいました。それ以来、私は自分の思ったことを素直に表現するのが苦手になってしまい、どんなことでもいったん呑みこみ「ほかの人はどう思うだろう」とじっくり考えてから「模範解答」を用意して発言する人間になってしまいました。何も考えずに行動や発言をすると痛い目に遭うことをそれ以来何度となく味わい、「要領の悪い子」として成長していきました。
幼少期の体験が人格形成に影響を与えるのはまず間違いないと思います。そんなことを思い出した「ほけんたいいく」の教科書の話でした。(波照間エロマンガ島)

(寸評)俺はもう小さい頃から不器用で人が出来ることの半分も出来なかったので最初から諦めてたなー。
そして他の人と違うことする方が何かと得策だということを体得し今日に至ります。ふへ〜。6ポイント。

はじめての出前ライヴ企画主催・・・代行

当HPコンテンツ「王様の耳はロボの耳」の話題259「なんじゃもんじゃ会」に、2014/12/22〜に京都の投稿者・西大路さんが投稿なさった内容。西大路さんが貯めた2000ポイントで、石川さんを関西組主催で平日招聘しちゃうというものでした。そして視覚が不自由でいらっしゃる西大路さんと同じ感覚でお客さんにライヴを体感してもらう「暗闇ライヴ」も石川さんから提案され、これは絶対に参加しなきゃ、と思い立ちました。

しかし私は参加するにもお手伝いするにも、西大路さんの連絡先を知りません。その年の6月の京都のライヴで初めてお逢いし、9月の信楽のライヴでは終演後お家の近くまで非常に正確無比なナヴィゲーションをしていただきながらお送りさせて頂いた西大路さん。人見知りでどんくさい私にも楽しくお話をしてくださる明るい方で、なにかこの方のために力になれたらなぁ、と思いつつもトゥイターもしない私、お力添えをする方法がまず無かったのです。そんな折投稿で「2015/1/16神戸のライヴでオポムチャンさんのメールアドレスをお聞きしまーす」との記載を発見、これは関西の投稿仲間である私が率先して動かなきゃ、と思い、無事アドレスをゲットしたのでした。交わしたメールは以下。

オポ「なんじゃもんじゃ会、やっちゃいましょう! 宜しくお願いいたします!」
西大路「やりましょうやりましょう!」

そこからが長い道のりでした。
まず関西の石川さんライヴにお越しになる皆さんに声を掛けて、相談会を開く段取りをしなくっちゃ・・・ あ、あれっ? 私が連絡先知ってるのって、ハーブティーさん、でゅおめいぷるようこさん・・・・・・ 以上だ・・・。駄目じゃん!! しかし周知/連絡用にトゥイターに手を出すかというとそれも駄目です。ただでさえ最近石川さん周辺の皆様のトゥイートを卑猥に覗き見して楽しんでたら時間があっというまに経過してて顔面蒼白、投稿や睡眠の時間がずいずい削られているのです。そんなもんに手を出した日にゃあ私は廃人になってしまいます。
こうなりゃ実力行使だ。私は身体があいている日は出来るだけたま関連のライヴに単身乗り込み、1月の神戸のホルモン鉄道を皮切りに2月の京都の知久さん、5月のパスカルズ大阪・京都、6月の神戸の大谷氏・石川さん、7月の大阪の滝本さん・柳原さんと通い倒し、さらには3月にようこさんにお願いして人集めしていただきたまカラオケ開催、そして西大路さんに5月のパスカルズのライヴ後相談して8/2は空けられる、とのご回答を頂き、それを受けてチャットでも8/2に関西なんじゃ相談会します、と宣伝し、結果多くの方のメールアドレスを入手することに成功しました。ニヒル牛作家の面々では新社会人のそよ子ちゃん、いきものだいすき323ちゃん、猫の書デザインがユニークな内藤さん。また投稿者では似顔絵師志望のHiroroちゃん、関東のライヴではオナ染みもといお馴染みのneuguineaさん、サーバーの管理人でいらっしゃるて〜お〜さん。

人見知りで、出来る限り交友関係を拡げたくない閉鎖的に過ぎる私がここまで連絡網を拡げたのはひとえに約束を守りたい、ということ、ただそれだけでした。人間の屑たる私はこれまでの人生で交わした約束を何度も破り、大切な人達を裏切ってきました。でもこのコミュニティでそれをしてしまうと、もう2度と投稿もライヴ参加も出来なくなってしまいます。「是非お手伝いさせて下さい」と書いたからには、その言葉をフイにしたくはなかったのです。

ただ・・・・・・ こういう主催代行みたいな役は、メールアドレスしか持ってないような時代遅れがやるような仕事ではありません。
トゥイター・フェイスブック・LINE・mixi・・・ 世の中には周知/連絡に適したえすえぬえす、が溢れかえっているにもかかわらずその類をいっさい峻拒、こんな偏屈が段取りをしていてはまとまる話もまとまりません。

それでも長い長い投稿文か、と思われるようなメールを乱打し、各皆様の返信に勝手にやきもきしつつどうにか8/2の相談会にこぎつけ、しかも思い付きで相談会の1か月前に石川さんをこっそり呼ぶことを決め、当日に直接ご本人と相談していろんなことがいっぺんに決められるよう手配、話はトントン拍子に進んだのでした。ここで声を掛けておいて大正解だったのが書デザイナー内藤晶さん、ご自身も大阪市内で個展を開くことが多いため会場に明るく、候補を2つに絞って提案書まで作って来てくださったのです! 石川さんのスケジュールをその場で確認し、会場も全員の意見を反映させ即決定、これはご本人がいらっしゃらなければここまでスムーズに進まなかったでしょう。ボーナス使って正解でした。内容は冒頭にもあった暗闇ライヴ、関西組みんなとのセッション、石川さんソロ、の3本にすることにしました。

その後、この内藤さんがライヴ開催に当たって大きなキーマンとなってくださいました。
ご友人ともいえる会場マスターとの連絡/金額・形式交渉や会場下見の帯同、ライヴ概要/チラシPDFの作成、当日のライヴ張り紙作成、さらには当日お店にはマスター以外の店員がいないためお客の飲み物や料理の運び手として緊急で店員を担当、私には出来ない面倒事をほとんどすべて引き受けてくださいました。この方がいなければ今回のなんじゃは頓挫していたかもしれません。本当に感謝しています。

一方私は参加者の皆さんに出欠の確認、打ち上げの参加の可否、お友達の参加人数、ライヴ演奏曲のリクエスト、セッション希望者の募集、当日費用の相談など詳細の連絡を承る傍ら、ホテルの予約&延長の手配、会場の下見、職場に休暇の申請、演奏が予想されるであろう曲のギター&コーラスの暗記&練習&DVD等で復習、暗闇があまり暗くならなかった場合の対策用に手芸店へ赴き黒の布地を買ってきて16人分切り刻む、石川さんと細かい部分の連絡相談、パーカッション送付先決定、待ち合わせ場所の設定、当日の車の用意と駐車場・ホテルへのルートの下見、緊急でカズーの購入と練習、と瑣末な作業に明け暮れていました。

・・・・・・正直、頭の悪い私には荷が重すぎました。
細かい部分は内藤さんが積極的に助けてくださったからよかったものの、もっといろんな人に役割を分担して事を進めて行けばスムーズに出来たのでしょう。が、私は人にものを頼むのが大の苦手で、何故ならこちらから強引に巻き込んでおいてその上さらに負担を強いるなんて、なんかあまりにも私の身勝手ばかり押し付け過ぎてやしないか!? と思ってしまうからです。メールを見てはわちゃわちゃ、家事育児を放擲してあれせんなんこれせんなんと狂奔していた私を見て妻はさぞかし鬱陶しかったことでしょう。また私から長ったらしいメールを送られる側の参加者の皆様も、忙しい中まとまりのない目潰しの長文を喰らってめんどくさかったであろうことは想像に難くありません。

でも、西大路さんが貯めた血と汗と涙の結晶・2000ポイントを我々のために使ってくださるのです。大変なんですよ? 2000ポイント貯めるのって・・・ 私はその誠意に応えるため、あほなりに手を尽くしたつもりです。

結果、皆さんに喜んでいただけたようで、私の10ヵ月は報われたように思われます。お越しいただいた皆様、ご協力いただいた皆様、そして石川さん、本当にありがとうございました。
・・・・・・でも、もう主催(と代行)は、懲り懲りです(笑)。私のごとき無能者が調子に乗って引き受けるもんじゃありません。低能がゆえに本当にしんどかったし、逆に周りに負担をかける結果になりますから・・・・・・。
もし次回があるならば、私ではない誰かが音頭を取られることを望みます。きっとそのほうが、誰しもが楽な方向に行くでしょう。もちろんトゥイターもFBもLINEも出来ない私は無視してくださって結構ですので(笑)。

えーと陰気な内容でごめんなさい、「ザ・レポート」に投稿予定のライヴの詳細にはこんな気の滅入る文章は書きませんのでね、たぶん(笑)。ほんと疲れたんです。その分、最高の思い出になりましたが。最高に楽しかったライヴのレポートは、もうしばしお待ちを。(オポムチャン)

(寸評)そうなんだよね、ライブ主催者はいろいろ大変なんだよね〜。
本当は適当に役割を何人かに割り振れればいいんだけど、それも微妙なんだよね。
やり方のや趣味の違いなどで「こんな感じにするつもりじゃなかった・・・」もあるからね。
俺も若い時自主企画のライブを毎月連続で70回ぐらいやったけど、その頃はまだネットはおろか誰もケータイすら無い時代。
連絡手段は電話と手紙、あとは直接出演者やスタッフの家を訪ねるしか無かった。
でも今思ってもやって良かったな。それなかったらそもそもたまも生まれなかったしね。
お疲れさまポイント10ポイントで〜す!

初めての世界一周旅行へ(2日目編)

2002年1月2日午前9時、年末年始の48時間連続勤務が終了。多少寝不足ながらも世界一周旅行2日目の行程に突入することに。この日は銀座8丁目から品川に向かって歩くことにした。第一京浜国道(国道15号線)は箱根駅伝往路のコースと重なるが、2時間以上前に駅伝ランナーは走り去っているので、正月らしい交通量の少ない通りをもくもくと歩いていった。途中歩きながら携帯電話にてアップしたのが以下の書き込み。

[I−MODEによる書き込み]
おはよう〜!2002年1月2日、夜勤明けの私です。今銀座から品川に向かって第一京浜を歩いています。もう箱根駅伝は通過したんだろうね。同じルートを歩いています。これから北品川の海水湯という銭湯を目指していきます。初湯を楽しもうと思い。そのあと家に帰るか連れに逢うかどっちかになるでしょう。以上、浜松町2丁目からお送りしました。
(2002/01/02/09:40)

これを読むと銀座から浜松町まで約40分かけて歩いていることがわかる。お日様の出たお正月ののんびりした都心部の風景の中ゆっくりと自分のペースで歩いていきます。

しばらくすると、田町駅に着いた。ここによく仕事で使っていたキンコースという印刷製本作業等をやってくれるオフィス御用達店舗が営業していたので入ってみることにした。当時はまんが喫茶やネットカフェがまだどこにもあるわけではなく、キンコーズのような店でメールチェックをしていたのであった。

[@KINKO'S 田町駅前店] 田町駅前にKINKO'Sがあったので休憩がてら、立ち寄りました。
うーん、世界一周旅行、面白い!!気づいたのはだれでもいつでも、そう今この瞬間からでも、世界一周は始められるということね。心の中でそう決めればいいだけなんだ。するとどうでしょう?ふだん見なれた景色が異化して、まったく違う風景に見えてくるではないか!これはどういうことかというと、旅をしている人と日常生活を送っている人は、所属している環境・バックボーンが異なるので、体に入る刺激も異なるということですね。すごい。いきなり形而上的問題を語ってしまった。

あともうひとつ、1時間歩いてI−MODEは有効なツールだと感じた。思いついたことをその場で記録に残せる。アイディアって机の前に座っていてもなかなか出ないんだよね。北宋時代の中国の文人政治家、欧陽修(こんな字だっけ?)が言った「三上」(さんじょう)の教えね。つまりアイディアがでてくる場所として枕上(寝床)、馬上(移動中)、厠上(トイレ)、を挙げているの。アイディアが出たら蒸発する前に書きとめなければならないんだ。
そうか、私の世界一周旅行はこんな感じで展開していくのか。自分でも驚いた。ということで休憩も終わりまた出発しますわ!じゃあね! (2002/01/02/10:27)

田町駅で30分弱休憩したあとは、引き続き第一京浜を品川に向かって歩いて行った。そのとき自分の脳裏にはある日本映画の情景が浮かんできたのだった。1957年日活映画製作、川島雄三監督作品「幕末太陽傳」。この映画は冒頭、主人公の左平次はじめ遊び仲間が、日本橋から品川に芸者遊びに行くところから映画がスタートする。私は同じルートを歩いているんだ!と発見すると、頭がくらくらしてきたのであった。

その続きはこの日の日記からばっすい。

今日は結局約6km歩いた。銀座―東品川1丁目間。かなり疲れた。
品川駅を過ぎて八つ山橋の交差点を越え、側道から旧東海道に入る。ここは江戸時代、東海道の第1の宿駅「品川宿」のあったところだ。高杉晋作ら長州藩の志士たちが潜伏した「土蔵相模」も品川宿にあった。現在も碑が残っている。
だけど私が面白かったのは日本橋から品川までの距離感、空間感覚ね。昔の人と同じように歩いてみた。あ、これくらい疲れるんだ、と肉体が距離感を実感したわけ。品川宿は吉原と並ぶ江戸の二大遊郭地帯だったから、江戸の庶民もこうやって歩いて遊女買いに来たんだろうなぁ、などと妄想に耽っていた。川島雄三の『幕末太陽伝』(1957)はまさにそういう話だよね。落語の「居残り佐平次」をアダプテーションしているの。で、高杉晋作とかも出てきたりして、私の生涯ベスト10に入る大好きな映画です。

ところで目指した「海水湯」という銭湯はわかりにくい場所にあった。30分以上も探したけど見つけられなかった。テレビ東京の天王洲スタジオの近くにあった。だけどここは穴場でVERYGOODね!マンションの2階部分にあるんだけど、新しくて綺麗なのがまず良い。その上お風呂は広いし、カランは多いし、おまけにサウナと露天風呂まであるの。銭湯マニアの私としてはたまらない魅力だった。また来ようっと。(京浜急行新馬場駅下車徒歩10分)

そこでひと風呂浴び、休憩室でまったりとくつろぎ箱根駅伝なんか見ちゃって、最高の気分だった。ところがすっかり旅行モードが途切れてしまったのね。これからまた歩いて旅する気分じゃなくなったんだよ。めちゃくちゃ腹も空いてきたし。 というわけで、そこからは都バスと電車を乗り継いで寄り道せずに家に帰りましたとさ。

というわけで、品川1丁目で世界一周旅行の2日目が終了しました。つづく。(波照間エロマンガ島)

(寸評)えーと・・・(笑)。
でも『今この瞬間からでも、世界一周は始められるということね。心の中でそう決めればいいだけなんだ。するとどうでしょう?ふだん見なれた景色が異化して、まったく違う風景に見えてくるではないか!』は共感だねー。
俺もすごろく旅行とかでまた近辺をウロウロしている時でさえ「旅」だったからね。
逆にチェンマイは俺にとってはもはや旅では無く日常の延長でもあるな。 7ポイント。

初めての電車内吐寫物

先日の帰宅中の電車内でのことです。
地下鉄の駅へ入ってきた電車に乗ろうと、立ち上がったところ、自分の目の前に止まった車両が目に付きました。
平日の夜9時代にしては、空席が目立っていたのです。
仕事で疲れていたので、すぐに座ろうと、ドアが開かれると同時に車内に足を踏み込んでみると、視界に入ってきたのが…。

5メートルほどの範囲の床に広がった、半透明で生乾きの液体の跡と、それに点在する細かい物体でした。

その光景を作り出した当事者の姿は車内にはなかったのですが、当然、その床の近くの座席にはほとんど誰も座っておらず、しかめっ面で立って、それを踏むまいとしている表情の人がほとんどでした。
自分も躊躇しましたが、その日は雨の日で、最寄り駅で降りてから、水溜りででも靴底を洗えばいいと考え、なるべく撒き散らされたものがさほど広がってきていない辺りの座席に座りました。
網棚に雑誌や新聞紙でもあれば、広げておいたほうがいいかと思ったのですが、あいにく近くの網棚には何もなし。
ついでに各駅停車で、終点まで乗る列車だったので、後から乗ってくる人達がどう反応するか、人間観察もすることにしたのです。

当然ながら、次の駅から乗ってきた人達は目をひん剥き、踏まないよう、避けて座席に座ったり、立っていたり。
中には座席に座ってから、床の状態に気づき、周囲を見渡している人もいました。
その床の近くの座席には若干の空席も目立ち、流れてきていないエリアは逆に立ったままの乗客が目立っていましたが、大きめの駅に着いて、たくさん乗客が乗ってくると、案外近くでも座る人も増えてきました。他の人も、網棚に雑誌でもあれば、床に広げようと考えていたかもしれませんが。
そこから3つ先の駅に来ると、駅員さんが2人車内へ入ってきて、応急措置で車内清掃を始めました。一人はペットボトル入りのおが屑を床にまき、もう1人はほうきとちり取りで、おが屑ごと回収。
2分ほどで終わり、出発しましたが、掃除をしたのがそれらが撒き散らされた区域だけで、自分が座っていた辺りまで垂れ流れてきたものまでは手をつけていませんでした。

自宅の最寄り駅で降りてから水溜りに立って、つくづく吐いた輩はどんな人で、どんな状態で電車から降りて行ってのか、考えてみました。よほど厚顔無恥な輩でなければ、車内で吐いておいて、堂々と下車するなんてできないでしょうけど、かと言って何も掃除するものがなければ、周囲の人と同様、手をこまねくのが関の山でしょう。
他の乗客たちも嫌な視線を送るのがせいぜいで、むしろ完全に出来上がっていたほうが周囲の視線も痛くなかったでしょうね…。
そんなこんなで、飲みすぎに注意しようと誓った一晩でした。(Hi-)

(寸評)まぁ嘔吐するぐらいだから相当の酩酊状態が予想され、通常の判断や行動も出来なかったかもね。
俺もこういうシーン何度か見てる。
最初は避けていたのがターミナル駅でドッと人が乗って来ると足元見る余裕も無くギッシリになって、でも誰に何を言うかも難しく「あーあ」と思うこともある。
でも吐瀉物がこんなに路上も含めて外にあるのって日本くらいじゃない?
他の国ではほとんど吐瀉物自体は見ないね。ウンコの方が余程多いかもね。 7ポイント。

はじめてのぼうずが入院

9月のある土曜。その日は朝からぼうずの調子がどうも妙でした。

当方のもうすぐ4歳になる長男すなわちぼうずですが、朝飯を喰う段階で随分体温が高く、夏休み明けて久々の登園でまたなんか病気でももらってきたかな、くらいの感覚でいました。
身体が熱くっても元気は元気なので、公園に連れて行きました。かけっこであんまり私を負け役にしたがるので、調子に乗ってんちゃうで、と一回だけ全力疾走で負かしてやったらば信じられない勢いで爆泣き、まるで埒があかなくなって公園遊びは5分で終了。虚しくちりんちりんと元来た道を帰りました。今思うと普段以上にわがままなこのモードはすでに変調をきたしていたのでしょう。

家に帰ってからもちょっとしたことでおんおん咆哮、あまりのわがまま放題に私・嫁はん・義叔父はイライラしっぱなし。そのうちあんまり泣くもんだから咳き込みがひどくなってきました。晩飯を喰う頃には息を吐くにもエッエッ、ケヘッケヘッ言っています。
はじめは自業自得じゃい文句垂れぼうずめ、と思っていましたがどうも様子がちょいとおかしい。

風呂に入れても、寝る段になっても呼吸がままなりません。吐く息に、ゴボゴボ音が混じるようになってきました。
ちょっとこれはまずいんじゃないか。ようやく寝たものの夜中に爆発的に泣いて起き、熱を測ると38°Cもあります。冷やしてあやしてふたたび寝かしはしましたがずっと肩で息をしていて苦しそうです。

パソコンで咳の症状について調べ、救急病院に連れて行くべきかを調べましたが・・・

・言葉がとぎれとぎれ → 言葉は明瞭に一文を話せる
・咳き込んで寝られない → 途切れ途切れではあるが眠れている
・唇が蒼褪めている → ちょっと蒼いけどなんかさっきよりマシ
・呼吸のたび鎖骨やみぞおちがぺこぺこ凹む → ちょっとだけ凹む

と救急へ連れて行くべき判断基準がことごとくどっちつかずで、こうなったら♯7119、このダイヤルは判断に困った時にアドバイスをくれる24時間サービスです。しかし電話を掛けた途端にぼうずの異常な呼吸音が治まりやがり、朝まで様子を見ましょう、という判断をされて電話を切った10分後にはまたも呼吸にゴボゴボ音が。どないやねん、と私も嫁はんも精根尽き、半寝半覚醒で朝を迎えました。

苦しいぼうずに何とか朝飯を流し込み、咳き込みながらもどうにか排泄も済ませ、車で20分の広域こども急病センターへすっ飛びます。
しゃべりはしっかりしているし、肩で息をしながらも待合室のトムとジェリーを見ては笑い転げています。なんじゃい、こりゃ大したことないな・・・ と思っていたら・・・

「ステロイド剤の吸入2回と点滴30分でも血中酸素濃度がこの数値ではお家に戻ってもらってもまた繰り返すでしょう、これは入院した方がいいですね」

アイヤっ。予想外の展開。こんなに元気そうなのに・・・ なんでも現状左胸にはほとんど空気がいっておらず、一度狭くなった気管支はなかなか元には戻らないので継続的な治療が必要であろう、と。こんなことなら寝る前の段階で連れてこればよかったのですが、本当に判断に悩む、中途半端な状態だったのです。せめてどこかにでも「肩で息をしだしたらすぐに救急へ」とでも書いてあれば判断の目安になったのでしょうが・・・

ただ今更自分の判断の甘さを悔やんだところでなににもなりません、現実的にいまするべき事務的な行動をとるべきです。
そのままこども急病センターから地元の市民病院に連絡を付けてもらい、入院の紹介状をもらいます。ぼうずと嫁はんを乗っけて市民病院、救急の待合には様々な年層の救急患者が座ったり横臥したり。ぼうずは刺されたままの点滴を嫌がっていますが仕方ない。すでに昼12時をまわっていました。結局病室には空きがあったものの急な入院なのでぼうずのアレルギーの卵除去食が日曜であるがために今晩翌朝は用意できないとのこと、また昼食も余分が無いことを告げられ、私はぼうずの好物で卵の入って無いかにぱんを昼夜翌朝分用意せねばならず、仮ベッド室からダッシュで飛び出し近所のコンビニでかにぱんをGET、自分たちの昼飯もろとも購入してきました。
病棟に移り今度はベッド・トイレ・お風呂・治療計画・決まりごと・駐車場等瑣末な説明、親の付添は可能ですがベッドは用意できないので子供と一緒に狭いベッドで寝るしかないということ、つまりしばらくは嫁はんがぼうずに付きっきりになるということで、私は当面独身生活、身の回りのことは全部己で処理する良い子モードに転身を余儀なくされます。 こうなれば必要になるのがぼうずに加えて嫁はんの各種滞在グッズ、下着に寝間着に時間潰しの本、携帯の充電器に妙なところで気の利く私は生理用品まで用意し、病院 → 家 → 病院とくるくる移動、嫁はんにぼうずを託してふらふら家に帰ったのでした。

その後素麺と当日朝に残したジャムパンを喰ってたら蚊に嘲弄されたり、賞味期限切れかけの焼きそばを3玉全部作ったら鍋が溢れかえって翌日の弁当にしたり、間抜けなことは毎日しましたが真面目に弁当を作り調理をし布団も毎日上げ夜に洗濯もこなしぼうずとの風呂や遊びの時間が空くのでその間に投稿や手淫も普段通り行い(余計なことは書くな)、ぼうずの分しか飯が用意されないので日々冴えないコンビニ飯をもそもそ喰っている狭いベッドで睡眠不足の嫁はんを想うと手抜きや贅沢は出来まい、と間抜けなりに頑張りました。幸い入院は6日で済み、帰ってくる前には掃除機も入念に掛け、家族一人が入院することの大変さを噛みしめました。大変でしたがサボろうとは思えませんでした。相手=嫁はんに対する敬意でしょうね。よく頑張ってくれたと思います。

退院後はかかりつけの小児科で半年目安で気管支喘息の治療を続けていくこととなり、まぁこっちは気長にいくしかないな、と切り替えましたがさぁ怖いのが救急と入院のお代です。いきなり行って入院6日なんて、とんでもない金額を要求されるんじゃないの・・・!?

両方合わせて1500円でした。ズコッ。

私の住まう市では乳幼児医療補助制度があり、ちっさい子どもはほとんど医療費の負担がかからないというナイスな制度があったのでした。
しかし思ったのは嫁はんの食費です。3食ローソンとは言えども6日もすると7,8000円は掛かってしまいます。これはどこからも補助、助成は出ません。家で作るのに比べれば倍以上は掛かってしまうのです。やはり小さい子から入院対策は必要だなぁ、とあらためて思わされました。真面目に学資保険に入ってて助かりました。皆様も保険のご相談はいんちきファイナンサルプランナの私まで(笑)。あれっ何の投稿だこれ(笑)。

ともあれお陰様で今日もぼうずは元気です。季節の変わり目、卵のアレルギーが良くなってくると埃アレルギーが出て来やすいこと、爆泣きによる咳き込み等様々な条件が重なって起こった喘息、ともあれ長い目で見て克服は可能でしょう。皆様もストンと涼しいこの時期はお気を付けて! (オポムチャン)

(寸評)子供って確かに判断が難しいよね。高熱もすぐ出るしね。
俺も自分の記憶に無い3歳までで肺炎などで5回も入院した。
その後も小学生の時に内耳炎で、デビュー後も上額胴炎で入院経験あり。
そういえば俺の弟も子供の頃喘息だったけど大人になったら治ってたな。
ともかくご苦労様。親って大変だね。 7ポイント。

はじめてのバーガー王

ぼうずも退院して一安心、その5日後、なんか今年だけイレギュラーに発生した銀連休の終わり。
なんかいろいろあって疲れたので、自分を慰撫する&嫁はんに手で抜いてもらう・・・ じゃねぇや、手を抜いてもらう目的で久々に外食でも行ってこまそか、と思い立ちました。しかし食にまるで頓着のない嫁はん、なに食べたい? なんて質問をして答えが返ってきたことは結婚して11年、一度たりともありません。こっちで決めといて、あらかじめ今食べたい気分でないものを聴いておく方が話が早いのです。

オポ「やい配偶者、食べたくないものはなんじゃい」
狸子「え〜ラーメンとか牛丼は要らん。なんか腹案でもあんの」
オポ「では行くぞ、バーガーキング」
狸子「ぶっ、本気かお前」
オポ「あそこな・・・ 今食べに行かんと潰れるど」
狸子「このバーガーマンめ」
オポ「バーガー王に、俺はなる」

そう、関東ではメジャーなハンバーガーチェーン、バーガーキング。売り物は世界中のデブが大満足の「Whopper」。くっそでかい、的なニュアンスの英単語だそうです。関西に居てはなかなか食す機会の無いデブ垂涎の馬鹿デカバーガー、いつか食べたいなぁ、と乞い願っていたらば、今年になって家(大阪市北隣の豊中市)から車で20分の阪急千里山駅前にお店が出来たのです。
・・・ただ、千里山駅の西側は道路が狭く一方通行で、店舗の専用駐車場もありません。電車で行くとあほほど遠回りになるので必然近くのコインパーキングに駐車せざるを得ないのです。ゆえに今まで敬遠され続けてきたのですが、ちょこちょこ千里山の駅近くを車で通る際に車窓から覗いたら、だいたいどの時間もすっからかんなのです。
これはまずい。このままでは折角関西に進出してきてくれた貴重な店舗が早々に撤退してしまう。思い立ったが吉日、Whopperを喰うのは今だ。

ハンバーガーと来たらマクド、モス、ロッテリア、ファーストキッチン、ちょいと高級にフレッシュネス、古くはドムドム、バーガーシティ(調べたら両方ともまだ生き残ってた)などのチェーン店から、地元のアメリカンな本気バーガー「NICK & RENEE」、お隣の池田市の阪急池田駅そばのダイエーに入ってた(惜しくも閉店)「Burgers Cafe 池田屋」、撤退するまでは愛好していたウェンディーズ(東京に店舗数限定で再上陸)などなど、どんなお店のハンバーガーも愛しているバーガーデブそれすなわち私で、あまりのバーガー愛に嫁はんから前述のバーガーマンという蔑称で罵られるようになったほどなのです。
そんな私がようやっと関西に顕現したバーガーの王たる存在をいつまでも放置しておけましょうか。それに上述のとおりぼやぼやしてっと王の奴帰っちまいそうな勢いなのです。逃がさんっ! 事前にパソコンで卵の入ってないメニューを調べ上げぼうずにも喰えるものがあることを確認、ぶーん。なんとか1時間200円のまだ良心的な駐車場にパーク。

ぼうずを抱えてお店へダッシュ。晩の6時だというのに、店には客が1人しかいません。なんてこったい。ひと駅南のわが母校、K大学の連中はなにをしとるんだ。・・・ってかK大前駅にはモスもマクドもあったな・・・。わざわざひと駅北までハンバーガー喰いに来んわな・・・。自転車も停める場所ないし。妙に納得しながら注文、もちろん私が喰らうのはWhopper最大の品、ダブルワッパーチーズです。

ウキウキしながらがらんとした店内のテーブル席で待ちます。お姉さんが席まで持ってきてくれました。トレイの底に敷いてあるWhopperの説明書きからしてもうそそります。肉を直火で焼いてるから旨味が違うとか、世界各国でその馬鹿でかさで愛されているとか。ぐへへへへ。
いよいよ実食! 嗚呼! 期待以上の肉のボリュームだ!! てか分厚すぎてアゴが痛い(笑)!! 野菜もしっかり入ってる! どっかのなんたらパウンダーみたいに薄っぺらくない(笑)!! 今まで喰ったバーガーと確かに焼きが違う!! これ絶対太る(笑)!!! 
いつもは食べるのが遅いぼうずもモリモリ食べています。「おいしー」血は争えません。
そして・・・ 意外な点で私と嫁はんが共通して感動したのが、ポテト!
モスやケンタッキーほどホクホクし過ぎず、ロッテリアやマクドほどカリカリし過ぎず、外サク中ホクの絶妙なバランスなのです!!! これはポテトにうるさい芋っ子の嫁はんも絶賛でした。

大満足で食べ終わってからカウンターを振り返ると、なんとこのお店はバーガーのカスタマイズが出来るようで、あほほどチーズを挟んだりタマネギを引っこ抜いたり肉をタワー状に重ねまくったりできるようなのです。わちゃぁ。ダブルワッパーチーズが最大っちゅうわけじゃなかったのかぁ。と臍を噛んでも時すでに遅し、すでにおなかパンパンの私に追加注文する気力は残っていませんでした。いやよしんば残っていたとしても注文に立った瞬間嫁はんに首を絞められていたでしょう。お前この9月で3kg太ったってぼやいてたばっかりやないかい。

次に私が訪れるまで、潰れるんじゃないぞ・・・! とK大の後輩諸君の来店に期待しながら、オポ一家は千里山を後にしたのでした。関東の皆さんすいません田舎者なものであんまり感動しちゃって、おもんない投稿恐れ入ります。ぶひひ。(オポムチャン)

(寸評)いや、関東でもそんなに無いんじゃないかな?調べないと分からないけど俺はほとんど見たことない。入ったこともない。
今度は是非タワー食って。先日も言ったがデブは100キロから。それまではただのポッチャリよ〜ん。 6ポイント。

初めての犬山橋で見た風景

1972年、家族旅行で愛知県の犬山市に行ったときのことです。父の運転する自動車に乗り、木曽川にかかる犬山橋のたもとで信号待ちしていたのですが、そこで驚くべき風景を目撃しました。
それは自動車道路の橋の上を電車特急が走ってきて道路上を通過していったのです!この犬山橋は自動車と名鉄線共用の橋だったのです。

私はそれまで路面電車以外で普通の旅客電車が道路の上を走るのを見たことはないので、とてもびっくりしました。しかしながらその後の車両数の増加により、自動車と電車が接触する事故が相次いで起こり、また電車が大きくなり、複線の線路の間隔が電車の運行に安全な距離を保てなくなったので、もうひとつ自動車専用橋を作ることで、この犬山橋は2000年、電車専用橋になりました。

地元の人にとっては当たり前の光景だったのでしょうけれど、関東から旅行でやってきた旅行者の視点にはとても奇異な風景としていつまでも記憶に残っていました。小学4年生、10歳のときの話です。(波照間エロマンガ島)

(寸評)不思議な風景ってあるよね。
つげ義春で有名になったけど栃木の北温泉で古い木造の廊下の途中にいきなり湯船が何の仕切りも無く出てきた時も「夢?」と思ったな。 6ポイント。

はじめての全区間の2倍の運賃をいただきます

大学生の時分。当時付き合っていた彼女は大阪の北部に住んでおり、電車の終点である山近くの駅のふたつ手前の駅そばのマンションにいました。

夜遅くなると彼女を送るついでに電車があるギリギリの時間までほとんど誰も寄りつかない駅の待合室でいちゃこくのですが、ここで負担になってくるのが電車賃です。
私は自宅最寄りから大学までの定期は持っていますから自宅最寄り駅改札には入れますが、当然彼女の家近くのこの遠い遠い駅までの運賃は支払わなければならないのが世の中の仕組みです。
しっかしろくにバイトもしない貧乏学生の私、出来るだけ無駄な出費は控えようと、金の無い時は真逆方向の定期で地元駅の改札を抜け、彼女の家近くの遠い遠い駅まで行って改札は通らず、待合室でいちゃこいてそのままUターン、地元の改札を定期を使ってなに喰わぬ顔で通過、みたいな犯罪行為をすることがありました。

ところがどっこい、悪事は露茎、じゃないや露呈するものです。
ある夜、私と彼女は最終近くの電車で彼女の最寄駅で降り、いけないことに私は改札を通らず待合室でいちゃこき、終点山の駅から折り返してきた電車に乗って自宅へ帰ろうとしていました。
ガラガラの座席に腰を下ろし、先ほどまでの淫蕩な時間をニヤニヤ反芻していたらば、次の駅までの長いトンネルの中で車掌さんが私に近づいてきました。

車掌「きみ、さっきの電車に乗ってたやろ」
オポ「えっ!? は、はいっ」
車掌「切符見せて」
オポ「あ、あばっ、あばばばばば」
車掌「ちゃんと駅で降りて、切符買わなアカンねんで」
オポ「すいません」
車掌「で、切符は?」
オポ「あ、あのう、な、なくしました」
車掌「呆れた子やな、切符も買ってへんのかい。じゃあ規則通り全区間の2倍の運賃もらうからな」
オポ「はい。すんませんでした」

車掌さんは紙に書いた特別な切符を発行してくれました。2100円くらいでした。がちょーーん。
しかもそこでへんに見栄を張って定期を出さなかったことが悪かった。定期を提示していれば少なくとも乗った区間分だけでよかったのに・・・(せいぜい往復900円くらい)。そのうえ地元駅の改札をそんな犯罪行為者バレバレの特別切符で通るのも辛いので、「〇〇駅から220円で切符買ったんですがなくしました」とまたも嘘をつき、さらに追加で220円支払って改札を出ました。愚の骨頂です。ただでさえ金が無かったのに愚かな真似をしたがために余計な出費、その月のデートは消滅しました。

その後は心を入れ替え、私は乗車運賃を正しく支払う良い子となり、いちゃこくのはちゃぁんとバイトで金貯めてしかるべき建物でおこなうよう心掛けましたとさ。おしまい。(オポムチャン)

(寸評)俺も昔キセルで捕まったことがある。
というか俺はキセルをしてないのだが下車駅が無人駅だったので友人が「その切符くれない?」と言うのであげたらそいつがそれを使ってキセルで捕まり「この切符はどうした」と聞かれ俺の名前を言って俺が呼び出されたのだ。
そいつとの友情はそこでおしまい。 7ポイント。

はじめてのショッピングモール非常階段にて手〇ン

まぁとはいえバイトで貯められるお金にも限りはあり、そのうえやりたいざかりの19歳男子には連日のそういう施設の利用代金を払うのは大きな痛手です。

でもいちゃこきたいんですね。

どっかに死角はないか。誰も滅多にやってこない場所はないか。私達は若さに任せてひと気のない場所をあっちゃこっちゃ探しました。公園・カラオケ屋・ビルの間・・・ なかなか見つからないものです。

ある時。駅近くの大きな多階層型のショッピングモールの隅っこの屋外ベンチでチュッチュしておった際、屋外ゾーンの出入り口付近に扉があるのを見つけました。
中に入ってみると長い長い非常階段。華やかなモールと打って変わってなんの装飾も施していない白い壁と生真面目な(?)階段が上へ下へと伸びています。

これ、人来ないやつちゃうん。
発情している私達はこそっと扉から侵入、踊り場に腰掛けてさきほどのチュッチュの続きを愉しみました。
しかしこうなるともっと危険なことをやりたくなります。
さすがに性器の抜き差しは誰かに見られると問題なので、相手さんの性器を手指によって一方的にサービスすることにしました。

漏れる吐息を唇で塞ぎ、下着越しに中指を上下、声が良く響くので大変です。
調子に乗って下着の中に指が侵入、マドラーがカクテルを作成しはじめます。
いつ誰が扉を開けるかわからない、スリルの中での手〇ン。
彼女の中も、私の脳味噌も、とろっとろになりました。

それ以上のことには発展しませんでしたがともに大変満足、しばらくその非常階段は私達のデートのお決まりスポットと相成ったのでした。
今思えば待合室にせよ非常階段にせよ絶対セキュリティ的にカメラがあったはずなのにね・・・。若いって、怖いもの知らずでおそろしい。(オポムチャン)

(寸評)あ、そのビデオ観たことあるよ。オポムチャンの顔ハッキリ映ってたよ。スゴくエロかったね。
・・・嘘です。でもその可能性もゼロではないかも!? 8ポイント。

初めての世界一周旅行へ (出発編)



2001年12月27日、東京・銀座の会社で夜勤をしていた私(当時39歳)は、ふとあるアイディアを思いつきました。それはまったく唐突にひらめいたことでした。それは

「世界一周旅行」をするということ!

(以下、ノートよりコンセプトをばっすい)
・2002年1月1日午前0時、東京日本橋を出発し、西回りで世界一周をする。
・交通機関は徒歩、バス、列車、飛行機、自転車、なんでもよい。
・仕事をしながらの旅行なので、東京に戻ることもある。そのときは到達した地点からの再スタートは何回でもOKとする。
・基本的には一筆書きで地図上を一本の線で西へ進むのが望ましい。

・予想されるルートは、日本橋→(旧東海道)→品川→六郷橋→川崎→鶴見→花月園→神奈川→横浜→保土ヶ谷→権太坂→戸塚→大船→藤沢→茅ヶ崎→大磯→国府津→小田原→箱根→(中略)→鹿児島→奄美大島→沖縄本島→八重山諸島→台湾→(中略)→成田→京成上野→日本橋

できるだけ「くだらなく」可能なかぎり「いいかげん」に。計画の頓挫も挫折もOK。大切なのはそのプロセスで何を考えたか。そんなことをつらつら考えているのです。スタートまであと4日。(ここまで)

というわけで、こんな企画を思いついてしまいました。これはいつからでもどこからでも気軽に始められる旅行だ、われながらすごいと自画自賛しました。
4日後、2001年12月31日は年越しで仕事だったので深夜の休憩時間、相棒に言って会社を出て、銀座から日本橋へタクシーで移動。日本橋から「世界一周旅行」を開始することにしました。日本橋から旅を始めるというのは、江戸時代、庶民がお伊勢参りに行くのと似ているのかもな、と思いました。すると橋のたもとに日本の道路元標が見えました。そこには、この日本橋から日本各地への距離が書かれています。

横浜29キロ、名古屋370キロ、京都503キロ、大阪550キロ、下関1076キロ、鹿児島1469キロ。

なんとか鹿児島までは行きたいものです。そして日本橋から銀座8丁目の会社まで約45分かけて歩きました。距離はおよそ2キロ。新年深夜の日本橋、京橋、銀座界隈は人気(ひとけ)はまったくありませんでした。その日は会社に宿泊し、1月2日の朝まで連続勤務。その足で世界一周旅行2日目の行程に入ることにしました。(つづく) (波照間エロマンガ島)

(寸評)えっ?えーとまだ2キロだよね。
地球は確か一周4万キロだからこの連載、単純計算で2万回続くのかな?
面白そう。期待しちゃう! 8ポイント。

はじめての先輩のおパンティ

中学時代の友人に誘われて高校ではやむを得ず武道系の部活に入ってしまった運動神経皆無のぼってり饅頭、私。練習はこんな体たらくの私にとってはハードなものでしたが、本格的な体育会系とは言えないインドアな感じだったので、どうにか付いていきました。

さて運動系の部活、女子の皆さんはとある事情で見学をすることもあるわけですが、そんな時はもちろん道着なんか着やしませんよ、学校の制服です。私の高校ではあほ校らしく『自律』の精神の名のもとに制服の上半身は学校指定のものでなくってもOK、というゆるい規則になっていて、下半身のみ指定のやつであれば何を着てもよかったのです。

逆を言えば、女子は必ずスカートを穿かねばならんのですよ。ぐひょひょひょ(腐れ外道)。

ある日の練習後、同学年の女子部員がおしゃべりしていました。
Kさん「あの子、スカートの下未だにブルマ穿いてんねんで」
オポ「えっ? 女子ってブルマ穿くもんじゃないの? パンツ見えたら嫌やん」
Kさん「ポムさんそれは中学までやわ、高校にもなってブルマ穿いてるのんってガキっぽいやん」

なんと! そうだったのか!! 高校に入ってから女子のスカートの中身を拝む機会は残念ながらこれまで訪れていなかったが、風さんがラッキーなひと吹きさえすればどの子もあの子もノンブル状態なのかっ!!! 想像力豊かな私はにわかに勃起しそうになりました。

話を見学する事情が生じた女子に戻しましょう、我々の練習場はほぼ独占状態の武道会館か、柔道部が使わない日の柔道場、すなわち畳のある場所でした。武道会館は少ないながらも椅子があり見学者はそこに腰かけておれば良いのですが、柔道場は椅子の持ち込みが出来ず、そのうえ神聖な畳には練習以外では入ってはいけない(らしい)ので、見学者は畳のへりの床板の上に座らねばなりませんでした。
賢明な女子は座布団等を用意したりするのですが、まぁその急に見学になっちゃうパターンってのも、あるでしょ? ね。そんな時はつい下に敷くものを忘れたりしますよね。って知りませんが女子の気持になればきっとそうでしょう。

その日の見学者は、先輩の中でも1,2を争うカワイイ系の、ワンレンのロングヘアーが素敵なスレンダーガール・A先輩でした。
今日は練習に参加せず、柔道場の端っこで、制服姿でちょこんと正座しています。敷物もなく。
その姿を見た瞬間、私の脳味噌は「見れる」という単語でパツパツになりました。
真面目に練習してるみんなをよそに、私の神経はA先輩の股間に集中しました。そうです。スカートで板の間に正座なんかしてると、絶対そのうち脚が痛くなるに決まっています。
練習が半ばにさしかかったその時!

A先輩は、正座から三角座りにフォームチェンジしました。

嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼!!!

ノンブルだ! Kさんの言葉は本物だったのだ(歓喜)!! 白・・・ 美しい・・・・・・ 白だ・・・・・・・・・!!!

しゃがみや三角座りの際に見える、美しい白い三角地帯。私が一番好きなおパンティの構図です(やかましいわ)。そのうえ部でもいちばんのかわいい先輩女子の・・・・・・!! 
私はその白を瞼に焼き付け、その日の練習を終えました。誰になにを言われても生返事でした。おうちに帰ってなにが起こったかはご想像のとおりです(笑)。
こうして今でも憶えてて投稿が出来るのは私が変態だから? いや、男にとってエロスの引き金は得てしてヴィジュアルからであることが多いものです。可愛い女の子のパンチラなんて奇跡は、そうそう起こるものではありませんからね。A先輩、ごっつぁんでした(笑)!! (オポムチャン)

(寸評)俺も高校は演劇部だったが昼飯の弁当を部室で食う習慣があった。
その時向いにしゃがんだ女子生徒のパンツ丸見えですげぇ興奮した。
でも今冷静に考えるとあいつ絶対わざと見せてたな。
だってすげースケベそうな女だったもん。
もちろんそれを思い出して家に帰ってからしごきまくった高校時代。 9ポイント。

はじめての冬山登山で初日の出

ってな男のロマン的行事を、突然親父がやりたがりました。

近所のカワセさんと酒を呑んだ際にやろうやろう、と盛り上がったらしく、その翌年の元旦は兵庫県の六甲山頂で迎えよう、という無謀な試みを行うということでした。
当時たしか5年生の私(非運動系白デブ)のテンションはだだ下がりしました。
寒いのは嫌いです。雪山なんか大っ嫌いです。しかも新年0時から登り始めるなんて、真っ暗な中、素人一家が山道を往くなんて・・・ 馬鹿じゃなかろうか!!?

5歳の弟もいます。もう1人も8歳です。爺ちゃんはさすがに置いてきました。しかしこんな幼子まで巻き込んでまでやることか・・・?
家で留守番したい。ファミコンしてゴロゴロぬくぬくしていたい。誰にも邪魔されずおぼえたての手淫に耽りたい。はは。

そんな私の思惑も空しく首根っこを掴まれ阪急電車、六甲駅から北へ登ります。さっぶ。くっら。駅から山道へ向かう最中に新年を迎えました。「おめでとうございます」「おめでとうございます」どこまで目出度い連中なんだこいつら。親父とカワセさんは頭に電燈の付いたヘルメットをかぶって先頭としんがりを行きます。挟まれた我々、しょぼしょぼとぼとぼかじかみながら雪の六甲山を登ります。決して激しいアップダウンがあるわけでもなく、ファミリー向けのイージーなコースではあるようです。それでも・・・ 長い! さぶい! 
「疲れた」「寒い」「まだ着かないのか」次々と文句を垂れる私に辟易して、親父はどんどん歩調を早めます。私は余計に文句を垂れ、親父はさらにイライラしてスピードをアップ、絶望的なありさま。

親父め・・・! カワセさんめ・・・! 募る憎悪。いつまでたっても頂上に付きません。もう私はここで死ぬるのか。そんな気分の時、大きくカーブした山道のカーブの内側を懐中電灯が照らしました。柵もないその場所は、ずるりと斜面になっていて、足を踏み外せば戻って来られないような坂でした。
雪も積もっていて不安定な足元。私は怯えつつ斜面を見ないようにやり過ごし、寒さと恐怖で戦慄しながらこの雪の山道という悪夢が早く終わることばかりを祈っていました。

到着はAM2:30。なんの感動もなくただただ身も心も疲れ果てました。テント設営に約30分、7:00の日の出まで4時間の、睡眠タイムです。
しかし、寒くって寝られやしません。テントの下は、雪。新聞や毛布を敷いても、底から冷気が容赦なく攻めてくるのです。小便がしたい、といっても便所などなく、そこらへんの雪の上でしてこい、と。最悪です。チンポが凍ります。そしてテントに親父がいません。興奮してカワセさんと酒でも飲んでいるのでしょう。もうなにもかもが厭になりました。

6:00頃、寒くて寝られないところへ空が白んできました。親父はハイテンションです。私はこの世の地獄のような顔をして黙っています。
みんなで初日の出の瞬間を見よう、と大勢の他の登山者が山頂付近に犇めきだしました。明るくなって気が付きましたが我々の他にも100人以上の登山客がこの一帯にテントを張って初日を拝まんと蝟集していたのです。気が狂っているとしか思えません。

そんなに、尊いのか? 初日て。

テントから山頂へは距離にして100m程度のゆるい斜面、すると坂の途中で蒼い顔をしたバァさんが小さくなって座り込んで震えていました。
みんなひとまずはバァさんは置いといて初日だ、と7:04。初日が仰々しく地平から空へ顔を出し、新年の朝が幕を開けました。
ものすごくどうでもよかったです。
帰り道でもバァさんは座り込んでいて、人々が心配そうに集まっていました。
テントに戻ったおかんはバァさんを慮り、我々のお気に入りのキン肉マン毛布をバァさんにあげて来よう、と言いだす始末。私の心は絶望で支配されました。ここまでの仕打ちを受けるなんて・・・・・・。おかんが毛布を持って駆け付けようとすると、山の下方から救急車のサイレン、なんと頂上まで車道が存在したのです。

あれ・・・・・・? ほな、なんで、わしら、歩いて来てん。

バァさんは無事(かどうか知りませんが)搬送されていきました。親父は満足した様子で、「ええ初日の出やったな! また来よう」と言いました。
私は心に誓いました。
自分に息子が出来ても、絶対に冬山に登って初日の出を見に行くことを強要するような親にはなるまい、と。

男のロマン体感どころか男の不満耐寒で、トラウマをこしらえただけだった卑屈小太りの元旦山登りでした。(オポムチャン)

(寸評)俺も子供の頃普通の初詣に夜中行っただけで後悔したもんなー。
全く信心が自分に無いのを子供ながらに悟ったな。
それ以来その手の行事にはほとんど参加してない。 8ポイント。

はじめての女体接触 in 部活動

私は高校の時、初めて運動系っぽい文化系部活・・・ なんのこっちゃわかりませんがとにかく中途半端なポジションの合気道部に入りました。後にも先にもこういった運動を専らとする部活動に入ったのはこの時だけでした。

さてスポーツからっきし系根暗色白小太りたる私、とうぜん顧問からの評価は低く、しかも身体の芯が一本通っていないフニャフニャグニャグニャ人間なので立ち姿があまりにも不細工でまるで様になっていませんでした。
しかしそんなかなしいクラブアクティビティをめげずに続ける私に、主将がご褒美(?)をくれました。
いや別に私だけに呉れたわけではなく、おもに男子部員に。そう、私の高校の合気道部は男女合同で練習していたのですが、基本的に2年生の女子が1年生の女子を、2年生の男子が1年生の男子を教えるというスタイルで、性別ごちゃまぜに練習することはその日までありませんでした(3年は受験なので部活は引退)。

しかし主将は「たまには違う教え方をしてもらうのも新鮮やろう」ということで、2年の女子先輩に我々1年男子が技を教えてもらうことになりました。
御察しのとおり私は年頃の女の子に触れる、という機会なぞ生涯おとずれまい、といった風情のキモ男だったので、突然の事態に激しく勃起、するかいなそんなもん、もとい激しく緊張しました。
そんな私の心を見透かすように、軽音同好会と掛け持ちしているミヤザキ先輩は大きな声でこう言いました。

「お前らもっと喜べや、女体に触れるねんぞ」

どっ。

部室会館は笑いに包まれ、我々チェリー男子共の緊張もほぐれました。ありがとうミヤザキさん。
さぁ部活という名の合法女体タッチコーナーです、ってそんな気分にはなれません、技を教えてもらう分際で。しかし合気道という武道は、相手に触れることなしにはほとんど技が成り立たないのです。気功とはちょっとちゃうのね。相手の力を利用してテコと円運動で捌いて投げたり関節を極めたりしちゃうのね。何が言いたいかというと必然的に接触があるの! とはいえほとんどの場合腕や手首への接触程度ですが。

後ろに括ったロングヘアーが凜々しいS先輩に、投げの一種を教わります。
かぼそい腕が突きを放つ私の右腕を捕らえ、手首をひねります。手の甲の痛点を圧されたまらず畳に受け身を取ります。 鮮やかだ・・・ でもそれ以上に、いいにおいだ・・・(変態)。なんでしょう、香水というわけでもない女の子のさわやかな体臭。なんであんなに心地のいいにおいがするんだろう。まあ人にもよるんでしょうが(笑)。
次は先輩のお手本を受けてから私が投げる番です。投げるっつっても正面から抱きついてベリー・トゥ・ベリー、いわゆるフロント・スープレックスのように(なにがいわゆる、だ)密着して投げるわけではありませんよ、正面から打たれる突きを捌いて手首をひねって極めるのです。それでも腕を取る時に身体はかなり近づき、S先輩の背中が私の背に触れました。
ドキドキです。
ああっ、そんで捕えた手首もやわらかいっ! こんなふやふやした手の平でさっき私を極めて投げたのかっ! どうなってるんだ女の子って! なんでこんなにやわらかくていいにおいなんだっ!!!

私は技を教えてもらいながら、脳味噌は先輩の手の平のようにふやふやになってしまいました。

その後私の様子があまりにもきもかったからか、その年はそれっきり女性と混ざって練習をすることはありませんでしたが、次の年にK山が主将になってからなぜか新入部員がしばらく男子が1人だったので、7人いた女の子の後輩の練習を見るために男女ミックス練習は日常のものとなりました。セクハラにならないよう気は遣いましたけどね・・・。

以上、はじめて部活で女体接触してふやふやになったムッツリ小太りの思い出でした。(オポムチャン)

(寸評)青春ねーん。
俺は芝居の準備体操で奥菜恵ちゃんとふたりで組むことになった時はそれはもう天国だった・・・。
ほぼ抱き合う形の体操もあった。
大人の女の匂いがしたよ。ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。 7ポイント。

初めてのトサツと「皮一枚」

僕の実家では三羽ほど雌鶏を飼っています。自給自足を志す上で、雌鶏はとてもありがたい存在。

毎日卵を産む。
生ごみを食べてくれる。
糞が肥料になる。
何だかちょっと間抜けなので、見ていると癒される。

彼女たちのおかげで、イーダ家は毎日新鮮な卵が食べられます。
生ごみの処理にもほとんど困りません。
家庭菜園の作物も糞のパワーですくすく育ちますので、食卓にはいつでも旬折々の美味しい野菜が並びます。
気持ちが落ち込んだ時などには、彼女たちの姿を見ることでリフレッシュされます。
地面のミミズをほじくり返している様子や、ぼんやりと座り込んでいる様子などを眺めていると、とても心が和みます。

彼女たち(名前はありません)は、ペットや家族というよりは同居人という感じ。
彼女らは彼女らの都合で生きていて、イーダ家もイーダ家の都合で彼女らを庭に置いている。
お互い依存も束縛もせず、それぞれ勝手気ままに過ごしています。ほんわか、ドライな関係です。

さてお話は、僕が高校生のころに起きたとある事件です。

ある朝、いつものように餌やりと卵の収穫をしに行くと、鶏たちのいる辺りから何とも落ち着かない、ザワザワとした雰囲気が漂ってきました。
「どうもおかしいぞ」と慌てて駆け寄ると、一羽が頭と首に大きな傷を受けて意識朦朧としていました。
夜中にイタチか何かがやってきて彼女を襲ったようなのです。
彼女は、どう見ても今日中に死んでしまうレベルの重体でした。

家族を呼んで、彼女をどうしようか相談しました。
そして、わりとすぐに「ツブして食べよう」という判断に落ちつきました。(「ツブす」・・・屠殺すること。)
理由は、自然に死んでから解体すると鮮度が落ちて肉に臭みが出るから、(人間の勝手な感情移入だけど)早く楽にしてあげたいから、なんだかんだ言ってもツブしたての鶏肉は美味しいから、などなどでした。
ここらへんの感覚は、まったく理解できない方もいらっしゃるかもしれません。
うちの中でも、母だけは「悲しくなるから、料理できない。食べるのも無理」と言っていました。
でもほかの家族はけっこうノリノリ。みんな食いしん坊。

父が鉈で頭を落とし、僕は血抜き・羽むしり・解体を手伝うことになりました。
きょうだい達はみんな出かけていたので、父と僕二人での作業です。

父は左手で雌鶏の首を地面に押し付けると、(もちろん人間の傲慢な思い入れだけど)「一発で決めてやんないと可哀想だからな・・・」と言って、鉈を勢いよく彼女の首に叩きつけました。
ところが。

父「・・・おろっ?」

狙いが外れ、鉈は父の左手の人差し指の上に落ちました。

父「すまん、指切った。病院行ってくるわ。悪いけどあとよろしくな」
僕「えっ」

(・・・「あとよろしくな」って、「あとよろしくな」って、おい!!)

人差し指は皮一枚残して骨まで切断されていました。(生まれて初めて「皮一枚でつながっている」という状態を目の当たりにしました。)
父は「ねじ式」の主人公よろしく、切れた神経を手で押さえながら、母と共に整形外科へ向かいました。
家には僕一人と雌鶏達が残されました。

まさか自分が彼女をツブすことになるとは。僕は激しく動揺しました。父がやるのを見てるときは余裕しゃくしゃくだったくせに・・・。

鳥類・哺乳類を「殺す」感覚は、虫や魚の場合よりも「殺人」の感覚に近いような気がします。とても精神的に負荷が大きかったです。僕は半ばベソをかきつつ、彼女を屠りました。あ、詳しい描写は控えます。

その後の作業中の気持ちの変化。
最初はショッキングな心持ち。それが血抜きと羽むしりをしているうちに、だんだん落ち付いた気持ちに。そして、解体して茹で始めるころにはすっかり料理している気持ちへ。レシピは鶏鍋にしました。肉の美味しそうな香りに唾をのんだとき、「ああ、つくづく自分は食いしん坊なのだなあ」と思いました。遅い早いはあれど、人は状況に慣れてゆくものなんだろうなあ。きっと。

鶏鍋が出来上がったころ、母ときょうだい達が帰宅しました。父は数日入院することになりこの日は帰らず。(指は手術でくっつき、リハビリを経てちゃんと曲げられるほどにまで回復。良かったなホント・・・。)夕飯、母は食べたがらなかったので、子どもだけで鶏鍋をいただきました。

自分でツブした鶏の肉は、単純に美味しいだけではない、特別な味でした。「命をありがとう」だとか「自然の恵」だとか、そんな言葉では収まりきりません。まぶしいような、分厚いような、とても複雑な味わいでした。(イーダ健二)

(寸評)それは貴重な体験をしたね。
俺も経験ないから出来るか分からないな。
でも生き物だったものが食材に変わる気持ちの変化は不思議だね。
もしかしたら戦争という殺人もそれに近いのかもしれないね・・・。 10ポイント。

はじめての金銭要求いじめ

中学1年に入ってからのこと。私はうちの真裏に住んでいながら幼稚園から小学校に至るまでなぜか一度も同じクラスにならなかったホリバと初めて同級生になりました。ホリバとは小さい頃から夏休みの地域清掃なんかではしょっちゅう顔を合わせるものの、クラスメートとして遊ぶことはなかったので近くて遠い存在でした。

そんなホリバはいろいろ小器用な奴で、半田鏝を使って機械を修理したりTVゲームが強かったりと遊ぶにつれ様々な顔を見せてきました。
しかし案の定なににつけても愚鈍な私の様子を見るにつれ、さきの投稿にも登場したIくんと同様にホリバは私を小馬鹿にしだしました。悲しいことにデブで頭が悪い、というステータスはいじめるに相応しい人間と見做されても仕方がないようです。いま客観的に見ても、当時の私はいじいじうじうじしててぶん殴りたくなるようなアホデブでした。

さてホリバ、夏も近いある日、遊んでいる最中にポカリスエットを購入し、汗だく豚饅頭の私に分けてくれました。びしゃびしゃの私は一も二も無く馳走になりました。

それがいけませんでした。

それからというものの、ホリバは私に対して「ポカリの代金支払え」「この泥棒野郎め」などと私を恫喝するようになりました。

オポ「ちょっと分けてもらっただけやんけ」
ホリバ「タダでやるなんて一言もいうてないやろ」

とこんな調子で、にやにやしながら私を小突き、気の小さい私をネチネチと精神的にいたぶるのが楽しくて仕方がない、といった様子でした。
ガラスのハートの私は心をペキペキ折られ、やむを得ず母親に相談しましたが、ご近所というか真裏の住人だけに親御さんにも抗議がしにくく、解決の糸口が見つからないまま夏も終わりを迎え、夏休み中悶々とし続けた私は、母親から「もうこれ渡して、払ったから終わり、って言っておいで」と言われ、渡されたのは2000円でした。
今から思えばなんでそんな中途半端な金額だったのか判りませんが当時の私にとって2000円は大金だったし、またそんな大金を親に出してもらわないと解決できない自分が情けなくって仕方ありませんでした。まぁそもそも私は確実に2000円分もポカリをもらっていませんでしたが。

始業後しばらくして、ホリバはいつもの調子で中学校の中庭で私を小突いては「おい金返せ、泥棒豚」などといやらしい笑みを浮かべつつ罵倒します。
私は表情を変え、
「払うわ、2000円。これでええやろ!? ほれ!」

ホリバは思いがけない事態だったのか、一瞬固まりました。

オポ「払ったらええんやろ!? 受け取れや!!」

結局受け取りはしたホリバですが、なんだかしょんぼりしていました。
きっとこのまま、私の弱みを握ったままでいたぶり続けたかったのでしょうが、それが叶わなくなったからでしょう。

―――――ただ、私がホリバからそういった仕打ちを受ける理由にも、思い当るところがあったのです。
小さい頃、見かけたホリバを、兄貴は「おい、ゴミほり場!」などと言っておちょくっていました。ゴミ放り場とはゴミを捨てる場所、という大阪的言い回しです。私も同調して、ホリバを見かけるたびになんの悪気も無く、ただフレーズ的に面白いので「ゴミほり場!」と叫んでいたのでした。

その行為が、幼いホリバの心をどれだけ傷めつけたことでしょう。

ホリバの一連の行為は、その時の私に対する、長い時を経た復讐だったのかもしれません。
幼心の無邪気な罵倒セリフは、残酷なものです。

何かされた時は、我が身に思う所はなかったか、と考えるようになった、昔の話でした。(オポムチャン)

(寸評)なんかあげる方ももらう方も切ないね。
でもそれが勉強になったと思えばいい経験だったかもしれないね。 8ポイント。

初めてあこがれの人のギター

去る8月29日(土)に、地下生活者の夜・第201話 に行ってきました。会場は阿佐ヶ谷のNEXT SUNDAY。去年(’14)も8月にここでこのイベントが開かれましたが、お客さんが5人もいなかった。
しかるに今年はどうでしょう。何と満員ではありませんか!大谷氏ととっちゃんがバックメンバーを引き連れてやってくるというのが効いたのでしょうか。自分もそれが楽しみでした。二胡、リードギターそしてパーカッションと充実したサウンドでした!!

本題はここから。ライブも終わりお開きになってメンバーたちが外や客席に繰り出したころ、大谷さんに断ってギターをちょっと触らせてもらいました。初めてあこがれのミュージシャンのギターを触ってしまった!!!よくはわからなかったけれど、なんだか非常になじむような不思議な感覚でした。不思議とスラスラ弾けました。
演奏も非常によく、正に会心のライブでした。この次の日に昭島駅前のショッピングモールに行ったら剛力彩芽がキャンペーンライブをやってたけれど、断然大谷氏たちをひいきしちゃいます!!(Sankaku)

(寸評)「剛力彩芽にも断って太腿をちょっと触らせてもらいました」だったらスゴかったがな(笑)。
大谷も嬉しかろうのう。 6ポイント。

初めてのなにこれどこまでも泳げちゃう

あたしはカナヅチの代表みたいなもんで、小学校の中学年になってからは毎年の夏休み、学校にプールの補習によびだされていた。

こうすりゃ浮くでしょ、なんでできないの、とまるで意味のわかんない叱咤とか激励とかを背に浴びて、あたしはぼしゃぼしゃ水を蹴り、掻いた。

あたしが長い距離を泳げない理由、それは息継ぎのヘタクソさだ。

小学校の泳ぎは、もっぱらクロールばかり、あたしは犬掻きとか顔が水面に出っぱなしの泳ぎは得意だけど、頭がまるまる水に浸かる泳ぎは、からっきしだった。

みんなみたいに、顔をちょっとだけ傾けて、スマートに水の中から口だけ出して息を吸うことができないんだよね。

ばっしゃん、ざんぶ、大きな水しぶきとともに、水面から大きく顔を出してめいっぱい息を吸う、こんなんじゃ速く長く泳げるわけがない。

いつもはとろいF川さんだって、水棲動物!?と思うくらいイキイキとクロールしてる、悔しい、恥ずかしい…だからあたしは、毎年夏休みが憂鬱だったのだ。

そんな例年の恒例行事と化した水泳補習、5年生の年も距離を泳げないこどもが集められた。

3年連続で不名誉な皆勤賞をもらっているあたしは、もはや開き直って、不格好でも距離を泳げりゃいいんでしょ、とアンチ・スマートな大きな息継ぎをやめなかった、というかちゃんとした息継ぎはいくら練習しても結局できなかったの。(笑)

そんな無駄の多い息継ぎしてたら、すぐに息があがっちゃう、でもあたしはこのスタイルで3年やってきたんだよ、と我を通す。

これが功を奏したのか、あたしの肺活量は飛躍的に向上した。

ある日の補習の時、練習の成果を見るために、自由に泳げるだけ泳いでみなさい、と言われ、あたしは実力試しにどこまで行けるかやってみた。

プールの端から端まで25m、懐かしいな、これ泳げたのは4年の授業中だったっけ?そこはクリア、問題は必達課題の50m。

あれ… 泳げる。

なんだ、全然いけるじゃん、今までの苦しさは何だったの?というかその時あたしは、どうやらスポーツでよくある「ランナーズ・ハイ」みたいな状態、それとも、極限の集中力を発揮した「ゾーンに入る」っていうやつ?だったに違いない。

増えた肺活量のおかげなのか、大きな息継ぎを何回しても、苦しくならないから、ゆっくりなスピードだけど、まるで泳ぐことに疲れを感じないのだ。

あたしは今までにない充実感を感じ、明確に25mを何往復したか、憶えていた。

結局時間が来て、500mを泳いだところで終わっちゃったんだけど、ほんとにいつまででも泳げる感じだった。

もうこれでカナヅチ組からおさらばだ、嬉しいな、と思った翌年、6年生の補習対象者は「息継ぎがうまくできない者」だった…(笑)しかも無限に泳げたのはその一回だけで、あたしはそれ以降長く泳げてもせいぜい150m程度しかもたなかった。

結局高3の夏まで毎年補習に呼ばれるという伝説を作ったあたし、あれ、なんだったのかな、一瞬だけ河童の生霊にでも憑かれたのかな。(笑)(黒岸なぎ子)

(寸評)俺も全く同じ。
昔、一度か二度だけ何百メートルも泳げたことがある。
今はまたほぼカナヅチに逆戻り。犬かきで5メートル。
なので足の付かないところは絶対に行かない。
帰ってきた不器用。 7ポイント。

はじめての他人の尿

小学校5年の頃。私は色白ムッツリ肥満としてクラスでおちょくりを受けるキャラクターを確立しており、それが高じていじめのような仕打ちを受けることもしばしばでした。

そんな中、私とよく遊んでいたIくんは、TVゲームに興じたり外で野球の真似事をしたり、またお互いの家に泊まりに行ったりと特に仲良くしていた少年でした。

とはいえ見るからにいじめたくなる太ってて陰気なことばかり言ってる運動関係オールペケの私、Iくんも他の級友と同様に私をおちょくる事がちょくちょくありました。

ある日のこと。性格的にやや難のあったIくん(大体にして私の友人はこうです)は私と2人で遊ぶことが多かったのですが、私がひたすら負けまくる駆けっこ、鬼ごっこに飽きてしまい、いつものように私の愚鈍さを指摘しておちょくってきました。
もはやそんなものには慣れっこの私には少し心は傷むものの毎度のこと、大したリアクションもしませんでした。
するとそれが彼のサディスティックな気持ちに火を着けたか、彼は妙な行動をとりだします。

他に誰も遊ぶものもいない4時過ぎの、Iくんのマンション下の四方を他のマンションに囲まれた公園。にやにやしながら滑り台の上に駆け登ったIくんは、半ズボンの裾から糸みみづの王様をおもむろに取り出し、スライダー部分すなわち斜面に向かって高らかに放尿をしました。
呆気にとられた私のもとへ素早く降り立ったIくんは、

「オポどん、小便触れや」

と想像だにしなかった台詞を吐きました。

うん、触る〜、なんて無邪気な返答を出来る人間では、私はありませんでした。

他人の放った尿。それが清浄なものでは決してないことは容易に解る年でしたし、それが正常な行為では決してないことも理解できましたが、もしかするとそれは性情にからんだ所業であったのか、と今になって思います。言葉遊びしてる場合か。

私の左手を強く握り、小便に近付けようとするIくんの本気度は相当なものでした。
やめろや、きたない、あほか、と精一杯の罵倒の言葉を並べて抵抗しますが、私が喚けば喚くほどIくんの顔はにやにやに磨きがかかり、らんらんと眼が輝いています。これは単なるいじめの範疇を越えています。彼は今性的なイニシエーションを執り行う快感に浸っているのです(と推測しています)。

デブの割りに非力な私は抵抗むなしく、初めて他人の尿を指で触る結果に。なんともいえない被虐感、屈辱感、絶望感がこの身を襲います。
臭い。汚い。なま温かいのがとても不快。

ようやく目的を果たしたIくんが力を少し弛めた瞬間、私は手を振り払い精神の責め苦から脱しました。

Iくんは、恍惚と笑うばかりでした。

あとになって判ったのですが、Iくんの家ではお婆さんが狭い部屋の中衰弱していたり、私の知らない所で親御さんがうちの両親に金の無心に来ていたり、滅多にお父さんが帰ってこない割りに次々と弟が生まれるなど複雑な家庭で育っていたようです。泊まりに行ったときも、ちょっとヒステリックで恐いお母さんだった、という印象はあったのですが、幼い私にはそこまでのことを見抜く目はありませんでした。そんな環境が、彼に歪んだ性癖を与えたのでは、と思います。

半泣きになって誰にも言わずにその日を過ごしました。
そのうちIくん一家は市内の別の区へ越してゆき、私の家も地主が亡くなった関係で転居を余儀なくされ、大阪市内から北隣の豊中市へ移りました。一度彼の母親から新しい家に遊びにおいで、と電話がありましたが、無心の件もあり誘拐されるそ、行くな、と親父に言われ、それっきりになりました。

次に私が他人の小便に触ったのは、生まれたぼうずのオムツを替えている最中で、実に24年越しのことでした。まあ、これは尋常な接触でしょうが。

Iくん、今はどうしているのか知る術もありません。まっとうな大人になった図は、まるで想像できないのが悲しいところです。
ともあれ、幸運を祈ります。(オポムチャン)

(寸評)最近、雨も降ってないのに君の家の玄関だけが濡れてることない?
もしくはどこからともなく「大便触れや」という声は聞こえてきてない? 9ポイント。

初めてのおくち

ずいぶん前の事。
付き合っていた彼女と同棲していたことがありました。
つまりそれは、二人だけの空間がこれでもかというくらい満喫できるということなのです。
とうぜん、するべきことはします。
休みの日は、朝から晩まで、いろんなことを楽しみました。
そんなある記念日の休日。
二人にとって、とても大事なことが起こった、うれしい日。
届を出して、手を繋いで部屋に帰ってきました。
お互いが、お互いへの愛で充ちていました。
靴を脱ぐや否や、僕たちはもつれあいました。
床の上に転がりながら、抱き合ってやさしく熱くくちづけを交わします。
若いので、自然に流れは、そういう流れに流れてゆきます。
ズボンも下げずに、僕は彼女を着衣のまま愛撫します。
彼女も、僕をやさしく撫で上げるのですが、そのうちお互い我慢ができなくなったようです。
僕のチャックが開かれ、もうすでによろこんでいる僕がぶるん、と跳ねます。
いつもなら指先で愛撫してくれるのですが、その日の彼女は違いました。
潤んだ目で、じっとそこを見つめています。
これまで、僕がおくちでよろこばせてあげたことは、何度もあります。
でも、彼女がそんなことをしたことはなかったし、僕もそれをとくにみずから望みませんでした。
鼓動が、高鳴ります。
彼女は僕の気持ちを見透かすように、なにも言わず、そっと舌を這わせました。
ああああ。
今まで感じたことのない種類のよろこびです。
湿潤した口内が、やさしくやわらかく僕を弄びます。
彼女も初めてですから、たどたどしい舌つきです。
でも、一生懸命僕をよろこばせようと、初めてのことに挑戦してくれている気持ちがうれしい。
うれしくて、頭が真っ白になりました。
僕は腰を彼女の顔に近づけます。
じゅぶり。
すると、僕が彼女にすっぽり覆われるかたちになりました。
彼女の口中が、僕でいっぱいになりました。
僕はもっと、もっととさらに腰を近づけます。
じゅぼり、じゅぼり。
急に前後したので、彼女が咳き込んでしまいました。
ごめんね、でもそれだけ、興奮していたのです。
蕩けるような時間でした。
さすがに初めてでおくちへ放つのは、あんまりです。
よろこびを解き放つのは、おくちでお返しをしてあげてから。
その日僕は、彼女のしかるべき場所で、何度もよろこびを爆発させました。
二人とも、幸せでいっぱいです。
長い間、僕たちはつながったまま、くちづけを交わしたのでした。
初夏の真昼、甘い甘い記念日の、うぶなおくちの記憶でした。(こっくん)

(寸評)くーーーーっ!
こういう幸せエロもいいねっ。いつまでもこの時の素敵な記憶を忘れませんように。 10ポイント。

初めての自主制作アルバム発売

イーダ健二は「飯田健二」という名義で自作曲のウクレレ弾き語りをしています。地味で偏屈な内容の歌をボソボソと歌います。(たとえば午前十時の公園で虚脱しているおじさんの歌とか、クラゲの暮らしぶりを描写した歌とか)

なにぶん地味なので、大半のお客さんは「ふーん」という感じで素通りして行きます。でも、百人に一人くらいですが、ときに激しく興味を持ってくれる人もいます。

この一年の間に、何人かの方から「音源が欲しい」というお言葉をいただきました。それで少し調子に乗ってしまい、僕はソロアルバムを自主制作してしまいました。

アルバム「飯田健二」



ジャケットデザイン:松葉彩加(aota)

全8曲弾き語りオリジナル。練習スタジオにラジカセ持ち込んで一発録音、CD-R版とカセット版を手作業で50部程度作って、地元・水戸の小さなレコード店で委託販売&ライブ会場で手売りしています。
決してたくさんは売れませんが、物好きなお客さんがたま〜に買ってくれます。

自分の歌が音源になるのは嬉しいもんですね。まして、買ってもらえた時の嬉しさたるや!
こっそり心の中で歓びのダンス(?真黒毛ぼっくす)を踊るですよ。へっほっは。(イーダ健二)

(寸評)俺も今でも嬉しいもん。気持ちは30年前からよーく分かるよん! 7ポイント。


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