ドキドキドキリコ初体験(70)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールにて。題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめての当HP投稿者さんの著書購読

2014年8月の半ば。私は6月のホルモン鉄道のライブでお会いした当HPの投稿者であるC県在住の作家さんの書いたお話が1話ずつ掲載された、短篇集を3冊購入しました。

この作家さんはテレビドラマの脚本なども手がけられている気鋭のライターでいらっしゃり、石川さんのライブやこのHPのチャットでも何度もお話したことのある、気さくで素敵なお姉さんです(といっても実は私とほぼほぼ同世代です)。 普段テレビを見ない私は偶然義叔父の部屋でみんなで夕食を食べているときにそのドラマを拝聴し、またチャットやツィッター(ノゾキ専門)でも楽しい、また鋭い発言をされるので、この方が書く文章を読んでみたいなぁ、と興味をそそられ、購入を決めました。

普通の短篇を読むのと、お会いしたことのある、しかも石川さんを強力に愛していらっしゃる方の書く短篇を読むのとでは、なんだか不思議と気分が違います。でもへんに贔屓するような視線で読んでしまうのは逆に失礼だから、あえてどの作品を誰が書いたか、は後回しにして、3冊すべてのお話を読み切りました。普段、私が好んで読むジャンルはマニアックだったり変態だったりと出鱈目なので、こういったお別れや涙についてのお話を読むことは稀です。ですが、まんまとやられました。電車やバスの中で、ええ歳のおっさんが涙目で嗚咽しかけているのです。
何より、無感動・感受性皆無だと思っていた自分に、本を読んで目頭を熱くするような感性が存在したことにまず驚きました。

詳細を書くとただでさえズレがちなこのコーナーの趣旨からさらにズレるのでかいつまんで。
1つ目に読んだのは友情とお別れのお話。トモダチイナイ歴の長かった私には胸に刺さる物語でした。それでもその孤独の中で、自分の中に生まれた負の感情は決して忘れないでいい、とお話を読んで思いました。

2冊目に手に取ったのは歌のお話。これまた私もコーラスをしている関係上、染みるものがありました。また、主人公と同じ形で身内を失った幼馴染が居るため、冷静に読むことも出来ないほどこみ上げるものがありました。私は彼にその時、最適な言葉を投げてやれたでしょうか。本当に彼が欲しい言葉を。そして、正しく寄り添えていたのでしょうか。なんで、こんなリアルな感情を書けるんだろう・・・

最後の1冊。ギターと少年、父子のつながり。私もギターを教わったのは父親からです。何故か妙に私のいままでとリンクするお話ばかりです。消滅したくなった過去も含めて。とりわけ、役に立たなくてもやるんだ、というフレーズが心を打ちます。私のこの投稿なんて、その最たるものですから。

いずれのお話からも感じたのは、いままでに味わったどんなえげつない経験または感情も、結局は共に歩いてゆくしかないし、逆に共に歩いてゆくことができるんだ、というメッセージでした。

後悔だらけ、コンプレックスだらけの私ですが、それでも生きてゆける。進んでゆけるんだ。
そんな後押しをいただいた気がします。
勝手な解釈ですが、石川さんの考えにも通底するものを感じます。
ほんとうに、石川さんの周りには素晴らしい表現者の方々が集まります。

Nさん、胸震えるひとときを、ありがとうございました!
デキソコナイの私ですが、行進をやめないでよかったです。石川さんを通じて、こんな素敵なお話との出逢いが待っていたのですから・・・! (オポムチャン)

(寸評)本当にNさんこと蛭田直美さんの作品は素晴らしい。
まだオムニバス形式でしか作品が発表されていないが、早晩個人名義できちんと本が出る人だろう。
いくつもの伏線が見事に意外な結末でひとつになる。
身びいきではなく、久しぶりに本格的な才能のある新人小説家に出会った。
既に脚本の世界では脚本界の芥川賞とも言われる城戸賞も受賞したという経歴もうなづける。
俺もこれからも追っていきたい作家だ。 7ポイント。

はじめての神は鬼にもなるんです

昨年の夏の事。

後輩と二人で行きつけのラーメン店に行こうとしていたのだが、現地集合だったため一人で向かった。

その日は朝から大雨だったのだが、俺が歩いていた夜は傘いらないぐらい小降りに。

ところが、合流した後輩に即座に言われたのだ。

「西大路さんめっちゃぬれてはりますやん。この降りで傘持ってないんですか?」

「あーこれな。さっき、てっちゅうに真っ正面からぶつかってな。そしたら上から水がシャワーのように落ちてきたんや。こんなん気にする事はない!」

「そうですか。で、体の方は大丈夫ですか?」

「あー大丈夫やで。て言うか、きみは優しいなあ!」

「え、きみは優しいてどういう事ですか?」

「二週間ぐらい前のあの時な。おまえは居らんかったけど、相手の腕持ったまま俺は右わき腹をテーブルにぶつけたんや!」

「え、そんな事があったんですか!」

「でその時普通に見えてる相手は俺に何て言ったと思う?」

「大丈夫ですかとか、そんなんではないんですか?」

「「あたりすぎやし」と呆れた口調でな(笑)」

「え、あたりすぎってどういう事ですか。僕らのグループにそんなん居るんですか!」

「そんな真面目にとる事はない。その人な、俺にやったら何言うても大丈夫やて思てはるから(笑)」

「いやいや、西大路さんのような人にあたりすぎと言うなんて、そんなんありえませんよ。その人何歳ですか?」

「確か俺より2学年上やったと思うで!」

「じゃあ僕より14歳上になりますね。ますますありえないですよ!」

「いやいや、そんな真面目にとる事はない。やっぱりきみのレベルでは冗談にはとられへんかったな!」

「そんなん西大路さんのような方にそのような言葉は許せませんよ!」

「いやいや、俺らのこのグループにそんな悪人が居る方がおかしいで。これおまえ、誰が言ったかますます言われんやん!」

これをお読みの皆様には日本酒攻撃の話を思い出していただきましょう。いや、同時公開にしていただいてるかな?

その日本酒攻撃の時は、俺のすぐ左側のやつが日本酒すすめてきてたのだわ。

そして、右斜め向かいの女性が一瞬神様やと思えたと。

そして実は、俺のすぐ右に座ってたやつがそのラーメン食べに行った後輩なのだ。

神は鬼にもなるという事、その後輩はまだまだわからないようだ。

女は恐いよ! (西大路)

(寸評)実は俺も盲目の人にどこまで冗談が通じるのかその匙加減が完全には分かって無い。
なので是非「それは冗談になりまへんで!」があったら教えて欲しい。
ま、それも知りたいのでとりあえず遠慮なく突っ込まさせていただきますわ!(笑) 6ポイント。

はじめての牛小屋の話ではないのですが

小学4年の夏の事。

以前も何回か書いてるけど、俺は地元の学校には行ってないので、周りのやつは京都府内いろんな所から来ていたのだ。

長距離で通えない者は寮に入って週末や長期休みの時だけ自宅に帰るというのも居た。

なので、そんなやつに家に呼ばれると、自宅や周辺にはなかったりする物があったり、場所によっては泊めてもらった日の夜中に何も音がせずに、逆に寝られなかった事も。

今回はそんな話の一つなのだが、京都市内での話だ。

3年下の子の誕生会に呼ばれたのだ。会場はその子が住むマンション。

普通に街中にあるマンションですよ。近くには北大路通(京都市中心部の北部エリアを東西に延びる道路)が走ってたりする所。

ところが、昼間にマンションすぐ前の広場みたいな所で遊んでるとね、何か臭いんだわ。少なくとも飼い犬の臭いとかではない臭いが広範囲に。

俺の家の周りではこんな経験なかったので、「これ何?」て聞くと、

「この近くに養豚場があって、風向きによっては臭うねん!」

「こんな都市部に養豚場あるんや。こんなん田舎にしかない思てたわ!」

京都というか、関西の歴史的経緯を知ると、街中に普通にあることにびっくりしないはずなのだが、何も知らなかった小学4年の俺には衝撃やったー! (西大路)

(寸評)俺は子供の頃群馬に居た時は、もうさんざそういう臭いの中で過ごしてたな。
というかまだ肥だめが通学路の途中に普通にあった時代だったしな・・・。 5ポイント。

はじめての5本目の前歯

あれは中学2年の頃の秋口。
妙にその頃、上あごの前歯2本の真ん中すぐうしろ側に、チクチク違和感を感じるのでした。
なんかの魚の骨が刺さっちゃったのかな、そのうち溶けてなくなるか、と呑気に放置してみました。

どっこい、その違和感は消えるどころか日に日に存在感を増し増してゆきます。舌で触れるとしっかり硬く、手鏡で覗くと、白くてややギザギザしているのです。
こいつぁちょいと妙だ。こらなんぞ、とおかんに報告をしたらば、

「あんた、これは奇形の歯ぁちゃうか。歯医者さん行っといで」

とのたまいます。
えええええええええええ。そんなあほなことが起こり得るのか!?
だってだってだって、歯ぁもう生え揃ってるやん! しかも前歯の真ん中うしろって! そんなへんな歯ぁ邪魔やし! 要らんし!

「そういうことがたまにあんねん。ええから早よ行っといで、はい保険証」

・・・・・・・・・
どうも釈然としませんが、歯科助手ではないにせよおかんは元看護師。人の身体に関しての発言にはなんとなく説得力があります。私は自転車に乗り家から2km程の駅前の歯医者に駆け込みました。

症状を説明すると、受付のお姉さんはこともなげに

「あー、それは奇形の歯が生えてるので、抜きましょう。たまにそういうことがあるんですよ」

とのたまいます。
ひゃん、どいつもこいつもあっさりと重大な事をおっしゃるのね!!
まぁ、たまにそういうことがある、としか説明のしようもないようです。よく考えれば私はなにをするにも鈍くさい不器用なあほ、歯ぁサイドも身体や脳味噌と同じくあほであっても何ら不思議ではありません。
しかし突然の抜歯宣言。虫歯でもないのに麻酔を打たれ歯ぁを抜かれるなんて、1時間前には夢にも思わなかったので今さら動揺が走ります。されどそんなびびり中坊の戸惑いもよそに、歯科医は

「これだけ外に出てたら抜けますね。麻酔します」

とあっさり施術開始を宣言、ちゃっとレントゲンで確認したと思うや否やあれよあれよと上あご硬口蓋にグッサリ注射を刺し、その白いミニ突起の周りを少し切り、専用の歯抜きでぐりっ、と捕らえ、ずぽん、と根元から抜き去ったのでした。

ぽっかり、口腔内上あごに穴が開きました。小さな穴ですが。

抜かれた歯ぁは意外と長く2cm程度ありました。かくして私は石川さんのようなステキな2枚歯を形成することなく、左右どちらでもないセンター前歯を失ったのでした。今となってはなんだか勿体無い気もしてきますが、おそらく虫歯にはなりやすくなったでしょう。
抜かれた歯ぁは受付のお姉さんから渡され、どっかに大事に置いときね、なんて言われて持ち帰りましたが、じきにおかんがどっかへ紛失しました。アディオス、私の5本目の前歯。

そしてそのへんな歯ぁこそが私の変質性・変態性の源であればよかったのに、抜いた後も私は変わらずおかしな奴のまま。まぁこのまま私は一生へんな奴なのだろう、と穴の開いた上あご硬口蓋を舌でねろねろしながら物思いに耽った、思春期の秋の夜でした。あ、ちなみに穴はひと月も経てばふさがっちゃいました。 (オポムチャン)

(寸評)なんだよっ、奇形は残しておけよ。
そしたら奇形歯ブラザーズが組めたのに! 6ポイント。

はじめての高速道路をバック

予定の出口を通り過ぎて路肩をバックして戻ったという話を聞くが、俺が経験したのは1回だけ。

いや、この1回は貴重なのか?

それは6年半ぐらい前の事。

当時よく世話になっていた会社社長の運転。

京都縦貫道を沓掛ICから入って千代川ICで下りるはずだったのだが、

助手席の長男さんと喋る事に気をとられ、出口を通りすぎてしまったのだ。

それに気づいた社長、「あ、通り過ぎてしもた。これ違反やで!」と言って、簡単にバックして出口へ。

まあ、京都縦貫道で通行量も少ない事から簡単にできるのかと訪ねたところ、

「いやいや、名神で友達が出口通り過ぎよった時、2キロぐらいバックさせたったで!」

と、びっくりするような答えが。

しかしその通り過ぎた時乗ってこられてた車は、奥さんがメインで使っておられたいわゆる、ミニバンと呼ばれているタイプ。

「社長。やっぱり社長のセドリックでやって欲しかったですよー!」 (西大路)

(寸評)自分が免許も持ってないし車に滅多に乗らないので分からないが、高速でそんなにバックしてる車は見たことが無い・・・。 6ポイント。

初めての、仕事でビルの外観写真を撮っていただけなのに拘束されそうになるの巻

先日のことです。タイのバンコクで働いている私は、バンコク市内のオフィスビルの物件調査をするため外出していました。とあるビルの前に着くと、私は一連の手順どおり、まずデジカメでビルの外観写真を撮り始めました。そのあと建物に入り、ビルの管理人にいろいろ質問する予定でした。ところが、写真を撮り始めて30秒もしないその時、警察官がビルから出てきて私に声をかけてきました。「何を撮っているんですか?」 私は正直に「このビルに日系企業のお客さんを案内するために調査しています」と答えました。すると、「ここはプライベートエリアで撮影禁止です。パスポートを出してください」とやや詰問口調で言ってくるではないですか。仕方なく、パスポートを出しました。そして、デジカメで撮影したデータも警官の目の前で削除させられてしまいました。まだほんの数枚しか撮ってませんでしたが。ふと気がつくと、警官の隣に、サングラスをかけた柄の悪そうなカッターシャツの男が無線機片手に私のパスポートを手に取っていることに気づきました。わたしはちょっとカチンとして、「あなたは誰なんですか?」と強い口調で尋ねました。すると、「私はXX国の大使館員です」と答えました。どひゃー!!中東の某国の大使館がこのビルに入っていたんですねー。ちっとも知らなかった。今度はその大使館員が私に矢継ぎ早に質問してきました。いはく、あなたは日本人なのか。タイで何をしているのか。会社はどんな会社なのか。なんのためにこのビルを撮影したのか。うんぬんかんぬん・・・。みるみるうちに雰囲気が悪くなっていきました。私は何も悪いことをしている意識はないのに、うまく質問に答えられないと拘束されかねないような気もしてきました。短気で切れやすい私でも、某国に逆らって暗殺されたら嫌だな、と思い、その場はできるだけ下手に出るようにしました。もうちょっとで別室に連れて行かれるところでしたが、パスポートも労働許可証も会社の名刺も持っていたので、なんとか放免されて無事解放されました。その場ではなんともなかったのですが、社に戻ると、気が抜けたのか、急に心臓がバクバク鳴りはじめ、「怖かったー」とため息が 出ました。という、初めての、ビルの外観写真を撮っていただけで拘束されかかったの巻きでした。(波照間エロマンガ島)

(寸評)いやあ、本当に怖い思いしたね。
国が絡んで来るとマジで消される可能性だってあるからね。
俺もツイッターとかちょっと注意しよう。
でもつい書いちゃうんだよなー。怖い怖い。 10ポイント。

はじめての当HP投稿者さんの演奏会

  2014年8月の末。私は6月のホルモン鉄道のライブでお会いした当HPの投稿者である大阪在住のマンドリン演奏家の方から頂いたコンサートのチラシを手に、近鉄八尾駅へ降り立ちました。

  この演奏家さんは石川さんとセッションした楽曲も収録したCDをリリースしていらっしゃり、昨年大阪梅田で行われた石川さんのソロ、誰でもセッションライブでトップバッターを務められたという実力者であらせられます。石川さんファンの中には親しい方も多数いらっしゃるようですし、何よりクラシック音楽が苦手でたいがい寝てしまう私が楽しくて眠らず聴き切ってしまうようなCDを作られた素晴らしい腕の持主さん、これは是非一度生の演奏も聴きに行かなきゃ、と意気込んでいたのですが、我が家の冷蔵庫のホワイトボードの予定には、嫁はんの同窓会の予定がズバリその日に入っています・・・。
私には3歳前のぼうずが居るため、嫁が留守なら面倒を見なければなりません。半分八尾行きを諦めていたのですがそれでも日に日に行きたいなあという気持ちは募り、前日になって嫁に「途中退場覚悟でぼうずを連れて八尾の演奏会に行く」と宣言、演奏はきっとろくに聴けずに帰ってくるんだろうな、と少しテンションを落としていたところ、嫁の叔父さんがなんと急に休みが入り、ぼうずを預かって下さるとおっしゃるではありませんか!! 私は叔父さんに礼を言い、カバンも持たずに軽やかなステップで(傍から見れば暗黒舞踏のように)息を弾ませ会場に向かいました。てかどうでもいい上に長いくだりだな。  

会場は八尾市文化会館プリズムホールの5F。演奏場入口には私ももとめた石川さんとのコラボCDが販売されています。その前作はまだ未購入だったので早速お買い上げ。売り手の方に名前を聞かれましたがおそらく本名を伝えたところで当のマンドリンお姉さんには「誰?」と思われるだけでしょう。しかし・・・ 私はこの意味の解らないハンドルネームを売り手のおば様に伝える勇気はありませんでした(自業自得じゃ)。  

中に入ると席はすでにぎっしり埋まっています。さぁ何処に座ろか・・・ とふと最後列を見たところ、なんとこれまた6月のホルモンライブでお会いした作家&投稿者・Nさんと凄腕バンドマン・Nヤンさんに遭遇!! なんとも奇縁を感じます。お2人の表現者の隣に恐れ多くも座らせていただきました。  

そうこうしてるうちに会場は暗転、なんと我々の後ろからNさんの方をポン、と叩いて主役のYさんの登場です!
この4人、Yさん・Nヤンさん・Nさん・私は天満橋のライブのあと一緒に夜中に京橋まで歩いた仲です。石川さんのいらっしゃらない空間でまた同じメンツが集まった、なんて不思議な感覚です。さぁ、Yさんがまっすぐステージへ向かいます。
演奏はマンドリン独奏から始まり、ギターやフラットマンドラも加わりだします。お客さんを掴むために歌物も用意されています、Yさんの高く透き通る声はマンドリン演奏者でいらっしゃることを忘れそうなくらい素敵でした。そうそう、京橋のカラオケでも夜中の3時に「鐘の歌」を歌ってくださったんです。ああ、横ではNさんが石川さんのライブと同じように泣いている・・・  

花形のマンドリンは強くしかし柔らかく胸に響きます。ギターがしっかりと低音で支え、落ち着いたアルペジオで旋律を引き立てます。ああっ、リコーダーもいいいなぁ・・・! 語彙の乏しい私に相応しい言葉は見つけられないのですが、何というか、届く音をしているのです。私としてはありえないことに、今回のコンサートもCDと同じくまったく眠らずに最後まで聴き切ったのです! あほか、と言われそうですが凡百のクラシック音楽の前で私のとる態度はほぼ「寝る」のみなのですから。(まぁー横の席のNさんは共演者の方約1名がもひとつお気に召さないご様子でしたが私はああいうノリも嫌いではなく楽しめました。表現をなりわいにする方の批評の目の厳しさを垣間見て、凡人の私はさすがだなぁと感心しました。)ほんとうに、石川さんの周りには才能にあふれた素敵な方々が集まりますねぇ! あ、私を除く。  

演奏会は盛況のまま終了。飽きの来ないバラエティに富んだ曲目で最後まで楽しく聴かせていただきました。Nさんに「オポちゃんノッてる・・・」とおっしゃられる程、終始身体でリズムを取って音楽に身を委ねていました。幸せなひと時でした。
会場片付けを手伝おうとしていると、さらに投稿者のHさんに遭遇! 我々とは少し離れた場所で聴いておられたそうです。
すごい。石川さんつながりで知り合った5人が、石川さんのいない場所で集まった・・・! ひとえにYさんの魅力の成せる業でしょう。  

この素敵な邂逅を記念してステージで出演者の皆さんと記念撮影。後からどなたかのツィッター上で確認したらまた私の角度の気持ち悪いこと。あきらかに1人異常者が紛れ込んでる感が否めずへこみました。さておきホール内の喫茶店でYさんを待ちながら4人で演奏会の感想とたまトーク。ああ・・・ なんて幸せな空間。  

その後撤収が終わったYさんと近くの飲み屋で打ち上げ、これまた楽しいトークに花が咲きました。ハイレベルな表現者の皆さんに囲まれてろくなことを喋れない挙動不審の自分にほとほと嫌気がさしましたが、またもやNヤンさんから「本気でバンド組みましょう」なんてお声をかけていただき、至極恐縮でした。
またあの日のたまオンリーカラオケが忘れられず、お疲れのYさんを慮らずカラオケ行きましょう、なんて馬鹿なことを申し上げてすみませんでした。恥知らずな自分が今更許せません。
ネット上と違ってあまり喋らず、変態くさいことも言わなくておもろない私でしたが皆さんとご一緒で来て光栄でした。ブログもツィッターもラインもしないと決めているので、不躾ながらこの場をお借りして御礼申し上げます。  

Yさん、ご盛会おめでとうございました!
そしてこんな素敵な縁を与えてくださった石川さんに、大いなる感謝を! (オポムチャン)

(寸評)そうやってどんどん繋がっていくと面白いよね。
今度は「オポムチャン変態トークショー」をどこかで開催してくださいな・・・。 7ポイント。

初めての「何千円消えるか?諦めたけど!」

  以前に書いた、週末の長距離ドライブで一緒だったW。このWは、MやTから少し遅れて免許取得。 

しかしね、あれは王様の「話題2」で書いたかな?俺に、「ここの料金所のゲート何処や?」て聞いてきたというやつ。そいつこそがこのWですよ。それが答えられたら俺が最初から最後まで運転してるよ。 

まあ今回もそんな話。 

Wが住んでいる神戸灘から、兵庫県三木市へ行こうとした。 

実は前の日の夜テレビで、山陽道の三木SAの上り線側にあるシチューが美味いとやっていたのだ。 

で、Wと何処かへ行くという予定はあったのだが、具体的な場所を決めてなかったので、俺の提案で決定。Wの運転で二人で灘出発。 

しかし前にも書いたように、そのシチューは上り線側にあると言うのだ。これ、下り線側なら六甲山越えで神戸北ICから山陽道に入るか、阪神高速3号線から第二神明の須磨を通ってその先の分岐から北に上がるルートを選ぶのだが、そのシチューは上り線側。 

Wの運転レベルならどの道選びましょ?でもドライブの楽しみも欲しいなあ。 

てなわけで、阪神高速3号線から第二神明に入って玉津ICで下りて国道175号線を北へ。 

三木小野ICから山陽道上り線へ入るというルートにした。 

で、とりあえず須磨手前までは一般道路を走ると言うので、神戸市内走ってましたよ。さすがWの生まれ育った神戸市内。ここはそれなりに安心して乗ってたわ。 

そして、湊川入り口から阪神高速3号線へ。ここからは須磨まではすぐ。関西の人なら交通情報でよく聞くでしょ?「月見山」も通るんですよ。 

で、須磨料金所を越えてからね。うん?何かグネグネ曲がってるんよ。何回も第二神明通ってるけど、須磨から先せんなに曲がってはないよ。 

あ、ひょっとしてやりよったか?でもね、垂水の入り口までけっこうあるんよ、それなりに。しかし垂水の入り口に行くまでに出口はないんよ。 

そして、右へ大きくカーブさせられた後、やはり垂水の入り口あらわれましたー、やられたー。 

次の出口は淡路です。一区間走るだけで何千円か消えるんです。 

で、入り口で通行券受け取ったものの、ここはさすがW。料金所のゲートを俺に聞いてくるやつよ。道路端に車止めて事務所まで走っていきよりました。 

「すんません、第二神明走るつもりで入ってしまいました!」 

そしたらね。関係者専用の出口開けてくれるんですねえ。周辺地図ももらってきたんでしょう、 

「出してくれるって。やれやれ!」 

「おまえはヤレヤレかもしれへんけど、俺は常に冷や冷やじゃ!」 

そして、その関係者専用出口へ。下り坂ゆっくり下りて行きましたー、こんな道なかなか走れませんよ。 

当然、走った距離は短かったけどね。 

Wがさせてくれた貴重な体験でした。 

その後、無事に三木SAには到着し、シチュー美味かったー。 

ただ、10年以上前な上、最近三木には止まってないので、今はそのシチューどうなってるかはわかりません! (西大路)

(寸評)車乗らないからあまり分からないけど、ひとりだと電車と変わらないくらい高速料金とかかかることあるよねー。
やはり貧乏人は自転車がせいぜいじゃわいっ! 6ポイント。

初めての神様に思えた瞬間

  あれはいつ頃何処に書いたかな? 

好きになった事のある女性の話。 

俺が、「もし集合時間に改札出てきてなければホームから落ちたと思といて?」と言ったら、「あーその時は、わざとやってるとみんなに伝えるしね!」と言ってきた女性。 

こんなんなかなか居ないと思うのだが、今回もその女性の話だ。 

その女性(本人申告では俺より一歳上)を含むグループ10人ぐらいで飲んでいた時の事。 

俺は日本酒や焼酎が全くと言って良いぐらい飲めないのだ。基本的にビールしか飲めないのだ。 

ところが、俺の左側に座った4歳下の男のやつ。これがまた何でも飲めるやつなのだわ。しかも、やつは四国高知で鍛えられた経験があるため、乗りで飲み出せば止まらないのだわ。 

で、俺が生中何杯か飲んだところでその男のやつが俺に日本酒すすめだした。 

「はい一杯目ね。はいオーケー。ではつぎ。はい早く早くー!」 

実は座った時点で、えらいやつの隣になったもんやとは思っていた。でもこれが先輩であれば、「僕が日本酒無理てわかってはるでしょ!」と返すのだが、ここは4歳下(後輩という感覚は全くないのだが一応)という事もあり、一回は隣で飲みたいと思っていたのだわ。 

なので言われるがままに。 

ところが、二杯目が終わって次行こうかというところで、右斜め前からの恐ろしい声。 

「あんたらええかげんにしいや!」 

俺が日本酒無理とわかった上でこれを言ったかどうかはわからないのだが、この時点で日本酒攻撃はピタッと止まったのであった! (西大路)  

(寸評)俺も酒は好きだが日本酒だけ駄目。
二十歳の頃だったかひとりで一升空けたら盛大に吐いてそれ以来トラウマに。
ちなみに酒で吐いたことは数回しかない内のもっともヒドい一回だった・・・。 6ポイント。

はじめてのセクシャルハラスメントBYおとこ塾講師

私は中学一年生の冬に転校するまで、家の近くの学習塾へ通っていました。
すでに無くなっていた天六市場のほど近くにある電気店の入った建物の2階の、教室が5・6部屋ある中規模の塾でした。

中学校に入るまでは体操と習字くらいしか習っていなかったので、一体塾とは何をさせられる場所なのか、とハラハラした記憶が強く残っており、今でも得体の知れない塾に通わされよく分からないジャンルの勉強をさせられるという夢をしばしば見ます。

そんな「塾」の存在や意義さえも12歳にして理解できていなかった程に物事の理屈をことごとく無視して生きてきた私に、はじめに立ちはだかったのが数学でした。

えっくす? わい? ほうていしき? なんでゼットはつかえへんの? だいなりいこーる? ぶんしょうもんだいをしきにしてとく? なんでそんなことがかのうなの? はぁ?

大概ぽんこつな脳味噌の持主で、一般の方々が「普通に考えれば判ること」というものがもうぜんっぜんわかんない非普通人間の私、御想像通り早速塾のクラスの中でも取り残されることが多くなりました。
英語や国語はたいして勉強しなくても直感でさばけたのですが理数系はどうにもこうにもインスピレーションだけで挑むには限界があります。そんなわけで数学の時間にはよく担当の先生に直に教えていただくことが多々ありました。

デフォルトで痴れ者めいた面構えの私を心配してか、数学担当の副塾長のU先生は椅子に座って頭から煙を吹いている私の元へ何度も寄り添って丁寧に教えてくれました。

しかし。何度も何度もピッタリと通路から私の机に身を寄せて教えてくださる度に、私は左わき腹に違和感を覚えたのです。

どうも、U先生の陰茎が当たっている様子なのです。
しかも、なんだかすこし硬度を感じるのです。へなっとしてないのです。

初めはまさか塾の講義中にそんな不謹慎な、偶然だろう、と思い直していたのですが、先生が私に近づくたびに陰茎は存在感を増してゆきました。
これは確信犯だな。
と思いはすれどもそんな事言える空気ではありません。U先生は押し当てながらも真面目な調子で解の導き方を解説しています。細身で端正な顔立ちの40前後の男性です。ただ、ただ陰茎だけが奇妙なことになっているのです。

それにしても・・・ です。当時の私は今よりもっと贅肉多めの色白太っちょ、一般的な男性が性器をあてがいたくなるような存在では決してありませんでした。
小太り色白中坊フェチホモ、っておいおいどんだけマニアックな性癖やねん。

なるほどU先生も数学教師なんてかしこい頭してらっしゃるけども何のことは無い、私と同じ非普通人間だったのです。

幸いにして私は事件からほどなくして(この件とは関係ない理由で)転校、それ以上の変質行為は受けませんでした。しかし私の他の誰かも同じような目に遭っていたかと思うと可哀想でなりません。まぁその後発覚してクビになってたかもしれませんね、私は黙っていましたが。

いろんな大人がいるもんだなぁ、とあてがわれながらも胸中で冷静に詠嘆した、中1の私の記憶のお話でした。(オポムチャン)

(寸評)俺の通ってた個人塾も、ホモでは無かったが女子児童のオッパイさり気なく後ろから揉んでいた完全アウトのおっさんだった。
男子生徒には「河原にカーセックス観にいくか!」とか大変さわやかな先生だったが(笑)。
ま、今じゃ絶対逮捕されてるな。9ポイント。

はじめてのかおるちゃん(注・卑猥です)

なんじゃいこりゃ、とまぁ怒らずに聞いてください。
こないだ「チャットバー・ウキュピ」に調子に乗って参戦した際、同じ大阪在住のステキなお嬢さん(私の投稿を気に入られているというから失礼ながら世間的には変態の方の一種でしょうね)に、この子はオススメ! と存在を教えてもらったのが、タイトルの「かおるちゃん」です。
うら若い女子がグイグイ推してくるので、気になった私はチャットを終えて早速そのかおるちゃんを検索してみました。

かおるちゃんは映像作品もたくさんリリースされているソチラ方面の女優さん・・・? ということですが、女優さんと呼ぶには語弊があります。
何故ならかおるちゃんは陰茎を生やかしているからです。
厳密に言うと性別は男性で女装している、ということになるのでしょうか? いわゆる(何がいわゆるだ)男の娘、ちゅうやつですね。

ほたら何かい、ニューハーフやないか、とおっしゃるむきもあるかもしれませんが、まぁー定義が広いのでそう言えなくもないのですが珍しいのは一般的なニューハーフ女優? さん達が施されてるような手術・ホルモン投与をいっさいおこなっていない、ということなのです。紹介記事にやたらとノンホルノンオペ、との記述がありますがホルモンとオペ(手術)無し、ってことなのね。

早速見つけた露骨映像ではなるほど、ホルモン投与がないという証拠か胸部がフラットです。
どっこい、お顔はまぁ見ようでは男性の面影もなくはないですが、相当美形の部類です。
しかも声がまた可愛い! 相当なトレーニングを積んだのではないでしょうか?
そんな男の娘が、セーラー服きて、スカート正面からピンッピンの陰茎をしごかれ、かわいらしい喘ぎ声をあげるのです。

普通のおっさん同士のホモビデオでは無理ですが、このかおるちゃん、男同士のカラミで私を興奮させるに値する男性でした。

えーとその後の露骨映像の展開はあまり詳細を書くと問題があるのですが、挿してOK挿されてOK、挿すのは男女いずれもOK、顔良し声良し陰茎良し、とこんな生命体を見たことはありませんでした。さすが大阪在住ステキなお嬢さんが推してくるわけです(調べると、女性のファンも非常に多い女優? さんだそうです)。きっとあんな人物を目の前にして耳元で甘く囁かれたら、私は同性でありながらも例の立派な陰茎をご奉仕してしまうかもしれません。ともすれば、奪われてしまうかもしれません。何をて。そらあれですがな、Aの操を。
ともかく他人の陰茎がいとおしいと思えたのは、これが初めてのことでした。恐ろしい。恐ろしい子!

嗚呼。37の夏の終わり。私はまたひとつアブノーマルな性的興奮の対象を増やし、より変態の濃度を増してゆくのでした。それもまた人生。〇△子ちゃん、ステキな情報ありがとうございました(笑)! (オポムチャン)

(寸評)俺もちらりと画像を見たけどかわいいねぇ。
でもそれで終わらず動画までいったのは流石の行動力。
俺には度胸が無いのでそのブレイブで今後の性癖の変化をつぶさに報告待つ!
変態道は奥が深いの〜。 7ポイント。

初めてのガム?

小学5年後半から6年前半にかけて、外を単独で歩けるように歩行訓練を受けた。
そしてそれがある程度認められると、盲学校では通学で往復乗っていたスクールバスに乗る回数を徐々に減らされ、中学になれば雨が降ろうが槍が降ろうが(笑)、単独通学へと移行させられるのだ(今はどうなってるか知りまへん)。
同時に夏休みや冬休みなど、補修授業や音楽発表の練習などと言われ、登校させられる事も増えたのだ。
社会人になれば、休みたくても休まれへんようになるのに、学校の長期の休み期間に登校させるてどういうことやねん?
部活や受験のために登校してる皆様ご苦労はん。なので、おっちゃんは部活ほど嫌いなもんはなかったんよ。でも好きでやっているみんなを応援はしてるからね(特に野球部と柔道部のみんな)、頑張るんやで!

さて、単独通学が普通になってきた小学6年の夏休みの話だ。
あれは昼間だったと思うが、家を出て暫く歩いて、西大路通(京都市中心部の南北幹線道路の一つ)の西側歩道を北に向かって歩き出してすぐの事。
真っ正面から来た自転車のブレーキ音とともに、右手に持っていた杖に軽い衝撃が。
はーい、よく聞かされていた、「チャリに杖ひっかかったり踏まれたりして曲がるというやつ」、これですよこれ。初ですよ。
しかしよく触ってみると、折れ曲がった部分はもうグチャリと。これ引っ張ったらちぎれるやろうと思って引っ張ったらはーい、ちぎれました。まあ、噛み潰したガムの様に(笑)。
いやまだこの部分、甘い何かつけたらガムとして再利用できるのではないかと思いながら。
ちなみに視覚障害者が持っている杖もいろいろあって、一番わかりやすいので言えば、折り畳める物と単に真っ直ぐの物。あと、素材もいろいろあるようだが詳しい事は知りまへん。
で、俺が当時持っていたのは折りたたみはできないやつ。でもあれ持ちやすかったのだが、衝撃に弱いと後で知ったのだ。
で、その時は折り畳める杖は持ってはいたものの、鞄に入れていなかったため家にとりに帰ったという話でした。
さてこの話を読まれた自転車利用者の方は、恐いと思われた方多数だと思う。こんな時の一番良い対処法書きたいのだが、続きはDMか直接お会いして話しましょう。実に簡単なのだが、ここにはよう書けまへん! (西大路)

(寸評)えっ、えっ、何だろう? 気になるー。
実は我が家の近くにも福祉訓練センターがある為、盲人が非常に多いのだ。
気をつけてはいるが、いざという時の為に教えてもらうと有り難いっす! 7ポイント。

初めての指輪?

「元カノの話かよ」て言われそうだが、3年つきあった内の後半は、俺の家から歩いて20分ぐらいのワンルームで一人ぐらししてたのだ。そんな時の話。
夜10時半すぎてから、これは何かあった、緊急事態発生というような声で電話してきたのだ。

「もしもし、なくなった!」

「何やねん?」

「いやそやからなくなった!」

「そやから何やねん?金とられたんか?」

「違う」

「じゃあ身体に何かされたんか?俺今から行こうか?行ったとしても全盲二人で何かできるわけやないから今喋れる範囲内で言えや!」

「いや、来なくて大丈夫」

「それやったら何や?」

「はめてた指輪がなくなった。部屋の中にはあると思うけどないんよ!」

「何や、指輪なくなったんか!」

「何や指輪かってどういうことよ?」

「その声聞いてたら何かされたんかと思ってしまうような声やないか!」

「部屋でなくしてると思うから見つかるかもしれへんけどない。どうしよう?」

「出てけえへんかったら買うしかないやん。それよりも何か危害加えられたとか、帰ったら部屋とかベランダ荒らされてたとかは?」

「それはない!」

「ほんまやな!」

「はい」

「わかった。じゃあまた明日な、おやすみ!」

「ありがとう、ごめんね!」

ほんまに指輪がなくなったのかと思ってしまう話ではあるが、被害や危害はなかったようで安心したけど、12月の風呂上がりの夜の事。ほんまに冷や汗出ましたわ! (西大路)

(寸評)てっきり「アレが無い」即ち出来たのかと思ったが、西大路はやってなかったんだっけ。
まぁそれでも出来たらもっと問題だけど! 7ポイント。

始めての「あ、死んだな」

これ本当の話ですよん

それは、小学5年の12月7日の事。
その日は友人が前の日から家に泊まりに来ていた。朝はその友人も一緒に、同居する父方の祖父と一緒に遊んでいたのだ。
ところが、昼ぐらいから何か俺自身の身体が重いのだ。だるいとかではないのだが重いのだ。
何やこれ?でも何やわからん。何か不思議な感覚だったのだ。
で、夕方になり祖父が母親に言った。
「何か風邪みたいやわ。調子悪い!」
「じゃあ入院しますか?」
おいおい、いきなり入院かと思われた方多数だと思うが、それを聞いた瞬間俺の中では、明日と明後日は学校休みと。
実は同じ頃、当時大変世話になっていた方の家に親父が用事で行っていたらしいのだが、
「あなた今夜忘年会やて言ってはるけどね。今夜は車で行ったらあきませんで。ぜったいでっせ!」
と、恐ろしい目と口調で言われたというのだ。
そしてそれから暫くして、遊びに来ていた友人のご両親が迎えにこられ、「今夜は西大路君が家に来て、明日はそこから学校行ったら?」と言ってくれたのだがお断りし、友人は帰っていったのだ。
そしてそれから1時間ぐらいたった頃に祖父が、「体温計かしてくれへん?」と言ってとりにきたのだが、
おいおい、これほんまにやばいで。先に死んだ祖母の死ぬ前と同じ声やん。でも違うのは、祖母は長期入院、祖父は自宅。これ当然母親気づいとらん。
そして20分後に母親が、「どうですか?」と普通に尋ねようとしたのだろう。しかし、
「あんた、お爺ちゃん呼吸おかしいわ。いやほんまにおかしいわ!」
言われた瞬間背筋がぞくっとした。
あ、死んだな。でもそんなんいきなり言われん。でも間違いない。
俺は確信したのだが、母親は当然あわてている。
で、忘年会会場に母親が電話、消防に電話、上にも書いた知り合いの方に電話。どの順番で電話してたかは覚えてない。 タクシーで帰ってきた親父は祖父を見て叫ぶ。
「死んでる。死んでる!」
「嘘やん・」て母親。
そんなわかってる事叫ぶなよ。でもそんな事口には出されへんけど。
そして救急車到着。病院へ運んでくれるようだがやはりどうする事もできないようだ(心臓への電気ショックはやってくれてたと後で聞いた)。
そして、そんな事やってる間に親戚が来たのだ。上に書いた知り合いから言われて来たというのだ。
あ、そう言えば警察も来てたわ。医師が居ない自宅で死んだ場合は警察が来る事を、その時家族全員初めて知ったのだ。
そして暫くして俺は、上に書いた知り合いの家に親戚に連れて行かれたのだ。
「あーきたきた。お寿司あるからいっぱい食べて行ってね。そして帰りはおっちゃんと真っ直ぐ家に帰るのよ!」
あの時の寿司は美味かった。祖父には悪いが美味かった。
で、ひたすら食べて帰宅後暫くすると、親父グループが帰ってきた。
足音でわかる。やはり死体は重そうやのう。しかし殆ど何も苦しまずに死んだのう。俺もあんな死に方したいわ。
祖父の死因は、心筋梗塞であった! (西大路)

(寸評)多分健常者では気づかない独特の感覚、嗅覚とかが研ぎすまされるんだろうね。
俺に会った時に俺が近々死ぬ感じを覚えたとしても「あと3日だよ!」とか教えなくてもいいから(笑)。10ポイント。

始めての西大路駅に車横付けできますか?

京都市内から滋賀県甲賀市信楽まで行く場合、鉄道好きや学生でない限り、車組に電車組が分乗させてもらうというのが大半だと思う。実際に俺も信楽まで鉄道を使って行った記憶が、小学3年の時の学校行事で行った一回だけだ。しかも、新名神が滋賀県草津から信楽まで開通してからは、本当に近くなった。それだけ、鉄道を使えば大回りなんだわ。

まあ俺が鉄道で信楽まで行く事はなかなかない、用事もないと思っていたのだが、これ完全になめてましたね(笑)。いや、今回の話は信楽に車で行った話ではないのだ。

実は、街中や駅前などで、全盲だけのグループとドライバー単独移動の車組との合流が、これなかなか大変なんだわ。

普通に考えたらわかっていただける事なのだが、全盲は相手の声や、肩や腕などをたたかれて初めて、その人の存在や、自身に向かって発せられてるという事を認識するのだ。なので、相手が車の場合、窓から叫んで聞こえるぐらいまで近づくか、車から降りてきて喋りかけてもらった時点で、合流と言えるのだ。

よくある事は、京都駅などの大都市の主要駅にお互い時間通りに着いてはいるのに、駐車場に困って10分以上も合流できなかったり、車組が言ったのとは反対側の歩道に居たため呼び寄せるのに苦労したなど。特に、ドライバーから相手が見えてるのに呼び寄せるのに時間がかかると、ドライバーの性格によってはパニックをおこして思わぬ事故にもなりかねないので、全盲側も相手の性格や運転レベル、合流地点の状況を把握しておく必要があるのだ。

前置きが長くなったが今回はそんな話だ。

昨年10月、全盲の先輩と俺の家の最寄り駅のJR西大路駅に降りた時の事。この先輩の最寄り駅はぜんぜん違うのだが、中途失明という事もあり、俺と比べたら歩くのが苦手なのだ。なので、京都駅で一人で乗り換えて帰るより、西大路まで奥さんに迎えに来てもらう方が良いというので、一緒に降りて奥さんを待つ事に。

「先輩!奥さんこの駅前に車入る道わかりはりますかねえ?そうか、西大路通の西側歩道で、東海道線の線路の南か北か、どっちに止めはりますか?」

「うん、どっちに止めよるかなあ。ちょっと聞いてみるわ!」

そして電話の後、

「とりあえず線路の南側の西側歩道に出て!」

で、言われるように向かおうとしたのだが、

「悪いなあ、線路下潜って北側に出てくれるか?」

で、今度は線路下を潜ろうとした所で電話。

「ナビで駅前に入る道見つけよったみたいやし、駅まで戻って。すまん。この駅は西大路通には面してへんのか?知らんかったわ!」

「すぐ側西大路通なんですけど面してへんのですよ。僕が駅前に入る道言えたら良いんですけどそれも言えません(泣)て言うか、先輩の治療院10何年研修で通ってるのに車でナビはできません!」

「確かにおまえ、国道や高速道路は詳しいけど、京都市内のナビは自分の家から名神入り口ぐらいしか言われん言うてるもんなあ!」

「こんな一方通行だらけの所のナビはいやですよ。さすがに自分の家は言えますけど(笑)、僕のナビで市内移動はバスか徒歩でお願いしまーす!」

そしてそんな事喋っている間に、車のドアの開閉音とともにこちらに向かって走ってこられる足音。

「来られましたね!」

そして、綺麗な声ですぐわかる。いや、実際に美人(後輩証言)。でも3人の子のお母さんすごい。

という事で無事合流後、すぐ近くの俺も家まで送ってもらった後、先輩夫妻は無事帰宅となったのであった。

奥さん、ありがとうございまーすm(_ _)m  (西大路)

(寸評)そうだよね、思わぬ些細なことが大変だったりするよね。
いろいろ勉強になる。ありがと! 7ポイント。

初めての「今から2時間後に迎えに行くし準備しといて!」

短大の時のサークル仲間からの電話だ。卒業して2年はたっていたとは思うが、週末になると同級生の家によく集まっていたのだ。で、その日は金曜の夜9時頃。2時間後やから11時頃の迎えか。

よっしゃ、風呂入って歯みがいてなんやかんやしてる間に迎え。

「さあ行くで!」

「何処行くんや?」

「わからん。とりあえず京都南から名神入るわ!」

ついに俺にもこの旅の誘いがきたな。こいつら先週末は福岡行ってたんよ。今夜はどこや!

その日は俺を含め4人。友人の一人が借りたレンタカーのデミオで出発。運転手は二人。

さあ、大阪?名古屋?さーさー、名古屋て言いながら京都南から名神へ。

「おまえら先週もこんな感じで走ってたんか?」

「あーそうや。こんなんの方がおもろいやん!」と運転手T。

「ははーん、俺は知らないんですがのう!」と隣のW。

「そうや、Wも今日が初めてやのう!」と助手席のM。

「俺も西大路と一緒で呼び出されたわい!」とW。

何かね、何カ所かパーキングエリアに止まっていったのだが、はっきりと覚えているのは静岡県の浜名湖サービスエリア(sA)と、牧之原SA。

浜名湖SAて確か、下り線側に全てのSA関連施設があるやん。そこ出る時にTが、「これで上り線に戻れてるんか?俺逆走してへんよな!」とアワアワしてたんだわ。

おいおい、逆走だけは止めてくれよ。頼むで!

牧之原SAでは、車内で寝てた記憶しかない。

で、朝6時ぐらいだったと思うが出発。ところがここで大変な事に気づく。当時はETCがまだない。で、4人全員の残額をかき集めても、これ以上走れないという事が判明。

「ATMまだ開いとらんよなあ!」と、助手席に移ったT。実はこの4人の中で、Tだけが唯一働いていたので、金銭的にも頼りだったのだ。

でとりあえず、清水ICで無事に一般道へ。1号線の清水から由比から蒲原ぐらいまで?もっと先まで?

この日はめっちゃ晴れてたようで、海沿いという事もあって気持ち良い。しかし富士市内まで走ってまた相談。

「何処行く?」と全員が言う。

「サティアン見に行こうや。国道139号線に入って上九一色村や!」と俺。

「139やな、行くで!」と、運転手M。

ところが、上九一色村(今の富士河口湖町)に行ったところでサティアン見つかるわけない。いや、あるかどうかもわからん。もうないやろ、言ってはみたものの。

まあとりあえず上九一色村には着いた。で、温泉に入りたいという事で、下部温泉へ。

でも、上九一色から下部までの道がこれまた恐い。と言うのは、運転手Mは免許を取ってまだ数ヶ月しかたってなかったんだわ。

まあ、無事到着して温泉へ。「めっちゃ気持ちええ。次は伊豆半島で温泉や、温泉めぐりや!」とT。

「じゃあとりあえず沼津めざすんや!」と俺。

よく考えたらナビはついてないし地図ももってない。ようここまでたどり着いたもんや。しかもここからまた次の伊豆半島行こうとしてるし。

まあ、ATMでTが金を引き出していたので心配はなくなってたため、いやでもMの運転は心配。でもまあ先ほどの道を上九一色まで戻って139号線、西富士道路、東名富士から一区間だけ走って沼津へ。

しかし、土曜の昼って沼津IC出口渋滞してますなあ。そして、下りてからの一般道なかなか動けへんやん。さすが伊豆半島への道。

「これ、伊豆半島行くより場所変えた方が?」とT。

「Mの実家の神奈川県やったら1号線のまま行けるやん!」と俺。

「はいよ。じゃあこのまま箱根峠越えて小田原でも行くか!」とM。

てなわけで、伊豆を諦めて小田原へ。しかし俺らここまで何キロ走ってるんや。しかもこんな無計画旅。

そして、なんやかんや言いながらもMの運転で小田原到着。すんまへん、歴史はこれでもかと言うぐらい苦手でよくわからんかったけど、小田原市内に車止めて歩きましたわよ。MとTは好きなんだわ。

「ははーん、こんなもんですか!」と、Wのおきまりのせりふ。やつのこのせりふ、悪気全くなし。もうなれたよ。

で、小田原を出た俺らは今度は国道134号線。以前からよく渋滞するとは聞いていたが、ほんまに混んでますなあこの道。

で、あまりにも渋滞してるので、1号線に戻ってMの実家がある横浜へ。とは言っても実家には全く寄らなかったんだけどね。さすがMやわ!

まあどうしようかと言いながら、Mの友人に電話で呼び出し横浜市内へ。

「そんな旅してるんかー!」て言われながら運転変わってもらい、5人で横浜市内ブラブラ。

この時点でもう夜近くになっていたためまずはファミレスで晩飯。

「橋上がるか?湾岸線で羽田でも行くか?」とMの友人。

「お願いやから湾岸線180キロで走るんは止めてくれよ」とM。

「大丈夫大丈夫」とMの友人。

結局男5人で行った所は山下公園。いやいや、雰囲気完全にぶち壊しにきたよなあ俺ら。まあ許してくれたまえ!

てなわけで山下公園に行った後はそのMの友人を家まで送って今度はTの運転で関西に戻るつもり?

でもさすがにね。もうこの時点でもう深夜近くになってたんだわ。疲労を隠せないんだわ。

それが証拠になぜかね、横横道路に入っててまたそれに気づかなかったんだわ。で、あせりだしたT。

「ガソリンやばいって。ガソリン!」

「まじで?」と俺。

「一般道に下りてはきたけど真っ暗。これほんまやばい。何処やわからん!」とT。

とりあえずまっすぐ走った。でね、あと何キロかで止まってしまうようなレベルまでガソリン減ったところでスタンド発見。

いやー、ほんま助かりました。どないなってた事やら!

しかしね、真っ暗の深夜の道。ここ何処や?

「とりあえず134号に入って大磯向かえ」と俺。

「何や?その134が何処やわからん。M寝とるなあ!」とT。

まあさっき走ってた何号線かわからない道を戻ったらどうやってその表示見つけたのかわからないが、

「厚木方面129!」とT。

「よっしゃそれ行け。で、東名厚木が出てきたら完璧や!」と俺。

で行ったら何とありましたわよ、東名厚木Ic。いやーありましたわよ。

「名古屋方面、名古屋方面!」と俺。

「おまえが言わんかったら東京方面入ってたわ、やばいな!」とT。

そしてついに俺が力つきました。朝8時の浜名湖SAまで記憶ありません。よく聞いたら、足柄と浜名湖で長く止まってたらしい。

さあここからよ。

「ところでT!今日はYねえとのデートは?」と俺。

「あーあるよ!」とT。

「何時に何処や?」と俺。

「10時に出町柳」とT。

「おまえここ浜名湖やで。今8時やで。先週も同じような事言ってたやないか!」とM。

「はー、やれやれ。またですか。Yねえようこんなん相手してはりますなあ!」とW。

「ほんまや!」とT。

「そやから俺みたいなんが一番ええんよ。京都でデートかこの旅か。被ったらやはり俺はこっち来る!」と俺。

「おまえのそのせりふは単に強がってるだけやないか!」とT。

「おまえと違って俺は彼女できたら一筋やで!」と俺。

「それは俺も一緒や」とT。

「ははーん、今度Yねえに会ったらばらしましょかねえ?」とW。

「お願いやからそれは止めてくれ」とT。

実はこの時のTの彼女は今の嫁。そして、Tは今は北河内のある市の市会議員なのだわ。ここまでなる事を予測して彼女はTを選んだのか?

しかし有権者の皆様、選挙はよく考えて投票しなはれや。

「まあこんな事言っててもしゃあないし出るで!」とM。

そして2時間半後。さすがに出町柳朝10時は無理だったものの、しっかり京都市内走ってたのだわ。

そして次の土曜日の夕方にTから電話。

「また先週みたいに2時間後ぐらいに迎えに行くし準備しといて!」 (西大路)

(寸評)はははーっ、行く当ての無いドライブ面白いねー。
俺も20代の頃は友達の車で毎週のように行き先不明のドライブしてたなあ。わざと道に迷ったりして。
でも流石にこんな長距離は走らなかったな・・・。 7ポイント。

はじめてのオープンザドア(下品・閲覧注意)

  最近あらたな初体験があんまりないなぁ、てなわけで憶えてる限りの遠い遠い記憶を遡ってみましょう。おっあったあった、わーまたこんなネタかよ、ごめんなさい。

  あれは私が3歳だったか4歳だったか? 幼稚園の年少さんであったことは憶えています。
黒の四角い幼稚園帽に水色のスモック、真っ黄色のかばんを提げて1歳半離れた兄貴と毎日元気に登園していました。元気でしたが私はすでにこの頃から周りの愛情が自分から私へシフトしたことに嫉妬した兄貴に暴力によって支配されており、心には早くも諦念のような空疎な感情が生まれていました。いやぁ懐かしいなぁ。まあそんな薄暗い話は置いといてっ。

  年中・年長さんがいる大きな建物から少し外れて、年少クラス「もも組」の学舎は建っていました。
教室は全体的に薄暗く、お兄さんお姉さんクラスと違い床にじかに座り込める様式になっていました。壁には帽子やかばん・水筒を掛けるフックがずらり、本やおもちゃもあった気がするのですがそこは憶えておらず、その頃から粘土でアルファベットを形成して先生を仰天させていた厭なガキでした(たださすがにJは“し”になっていましたが)。

  さてその教室の横には教員室と、和式便所が2つありました。
当時はあまり水分補給なんてうるさく言ってなかったのか、水気を積極的に取っていた記憶もなく、私は年少さん時代は園の中で用を足した記憶がほとんど無いのです(実際は頻繁に行ってたのかもしれませんが)。

  そんな私、珍しくトイレに行こう、と左側のドアをひらいたところ。
私から出席番号のいちばん遠い、ヨコヤマさんが背を向けてしゃがみ込んでいました。

  なにをしてたのか、って、そりゃ大きい方をなさっていたのです。

  和式の便壺には立派なものが鎮座ましましており、私は見た瞬間、大ぶりな亀を連想するような形状でした。
私自身そんな形のものを生み出したことがなかったので、一瞬の出来事だったのですが鮮明に脳裏に焼き付いているのです。
扉を勢いよく開けた私に気付いたヨコヤマさんは、その顔に、にやり、と笑みを湛えていました。
髪型を含めて、小林よしのり先生の漫画「最終フェイス」の主人公をちょっと愛想よくしたようなお顔でした。  

てっきりこの非礼を怒鳴られると思っていた私は亀とにやりのダブルインパクトに恐怖のようななにかを感じ、勢いよく扉を締めました。この間、約1秒。  

私は何事もなかったように右側のトイレに入り、小便を垂れました。
それまでもその後もお互い一度も会話をせぬまま、私とヨコヤマさんは園を出て、違う学校へ進みました。  

それにつけても、亀。にやり。
ふたつの謎は、いまだ解明されないまま、私の脳味噌の隅っこにわだかまっているのです。(オポムチャン)

(寸評)久しぶりにその幼稚園に行ってみてご覧。
もしかしたら大きくなったヨコヤマさんともっと大きくなった亀を抱えてトイレの中でにやりと君を待っているかもしれないよ・・・。8ポイント。

   

はじめてのおいてけぼり

  遠〜い遠〜い記憶の淵へ潜り込んでみると、なにやら2歳か3歳かの頃の記憶がもよもよと涌き出てきました。  

私の通っていた大阪市大淀区(当時)のO幼稚園のすぐそばに、町中にしては比較的広めの公園、通称パンダ公園がありました(御察しのとおり、パンダの絵が付いた大きな滑り台があったが故のど直球ネーミングです)。  

私は母に自転車のうしろに乗っけられ、そのパンダ公園へ連れてこられました。
兄貴と私の世話をしながら家の用事も全部こなさないといけない、忙しい母。この時期だと下手すると弟をお腹に宿していた頃、もしくは生まれて間もない頃かもしれません。
母は私を公園のコンクリートのお山のてっぺんにちょこんと置くと、

  「あんた、ずっとここに居りや」

  と言い残し、自転車で去っていきました。

  私の幼い脳味噌は、

  「あんた、お母さんはあんたをここへうち捨てて行くから永遠にそこに居続けや」  

と、解釈しました。  

わぁぁぁぁぁぁぁ。わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。何ということだ。突然の別離。兄貴がよく私を邪険にすることからもうすうす感じていたが、やはり私は不要な存在だったのだ。わぁぁぁ。わぁぁぁぁぁぁぁ。  

がきんちょのおつむでそんな表現はできようもないですが、私の感情を大人の言葉で表すとだいたいそんなとこだったでしょう。  

私は悲嘆に暮れ、これでもかと泣き叫んで立ち尽くしました。
すると周りで遊んでいた子供らが、何事ならん、と駆け寄ってきました。
「どうしたん? おかあさんがいなくなったん?」
「だいじょうぶやで、すぐかえってくるわ」
おそらく5〜6歳の女の子らが、私を慰めてハンカチで涙を拭います。
「おかし、たべる?」
現金な私はころっと泣き止みました。

  それでも母が去ったことを思うと時折嗚咽し、これからどうしていいのかさっぱりわからない暗澹とした気持ちになってきます。そんな私を心配したちっちゃな保護者たち(今から思うとたぶん親御さんも近くに居た)になだめすかされつつ、私はただ時の流れに身を任せました。

  私の中では長い長い時でしたが、もしかすると10分程度だったかもしれません、母がようやく戻って来た時は私はふたたび大泣きしながら母の元へと駆け寄りました。怒られたような、詫びられたような、何かを言われましたがそこは憶えていません。

  この事件が契機になったのか、その後も私は「待ってろ」という言葉を言われるとあらぬ方向へ曲解し、遠くの場所から自力で帰宅しようとする騒ぎを何度も起こしました。
・・・てか、よく考えたらけっこう放置されとってんな、俺。今やったらちょっと問題になりそうやけど・・・。そんな時代でした。(オポムチャン)

(寸評)俺も三人兄弟の長男だったから母親が弟の世話に忙しくよく放置されてた。
なので一人遊びが今でも好きっす。
いろんな意味の一人遊びが・・・。 7ポイント。

はじめてのいやーびっくりやった

  俺は、写真は正直どちらでも良い。いや、どちらかと言えば興味がない。と言えば、「ツイッターやミクシーで写真付きの投稿してるやん」と言われそうだが、その写真をねたにみんなでやりとりができたらと思ってやってるだけ。 

こう書けば、「時々自身も写してるやん」と言われそうだが、その時のメインは訪れた場所で、飲食店での写真付き呟きに俺が写っている写真は殆どない。その店の食べ物だけだ。 

最近母親が家のアルバム整理をしていたのだが、横に居た俺は「めんどくさ!」と言ってしまったぐらいだ。 

また、高校の卒業式の後の集合写真は「金払ってまで写真はいらん」という理由で買わないつもりだったのだが、母親に金わたされて仕方なしに買ったぐらいだ。 

鍼の学校の集合写真は、「写真の申し込み少ないから買ってくれへん?」と先生に言われ、しゃあないなあと思って買ったぐらいだ。 

実は、普通に見えてる親父も俺ほどではないが似たような者で、これはどうも遺伝のようですな。 

しかし、短大の卒業式の日は少し違った。いや、母親にカメラ渡されて持って行ったので、これがなければ普段通りか? 

昼からの卒業式だったため、朝はサークルのボックス直行、後輩や先輩にカメラ渡して撮ってもらった。先輩? 

いや実は、俺が行った短大は、四大の中に静かに存在するのだ。それが証拠に、入学後何日かしてからの事。四大の学部の同級生に出席カードを書いてもらう機会があって学生証を渡したところ、「この大学こんなコースあったんや!」と言われたぐらいだ。 

しかしながら、サークルは四大のメンバーと活動するのだ。なので、先輩より後に入学した俺が、先輩より先に卒業する事があったのだわ。 

で、朝はサークルで撮影会その他諸々、昼からは卒業式に出席後、卒業証書をもらってから謝恩会会場へ。さあここで俺はやってもうた。カメラを入れた鞄をロッカーへ。やってもうた。でもまあええわ。俺の卒業式てこんなもんこんなもん。 

そして、飲食と同時に撮影会も勿論始まっていた。俺がいた学科は、全人数162人中男13人しか居ないという、そんな状況がどんなのかがわかっておられない方からは「何という羨ましい所なんや」と言われるような所だった。 

しかも、大半の女子が俺がどんな性格かをわかってくれていたため、ひっついてくるやつは居るは、俺の前でもシモネタ言うやつは居るはというような、個人的には楽しい所だった。しかも、基本的に男も含めみんな良いやつばかりだったので、殆ど何の支障もない二年間だった。 

一番困った事と言えば、「授業はちゃんと出てるし前で聴いてるし真面目やなあ」などと言われる事だった。 

点字使用が俺一人な上黒板の字見えへんかったら前で聴くしかないし、一回欠席するとそれだけで支障がでるやん。それは少し考えたらわかる事やで。 

まあそんな状況でも、隣の友人に黒板の字読んでもらってノートとっていたんだけどね。 

そんな事を思い出しつつ話しつつ、会は進んでたのだ。そして、一時俺の周りから人が消えたところで声かけてきたのが居た。 

「写真撮って?私Iです!」 

以前書いた、同じゼミのI。ゼミの共同レポートで原稿読んでくれたI。レポート作業の時は好きになりかけていたI。 

こいつ大丈夫か?いや、Iですらこんな事言ってくるぐらいやから、よっぽど俺は当たり障りのないやつなんやなあ。 

いや、これは変。何があった? 

そんな事思いながらボーッとしている間に「ありがとう」と言ってIは去っていったのだ。俺の左側に並んだツーショットを撮って去っていったのだ。 

いやー、こんなタイミングなんて、後にも先にもないで。当然写真送ってきたら即刻電話しようと、そりゃ当然でしょ。 

そしてその日は頭の中はその事ばかりだった。しかし何ヶ月たっても写真はもらえなかったのだ。いや、結局もらえなかったのだ。写真はしっかり写っていたらしいのだがもらえなかったのだ。 

実は後でわかった事なのだが、その同級生Iは同じグループのKと俺が良い関係になると勘違いしていたのだった! (西大路)

(寸評)あの、素朴な疑問なんすが、目の不自由な人って写真撮っても自分では見られないよね?
でも周りの人の思い出として必要なのかな。 7ポイント。

初めての韓国人とともにライブ

7月下旬、渋谷で柳原さんのライブがあり、完全帰国後、初めて行ってきました。
ライブにはいつも自分1人で行くのですが、今回は連れが2人いました。
首都圏近郊に滞在していた、韓国人の知り合いのお嬢さんと、その彼氏でした。
2人とも日程が大丈夫だったので、一緒に見に行かないか、と声をかけて、ライブへ足を運ぶことに至ったのです。

開演2時間前にヒカリエで待ち合わせ、ドトールで軽食を取ってから、ライブ会場へ。
今まで、家族や同じファンの知り合い同士でライブへ行った事こそありましたが、まだ一度も聞いたこともない、しかも韓国人を連れて行くのは初めてで、どんな反応があるか、不安且つ楽しみでした。

ちなみにこの日は、挙手制リクエストで曲目が決まるライブで、見ているほうもドキドキ。
僕は公演中、ひざの上にメモ紙をペンを置いて、曲目をずっとメモしていたのですが、メモするごとに横から2人が「タイトルは何?」と、聞いてきたので、そのメモと、入場時にもらったディスコグラフィーを見せました。
ほとんどの歌詞やMCは聞き取れたようで、よく笑っていましたが、意味がわからない単語もいくつかあり、その時はメモ紙に韓国語で書いて、筆談で教えました。

終演後、サインももらい、無事に帰路へ。
2人とも楽しんでいたようで、駅までの道中で、「楽しかった」と言ってくれました。

ただ、やはり歌詞が聞き取れ、理解ができてこそ、楽しめるのではないかとも思われ、他の人のライブに誘ってみたら、反応は違っていたかもしれないと感じました。
今度、東急沿線か、横浜辺りでパスカルズのライブがあったら、また声をかけてみようかと思った次第です。(Hi-)

(寸評)そうだねー。パスカルズだったらほぼインストだからこそヨーロッパとかにも呼ばれるので、是非連れて来てくださいな。よろしくー。 6ポイント。

 

初めてのラーメンから…

8月中、大学の先輩や後輩たちとともに、某所へ一泊2日のキャンプをしてきました。
初日の昼は、宿泊場所へ向かう前に、4人で大通り沿いのラーメン屋へ。
みんな、めいめい好きなメニューを注文し、雑談に花を咲かせながら、1時間ほどで出発するところでした。
と、僕が食べていた、味噌バターラーメンのスープに、2ミリほどの小さな物体が。
箸でつまみ上げてみると、それは…。



  蚊でした!



  味こそ悪くなかったものの、気分がいいままでいられる訳がありません。
食堂で、髪の毛が入ってるぐらいなら、まだ我慢の余地がありますが、さすがに虫となると、話は別です。
おしぼりの上にその蚊を置いて、席を立つ際に、スタッフのお姉さんにその旨を伝えたところ、カウンターから店長らしきお兄さんが出てきて、謝った上、クーポン券を出して、お代は受け取らないと言ってくれました。
当初は僕も、いくらかは値引きしてくれるだろうと考え、怒鳴り散らすなどという、品のない苦情の申し立てはやめておきましたが。

後で考えてみたところ、うまいラーメン屋ほど、カウンターにはゴキブリなどがいるものだろうから、蚊1匹で済んだのが、せめてもの救いかな、とも思われました。
もっとも、お店の立場で見れば、蚊1匹でも、怖いトラックの運ちゃんやら、土建屋のヤンキーやら、893だったら、店がひっくり返されかねない事態もありえる訳で、怒鳴り散らすような客じゃなくて、よかったとも思われたかもしれませんね。
まあ、この情報社会では、僕のような人間でもその気になれば、食べログなどのネットで店名や住所などを挙げて、ネガティブキャンペーンも行えるわけですから、店側としても、丁重に接さざるを得なかったかとも考えられました。
いかんせん、これからは客としての「怒り方」も、いろいろあるなと、考え込んでしまいました。(Hi-)

(寸評)蚊で? それはクレーマーでは・・・。
俺なんか今までの人生でその程度のものが入ってたことは何度もあったけど文句言ったことないなあ。
蚊は防ぐのも大変だし、蚊の目玉は高級食材だし。
除けるのめんどくせーから食っちゃうこともあるな(笑)。 6ポイント。

初めての鈴鹿サーキット

  俺の高校の修学旅行のコースに、何年連続やったか、鈴鹿サーキットが入った事があるのだ。
車好きの先生が居て、授業の半分以上が車の話という事もあったぐらいだ。
「昨日鈴鹿で走ってな。でもつっこみかけた上、タイやボロボロになったわ。昼休み触るか?タイやはずして自動車工学や」とか、
  「昨日岐阜県瑞浪のサーキットに行く途中、京都南ICを朝5時7分に入って、岐阜県の虎渓山PAに着いたのが6時10分やったわ」とか。
この距離が何キロかは皆様各自でお調べ下さいませ。
  まあこんな話ばかり聞いていると、男が多かった高校では、自然とサーキットが組み込まれたのだわ。しかも、どう頑張っても免許取得不可能なやつばかりやしね。
そんな鈴鹿サーキットでの話。
三泊四日の一日目から二日目の昼までが鈴鹿。その一日目の昼からがコースの一部をカートで走り、二日目の朝にバスで全コースを走るという事になっていた。
  その一日目。確か弱視のやつは単独でカートに乗り、全盲のやつは先生と乗る事になっていた。で俺は当然先生とになる。
  何台かに分かれて走り出したのだが、どうも俺のカートはスピードが出ないのだ。先生がいくらアクセル踏み込んでも出ないのだ。そして、何とも言えない中途半端な所で止まってしまったのだ。
先生が係員を呼ぶと、あれ何て言うん?ようはコース内の緊急車両ですわ、後で聞いてわかったんだけどね。普通のワゴンやけど、消火器積んであったと後で言われたわ。
で、「これに乗って下さい」と言われ、俺は助手席、先生は後部座席へ。そして出発。
  えー、速い速い。何でこないにスピード出しはるん?
そうか、よく考えたら俺らはコース上で止まって降ろされ、今走ってるんもコース上やん。こりゃ速いわー、速いわー。
  で、何キロぐらい出てたかわからんかったけど、一般道では勿論、高速道路でもあんな加速はなかなかないというような加速とスピード。
走る走る。どれぐらい走ったかわかれへんかったけど、いや、あれコース全て走ったんでしょうなあ。
  で、スピードえらい落ちたなあと思ったら、外の音でわかりました。前にカートの集団。
そして、どの部分で降りたのかわからなかったけど、「はい、こちらでどうぞ!」
そこには新しいカートがあって、改めてカートでの走行になったのだわ。
その日のカート走行、次の日のバスでの走行。
でも一番楽しかったのは、その車やったわい。カートトラブルのためにたまたま乗った車。あんな経験なかなかないんでしょうなあ! (西大路)

(寸評)うちの妻はゴーカート場でひとりで運転したら壁になってるタイヤの山に一直線に猛スピードで突っ込んでカートがタイヤから抜けなくなって、係員のおっちゃんに「今まで長年ここやってるけど、こんなヘタな人初めて見た」と言われた。
なのでもちろん免許は取らせません。
俺もないのでいつか田舎暮らしになったら夫婦で困るのだろーな。 6ポイント。

はじめての家事手伝い

  いやべつに無職状態を言ってるわけじゃないんです。自営で町工場をひとりで切り盛りしてる親父のお手伝い、ね。  

となるとタイトルに語弊がありました、家事っちゅうか家業ですね。前述のとおり私の実家は親父ひとりで従業員・経理・ドライバー・工場長を兼ねている町工場で、木造建築の解体に使われる“バール”という先端の割れた金属の棒をこしらえていました。
いました、と過去形であるのは現在は作るのはやめてもっぱら修理の依頼を受ける形にシフトしたからで、現在はよその大量生産の既製品を少し置いてある程度なのです。  

家事も含めて大概のことはひとりでやってしまう要領よし、悪く言えばややテキトーな親父。しかしバールの製作だけはどうしても一人ではできない工程があります。
金属の棒の先端を煌々とオレンジ色に発光するまで熱し、軟らかくなった隙にその先端に割れ目を入れる専用のハンマーを押し当てます。その割れ目入れハンマーの上からもう一人がでっかいハンマーを何度もぶっ叩き、硬い金属の棒に割れ目を入れるのです。「硬い棒を割れ目に入れる」ではありませんのでご注意ください。日本語は助詞が大切です。  

こうしてぶっ叩き要員が確保できずに(また大量生産のものに押されて)バールを作るのをやめてしまったのですが、私が高校に入る手前までは従兄弟の叔父さんに手伝ってもらったり、部活もバイトもしていなかった兄貴を駆り出したりしてしのいでいました。  

そして私が高3になった年の夏休み。その日は兄貴がようやく見つけたバイトへ出ており、しかし発注が入っていてどうにか親父はバールを50本こしらえないといけませんでした。その頃は従兄弟の叔父さんも自分の仕事が忙しくなり、手伝いに来れなくなっていました。  

となると白羽の矢が立つのはヒマそうにしている貧弱小太りの、私です。  

ジーパンと半袖シャツ1枚に軍手、頭にタオルを巻け、と言われます。夏の最中に広くもない個人営業の工場の片隅で高温の炉を焚いて作業するのです。そんな環境でハンマー振りて、大丈夫か、私。  

まずは適正検査(?)。親父が構えた普通のとんかちに、まっすぐハンマーを打ち下ろせるか。軍手を濡らしておけ、と言われます。でないとハンマーを持つ手が滑って打点が安定しない、とのこと。力の弱さには定評のある私、ハンマーを振り上げることから必死です。はじめはまるでかすらず、何度も振り上げるのに体力を無駄にしましたが、変に小器用な私はパワーはそこそこながらも命中率を上げることができるようになりました。さぁ本番です。  

炉の中でアッツアツに熱した金属の棒を親父が取り出し、割れ目入れハンマーを構えます。そのハンマーの上に正確に、しかも素早く振り下ろさねばなりません。もたもたしてると棒が冷めて固まってしまうし、すっぽぬければバールの先端ではなく親父の脳天をかち割ってしまいます。割りハンマーを構える方もある種の度胸がないと務まりません。  

1回、2回、3回、4回、5回、6回、7回・・・ 8回目の振り下ろしで熱したバールの先端は割れました。しかし時間がかかりすぎたためか形の修正がきかず、このままでは売り物に出来ないのでふたたび炉の中へ。トホホ。  

この先端を割るまでのハンマーの振りおろし回数は、兄貴は4回、時には3回で済んだそうです。が、私はよほどジャストミートした時でさえ5回、平均叩き回数は6回でした。情けない限りです。
先端を割ったからってボケッとしてられません、ハンマーを捨て置いて親父の整えたバールを地べたに整然と並べていかなくてはなりません。大きな扇風機がずっとビュンビュン回っていますが真夏に炉の近くで作業していると50°C位はあったでしょうか、とめどなく汗が流れ出ます。
1回の各種機械の稼働で50本のバールを作るので、私は300回以上ハンマーを振った計算になります。最後の方になると空振りしたり、集中力も衰えてきます。一旦30分クーラーを効かせた狭い狭い事務室で休憩し、後半戦に向けて体力を回復させます。

この日もその後手伝った際も親父は必ず私にブラックの缶コーヒーを買ってくるよう命じ、私はその時の気分に応じて甘ったるい清涼飲料水を貰った100円でもとめていました。さして普段から積極的に会話をしない親父と他愛ない話をするその30分が、私はなんとなく好きでした。

ぼちぼちやろか、と親父の声でふたたび軍手を濡らします。作業に入る前にもう一度ハンマーをまっすぐ打てるかの確認をします。
さすがに後半戦はキツイものがあり、空振りも増え、ボーっとしてバールを並べていくのを忘れて親父に怒鳴られたり、ハンマー6回でもバールが割れなくなってきます。それでも親父は中断せず、デキソコナイ息子の非力なハンマーを受け止め続けました。

無事、私は親父の頭を割ることもなく100本のバールを割る手伝いができたのです。

  ふたたびコーヒーを買いに行って事務室で一服し、今日の作業は終了。タオルは汗びたし、腕はパンパン、手の平は皮が剥けてヒリヒリします。当分の間、風呂が苦痛でした。
親父はこれで我々に飯を食わせてきたのだなぁ。そして今日その一助が出来たのだなぁ。いつも下ネタばっかり言ってるトンデモおっさんだけど、実はやはり偉大なのだなぁ。勝手に感慨に耽っていると、親父から生まれて初めて「ありがとう」という労いの言葉を掛けられました。  

親父は兄貴へそうしたように小遣いをくれようとしましたが、私にはその言葉だけで充分でした。  

以降他の兄弟も手伝いをして小遣いを貰っていたようですが私だけは一切受け取りませんでした。後にバールを作らなくなってから、「割るのに一番時間は掛かったけど、オポムが一番巧かった」とまたまた珍しく褒められた時は、偏屈で後ろ向きな私というのにとても誇らしい気持ちになったことを憶えています。  

もう最後にハンマーを振ったのは16年も前のことになるのですが、私の手の平の皮がキレイに戻ったのは、長い時を経てやっとこの夏のことでした。親父の背中がはじめて輝いて見えた、わが青春のハンマー振りの思い出でした。(オポムチャン)

(寸評)ええ話やの〜。
うちの親父は蚕の研究者だったので手伝うことも無かったからなあ。仕事現場もほとんど見たことないし。
まあ公務員だから仕事も簡単には手伝えなかっただろうけど、それで育ててくれたんだものなあ。
感謝しなくちゃなあ。 9ポイント。

はじめての「誰か信じてくれこの状況」

  まず最初に、この文の中に出てくる市町村名と交通情報の内容は、当時の物で書いています。ですので、当時なかったインターチェンジ(IC)が今はあったりするのでご理解下さいませ! 

これは年も日付も覚えている。1990年8月12日だ。 

前の日の夜9時頃に、両親と車で九州に行こうと出発。しかし、当時片側2車線だった名神はこれよく聞いたでしょ?「下り線は京都南と茨木の間にある、天王山トンネルを先頭に10キロの渋滞です」 

このような情報ね、懐かしいと思われる方も。このため、国道171号線(通称イナイチ)で茨木ICへ。そしてこれまたよく聞いたでしょ?「中国道下り線は、吉川(ヨカワ)ジャンクションを先頭に20キロの渋滞です」 

これは、山陽道が部分開通だったため、ここでよくつまったのだわ。しかしこの渋滞はまだはっきり言ってかわいいものだと、後で思い知らされた。 

兵庫県加西市、岡山県大佐町、広島県庄原市内にあるサービスエリアなどで休憩や仮眠をとっていったため、三次ICを通過したのが朝5時前頃だったと思う。しかしここまででもう既にNHKラジオ第一の交通情報では伝えてた。「中国道下り線は、広島北ジャンクションを先頭に22キロ、高田(タカタ)付近まで繋がっています」 

懐かしいですな、広島北JCT。いや、これは今でもありまっせ。しかも、松江や浜田などから広島市内に車で入ろうとする時、ここは重要拠点なんですよ。でもそんな事ここではどうでも良かったですな。 

で、俺は親父に言った。「広島北の渋滞、少なくとも昨日の昼からしっぱなしやで。出発前にNHK広島のラジオのニュースで言ってたわ!」 

「広島のラジオ京都でも入るか。まあ22キロやったらどないかなるやろ!」 

そして、三次の次のICが高田。情報通りの渋滞。ところが、それまでの渋滞とは明らかに違った。渋滞と言うよりは停滞、地面に張り付けられてるかというぐらい、ピタット。そしてその渋滞に入ってすぐに寝てしまった俺は6時半過ぎに親父に起こされた。 

「トイレ行くし降りろ!」 

「ここ何処や?」 

「ホンゴウ(ごめんなさい、漢字わかりません。所在地は美土里町)」 

「はい?ぜんぜん進んでへんやん!」 

「あーそうや、おまえが寝る前とかわらん!」 

実はあまり考えてなかったけど、こんな時は女性トイレも渋滞するんですな。男二人はしゅっと車に戻ってきたのだが、母親がなかなか戻ってこないんだわ。将来デートは電車。この時俺は思ったね。まあ俺の場合、どう頑張っても電車か(笑) 

で、戻ってきた母親が信じられへんような事を言う。 

「九州の実家に帰りはる人やろなあ。この道路、渋滞の先のトンネルから片側一車線だけになるんやって。そやから余計渋滞するんやて言ってはったで!」 

「この交通量で一車線になるん?確かにそんな区間があるとは聞いた事あるけどひどいな。普段でも、筒賀村の境トンネル上り線で玉突き二年連続でやってたり、去年の冬は確か山口鹿野町で高速バスが雪で滑ってひっくり返ってたで。どうしょうもない道やな。で、山陽道が将来通ったら中国道の広島北から山口市内までは普通に人歩けるぐらい、車居れへんようになるで。しかもその時は片側二車線(笑)国もちゃんと考えて道路通して欲しいな!」 

余談だが、先ほど書いた境トンネル上り線は三年連続で玉突き発生、そのうち二回は火災も発生し死者も多数出ました。配送関係の人はなかなか難しいかもしれへんけど、皆さん無理のない運転で行きまっしょい! 

で、ホンゴウを出ても殆ど停滞状態。でもあれなんでやろ?トンネルの中だけは少しではあるけど流れるんですな。中原トンネルはしっかり動きましたで。トンネル出たらまた止まりましたが。 

まあしかし動かんわい。時間とラジオだけがながれて行くんだわ。RCCラジオの時報前の「RCC」というコール、何回聞いたやろか?しかし、俺らはいつまでたっても千代田町内、何時間たっても千代田町内。地元の皆様すんませんなあ、腹は減るし喉も乾く。何か買いたいのだがこの状況。町に金落とされへんでごめんなさいですm(_ _)m 

そして暫くすると母親が言う。「千代田ジャンクション建設中やて!」 

「あー、ここから島根県浜田に高速繋がるねん。確か予定では再来年やったはずや。そんなんよりも中国道の車線増やせや!」 

そんな事言いながら千代田IC到着。渋滞にはまってから何時間たったかわからない。そんな状況に親父は逆に判断力失ったか、出て行く車の量を見たのも重なって、そのまま千代田を通過するんだわ。しかも、「下の農道は軽トラ一台だけしか走っとらへん、羨ましいなあ!」て言いながら。言うてる事とやってる事違いまっせ(笑) 

で、また何時間か(進んだ距離は数キロでしょう)したらついに、「右は広島、左は九州。もうここまで来たら左行くで!」 

一回決めたら止められない親父。もう俺と母親は何も言えない。しかしやはりこんな渋滞でも、圧倒的に九州方面へ入る車多いんだわ。当然動かないけどね。で、広島方面は少しの動きがあるので、親父はその車線へ入っては戻り、また入っては戻りしよるんじゃ。そして、後ろの運転手(京都ナンバー)に文句言われよったりね。「あほ、わしのグラサン見てびびってるぐらいなら最初からわざわざ降りてきて言うなよ!」 

ところが暫くすると、その文句言ってきた車が広島方面へ。ブツブツ言っている親父に言ってやった。 

「追いかけて車あおったれや。そして運転手引きずり降ろしてとれるだけやったろうや。もうかなり前やったけど、引っ越してきたチンピラ追い出しとったやん!」 

「そんなあほ相手してもしゃあないし、法律的にはこっちの方があぶないで。あのチンピラは、知り合いの名前出したら恐がって勝手に自分から出て行きよっただけや。わしは追い出すつもりはなかったわい!」 

どう考えても追い出しにかかったとしか思えんのだが、出て行くまでの期間には親父もびっくりしとったな。て言うか、こんな話ここには関係なかったですな(笑) 

で、ついに自主的イベントが始まったようだ。俺と母親はそのイベントには参加しなかった。また、運転手は参加できないイベントだ。いや、交代要員が居れば参加できるのだが。 

「安佐サービスエリア(広島市安佐北区)まで2キロ」という所まで来ると、前後の車の同乗者はハイウェーウォークを開始。そして、サービスエリアで買い物をして、車まで戻ってくるという状況。路肩を人がゾロゾロ歩くというん、なかなかありまへんで。よく開通前の高速道路を歩くイベントは聞いた事あるが、開通してからのハイウェーウォーク、これは渋滞さまさまですな。あーそうか、この中に楽しんで歩いてはる方は殆ど居られないだろうが。そしてその光景をヘリが取材。 

しかし同時に、ボンネットを開けて止まっている車も増えてきた。オーバーヒートだ。実は後でわかったのだが、親の車もオーバーヒートの一歩手前やった事。そして、途中の夕立に助けられた事が。 

いよいよ午後1時とか2時になってきた。さすがに家族全員今日の九州上陸は諦めた方が無難ではないかと。例え広島北の渋滞越えても、その先で何かあれば本当に時間的にやばい。 

結局広島方面の車線に入り直したものの、給油のため一回広島北で下りたのが2時半すぎてたと思う。そしてこの時、広島北JCTからの渋滞は72キロになってました(笑) 

でこの先、広島道や部分開通の山陽道を上り下りして、山口県岩国市で宿泊先見つけたのは夕方4時すぎの事。京都出発からやく19時間後の事だったね(笑) (西大路)

(寸評)俺が車苦手なのはこの渋滞もあるんだよねー。
なんせ特に高速だと途中で降りられないから高速だけに拘束状態が苦手な俺は精神的にもツライ。
まあ列車だって事故で止まることが無いわけじゃないけど少なくとも車内は歩き回れるからね。
19時間あったらアフリカの端まで行けるくらいだね! 9ポイント。

 

はじめてのショコラフロムフリーマン

  幼稚園年長さんの頃の話です。

  私と兄貴は、親に内緒で小学校の校区の外にある商店街の大きなおもちゃ屋・ますやに向かっていました。
もちろんおもちゃを購入する財力など持ち合わせていなかったので、もっぱら眺めるだけだったのですが。

  そんな偉そうな7歳とあほそうな5歳がちょらちょら歩いていると、当時はそこいらに自由に転がっていらっしゃった一着しか服をお持ちでないであろうと思しき長髪・髭面の男性が我々を見かけ、声を掛けてきました。

  「ぼく。おにいちゃん。ちょっとこっち来てみ」

  私と兄貴は警戒しました。知らない人に話しかけられても、付いて行ってはいけないと言われていたからです。
しかし目の前の紳士は、どこかへ連れて行かれるも何もその場所からは微動だにしない感じでした。
未だ警戒を解かない私と、好奇心で全体的にブラウンめいた色合いの紳士に近づく兄貴。  

「おっちゃんな、これもう要らんからやるわ。ほれ、食べぇ」  

紳士が兄貴に差し出したのは、果たして食いさしのチョコレートでした。
兄貴もさすがにひるみましたが、茶色の自由紳士は続けます。

  「ほれ、大丈夫や。毒とか入ってへんから。食べぇ」

  自身もチョコレートを少し折り取って口中へ放り、無毒である証明をおこのうたのちさらに兄貴に食いさしチョコを譲渡せんと差し出します。
兄貴はその場で紳士の差し出すチョコを口にします。
私は内心、そらないわ、ありえへんわ、という気持ちでそれを眺めていました。  

兄貴「・・・おいしい」
紳士「な? 大丈夫やったやろ?」
兄貴「ありがとう」

  兄貴は礼を述べ、私とその場を離れました。
チョコを片手に携えつつ、兄貴は言いました。
「いい人やったな」
私は沈黙していました。

  まず道端のおっさんから食いさしのチョコをもらう段階でおかしいし、絶対そんなチョコ食いたくないと思うのがまっとうな思考だと私は思ったのですが、どうやら兄貴は子供好きの博愛精神に満ちたおっさんである、と素直にその存在を受け入れたようなのです。
その後チョコレートを兄貴が完食したのか親に捨てられたのかは憶えていませんが、後になって思うと自由紳士はほんとうに小さい子が可愛くて自分の食い物すら満足にないのに甘い物を与えたかったような気がしますし、偏見を持たずにその慈愛を受け止めた兄貴はなんと純粋な魂の持主なのだろう、と当時「気持ち悪っ」くらいしか頭に感想が浮かばなかった自分と比べて思いました。

  純粋な善意、という今や胡散くさいものをきちんと見極めるラインは難しいですが、事件に巻き込まれるくらいならすべてを拒もう、という現代人的な考え方も完璧に正しいとは言えないのかも、と今になって思った遠い昔の記憶でした。(オポムチャン)

(寸評)子供がチョコを食べるのを見ながら静かに己をしごきだす特別な趣味の方だったりして。 7ポイント。

初めてのイライラドキドキ

  幼稚園から高校まで、盲学校(特別支援学校)に行っていた俺。弱視は居たものの、基本的には全盲(点字使用者)がずっとクラスに居たため、一般の短大に入って点字使用者が俺一人だけになったのは初めてだ。そんな短大1年の時の話。
  テーマに沿ってその希望者が集まって合同レポートを作って発表するという課題を、所属ゼミの先生から言われたのだ。で、俺が希望したテーマに集まったのは俺を含め3人。俺以外の二人は女の子だったのだが、その内の一人が好きになりかけていた子。
それで、三人で発表原稿を誰が用意するかとか、当日誰が読むかなどの話し合いが何となく行われたのだが、結局3人で一枚ずつ読む事に。しかしながら俺が発表当日に普通に読むとなると、点字の原稿が必要になるため、先に読んでもらって俺が点字にしてそれを当日読む事に。
ところがそれをいつするかの話がなかなかできない。授業中に二人に声かけようと思うのだが、何処に居るかが声で何となくわかるだけで、友人同士で喋っている所に割り込むのもできない状況。かといって、二人が俺に声かけてくる事はなし。
そしてぎりぎりになった夜、好きになりかけの子から電話。「来週月曜の昼は短大来てる?12時半図書館ゲート前で良い?」
実はこの日も授業前後に話せる状況ではあったはずなのだが電話。しかも俺はサークルの先輩に夜飯に誘われて帰った後母親に、「Iさんという子から電話あったで。電話番号0748何々。デートのお誘いか?」
  そんなわけないとわかっている電話なので渋々電話して2から3分で会話が止まって俺から終了。ドキドキ感とイライラ感の交錯。
で、言われた日の昼休みに図書館内で作業を開始したのだが、その時間内には終わらないと判明。
  「私明日来えへんかもしれへんけどどうしよう。このまま授業行かなくても良いよ。西大路とは授業違うけど誰かノート取ってくれる人居る?」
「いやそんなん、点字使用俺しか居れへんし俺行けへんと無理やん!」
  「あーそうか。では、明日同じ時間ね!」
ここで思った。このグループは3人なはずだ。なぜもう一人には頼めないのか?いや、俺から頼むべきなのか?やはり何かイライラするぞ。明日の昼休みだけでもまだ無理っぽい。
「明日の11時頃から1時間ちょっと、ゼミ違うけどレポート原稿読んでくれる?サンドイッチとコーヒーつけるし!」  別の友人にも頼んで途中手伝ってもらう事で無事終了。
しかしこの女、卒業式の後で俺とツーショット撮りにきたのは良いが、結局写真くれる事はなかったわい! (西大路)

(寸評)まあ写真もらっても見られないと思ったのか。その辺、どんな感じに思うのでしょーか。 6ポイント。


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