ドキドキドキリコ初体験(68)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールにて。題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

初めてのノーブラ

6月8日、福岡まで知久さんのライブを見に行ってきました。
石川さんのホームページで知久さんの話〜?
いえ、今回の初体験テーマはそれとはまた別の事なのです。

  出発前の6月1日〜7日は朝8時〜21時までびっしりバイトでした。
  ちょっと疲れが溜まっていたのもあると思うのですが、福岡行きの新幹線の中で突然気分が悪くなりました。
  乗り物酔いか貧血か、原因は分からないけどとにかく凄い吐き気とめまいがしたので、とりあえずトイレへ。
出せば少しは楽になるかも・・・と吐こうとしたのですが無理でした。
ならば下からと(失礼っ)便座に座り続けて30分(くらいだったと思う)。冷や汗が出始めました。
  手が震えてきたので低血糖かもしれないと、バッグから飴を取りだし食べてみました。  

(※糖尿病持ちではないので意味の無い行動(笑))
そして胃の辺りが苦しいので、締め付けられる物をすべて撤去しました。

  新幹線のトイレの中で全裸で飴を食べる女・・・今考えるとかなり変ですね(笑)

トイレの中で意識が朦朧としたまま、「まもなく小倉。小倉・・・」というアナウンスを聞きました。
  「はっ・・・小倉を過ぎたらすぐ博多だっ。降りなきゃ・・・」

とりあえず汗を拭き、服を着ようと思ったのですが、どうしてもブラを着ける気になりません。
  でもその日着てた洋服はカーテンみたいな薄い生地。
仕方なく私は更にもう1枚カーディガンをはおり前ボタンをびっちり留めました。

  暑い・・・けど脱げない・・・。
(何、このセリフ、どっかで聞いた事ある様な・・・)

  売り子のお姉さんから水を買い、飲んで少し楽になり無事博多で降りる事が出来ました。
  その後、出迎えてくださった方達とお昼を食べたり、お話してすぐにすっかり気分は良くなってきてたのですが私は自分がノーブラだと言う事をすっかり忘れていたのです。

ホテルに荷物を置きに行った時に何故着替えなかったのか。ノーブラのまま出発。
  ノーブラのままライブ会場に入り、ノーブラのままラッシーを飲んでノーブラのままライブ観戦。

  そのまま、そ〜っと帰ったのなら傷は浅いのですが、こともあろうかノーブラのまま打ち上げに参加。
ノーブラのまま知久さんの隣に座らせて頂き、ノーブラのままセッション、ノーブラのまま張り切って「らんちう」の最後の1音(石川さん役)を叩かせて頂いたりしてました。

ノーブラヤッホ〜!!・・・・なんてこったい・・・・orz

打ち上げは3時過ぎまで続き、ホテルに戻った朝4時。
お風呂に入る時にようやく気付いたんです。
「ブラつけない派」じゃないのに!!

罰が当たったんだ・・・きっとポイント欲しさに同僚のネタを投稿した自分に罰が当たったんですね。。。
  これからはなるべく自分の話を投稿しよう。

ポイント欲しけりゃ己の身を削れ、ですね。

初めてのノーブラ話でした! (でゅおめいぷるようこ)


(寸評)ああ、そういえば知久君が言ってたな。

「なんかノーブラで俺の隣に座る人がいてさ。
 見せつける為にノーブラだったのかなあ?
 いやあ久しぶりにちょっと勃っちゃったよ。
 他のお客さんにバレたら大変なので必死に屈み込んだりしたよ。
 そういえば石川さんともレコーディング一緒にやってたとか言ってたから知ってるんだよね?
 いつもああやって挑発してくるの?
 いやあ、関西の女の人は積極的でスゴいなあ・・・」

はい、もちろん俺の妄想です(笑)。10ポイント。

はじめての太文字

  ネタがないので自慢です。イエイ。
この1年と数か月、(ほぼ)毎日毎日無駄に量だけは多い投稿をひたすら続け、姑息にポイントを重ねて行った結果、4900ポイントを上回り、ついに、ついに「投稿王」ランキングの10位、つまりベストテンに到達したのです!!
ベストテンに到達するとなにが嬉しいかっちゅうと、ハンドルネームすなわち投稿に使用している名前が大きな太文字で載せていただけるということです! 別段目立ちたいというわけではありませんが、しつこく粘着質に続けてきた己の虚栄心を満たすには充分なご褒美です。2014年6月前半現在、私は5507ポイントで8位に着けているわけですが、なんとランキングの5位から10位までが5000ポイント台という団子状態。この中で誰かが突然投稿に燃え出すと一気にパワーバランスが崩れるという油断ならない状況です。石川さんも深く名前を記憶に刻んでくださるというベストテン入り、ようやく果たした割にはまだまだ気を抜けない臆病な私です。

順位が上がるたび「投稿王」のランキング画面を携帯電話で撮影してはニヤニヤ眺める気持ち悪い男ですが、頂の見えそうな場所へ辿り着き、少し一服したいなぁ、なんて気持ちも芽生えてきました。
しかしです。“今月のポイントボーナス”という甘いエサに釣られて、ついつい足りない脳味噌を振り絞って夜更かし投稿がしたくなるのです!! まんまと石川さんの目論見に乗っかっているようです。嗚呼、もう1年以上も石川さんの手の平の上で遊んでいるのですね・・・ パソコンを持っていなかったおととしまでは考えもしなかった状況です。投稿をきっかけに初めてライブハウスへ行ったり、あろうことか後ろでギターを弾かせて頂いたり、直接お話までさせていただいたり、CDを聴いていただけの頃とは比べ物にならないほど失礼ながらも石川さんを身近に感じるようになりました。  

とはいえここまで来るのに幾分かの代償も支払いました。
まずは睡眠時間。私は毎朝6時15分に起床して弁当をこしらえて朝飯を食い仕事へ出掛けるため、せめて12時には床に就きたいのです。ところがHPが更新されるのは毎日12時頃。更新されたところを見ないと気が済まないため必然睡眠時間は6時間を切ってしまいます。ねむ。
また投稿数が多いと必然私の卑猥な素性がどんどん露わになり、変態性の濃ゆい内容が盛りだくさんの私の投稿を嫌う方も多いであろうことから、ライブ会場などで面が割れるとあまり好意的には思われないだろうなとびびっています。キチガイ投稿のおかげで「初体験」「おバカ」は本当に私の思い出置場みたいになってしまい、他の投稿者さんに申し訳ない気持ちになったりします。

それでもやめないのは? 
もちろんポイント欲しさも大きな理由ですが、石川さんと遊ぶ貴重なチャンスを、逃したくないからです。
また投稿を辞めてしまおうと思った時に石川さんにこのコーナーで頂いた言葉が心に残っているからです。

『でもやるんだよ。

少しでも面白いと思ってくれる人がいる限りは。他人の為じゃなくて自分の為に。』

このコメントは石川さんご自身の活動に関してのものでしょうが、私に向けてもおっしゃっているような気がして、投稿を続けていく糧になっています。

ここしばらく勢いのある新人投稿者さんが増えて嬉しい限りです。
皆さん、本気でやれば私のように1年で4000ポイントだって可能です!
そして私をベストテンから引き摺り下ろすところまで、登って来てください! そこまで石川さんを愛する者が現れたら、私は喜んでその椅子を譲るでしょう。ただ、そう簡単には譲る気は、ないですよ(ニヤリ)。・・・投稿王でもないくせに偉そうなコメントお許しください。
本当に一気にここまで来たため燃え尽き症候群も懸念されますが、もうしばらく、この自己満足な太文字ライフを満喫しようと思います(笑)。 (オポムチャン)

(寸評)やっぱり太字は嬉しいんだねえ。
俺もグイグイ登って来る人は会ったことなくても自然と名前は覚えるよ。
人の顔が覚えられない俺だけどライブで名乗ってくれると投稿との結びつきで他の人とはだいぶ違って来る。
俺も「いつもお喋りしてる友達」という感覚になるからね。
初めて会っても初めて会うという感じでは無いね。
さ、オポムチャンを悔しがらせる輩は出て来るのか!? 7ポイント。

はじめての意図的パン見せ

  毎度毎度の遠〜い記憶ほじくり返しシリーズ、今回は小学校3年の頃のお話です。

小学校低学年の間、なぜだか私は女の子と一緒に遊ぶ機会が多い男の子でした。
その中に、周りの子とは少し違う雰囲気の、細身で背が高く色白なイノウエさんという女の子がいました。
しずかであまり笑顔を見せない、大人びた表情の女の子でした。当時の私の小学校は4月の自己紹介の時に何故か好きな異性のクラスメイトの名前を挙げないといけないという嫌な決まりがあり、私は身の程知らずに顔を真っ赤にして「・・・イノウエさんです」と答えたのですが、なぜか他のクラスメイトは誰もイノウエさんの名前を挙げず、しかもその後イノウエさんが好きな人として落ち着いた低い声で名を呼んだのは、あろうことかハナタレ小太りの私でした。

  どうもあとから聴いた兄弟らの評判によるとイノウエさんは一般的に男の子があまり好きになるタイプではなかったようなのですが、私は独特の雰囲気があるイノウエさんにぞっこんなのでした。人と違うものを好きになりやすい傾向はこの頃から既に如実だったわけですね。はは。

  私達は幼かったことも手伝って、人目もはばからずよく2人で遊びました。
泥団子を作ったり、ウサギにエンドレスにその辺の草を与え続けたり、とやることは小学生まる出しなのですが2人ともはしゃいだりはせず、黙々と作業し、たまにぼそりとコミュニケートする程度、それだけで充分でした。

そんな小学生らしからぬ寡黙な2人、その日の休み時間も2人で校庭にしゃがみこんで土に絵を描いていました。
イノウエさんはいつものように表情を変えず、しずかに話しながら絵を描きます。
すると私の視線はしゃがみ込んだイノウエさんの両足の付け根に自然と向かいます。
飛び込んできたのは、淡いレモン色の布地でした。
チラ、ではなく、モロ、です。
物静かでも女の子の下着は見たくて仕方ない、早くからムッツリ助平だった私は話を聞きながらも視線はガッチリその部分に固定されてしまいました。
それでもあまりに無防備なので、悪くなってとうとう目を逸らしたりしたのですが相も変わらずレモン色は露骨なまま。いよいよ私は妙な罪悪感を覚えて、イノウエさんにこう言いました。

  オポ「・・・イノウエさん、パンツ、見えてるで」

  するとイノウエさんは、いつものように表情と口調を変えないまま、私にこう言いました。

  イノ「わざと見せてるねん・・・」

  私の顔はさらに真っ赤になりました。
イノウエさんは淡いレモンを隠そうとせず、すこし上目づかいで珍しく口角をあげました。
私は照れてしまい、まともにイノウエさんの顔を見られなくなりましたが、いつになくイノウエさんは嬉しそうに、しずかに口元を緩ませたのでした。

  小学生低学年の話ですから、それ以上の事には当然発展しません。しかしその後イノウエさんの家に遊びに行った時も、同じようなことがありました。
興味本位で「女の子のおしっこするところってどうなってるん?」と私が質問すると、「男の子みたいにはなにも付いてなくて、穴が開いてるねん。」と答えた後、

  「・・・・・・いつか見せたげるわ」

  とこれまた無表情に答えるのでした。
今から考えるととんでもない挑発です。が、低学年の話なのでその後大変な事態になったりはしていないのでご安心ください。

  学年が上がって遊び相手が男の子中心になるにつれて疎遠になり、イノウエさんとは中学の時に私が転校したっきり会っていません。しかし、あの日私の名を呼んだ小学生にしては落ち着きすぎている低い声と、淡いレモンの布地は私の記憶にずっとずっと、鮮明に残ったままです。また、幼いながらもその心の内に秘めた、女性の魔性、というものの片鱗も。

  そして今の私の妻。たった今気づいたのですが、妻は細身で背が高く色白な、低い声の落ち着いた女の子です。
もちろんイノウエさんではありませんが、私はまったく無意識のうちにイノウエさんをどこかに投影していたのかもしれません。
遥かいにしえの、淡〜いレモン色の思い出でした。 (オポムチャン)

(寸評)くぅ〜、ええ話まだもってるやないのう。ええの〜。
でも自分の妻を「女の子」って言うんだねぇ。
まさか未成年じゃないだろうな!! 10ポイント。

   

はじめての関係者以外の者の不法侵入

イノウエさんのお話の、後日談です。
中学1年の頃に隣の市に引っ越し、もともと住んでいた町にはほとんど寄り付かなくなって長い時が流れました。
大学を出てまぐれで就職し、行動範囲も大幅に広くなりました。そんなある日、暇に任せて懐かしいあの町を自転車で訪ねることにしました。片道およそ40分のミニトリップです。

  15年近くも経つと随分景色は変わりましたが、未だあの頃の面影は随所に残っています。幼稚園からの付き合いのあいつの家、兄貴がサクライ君にビックリマンシールを騙し取られたお寺の公園、長〜い商店街、小学校の通学路だった細い細い路地・・・ 変わらぬ景色だって存在したのです。

  変わらぬ景色、か。
ふと、私の中の犯罪者的な心が、悪戯な気持ちを湧き立たせました。
あの頃よく遊びに行った、イノウエさんのマンションはまだあるだろうか。
ちょっと、見に行ってみようかな。

不気味に過ぎる無関係者の訪問。マンション住民からしたらおぞ気の走る違法行為ですが、かまわず私はあの頃のノスタルジーに任せてマンションまで自転車を走らせました。
果たしてマンションは、あの頃のままでした。
エントランス前の小さな公園。ここでもよく遊びましたがこんなに小さい公園だったのだな。あらためて自分がおっさんに成り果てたという事実を思い知りました。
そして子供の頃には気付かなかった、「マンション関係者以外立ち入り禁止」というお決まりの文言。
自分の行動が気味の悪いもの、やるべきではないこと、と意識しながらも、私は歩みを止められませんでした。

  エレベーターの最上階のボタンを押し、廊下を通って5、屋上の扉の前に来ました。
事故でもあったのでしょうか、あの頃よく遊んだ屋上へは施錠がされていて入れなくなっていました。
そしてその扉のすぐそばにある、部屋の表札。あの頃と同じ名前が、入っていました。

ここでチャイムを押すともう完全にアウトです。小学校の頃よく遊びに来たから、なんて理由で変わり果てた姿のおっさんが訪問してきたら、普通の人間なら「少々お待ち下さい」とか言いながら警察もしくは管理人室に連絡するでしょう。 いくら挙動不審の変質者の私でも、それくらいの節度はあります。

まあありふれた名前だし、別の家族が入っている可能性だってあるでしょう。私は懐かしさを胸にしまい込み、エレベーターに向かおうとしたその時。
部屋のドアから、イノウエさんのお母さんが出て来ました。
流れた時の分だけ年老いておられたけれど、間違いなくその人でした。
むろん私に気付くことはなく、エレベーターに向かうお母さん。私はその階の別の人を訪問している体を装い、その場をやり過ごしました。
なんだか後ろめたい気持ちでいっぱいになってきました。やはり私のしていることは犯罪です。もうこの地に素性を知る者はほとんどいない、無関係な不法侵入者なのです。

マンションから立ち去り、ほう、と息をつきました。
こんな気持ちになるならもう二度と此処には訪れまい、と思いましたが、逆に訪れて良かった、とも思いました。
思い出は思い出のまま、そっと心に仕舞っておく方が幸せなこともあるのです。
なにより通報されちゃあ何もかも台無しですからね!
私はこらしょと自転車にまたがり、帰路へと着きました。

中学校に上がる少し前、近々東京に引っ越す、とイノウエさんに告げられ、もう逢えなくなるのか、と小さな胸を痛めたあの頃の私。しかし先に引っ越したのは予定外にも私の方で、さよならも云えず逢えなくなってしまったのですが、結局まだこのマンションに本人はともかく親御さんはご健在だったのです。
その事実を知った途端、なぜかこの思い出はこれでおしまいにしよう、という気持ちになったのです。

元気で過ごしているのかそれとももう、かはこの際考えません。
ただ私の記憶の中には、今もあの頃の大人びた表情がごく時折顔を出す、ただそれだけです。
そのくらいなら、罪にはならないでしょう。

・・・それにしても余計な後日談でした。書いててますます、自分の社会不適合ぶりを露呈してしまい凹んでいますが、この際今さらでしょう。そもそも完璧に健全な人間なんて、きっと居ないか居てもつまらない人でしょうし、ね。 不詳なおっさんには世知辛い世の中ですが、私は今、幸せにしています。 (オポムチャン)

(寸評)そのお母さんだと思った人がイノウエさん本人だよ・・・。 8ポイント。

初めての4輪バギー

15年ほど昔。ハワイに行った時のお話ですv
私は自他共に認める不器用さんです。だから車の免許なんて持っていません。
なのに海外旅行の解放感から「4輪バギー」に乗るオプショナルツアーに参加してしまいました。
係員の方による「子供が乗る3輪車より車輪が1つ多いんだから誰でも簡単に乗れますよ(笑)」
という言葉を信じてしまったのです。

まず最初に簡単な操作方法が説明されました。
実はその時点でちょっと不安な私。
「ハンドルがアクセルとブレーキになる?ナニソレ・・・」
よく分からないままヘルメットを装着し早速バギーに乗る事に。

皆さん元々免許をお持ちなのか器用にスタートして行きます。
私はというとやっぱりコツがつかめず、恐怖心からスピードを出す事が出来ません。
どんどん遅れはじめました。
このままだと、次のグループが出発してしまうので係員さんが少し急ぎましょうと仰った。
ハイ。スミマセン!!とアクセルをふかした時にやらかしてしまいました。

スピードが出過ぎてハンドル操作ができなくなりコースから大きく外れてしまいました。

後ろで「ブレーキをかけて!!ハンドルから手を離しなさい!」と聴こえましたが
怖いから更にハンドルを握ってしまい(自転車だとハンドルを握るというアクションでブレーキですが
バギーでそれやるとアクセル全開なんですね(T_T))
更に加速。そのままバギーごと、崖から転落してしまいました。

「あ〜っ死んだ〜」

と一瞬の間に今まで生きてきた事が走馬灯の様に頭を過るヒマもなく、気付いたら私の身体はバギーから飛び出て崖の下の木と木の隙間にスッポリと。

「オーマイガっ・・・」

係の人が顔面蒼白になりながら降りてきて私を助けて出してくれました。
とても不謹慎ながら崖の下から「人って日焼けしててもやっぱりショックな時は顔が真っ青になるんだな。」
と思ったのでした。
不思議とカスリ傷1つなかった私ですが、その身代わりにバギーが死んでしまいました。

本当にゴメンナサイ。

まだコースを半分も走ってなかったのでその後は、代車に乗り換え二人の係員に前後を挟まれながら遊園地のパンダの乗り物くらいのスピードでゆるゆると走る様に言われ、次のグループからもかなり遅れてようやくゴールできたのでした。

やっぱり不器用な人間は運転などしてはいけませんね。本当にドキドキドキリコな初体験でした。(でゅおめいぷるようこ)

(寸評)うちの妻も熱海の初島でゴーカートに乗り、ものすごい勢いで車止めのタイヤの壁に激突し挟まって全く動けなくなり係員さんに、
「わしも長年やってるけどこんなヒドい人初めて見た」
と言われた。
決して運転免許は取らせません・・・。9ポイント。

初めてのオレオレ詐欺(未遂)

まだ携帯が普及しておらず、「オレオレ詐欺」が世に広く知られるよりずっと昔の話です。
ある日、家の電話が鳴りました。
出ると、電話の相手がすすり泣きをしている。
誰か亡くなったとか嫌な知らせ?と不安に思いながら「どちら様ですか?」と尋ねると
「オレ・・・」とだけ言ってまた泣きだす。
「誰ですか?」
「お姉ちゃん?」
私には妹はいますが弟はいませんので「お掛け間違いじゃないでしょうか」と言うと
「ゴメン。お母さんに言われへんからお姉ちゃんに電話してん」
と今度は甥か従弟かを装ってきた。
正直、従弟の声なんて覚えていないし、ついこちらから「あ。○○君?」と従弟の名前を言ってしまいました。
「うん。そう。」
「どうしたん?」
「バイクで事故ってん。相手の人を今すぐ病院に連れて行かなアカンねん。
でも今お金がないからお姉ちゃん貸してくれへん?」
「えーっっ」
私は一瞬パニックになりましたが、運良くその日は従姉(電話の従弟を装っているヤツの姉)が遊びに来ていたので一旦保留にして電話の内容を伝えました。
「大変だよ。○○君がバイクで事故ったらしいよ。どうしよう。お金が要るって言ってる・・・」
すると従姉のお姉ちゃんは「何言うてんねん、アイツっ」と毒づくと受話器を取り
「アホかっ。そんなもん知らんわ。自分で何とかせえ!!」
とだけ言って、電話を切ってしまいました。

翌日、従姉からその様な事実は無かったと電話をもらい、ヒヤっとしました。

それより怖かったのは、その犯人が別の親戚からウチの電話番号を聞き出していた事です。
同じ内容の電話が掛かってきたのですが、その時大人が家にいなかったため「お金がない」と言ったら
「じゃあ、ようこちゃん(あてずっぽうだと思われますが、何せありふれた名前なもんで)の番号教えて」
と言われてウチの番号を教えてしまったらしいです。そして、私の番号を教えた親戚の番号を、また別の親戚が犯人に教えていたのでした。
どんだけボンヤリした一族なんでしょう・・・(>_<)

未遂に終わって良かったけど。なんだかなぁ。詐欺に遭いやすい体質とかあるんでしょうかね。
もっと良い事でドキドキドキリコしたいよ〜 (でゅおめいぷるようこ)

(寸評)未だに引っ掛かる人いるみたいだもんね。
不思議だけど相手もプロも多いのかもね。
もっとも俺、家の電話鳴っても常に留守番電話になっていて相手がハッキリしていない人には一切出ないけどね。 6ポイント。

初めてのオークション

ある日、オークションで欲しかったデジカメを発見!
価格ドットコムで調べてみても、どの店舗で買うよりも安かったので、落札できれば良いなぁと軽い気持ちで
ポチっとしました。やがて締め切り時刻になり、めでたく私が落札。やった〜!!
すぐに相手からプロフィールと入金先の口座がメールで届きました。

入金が遅れて悪い評価をつけられるのが嫌なので、私はその日の内に指定された口座に入金。
商品が届くのをワクワクしながら待っていました。
んがしかしです。2日経っても3日経っても1週間経っても・・・とにかく結構待ちましたが商品は届きません。
10日目くらいにはさすがにおかしいなと思い、出品者の方にメールを入れたのですが返事はありません。

あれ〜おかしいな・・・。
この時点でまだ私は自分が騙された事に気付いていませんでした。
というか信じたくなかったのです。でもでも・・・
恐る恐るそのオークションサイトの『注意すべき人物ID一覧』を調べると、その人のIDが(>_<)。
私以外にも複数の方が被害に遭われていたのでした。

ひぃ〜こんな事がダンナにバレたら怒られる〜!!
まず頭に浮かんだのはソレでした。それから暫く孤独な闘いが始まりました。

一番初めに出品者から届いたメールにはそれらしい社名「?○○」と住所と電話番号が載っていました。
電話してみても、もちろん誰も出ません。
どうせ住所も架空なんだろうな・・・(T_T)と思いながら、グーグルアースで検索。
そしたら会社ではなく個人宅だけれど「?○○」の「○○」という表札のアパートが写っていました。
念には念をと、その住所の近くに住んでいた知人に車を走らせてもらい、確認。よし、ある。

すぐに一か八か、その家に「お金を返してください。すぐに連絡くだされば警察へ提出した被害届を取り下げます」と書いた手紙(実際にはちゃんとした決まりにのっとった文章で)の「配達記録郵便」を出しました。
ご存じだと思いますが「配達記録郵便」というのは郵便配達員が受領の証を必ず持って帰ってくれるものなのです。本人だと確認したうえで。
案の定最初はシラを切り、受け取り拒否をしたそうです。
でも郵便配達の方が「受け取ってもらわないと困ります!」と言うとしぶしぶハンコをついて受け取ったとの事でした。

郵便の内容で、すでに私が警察に届けた事を知り慌てたのか、数日後相手からメールがありました。
そのメールには「自分も友達に騙されて、手元にお金はないので払えません」との事。

「何ぬかしとんじゃこのボケ〜!!」と言いたい気持ちをグッと堪えて返信。
「友達に騙されたのですか?お気の毒ですね。まずはいきさつを説明してください。」と返しました。
最初からキツく言って返信が途切れると困ると思い、刑事がカツ丼を差し出すかの如く優しく接しました。

「友達から、いくらかお礼するので、代行で取引してほしい。
そう言われてデジカメ20台分ほど取引したのに、商品が届かずお金も友達も消えてしまった。」
との事。そんなん友達って言える・・・?

「酷い事をする人がいるものですね。。。」

しばらくメールのやりとりを続けました。
最初はお互い牽制しあった内容でしたが、やりとりを続ける内メールの最初に季節の挨拶などが入る様になり、相手が私を思いやる様な事を書いてくる様になりました。

相手が本当の事を書いていたかどうかは分かりません。
だけどとにかく私の目的はただ一つです。

『全額一括返金』

きっと優しい人なら「しょうがないな・・・この人も被害者なんだし分割でもいいか」と思うかも。
ですが私は浪速の商人・・・じゃなくて浪速の女です。
分割で少しでも払うと「もうコイツはしばらくいいや」と思われるから、こういう場合は絶対に全額一括でないといけません。相手の振込手数料の事も考えるとネ。

ある日メールで相手が私に同情的な事を書いてきたので勝負に出ました。
「こんな事がバレたら私は離婚されてしまいます。慰謝料も請求されるかもしれません。

キレて暴力をふるわれるかも・・・助けてくださいお願いします。」
「・・・分かりました。口座番号をお知らせください。全額返金します」

ようやく・・・ようやく数か月の闘いが終わる(/_;)

「ついでに言いますと配達記録郵便代金○○円、そちらの住所を探し当てるのに○○円、切手代○○円、他諸経費が色々掛かりましたが、その分は許しときます。」
「助かります。」
「寒くなってきたけど身体に気をつけてくださいね。早く他の方にもお金返してね。」

「ありがとうございます。頑張ります。」

翌日、全額が振り込まれたのを確認してホッとしました。

彼は本当に詐欺だったのか、それとも彼の言う様に彼自身も騙されたのか。
他の被害者の方にもちゃんとお金を返したのか、色々心配でしたがこれ以上連絡を取るべきではないので知らないまんまです。

余談ですが、警察はなーんにもしてくれませんでした。
「オークション詐欺はしょうがないわ。諦めるしか。」と言われ、相手の住所が分かってるのに動いてくれませんでした。被害届を取り下げに行った時も「え!?自分で取り返したん!?すごいやん。アンタ警察官になりよ〜(笑)」とかっ(怒)。自分の身は自分で守るしかない様ですヨ。

初めてのオークション詐欺、かな? (でゅおめいぷるようこ)

(寸評)いや本当、詳しくは書けないけど殺されでもしない限り警察は何もしてくれない、というか動けない面もあるみたい。
実際そういう経験した。
でも流石の浪速女のド根性。褒美にええいっ、10ポイント持っていけい!

初めてのエレベーターの中でちょいもらし

こんにちは。じゃいこといいます。
それは女一人旅でパリへ行ったときのこと。
パリも10日目。だいぶ慣れて、シャンゼリゼ通りを気取って歩いていると、同宿の韓国人姉妹に遭遇。
韓国人の間では有名だというステーキの店でランチをすることになりました。
地元の人でめちゃ混んでて、肉もソースもおいしいし、満足して姉妹と別れました。
でもどうやら私の腸とは相性が悪かったようです。
数時間後、急激な腹痛。噴き出す冷や汗。
日本であったならコンビニなどに入ってしまうものを、ここはパリ。
しかし幸いにも、宿から10分位の所だったので戻ることに心を決めました。
不自然な早歩きで、途中痛みに足を止めながらなんとか宿へ。
部屋へ戻っては間に合わない。
宿のトイレは地下一階。
なかなか来ないエレベーター。
もう少しの安心感からエレベーターの中でちょいもらし。
トイレでズボンを脱ごうとしてさらにもらし。
幼稚園で先生にお世話してもらったとおーーい記憶を思い出しました。(じゃいこ)

(寸評)海外はたいてい公衆トイレは有料だからねー。
パリの公衆トイレは道のど真ん中にあったりして入りづらく、また出ようとしても流すボタンが無いので焦る。
実際はドアを開けると連動して水が流れるんだけどね。一瞬ビビるよね。7ポイント。

はじめての創作料理

どんくささなら他の追随を許さないナチュラル不器用王の私ですが、こともあろうに10年ほど前に同じ合唱団の娘さんを騙して配偶者としてしまった時から、ろくにこなしたこともない家事をせねばならなくなりました。

えっ、奥さんもろたのに何で? というと、当時の嫁はんは私よりも早く社会人になっていたためすでに有能な中堅、帰宅も私より3〜4時間遅いことも珍しくありませんでした。要するに我が家の大黒柱であったわけです。
そんな稼ぎ頭が帰ってくるまでに家の用事をなーんにもしないでボケッとしてたら、たちまち家庭は崩壊します。いくら不器用でも、怒られながらでも掃除・洗濯・アイロンがけ・繕いもの・ゴミ出し程度はできないと愛想を尽かされてしまいます。

さて困ったのが飯です。私は結婚するまでは実家の両親のスネを骨までしゃぶり尽くしてきたという親不孝な腐れ外道で、また生来のどんくささからほとんど自分の事さえ親にしてもらっていたという無能の極みでした(どうでもいいですが最近、36にして蝶々結びのタテ結びにならない法則をやっと発見しました)。つまり結婚して初めて包丁を持ったのです。
上記の通り私が帰ってきても十中八九家の中は真っ暗、誰も飯を用意する者は居ません。ちんと座って、ごーはーん、ごーはーん、とちゃぶ台の前で待ってつぶやいてても当然ながら何も起こらず腹が減っていくだけなのです。

しからば恐ろしいが、自分で自分の飯を作るほかあるまい。
2人とも働いているからと言って、家賃の高い駅周辺のマンションを借りていると毎日外食なんて不可能です。スーパーで食材を買って自ら調理する方が、どう計算しても圧倒的に安くつくのです(むろん、モノにもよるでしょうが)。
はじめはおかんに電話しながら、おっかなびっくりカレーを作ることから始めました。そのうち不細工なりにも食べることが可能な物体を作れるようになり、肉を煮る時は醤油と味醂と酒を2:1:1で混ぜたやつでやればだいたいうまくいくことを教わり、牛丼や豚生姜焼きなどもレパートリーに増やしていったりして、なんとか一週間のローテを廻せるだけのメンツを揃えることができるようになりました。人間やらないと生きていけない状態に追い込まれると、意外と出来るようになるものです。こんな私でさえ、ね。

そんな私、ある日疲れて帰ってきたところすでにスーパーは閉店、かつ随分遅くなったのに嫁はんもまだ帰っていません。こんな時アドリブの利かない私は困ってしまってワンワンワワン、どうして良いか分からない。嫁が帰ってきてから外食、となると近くのお店はほとんど閉まっています。コンビニで即席飯・・・ というパターンは嫁が嫌うので私も敬遠するようになってしまい、使えません。

こうなったら、ありあわせの食材で何かをでっちあげるしかない。
おかんももう寝てる頃、いい加減親に頼りっぱなしも恥ずかしいので、この際さしすせそ、とか火力・分量・調理時間など料理のセオリーは完全に無視して、これまで培ってきた感覚で出鱈目にやってみよう。

まずは味噌汁・・・ ってすでにここから頓挫、味噌がまるでありゃしねぇ。神よ。
開き直って一品もの、丼をこしらえることにしました。冷蔵庫にあるまだ食えそうなもの・・・ よし、これでいこう。

テキトーに熱したフライパンに、マーガリンをテキトーな量回します。
鮭の切り身一切れを、軽く塩コショーしながら火を通していきます。
テキトーに刻んだ人参・玉葱・白菜・しめじ・葱の順に投入し、鮭がグシャグシャになりすぎない程度にテキトーに炒めます。
奇跡的に忘れず炊いていた白飯を丼によそい、炒めた鮭その他をのっけます。
最後に味の誤魔化しに、賞味期限が去年の開封済みそうめんつゆ(ストレート)をひと回ししてできあがり。

出来上がった頃にうまい具合に嫁はんが帰宅、腹を空かしていたためかこの出鱈目丼は大変な好評を博し、ぐずぐず気味の鮭の見た目から「グリズリー丼」(※グリズリー:カナダの熊。)と名付けられて以後嫁のレシピに加わりました。
このとりとめのない文章からもお判りの通りおしなべて直感的な私は、きっちり計りながらやるよりもなんとなぁくで作業する方がうまくいくことがよくあります。ポンコツな左脳をフォローするのに決して出来は良くないであろう右脳も必死なのでしょうが、何とかなってよかったです。

まあなにはともあれ、料理は・・・ ラブよ、大切なのは(笑)。
↗へなちょこリレー物語第15話より。(オポムチャン)

(寸評)俺は料理は一人暮らしの時はもやし炒めとか豆腐一丁丼とか料理じゃない料理しかしてなかったので結婚後はほぼ皆無。
でも新婚時代に妻が風邪で熱を出していたので唯一作ったのがチーズグラタン。
「(俺基準で)食べやすい物、出来たよっ!」
と言ったらその時は食べてくれたが後で、
「風邪の時はあんなにコッテリしたものじゃなくてサッパリしたものが食べたかったよ」と言われた。
(俺基準で)サッパリしたものだったのだが・・・。 6ポイント。

初めての済州島

仕事での滞在が終わり、日本へ完全帰国する前に、まだ一度も行った事がなかった、済州島へ寄ってから、帰国することにしました。
今までの4年間の滞在で、2度ほど国内線と国際線の乗り換えのため、済州空港だけ利用したことはありましたが、いずれも空港の外へ出なかったので、行ったうちには入りませんね。

実は今までの往来の際に利用した飛行機のマイルもそれなりにたまっていて、ストレートにソウルから羽田へ行く便に乗れば、マイレージでビジネスクラスで真横になって、2時間半リラックスして帰れたのですが、済州島に寄ることにしたため、韓国本土から済州島へ行く国内線と、済州島から成田へ行く便をそれぞれマイレージで予約しました。
せいぜい50分程度の国内線はビジネスクラスに乗れたのですが、成田行きの便はマイル不足につき、エコノミークラスに。
こう書くと、「せっかくタダ同然で長時間ビジネスクラスに乗れる機会だったのに、もったいない!」という声も聞こえてきそうですな…。
ちなみに、マイレージで購入した航空券とはいえ、燃料サーチャージや、空港利用費は自腹だったため、国内線・国際線合計で七千円ほどの出費がありました。

そんな訳で、2年前まで働いていた町を訪問してから、その町の空港から済州島へ向かいました。
空港は海のすぐ近くで、ターミナルの左右がそれぞれ国際線、国内線に分かれていました。
国内線は滑走路の上で降りてから、バスでターミナルへ。
空港の表玄関へ出ると、日本の四国・九州地方の駅前と同様、ソテツの木がロータリーに植えられていました。

市内バスで10分ぐらい移動し、市街地の真ん中にあるバスターミナルの前で降りました。ソウルや、他の地域で使っていたICカードはバスでも使えましたが、若干システムに違いがありました。
というのも、ソウルや他の地域ではバスを降りた後、30分以内なら、同じカードで無料で(もしくは安く)乗り換えられるのですが、こちらは最初に乗って、カードをリーダーに当てた時から30分以内だとか。

翌日はバスで昔ながらの済州島の人々の生活様式を展示した、民俗村へ。テレビドラマの撮影を説明するパネルや、海女さんや昔の人々を再現した、マネキンもところどころに設置されてました。
高校生ぐらいの修学旅行生もたくさん来ていて、ガヤガヤ。
しかし、雰囲気は同じ韓国でありながら、微妙に異なってもいました。バスの運転はソウル近辺と同様、ジェットコースター並みの荒っぽさでしたが、他の地域にはないソテツがあったり、訛りもきつかったり。

2泊3日の滞在日程を通して、全ていい天気続きで、韓国滞在のフィナーレには、まあよかったかと思いました。
ただ、全く知らない人達だらけの所で、若干怖くもありました。日本人より、中国人観光客が圧倒的に多くもありましたので。(Hi-)

(寸評)でも済州島に船で向かわなくて良かった・・・。 6ポイント。

初めてのワンマンライブ

たまに憧れてギターやピアノで歌を作り始めて今年で5年目。そろそろレパートリーも増えてきて、技術もあがってきたのでどこかでまとめてお披露目したい所。といってもライブハウスの門を叩いて回る暇も度胸もお金もないので、通い先の世話になるという事態に。

通い先も利用している地下の多目的ルームのピアノが使えるという事で、それに合わせて年度末に予定を組んだ。ポスターを自作し、ドリンクのジュースを買って、紙コップも用意。ルーム利用料も自腹。ポスターの直しを指摘されながら完成させて、貼らせてもらう。いつも仕事をしている仲間には自分から声をかけた。もちろん招待は無料。
人によってはお叱りを受けるかもしれないが、ピアノが家にあり、それに乗じてギターもOKだろうという貞で夜9時までという制限で自宅で練習していた。最近はさすがにご近所の迷惑を考えて近くの公園でやったり回数を減らしたり。

ライブ当日、上司にも手伝っていただき、会場へ荷物運び。雰囲気作りに作ったポスターすべてを貼ったが手こずった。リハーサルもそこそこに10分前に会場。また雰囲気作りにかけた音楽は滝本晃司さんの新作CD。思ったより人がきてくれたのは嬉しかった。
開演時間を延ばしてジラすなんて真似はできないので、時間通りに開演。十分練習してきたので、見る側の反応もいいだろうなんて思っていたがちょっといまいち・・・。ギターで2曲演奏し、ピアノに移動。3曲目ぐらいでようやく気付いた。僕自身たまをはじめ、割と人より様々な音楽を聞いてきた事。特に忌野清志郎、浅井健一あたりでは完全に世間的な歌がうまい基準から逸脱している事を。そんなこともあって聞き手がイメージするものとは全然違うものになっていた事だろう。序盤、聞き手を置いてけぼりにしてしまった感は否めなかった。

休憩を挟み、会話も弾んで第2部、さすがに双方盛り上がりが出てきたのを感じた。たまの『星を食べる』を含めてオリジナル曲を披露。MCは、これは受けるかな、と思ったものがウケなかったり、逆に本当に何気なく言った事がウケたりで難しかった。アンコールには思わぬ方も見えて無事盛況に終わりました!
知り合いの方からのアドバイスで、まずはみんなが知ってる曲をやらなきゃ、とのアドバイスを受けたが、興味が無い上に、招待もタダでドリンクまで出しているのだから自分のやりたい事をやらしてくれ、という事で通した。考える事はつきないがまたやってみたい。色々工夫を凝らしてまたやってみます!(Sankaku)

(寸評)おめでとう。長く続けていくならお客さんが少なくても自分のやりたいことをやるので正解だと思うよ。
そうじゃなきゃ、何の為にやってるか分からないからね。応援ポイント10ポイント!

初めての潜入捜査

僕が中学生の頃の話です。
僕には当時高校生の兄がいて、兄弟の中でただひとり個室を与えられていました。
僕を含む弟たちはそれにくらべて一つの部屋でザコ寝という、不公平な状況でした。
中学生と言えば、第二次性徴を迎え、性欲がさかんになる年頃です。
なのに、そんな兄弟が騒ぎまわっている部屋で、うかつなことはできません。
兄貴がうらやましいなあ。
そんなこと気にしないで、いろんなことができるだろうから。
…あっ。
僕は気付きました。
高校生にもなれば、友達からいろいろエッチな本をまわしてもらったり、ともすれば自分で買ったりしているに違いありません。
じゃあ、誰もいない時に兄貴の部屋に潜入すれば、めくるめく世界が僕を待ってるかもしれない。
でも兄は部活もしてないし、大抵家にいるのです。
僕はチャンスをずっと待ち続けました。
すると高校受験を迎えた中三の冬、家族でスキーに行こうということになりました。
僕はここぞとばかりに、受験勉強を理由に留守番をすると申し出ました。
家族は僕を残して、車で出かけて行きました。
もちろん、残された僕は受験勉強なんてするはずありません。
兄貴の部屋に一直線。
机、ベッドの下をくまなく探しますが、お目当てのものはまるで見つかりません。
部屋の隅のクローゼットも開けて引出しも探しますが服しか出て来ません。
エッチな本があるというのは僕の思い込みで、兄は真面目な奴だったのだろうか?
そんなはずありません。
クローゼットの中にあるバッグの中から、ちらりとのぞく本の端。
紐でくくってあるバッグの口を広げると、中身は大量のエッチな本だったのです!
ただ、その紐のせいでうっかり開けられません。
僕はそんな結び方を知らなかったからです。
兄貴が次に開ける時に結び方が変わってたら、バレて殴られてしまいます。
でも、せっかくの宝の山を前にして、僕も引き下がれません。
僕は自分の部屋からノートと鉛筆を持ってきて、紐がどんなふうに結ばれているかを仔細にスケッチしました。
自分でも完璧だと思えるスケッチができ、僕は喜び勇んでバッグを開けました。
初めて見る(大事な部分もバッチリの)大量の本に囲まれて、僕はからっぽになるまでコトに及びました。
まさに、めくるめく世界でした。
あまりの衝撃に、身震いさえしました。
もう痛くなってきたので僕はスケッチ通りに結び目を再現し、何食わぬ顔で家族の帰りを待ちました。
中学生時代の、エッチな事に対する並外れた執念が取らせた、初めての潜入捜査でした。(こっくん)

(寸評)うんうん、あの頃はとにかく情熱のすべてをそれに捧げていたと言っても過言ではないな。
俺も遠くの自動販売機や古本屋や河原などでたくさん拾った。
長男だったからふたつ違いの弟はもしかしたら忍び込んでたかもな。
あれはあれで熱い季節だったなー。 8ポイント。

初めての軍事クーデター、でも今のところ無事です

  2014年5月22日、戒厳令下のタイで、治安維持にあたっていたタイ国軍が行政権力の掌握を宣言し、事実上の軍事クーデターが起こり、タイ全土は軍政下におかれることになりました。当日は夕方にマスコミを通じてその発表がなされ、夜10時から朝5時までの夜間外出禁止令も同時に発令されました。バンコクに住んでいる私は、インターネットのニュースを通じて情報を得ました。ふだんは深夜0時近くまで仕事をしているので、この夜間外出禁止令はびっくりすると同時に、残業できないので困ってしまいました。とりあえず夜7時過ぎに帰宅しようと会社を出ると、道路は大渋滞で、通勤で利用しているBTS線の駅も大勢の人で溢れかえっていました。終電が3時間早まり、午後9時に運転を休止するので、そのために通勤客が殺到したのです。ふだん30分くらいで帰宅できるところ、1時間以上かかってしまいました。それからちょうど1週間経ちました。日常生活に大きな変化はありません。昨夜28日から、夜間の外出禁止は午前0時から4時までに短縮されたので、終電も午後11時まで2時間遅くなりました。5月29日現在のバンコクの様子ですが、政府系官庁には近づいてないのでどのようになっているのかわかりませんが、街中に軍人の姿はほとんど見かけません。駅に3〜4人の兵士が警備のために立っています。2006年のクーデターの時は、軍用車両が大量に街中に配備されたらしいですが、今のところそのようなものものしさはなく、タイ国民も淡々と生活しているように見えます。ただし軍政に反対する小規模なデモがあったり、半年近く反政府デモ勢力に占拠されていた政府系官庁が解放され、6月より平常営業を再開するとか、そういうニュースが入ってきています。
軍事クーデターについては世界各国から遺憾の意を表明されていますが、批判をかわすために、早々に民政への権限委譲をするのではないかと予想されます。その時は2006年のクーデター同様、タクシン一派を一掃し、反タクシン派で新政府を作っていくものと思われます。しかし、その手続き上で政治的判断を誤ると、王室の権威が傷つき、国内が二分して、さらに酷い事態に陥るかもしれません。どうなるかは今のところまったくわかりません。引き続き、事態の推移を見ていきます。(波照間エロマンガ島)

(寸評)うーん、タイは俺にとっても第二の故郷みたいなもんだからとても心配。
正直、政治の話は疎いのでどちらがどうとはよく分からないが無血で事態が収束するのを願うばかり。
現地からの報告、今後も待ってます。 6ポイント。

はじめての人力車

  いやぁ私もそろそろ潮時ですねぇ、いい加減初体験のネタが無くなってきました。
とはいえここ最近のこのコーナーの投稿を振り返ればほとんどが私の主に下品な過去で埋め尽くされている有り様、ぼちぼちペースを落とすべき時期なのかもしれません。でないと他の方が投稿しにくいですよね、ハッキリ言って。

  さてしかし性懲りもなく残り少ない思い出話を。関西の私が人力車に乗るとなると、一番手近なのは京都です。されどそんな近場でわざわざ人力車に乗るほど私は小粋ではありません。
ほなどないしてん? 何をとち狂って何処で乗ったっちゅうねん? というと小樽です。

  おおよそ10年前、海外が大っ嫌いな偏屈・卑屈・鬱屈のくっつくつな私は新婚旅行を国内にする、と高らかに新妻に宣言しました。
嫁はんは我を通さない謙虚な娘で、イギリスに若干興味はあったが絶対行きたいというわけではない、とのことだったので2人とも行ったことのない北海道へ行くことにしました。
旅行会社がくれたぺらぺらのガイドには小樽のガラス細工屋さんが有名である旨の記載があり、札幌の宿に荷物を置き身軽になった我々はJRで早速小樽へ向かいました。
・・・無計画な私は何分かかるかをろくに調べずに乗車したため、思った以上に時間をかけて辿り着いた小樽の日ははや暮れなんとしていました。ガラス細工屋さん、すでに閉まってやんの。

  そこへ凹み気味で街を彷徨する我々を見て声を掛けてきたのが、人力車の兄ちゃんであったというわけです。

  「お2人、しゃべり方からして関西の方ですね? どうです、旅の記念に小樽の街を人力車で紹介させてもらえませんか?」
目的を失ったにもかかわらず、ケチな私はうだうだ渋っています。
「30分3000円の(うろおぼえ)お試しコースもあるんです! 折角ここまできたんですから、是非!」
まぁしゃあないな、このまま帰るのも癪だし。と、お願いすることに。まだ20代前半という愛想のいい兄ちゃんの用意する台から座席に乗りますがこれが斜めで怖い。曳き手が持ち手を降ろさないと後ろに傾いた状態なのです。まだ若そうな兄ちゃんなのに私みたいな小太りを乗せて大丈夫か、と不安になりましたがよく考えると嫁はんは人並み以下の体重なので足して割ると60kg以下、そう考えればきっと余裕でしょう。

  新婚であることを告げると兄ちゃんは必要以上に喜んでくれ、小樽の夜景をバックに乗りながら写真撮りましょう、と嫁のデジカメをパチリ。夜景は真っ暗だし何故か四分休符のような光が漂っているという謎写真になりましたがなんか味があるから許します。また単純な我々は何のかんのおだてられて結局気分を良くしておったのです。扱いやすい客です。  

有名なレストラン前、旧史跡などいろいろ廻ってもらったのですが大分忘れました。小樽の運河沿いの道は坂が多いのに、兄ちゃんはあくまでも爽やかに
「こんな坂道でも、へっちゃらで〜す!」
と台本にでも書いてあるかのごとく台詞を吐き、我々を運びつつガイドします。
結局兄ちゃんの健気さに打たれ、さっき提示された倍の料金の通常コースになったのですが、私が兄ちゃんから貰った薀蓄を2つだけ憶えていたので紹介しましょう。

「この運河の向こうに見える建物、実はなんと、ショッカーの秘密基地としてロケで使われていたんです!」  

「この民家と民家の間にあるのは“うだつ”と言って、実はなんと(←このフレーズ頻出)、防火壁の役割をしていたんです! 小樽は火事が多かったから、延焼を防ぐために各家の間にうだつを造ったんです。お金を持ってる人は立派なうだつを高く築ける。でもお金儲けが下手な人はうだつを高く造れない。だから『うだつが上がらない』って言うんです!」  

ほっほう、面白い。若いのに商売のために勉強してんだねぇ。まぁガイドするんだから当たり前っちゃあそうなんですが。
晩飯の予定も特に決まってなかったので、兄ちゃんおすすめのガイドにも載ってない美味しいお寿司屋さんまで乗せてってあげる、とのことでお寿司屋前で人力車は停車。アンケートハガキをお願いされて、代金を支払って兄ちゃんと別れました。いささか強引に乗せられてうまいことやられた感も否めませんでしたが、終始爽やかに応対してくれたのでその心意気に免じて納得しておきました。またガイドに載っていないらしいお寿司屋は本当にうまいお寿司を提供してくれて、あんなにうまいウニとイクラ(普段は両方食べられない)は生まれて初めて食べました。非常に満足して、夜の小樽を後にしました。  

もう引退したのか、それとも人力車協会の中でちょっと偉くなっているのか、ともあれあの兄ちゃんには今も人力車の世界で活躍してて欲しいなぁ、なんて遠い記憶の遠い場所の人に思いを馳せてみる火曜の夜更けでした。(オポムチャン)

(寸評)そういえばやはり外国嫌いの大谷も新婚旅行は北海道だったな。
小樽はライブでもう10回近く行ってるけど、たまがデビューしてしばらくの頃、札幌でオフ日があったので小樽をひとりで歩いてみたら、偶然Gさんと会ったので「じゃあちょっと一緒に水族館でも行ってみるか」と言ったところ雨が降り出し、しかし傘は一本だけ。
Gさんと相合い傘で町をそぞろ歩いたのが一番の思い出です・・・。 6ポイント。

はじめての運ちゃん何処いくねん

引越しに伴い、この2月から私は通勤にバスを利用することになりました。バスと2本の電車を乗り継いで職場まで1時間。関東の皆様から見ればたかだか1時間程度なら恵まれた通勤環境であるのでしょうか。

それはさておき、このバスによる通勤は私の人生において初めてのことで、色々と難儀をしています。
私の利用するバスは吊革・網棚がなく、ギターなんて担いで乗ろうものなら顰蹙もので、また電車と違って交通状況によっては遅れが生じ、乗りたい電車に間に合わないこともしばしばで苦虫をモグモグする次第です。なに? お前がもっと早よ起きたら済むだけの話やんけ? いやだから私が乗ってるバスは始発なんですってば。それに乗ってすら今まで(引越し前)と同じ時間の電車に乗れないのは致命的なのです。ムムゥ、不便だ。まぁ、家の近くまでバスが通っているだけまだ私は幸せ者ですね。

さてある夜。会社の労働組合の会議を経た帰りの私は、電車を降りてバス停に急ぎました。22時のバスが私の自宅最寄りへの最終車なのです。
その日の運転手さんは実に穏やかな口調の丁寧なアナウンスに好感が持てる、初老の男性でした。
電車でもアナウンスに個性は出ますがワンマンバスの運転手ほどではありません。大抵のバスの運ちゃんはぼそっ、と呟くように、または吐き捨てるようにしか喋らず、荒っぽい運転からは渋滞や信号待ちの連続でイライラしている様子が伝わって来ます。
それが普通である大阪の路線バスにおいて、この日の運ちゃんは特筆すべき上品さ・親切さを湛えていました。

素晴らしいプロ意識だなぁ。1人でもこういう方が居てくれたら辛いバス通勤も耐え甲斐があるというものです。

最終バスは私と十数名を乗せて、住宅街の中を緩やかに走ってゆきます。
もはや誰も乗り込んでくる気配の無い、真っ暗な豊中高校前の停留所を過ぎた時、異変は起こりました。

左折する筈の交差点を、運ちゃんは何と直進したのです!!

あばっ!? そ、そっち行ったらワシもう帰られへんがな!! もう私の阿呆っ、最終バスを乗り間違えるなんて。ぐわぁ、あんな場所から歩きかよ・・・ っておかしいな、確かにバスの電光表示はいつもの路線番号【47】を示しています。
それに私の他の乗客も異変に気付き、車外のあり得るべからざる光景に目を疑っている様子です。

誰もが沈黙しながらもにわかにざわついた車中の気配を感じたか、交差点を抜け切ったところで丁寧な初老の運ちゃんがようやく事の重大さに気付きました。

「・・・失礼しました、このバスは〜〜方面行き、交差点を左折します」

少し焦った様子で、運ちゃんは早口でそう告げました。この先に進んでしまえば左方向は大きな池、軌道修正は困難です。一体どうするのか、ドキドキ・・・

するとバスは交差点に向かい、するするとバックを始めました!

幸い時間帯も味方して後続の車は1台もおらず、まだ青信号の交差点へ戻ってゆくバス。
そしてバスは何事もなかったのように、正規のルートへ帰還したのでした。

・・・路線バスで、こんなことがあるのか。
通勤に使うのは初めてにしても、今までの人生で自分の乗ったバスがルートを間違えたのは初めての経験でした。
しかも今回は時間がたまたま遅くて良かったものの、朝夕の渋滞時間帯だったら!? また信号が赤に変わってしまっていたら・・・!? その先の道に、Uターン出来るような広い場所はありません。結果バスは大幅な遅延を生じたことでしょう。

他に類を見ない親切丁寧な運転手さんだっただけに、神経を客側に向けすぎて運行路線を勘違いしたのでしょうか。また最終便であったため、疲れがピークに達していたのでしょうか。

ともあれいつもと変わらぬ乗車時間で帰宅できたことをことほぎ、お客を乗せる商売も責任重大で大変だなぁ、とひとり顧客サービスと運行の正確さの板挟みについて考えた金曜の夜の珍しい体験でした。(オポムチャン)

(寸評)昔、那須の山奥にある北温泉というところにバスで向かったことがある。
バスは駅から一度山の頂上の方まで上り、そこで下りに乗り換えてひとつ目のバス停。
もちろん初めて来るところだから頼りになるのはバスの車内放送だけだ。
「次は北温泉入り口、北温泉入り口」でピンポーン。
すると運転手の焦った声。
「えっ、お客さん北温泉で降りるんですか!?」
「はい」
「・・・もうとっくにバス停は通り過ぎました」
「えっ」
「あの温泉にはみんな車で来るのでいつもバスでも降りる人がいないので、もうとっくに過ぎたけどまとめて車内放送のテープかけました」
「・・・・・。」
道は山の細い一本道なのでUターンなどは不可能。
「すみません、ここで降りてそこにケモノ道が温泉まで繋がってるから、そこを行ってください」
すると、本当に人の背より高い木が多い茂ったケモノ道だった。
だんだん迫って来る夜。
もちろん暗くなったら30cm先も何も見えない。
30分ほど山道を登ったところ幸いにも温泉の灯が見えた。
温泉に着いて受付をすると宿の人たちの声。
「あんた達がバスに乗って来た人かね!?」
「はぁ、そうですが」
「実は今バスの運転手から連絡があってこういう事情で途中で降ろしてしまった。あと少ししても着かなかったら警察を呼んで捜索隊を出すところだったんだよ」
あと一歩で遭難の危機だったのだ。
バスは、意外と危険をはらんでいる。 7ポイント。

はじめてのタテマエとホンネ

2014年5月現在のところ寝小便は癖になっていない36歳下戸・オポムチャンです。
さて先日の屈辱的な大人寝小便で思い出した、幼稚園年中さんの頃のこれまた小便がらみのお話。たびたびすみません。

私は幼稚園時代、何度か起きながらにして小便を漏らした記憶があります。そうすると先生があわてて飛んできて教員室で替えのズボンとパンツを穿かせてくれました。いったい何処から自分のズボンとパンツが現れたのか当時は不思議でしたが何のことは無い、こういった事態を想定しておかんがあらかじめ園側に預けてくれていたのですね。ははは。

さてその日のお昼ご飯の時間です。それぞれのおかん・おとんのこしらえたお弁当が温められてめいめいの机に配られます。
コップになんだか薄味でまずいお茶が注がれ、みんなに注がれたところでお手々を合わせ、いただきます!

机を向い合せにした席でお弁当を夢中で食べる私。すると食べるのに必死で、迫っていた尿意の事をすっかり忘れていて、我慢したり先生に手を上げる間もなく膀胱が決壊しました。
ビシャビシャと床に滴る液体。
先生は自分のご飯を食べるのを中断して、私のもとへ駆け寄り、こう言いました。

「あらあらオポム君、お茶こぼしてしもてんな。先生と一緒にズボン替えよ」

敷地の北側にあるきく組の教室を出て、私とタカダ先生は小さな校庭(園庭?)を横切り、教員室に向かいました。
おやや、僕小便垂れたのに、タカダ先生はお茶こぼしたと思てるのか。小便を漏らすのは少しかっこわるいので、勘違いしてて良かったぁ。
そう思って安心していた矢先に、先生の口からこんな言葉がこぼれました。

「・・・くさっ」

私の幼い耳はその呟きを聞き逃しませんでした。が、とくに何も言えませんでした。
今から考えれば当然のことですが、先生は私が小便を漏らしたとわかっててお茶こぼした、と言ってくれたのです。
小便漏らしは恥ずかしいこととみんなが認識しだした頃なので、からかわれたりいじめられたりしないように配慮してくれたのでしょう。
ただ、気持ちは分かるんですが、せめて私の前では勘違いしたフリを続けて欲しかった・・・ です。
くさっ、て。騙せたと思っていた私の幼い心は影を帯びました。

おとなは、こういうウソを使って、僕らを守ったり操ったりするんだなぁ。
そんな大人の優しさ、そしてズルさを感じながら股元を水洗いされていた、5歳のお昼時の記憶でした。(オポムチャン)

(寸評)子供も大人も人は意識が出た時からズルい。そして優しい。 7ポイント。

はじめての成人後寝小便

  妙な部分で記憶力が良く、昔の些末な事ばかりやたらと憶えているせいで、このページを無駄に占拠している私ですが、小さい頃初めて寝小便をこいた記憶というものは何故か残っていません。
ただしかし、そんな思い出をもう持っていなかった私に、何か不思議な力がその記憶を新たに与えんと悪戯をしました。まぁ内容としてはすでに出オチなんですが(笑)。

  信楽パスカルズの前日、2014年4月26日土曜の夜。帰るのが遅くなった私はこのページの各種投稿が滞っていたこともあり、風呂にも入らず必死で投稿文をこしらえていました。
ですが4月の後半はやたらと仕事が忙しく、私の疲れはピークに達していました。
食卓の椅子の上で舟漕ぎを繰り返しては覚醒、てな具合で、もはや椅子に座っていることさえ辛くなってきました。
しかし寝ようにも私はまだ風呂に入っていません。イーコール、女房子供がグースカ寝ている布団には潜り込めないのです。何故なら汚いからです。何が。私が。

  外に出で汚れた状態で布団に入るのが嫌いな私に残された選択肢は3つ。

  1・風呂に入る。
いやいやもう疲れててそんな気力ありません。眠さがマックスの時の風呂は、怠惰な私には非常に億劫なのです。  

2・布団ではない何処かの上で寝る。
・・・床? 無理無理無理、だいいちまだ寒いし、さすがに辛い。椅子? せやからそれが厭やから困っとんねん。  

3・寝ない。
あほぬかせ。もう若くないの。てゆうか明日高速道路3時間は運転するねんぞお前?   

どれをとっても私のニーズにまるで応えられません。
賢明な皆様は早よ風呂はいれ、と突っ込まれるでしょうが、人間の3大欲求と呼ばれる睡眠欲をナメてはいけません。
となると、1以外の選択肢でなんとかしないといけないわけです。えええ、厭だぬぁ〜〜。ねむっ。
・・・そうだ忘れてた、引っ越したばかりの私の家には、嫁はんの叔父さんが余ってるものを下さった、まだシーツも敷いていない、つまり裸のベッドがあったのです!  

そうじゃそうじゃ、そのベッドの上なら布団が汚れることもないし、寝転びながら投稿文が書けるじゃあーりませんか。
結局2と3の折衷案みたいな中途半端なプランでよろよろノートパソコンをベッドの部屋に持ち込み、寝っ転がってパソコンをかたかた。おお、快適だ。快適すぎる。快適すぎて1行書いたところでハイ、寝落ち。  

気が付くと早朝。私が居ないのに気付いた嫁はんが、タオルケットを掛けてくれていました。
ありゃりゃ、申し訳ないことをしたなぁ。さっさと風呂入って、すっきりしないと・・・ ね・・・・・・  

色彩の乏しい光景の中。
私は母の故郷・九州の天草へ鉄道を使ってひとりで帰ることになりました。
しかし暴風警報が出るらしく、私は見知らぬ古い駅で立ち往生することになりました。
ひとりで電車で天草なんて遠方に行ったことは無く、利用路線も到着時間もまるでわかりません。そもそも天草まで電車は通っておらず、熊本のどこかでバスに乗らなければいけない筈です。
とても不安になった私は、不安を紛らそうとしたのか駅の便所に入りました。
便所は何故か、大きな水瓶でした。
私は水瓶に向かって、勢いよく小便を放ちました。
なんだか現実感が希薄です。
尿をしている感覚が画像とズレています。
そして唐突に訪れた、股元あたりの現実感!!  

私は下着の中に、滔々と小便を放っていたのです!!  

私は二度寝して田舎に帰る夢を見、夢の中の便所にまんまとやられたわけです!
あわてて膀胱のバルブを閉め飛び起きましたが手遅れ、タオルケットは蹴飛ばしていて無事でしたが下着を通り越して寝間着までビッシャビシャでした。
ベッドにも被害が及んでいましたが幸いにして狭範囲、洗面所にすっ飛んで湿らせたタオルで拭き去りました。  

落ち着いて改めて現実世界の便所で残りの小便を放ちながら、私の胸中はなんとも言えないやるせなさでいっぱいになりました。
この太腿のかゆい感覚。
遠い昔、たしかに経験した感じです。
今までも夢の中の便所で小便をしたことはありましたが、すんでのところで目が覚めて漏らしてしまったことはありませんでした。  

・・・・・・これか。これが、老いというものなのか・・・・・・・・・。
36歳にして己の自律神経の衰えを悔やむのも随分早い気がしますが、多少は歳をとった影響もあるのでしょう。また、疲労も蓄積していたため、脳味噌も制御不足に陥っていたのだと思われます。  

朝も早よから寝間着を洗濯機にかけ、風呂に入りました。
隠しても仕方ないので、起きてきた嫁はんに「おっさんになって初めて寝小便こいてもた!」と報告、後始末もきちんとしていたので特段叱られることもありませんでしたが、ほの切ない屈辱がしばらく私の中にわだかまりました。  

記念すべき初パスカルズの朝、私はそんなミニ事件を経てから信楽に向かっていたのでした。
胸の哀しみはステキな演奏でぶっ飛びました。ありがとう、パスカルズ(笑)!! (オポムチャン)

(寸評)信楽のステージに上がった時、客席から吹いて来る風に妙なアンモニア臭がするな〜と思ったら、あんただったのかいっ!!
・・・てなことはないが確か酒も飲まぬはずのオポムチャンがやらかすとは。
俺もよくトイレに行く夢はみるがまだ大人になってからは一度も無い。
癖にならなければ良いが。
いや、今後の投稿のことを考えれば癖になった方が良いか・・・? 8ポイント。

はじめての先生の半ズボンの裾から

小学校4年生の夏の話です。

私はその年に限らず毎年毎年、そう高校を卒業するまで、夏休みにはプールの補習を受けていました。
完璧なカナヅチ、というわけではないのですが、クロールの息継ぎがへたくそで、頭を完全に水上へ出さないと怖くて怖くて息ができないのです。平泳ぎに関しては手足のタイミングがバッラバラで、まったく水を掻いている感覚がわかりませんでした。
詰まる所、私のもっとも得意な泳法は、犬掻きでした。何故ならずっと息をしたままでいられるからです。そもそも幼少のころから何度も中耳炎に悩まされてきた私、耳に水が入ることを(今でも)極端に嫌うのです。
ですが悲しいかな、学校の授業で犬掻き25m、なんて内容はやりません。クロールで顔半分を水中に残したままスマートに息継ぎをすることが要求されたのです。

前置きが長くなりました、要は夏休みごとに大嫌いなプールに呼び出されとったわけです。
その日の担当の先生は2・3年生の時に担任をして下さったキムラ先生でした。このキムラ先生は当時50前くらいの女性教師で、私はよく忘れ物をしてはこっぴどく叱られていたのを疎み、3年生に上がる前に「うわ、またキムラのおばはんや」と口に出して嘆いていたところをクラスメートの陰気なH川さんに密告され、新学期早々職員室に呼び出されてネックハンギングツリー(プロレスでも怪力派が使用する絞め技。両手で相手の首をつかんで高く持ち上げつつ絞める)を敢行されたという因縁のある先生です。ちなみに当時の大阪の小学校ではたかだかその程度の体罰は日常茶飯事でした。

担任を外れて久しぶりに直接指導を受けていたのですが、さすがに夏の暑い日、先生の格好も普段と比べてずいぶんラフでした。Tシャツに短パン姿で、しゃがみ込んでプールサイドから指示・指導をします。
どんくさいクロールをもっちゃらもっちゃら泳いで6コースの飛び込み台の下まで戻ってきた私。なにかしら指導のコメントをするしゃがみ込んだ先生の短パンから、おや、何かが覗いています。



私は指導の内容も半分しか頭に入らず、ふたたび25mの往復に泳ぎだしました。
眼の錯覚だろうか、きっとそうだ。そこにそんなものがあるものか。だってここは野外だもの。
雑念にまみれて泳ぎ帰ってくると、余計な力が抜けていたのか先生からは褒められました。しかし私の神経はすでに別の場所へ行っています。
もう一度、話を聞いてるふりして、しゃがんだままの先生の股元を確認しました。
たしかにそこには、その股元の中心から伸びている、一本の、毛がありました。

私はその事実に激しく興奮しました。
4年生、まだ精通も始まっていないうぶに過ぎる時代。でももちろん、女陰というものには非常に興味がある季節です。
そんな子供の目の前に、神秘の部位からいたずらに一本はみ出した、毛。
相手が50前のおばちゃんであるというのに、私は目を逸らすどころか、屋外で露わになるべきではないものが露わになっているという事態に、とてつもないエロスを感じたのです。

プールの中では、私のかわいらしい棒がキンキンになっていました。
次の往復から帰ってきたときには先生は日陰で休憩しており、ようやく私の勃起もおさまりました。これで無事(?)プールサイドに上がれます。

知久さんの「植木鉢」のように半ズボンの裾から糸ミミズの王様が出ていたらもっと衝撃でしたが、たかが毛一本、されど毛一本。この経験は私の女陰の神秘に対する興味をさらに加速させ、数年後、学校でも名高いムッツリスケベの称号を手にする足がかりとなったのでした。(オポムチャン)

(寸評)ちょっと昔、パスカルズの打ち上げの二次会で宿泊先の誰かの部屋で飲んでる時、やはり50前後の女性スタッフが寝てしまったのだが、スカートがめくりあがってパンツ丸見え。
しかもそのパンツから毛が一本どころか両側からタワシが。
他の女性に言って仕舞ってもらった。
50になると、もう毛は出してもいいようだ・・・。 7ポイント。

はじめての窒息

  小学校に入った頃。私は家の中で布団を引っ張り出してダイブしたり毛布をブン回したりして兄弟・友人達と遊ぶのが好きでした。

その日も私と兄貴と近所のカサマツ君は、おかんが居ないのを良いことに押入れからすべての布団を排出、上段からフライングボディプレスを敢行したり、多重にした布団の山をこしらえて登ってみたりと、幼く他愛ない遊びに呆けていました。
(もちろん後で外出した服のまま布団で遊ぶな、とぼろくそに怒られるのですが、それはさて置き・・・) 

フトンに潜って洞窟探検、僅かな光を辿ってモゴモゴプハーッ。なんてなことを兄貴とカサマツ君が繰り返しており、なんだかとっても楽しそうなので私もエイっと重たくかさなった布団の山の裾をめくり、その闇の中へ這い入りました。 

家のすべての布団を重ねているので、低学年には少々こたえます。それでもズリズリと布団の真ん中まで進んだその矢先。 

ずしっ。 

兄貴とカサマツ君が、あろうことか布団in私に上から乗っかり、はしゃいでいるのです!
何を言ってるのかはよく聞こえませんが、ふざけて私をおちょくっていることだけは確かです。
しかし楽しそうな2人とは裏腹に、私はパニック状態です。
身動きがとれません。
声が出せません。
息も、出来ません。

大変苦しいので是非今すぐやめて頂きたいのですが、バカ騒ぎしている彼等に自分が如何に危機的な状況であるかを、伝える術が無いのです。
圧迫された肺から空気がグイグイ押し出されていきます。だんだん、意識が朦朧としてきました。洒落にならん洒落にならん、これはもしかすると、死ぬ、っちゅうやつだろうか・・・ 

その時。何の反応もないのに退屈したのか、兄貴らが布団を退け去り、視界が真っ白に開けました。必死の形相でゼエハア言ってる私を見て、奴等は笑いを上げました。 

笑てる場合か。どあほ。 

時間にして恐らく30秒程度のことでしたが、本当に恐ろしい時間でした。助けを求める手段がなにもない、というシチュエーションは私を布団遊びから遠ざけるには充分な衝撃を与えました。 

ともすれば大魔人にも気付かれないままに背骨を曲げて、ひとりのパーティーを永遠に続けることになりかねなかった、まだ現在のようにおなかがパンパンになる前の私の遠い思い出でした。(オポムチャン)

(寸評)かぁ〜、それ分かる!
俺の場合はほぼカナヅチなので足の届くとこでしか泳がないのだが、プールや海でいきなり深くなって足の下に何も無いと必死になって手足をバシャバシャさせて戻るのだが、この様子が端から見ているとふざけておどけてる様にしか見えないらしく、何度も顔面蒼白になった。
せめて死ぬ時はウヒョヒョヒョヒョッと言いながら沈んで行こう・・・。 7ポイント。

はじめての自動車スローモー足の甲轢かれ

  友部正人さんとたまのCDアルバム名作・『けらいのひとりもいない王様』の楽曲「空が落ちてくる」の中に、「♪自動車に踏み潰された、ぼくの足」というフレーズがあります。それを聴いて思い出した、これまた遠い5歳の記憶。

  幼少期の私はよく兄貴とその友達と行動を共にしていました。
大阪市・天神橋六丁目、俗称天六の小便臭くて汚い裏路地で、私たちは日々所狭しと駆けずり回っていました。
薄汚れた犬やおっさんがそこいらに転がり、通学路に暴力の得意そうな方々の事務所があるというそれはステキな環境でした。  

さてそんな細路地の多い天六・天七裏界隈、道が細い割にはなんとかギリギリ車の通れる広さはありました。
その日も我々アホガキは5人ほどで棒切れやら石ころやらを携えて、列をなして路地を歩いていました。
すると、細い道に差し掛かったところで、古本屋のおっさんの軽トラが我々5人に向かって右折してきました。
道は車1台がギリギリ通れる幅だというのに、おっさんは子供だからと軽くみて、バックをせずにそのまま路地へゆっくり進入して来やがりました。
これには困りました。おっさんは無理矢理こちらへ向かってきます。我々アホガキはまっすぐ一列に並んで建物の壁にへばり付き、退くこともままならず身動きが取れません。
おっさんはゆっくり我々をやり過ごしていきます。のろのろと進むそのうち、ひとり路地を抜け、ふたり抜け・・・ まん中にいた私も車をすれすれでかわして路地から抜け去ろうと思った刹那。  

ぐにぃ。  

おほっ! 靴の上から、おっさんの軽トラのタイヤが私の足を轢いています!
後ろから私は兄貴の友達に怒鳴られます。
「オポム! はよ退けや! 路地から抜けな俺ら通られへんやろ!!」
いやいやいやいや、わし、足の甲轢かれとるがな!
しかもおっさんはスローに前進しており、私の足の上からなかなかタイヤが去りません。
罵倒されながらも、私は今自分の足が車に轢かれているという事実に驚き、自らの状況をうまく口にできません。
じんわりじんわり、軽トラのタイヤは足の甲から離れていき、ようやく私は自由を取り戻しました。

しばらく呆然としていましたが、車に轢かれた割には、脚はけっこうな圧迫感を感じただけで、踏み潰されもせず、擦り傷・骨折などもありませんでした。自動車のタイヤとはそういう仕組みなのか、はたまたおっさんのテクニックか、足を踏まれたと思っていたが実は靴の先だけ轢かれていたのか、ごっつい上等な靴だったのか(多分それは無い)・・・ 真相は謎のままです。
すぐそばの4人に話しても、ウソ言うなや! と嘲られ、親に話したってまるで信じてもらえませんでした。  

その10年後、件のCDでその事件のことを思い出し、親兄弟に「これは自分の事だ」と訴えましたがいよいよ変なモノを見る目でこちらを見てきました。嘘じゃないやい!!
さらに20年後。今も足は何事もなく快調です。結局関係者は誰も信じてくれなかったので、せめてここでポイント化してやろうと思います。時間にすれば数秒の話だったのでしょうが、小さな私にとっては長くて、空が落ちてくる位に怖い時間でした・・・ また機会があれば軽トラに足の甲を轢かれてみて検証をし・・・たくはありません。(オポムチャン)

(寸評)あ、子供の時俺も轢かれたことあるよっ!
幸いなんともなかったよ。
だって、タイヤはゴムだもんね!
ゴムより強い足でお互い良かったね。 6ポイント。

はじめてのチャットバー・ウキュピ

平生からたびたび申しておりますが、私は極度の人見知りで人間嫌いです。
ですのでこのHPのような誰様の干渉も受けない匿名メール投稿さえ昨年3月にはじめてできるようになったというレベルで、ブログはもちろんチャット・ライン・ツィッター・ミクシィ・フェイスブックなども一切扱ったことがありませんでした。

まぁラインは未来電話を所持していないためまず無理として、ツィッターやフェイスブックはえ、えーと・・・なに? あ、あかうんと? か何かをこしらえて登録でもするんですか? とさっぱり理屈がわからず、また別段常時つぶやきたかったり紹介したい自分の現状などネタになるものならここに投稿して勝手に自己満足してるし、ブログに関しても自分になんぞに興味がある奴はまずこの世に居るまい、と思うのでやりません。となるとこの中で一番敷居が低いのはどうやらチャットのようです。私はいやらしいことにこのHPのコンテンツ「チャットバー・ウキュピ」の覗き見はよくしていました。
ただ、一方的な投稿メールなら出来ても人と即時でコミュニケーションをとる事に自信は無いし、不慣れな私の不用意な発言で見知らぬ人様を傷つける可能性もあるので、まぁ自分が参加することはあるまい、などと思っていました。ところが。

時は2014年4月8日22:40頃。いい加減にホルモン鉄道のCDのレポートを投稿しなくっちゃ、とCDをパソコンに挿入してコンテンツ「ザ・レポート」を書こうとした私。その前に、いつもの「着イッター!」と「チャットバー・ウキュピ」のマナー知らずな覗き見をしておこうと開いてみました。
おや! 石川さんがちょうど数分前に「ほげ〜」などと発言してご入室されているではありませんか!
いままでもチャットの出歯亀はしてきましたが、リアルタイムで石川さんが入室して発言されている現場に出くわすことはほとんど稀でした。

私の中に、ささやかな悪戯心が芽生えました。
今なら人も沢山居るし、こっそり紛れても目立たないんじゃないか。
しかし基本的なことがさっぱりわからないし、チャット場にも説明が明記されていないので、ビビりな私は便利なネット検索で「チャット 発言のしかた」などとあほ丸出しのキーワードを入力、なんとか基本的な理屈を理解しました。

さあ語ることは何一つないがこれも経験じゃい、折角の石川さんがいらっしゃる大チャンス、いざ会話に突入だ! と思いましたが発言しようと入力した文章を反映させる方法がさあわかりません。「発言」なんてボタン(?)も出て来ません。ぎゃあ。もう入室者のところにオポムチャン(大阪)って入ってしもてるがな。入室してるのに沈黙してるなんて気味悪い奴・感じ悪い奴になってしまうやないかいなー。どないしょ。どないしょ(関西方言でどうしよう、の意)。 ・・・半泣きで画面の前で震えていると、文字を入力した場所にカーソルが偶然あたり、ご丁寧に説明が現れました。・・・・・・Enter押したらええだけかい。

泡食ってる間に会話は進んでいます。突然参入しても話の腰を折りにくいタイミングを見計らって、ご挨拶じゃい!
石川さん「オポムチャン、珍しい。」
アイヤっ! そのまま会話を続けていただいてたら良かったのに、石川さんが私の登場に反応してしまわれた!
私は必死で冷静な、こんなことしょっちゅう慣れてるし、みたいなフリをして「たまたまいらっしゃったので・・・」的な当たり障りのないコメントを返します。
お話は腰痛について。石川さんが昔からあるN山式快癒器が一番、とおっしゃっていて、なぜか家にもあったがエロい使い方するものかと思った、とか猥褻な方向へ私がついつい舵を切ってしまったが最後、普段からここへよくお越しの皆様が続々と参戦!! 大阪のTさん、福岡のDさん、神奈川のKさん、佐賀のAさん、栃木のTさんなどHPに投稿されている皆さんや、チャットバーでよくお見受けする東京のTさん、千葉のNさん達も参加され、いよいよ場は盛り上がってきました。

いつみんなが次のライブに来るか、みんなは既婚者か? など石川さんが皆に話題を振ってくださり、愉しく会話が回っていたところへ、かつてたまの楽曲を石川さんと一緒に演奏していらっしゃった某コピーバンドの元メンバーの方・Hさんが入室され、その方の「石川さんとのエロ写真公開!?」をきっかけに一気にチャットは深夜のエロエロモードに突入しました。

Hさんが性的なトークをふっかけ、それに男らがきゃあきゃあ喜ぶという構図へさして、入室中の某女性が素股研究会の指導員であったことが発覚、濃厚な女子エロスの応酬にチャットも私の身体の某所も熱を帯びてきます。石川さんも勢いづいてパソコンの向こうのHさんに対して悪代官攻撃を仕掛け、興奮するHさんの様子を見て周りが欲情(私だけか?)、という事態。エロい話ばかり投稿する割に人前ではウブな私はまともに会話に参入できず、差しさわりの無いコメントに終始してしまいました。
それでも、参加した価値はありました。
見ず知らずの方と即時のコミュニケーションをとることに恐怖を覚えて敬遠していた私ですが、いざ飛び込んでみると内容の無い発言しかできないにせよその場でしか味わえないライブな楽しさ・雰囲気があったのです。
結局某所の棒が生殺しに耐えられなくなり、私は寝ることにして御挨拶のうえ退室、ほどなくしてその夜のディープエロチャットはお開きになったようです。そもそもすでに深夜2:30になっていました。みんな明日仕事は・・・? ともあれ見知らぬ方とのエロトーク、抜けるに抜けられない焦れったい快感がありました(笑)。

非常に濃密な空間でした。これ、続けるとただでさえ時間が無いのにハマるとライフワークの投稿までできなくなるので、当面自粛しようとは思いますがこの魅力は危険です。私廃人になります、冗談抜きで。

初めてのことでしたので恐らく私の発言に不快な思いをされた方もいらっしゃったでしょう、この場で恐れ入りますがお詫び申し上げます。ろくな発言も残さなかったのにお相手して下さった石川さんをはじめとする皆様、本当にありがとうございました!! 実をいうとずっと緊張で震えながら打ち込んでました。夜中に大笑いもしました。しょっちゅうはとても出来ませんが、機会があれば、また。(オポムチャン)

(寸評)面白かったでしょ?
まあもちろん日によって入って来る人が初心者ばかりの時や逆に常連ばかりの時もあるし、話題も誰かが振ったひと言から今回のようなエロエロトークになったり真面目な話になったり。
まあみんな気軽に入って飽きたらテキトーに「寝まーす」とか言って去っていけばいいから自由だしね。顔を見られてるわけじゃないから。
そもそもこの俺の膨大なホームページはなんせチャットから始まったからね。
チャットで時々すごくいい話や面白い話があっても流れて消えていっちゃうのが惜しくて「王様の耳はロボの耳」を作り、そこからさらにいろんなコンテンツにと分化していった。
なので俺のネット遊びのすべての基本とも言える。
今後もフラッと入ってきてね。待ってるよーん。 7ポイント。

はじめての腕ポッキン

今度は虫さんじゃないよ。人間です。
またも不気味なことに日付まで憶えている遠ーい昔、1984年12月10日。当時小学一年生、習い事の習字の帰り道のことです。

兄貴と私、そして兄貴の友達2人は、天神橋筋という大きな道路の向こうに見えるハイツの6階にある、書道の師範の老夫婦が住まいを利用して開いている習字教室に通っていました。
小学生のくせに魚へんの漢字を異様に憶えていた私は周りから気味悪がられながらも、少しずつきれいな字、というものの書き方を覚えていきました。「たいへんよくできました」のゾウさんのハンコを15ケ集めれば4Bの濃ゆい鉛筆が一本貰えるので、時間はかかる子でしたが丁寧にノートに先生の字を書き写し、兄貴よりも早く鉛筆をゲットしました。

そんな習字の帰り道、肌寒い夕暮れ時です。私は兄貴の友人Aくんの自転車の後ろに載せてもらい、家へ向かっていました。
信号が点滅をはじめた交差点に入る際、角地のビルの敷地にツルツルした出っ張りがあり、Aくんはそこに不意に乗り上げてしまいました。
バランスを崩し、交差点手前の歩道で横倒しになる私達と自転車。勢いよく倒れましたが、その段階ではAくんも私も擦り傷程度の軽いケガしかしていませんでした。

とどめを刺したのは他ならぬ兄貴でした。

うつ伏せに右手を伸ばして倒れていた私の上腕を、兄貴の乗った自転車が通過していきました。
ぐぅぇゃぉう!!
え、鉛筆の恨みか!? 幼い頃から何かにつけて私を殴っていた兄、自転車で轢くほどの憎悪を抱かれていたのかと思うと戦慄しますが単に兄貴も勢いづいて止まれなかったということです。真相は不明ですが。

腕を押さえつつ泣きべそかいて帰宅、痛みが引かないのでその日は安静にして、翌日学校を休んで近くの総合病院に行けば骨折という診断でした。ワオゥ。とはいえレントゲンで見る限りパッキリ折れていたというより幾分か欠けてしまった ような感じでした。
利き腕を破壊されたのでしばらく不便な左手暮らし。鉛筆の字は一向にうまくならないまま一月半後、右手は完治しました。ただ利き手と逆の手をよく使うと音感が良くなるという噂があるので、今の私の即興コード分析のスキルにはこの事件が影響しているのかもしれません。

ともあれこの出来事からしばらくの間、兄貴がことあるごとに弟の腕を轢いた、と親から言われ続けたことは子供心に良い気味でした(笑)。今は仲がいいんですけどねー。(オポムチャン)

(寸評)俺も中学生の時、指を骨折したことがある。
まぁ喧嘩だったんだけど、俺に蹴りを入れてきた奴が運悪く幅跳びの選手だった。
白い骨まで見えたけど球技大会か何かで先生始め人が集まってきちゃったので、とりあえずジョークを飛ばしてたな・・・。 6ポイント。


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