ドキドキドキリコ初体験(117)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

初めての三上寛

私は小6からたまのファンで、20代のときには幸運にもたま解散ライブの最終日に行くことができました。ファンクラブにも入っていたので「石川さんが三上寛という人に影響を受けたらしい」ということは知識としてありました。ただ三上寛さんを存じ上げず、楽曲も全く聴いたことがありませんでした。
40代になってApple Musicのサブスクを始めたので、最近のヒット曲や昔好きだった曲など聴き放題で聴いていました。ある日、ふと石川さんが影響を受けたという三上寛さんはどんな歌を歌っていたのか気になりサブスクで検索してみたら、たくさんの楽曲が出てきました。
へぇ〜普通にサブスクにあるんだ〜と思いながら、40分の長距離通勤中にとりあえずアルバム一つ聴いてみようと「ひらく夢などあるじゃなし」を聴いてみると、そこに聞こえてきたのは………
「飛び散ったカルピス拭く」
「路地裏で黙って飛びかかる」
「捨てないで殺さないで」
「隣村の村長さんがお母ちゃんを抱いていた」
衝撃的どころではないトラウマ級の世界が押し寄せてきたのです。 私は何これ?怖い!!なんでこんなの聴いちゃったんだろう!間違えた!騙された!と半ばパニック。石川さんはなんてことしてくれたんだ、私にトラウマ作るなんて酷い!とまで思っていました。
もう二度と聴かない!………はずだったんです。本当にそう思ってたんです。なのに、なのに!不思議なことにこの三上寛ワールドが徐々にクセになってきて、聴いては「怖い!」聴いては「気持ち悪い!」がだんだん聴いては「人間てそうだよね」になっていき、一時期何度も繰り返し聴いていました。夜道を運転中に「気狂い」を聴いた時はさすがに怖かったですが、トラウマになることはなく、時々聴いています。石川さん新しい世界を教えてくださり、ありがとうございました。(まじ子2024/11/23)

(寸評)「怖い!」や「気持ち悪い!」はそれだけ自分の何かの琴線に触れているということでもあるので、大逆転して一気にハマることもあるんだよね。
三上寛さんも今では流石に昔の咆哮のような絶叫は無いけれど、歌い方も変えてまだまだ現役でやってるよ。今度本物のライブも見てごらん。今は人当たりのいい優しいおじさんだよ。6ポイント。

初めてのワキへの目覚め ※閲覧注意

自分がワキフェチなんだとはっきりと自覚したのは、30歳を過ぎたくらいの頃エッチなDVDにハマって買いまくっていた時です。まあフェチと言ってもAVの中でワキにナニを挟むとかそんな特殊なプレイは求めてないんですよ。女性が普通にワキを見せた状態で、気持ち良さそうに喘いでくれるだけで私は満足なんです。
ではそのフェチが自分の中で芽生えだしたのはいつ頃だったのかを考えてみたら、私が20代半ばでお相手の女性がいた頃だったと思います。ホテルで二人で励む時、私は毎回無性~~に彼女のワキを舐めたくなってペロペロペロリンチョしていたのです。でも自分はワキフェチなんだとか全く意識はしておらず、ただただ制汗スプレーの苦い味だけが印象に残っていたんですねぇ。エヘヘヘ...ということで、誰も興味のないキモチワルイ話を終わりたいと思いますぅ。(ひももん 2024/11/23)

(寸評)俺は脇はくすぐったくて自分のはもちろん、人のもくすぐったくなっちゃう。それよりはうなじが好きかもな〜。うなぎもうなじも好き〜。6ポイント。

初めてのオーバードーズの説明

これを書いてる今 風邪引いて仕事を早退
本当は薬に頼らず自力で治したかったが そうは問屋がおろさない
悪寒と咳がひどくなりました
のど飴しこたま食べてもダメ

仕方なく薬を買いましたが レジのおばさんが
「直近で風邪薬を購入されましたか?」との質問
一瞬あたまに?が浮かびましたが 要は 「ワルツおぼえて」のように風邪薬を何錠も飲んでオーバードーズする輩を防止するための質問だったのです

あと これでも治らなかったら医者行ってねとも言われました

バカのせいで風邪薬も手軽に買えなくなるのねーと思いました(ズミ天 2024/11/23)

(寸評)俺の昔の知り合いでも市販薬の咳止めシロップをいろんな薬局でしこたま買ってトリップしてた奴いたからなー。もうその人はすっかり名前を聞かなくなったけど。怖いね。5ポイント。

はじめての投票

この年齢(2024年10月27日時点で48歳)にして、地方を含む国内の主要選挙に初めて行った。衆議院解散総選挙だ。以前、期日前投票に行こうとした事はあったものの、居住する下京区役所の正面入り口が閉まっている時間帯で、開いている所が見つけられずに断念したのだ。そんな経験や今年6月の不慮の事故、母親が選挙当日に投票に行くという事を聞きた事から、投票日当日に母親と一緒に、本来なら行くはずだった小学校に開設された投票所に行った。

二人で受付の後、俺は点字の読み書きができるという事を確認されたため、普通に見えている母親とは別行動となり、投票所の職員付き添いで点字投票をする事になる。

小選挙区は候補者名、比例区は党名、最高裁判所は罷免したい裁判官名を点字で記入する仕組みだ。

活字での投票用紙と同様であろう、点字用紙も、小選挙区 比例区 最高裁判官審査の3枚に分かれているようで、最初の小選挙区の記入の時に職員から、「これが投票用紙です。上の左側を触って下さい!」と、小選挙区用紙という事が確認できた。そんな様子を観て思っただろうこの職員、「このおっさんはなれとる」と判断したであろう対応で投票はスムーズに進んだ。

まずは小選挙区の候補者名を書き、職員の誘導で投票箱へ、次は比例区の党の名前を書き職員の誘導で投票箱へ、最後は罷免したい裁判官の名前を書き投票箱へ。その後、先に投票を終えた母親が待つ所までその職員に誘導される事になる。

事前に聞いていたように、投票所に点字器は設置されていた上セッティングも職員が全てしてくれたので、何の問題もなかった。また、候補者名 党名 裁判官名が書かれた紙も準備されていたため迷う事はなかったのだ(実際に読んだのは小選挙区のみ)。

しかし、生涯選挙に行かないと思っていたであろう俺が選挙に行くとは。付き添ってくれたあの職員さん、自宅近くの人やったらいろんな意味で怖いわ。でも、おいらが一人で街中歩いてたら、「あの選挙の時付き添った者よ」と言って喋りかけて欲しいなあ!(西大路 2024/10/29)

(寸評)確かに視覚障害があると選挙って難しいよね。点字器はどこの投票所にも設置されてるのだろうか。俺も今回、10日間のツアーの翌日だったのでなんとか行けたけど、期日前投票は旅先で出来ず、もし一日ツアーがずれていたら投票できなかったかも。そういうケース他にもあると思うんだけど、どうなっているんだろ。6ポイント。

初めての久美浜

久美浜町は恥ずかしながらパスカルズの告知まで一切知らなかったです。
それで改めて検索してみたら京都の京丹後市にある町の1つだと知りました。
そしてパスカルズの公演ついでにちょっとそこで何かご飯食べようと前々から計画しつつ、公演日に自宅から車を走らせて片道2時間以上かけて行きました。
開催先のお寺から少し離れたところに道の駅があるというのを計画中に知ったので、昼食を食べるためにそちらに向かいました。向かっている途中、久美浜湾というとても眺めのいい湾があり、それを眺めつつ車を走らせていきました。
そして目的地の道の駅に到着し、やっぱり海に近いからということで刺身と天ぷらの定食を食べました。
刺身はイカもブリも生エビも全部美味しかったし、天ぷらもちょうどいい油加減とサクサクした食感に味ととにかく満足しました。
ちなみにレストランには結構お客さんがいて、その中に可愛らしい眼鏡をかけた女の子がいたのが印象的だったのですが、まさか今回の公演でその女の子を再び目撃してしまったことに驚いてしまいました。
それと同時に観客の中には他に私と同じようにここでご飯食べてきた人もまだ何人かいるのかな?とふと思ったりもしました。
ご飯食べた後まだ時間あったので、そこの物産館に寄って久美浜のお隣の宮津で生産されてる美味しいワッフルクッキーを購入しました。(ラメール・ローラ 2024/10/29)

(寸評)車で来た人なら、そこで食べて来た人も多かったかもね。決して飲食店が多い街じゃないからね。おいしくて良かったね! 5ポイント。

初めての生パスカルズ

パスカルズの公演に初めて行きました。
正直以前動画で見た物の何倍以上も興奮しました。
以前石川さんが、「生で見た方がより楽しめる」こと仰ってましたがその意味が改めて理解できました。
確かに動画サイトを通して聴くのと直接耳で聴くのとでは臨場感が大きく違うなと。故に動画で見た以上に興奮できたのだなと。
詳しいことはレポートに後日書きます。(ラメール・ローラ 2024/10/29)

(寸評)そうそうネットなどでの「試聴」とライブの「体験」は違うんだよね。同じ場所にいて、音の空気の振動で直接耳に響く。特に大人数のプチオーケストラ的なバンドだしね。今後もライブに来てくれたら嬉しいな〜。5ポイント。

初めての市営住宅応募

一人暮らしが一時頓挫した時(詳しくは書きません) お世話になってる生活支援センターから 「市営住宅の候補はないの?」と言われました
そういえばそんなのもあったなぁと思い 区役所で用紙をもらいました

しかし、書くことがちんぷんかんぷん
今思えばネットでやればよかったなぁと後悔しております

市営住宅の事務所に電話して なんとか書きましたが これが正解かはまだわからない
もしかしたら記入漏れがあるかもしれない

でもとりあえず出してみた

12月に結果がわかるので覚えてたらここに書きます
でも市営住宅 家賃は安いけど基本的な家電全部買わなきゃいけないというね
大変だ(ズミ天 2024/10/29)

(寸評)市営住宅に入れたらラッキー。昔入ってた友達もそう言ってたなあ。5ポイント。

初めての知久さん

こんにちは。たけのまるです。今日、知久さんのライブに行ってきました!開始時間が夕方で学校から直接行かないと間に合わないのと、家から少し遠い場所だったので母についてきてもらっての参戦です。母も私もライブハウス自体が初めてなので、二人でドキドキ緊張しながら電車に揺られていました。
ライブは本当に楽しかったです!口から音源ってよくいいますが、それ以上だと思いました。端末で聞く何十倍もの迫力とエネルギーを感じました。マンドリンとハーモニカと声の三つだけとは思えない重量が降りかかってきてただただ圧倒されていたのです。また、石川さんについても触れていましたよ。石川さんが書いた「秋の風」を少しだけ歌ってらっしゃいました。なんだか嬉しそうでした。

最後に手紙を渡したかったのでお店の人に預けようとしたのですが、待ってたら本人に直接渡せるとのこと。じゃあそれならと待っていたら、渡せたのです!ありがとうと言って受け取ってくださいました。
また、持ってきたCDにもサインをしていただき、とても嬉しかったです。あと、待っている時に近くの人とお話しして、お友達になりました。
今日のライブで色んな初めてが起こってすっごく楽しかったです。また機会があれば絶対に行きたいです!次はパスカルズのライブにも行きたいな〜。そしたら石川さん、お話ししてくれると嬉しいです♡(たけのまる 2024/10/29)

(寸評)ライブ会場で「顔見知り」が出来るといいよね。趣味が同じだから話も合うし。俺も手が空いてれば全然話できるけど、基本的にパスカルズは混雑するので、ソロライブの方がより時間は取れると思うよ。よろしくー。6ポイント。

初めてのポイント総取り

このサイトへの投稿を始めたあたりから「俺の日常クイズ」が始まり、答えが分かる問題から勘でどうにかなりそうな問題まで、ちょびちょびと解答を投稿していました。何度か正解を引き当てることはできましたが、総取りまでは至らず。
あれから幾星霜。先日9/30のクイズで、初めて30ポイント総取りすることができました。「嬉しい!」「光栄!」と思う反面、「ライブ行って答え知ってたからなあ」「自分ばかりもらっちゃって申し訳ない……」とも思っちゃったり。
でもやっぱり、石川さんから名指しで祝福されるのは、ありがたいものです。これからもちょいちょい答えを投稿し、あわよくばノーヒントで30ポイント総取りを狙っていきたいところです。(たちつ亭と~助 2024/10/8)

(寸評)おー、おめでとー。でも「ライブ行って答え知ってたからなあ」は全然いいんだよ。ライブに来てくれた人へのお礼も含めてクイズ出してるんだから。ライブによく来る人で、ほとんどクイズの正解ポイントだけで投稿王の上位に居る人もいるからね。なのでそれらに来られなかった人は勘が勝負!がこのクイズの面白いところなんだよねー。6ポイント

はじめてのICU

初めての骨折入院から四日目、ついに手術の日がやってきた。前の日の夕食が手術前最後の食事となるのは以前にも書いたが、病院のお茶と水は手術2時間前まで許された。とにかく入れてもらっていたお茶は全て飲み干そう、でも2時間前ギリギリまで持たそうと、飲むスピードは調節した。そして、装飾品を外す事と髭を剃る事を言われていたため、お茶を飲みきったと同時にシェーバーで髭を剃った。「髭剃ろか?」と、その日の移動担当の看護師さんに言われるのだが、「髭は自分でやるわ。それよりトイレの方が!」と言うと、「確かにそやな。手術前最後のトイレやな!」というようなやりとりをしたと思う。ただこの時点で初めて会うと思っていたその看護師さんとは知り合いの感覚で喋っていたのだ。ただ、手術4時間ぐらい前に左手に点滴が繋がれたため、妙な緊張感と左手の使いづらさがあった。そして、「10時過ぎたから飲むんも止めてな」とその看護師さんに念を押され、手術室から呼ばれるのを待つ事になる。

しかし、感覚的なものか実際の時間的な事か、「ベッドごと行くで」と言いながら迎えに来てくれたその知り合い?看護師さんを待つ時間は短かった。でも聞く限りでは2時間近くは経過していた事はわかった。そして、言われるままベッドごと移動し手術室へ、ここからは主治医のS先生や担当看護師さんとのやりとりになる。ただ、手術室までの移動担当の看護師から、「あんた顔引きつってるで」と言われたのは今もはっきり覚えている。そりゃそうでしょ、こんなでかい手術初めてなんやもん。

で、手術台に移ってから話せそうな事は伝えた。「ここまで送ってくれた看護師さん、実家が歩いて数分の距離でしたわ」「個人情報あったもんやないね」とS先生に言われるものの、「あーあの看護師Uさんね」と、手術室担当看護師さんに名前を言われる事になる。

これは入院中全体に言える事なのだが、名前を言ってくれる看護師に関しては覚える事は可能だった。しかし、看護師と看護助手との違いはわかりにくい。ただ、服の違いで視覚的にはわかりやすくなっていたようだ。また、視覚だけに頼って名前を知ろうとなると、当然俺には不利だったのだ。しかし相手側にそこまでの認識はなかったと思う。なので、入院中何十人と世話になっているはずのこれらの方の名前を認識しているのは数人だ。しかも、この先道でばったり会って声をかけられたところで誰かという事を認識できるのはほぼ0である事を許していただきたい。

話を手術室内に戻す。

視覚的に認識できればどんな物が身体に装着されていくかがわかるのだろうが、生まれつき視力ほぼ0の俺にそんな感覚は無く、ただただ何か付けられてるというだけだった。逆にそれが初めての手術の恐怖感を消す事になる。ただ、S先生の「腰に麻酔を打ちます。暫くしたら腹部から下の感覚が無くなってくるのがわかります。」という説明の後うつ伏せになり麻酔を打ち、仰向けになった後、「では身体を左に向けて下さい」と看護師さんに言われてやろうとするも、「腹から下無理」と思わず言ってしまった。これが手術までの一連の流れという事が認識できた。その後再度仰向けにされて暫くして、つばが詰まって咳き込んだ。ところが腹に力が入らないためなかなかつばが出てこない。つまり、胸だけでの咳だという事がわかった。このまま死ぬかと思ったものの、ここは手術室。こんな事ぐらいは想定内で危険と判断されればすぐに処置が開始されるだろうと認識を改め恐怖感からはすぐに解放された。実際に処置されるレベルではなかった。また、流れている音楽に反応してしまった。「ポルノグラフィティのこの曲、僕が25から26歳の頃よくはやりましたね。友達がカラオケでよく歌ってましたよ!」と言うと、「これS先生の選曲ですよ」と看護師さんが教えてくれた。主治医のこのS先生の年齢は聞いてないものの、俺とほぼ同世代のようである。

そんな話をしながらいつの間にか寝落ちしてしまっていたようだ。

そして次に看護師さんから言われたのが、「手術無事に終わりましたよ。外でUさん待ってくれてるよ!」「ありがとうございます。よく寝てたんですねえ!」と言いながら手術室から出されると、「良かったなあ。でもこれからは経過観察のため一日ICUやで!」そして、事前に聞いていたようにU看護師によってICUに送られ、これまたICU初体験となる。この時点で手術室に入ってから2時間ちょっとが経過していたようだ。

さて、初体験のICUには次の日の朝10時近くまで居たと思うが、感覚的には本当にあっという間だった。ひたすら寝ていたからだ。

入ってすぐに言われたのが、尿道に管を入れるかどうかだ。その時点でおむつはしていたものの、手術前に主治医から、管は抜く時に痛いと言われたため止める事になった。ところが、ICUの看護師さんから、抜く時の痛みより入れた状態で居る方が良いと言われて入れてもらったのだ。確かに何となく違和感はあったものの、主治医から言われたほどの痛みは抜く時も含め殆ど無かった。そして、ICUに入って暫くして両親が面会に来たのは覚えているものの、その後は長時間寝ては少し目覚めたりを繰り返した。手術前まで居た病棟に無事に戻れてもここはICU、心臓が止まったり脳血管が詰まったり切れたりしてもここはICUと思ったら、ゆっくり寝る事ができた。勿論看護師さんに起こされる事はあったものの、部屋の外が何かざわついてると思い、「もう朝ですか?」と聞いたら「そうです、おはようございます」と言われ、暫くして手術後初の食事が運ばれてきて完食した。その食事の間、主治医の説明と包帯のまき直しが行われ、手術前に居た病棟に戻る許可が出た。そしてそれから1時間か2時間ぐらいで、その病棟の新人と指導役の看護師さん二人が迎えに来てくれてICUを出たのであった。(西大路 2024/10/8)

(寸評)尿道カテーテル、俺は30歳ぐらいの時に手術後、麻酔が切れると既に装着されていたのだが、とにかくチンコが激痛。「が、がんばって自力でトイレ行くから、外してくれー!」と懇願して外してもらった思い出。7ポイント。

はじめてのシャワーで人に身体を流してもらう

初めての骨折入院で最大の初体験イベントとなるのが、手術とそれに関連する処置だ。

病院に運ばれてすぐの検査と応急処置は、専門外の医師の担当となったのだ。ただ以前にも書いたように、「全盲で松葉杖が使えないので入院です。手術になるかは僕は専門外なので何とも言われへんけど!」と言われたものの、これは間違いないと思った。そして、翌日のレントゲン検査と、主治医となるS先生のその後の説明で間違い無い事が告げられた。そして、入院日から数えて四日後の手術が言われたのだ。

腹部から下の麻酔で行うと言われた手術説明と、主治医となった先生の名前を同部屋の方に言うと、「S先生?僕も同じ先生やけどなかなかわかりやすい説明で良いよ。良かったね。ただ手術中の会話は当然聞こえるので、血圧下がりすぎたとか言われてるん聞いたら怖いで!」こんな会話に少し気分は和らいだ。ところが事前に聞いてはいたものの、入院直後に入った病棟 手術を挟む前後の病棟 回復期病棟と、俺の場合三つの病棟を移動する事になっていたのだ。つまり、先ほど書いた同部屋の方とは、そんな会話の次の日の朝には別れる事になる。ただその方が、「明日の昼はカレーやで!」と、明らかに長期の仲間となっている同部屋の患者さんに言っているのを聞いたので、「病棟移動の僕の昼ご飯は何でしょう?」と聞くと、「内臓に特に問題なかったらカレーやと思うよ」と言われ、その日の昼食にカレーが出てきたのを喜んだのは、おそらく死ぬまで忘れない事になるだろう。

で、その移動となった病棟でカレーを食べた次の日の夕方、つまり入院から三日後に手術に向けての準備が始まった。

「シャワーに入ってもらいますね。私が付き添いで行きます。」と、看護師さんに言われ、まずは右足が濡れないようにナイロンなどでぐるぐる巻きにされ、左足だけ靴を履いて車椅子に乗り移ろうとするのだが、靴を履こうとしている途中、「ブハブハブハ」と看護師さん。「ひょっとして今俺顔蹴った?」と聞くと、「はい」と言われるではないか。「それはすまん。でもそんな目の前に顔がある思わんかったわ!」と言うしかなかった。固定された上ぐるぐる巻きにされた右足をかばいつつ、左手でベッドの手すりを持って身体を支えながら靴を履こうとしたらこんな事になる。とにかく何もかもが初体験だ。そして、車椅子に乗り移って風呂場に行くと、今度は風呂の椅子に乗り移る。勿論その前に裸になるのだが、基本的には上半身は自分で脱ぎ、ズボンとパンツは手伝ってもらった。こんなシャワー生活がこの病棟で一ヶ月以上続いた。

で、この初めてのシャワーが本当に気持ちが良い。勿論この気持ち良さも同じ期間続いたのだ。身体を流すと言うのは当然だが、50前になって流してもらうという体験は、足をやらないとなかなかできない事だ。しかも、顔を蹴っても文句一つ言わず流してもらうなんて。勿論身体の前の方は自分で流す事にはなるのだが、それでも大半の方が流そうとしてくれたのだ。左手で手すりを持って左足で立つ事になれば当然右手しか使えず「流すけど痛くなったりしんどくなったら言ってよ」と、どの方からも毎回言われていたのだ。そしてこのシャワーに俺専属の人まで現れたのだ。「自分が行きます」と名乗り出ていたという事を後で聞く事になる。たまに違う人になると後から、「今着てる服サイズ違うよ。私が居らんかった日やな!」と、その専属人に言われるぐらいになっていたのだ。確かにこの服大きいよなあという感覚があった。

で、話を手術の前の日に戻そう。そのシャワーの後バスタオルでふいて服を着、ドライヤーを使うなんて何十年ぶりだろうか?この一連の作業も介助なしではできない。それが終わると病室に戻り、「点滴の針左手に入れるよ」と言って入れようとされるのだが、これがなかなか入らない。「入れへん 入れへん」と繰り返し言われる。「看護師さんに言わせると親父の血管は点滴の針入れにくいらしいんやけど俺もそうかもしれへんわ」と返すと、「入れにくい事はないと思うんやけどとにかく入らないんです」と返されるだけだった。しかしこの時点で俺がこの看護師さんに対し、シャワーの前に顔を蹴っていた事は記憶からトンでいた。そしてどれぐらいの時間が経過しただろう。「入ったー」と言われ、「俺の血管細かったり何か問題ある?」と聞くと、「何の問題もない。しっかりしてる血管です!」と返された時は二人で笑うしかなかった。そして、その後すぐに食べた夕食が、手術前最後の食事となった。(西大路 2024/9/17)

(寸評)この文章、飛ばし読み危険。目についた感じで適当に読むと「シャワー」「身体の前の方」「入れへん 入れへん」「入れにくい事はないと思うんやけどとにかく入らないんです」「入ったー」・・・エロ小説と間違うわ〜! 7ポイント。

初めてのカオヤイ国立公園ナイトサファリツアー

波照間エロマンガ島です。というわけで初めてタイのカオヤイ国立公園でナイトサファリに行ってきました。屋根のないトラックの荷台に乗って真っ暗な山道の舗装道路を小1時間ほどガイドさんの案内で徐行して走って行きました。野生の鹿やリス、山ネズミなどなどたくさんの動物に出会いました。実は10年ほど前、当時住んでいたチェンマイでもナイトサファリには行ったことはあるのですが、そちらはフェンスの中に放し飼いしているライオンやハイエナなどアフリカの野生動物満載の動物公園で、どちらかというと野生感は低くただの暗闇の中に見える動物園で趣は低かったのですが、カオヤイのこちらの方がワイルドアニマルという感じで良かったです。象はいなかったですがそれ以外の小さな動物たちは想像以上にうろうろ道路の近くまで歩いていました。

ただ雨季だったせいで途中スコールが降ってきてびしょ濡れになってしまったのは残念でしたが、その時は合羽をかぶって雨から30分近く逃げましたがそれも良い体験だったと言えるでしょう。社員旅行だったのでピックアップバス二台を仕立てて、とっても楽しかったですよ。(波照間エロマンガ島 2024/9/17)

(寸評)チェンマイもナイトサファリどころかチェンマイ動物園にも行ったこと無いのだが(なんかめんどくさくって)、誰かが強引に車で連れて行ってくれたら行くかも。動物園、水族館、植物園、いずれも昔何回か行ったことあるので「まあ、また同じだろう」という気持ちがあるのかな。象にも一回乗って楽しかったけど「一回体験すればもういいや」という感じだったグータラなボクちゃん。5ポイント。

初めての「やまなみハイウェイ」

あれはたぶん小学1年生の夏休みだったと思うのですが、だとすると1979年8月、当時大阪に住んでいた私達家族は夏休みに九州の熊本のおばあちゃんちに里帰りするため、車で大阪を出発、神戸からフェリーに乗り、大分県別府市からまた車で一路、熊本を目指しました。フェリーの上からは何にも見えず、妹と海に浮かぶクラゲを数えて遊んでいたのを覚えています。
そして、大分県湯布院と熊本県阿蘇市を結ぶ道路に「やまなみハイウェイ」という道路があるのですが、これが丁度、当時のテレビで取り上げられた場所だったのでした。
「やまなみハイウェイ」は九州が全国に誇るドライブルートで全長約50キロ、道中には素晴らしい大自然(特に阿蘇山に至るまでの見渡す限りの大草原)が広がり、大パノラマを心ゆくまで堪能出来ます。そして、その大自然の大パノラマゆえに起きた怪奇現象がテレビ番組で取り上げられたのでした。それは「やまなみハイウェイ」の途中に空き缶が勝手に登っていく不思議な坂道がある、という事でした。つまり、上り坂なのに、空き缶がひとりでに登っていく、という不思議な坂道、という事です。テレビ番組では、空き缶やボールなど、色んな物を転がして、その全てが勝手に上り坂を登っていく、という事を検証していました。
私はそのテレビ番組を観ていたので、今回の里帰りで「やまなみハイウェイ」を通るので、その不思議な坂道に行こう!と決意しました。そして、車がフェリーで大分県に上陸した後、妹と2人で缶ジュースを買い(確か当時あった細い缶のHI-Cだったと思います)、せっせと飲み干して「やまなみハイウェイ」に備えました。
そして私達家族の車は「やまなみハイウェイ」に差し掛かりました。私は子ども心に注意深く、ミステリーゾーンを探していました。そうして、ある坂道に差し掛かった時、私はあの坂道だと思い、父に「車、止めて!」と言いました。私はあらかじめ準備しておいた空き缶を手に車を降りると、坂道に向かって歩き始めました。確かに現地で実際に見ても上り坂にしか見えません。私は後ろの車に乗っている両親を見やりながら、坂道の一番下に空き缶を置きました。すると、どうでしょう!何とテレビ番組で起きたのと同じように、空き缶が勝手に上り坂を登っていったのです!私は興奮して、坂道を登っていった空き缶をつかむと、また坂道の下に戻して、勝手に上り坂を登っていく、というのを何回も繰り返しました。妹も降りてきて、一緒に空き缶を登らせました。
これは一体何が起きていたのでしょうか?この「やまなみハイウェイ」がミステリーゾーンで重力異常を起こしていたのでしょうか?実はこの現象は重力異常ではなく「錯視」と呼ばれる現象なのです。これは坂道の途中の勾配の変化や、周りの地形の兼ね合いなどで、下り坂なの視覚的には上り坂に見える、という「錯視」という現象なのでした。この「やまなみハイウェイ」に関しては、アップダウンのある起伏の激しい大草原の中の坂道なので、坂道の周りの地形の兼ね合いで下り坂が上り坂に見えていたと思います。
こうして今から45年前の8月に私は「やまなみハイウェイ」で錯視を実際に体験して、空き缶を登らせる事に成功しました。確かに成功したのです。ところが。
それから9年後の1988年8月、高校生になった私はまた家族で9年ぶりにフェリーで九州に行く機会を得ました。今度は神戸からではなく、愛媛県松山市から大分県までのダイヤモンドフェリーです。ここで車で大分県に上陸した私達家族は9年ぶりに「やまなみハイウェイ」にやってきました。私は9年ぶりに錯視の坂道を体験出来るとウキウキしていました。ところが。「やまなみハイウェイ」を行けども行けども、お目当ての坂道にたどり着かないのです。当時はGPSもGoogleマップもないので、錯視の坂道の正確な場所は記憶に頼るしかなかったのですが、これはと思う坂道は全てただの上り坂だったのです!いくつか、これはと思う坂道で空き缶を転がしてみたのですが、全て空き缶は登らず下がっていきました。そうして、とうとう、私は錯視の坂道を見つける事が出来ずに「やまなみハイウェイ」は道程は終わってしまったのです。
9年前はあんなに簡単に見つける事が出来たのに、9年経って高校生になって、認識力は大幅にアップしているはずなのに、「やまなみハイウェイ」の錯視の坂道を見つける事が出来なかった!そして、さらに恐ろしい事に、この「やまなみハイウェイ」の錯視の情報がインターネットのどこを探しても出てこないのです。この超高度情報化社会の21世紀の令和の時代に至っても、「やまなみハイウェイ」の錯視の坂道の情報をネットで見つける事が出来ません。こうなってくると、もはや「やまなみハイウェイ」の錯視の坂道は、私の記憶の中にしか存在しない事になります。私は今から45年前の8月、本当に「やまなみハイウェイ」の錯視の坂道に遭遇したのでしょうか?もしかしたら、あれはこの世のものではない、この世ならざる異世界のミステリーゾーンに私達家族は迷い込んだのでしょうか?そう言えば、あの45年前の「やまなみハイウェイ」の錯視の坂道体験の直後、訪れた阿蘇山で心霊写真が撮れてしまったのでした。この心霊写真は王様の耳で投稿した通り「ホルモン鉄道」温泉一泊ライブに持って行って、夜の飲み会で石川さんに「心霊写真持って来ましたよ!」と声をかけたのですが、石川さんには聞こえていないようでした。石川さんの目の前で声をかけたにも関わらずです。これは時空が歪んでいたのでしょうか?もしかしたら、あの写真は他人に見せたらいけないモノなのでしょうか?だから、石川さんの耳には心霊写真の話は届かなかったのでしょうか?こうやって書いていると、だんだん怖くなってきました。45年前の8月、あそこで一体ナニが起きたのでしょうか?
しかし、私は超常現象を信じない極めて科学的な人間だと自認しておりますので、死ぬ前に必ずもう一度「やまなみハイウェイ」を訪れて、必ず錯視の坂道を見つけ出し、インターネットに公表して世に広めたいと思います。何なら石川さんが元気なうちに「やまなみハイウェイ」に連れて行ってあげたいと思います、もし私が生きて錯視の坂道を見つけられたら。(りんりん 2024/8/31)

(寸評)ホルモン鉄道の温泉ライブでそんな話した記憶ないなあ。そもそも霊的な話の流れも特になかった気もしたし。
・・・もしかして、本当は君が45年前に見た夢だったか、巨大な組織が何らかの秘密隠匿の為にすべての証拠を消したのか・・・。これ以上触れない方が賢明かもしれない。6ポイント。

初めての「ちばアクアラインマラソン」完走

私達夫婦は10年近く前からマラソンをやっているのですが、千葉県在住の私達にとって大きな大会と言えるのが「ちばアクアラインマラソン」です。2012年から始まったこの大会は2年に1度開催され、普段ランナーが走る事が出来ない東京湾アクアラインを走って360度周りが海の大パノラマを楽しめるとあって、千葉県民にとどまらず全国的に絶大な人気を誇ります。毎回募集定員に対して何倍もの応募があり、抽選になります。だから当選しないとアクアラインを走る事が出来ないのです。フルマラソンの部とハーフマラソンの部がありますが、千葉県木更津市をスタートしてアクアラインを「うみほたる」まで行って帰ってきてゴールのハーフマラソンの部が圧倒的な人気です。何と言っても、ハーフマラソンなのに完走するとフルマラソンの人と同じ完走メダルをもらえるのです。これは他のハーフマラソンの大会にはない特典です。
私達夫婦が初めて「ちばアクアラインマラソン」に出場したのは2018年で、夫婦でフルマラソンの部に参加しました。この年は10月21日(日)に開催されました。マラソン大会は一年中開催されてはいるのですが、やはり暑い夏の盛りは熱中症の危険性が高いので、本格的なマラソンシーズンは秋からスタートという事になります。ただ秋のマラソン大会は、気温が上昇する事も多く、コンディション的に難しい場合があります。
私達夫婦が初出場した2018年がまさにその年でピーカンの快晴に恵まれた当日は、おそらく体感では30度くらいまで気温が上がり、アクアラインからの雲一つない東京湾360度大パノラマは絶景だったのですが、私は思いっきり熱中症になってしまいました。この2018年大会は知っている方がデザインした完走メダルをもらえるという事で、絶対に完走したかったのですが、26キロ地点で私はとうとう手がしびれるようになってしまい、これ以上の続行は危険と判断して、リタイアしてしまいました。それまでは完走ペースで走っていたので、リタイヤしてから最後尾を走るリタイアした人を乗せる収容バスが来るまでかなり時間があり、暑い中待っているのが辛かったです。
マラソンランナーにとって、リタイアして収容バスに乗せられる事ほど辛い事はありません。せっかく練習して決して安くはない参加費を払って大会にチャレンジしたのに、最後まで走り切る事が出来なかったのですから。私はものすごくみじめな気持ちになりながら、収容バスから本来自分があの後走るはずだったコースを車窓からぼんやり眺めていました。
一方、妻は結果的に低い完走率になった暑さをものともせず、何と自己ベストを大幅に更新して見事ゴールしました。だから家族としては欲しかった完走メダルをゲットする事は出来たのです。
私はリベンジに燃えました。妻は見事完走したのに、自分は完走出来なくてとても悔しい気持ちになりました。ところがその後、新型コロナ禍になり、2020年に予定されていた「ちばアクアラインマラソン」を始め多くのマラソン大会が中止になってしまいました。私はとても残念に思いましたが、気を取り直して、2年後の2022年大会に再びチャレンジしました。
この2022年大会も私達夫婦はフルマラソンの部に参加しました。この年は開催日がそれまでの10月から11月に変更になり、懸念されていた暑さの心配も何とかなりそうでした。大変メジャーな「ちばアクアラインマラソン」ですが、コースは決して楽なものではありません。まず、アクアライン自体がアップダウンが激しく、行って帰ってくる間に2つの大きな坂道をクリアしなければなりません。アクアラインを走り切って、地上に降り立ったところが中間地点になるのですが、そこから千葉県木更津市郊外の大きなアップダウンをさらに2つもクリアしなければなりません。他の都市型マラソン大会に比べて、極めてアップダウンのきつい難コースと言えると思います(これに対して茨城県の筑波大学の周りを走る「つくばマラソン」は、ほぼフラットの走りやすい高速コースとして有名です)。
私はここ数年は足のケガに悩まされていましたが、何とかコンディションを調整して、11月6日(日)に開催された2022年大会に臨みました。この日も天候は快晴に恵まれましたが、11月開催という事もあり、前回のような暑さにはなりませんでした。「ちばアクアラインマラソン」は制限時間6時間の大会ですが、この年はコロナ禍の影響もあり、スタートを間隔を空けて並ばせるという対応をとったため、制限時間が10分延長になりました。だから2022年大会は制限時間6時間10分大会となったのですが、この制限時間10分延長というのが、私達夫婦の運命を変える事になりました。ちなみに制限時間6時間というのは一般的なマラソン大会の制限時間で、特に大きな大会である東京マラソンや大阪マラソンは制限時間7時間です。マラソン大会の制限時間はコースとなる道路を使うので、ランナー通過後道路交通規制解除するために設けられている制限時間です。
さてそんなこんなしているうちに、いよいよスタートを迎えました。「ちばアクアラインマラソン」完走のコツは後半のアップダウンに備えて、前半のアクアラインでいかに体力を温存してリラックスして乗り切るか、という事になります。私は東京湾アクアラインの絶景を楽しみながら、ランナーの流れに身をまかせて何も考えずに走っていきました。 そうして、無事アクアラインを走り切り、ハーフ地点に到達。いよいよ残り半分です。「ちばアクアラインマラソン」はここから残り半分が正念場で、それまではアクアラインの景色の良さに気分も晴れたのですが、ここからは何の変哲もない地味な千葉県の風景がひたすら続く、という精神的にもキツイ状況になります。例えば東京マラソンのように浅草寺雷門や東京タワー、銀座などの観光地をめぐる、というコースであれば後半辛くなってきたところでも気分転換になるのですが、何の変哲もないコースだと、ただただキツイだけになってしまいます。
フルマラソンはどういうスポーツか、と問われたならば、それはよく言われる事ですが「メンタルが7割を占めるスポーツ」と答える事が出来ます。意外に思われるかも知れませんが、フルマラソンはもちろん日々のトレーニングをこなした上で、後の大部分は精神的なものがポイントとなるスポーツなのです。具体的には後半キツくなってきた時に「ここでレースをやめちゃえば、楽になれるよ」という悪魔のささやきとの闘いになるのです。特に私のような足の遅いランナーになってくると、完走出来るかどうか、という時に精神的なキツさを乗り越えてチャレンジを続けるか、心が折れてレースをやめてしまうか、決定的な違いとなってくるのです。
そうこうしているうちに、私は26キロ地点にやってきました。4年前の前回大会(2018年)、レース中に熱中症になってリタイアした場所です。私は前回、私が座り込んでしまった地点を凝視しながら、無事26キロを通過しました。ここから先はまだ走った事のない未知の領域です。前回大会を完走している妻から、後半のコースの様子を聞いていたので、後はとにかく制限時間以内に走るだけです。
しかし丁度ここらへんはお昼の時間帯で天高く上った太陽が容赦なく照りつけてきます。前回大会よりは気温は高くないとは言え、快晴の天気なのでいくら11月でも暑い事に変わりはありません。しかもここ数年ケガがちで練習で距離を踏めていない私は足がだんだん疲れてきてしまいました。練習出来ていないと、後半足が持たなくなるのです。それに加えて最悪なアクシデントが私を襲いました。丁度30キロに差し掛かったところで何とランナーの命である片方のシューズ(右足)の底がベロンと剥がれてしまったのです。これは市民ランナーではまれに起こる事で、シューズ本体と靴底をくっつけている接着剤がランニングの衝撃で剥がれてしまったのです(オリンピック出場を争うような一流ランナーは基本スポンサーメーカーから最新シューズの提供を何足も受けているので、こんな事は起こりません)。当時私が履いていたシューズは大会の度に履いていた勝負シューズでしたが、経年劣化で靴底の接着が弱くなっていたようでした。
さあここからが大変です。まだ残り12キロもあります。しかも後半最大の関門である2つの大きなアップダウンはこれからなのです。私はベロンと剥がれてペッタンペッタンしているシューズに苦戦しながら何とか走り続けましたが、心の中では「何でこんな30キロ地点という一番ヤバイ所でこんなアクシデントが起こるんだよ!」と本当に心が折れそうでした。31キロ地点で、この日体調不良でものすごく調子が悪かった妻にも抜かれました。ペッタンペッタンシューズではスピードも出ません。私は妻にエールを送って先に行ってもらいましたが、妻が私の前を走っている限り、私が完走すれば体調の悪い妻も完走、という事になります。強い日差しの中で、どんどん遠くなっていく妻の背中を眺めながら私はとにかくこのまま動揺せずに走るしかない、と改めて心に決めました。
さて、いよいよ後半の山場である2つの大きなアップダウンです。事前に妻から大したことない坂道だよ、と聞いていたので何とかなると思って来てみると、目の前には絶壁のような急坂がそびえていました。見ると聞くとでは大違いです。さすがに靴底がベロンとしたシューズと疲れている足では元気に走って登り切る事は出来ず、何とか歩いてクリア。下り坂は得意なので、そこでスピードアップしようとしたところ、何と今度は両足が攣ってしまいました。繰り返すアップダウンに足が悲鳴を上げたようです。上り坂を歩く分、下りでスピードアップして、帳尻を合わせようとしていた私はこれ以上スピードアップすると、完全に両足が攣ってしまうため、程々のスピードで走らざるを得ませんでした。そしてこの頃になると、ふくらはぎだけではなく、ふともも、所謂大腿四頭筋も痛くなってきました。フルマラソンの終盤は足の痛みとの闘いになるのはよくある事なのです。
そうして、ようやっと最大の山場である後半の2つのアップダウンをクリアしました。ものすごく疲れましたが、ここまで、完走出来るペースで来ています。マラソンランナーは皆、GPS機能のついたランニングウォッチを身につけています。これで、現在何キロ走っているか、現在の走行ペースがどれくらいなのか、が瞬時に分かるようになっているのです。私は、自分のランニングウォッチを確認して、とにかくこのままのペースを維持すれば、比較的余裕を持ってゴール出来る、と判断しました(ランニングウォッチの表示は現在時刻や走行ペースなど、切り替える事が出来て私は基本的にランニングウォッチの表示は走行ペース表示にしています)。
沿道には本当にたくさんの地元の応援の方が駆けつけて、ランナーを励ましてくれます。沿道の応援は本当に力になります。皆さん、見ず知らずのランナーに対して、一生懸命声をかけて下さるので本当にありがたいです。疲れて足が動かない時に、沿道の声援でまた足が動くようになるので不思議です。また特色ある応援スタイルもあり「つくばマラソン」などで映画「ロッキー」のテーマを流してくれるロッキーおじさんや(現在は高齢のため引退)、「奈良マラソン」では忌野清志郎さんの「雨上がりの夜空に」が流れる通称「清志郎坂」など、音楽でランナーを元気づけてくれるものも多いです。今回の「ちばアクアラインマラソン」でも映画「ロッキー」のテーマやZARDの「負けないで」などを沿道で大音量で流してくれて元気が出ました。
そんなこんなで私はとうとう40キロ地点までやってきました。あと2キロ。ここまでくれば、もう完走は目前です。と、思っていたのですが、ここで私にとって致命的な大誤算が起こりました。何と40キロ地点には大きな橋がかかっており、この橋のアップダウンが想像以上にキツかったのです。40キロ地点で私が残り2キロこのままのペースで大丈夫と判断したのは、それはあくまでフラットな平地のペースを想定した場合であって、残り2キロで大きなアップダウンの橋があると、それでペースは大きく遅れてしまいます。残り2キロでその遅れはかなり致命的でした。しかし、私はその致命的なペースの遅れに気がつかないまま、走っていってしまったのです。
そうして、とうとう残り1キロ地点を通過しました。もうあとは残り数百メートルの単位になります。私はもう完走間違いなし、このまま頑張ってペースを維持しよう、と残る力を振り絞って堅実なペースで走っていました。ところが、沿道の皆さんの様子がおかしいのです。皆さん口々に何か叫んでいます。私は疲れ切っていて、しばらくしてから最初よく聞こえなかった沿道の皆さんの叫び声をやっと理解しました。何と皆さん「今のままじゃ間に合わないぞ!死ぬ気で走れ!」と叫んでいたのです!私は「そんなバカな!」と思いました。私の手元のランニングウォッチでは、まだ余裕があるはず、とよくよく見てみると、何とあの40キロの大きな橋のアップダウンでのロスタイムが響き、何と完走ギリギリのタイムになっていました。しかし私はそれでも、あと数百メートルなのだから、いざとなったら中学時代校内6位の短距離走力でラストスパートをかければ何とかなる、と思っていました。
そしてとうとう残り400メートルの看板が出ました。残り400メートルとは、陸上競技をやっていた人なら分かると思いますが、トラック1周の距離です。あと、たったトラック1周!私がそう思っていると、沿道の声は悲壮感を帯びて「あきらめるな!」「まだ間に合うかも知れないぞ!頑張れ!」と絶望感の漂うものに変化していました。私は、私自身の感覚と、沿道の声援の内容のギャップに戸惑いながら、ついに残り200メートル地点まで来ました。そして、ここでとうとうゴールが見えました。ここからゴールは、コの字型に2回右に曲がればゴールです。しかし、沿道の声援はもはや「急げ!急げ!」と絶望的な叫びとなっていました。私は手元のランニングウォッチをランニングペース表示から、現在時に切り替えました。そうすると、いつの間にか、残り時間が2分を切っていたのです!私は顔面が真っ青になりました。もはや残り時間カウントダウン状態になっていたのです。私はこれはマズイと残る体力を振り絞って、一気にフォームを短距離型に変えてラストスパートをかけました。私はラストスパートには絶大な自信を持っていたので、最後にスパートさえすれば何とかなると思っていたのです。
そうして、私が渾身の力を振り絞ってラストスパートをかけた瞬間、本日最大の両足の攣りが発生しました。両足のふくらはぎがピキーン!となり、私はその場に倒れそうになりました。私は「ここで倒れたら、もう立ち上がれなくなる!」とペースを落とさざるを得ませんでした。しかし、このままペースを落とすと、ゴール制限時間に間に合いません。私はペースを上げないと間に合わない、でもペースを上げると両足がピキーンと攣る、というジレンマの中、でも時間は刻一刻と過ぎていく、という地獄の状態で絶望的な気持ちになりながら、両足が攣らないギリギリのペースで何とか足を運びました。そして、2回角を曲がって、とうとうゴールまでの最後の直線に差し掛かりました。
ゴール地点ではゴールでずっと実況を担当されているMCの方が、ついにとうとう残り時間をカウントダウンし始めました。「残り1分30秒!まだ間に合う!みんな頑張れ!」と叫ぶゴールのMCさんの声を聞きながら、もしこれで、ゴールに間に合わなかったら、と私は最悪の事態の想像をしてしまいました。ここまで本当に辛い思いをしながら42.195キロ走ってきたのに、ゴール出来ない。ここまで6時間以上も42.195キロ頑張って走ってきた事が全てムダになる。そんな地獄があるでしょうか?そんなバカな事があってたまるか!と私は歯を食いしばりながら、ペッタンペッタンする走りにくいシューズで攣りそうな両足を何とか動かしてゴールに向かっていきました。直線でゴールは見えてはいるのですが、ゴールが本当に遠く感じられました。
そしてとうとう、ゴールMCの方が「残り1分!」と叫びました。残り1分切った、という事は、もう残り時間は数十秒しかない、という事です。目の前に見えているゴールが無限の遠さに感じました。私の周りには沢山のランナーがいて、皆最後の力を振り絞って、ゴール目指して突き進んでいました。もう手元のランニングウォッチを見ているヒマはありません。あと何秒残っているか分からないけど、とにかく必死に腕を振り、足を攣らないギリギリのペースで動かして、ただひたすら必死に、本当に死にものぐるいでゴールを目指しました。そしてとうとう私は倒れ込むようにゴールラインを切りました。まだギリギリ制限時間にはなっていませんでした。私が後ろを振り向くと、まだまだ沢山のランナーがゴール目指して懸命に走っていましたが、タイムアップとなり係の人がゴールの前で両手を広げて道を塞ぎ、まだずっとゴール直前までコースに列を連ねていた沢山のランナーは、ここまで6時間以上もゴール目指して頑張ってきたのに、皆、ゴールを目の前にしながら無念の失格となってしまいました。
私は、私の目の前で、この天国と地獄の分かれ道を目の当たりにして、本当に何とか完走出来て良かった、と思いました。何とか4年前の前回大会のリベンジを果たす事が出来たのです。ゴール出来たら泣くかな?と思いましたが、実際には不思議と涙は出ませんでした。ゴール後は前回受け取る事が出来なかった念願の完走メダルをスタッフの方にかけてもらい感無量でした。
体調不良だった妻も31キロで私を抜かした後は、私に再び抜かされる事もなく、そのまま頑張って走って無事完走!結局、妻も私もこの年に適用された制限時間10分延長に救われる形で完走する事が出来ました。私なんて制限時間残り1分切っての超ギリギリ完走ですから。今までこの「ちばアクアラインマラソン」を含めて15回フルマラソンを完走していますが、その中でダントツにギリギリの残り数秒でのゴールという事で、一生忘れられない大会となりました。
今年も「ちばアクアラインマラソン」開催の年となり、妻はフルマラソンの部で、足の調子が思わしくない私はハーフマラソンの部でそれぞれ無事当選する事が出来たので、今年もアクアラインを走れる事になりました。大会まであと約2か月。何とか頑張って走って、前回大会に続いて完走メダルをゲットしたいと思います。(りんりん 2024/8/31)

(寸評)おおーっ、読んでてハラハラドキドキ、でも良かったね。ただ本当に熱中症とかには気をつけてね。幽霊になってゴールしてもメダルはもらえないからね。とにかく、おめでとう。7ポイント。

初めてのインドネシア語

今から30年以上前ですが、丁度その頃、インドネシアのバリ島がブームとなっており、特に民族舞踊の「ケチャ」が日本国内でメジャーになっておりました。若かりし頃の石川さんとご学友の内田さんが芸能山城組筑波支部でも嗜まれた「ケチャ」ですね。
そんなインドネシアをめぐる番組も当時いくつか放送されていて、そのうちの一つでインドネシア語の挨拶が紹介されていました。それは「セラマシアン(こんにちは)」「テリマカシ(ありがとう)」「サラマットティンガ(さようなら)」の3つで、その番組ではこのインドネシア語の挨拶3つを覚えておけばインドネシアで何とかなる、という事を言っていました。私は「そんなものなのか」と思い、馬鹿正直にそのインドネシア語の3つの挨拶をメモして覚えました(この挨拶のカタカナ表記は必ずしもインドネシア語の正確な発音のカタカナ表記ではありませんが、当時の番組でその表記だったため、この投稿ではこの表記のまま記載していきますのでご了承下さい)。
それから数年後、大学で学園祭実行委員の手伝いをしていた私は、春の大学受験合格発表後、入学手続きを終えた新入生に対して学園祭運営協力費(確か当時500円)を集める係を担当していました。ある年の新入生でインドネシアに住んでいたという帰国子女の女の子がやってきました。私は学園祭運営費の趣旨を説明しながら、世間話をよくしていたのですが、その女の子、伊藤ちゃん(仮名)がインドネシア帰りの帰国子女だと聞いて、数年前のテレビ番組で聴いた事を伊藤ちゃんにぶつけてみました。
「何年か前にテレビで、インドネシアでセラマシアンとテリマカシとサラマットティンガを言えればやっていけるって言ってたけど、それは本当なの?」と伊藤ちゃんに聞くと、伊藤ちゃんは「本当です」と答えました。私は「お〜!そうなのか!」と感動しました。インドネシアに住んでいた初対面の女の子が言うのだから間違いありません(伊藤ちゃんは私と同じ学部に入学してきた後輩にあたりましたが、その後すぐに友人になった訳ではありませんでした。サークルとか全然別だったので)。
それから数年後、確か伊藤ちゃんが大学2年生の時だったと思いますが、私が講義を終えて大学の正門から出ると、伊藤ちゃんとその友人の女の子が車で正門に乗り付けており、私を見つけるや「先輩〜!今からお出かけしませんか〜?」と声をかけ、私はその2人の女の子に強引に拉致されてショッピングや食事に付き合わされました。伊藤ちゃんの友人の女の子は超大金持ちで、何と大学に車で通学してくるというとんでもないお嬢様だったのです(このお嬢様も私と同じ学部の後輩で、この時点で私と伊藤ちゃんと超大金持ちのお嬢様は友人関係にありました)。
それで、その2人の後輩の女の子とドライブデートをして、食事をしている時に入学手続きの時の話になり、インドネシアの話をしたのが伊藤ちゃんだ、という事がその時分かったのでした(大学入学手続きの時はいちいち新入生の名前は覚えてられない)。伊藤ちゃんは、私がインドネシア語の話をした事を覚えており、大学の入学手続きでいきなりインドネシア語の話をされたので、大学ってスゴいとこなんだ、と感動したと話してくれました。たったそれだけで、そう思うなんて、私はあの時、インドネシアの番組を観ておいて良かったと思いました。あ、このドライブデートの後、拉致されていた私は無事に大学まで車で送り届けられて、正門前に降ろされて2人の女の子とはそこでバイバイしました。後輩の2人の女の子とあんな事やこんな事をする不埒な展開になりませんでした。私は人畜無害な善人キャラだったので。ちなみにこの時の食事代は超大金持ちのお嬢様が出してくれました(私が拉致ったから、という事で)。超大金持ちの後輩の女の子に奢られる先輩って何だかなあという感じです。
それからさらに10数年後。私は仕事の関係で海外から来日してきた外国の方とあるイベントで一緒になりました。そこにインドネシアから来日されたご一行様がいらっしゃったのです。私はそのインドネシアからのご一行様の担当ではなかったのですが、私の前を通りかかったので、私はさっそくインドネシアで通用するという挨拶「セラマシアン」でインドネシアの皆さんに呼びかけてみました。すると、そこにいたインドネシア人の方全員が一斉に私の方を見て、皆口々に「セラマソーレ!」と言って私に手を振りながら通り過ぎていったのです。私はインドネシア語は「セラマシアン」と「テリマカシ」と「サラマットティンガ」の3つしか知らなかったので「セラマソーレって何?セラマソーレって何?セラマソーレって何?」と心の中で叫びながら、ひきつった笑顔でインドネシア人ご一行様に手を振っていました。
インドネシアの皆さんに「セラマソーレ!」と返せば良かったのですが、インドネシア語を3つしか知らない私は「セラマソーレ」の意味が分からないため、それが「セラマシアン」に対する返答なのかどうかも分からないので黙って笑っている他ありませんでした。
実はこのインドネシア人ご一行様と遭遇した時間が夕方の5時頃だったのです。私が使った「こんにちは」としての「セラマシアン」はインドネシア語では午前10時頃から夕方4時まで使われる挨拶で、夕方4時頃から日没の6時頃までは「セラマソーレ」という挨拶に変わる、という事だったのです。だからインドネシア人ご一行様は私が「セラマシアン」と挨拶したのに対し「お!この人はインドネシア語話せるのね!でも今は夕方5時だからセラマソーレだよ!」という事で皆「セラマソーレ!」と挨拶されたのでした。
いや〜夕方4時でインドネシア語の挨拶が変わるなんて、しかも夕方4時から日没の6時くらいまでのほぼ2時間限定の挨拶があるなんて、そんな事は夢にも思っていませんでした。
てな訳で、インドネシア語を巡っては私の人生で色々な事がありましたが、いつかインドネシア語をちゃんと勉強してインドネシアのバリ島に行って、本場の「ケチャ」を観てみたいです。あ、その前に芸能山城組の「ケチャ」もですが。
これが私の初めてのインドネシア語にまつわるエトセトラでした。(りんりん 2024/8/31)

(寸評)インドネシアには3回ほど行ったことがあるけど、「テレマカシー」ぐらいしか覚えていかなかった記憶がある。もっとも20年も通っているタイでさえ「サワディカ」(こんにちは)と「コップンカー」(ありがとう)ぐらいしかまともに覚えていず、そのふたつの単語ですらテレコになってしまうことがある。俺、もしかしてとてつもなくIQが低いのでは、と感じることもしばしば。6ポイント。

初めてのテレビドラマ出演

今から10年近く前に、私は初めてテレビドラマ出演を果たしました。テレビドラマ出演と言っても、もちろん私はプロの俳優ではないので、エキストラとしての出演です。
これは当時流行っていたジャンルである国民的人気の某医療系ドラマで、会社の先輩がそのドラマの大ファンで、会社の先輩とそのドラマについて毎日話題にしているうちに、ふと、エキストラで出てみようかと思い立ちました。
もちろん、今までエキストラの経験はなく、そのような撮影現場にも行った事はないのですが、本当に気の迷いと言うか、その時は何となく応募してしまったのです。そうしたら、テレビ局から採用通知があり(テレビ局としては撮影日ごとに来て欲しい性別、服装など色々条件があります)、撮影現場である都内某所に向かいました(エキストラ出演の詳細は明かしてはいけないので、特定出来ないように書いていきます)。 そこは都内某所のビルなのですが、撮影に適したビルというのはあるもので、ある時は病院になったり、ある時はオフィスになったり、ある時は空港になったり、と美術さんの小道具や大道具で様々なロケーションに変身していきます(実際の病院やオフィスや空港は、ロケをするのがなかなかに難しいので)。
そのビルに数百人のエキストラを集めての大変大掛かりな撮影となったのですが、撮影は朝から夕方まで長時間に及びました。エキストラで出たいという方は、数百人規模の募集の時は狙い目ですね。募集の数が少ないと、場合によっては写真送付の上、選考にかけられる事も少なくないそうです。
さて、その朝から夕方までの長時間の撮影は、それがドラマのどのようなシーンかという詳細はエキストラには伏せられているため、おそらく1つのシーンをひたすら色んな角度から何十シーンも撮影する、というハードなものでした。そこにはもちろん俳優さんもいらっしゃるのですが、エキストラも監督や助手の方の指示に従い、立ち位置や動きなど指定されて撮影に臨みます。どのポジションを割り当てられるかは、その時の運みたいなものもあり、俳優さんのすぐそばで撮影に臨めるエキストラもいれば、俳優さんから遠く離れたところで、へたをすると俳優さんが全く見えない場所での撮影になる方もいます。
私は幸いにして、というか、俳優さんのすぐそばでの撮影のチャンスがありました。たぶんものすごく存在感がない人間なので、風景のように見られたからかも知れません。それでも、おそらく同じシーンを何カットも撮影するので、例えば動いているなら、また最初の地点に戻って動き始める、という事を何回も繰り返しました。
よくドラマなどで、1つのシーンで色んなアングルから俳優さんを映している場面がありますが、あれはそのカットの分だけ撮影回数を重ねているのです。だから例えば1つのシーンで6回アングルが変われば、最低でも同じシーン、同じ演技を6回繰り返さなければなりません。しかも、それは撮影に使われた最低6回という事であって、撮影に使われなかったボツカットを含めると10回や20回、同じシーンの撮影を繰り返すのはザラという事です。
そのように同じシーンを色んな角度から撮影を繰り返し、夕方、エキストラは参加記念品の粗品をテレビ局からいただいて帰宅となりました。そして後日、約2週間後に放送されたオンエアーを観てみると、ほぼ1日ががりで撮影したのに使われたのはたったの数分だけ。ほんの少しのシーンだけでした。それであれだけ沢山のエキストラが参加したにも関わらず、オンエアーに映っていたのは数人だけだったのです。私は幸いにして、というか、存在感が全くないので、俳優さんのすぐ後ろを通り過ぎる役で思いっきり大きく映ったのですが、何百人もいたエキストラは1日がかりで撮影に臨んだのに、そのほとんど全員はオンエアーされなかったのです。これは、まあエキストラというのはそういうものだ、という事なのだと思います。
これはどういう事かというと、例えば公共施設でも何でも、人が大勢いるという設定でのシーンは、その背景に映る全ての場所にエキストラを配置しなければならない、という事です。人が大勢いるシーンで、ある区画だけ人が全くいなければ不自然になってしまいます。だからその意味で、エキストラはある種本当のモブ、背景という事なんだろうと思います。風景としてそこにいる、という事なので、むしろオンエアーされない方がほとんどなのかも知れません。
よく芸人さんなどがバラエティーの撮影で1時間の放送のところを6時間撮影したのに、自分がしゃべったシーンが一切使われなかった、と愚痴をこぼされる事がありますが、それと同じようなものだと思います。極端な話、撮影とは番組に必要な素材をひたすらかき集める事で、そのかき集めた素材をどのように調理するかは監督の一存にかかっているのであって、むしろ番組という料理に使われないでボツになる素材の方がはるかに多いのだという事だと思います。
私は本当にラッキーな事に、たまたま某国民的人気のテレビドラマに出演する事が出来たのですが、その撮影を通して、本当にテレビを作る現場は大変なんだ、という事を実感出来て、そして撮影にまつわる色んな事がとても勉強になった初めてのテレビドラマ出演でした。(りんりん 2024/8/31)

(寸評)これは俺も映画とかに何度か出たことがあるからわかるけど、本当にそう。同じことを何度も同じテンションでやらなければならない、ある種の忍耐力も必要なんだよね。
これは噂話なので信憑性はわからないが、ある子供をお使いに行かせる番組(笑)では、100本収録して使われるのは1本か2本ということもあるらしい。期待して丸一日撮影して、何も放送されない可能性もあるのがテレビ。今や他のメディアで自分発信で映像を流せる時代、こんなこともテレビ離れのひとつの要因かもね。7ポイント。

初めての骨折

  入院で、初体験のオンパレード生活が始まった。その中の一つが、尿器への排泄だ。右足を折っている事からの身体への負担とほぼ視力0という理由から、大便はナースコールで看護師さんを呼んで車椅子でトイレに連れて行ってもらってトイレ内では自分で処理、終わったら看護師さんを呼んで病室まで連れて帰ってもらう。小便は看護師さんを呼んでベッドの上で尿器へするという事になったのだ。

で、病院へ運ばれた時が飲んでいた事もあって、病室移動後すぐからかなりの回数看護師さんを呼ぶ事になった。

ズボンとパンツを自分で下ろすか看護師さんによっては下ろしてもらって、自分の物を看護師さんに尿器へ入れてもらい、尿を出し終わった段階で外してもらうという生活が1ヶ月半以上続いた。

看護師さんの年齢性別にかかわらず、自分の物を触られる事に特に恥ずかしさは無かった。いや、いくら仕事とは言え50前のおっさんの汚い物を文句一つ言わず処理して下さる事に感謝しか無かった。これは大便の時にも言えた。トイレで自分でするとは言うものの、はじめの何回かは「足やってて今までの体制とは違う。お尻まで手が届いてちゃんとふけてるか見るわ!」と言って確認してもらう事が続いたのだ。

ところが、尿器への排泄がなかなかの苦労だった。尿を出すまでにかなりの時間がかかったのだ。トイレで出すより何秒費やしていたかわからない。その度に、「なかなかでえへんわ。困ったもんや。でもしたいねん、待って欲しい!」と、同じ事を繰り返し言う事になる。特に、ベッドに座った状態で尿を出すようにと言ってくる看護師さんはかなりの時間待たせたと思う。とにかく出せない。自分でも不思議だった。ただ、出だしたら途中で止まる事は無かった。

その後、自分の物を尿器から取り出す時、「自分で出してみる?」と言ってきた看護師さんには迷惑をかけた。自分で取り出した全回尿でシーツをぬらしたのだ。シーツ交換後すぐにやってしまった事もあったのだ。「これは難しそうやな」と、全員から同じ事を言われた。

そして、「トイレに行くのはリハビリの一つ」と言われてからは、尿もトイレで出すようになるのだが、病院という場とほぼ視力0という理由から、退院の30分前までナースコールは押す事になった。(西大路 2024/8/31)

(寸評)これは「大人になったら(普通は)あまりオネショをしない」ということにも繋がってると思う。つまりトイレじゃないところでは、脳が「ここでするんじゃない!」とストップをかけるということが、長年の人生で育ってしまっていると思うのだ。ベッドの上、尚且つ人が見ている状態ではなかなかそのストップ機能が外れるのに時間がかかるのかもしれないね。7ポイント。

初めてのフリスクドリンク

石川さんを初め 多くの方が注目したはず。ダイドーのフリスクドリンク。
駅前の自販機で発見したので 思わず買ってゴクリ。

あれ?おいしいぞ?
シュワッと爽やか 甘ったるい炭酸飲料よりもこっちのほうが好きだ。 思えば ジンジャーエールも辛口が好きだ。
三ツ矢サイダーも好きだが やっぱりさっぱりとした感じはフリスクドリンクならでは。

ネットでは賛否両論でしたが、私はこれはあり!!

意外にも大学時代の友人も好みの味だと話していた(でも好き嫌いは分かれるよね とは付け足したが)

ちょこっと同士が増えて嬉しかったです。(ズミ天 2024/8/31)

(寸評)こういう癖の強い飲み物は好き嫌いがハッキリ分かれるよね。俺が一番好きなルートビアも「ゲッ、なんじゃこのサロンパス味!」と言って一口でキブアップする人も多いもんなあ。俺にはサロンパス味、最高なのになあ・・・。6ポイント。

初めてのカオヤイ国立公園社員旅行

波照間エロマンガ島@バンコク在住です。先日のこと、社員旅行でタイ中部のカオヤイ国立公園に行ってきました。バンコクからは200キロ程度東北の距離にあり、カンボジアまで自然山林が繋がっている広大な森林地帯にあります。私は20年くらいタイに住んでいますが、私にとっては初めて訪れたエリアでした。気温の低い涼しい高原のリゾートでとても気持ちよかったです。サファリパークでたくさんの野生動物と触れ合ったり、ゴーカートや人工のアトラクションで遊んだり楽しかったです。ただ雨季で水量が多かったので、川も水遊びはできなかったのは残念でしたが。またいつか行ってみたいと思います。でも、外国で社員旅行に行くのはいいですな。この石川さんのホームページでもレポートを書くのは何度目だろうかな。(波照間エロマンガ島 2024/8/31)

(寸評)「社員旅行」というのも経験しないまま死んで行くのかな・・・と思ったけどファンクラブツアーは似たようなものか。免許を持たないので、車のある人とじゃないとなかなかドライブにはいけないけど、幸い毎年タイに来る年上の友人が運転が大好きなので、今年も二回別の温泉に乗せて行ってもらった。タイの温泉も開放感あってなかなかいいよね! 5ポイント。


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