ドキドキドキリコ初体験(116)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

初めてのバタークリームケーキ

私が生まれた時からスイーツは生クリームが主流でした。
ある日、昭和の暮らしを知るコンセプトの番組を見てたらバターで作られたクリーム「バタークリーム」の存在を初めて知りました。 バター好きな私はなんだか美味しそうだと思いそれを使ったスイーツを食べたくなりました。例えそれが生クリームよりはさほど美味しくないものであると紹介されていても。
それで早速家の近くにバタークリームが使われてるケーキを売ってるお店がないか調べてみたところ、電車で気軽に行ける距離のお店では売ってるのがホールのケーキばかりでさすがに食べきれなさそうと思い断念しました。
しかし数ヵ月後にバタークリームの使われてるレトロなお菓子「たぬきケーキ」の存在を偶然SNSで知り、これなら気軽に食べられそうだと思い早速検索してみました。
するとたぬきケーキマップなるサイトがあり見てみたところ1番近いところで車で気軽に行けそうだということが分かったので、早速空いてる日を利用して買いに行くことにしました。
お店に入ると3本指でつまめるほどの小さなたぬきケーキを発見し早速2個購入しました。
そしてすぐに食べ切れるサイズであったためそのまま車の中で急ぎ目に食べました。
バタークリームそのもののの味の感想としては確かにテレビで言われる通り生クリームの方が美味しかったなと。生クリーム程の甘みが感じられなかったのは残念ポイントでした。
とはいえ、なんだかんだいってまたなんらかの機会があればバタークリームの使われてるケーキを食べてみたいなと思いました。(ラメール・ローラ 2024/4/9)

(寸評)昭和のケーキはほぼバタークリームだったからなあ。それでも年に二回ぐらいしか食べられない高級スイーツだった。生クリームを初めて食べたときは衝撃だったな。「こんなにおいしいものがあるのか!」と。なので今でも一番好きなケーキは生クリームを使ったシュークリーム。でも時々バタークリームのケーキも懐かしくて食べたいと思うことはあるけれど、一欠片でいい...。6ポイント。

初めて「たま」(ソロ活動も含む)に触れたとき

初めてたまを知ったのは十数年前のことですが、たまを認識するはるか昔からたまに触れていた衝撃の事実を数ヶ月前に知ることができました。
それはどういうことかというと

・「ジャム・ザ・ハウスネイル」で知久さん石川さんが声優として出演。
・「なんでもQ」の楽曲「ニッポンのたぬき」を知久さんが歌唱。
・「おかあさんといっしょ」の楽曲「ハオハオ」の作曲編曲をたまが担当。
・「ピタゴラスイッチ」の「お父さんスイッチ」のテーマソングを知久さんが担当。
・「ちびまる子ちゃん」のedテーマ「あっけにとられた時のうた」を担当。
・コクヨのCMフレーズを担当。

※私が初めて触れた物順

と、様々な作品に携わっていたことを知り興奮しました。
ちなみに「ジャム・ザ・ハウスネイル」のedテーマ、「ニッポンのたぬき」を聴き、どちらもメロディと歌声が切なすぎてそのまま2階に駆け上がり泣いた記憶があります。つまり、幼き頃知久さん(のニッポンのたぬき)に泣かされたことがあります(意味深)。
あと「あっけにとられた時のうた」は不思議な感じの歌声なので男か女のどっちが歌ってるのか不思議に思いながら聴いた覚えがあります。
改めて見ると意外と子供向けの仕事が多いのかなと思いました。
たまを知らなければこれらの事実を知ることなく日々を過ごしていたかもしれません。
私は幼き頃無意識のうちにたまに育てられていたんだなぁ、と。(ラメール・ローラ 2024/4/9)

(寸評)頼まれ仕事のオファーは子供向けのが多かったかもね。あと「めばえ教室」とか「ここはもののけ番外地」のCMとかね。バンドとしてのオリジナル曲は特に子供向けの曲が多いわけじゃないのに、不思議だね。6ポイント。

初めてのぶちぶち

先日、脚に硬いしこりのような物を見つけ、しばらく放っておいても消えなかったので、病院に行ったのですが、診察だけでは原因がわからないとのことでした。しかし、お医者さんに考えられる原因として説明されたもののなかにはかなり恐ろしげなものもあったので、原因をはやく知りたいと思って、その日の内にサンプルを取り検査をすることになりました。ちなみにサンプルを取るというのは、患部に穴を開け、そこの細胞を採取し、開けた穴を縫い直すという手順で行われました。
処理のための部屋に案内され、最初に局部麻酔を施されました。次に皮膚を切り、細胞を取ったと思われます。(手術の様子は患部の位置の関係で見せてもらえませんでした。)
ここまでは、別段何も無かったのですが、さあ、傷口を縫うぞ、というときに、私の耳に「ぶちいっ」という音がこだましました。麻酔の効いた感覚の鈍い皮膚から伝わるのは生暖かい液体が傷口から流れる感覚、次に傷口の近くが引っ張られているという感覚でした。そこで皮膚に針を通しているんだなあ、と理解しました。その日初めて人の皮膚に針を通すとぶちいっ、と音がなることを知りました。その後もお医者さんは皮膚をぶちぶち縫い進めてゆき、その間私は、ぶちぶちを聴きながら、針を刺すのわりと力いりそうだなあ、とか、あっ、そういえばこれって初めてじゃん、石川さんのホームページに投稿できるじゃ〜ん、などと考えてぼ〜っとしていました。
ちなみに、検査によるとしこりのような物は良性で無害なものだったらしいです。よかったあ。(寿甘 2024/4/9)

(寸評)俺は小学生の時に耳にやはりデキモノが出来てそれを取る手術をしたのだけど、その場所だけの部分麻酔だったので、それを切っている「ギリギリ」というメスの音が30分ほど続いて、痛くはなかったのだけど、自分の体の一部が完全に切除されている音を、しかも耳なのでスゴい大音量で聞いたのは流石に気持ち悪かったなー。良性で良かったね! 6ポイント。

初めてのおじいちゃん

その日は、友達のIちゃんとフェスに行っていました。Iちゃんはライブ自体初めてで、私もフェスには初参戦でした。収容人数1300ほどの会場で整理番号は300番代だったのになぜか最前列近くに立つことができ、ラッキー☆と思っていましたが、1バンド目の出囃子が流れた瞬間です。すべての観客(その時にはほんとに1300人に後ろから押されたと思いました)がグワァーっと前列に詰め寄り、前にいけばいくほどすし詰め状態でした。演奏が始まると、モッシュは起こるわとぶわ跳ねるわであちこちでサークルが暴発しました。その時私達はや、やばいっ、目当てのバンド以外のバンドは後ろで聴けってこういうことか‼と思いました。でも、あまりの混み方に、後ろに行くこともできず、目当てのバンドの出演のときに前に出ることも難しそうでした。ダイバーが私のあたまを踏み台にしてダイブしようとしてきたときには焦りましたが、演奏がかっこよくて今まで聴いていなかったバンドの曲を知るきっかけになりましたし、次第に戦場の如き会場もすごく心地が良いと感じられるようになりました。しかし、そんな会場から一歩も出ずに5時間も6時間もモッシュに揉まれて飛び跳ねて頭を振って、時には大好きなバンドの演奏を最前列で聴けて号泣していたら、普段運動不足のワタシについに天誅が下りました。目当てのバンドが舞台袖にはけた瞬間足腰が自分のものではないかのように動かなくなりました。友達に連れられて会場の外に出ようとするときも膝と腰は曲がり、小股のよちよち歩きしかできませんでした。そんなわたしの情けない姿を見たIちゃんが「歩き方おじいちゃんじゃん‼」とひとこと。素晴らしいひとときだったんですもの。おじいちゃんになるくらいなんでもありません。しかし、Iちゃん。せめておばあちゃんとお言いなさいよ。そんな10代のおじいちゃんが生まれた瞬間でした。(寿甘 2024/4/9)

(寸評)俺たち関係のバンドには、ダイブやモッシュは一切無いから、安心してライブにおいで〜。6ポイント。

初めて本当の名前を知る

私が中学生の頃、末期のがんで入院していた母方の祖母の見舞いに行きました。その時ベッドの名札を見て初めて祖母の下の名前をはっきり認識しました。いつも「婆ちゃん」と呼んでいたのでよく知らなかったのです。祖母の下の名前は、大正生まれだけあってカタカナ2文字で「ウメ」でした。〔仮名です〕
祖母はそれから間もなく亡くなってしまいましたが、後日、母からビックリすることを教えてもらいました。なんと母も自分の母親の本当の名前を、がんで入院してから初めて知ったというのです。
祖母は昔から自分の名前を書く時、本名の「ウメ」ではなく「梅子」と書いていたそうで、母は約40年間自分の母親の名前を「梅子」だと思っていたのです。おそらく役所などに出すキチンとした書類なんかは「ウメ」と書いていたと思うのですが、いかんせん昭和の地方に住む貧乏子だくさん一家だったということで...いい加減!笑。
ということで、見栄っ張りな婆ちゃんの本名を初めて知るというお話でした。(ひももん 2024/4/9)

(寸評)俺も東京に出てきた時にあるシンガーソングライターと仲良くなった。「俺、中山○、と言うんだ。よろしくな!」彼のアパートに遊びに行ったこともあった。表札はもちろん「中山」。しかし数年後、彼は東京を離れ地元に帰ることになった。空港まで見送りに行った時の彼の別れの言葉は「俺、本当は佐藤って言うんだ。ジャアナ!」ひっくり返ったなあ。6ポイント。

初めてのハイライト

ハイライトを吸ってたのはリサイクル屋時代のこと
当時ショッポ(ショートホープね)を吸ってたところ 同じ喫煙者から「コスパ悪いから長モクにしなさい」と怒られました
それもあってハイライトにしたのですが 当時バリバリ聴いてたアーティスト 寺尾聰さんもルビーの指環で売れてた頃はバリバリのハイライト吸いだったそうです
奇跡の親近感でバリバリ吸ってました
その後 嫌煙家からタバコやめろと言われて メンソールの軽いタバコに変えるまで ずっとハイライト

そして今 久々にハイライト吸ってますが おいしいですね 高いけど
変わらない味はやっぱ素敵 そして和田誠さんのデザインパッケージも素敵(ズミ天 2024/4/9)

(寸評)俺の親父は「いこい」を吸ってたなあ。もうどこにも無い...。5ポイント。

初めてのなんちゃってカルボナーラ

一人暮らし時代 冷蔵庫には卵くらいしかないとき しかたなく作ってたのが なんちゃってカルボナーラ

まずパスタを茹で湯切り フライパンにツナ缶 卵 マヨネーズ(結構多め) 粉チーズ(これも結構多め)を入れ混ぜたものを絡ませるというもの

これがジャンキーでなかなかおいしい
時間がない時は今でも作ってます(ズミ天 2024/4/9)

(寸評)結構ちゃんと作ってるじゃん。本物までもう一歩! 4ポイント。

初めての大谷氏

ホルモン鉄道を除いて 初めてソロの大谷氏のライブに行ったのは数年前 江古田のフライングティーポットでのライブだった。 渋谷駅から行くのはめんどいなぁ(私は駅の中でも渋谷駅はとても嫌いなのだ 理由はものすごく歩かされるから)
というのもはねのけ 電車を乗り継ぎ江古田へ
喫煙所がないよーという悲しみを乗り越え到着すると いつもの常連さん N氏とS嬢が
そして最前列には仮面ライダースーパー1の変身ポーズを取っている某S さんが(この時 声をかけとけばよかったなぁと思った 後悔してる)
そうこうしてると時間に途中から このHPでおなじみの健さんや青木さん なんと途中から原マスミさんまでやってきたのであった(実はこのときが生で腹マスミさんをみた日でもあったのだ しかしライブに行ってなかったので 声はかけられなかった とはいうものの 今回挙げた地下生活者の方々にも話はできなかったのだが…)

さてライブ かっこいい新曲 機械フォーエバーから かわいい名曲 ヤドカリちゃんなども披露してあっちゅうまに時間は過ぎた(要は昔過ぎて何やったかまで覚えてなかったのである) 大谷夫妻やパーカッションのくす美さんに感想を伝えて帰りました。

狂った世界で 早く買いたいなー(ズミ天 2024/4/9)

(寸評)アルバム「狂った世界」のジャケットはくす美さん作。ところで腹マスミって誰だ?俺の知らない人だな。腹太鼓を叩く人か?(笑)。5ポイント。

初めての左ハンドル車運転

私が生まれて初めて左ハンドルの外車を運転したのは、社会人になってすぐの頃でした。渋谷にある会社に勤めていたのですが、営業車を運転中あと数メートルで会社に到着するという段になって、前方不注意ですぐ前を走っていたドイツ車のオペルに追突してしまったのです。「あちゃー、どうしよう!」と思わず叫びました。すぐに警察を呼んで事故証明を取らなければならないのですが、相手のドライバーは慌てていて「今すぐこの先の金王神社近くの会社に行かなければ契約が間に合わないの。悪いけど、世田谷の修理工場まで車もってってくれる?じゃね」と言うや否や、免許証を置いて全力疾走で走り去ってしまいました。事故は10対0で当方が悪いので相手のドライバーの言葉に反論することはありませんでした。警察を呼び事故証明をとり、指示のあった世田谷の修理工場まで私が運転することに。幸いに私は1円も払うことなく勤め先の会社が保険で全額支払いました。
そして、すぐに六本木通りと国道246号線を走って三軒茶屋方面へ向かいました。実はこの時生まれて初めて、日本の公道で左ハンドルの外車を運転したのでした。
運転席が日本車と反対の左側なので走りにくいこと、この上ありませんでした。またぶつけてしまったらマジ洒落にならないので、慎重に運転して目的地に着きました。
数年後、ハワイに社員旅行で行くようになり左ハンドル車を運転する機会がありましたが、右側通行の左ハンドル車の運転のイージードライブ感ったらなかったですね。最高でした。それに比べて日本で左ハンドル車に乗るのは、慣れないと大変だという話でした。

〔追記〕そういえばその後、スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」と言う映画を観たのですが、この映画の舞台はイギリスで、主人公の不良少年たちが右ハンドルのマルコス1600GTに似たスポーツカーを運転していて、それが右ハンドルだったことを覚えています。イギリスは日本と同じ左側通行なんですね。あとジャミロクワイもミュージックビデオで右ハンドルのフェラーリに乗っていて、なんか間抜けな印象を持ちました。右ハンドルのスーパーカーってダサいかも。(波照間エロマンガ島 2024/4/9)

(寸評)「真ん中ハンドル」って無いのかな。いろんな国で運転する人向けに。6ポイント。

25年ぶりの病気痩せで21世紀初の70キロ台前半へ

ちょっとずつ体重が落ちてきて、気がつくと74キロを下回り、70キロ台前半になっていました。この10年以上ずっと、70キロ台後半から80キロ台の間を行ったり来たりしていたので、これは完全に病気痩せだと判断しています。
1ヶ月ほど前に処方薬が切れてしまい服用しなくなったのが原因に間違いありません。来週医者に行く予定です。このことをSNSにつぶやくと「俺も同じくらいの病気痩せだよ」と石川さんがコメントをくれました。61歳になり、だんだんこういうところから老人化が進行しているんだろうな。もうダイエットなんて言ってられないですね。げっそりしていてニッコリできない自分がいます。(波照間エロマンガ島 2024/4/9)

(寸評)太ってる老人って少ないからね。でも太ってた人が痩せると途端に老けて老人になるんだよね。俺も老人街道まっしぐらじゃー! 5ポイント。


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