ドキドキドキリコ初体験(112) さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メール の題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!
初めての変質者
今に比べれば子どもの頃は、ちょっと変わった兄ちゃんとか変なオジサンとか普通に街にいたような気がします。
そんな子ども時代のある日、友達と二人で地元の海の砂浜で遊んでいる時、前にいた友達がビックリした表情をしたと思ったら、何者かが後ろから私のTシャツをめくり上げ、そのまま体を持ち上げられました。後ろを振り向くと、口髭を生やした色白の男が私を持ち上げたまま、私の汗ばんだTシャツの臭いを嗅いでいました。
しばらくするとその男は満足したのか、私を下ろし普通に立ち去りました。
あまりにも突然の事だったので怖いという感情もなく、ただ呆気に取られていた、という感じでした。私の汗の臭いはそんなに魅力的なのかしら?(ひももん 2023/9/29)
(寸評)それは・・・汗嗅ぎ妖怪「クッサ〜イノ〜」だっ! 臭ければ臭いほど好物だという。ひももんの特製脇臭にやってきたのだな。6ポイント。
初めての「優しく包まれるような感覚」
今から11年前の日記より。当時勤めていた会社は、ゴーゴーボーイズバーエリアのすぐ近くにあった。
2012年9月21日
仕事帰り、会社のエントランスの階段で転倒しかけたが、たまたま通りかかった近所のゴーゴーボーイズバーのガチムチのオニイサンに抱きすくめられて助かった。優しく包まれたような感覚が妙に気持ちがよかった。別にその気はないんだけど、こんなことであっちの世界に行ってしまったらどうなのかしらんと怖くなった。
〔コメント欄、一部ばっすい〕
某友人女性@富士山登山家:どっちの世界も泳ぐという楽しみ方も!
某友人女性@ヤッツー在住:わたしだって、道なりに男性に抱きすくめられる経験なんて無いですよ。
某シンガーソングライター(ex. たま):♪そこから第二の人生が始まってしまうことがあるからだ〜
そして、あれこれなんだかんだ紆余曲折を経て2023年の現在に至ります。以上。(波照間エロマンガ島 2023/9/29)
(寸評)無事第二の人生はじめられて、おめでとう。6ポイント。
始めてのスマホアプリで通訳
ホルモン鉄道の宿泊ライブの日 バスを待っていると 中國語を話す家族連れが
エクスキューズミーと言ってるので何か困ってるんだな と思い すかさずスマホの翻訳アプリで 通訳。
するとバスのチケットが買いたいとのこと
すぐ後ろの券売所を教えてあげました
こういうとき スマホの翻訳アプリは便利ね(ズミ天 2023/9/29)
(寸評)今は翻訳機があるから便利だよねー。4ポイント。
始めてみた他人のゲロ
小学校一年生の頃 給食後に毎回ゲロを吐く友人がいました
牛乳嫌いだったからでしょうか
真っ白いゲロを必死に掃除する先生
未だにこの記憶が残っています(ズミ天 2023/9/29)
(寸評)毎回ゲロ。今だったらアレルギーで絶対飲ませないやつかもね。5ポイント。
初めてのP-MODEL
つい最近もライブやってた平沢進さんのバンド P-MODEL
初めてちゃんと歌を聴いたのは 神保町ジャニスで借りたのがきっかけだった(その時はタコ 中島らもなども借りた)
最初の「美術館であった人だろ」は衝撃的でした
ピコピコとロックのガッチャンコ!!
その後も少しずつCDを買いましたが
つい最近 Spotifyなどでも配信されました
これで気軽に聴けるね(ズミ天 2023/9/29)
(寸評)たま好きは平沢進好きも多いんだよね。でも平沢進のファンはあまりたま好きの人いない気がする...。4ポイント。
初めての座薬 治癒編
座薬を入れて一週間 遂に酷い出血は治りました!!
こんなことなら早くやっとけばよかったなぁ!
でもまた尻の穴に指を突っ込んで糞を掻き出したらまた出血
でも軽症だったので又座薬入れて治しました
あっ ちゃんと手は洗ってますよ(ズミ天 2023/9/29)
(寸評)そのうち誰かのちんぽこ入れてごらん。5ポイント。
初めての座薬
ここ最近 ストレスのせいか ウンコが硬いからか 尻からの出血がひどいです。
そのため 仕方なく座薬を買ってきました。
場所がわからず 店員さんに聴いて購入(こういうときの羞恥心は全くない)
いざ家で挿入
ん?わるくないぞ?
そういえばアナル責めも特に違和感なかったしな・・・
というわけで経過を見てみまーす(カルロスイベリコ豚 2023/9/16)
(寸評)そのうち肛門から「何でも食べちゃいまーす。パクパクパク」という芸を是非仕込んでくれ。6ポイント。
初めてのコンピューターウイルス感染
一回だけパソコンにウイルスが入ってしまった事があります。当時私は「藤本美羽」というマイナーなAV女優さんが好きで、ネットで動画や画像が見られないかな~?と探しまくっていました。ある日〔藤本美羽の無修正動画だよ!〕みたいなのを発見して、クリックしてしまったのです。そしたら何かダウンロードされてしまい、次からパソコンを起動した時に、下着姿の女性の画像が画面いっぱいに出て、ここお金を振り込め〔ここに連絡しろだったかな?〕といった文字が表示されてしまうのです。
最初はパニックでしたが、データは別に保存していたのですぐにWindowsを再インストールして元に戻りましたが、本当に私という人間は.....愚かで情けない、恥ずかしい生き物でありんす。(ひももん 2023/9/16)
(寸評)いや、ほとんどの男性に(女性も?)その経験あり、と見た。大丈夫、標準だ。6ポイント。
初めてのED治療薬情報
昨夜、日本から来られたお客様Sさん〔六十代後半〕をアテンドしてバンコクの岡場所に案内した時に聞いた情報。60代後半ともなると勃起力が弱まり、セックスライフも満足いかないものになるとよく言われるが、Sさんは違う。出張で行く国ごと7人もセフレがいると豪語していた。
「バイアグラを飲むんですか?」と私は質問すると、「いやいやいや、バイアグラは錠剤で血に溶けて心臓を通過するから、身体に良くないんや。いちばんいいのは・・・」とSさんはのたまった。
「ヒェーーー、マジっすかー!!」私はめちゃ驚いた。
なんと、海綿体に自分で注射する勃起薬が最高に良いのだそうだ!!
「痛くないんですか?」と聞くと、「ぜんぜん〔痛くない〕。騙されたと思ってあんたも討ってみ?最高だから。最初はお医者さんに射ってもらったんや。痛いんではと思って身体引き攣ったけど、信じられないほど痛くなかった。そしたら2本目からは自分でOKや」と得意がって説明していた。
ポコチンに注射して勃起を促す薬があるんですね。挑戦しようかなー。そしたら初体験に投稿できる・・・。くだらない妄想をしてしまった還暦投稿王なのでした。(波照間エロマンガ島 2023/9/16)
(寸評)それは是非体験して詳細を投稿して欲しい! ふ〜む、ブツに注射、本当に痛くないんだろーか!?検証、検証! 6ポイント。
新しい学校のリーダーズ初体験
先週「深夜の馬鹿力」の冒頭で伊集院光が「新しい学校のリーダーズ」をフェスに観に行ったという話をしていたので、今日2023年9月7日(木)、動画サイトに初めてアクセスしました・・・・・・。
あまりにも凄すぎて衝撃を受け過ぎて、10時間くらい連続再生しています。
もうすでに全世界でヒットしているので今更こういう投稿するのもこっ恥ずかしいのですが、この「初体験」はめっさ衝撃に残ったということでここに投稿しました。ダンスがとにかく中毒性強い。何だろこの感覚。そしてセーラー服!カッコ良すぎる!(波照間エロマンガ島 2023/9/16)
(寸評)ちなみにメンバーのひとりは熱狂的なたまファンらしい。 (以下、ネットのインタビュー記事より抜粋)
MIZYU:私はジブリのサントラを聞いたり、久石譲さんのオーケストラの映像を見るのが好きです。浄化されたい時は薬師丸ひろ子さんの歌声を聞きます。あと、たまが苦しくなるほど好きです(笑)。
俺のことおそらく知られてる...。6ポイント。
初めてのラグビーワールドカップ
いよいよラグビーワールドカップフランス大会が開幕しました。今、これを書いている日本時間9月10日(日)夜に日本代表はフランスのトゥールーズでチリ代表と戦います。ラグビーワールドカップは1987年に第1回が開催され、以降4年ごとの開催で今回が10回目、石川さんが何度かPascaLsのツアーで訪れているフランスでの単独開催は2回目で日本代表は全10回全てに出場しています。
さて、今から遡る事4年前、日本に於いてアジアで初めてのラグビーワールドカップが開催されました。興味がない方にとっては別に大した行事ではなかったと思いますが、私はお祭り好きなので、大会公式キャッチコピーの「4年に一度じゃない。一生に一度だ。ーONCE IN A LIFETIMEー」になるほどと思い、万難を排して日本代表戦全試合を含む決勝、準決勝2試合、準々決勝2試合等19試合、初めてラグビーワールドカップを観に行きました。1試合、特に楽しみにしていたイングランド対フランスという屈指の好カードは台風で中止になってしまったので、これが開催されていれば20試合観戦でした。
特に2019年9月20日(金)の日本対ロシアの開幕戦からは9月25日(水)の岩手県釜石市のフィジー対ウルグアイまで6日連続で試合を観戦しました。会社の休みを取るのが大変でしたし、お金もそれなりにかかりましたが、とても楽しかったです。
さて、ラグビーワールドカップと言えば皆さんは何をイメージするでしょうか?屈強な鍛え上げられた強者同士の激突がまず頭に思い浮かぶかも知れませんが、実はラグビーワールドカップと言えばもう一つの見所はお酒です。4年前、世界中の人々が日本に観戦にやってきたのですが、その人々はお酒を飲みに日本にやってきたのではないか?というくらい、お酒を飲みました。試合中に。いや、試合前から試合後もずっと。
皆さん試合開始前から宴会モードになっており、キックオフの時点ですっかり出来上がっています。そして、試合中もひたすらお酒をおかわりします。大体グループで来ているのですが、皆さん一度にビール1ダースとか頼んで、後はひたすらそれ(1ダース)をローテーションします。一度に何カップも持ち運び出来る台座の着いたセットがあるのです。確か4個か6個で1セット。それを両手に持ってくる。それもものすごいペースで。日本みたいに1杯ずつおかわりなんてチャチな事はしません。そして試合が終われば、夜通しビールを飲みながらその日行われた試合について延々と議論を交わします。あのプレーはどうだっだの、いや、あそこのあのプレーこそどうだっただの話は尽きません。スタジアムの外は試合終了と同時に宴会場です。夜遅くまで営業しているパブやスポーツバーなどは最初から道路まで人が溢れていますし、スタジアムから駅までの間のコンビニからは酒が消えます。海外の人はビールを無限に飲むので、毎試合何でお店の人はビールをもっと仕入れていないんだろうと疑問に思いました。この時の日本の人は海外の人々の飲みっぷりを分かっていなかったのだと思います。
ちなみにこの時のスポンサーはハイネケンだったので、試合会場ではハイネケンのビールしかありません。ハイネケンのビールしか試合中に飲めないのです。しかし、今回のラグビーワールドカップフランス大会ではハイネケンではなく、アサヒビールがスポンサーになったのです(フランスでは現在、スポーツ施設での飲酒が規制されており、ハイネケンが躊躇してる間にアサヒビールが契約をまとめ、その後、特例で試合会場でのビール販売が認められたそうです)。今大会では試合会場ではアサヒビールしか飲めません。だから、アサヒビールが某芸能事務所とのCM契約を更新しないと発表したのは、まさに今、全世界からフランスに人々が集まってラグビーワールドカップ会場でアサヒビールを飲んでいるからであって、そんな世界大注目の渦中で全世界を揺るがす大事件を引き起こした芸能事務所と契約しているとなったら、アサヒビールの会社存続にかかわる大問題となってしまうのです。このタイミングでの発表は、ラグビーワールドカップフランス大会が開幕したからなのでした。
この後、10月29日(日)の決勝戦まで約1カ月半、フランスでは史上今までにない量のアサヒビールが消費される事になります。他に会場で飲めるビールはありませんから観客に選択肢はないのです。
さて、2019年日本大会ではハーフタイムにカラオケ大会があり、ニール・ダイヤモンドの「スウィート・キャロライン」、オリビア・ニュートン=ジョンのカバー「カントリーロード」など、海外の人々に周知のメジャーな歌が会場に流れ(オーロラビジョンに歌詞も出ます)、お酒で盛り上がった会場全員で大合唱しました。見ず知らずの人々が海外の方も含めて、肩を組んで大合唱したのです。かなり感動的な瞬間でした。
2019年ラグビーワールドカップ日本大会では、日本代表の躍進など、試合内容もさることながら、世界中から観戦に来た人々の思い出が強烈に残っています。
大会期間中、スタジアムでアイルランドから来た男性が隣の席になり、色んな話をしたのですが、特に印象的だったのは、今から8年前にラグビーワールドカップイングランド大会初戦で日本が当時世界ランキング3位の南アフリカに史上最大のジャイアントキリングを達成した時、日本人の100倍くらい喜んでいたのがアイルランドの人々だったのです。これは各種ネット動画で日本の勝利にアイルランド人が狂喜乱舞する様子が残っているので、その理由を聞いたところ、アイルランドはそれまで抑圧されてきた歴史の関係で、弱者を応援する判官贔屓の国であり、あの時は日本という国を応援していたのではなく、アンダードッグ(負け犬)でしかなかった当時ワールドカップ最低勝率の日本が、ワールドカップ最高勝率で当時優勝2回を誇る南アフリカを倒したからみんな喜んだのだ、という事だそうです。しかし、日本大会でアイルランドを撃破した日本は、もうアンダードッグ(負け犬)ではないよ、と強調されていました。
2019年10月13日(日)のグループリーグ最終戦、超大型台風の直撃で横浜での日本対スコットランドでは前日土曜日同会場のイングランド対フランスが中止になるなど開催が危ぶまれましたが、関係者の方々が徹夜で会場整備(瓦礫の撤去、排水、グラウンド整備)をしてくれて無事開催に漕ぎ着けました。
この試合でスコットランドを正々堂々正面から撃破し、日本は史上初の決勝トーナメント進出を決め、スコットランドは史上初のグループリーグ敗退が決まりました。この時、会場の横浜日産スタジアムには多くのスコットランドの方々が応援に来ていたのですが、試合終了と同時に、全くの見ず知らずの私に次々に握手を求めてきて、健闘を称えてくれたのです。みんなその時、初めて会った人々ばかりです。こうして、試合終了から、みんなが会場を後にするまで、私は多くのスコットランドの方々と話をしました。
驚く事に多くの方が初めて日本に来た、という事でした。そして、その初めて来た日本がいかに素晴らしい所であったか、という事を見ず知らずの私に力説してくれたのでした。誰一人、スコットランドが負けて「日本め、この野郎!」という感じにはなっていませんでした。史上初めてグループリーグ敗退という屈辱を味わっているにもかかわらずです。これは9月28日(土)に当時世界ランキング2位のアイルランドを日本が撃破した時もそうでした。アイルランドの方々は皆、お酒を飲みながら日本を称えてくれたのです。
私は今まで体験した事のない清々しい気持ちになりました。ひたすらビールを飲んで、歌を歌い、見ず知らずの世界の人々と肩を組む。そして試合が終われば、勝った負けたではなく、お互いの健闘を称え合う。そんな事がこの日本で体験出来るとは、夢にも思っていませんでした。そして、この体験はきっとこの先、生かされると信じていました。コロナ禍が始まるまでは。
このせっかくの流れはコロナ禍によって全てぶち壊しになってしまったのが残念でなりません。東京オリンピックも利権と汚職の瓦礫の山と化しましたし、またいつかどこかで、ひたすらビールを飲みながら世界中の人々が肩を組んで歌えるお祭りに行けたらと思います。
と書いていたら、日本代表がチリ代表に42-12で勝利しました。厳しいグループにいますが、まあ何とか頑張ってほしいと思います。(りんりん 2023/9/16)
(寸評)たとえ負けても勝者を讃える。これが本当にカッコいい人のすることだよね。なんでもかんでも「日本最高!」それはまあしょうがないとしてもそうじゃなかった場合、相手を卑しめたりして自国の優位ばかり喧伝する人たちは本当の愛国者とは言えないと思うんだよなー。
トゥールーズはパスカルズでもライブをやったけど、たまの初海外レコーディングの場所としても記憶に残る街なんだよね。7ポイント。
はじめての「てげてげ」宮崎縦断ドライヴ初日~日向国シリーズ3
さてフェリーに乗り込み無事神戸から友人の待つ宮崎に到着した2023年7月21日のオポム一家、カーナヴィゲィションスィステムを駆使して途中日本でもここにしか無いというクジャク飛び出し注意の道路標識に衝撃を受けつつゲンゲンゲロゲロ待ち合わせのファミリーマートへ、久々に顔合わせした友人は元気そうで何よりでした。
今回はもうすぐこの地を離れる友人が我々のために、この日向国をめいっぱい堪能できるよう検討に検討を重ねたスペッシャルなプランを立ててくれました。なのでファミマでハムカツを頬張り口のまわりに粉を付けることはいたしません、うふふ、とっても美味しい肉のお昼御飯が待っているのです…、そう、待っていたはずでした。
ここで皆様にご案内しましょう、タイトルにもある「てげてげ」とは何ぞや??
この言葉は宮崎県で広く愛されている方言で、恐らく「大概(たいがい)」を二回重ねて「てーげーてーげー」としたものが縮まったものかと思われます。知らんけど。したがってだいたい、ざっくり、ほどほど、的なニュアンス、転じておおらか、おおざっぱ、テキトー、とも言い換えることが出来ます。
この言葉は広く愛されていることからもわかるように、時に宮崎の皆様の県民性を表す際にも使われることがあるようです。モロチンもといモチロン「大阪人はがめつくて強引」みたいなイメージと同様、宮崎のみなさん全員が全員というわけではないでしょうが。
さぁ説明が済んだところでいざお昼ご飯&本日の観光のメイン舞台となる高千穂町へ向かいましょう。最近では漫画・アニメ「推しの子」の物語の舞台になったりしていますがとくに我々は関心もないので純粋にその壮観な高低差あふれる景色を観光しに行く、といったスタンスです。東九州自動車道を爆走し延岡市から西側の山方面へ向かい、途中休憩に「北方よっちみろ屋」という愉快な名前の道の駅で「へべすドリンク」をサプライして気力回復、国道218号をずんずん北西へ向かえばやって来ました高千穂町。
ここで楽しみにしていたお肉屋さんでの昼食を摂ろうとしたのですが… 時間になってもまるで開く気配がありません。はゃ?? 友人は入念にそれは入念に、店休日を調べ上げていたはずでした。
そうです、これが宮崎の「てげてげ」なのです…!! ネット情報もアテにならない、突然当日に休業などはザラなのだと。み、宮崎牛が…シォック。
しかし私は既にこの宮崎の皆さまの「てげてげ」な生き様をあらかじめ友人から聴いており、なんとなくこういった事態になるのでは、と予想していました。逆に何でもネット頼りで縛られている我々の方が窮屈で不自然なのかも知れませんよね。私達も郷に入らば従うのみ、このてげてげスタイルを自らにも適用して楽しんでしまえば良いのです。ていうかどのみちもとより私はナチュラルにてげてげなおっさんなのでした。無問題無問題。
そしてさすがは宮崎暮らしに慣れた友人、こんなこともあろうかとすかさず近くのおいしいお蕎麦屋さんを紹介してくれました。せめてもの肉っ気を、とお蕎麦にメンチカツを追加、なんとまたこれがいずれも絶品、お水までも美味しい。その上どういうわけかお店の方と何処から来たのかなんてなお話をしていたところ、なんと我々の居所である大阪府豊中市北部の「千里セルシー」という商店街の話になり、まさかまさか日向国の高千穂まで来て私共の超地元の商店をご存知の店員さんがいらっしゃるなんて… と驚愕、 順当にお肉屋さんに入っていたら起こり得なかったご縁でした。こうして我々は友人のナイスなリカバーで全員ニッコニコでお店を出たのでした。
お次は日本書紀等によると天の世界からここ高千穂へ降り立った、天皇家の先祖とされる瓊瓊杵尊〈ニニギノミコト〉を孫に持つとされる天照大神〈アマテラスオオミカミ〉が隠れたという天岩戸をご神体とする…長いな、の、天岩戸神社へ。私は神仏をあまり信用せず大事にしてこなかった性質ですが、科学では説明できないなにか大きなちから、はあるものだと思っています。神職さんのご案内で普段は入れない御神域へ、斜面にアマテラスがお隠れになったという岩戸らしき窪みが見られました。
神職さんの説明も面白く、結局は神様もヒトであって稲作を上手に広めたから皆んながスゴーイ神だ、なんて言われちゃって後世に伝えられたもんでしょう、と。なかなか神社の方がここまで言ってしまうなんて大胆だなぁ、と感心しつつも新鮮な解釈は興味をそそりました。これもひとつのてげてげ、と捉えても良いかも知れません。
その後訪れたのは天然の六角柱が並ぶ柱状節理が圧巻で美しい高千穂峡。奥にある真名井の滝はため息が出る美しさでした。
しかし何故かその横の池ではチョウザメがすいすい泳いでおり、何やら宮崎キャビアの生産を目指して養殖を行なっているそうです。このギャップが何とも言えずてげってますね。あっここからは私がてげてげを感じた際はこんな調子で「てげってる」などというふざけた日本語を使用しますご容赦下さいませ。
高千穂名物はまだあります、廃線を利用した屋根なし窓なしのオープンなトロッコで東洋一の眺望とうたわれた高千穂鉄橋から105メートルの高さからの絶景が拝めるアマテラス鉄道。友人は若干ブルブルしていましたが私も嫁はんぼうずも大興奮。雨風が強いと運休しちゃうのですが運良く乗れてよかったです。
ここでも車掌さんの軽妙なトークが面白く、ご年配の彼らはどうやらバイトだそうでお一人は農家、もうお一人はスナックをやってるそうです〈笑〉。こんな高所のトロッコ運行も社員ではなくバイトがやっちゃう所も素敵なてげり方ですね。駅の自販機には地元飲料メーカー・サンAの炭酸水その名も「TEGE」が売られていました。どんだけてげてげ推しやねん。
もうひとつ静かな神社を訪れたのですがその道中、神話に登場する天岩戸をめっさ強いパワーでぶち開けた手力男〈タヂカラオ〉を模して、ふつう岩戸の扉を担いでいるものを何故か野菜を大量に乗っけたザルに変えた八百屋さんか何かの像を見つけ爆笑、私はこれをベジタブルなタヂカラオすなわちベジカラオと名付けました。神話のキャラまで恰好の宣伝役、てげてげ恐るべし。
神聖な区域にたくさん触れて私の小汚い魂もなんだか清められたような気分になりました。さて日も傾いてきたし、山を降りて海沿いの延岡市でディナーはやっぱりチキン南蛮at味のおぐら出北店。もうね、このチキン南蛮が極上で極上で… 今までこんな美味い鶏料理は食べたことがない、という位に本場のやつは美味しかった!!
ところがところが、このおぐらさんのウリは元祖チキン南蛮だけではなくちゃんぽんも絶品、さらにはステーキまで揃えているという無双っぷりで、私は苦渋の決断で南蛮&ちゃんぽんの南ちゃんセットをオーダー、ちゃんぽんさえも過去イチのウマさという奇跡に気をおかしくしていました。なんで洋食屋さんでちゃんぽんやっててしかも無茶苦茶うまいの⁇ てげってますね。最高か。
私は幸せに顔面をゲヘゲヘ崩しながら国道10号をバリバリ南下、友人宅へ車を飛ばしました。宿は明日の行程をスムーズにするため友人宅近くの旅館を予約したのです。
そしてこの旅館も例に漏れずてげてげで、インターネットにほぼ情報がない。予約は電話のみですぐに出来たのですが終話してから気づきました、料金、聞いてないわ。おまけに頼みもしないうちからGoToなんちゃらの手続きを勝手に進めてくれて、朝食付きで3人で10,200円になった上に県内の道の駅で使えるクーポン2,000円×3枚も貰えました。やっす!!! ちなみにちらっと見たところ申請書の住所と電話番号は宿と私方の情報がごちゃまぜで登録されており、てげり方えぐいな、と思いました。でもとっても親切にしてくださいました。
久々に親子3人でお風呂に入って就寝前、嫁はんが呟きました。
狸子「25年前の私に伝えてあげたいわ。あの日は1日中泣き続けてたけど、25年後にはこんなに楽しい1日が待ってるって。こんな楽しい家族と一緒に居るって」
25年前のこの日、彼女は小学生最後の夏休みの初日にまだ若いお母さんをなくしました。その事は少なからず妻の人生に大きな影響を与えて来たことでしょう。でも頑張って生きてきた。そしたらこんな素敵な日が訪れた。嫁はんは穏やかに微笑みながら、そう言うのでした。
私は今この時がどんなに幸せであることかを噛み締め、改めて素敵なプランを一生懸命考えてくれた友人に感謝しました。そして私の毎度の無茶な計画に文句も言わず愉しんでくれる嫁はんとぼうずにも。
またしても長くなり過ぎました、翌日はまた次の投稿で。(オポムチャン 2023/9/16)
(寸評)宮崎っておいしいよね。俺も3年くらい前に行っておいしかった。かつては坂本龍馬のおかげで新婚旅行のメッカだったしね。また行きたいなー。6ポイント。
初めての集会参加
ある日の新聞配達中バイクで国道に入ったら、暴走族の皆さまのお勤めに巻き込まれてしまいました。
前も右も後ろもお兄様方のバイクが走っている中、自分もやんちゃな人間になったつもりでアクセルをブリンブリン言わせて...な~んてことは一切なく、背筋をピンと伸ばしひたすら真っすぐ前方を見つめ、「私は風景ですよ~私は風景ですよ~」と念じながらバイクを走らせました。そして次の配達先へ、ソロ~ッと左折したのでした。
あ~何事もなくて良かったな~、という初めての集会参加?のお話でした。(ひももん 2023/9/3)
(寸評)声をかけてきたと思ったら「僕たちも手伝いますよっ!」だったりして...。6ポイント。
初めての中洲の個室ビデオ屋(1997年3月)
1997年3月私が九州旅行をした際、初めて福岡・中洲の個室ビデオ屋に行ったことを思い出しました。
休暇を取り長崎・福岡の旅をしたのですが、福岡では夜の中洲をほっつき歩いたことが印象に残っています。
裏通りに非チェーン系の個室ビデオ屋があったのでふらっと入りました。すると、ここは無修正ビデオばかり置いてあるイリーガルな店でした。これはしたり、とニヤニヤ顔でビデオを選びレジに持って行くと、レジのお兄さんは驚くべき提案をしてきました。
なんと「自分これから外出するので3時間貸切にするから、自由にビデオ見ていいよ」とのたまうたのです!!
私は彼の提案を受け入れ、貸切の個室ビデオ屋でビデオ鑑賞を満喫しました。その頃はまだ三十代前半だったのでいくらでもいくらでも・・・することは出来ました。今もあの店営業してるのかな。そういえば東京でも無修正ビデオの個室ビデオ屋どこかにあったな。あれは荒川の方だったかな。
という初めての中洲の個室ビデオ屋の話。(波照間エロマンガ島 2023/9/3)
(寸評)今はネットで無料で無修正観られるからなー。ネットで観られるようになって、たぶん女性もずっと試聴がしやすくなったろーね。そしてホテルの有料チャンネル観る人は減ったろうね。5ポイント。
初めてのシニアパス
先日バンコク地下鉄MRTの使用有効期限が過ぎたので新たに購入しに行きました。パスポートを見せ新たに登録すると、初めて60歳以上のシニアパス〔こちらではELDER CARDと表記されてます〕をもらいました。60歳になって老人用パスをもらったのは初めての体験です。
でもって、利用した駅間の度数の減りが少ないなと思い調べてみると、なんと半額引きになってました!おぉ、これが老人の特権かー! 嬉しくなっちゃいましたね。他にもいろいろ特典がありそうなので、これからいろいろ調べてサービスにありつきたいです。そんな、初めてのシニアパスをゲットの巻きでした。(波照間エロマンガ島 2023/9/3)
(寸評)半額とは豪勢。日本の高齢者割引は65歳からのものも多いけど調べてみるといろいろあるかもね。少しお得にしてもらうのはありがたいね。 5ポイント。
47年後に歌詞の内容が初めて判明したの巻き
こんにちは、投稿王の某です。
1976年の自分は全米トップ40を毎週聴いて、アメリカのヒットチャートを一所懸命メモする中学生でした。その年はポール・マッカートニーとウイングスの「心のラブソング」が7週連続全米1位、年間第1位を記録したほか、たくさんのヒット曲をエアチェックしました。中学2年生の感性にビビッドに響いた曲は数えられないほどたくさんありました。
VIDEO
その中、年間第4位に輝いたのが、ザ・フォー・シーズンズの「December 1963 〔Oh What A Night!〕」。1960年代にビーチ・ボーイズと並び、大人気だったファルセットコーラスロックバンドの再ブレイクの1曲。1位になった1976年3月13日は、リアルタイムでラジオ番組「全米トップ40」を聴いており、曲が流れる前に湯川れい子さんの訳詞を聴いた記憶が残っています。リード・ボーカルのフランキー・ヴァリは甘いボイスで1970年代後半はソロでも大活躍し、ロバート・スティグウッドのプロデュースで「グリース」の主題歌を歌い大ヒットしましたね。
さて詞の大意は以下のとおり。
自分にとって忘れられない夜。それは1963年12月のある夜、クリスマス前後のこと。ずっと憧れていた女性と信じられない夜を過ごした。ああ、あれはなんて夜だったのだろう!今でも忘れられない、素晴らしい夜だった。
それは曲が発表された1975年のクリスマスから1963年を振り返る内容だった。これは十代のティーンが憧れのマドンナとベッドイン、無事初体験を済ませたという曲だと今の今まで思っていた。ところが、それがどうもちょっと違っていたんだな、これが。
曲中、下記の一行の詞があるんです。
>You know I didn't even know her name.
〔あなたもご存知のとおり、私は彼女の名前も知らなかったんです〕
え?え?え?
何これ?
初体験の相手の名前を知らないってどういうことなの?
あーーーー!!
これは風俗嬢に筆おろし指南してもらった歌じゃねえかー!!!
私はこのショックにしばらく打ちひしがれていました。
47年間、私は歌詞の意味を間違えて理解していたのですね。でもこんなシチュエーションって「さもありなん」だ。
年上の娼婦と初体験して、この曲の主人公の男の子は最高に気持ちよかった。そんな歌だったんです!
まぁ、50年近く曲を誤解していたわけだけれど、正しく理解できてよかったんだろうな、とは思います。これからも昔聴いていた曲をいろいろ探求していく次第です。(波照間エロマンガ島 2023/9/3)
(寸評)♪僕のおこづかいと引き換えに〜 とかの歌詞があればわかりやすかったのにね。6ポイント。
初めての「たま」
これはどうやって「たま」ファンが出来上がったかを描写する事を目的としている文章のため、途中大変失礼に当たる物言いが出てきます事を予め御容赦下さい。どうか怒らないでお読み下さい。
「たま」が初めてイカ天に出場した1989年11月、私は高校生でした。当時、イカ天でセンセーショナルに世に出てきた「たま」の事はよく覚えています。というか、私の当時高校生の妹が「たま」の大ファンになったのです。それで妹は「たま」の楽曲をカセットテープに録音し、ひたすら家の中でヘビーローテションしていました。
私は、というと高校時代、大瀧詠一さんと爆風スランプにハマっていたので、私の中に「たま」が入る余地はありませんでした。そもそもテレビでの「たま」の扱いが「一発屋のコミックバンド」というものだったので、妹がどハマりしている「たま」を横目で見ている程度だったのです。
そんな私が何十年かぶりに「たま」の事を目にしたのは2022年4月の事。元「たま」の石川浩司さんが、某しくじった人を扱う番組からのオファーを断ったという2022年4月19日のツイートが記事になり、それがたまたま私の目に入ったのです。
この時、私は初めて「たま」のランニングシャツの方が石川浩司さんというお名前だと知りました。そもそも私は元「たま」のメンバーの名前を誰一人知りませんでした。
ともかくもその中で石川さんは「売れた事自体がしくじりなら考えます」と述べておられましたが、ものすごくカッコいいなと思いました。
私達夫婦もその某しくじり系番組はよく観ていたので、石川さんのこの話は夫婦で話題になりました。私にとって、この記事で大きかったのは、石川さんが元気に生きていた、という事です。私は「たま」のメンバーがその後どうなったか全く知らなかったので、少なくともランニングシャツの方は石川浩司さんというお名前で、元気に生きていたんだ、という事が何十年かぶりに分かったのです。
そういう事も多少伏線になったかと思いますが、妻は2022年6月25日(土)から「たま」を聴くようになりました。資格試験の勉強で煮詰まっているところに、スマホのオススメの音楽で出てきたそうです。それから妻は「たま」にハマりました。妻に言わせると「たま」の音楽は資格試験で煮詰まった脳味噌をグチャグチャにほぐしてくれるというのです。特に妻は石川さんの楽曲を好みました。 「耳のびる」など、石川さんの摩訶不思議なワンダーアンダーグラウンドが、妻の脳味噌にフィットしたのです(ちなみに妻はイヤホンで聴いていたので、この時点で私は妻がどんな曲を聴いていたのか知りませんでした)。
一方、私は妻が「たま」を聴き始めたのは認識していましたが、特に関心を持ちませんでした。私から言わせれば「今さら『たま』なの?」という感じでした。
その時の、私の「たま」に対する認識は、「一発屋のコミックバンド」「よく分からないけど、一発屋だから1990年代前半で解散したのでは?」「よく分からないけど、解散後は、皆、音楽では食べていけないから音楽から離れて別の仕事をして暮らしているのでは?」「よく分からないけど、石川さんは何かインタビュー受けてるみたいだけど、太鼓しか叩けない人(本当に申し訳ありませんが、こんな認識でした。すみません!)がどうやって音楽活動するんだろう?」という酷いものでした。
これは言い訳をすれば、1990年代当時のテレビの「たま」の扱いが「一発屋のコミックバンド」というものだったので、私の頭の中でもそのように刷り込まれてしまっていたのです。ですので「たま」の印象は、カッパ頭の人、太鼓を叩くだけのランニングシャツの人、あとは楽器を弾いてる人が何人いるのかよく分からない、という感じで「さよなら人類」も長い間、歌っていたのはカッパ頭の人だと思い込んでいました。
なぜなら「さよなら人類」で知久さんがコーラスしている時、柳原さんは基本一番左端にいるので、引きのカメラで撮った時、どうしても真ん中に知久さんと石川さんが入るので、その両サイドの柳原さんと滝本さんは視界から消えて印象に残らなかったのです。だから「さよなら人類」のボーカルは知久さんだと勘違いしたのです。柳原さんと滝本さんは一見普通に見えますから(失礼!)、余計に印象に残りませんでした。まあ知久さんと石川さんのビジュアルインパクトが強すぎたのですね。
ですから、「たま」は最大4人いて、全員が作詞作曲出来て、しかも全員ボーカルも取れる、という「和製ビートルズ」だったなんて夢にも思っていなかったのです。もちろん石川さんが太鼓以外にギターや他の楽器も弾けて、かつ歌うなんて、つゆほどにも知りませんでした。石川さんが声を出すのは「さよなら人類」で「着いたー!」と叫ぶ時だけだと思っていました。本当に本当にスミマセン。
その後、2022年7月21日に漫画版「『たま』という船に乗っていた」が出版され、既に「たま」にハマっていた妻はこれを購入しました。
私もパラパラとは見せてもらい、「たま」にまつわるドラマが何かすごく面白そうだな、とは思いましたが、まだこの時は熟読するには至りませんでした。まあ妻の蔵書でしたので。
そうした中、2023年4月9日(日)に埼玉県熊谷市のモルタルレコードで石川さんとワタナベイビーさんの「たま曲ライブ」が開催される事になり、「たま」のライブに行きたいと切望していた妻は2月12日に申し込みを完了し、喜び勇んで出かけていきました。私も妻に誘われたのですが、その日は丁度川口オートレースで、大怪我で長期離脱していた森且行選手の復帰戦シリーズがあり、どうしても応援している森且行選手の復帰の姿を見届けたかった私は、熊谷に行くのを断念しました。
熊谷から帰ってきた妻は「ライブがすごく良かったよ!」と興奮して報告してくれました。しかも、何と原作版「『たま』という船に乗っていた」に石川さんからサインをもらってきた、というのです。私はビックリしました。内気な妻がいきなり石川さんのサインをもらってくるなんて!でもまだこの時点では「妻が好きなライブに行けて良かったね」という感じで、自分が石川さんのライブに行こう、というまでには至りませんでした。
ともかく、こうして家族の中でついに元「たま」の方のライブに行く者が出てきて、何ならサインももらってきて、グッと身近な存在になりました。
そのようなタイミングの時に、2023年4月15日にYahoo!ニュースで石川さんのインタビューが掲載されました。内容は「たま」がイカ天に出る時にメンバーで揉めた話でした。このインタビューを石川さんは「現在もメンバーは全員ソロで活動しているので、ぜひライブにお越し下さい!」と締め括られていました。
そこで私は、初めて元「たま」のメンバーの方々全員が今も元気に音楽活動を続けておられる事を知りました。だからここでの石川さん発信は超重要だったのです。
私は「たま」メンバーがイカ天に出る出ないで揉めた事に興味を持ち、ここでついに「イカ天かあ。あの時どんな感じだったっけ?調べてみようかな」と思うに至ったのです。そして、ついに動画で「たま」イカ天出場時の映像を観たのです。
動画を観た私は度肝を抜かれました。何なんだこれは!と驚愕すると同時に、妹がさんざんヘビーローテションしていた楽曲が蘇ってきました。「イカ天」出場時から、ほぼ30年以上耳にしてこなかった楽曲達に触れたのです。
私は「たま」の楽曲のあまりのレベルの高さ、楽曲の完成度、他の追随を許さない世界観、そして高度な演奏技術に魂を一気に持っていかれました。そこにいたのは「一発屋のコミックバンド」でも何でもなく、空前絶後の超絶天才集団だったのです。「たま」の前に「たま」なく、「たま」の後に「たま」なし。こんな天才化け物集団にイカ天の他のバンドが勝てるはずはないと思いました。
と同時に懐かしさが込み上げてきました。紅白歌合戦に出た事もあり、日本人なら誰でも知っている「さよなら人類」もさることながら、私は「ロシヤのパン」に心を奪われました。妹のヘビーローテションによって30年以上も前に、私の心に刻み込まれていたのです。「ロシヤのパン」を聴いていると、涙が込み上げてきました。
私は「たま」の楽曲の素晴らしさを改めて実感すると同時に、何故リアルタイムであの時、この素晴らしさに気づかなかったのだろう、とものすごく後悔しました。この事は、ネット上でも同様の事を述べられている方が沢山いますが、当時は分からなかったが、今聴くと「たま」の凄まじさに驚愕する、というコメントが多数見受けられます。
これは本当にテレビの功罪で、当時インターネットがまだなかった頃なので、テレビの影響力が大きかったのです。そして、そのテレビが、こともあろうに「たま」を面白おかしく「一発屋のコミックバンド」として世に広めてしまったのです。だからそのテレビの宣伝にまんまと乗っかってしまった私は「たま」を「一発屋のコミックバンド」と決めつけ、楽曲に正面から向き合う、という事を怠ってしまいました。本当に悔やまれてなりません。
私はそれから、妻と一緒に全員ソロで活動しているという元「たま」メンバーの皆さんのライブに足を運ぶようになりました。この「失われた30年」を取り戻すべく、実際に自分の耳で楽曲を聴いて、さらに「たま」メンバーの皆さんの楽曲の素晴らしさを実感しました。最初は石川さんと知久さんが所属しているという謎の集団でしかなかったPascaLsにもハマりました。
こうしてライブに通うようになり、2023年6月は元「たま」4人全員とPascaLsのライブに行く事が出来ました。私の人生は大きく変わりました。それまでスルーしてきた数多くの素晴らしい楽曲を拾っていけるようになったのです。それでもまだまだ初心者で、特に石川さんの数多くのユニットのライブにはまだまだ行けていません。少しずつ行けたらと思っています。
このように私の人生が大きく変わった最大のきっかけは石川さんのインタビュー記事でした。あれがなければ私はライブに足を運ぶ事はなかったと思います。石川さんには感謝しかありません。
さらに私の人生が大きく変わった点がもう一つ。それは石川さんのHPとの出会いです。最初見た時は何が何だかよく分かりませんでしたが、試行錯誤のまま駄文を投稿するようになりました。今まで、文章を投稿する、なんて事はした事がありませんでした。でも何というか、大変懐の深い石川さんのHPは、投稿全採用のジャンルもあったりして、気軽に投稿出来ます。とても面白いHPだと思います。
そんな石川さんのおかげでこのHPにちょこちょこ投稿させていただいている次第で、いくつか駄文を連ねている私ですが、ものを書く事を趣味にしている訳でも、もちろん文筆業を生業にしている訳でもありません。普段は文章なぞ一切書きません。面白い事に本当に石川さんのHPだから、筆が進むのです。こんな事は今までの人生でなかった事です。
せっかく石川さんのHPに出会えたので、万分の一でも石川さんの心のどこかにフックする文章が書けたらなと思います。(りんりん 2023/8/24)
(寸評)そーだったんだね。嬉しいなあ。たまデビュー30年以上経ち、解散してからも20年経つのにこうして新しく聴いてくれる人がいるのは本当に嬉しくありがたいこと。
確かにデビューの頃はちょっとブームのようになってしまった故にそういう誤解のままイメージで聴かれなかったことも多かった。かくいう自分も、もし同じ立場だったらいきなり持ち上げられて「たま現象」なんて言われたバンドには、おそらく耳を傾ける興味は湧かなかったろうから、気持ちはわかるけどね。
「さよなら人類」が俺と知久君のイメージというのも分かる。たいていテレビなどでは「90年代のヒット曲」的なことで扱われることが多いのだけど、その時、俺の「着いた〜!」と叫ぶところが使われることが多いのだが、そこがMVなどではちょうどサビを知久君がコーラスして一緒に歌っているところなので、知久君がボーカルだと勘違いしている人も多いのだと思う。
ともあれ、インタビューなどを受けてひとりでもこうやって来てくれる人がいたなら良かった。そういう人が草の根運動じゃないけど、ひとりずつでも増えてくれれば有難いな。気づいてくれて、サンキュー! 8ポイント。
初めての「御巣鷹の尾根」
私達夫婦は2022年8月に初めて群馬県多野郡上野村に位置する所謂「御巣鷹の尾根」に行きました。「御巣鷹の尾根」とは1985年8月12日(月)18時56分28秒に起きた520名が犠牲になった羽田発大阪行きの日航機123便ボーイング747墜落事故の現場となった場所で、よく御巣鷹山と言われる事がありますが、実際には御巣鷹山は別の場所にあり、正式にはこの「御巣鷹の尾根」が現場となります。
まず2022年8月7日(日)は日帰りで、電車で千葉県を出発した私達はJR高崎線の埼玉県本庄駅でレンタカーを借り、一路群馬県多野郡上野村を目指しました。上野村は神流川(かんながわ)沿いにあり、大変風光明媚な場所です。埼玉県本庄市から車でだいたい2時間くらいの場所です。
まず上野村にある「慰霊の園」を訪れました。ここは毎年追悼慰霊式が開催される場所です。「慰霊の園」は「御巣鷹の尾根」にある慰霊碑「昇魂の碑」と共に1986年8月1日に完成し、身元不明の御遺骨(事故の衝撃のため多くはバラバラの部分遺体となって発見され、御遺体の総数2065体のうち五体満足の御遺体は520名中177名、ほぼ完全も含めると192名にとどまり、最終的に身元確認が出来なかった1家族2名を除く518名分の御遺体の身元は判明したが最後まで身元が分からない数多くの御遺体部位が1985年10月5日と12月20日に荼毘に付されここに納められた)が収められた納骨堂や慰霊塔、展示棟があります。展示棟には御遺品や事故の各種資料が展示されています。
ここ「慰霊の園」から事故現場の「御巣鷹の尾根」までは完全な山道となります。事故の後、道路が開設されたためアクセスは格段に良くなりましたが、事故当時は道はなかったので、捜索隊は日航機事故対策本部が置かれた上野村役場から歩いて山を登っていったのです。
その「慰霊の園」から車で行ける最終地点「第二駐車場」まで40分ほどかかります。「御巣鷹の尾根」は、その「第二駐車場」からさらに急峻な斜面を真っ直ぐ登っても40分ほど歩いた先の標高1565メートルの地点です。これほど標高が高い場所に墜落した、というのを改めて知って驚きましたし、救助活動が進まなかった理由の一つでもありました。
この「御巣鷹の尾根」に日航機123便ボーイング747は墜落したのですが、機体が裏返しの状態で時速488キロで尾根に激突し、前半分はエンジンと燃料タンクがあったのでそのまま爆発炎上、後ろ半分は機体が折れて炎上を免れ尾根から「スゲノ沢」と呼ばれる沢まで直線距離にして250メートル滑り落ちました。そこで生存者4名が見つかったのです(実際五体満足の御遺体のほとんどはここで発見されているので事故の衝撃が一番少なかった場所)。
実際に行って分かった事ですが、現場は山というより完全な崖と言っていいほど急峻な斜面です。よくこれで生存者がおられたと思わずにはいられないほどです。「御巣鷹の尾根」一帯には御遺体が発見された場所に番号がつけられ(2J、4G、5Bなど1から10までの区画に分けられている)、それぞれの場所に墓碑が建てられています。墓碑には犠牲者名と発見場所番号が記された金属タグが付けられています。生存者が見つかった「スゲノ沢」が一番多いですが、そこから「昇魂の碑」がある尾根にかけて、非常に広範囲に墓碑が建てられています。そして、事故から40年経とうとしている現在でもなお「御巣鷹の尾根」から機体の残骸の一部が見つかります。実際、私も見つけました。その意味でも、事故はまだ終わっていないのです。
その尾根の一番高い所、ここは丁度生存者救助のヘリポートが作られた場所ですが、そこが広場となっており、慰霊碑「昇魂の碑」が建立されています。隣には御遺族で作る「8.12連絡会」が空の安全を祈って1993年8月に建立した「安全の鐘」があり、訪れた方々は皆、こんな事故が二度と起こらないよう願いを込めて鐘を鳴らします。「御巣鷹の尾根」自体がこのように広範囲となっているため、全部をまわろうと思ったら優に1時間以上はかかります。しかも相当な急斜面です。ここの山小屋には管理人の今年2023年で80歳になられる黒沢完一さんという方がおられ、実際にお会いしてお話を伺いましたが、黒沢さんや有志の「御巣鷹の事故を忘れない会」の方々が階段や手すりの設置など登山道を整備したり「スゲノ沢」に風車を設置したりして、現場を守ってくれています。
事故の原因はアメリカボーイング社の後部圧力隔壁の修理ミスが原因とされ、機内の様子を記録したボイスレコーダーは1999年11月に当時の運輸省が破棄したと2000年8月に暴露され、そのタイミングで誰かが破棄前にダビングしたボイスレコーダーのテープが各マスコミにリークされて公表に至り、現在ではインターネット動画で誰でも聴く事が出来ます。
この事故は520名もの犠牲者を出し、その中には多くの著名人も含まれていた事から各方面に大きな衝撃を与えました。私は相撲が好きなので、大相撲関係者が何人も含まれていた事もショックでした。また結婚してから分かった事ですが、私の義父の同僚の方も犠牲になりました。また事故の前年まで大阪に住んでいて何度も羽田ー大阪間を飛行機で行き来した私にも他人事ではありませんでした。
私達夫婦は今回初めて「御巣鷹の尾根」に行き、これら縁ある方々の墓参が出来たのですが、事故から間もなく40年を迎える現在、御遺族の方々の高齢化が進み、「御巣鷹の尾根」に慰霊登山に行ける人数が年々減っているとの事です。また御遺族で亡くなられる方々も出てきています。御遺族の方々は事故から40年を経過しようとしている昨今、事故の風化も懸念されています。また日本航空によると、日航機123便ボーイング747墜落事故当時から残る社員は全社員1万3367人中154人と全社員の1パーセントにまで減少し(2023年3月末日時点)、全社員のうち50パーセントが事故後に生まれた社員だそうです。
そんな状況の中、私のモットーは「亡くなった方の事をいつまでも忘れない事が弔いの一つである」というものなので、いつまでも忘れないと心に誓っています。
さて、8月7日(日)にまず日帰りで上野村を訪れた私達夫婦は、翌週一泊二日で改めて上野村を訪れました。毎年8月12日前後3日間は「慰霊の園」及び「御巣鷹の尾根」は御遺族関係者のみの参加となりますので「御巣鷹の尾根」には8月14日(日)に再び行きました。上野村は前述の通り大変風光明媚な所で、普段は釣り客が多く訪れるそうです。また上野村には「不二洞」という関東最大の鍾乳洞があり一日目に訪れましたが、
長さ225メートル、高さ90メートルの吊り橋「上野スカイブリッジ」という大きな橋の脇にあり、両方を楽しむ事が出来ます。
宿泊は築400年の歴史を持つ古い宿「今井家旅館」に泊まりました。「今井家旅館」はこの年の大河ドラマ「鎌倉殿」にも出てきた木曽義仲の忠臣今井兼平(木曽義仲が討たれた時、隣にいた人)ゆかりの宿で、ここには何と甲冑が置かれてあり、また明治時代の秩父事件の舞台になった場所で宿の柱には当時の刀傷が残っています。この宿には日航機墜落事故当時、多くの報道関係者も宿泊し、皆さんが残した色紙が飾られていました。
上野村には国道299号線沿いに1994年8月に出来た「道の駅上野」があり、土地の名産品を買う事が出来ます。上野村は「イノブタ」が名産との事で、私達夫婦はここで「イノブタカツ丼」「イノブタ鍋」を食べ、「イノブタの角煮」「レトルトのイノブタカレー」をお土産に買いました。ものすごく美味しかったです。
こうして、初めて日航機123便ボーイング747墜落事故の現場となった上野村を訪れた私達夫婦でしたが、私達にはもう一つ行かなくてはならない場所がありました。それは東京・羽田空港そばモノレール「新整備場」駅降りてすぐの所にある「JAL安全啓発センター」です。
「JAL安全啓発センター」には、日航機123便ボーイング747墜落事故の実際の機体の一部、垂直尾翼、後部圧力隔壁、ボイスレコーダー・フライトレコーダー(それぞれのオレンジ色の外箱で中身は破棄された)、御遺族の遺書・遺品、事故報告書など、事故にまつわる多くの資料が展示されています。こちらの施設の見学は完全予約制となっており、毎月1日にネットで予約を取るのですが、多くの方々が訪れる施設のため、なかなか予約が取れません。私達は2022年8月に「御巣鷹の尾根」を訪れたあと、その年の冬にやっと初めて「JAL安全啓発センター」に行く事が出来ました。
この「JAL安全啓発センター」が出来たのは2006年4月24日です。事故から実に21年もの年月が経過しております。これは、事故の教訓とするため事故の証拠となる事故機の現物等資料を残してほしいという御遺族に対し、忌まわしい事故の証拠物件はさっさと破棄焼却してしまいたいという日本航空側が応じようとしなかったためです。途中にはこの事故で業務上過失致死で書類送検された日本航空・ボーイング社等関係者20名をボーイング社が修理ミスを認めているにも関わらず前橋地検が1989年11月22日に不起訴処分にするという出来事もありました。
しかし事故の教訓を生かさない日本航空は2004年・2005年と立て続けに重大インシデントを起こし、国から業務改善命令並びに警告を出されてしまいます。安全啓発センターを作らざるを得ない状況に自ら追い込まれました。そして御遺族で作る「8.12連絡会」の嘆願に対し、ようやく重い腰を上げたのです。「JAL安全啓発センター」には2023年までにのべ29万人の方が訪れ、うち社外の一般の方が50パーセント、日本航空社員が50パーセントの割合との事です。
「JAL安全啓発センター」には「御巣鷹の尾根」や相模湾の海底から回収してきた事故機の一部がそのままの状態で展示されており、そのあまりの光景に言葉を失います。何より、事故の原因とされるアメリカボーイング社の後部圧力隔壁の修理ミスの箇所を目の前で確認する事が出来、何故こんな事になったのかという思いを強くせずにはいられません。
日本航空は、日航機123便ボーイング747墜落事故以外にも7件の人命を失う墜落事故を起こしており、それぞれの事故発生月には特別展として、それぞれの事故の資料も展示されます。私は今年2023年8月にも「JAL安全啓発センター」に行く事が出来ましたが、丁度日航機123便ボーイング747墜落事故発生月だったため、上野村で行われた「とうろう流し」の灯籠が展示されてありました。上野村では事故から10年後の1995年から毎年事故前日の8月11日18時56分に神流川で「とうろう流し」が行われ、御遺族や地元の方が参加します。今年は4年ぶりに従来の規模で行われました。
「JAL安全啓発センター」には昨年の「とうろう流し」の灯籠が展示されていたのですが、その内の一つ、ある御遺族の方で小学6年生の女の子が書かれた灯籠に私は絶句しました。そこには「つらかったね。」というただ一文が書かれていたのです。そのただ一文に私は言葉を失いました。思わず涙が込み上げてきました。1985年8月12日18時12分に定刻より少し遅れて羽田空港を離陸した日航機123便ボーイング747は、18時24分35秒に後部圧力隔壁の修理ミスの箇所が破損し、そこから吹き出した空気圧で垂直尾翼のほとんどと4つの油圧系統全てが失われ、フライトレコーダーによれば以降墜落までの32分間に渡って制御が全く失われた状態で激しい上下のフゴイド運動と、激しい左右のダッチロール現象を繰り返してジェットコースターのように上下左右に激しく揺れながら飛行を続けたのです。その間の乗客乗員の心中はいかばかりであったでしょうか。航空機事故のほとんどが離着陸の魔の11分間に起こるそうですが(離陸直後3分間、着陸直前8分間)、この事故は異例の離陸後12分の異常発生から32分間にも渡って飛行が続いたのです。
事故に遭われた方の中には大相撲の佐渡ヶ嶽部屋大阪後援会会長のまだ20歳のお嬢さんがおられ、将来を誓い合った力士がいて、その力士と東京で会ったその日の夜に御両親と共に事故に遭われたのでした。力士の方は東京で会ったわずか数時間後に恋人を失ったのです。私の義父の同僚の方は大学を出たばかりの22歳で、将来に胸ときめかせていた、そんな年頃の女性で帰省する途中に事故に遭われました。それ以外にも多くの老若男女の方々が普通の夏休み期間だったはずの1985年8月12日、この事故に巻き込まれたのです。私はこの日の夜、テレビ画面に映し出される搭乗者名簿を一晩中見ていたのを昨日の事のように覚えています。この後1985年10月に義父の同僚の方のお母様(この方が娘の飛行機のチケットを取ったため長い間自分が娘を殺したと苦しまれた)が、隣の座席だった9歳の男の子のお母様にかけた一本の電話が「8.12連絡会」設立のきっかけとなりました。
私は「つらかったね。」の一文に込められた520名の犠牲者、御遺族、まわりの人々、そして4名の生存者の方の人生も変えてしまった(4名中3名の方は同乗の御家族が犠牲になり、残る1人も同僚の方が犠牲になりました)、そのそれぞれの人生を思うと、胸が張り裂けそうになりました(後援会会長御家族等一家全員死亡が22世帯、父親を失い母子家庭になったのが189世帯、事故の御遺族は401世帯に上る)。
絶対にこの事故を風化させてはならない、絶対にこの事故を忘れてはならない、と固く決意しました。
この文章を読まれてまだ上野村に行った事がないという方は、上野村は大変風光明媚な素晴らしい場所で「イノブタ料理」も美味しいですので、「御巣鷹の尾根」までは無理だとしても上野村を訪れた際には国道299号線からすぐの「慰霊の園」に是非立ち寄っていただけると幸いです。(りんりん 2023/8/24)
(寸評)坂本九さんが衝撃だったなあ。アメリカでNo1ヒットソングを歌った日本で唯一の歌手(当時)だったからね。
またこの事故にはいろんな陰謀説もあるね。果たしてどれが真実なのか。ともかく、30分以上も墜落の恐怖の末に亡くなったというのはなかなか無いこと。瞬間的に亡くなるのなら本人の苦しみは案外少ないこともあるかもしれないけど、これは精神的にも本当に「つらかったね。」だね。僕らに出来ることは忘れないことだけなのかもしれないね。7ポイント。
初めてのウォシュレット
私は断じてペーパー派ですが たまには使ってみるかと思いウォシュレットを使ってみました
水流をMAXにするとこれがいい
ただし 痔が切れたときにやるとものすごくしみるのが難点
結果 今ではペーパーに逆戻りしています(ズミ天 2023/8/24)
(寸評)えっ、ウォシュレット使ってもペーパーも使うよ。水だけだったら落ち切れていないこともあるのでちうい。5ポイント。
初めての友部正人
ここ最近新品中古問わず見かけると買ってるのが友部正人さんのCD
最初に買ったのは けらいのひとりもいない王様だったかな?
たまサウンドと友部さんの詞がマッチングしてて好きです
その後しばらくは買わなかったのですが 某動画サイトに 友部さんの曲とアニメを混ぜた動画を発見
その数日後 その曲(どうして旅に出なかったんだ)が入ってるCDがあったので、購入
ジワーッときてスッとする曲が多く 通勤時に聴いています(ズミ天 2023/8/24)
(寸評)俺は10代の頃は友部さんはフォーク過ぎてあまり聴いていなかったのだけど、知久君に教えてもらってから、その歌詞の世界にズッポリはまったなー。一時は毎日友部さんばかりを聴いてた時もあった。独特の上手すぎない声が、かえって詩の世界を浮立たせるんだよね。5ポイント。
はじめての太平洋上〜日向国シリーズ2
さて前回ちっさい脳味噌を疑問符で埋めつつフェリーの予約を終えたあほのおっさん46歳、宿の確保にもあれこれハテナを浮かべつつ〈このへんの原因についてはまとめて次回に投稿します〉いよいよ出発の2023年7月20日を迎えました。
4日分の衣類と友人への手土産を車にぶち込みガソリンを補給したらばいざ神戸三宮フェリーターミナルへ。19時10分の出航で17時から乗船手続きが開始するようです。
もし船内のブッへが事前予約制なら食いっぱぐれるので晩御飯は港の近くで食べた方が良いのだろうか。しかし神戸の中心地へは歩いて20分ほどかかります、夕方とはいえ往復40分も7月の屋外を歩きたくはありません。ここは高く付きますがブッへ狙いでいきましょう、駄目なら家族3人で泣きながら自販機の麺麭なりカップ饂飩なりで堪え忍ぶことにします。
17時すこし前、阪神高速を経てフェリーターミナルに着きました。さてこの先の段取りがよくわからない、とりあえず宮崎、と書いた矢印に従って進みましょう。おっ誘導のおっちゃんが居ました、ニッコニコのおっちゃんが誘うまま乗船待ちの列に並び駐車、どうやらこの先の案内所で乗船名簿と車検証を提出するようです。
無事に船室カードキーと3人分のQRコードの書いた紙をもらい17時40分まで待機、ひとつ横の受付で紳士が「夕食とかのビュッフェは予約要りますか?」と尋ねています。「予約制はないのでご利用いただけますよー」とのこと、ホッとひと安心。我々だけではなかったのだ、この諸々の細かい点に対する疑問を抱えたまま乗船する者は…。
アナウンスが流れ、先程車を停めた場所に移動して車中待機。さっきのニコニコおっちゃんが現れQRコードの紙をスキャンしてゆき、これで乗船準備は万端。ガタガタとスロープを登って船内駐車庫へ、ひゃあわくわくしますね。サイドブレーキを掛けておかないと洋上で車が大暴れするのでビビりつつ確認し下車、エスカレータで3階へ。
室内に着いてややっ、と驚きました。HPにボディタオルや歯磨きなどのアメニティがあるとは書いてありましたが、有料貸出アリ、との記載しかなかったバスタオルがしっかり置いてあります。有り難いのですが家から持って来ちゃった…。そして気付けば18時20分、夕食ブッへの開始10分前。誰もその事実に気付いていないらしく狡猾に入口前に陣取り、見事人生初のブッへ1番乗りを達成。誰も手を付けていないバイキングのお料理を崩すのはさながら冬に新雪の地面を踏み締める快感の如し、最高でした。おぽぽ。3人分で4,500円と半泣き価格の元を取る勢いで2周した上カレーで締め、ポーク南蛮が絶品でしたが宮崎県の名物ってチキン南蛮じゃなかった??
腹ポンポンのたのしい食事を終えてデッキに出れば19時10分、ちょうど出航の時間。煌びやかな神戸港の灯りが徐々に遠ざかります。次第に空はオレンジから紫へ、宵の汀に明石海峡大橋や淡路島のサービスエリアのライトアップの光が綺麗です。今回の航路は瀬戸内海を通らず四国の南側すなわち太平洋上を往く航路、外海は揺れると聞いていましたがなるほど次第に船の揺れ方も変わってきました。しばらく7月のなまぬるい海風に吹かれつつ移りゆく海の景色を堪能、汗をかいたので4階の展望浴室へ。ナナメに傾くお風呂の水面を面白がりながらもなんだかふらふら目眩がしてきました。
入浴後再びデッキへ出ると四国沖から見える灯りはもはや僅かとなり、余計な光が減じたためか進行方向右手に大きく北斗七星が輝いています。こんなにハッキリと星空が見えるなんて思いもしなかったので親子3人で無闇に興奮、部屋に戻ってからも電気をぜんぶ消して窓から満天の夜空を眺めていました。
そろそろ疲れたしスマート電話の電波も悪いので早目に寝てしまおう、と就寝準備、ぼうずと嫁はんは初体験の二段ベッドの上段に登りテンション高め。私はなんだか蒸し暑いのでひとつ空いた二段ベッドに自分の掛け布団をブン投げて呻吟、なかなか寝付けません。あっつい…。眼を開けたら揺れを余分に感じてなおつらい。なんでこんなに暑いんじゃい。やっぱり海の上だから湿気がえげつないのか。気紛らしにネットを弄ろうとも電波はほぼ不通、諦めて曇り出した夜空となにもない真っ暗な水面を窓からぼぅっと眺めたり再びベッドでウダウダ転がったりして夜明けを待ちました。この寝苦しさの原因は朝に発覚、なんのことはないエアコンが知らん間に切れていたのでした。あばっ。
ようやく朝食の時間、この朝もちゃっかり列の最前線をキープし3番目をゲット。どうも皆さんブッへのルールをなにも説明されていないようで、開始直前に食堂扉の前に並んでおく、という行為が正しかったのか反則だったのかは結局よくわかりませんでした。寝不足を補うためサラダ山盛りにパン3ヶにソーセージ3本に玉子焼きになんか知らん魚の揚げもんにミルクたっぷりのコーヒー2杯、またもやカレーで締めて部屋に戻れば行く手に巨大な建造物、謎のモノリスが陸上に顕現しびびっていましたがシーガイアリゾートの建物、と後に友人から教わり謎は解けました。それにしてもでかい。つまりもうすぐ九州に着岸、ということです。長かった。
朝8時40分着ですから半日以上海の上に居たわけですね。私はカナヅチで水辺に恐怖を感じるタチなのですが、フェリーまで来ると多少揺れようがもはや規模が島なので安心でした。懸念された船酔いもなく、事前にもとめた酔い止めも出番なしで良かった。はじめての太平洋上は良くも悪くも色んなことが新鮮で楽しかったです。新鮮と言えばこの船も投稿時点での昨年、2022年にリヌーアルしたばかりの新船でめっちゃ綺麗でした。
さぁエスカレーターを降りて愛車へ飛び乗り〈嘘〉、無事宮崎港に下り立ち友人の待つ宮崎市内ファミマ島之内店へ。日向国「てげてげ」旅行が幕を開けます…。(オポムチャン 2023/8/24)
(寸評)船の旅は、それ自体を目的とする楽しみもあるよね。洋上という異世界での時間は、普段はそうそう経験できないからね。さて、宮崎で何が待っているのか?6ポイント。
初めてのムラムラ!
子どもの頃はテレビでエッチなシーンを見て股間が熱くなる経験は何度もありましたが、やはり実物を目の前にした興奮と比べたら大した事はありません。
小学校高学年の頃に体育館で合唱の練習をしていた時、斜め前で歌っているクラスメイトの女子の横顔を見ていたら、生まれて初めてムラムラ~!っとして手を伸ばしたい衝動に駆られたのをよく覚えています。
あと記憶にあるのは中学2年くらいの頃、女性体育教師と二人で体育用具室の扉のカギを開けながら、かなり顔が接近した状態で話をした時、その先生の日焼けしてニキビ跡のある庶民的な顔を見てたら、これまたムラムラ~!っとしてイケナイ想像をしてしまいました。
こういう時に理性で自分を制御できない人間が、犯罪に走ってしまうのだろうか?とか思った少年時代でありました。(ひももん 2023/8/24)
(寸評)ムラムラは衝動だからね。それを抑えないといけないとわかっていても...。しかし一歩間違えればお縄ちょうだいになるから、普段から理性も鍛えておかなければね。昔と違ってネット社会、あっという間に身を滅ぼすことが出来るからね...。6ポイント。
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