ドキドキドキリコ初体験(110)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

初めての八面六臂

ある昼下がりの土曜日(6月17日)、私は特に見る番組もないので、何となく競馬中継を見ていた。私自身はギャンブルはやらないが、お馬さんが勝った負けたというのは、単純に見ていて面白いものだからだ。
そんな私の横で妻は四字熟語の勉強をしていた。妻は先日、検定試験を受けたのだが、その中で四字熟語の問題があり、八面六臂という言葉が分からなかったと言うのだ。
私は「こんな言葉、誰でも知ってるじゃないか」と言ったが、妻は「八面六臂なんて言葉は初めて見た、こんな言葉知らない」と言い切った。私は「こんなの常識だろう」と食い下がったが、妻は頑なに「八面六臂なんて言葉は初めて見た」と言い張るのだ。
やれやれ。知らない、と言い張る人間に何を言っても無駄だ。私が呆れていると、丁度テレビでは競馬の東京9Rのレースが始まるところだった。
妻がブツブツと「八面六臂なんて知らない」と文句を言ってる横から、妻ではない音声で「八面六臂」という言葉が聞こえてきた。
え?私は思わずテレビ画面を見た。スタートを切った東京9Rの馬群の中に何と「ハチメンロッピ」という馬がいたのである。私と妻は思わず顔を見合わせた。
これは奇跡か?さもなくば天啓か?とにかくそこには「ハチメンロッピ」という馬が、確かにレースをしていたのだ。何という偶然!何という奇跡!
しかし私は一方で、こういう名前の馬は、まあネタ馬というか、勝負に関わる馬ではないな、と勝手に思っていた。
やがて馬群は第3コーナーをまわってきた。先頭集団に「ハチメンロッピ」の姿はなかった。
ほら、やっぱりな、と私が思っていると、第4コーナーを抜けて直線に入り突然実況アナウンサーが叫び出した。
「ヒロノゴウカイ2馬身リード!おおっと!ここから大外を突いてハチメンロッピ!ハチメンロッピがぐんぐん迫る!逃げるヒロノゴウカイ!追うハチメンロッピ!内からキャンディドライヴ!逃げるヒロノゴウカイ!大外からハチメンロッピ!ハチメンロッピ!ハチメンロッピ先頭に変わった!ハチメンロッピ!ハチメンロッピ!ハチメンロッピ!ハチメンロッピ先頭でゴールイン!勝ったのはハチメンロッピ!」
おそらく妻は一生分の八面六臂を聞いたのではないか、というくらい「ハチメンロッピ」が連呼されていた。
「ハチメンロッピ」は、遠い千葉の地で、八面六臂なんて言葉は知らないと放言する人間の存在を感じ取ったのだろうか。そんな、愚かな人間に対して、「俺はここにいるぞ!」と精一杯のアピールをしてくれたのだろうか。この宇宙にはまだまだ人智では計り知れない深淵が存在するのだ。
ともあれ、これで、妻は、もう二度と、八面六臂という言葉を間違えたりしないだろう。一方、私は、心の中で「すまないハチメンロッピ。ネタ馬とか勝手に思ってゴメンな」と謝っていた。
けだるい六月の暑い午後。そこには確かに一際輝く「ハチメンロッピ」の姿があったのである。(りんりん 2023/6/19)

(寸評)まさに八面六臂の活躍をした馬に、奥さんの「知らない」という言葉が届いて「ナニオン!」と奮闘したのかもしれないね。どこで誰が何を聞いているかわからない、この世の不思議。6ポイント。

初めての北斗星

2009年に初めて豪華寝台特急北斗星に乗りました。豪華寝台特急北斗星とは、1988年から2015年まで、上野〜札幌間を走る日本初の豪華寝台特急列車としてその名を馳せていたいわゆるブルートレインです。
大阪生まれ大阪育ちで田舎は九州という完全な西日本人の私は北海道はおろか、東北地方にも行った事がありませんでした。
それで旅行好きな私達夫婦は有給休暇をとって2009年の秋に5泊6日で北海道旅行を企画しました。
これは当時JRで出していた「ぐるり北海道フリーきっぷ」という行き帰りはブルートレイン北斗星で、北海道内では全ての特急しかも指定席に乗り放題という夢のようなお得な切符だったのです。この夢の「ぐるり北海道フリーきっぷ」はこの後すぐ2010年春で廃止されてしまったので、結果的にラストチャンスでした。
私達夫婦の目的は観光ではありません。とにかく切符の期間内に、いかにして北海道全部を周るか、という事にこだわりました。
私は、まるでパズルを解くように、どっち周りでどう乗り継げば、効率よく北海道全部周れるか、地図と時刻表とにらめっこしていました。
さて初日はまず上野駅13番線から北斗星に乗って夜行列車の旅です。上野発の夜行列車というアレです。夜食は憧れのグランシャリオという豪華食堂車でディナーをご馳走になりました。
ところが途中、濃霧のため、列車が大幅に遅れました。それで2日目、本来なら札幌駅で特急に乗り換えだったのが予定の時間に間に合わなくなりました。
旅行にはアクシデントが付きものとは言え、私が旅行計画の練り直しを覚悟していると、妻が「北斗星で札幌まで行かずに、手前の南千歳で予定の特急に乗り換えれば良いじゃない」と言いました。それは妙案です。札幌まで行かなければと思い込んでいた私は、その作戦を思いつきませんでした。
私達は妻のおかげで無事、南千歳で北斗星から予定の特急に乗り換え、JR最東端駅に行くためだけに東根室駅まで行きました。それで東根室まで行ったらそのまま引き返して釧路に行きました。2日目は釧路で宿泊。氷点下の寒さだった事を覚えています。
3日目は釧路を出発すると、一路最北端の稚内を目指しました。今回の旅行は基本観光はしません。北海道は移動距離が桁違いで長く、観光してると間に合わないので、一日中特急に乗る旅です。でも車窓から見える風景は素晴らしく、車内では北海道名産の駅弁を堪能し、私達は観光しなくても、北海道を充分満喫していました。3日目の夕方、稚内に着くと、時間があったのでそのままノシャップ岬に夕陽を見に行きました。利尻富士をバックに北海に沈む夕陽は素晴らしかったです。またここの稚内市青少年科学館には南極物語で有名なタロとジロのうちタロがいたので会いに行きました。ジロの剥製は上野の東京国立博物館にありますが、タロの剥製はその時、稚内にいたのです(普段は北大植物園にあり。もちろん上野のジロにも会いに行きました)。
4日目の朝、特急が出発するまでの時間を利用して今度は宗谷岬に行きました。ほぼ観光しない旅行とは言え、稚内まで来たら外せないポイントでした。
その後、南下して4日目は旭川に宿泊。ここでは名物の旭川ラーメンをご馳走になりました。
5日目は旭山動物園に遊びに行きました。水槽がアーチ型になっており、ペンギンが頭上を泳ぐ姿が可愛かったです。5日目の夕方、札幌駅に戻ってきた私達はいよいよ北海道とお別れとなりました。
ところがここで大問題が発生しました。札幌駅から乗る北斗星の車両が故障したというのです。私達は顔を見合わせましたが、駅員から出された条件は意外なものでした。
私達はそれぞれ一人用個室のソロを取っていたのですが、私達の乗るはずだったソロの車両が故障したので、代わりに二人用個室のデュエット車両を持ってきた、というのです。当然、二人用個室だけど一人で利用して大丈夫です、と言われました。
駅員さんは平謝りだったのですが、まさかの車両ランクアップだったのです。そんなアクシデントもありながら、私達は北海道を後にしました。帰りはデュエット車両になったので、二人でそれぞれ広くなった部屋を行き来しながら楽しい時間を過ごしました。
さあ後は上野に戻るだけ、と思っていたら、ここで最大のトラブルが発生しました。北斗星の車両を牽引していた機関車が故障してしまったのです。老朽化が著しかった北斗星は機関車を誤魔化しながら何とか使っていたのですが、とうとう壊れてしまいました。
確か福島県あたりだったと思いますが、急ぎのお客さんは北斗星を降りて、始発の東北新幹線で東京に向かう事になりました。
私達は全く急いでいなかったので、北斗星に乗ったまま、代わりの機関車が到着するのを、のんびり待っていました。アクシデントを悲しむどころか、逆に北斗星に乗っている時間が増えると喜んだのです。 そうして本来、朝の9時頃に上野駅に着くはずだった北斗星は3時間以上も遅れ、昼の12時過ぎに上野駅に着きました。
この後、しばらくしてブルートレイン北斗星は運行終了してしまったため、最初で最後の北斗星旅行になりましたが、濃霧や機関車故障など、アクシデントがありつつも生涯忘れられない楽しい旅になりました。(りんりん 2023/6/19)

(寸評)う〜ん、まずいい奥さんだね! 列車だけの旅行を一緒に楽しんでくれるなんて。なかなかそういう趣味が合う人っていないからね。
そして北海道は広い! 以前網走から札幌に行くのに特急に乗ったけど、それでも10時間とかかかった記憶が。「特急でこんなにかかるなんて、札幌行くのは大変ですね。網走(女満別空港)から札幌までの飛行機も今は運休だそうじゃないですか」と聞いたら「一番早く行く方法は、まず東京まで飛行機で行き、そこから札幌に飛ぶのが一番早いです」と言われた。流石! 6ポイント。

初めての増田明美体験

皆さんは増田明美さんをご存知だろうか。あのマラソン解説で有名な、増田明美さんである。

一般的にはマラソン解説での「細かすぎる選手紹介」で一世を風靡している。マラソンで優勝争いが佳境に入り、さあここで誰が仕掛けるか?と視聴者が固唾を飲んでいる時に突然「この選手はぬいぐるみ集めが趣味で」と放り込んできたり、あげくは「彼女は最近恋人が出来たんですよ」等と芸能リポーター顔負けの情報をブッこんでくる事で視聴者の度肝を抜く方である。
そういう事で注目を集めがちな増田明美さんだが、実は日本マラソン界では知らない人はいない偉人だ。トラック、ロードで次々と日本新記録を叩き出し、1984年のロサンゼルス五輪代表になった。日本で初めて女子マラソンで世界レベルで戦った方なのである。
私は大阪で生まれ育ったので、小学生の時、増田明美さんがロサンゼルス五輪代表をかけて出場した1984年1月29日の当時の第3回大阪女子マラソン(後の大阪国際女子マラソン)を大阪城公園から応援しに行った事がある。当時、小学生の私にとって、20歳の明美さんはスーパースターだった。
私は友達と増田明美さんが来るのを待っていたが、ものすごいスピードで走る増田明美さんは一瞬で通り過ぎたので、じっくり見る暇もなかった。
その時はほんの一瞬のランデブーだった私と増田明美さんだが、私は小学6年生の時に千葉県に引っ越してきた。増田明美さんは千葉県で生まれ育った方なので、私は増田明美さんのホームグラウンドに引っ越してきたのである。
そんな増田明美さんと私が初めて直接遭遇したのは、あるマラソン大会だった。
私は7年前、会社の先輩から誘われてマラソンを始めた。当時、石川さんよりも二回りも大きな体格をしていた私はマラソンなんて、と思ったが半ば強引に会社でチームを組んでマラソン大会に出る事になった。
ところがいざ走ってみるとこれが面白い!私はマラソン大会にハマり、5キロ、10キロ、ハーフマラソン、フルマラソン、と順調に距離を伸ばしていった。私は石川さんよりも二回りも大きな体格をしていたので、ダイエットも兼ねてマラソンに取り組んだ。
そして、初めてつくばマラソンという大会に出る事になった。つくばマラソンとは1981年に始まり、今年で43回を数え、茨城県の筑波大学をスタートして周囲をぐるっとまわり、また筑波大学に戻ってゴールするという制限時間6時間の大会で、一般的には知られていないが、マラソンランナーの間ではフラットなコースでタイムを狙いやすい超メジャーで有名な大会である。
2016年のつくばマラソンには増田明美さんがゲストに来ていた。当時、マラソンブームは最高潮を迎えており、数多くの市民マラソン大会が開催され、高橋尚子さんや有森裕子さんなどオリンピックメダリストがゲストランナーとして参加する事が多かった。
増田明美さんもマラソン界の偉人なので、多くのマラソン大会にゲストで呼ばれていた。地元千葉県にはそんな増田明美さんの名を冠した大会もあるほどだ。
さて、初めてつくばマラソンに出場した私は一生懸命走り、見事自己ベストでゴールした。ゴールは筑波大学内の競技場にあり、見事完走した私は充実感で一杯だった。
ゴールゲートをくぐった私が視線を先にやると、そこに増田明美さんがいた。ゲストの増田明美さんはわざわざランナーを出迎えるため、ゴール地点で待っていてくれたのだ。次々にゴールするランナーにハイタッチしながら「お疲れ様!」と声をかけていく増田明美さん。
私は小さい頃からの憧れの増田明美さんに直接お会い出来る!とドキドキしながら、ランナーの列に並んで自分の番が来るのを待っていた。
ゴールにはそれこそ、何百人、何千人となだれ込んで来て、皆、次々に増田明美さんとハイタッチしていった。自分の番はすぐにやって来た。私の目の前に増田明美さんがいた。思ったより小柄な方だった。
私は憧れの増田明美さんとハイタッチではなく、握手をしてもらい、増田明美さんから「お疲れ様!」と声をかけられた。
ついに、あの、憧れの増田明美さんと握手出来た!私は大満足し、「ありがとうございます!」と増田明美さんにお礼を言うと、次々にランナーが来るのでその場を立ち去ろうとした。
立ち去ろうとした、その瞬間、誰かが私の腕をグッとつかんだ。私は思わず振り返った。誰が腕をつかんだのだ?振り返って見てみると、私の腕をつかんだのは、何と増田明美さんだった。ランナーでごった返す群衆の波の中、私と増田明美さんの間の刻が止まった。
私は一瞬、フリーズした。憧れの増田明美さんが、なぜ俺の腕をつかんでいる?なぜ大勢の人が見ている前で?私の胸は鼓動が速くなり、動悸が激しくなった。増田明美さん、なんて大胆な方なんだ!でも増田明美さん、公衆の面前だよ?しかも俺、結婚してるよ?マズイよ?あ!そう言えば増田明美さんも結婚してるじゃないか!とってもマズイよ?それに増田明美さん!みんな見てるよ!増田明美さん!
私の頭の中でカオスと化した思考がぐるぐると駆け巡っていたが、そのカオスの世界は増田明美さんの言葉でかき消された。
増田明美さんは、私の腕をギュッとつかんで、私の身体全身をぐるっと見回した後、私の目をじっと見つめながら、テレビで見るのと全く同じ口調でこう言った。
「すごいね!その体型で、よく完走出来たね!」
私は一瞬、増田明美さんが言ってる意味が理解出来なかった。
「すごいね!その体型で、よく完走出来たね!」
「すごいね!その体型で、よく完走出来たね!」
「すごいね!その体型で、よく完走出来たね!」
大事な事なので、3回書いた。
増田明美さんは、次々とゴールしてくるランナーの波の中で、私を足止めさせてでも、どうしてもその言葉を私に言いたかったのだ。
断っておくが、これは決して増田明美さんが私に毀誉褒貶の言葉を投げかけたのではない。今はすぐ、言葉尻を捉えて揚げ足を取る物言いが氾濫しているが、増田明美さんは至極真っ当な事を言ったのである。
繰り返すが、当時、私は石川さんよりも二回りも大きな体格をしていた。これが何を意味するか、少しでも石川さんをご存知の方は理解出来るだろう。単刀直入に言えば、そんな体格の人間が、フルマラソンを走るなんて事は常識的にあり得なかった。いや、あり得たとしても、普通はその体格でフルマラソンで42.195キロを完走なんてあり得なかった。その証拠に、つくばマラソンに於いて、私のような体格のランナーは一人もいなかったし、ましてや42.195キロを走り終えて筑波大学まで戻って来たランナー達は、私一人を除いて全員スリムなランナー体型だった。
その事実にランニングのプロとして驚愕されたからこそ、増田明美さんは、わざわざ私を呼び止めてまで「すごいね!その体型で、よく完走出来たね!」と言って下さったのである。
私は、増田明美さんの言葉の意図を理解すると、私にそのような言葉をかけてくれた増田明美さんに感謝し、増田明美さんに腕をつかまれたまま「ありがとうございます!」とお礼を言った。すると、増田明美さんはそれに満足し、大きく頷いて私の腕から手を離すと、またゴール方向に体を向き直して、まだまだゴールしてくる多くのランナー達にハイタッチしながら、ねぎらいの言葉をかけていった。そんな増田明美さんの背中を、まぶしい夕日が赤く照らしていた。
嗚呼、増田明美さん!32年前(2016年時)貴女の五輪出場権をかけたレースを応援しに行った少年が、32年後、貴女に「すごいね!その体型で、よく完走出来たね!」と言われるまでに成長しましたよ!
私は増田明美さんの言葉を噛み締めながら、筑波大学を後にした。私は、増田明美さんの言葉で頑張れる気がした。増田明美さんの言葉で、ここではない、もっと高みの世界に行ける気がした。
その後、私は東京マラソンをはじめフルマラソンを15回完走した。でも私の体格は石川さんより二回り大きいままだった。
実はまだここにいるのです。(りんりん 2023/6/19)

(寸評)それはスゴい! りんりんのことは絶対増田明美さんの海馬に刻み込まれたよ。「つくばを完走した...」と言えば思い出してくれるよっ! 偉人の記憶に残るのは最高の栄誉だね。おめでとうポイント10ポイント!

はじめての両親がバイクで事故→入院

はじめに。現在両親は怪我が残るものの有難いことにどうにか二人の力だけで生活できるレベルに回復しましたのでその区切りとして投稿します。長丁場、ご容赦ください。

2022年のゴールデンウィーク初日、5月の3日。晴れ。

とくに予定も入れずさてどこか出かけようかな… と思っていたお昼ご飯を食べた矢先のこと。

兄から電話が架かってきました。いつになく切迫した声でした。何事かと思って耳を傾けると、

兄「今お母さんから救急車の中から電話があって、二人でバイクで交差点でコケたって。お父さんは意識ないらしい」

私の頭の中が突然の衝撃に耐えようと必死でいろんなことを考えました。

あぁ。そうか。もう二人この3月で70やもんな。事故。加害者側だったら今後我々が責任取る必要があるな。バイクの自賠責どうなってるかな。世話なったなぁ。迷惑かけてばっかりやったなぁ。ええと。ええと。

兄「南千里(※←大阪府吹田市)の病院に救急で運ばれたみたいやから」

我々男4人兄弟の中で病院に一番近いのは豊中市に住まう私です。

オポ「わかった、今すぐ行くわ」

電話を切った私は妻に兄からの電話の内容を告げ、父は多分もうあかんやろう、その覚悟で行くわ、と車に乗り込みました。「落ち着いて運転しぃや」との妻の言葉を噛み締めて、ハンドルを握りました。

病院まで15分。車中で私は具体的に葬式の段取りを考えていました。会社に休みの申請をしなくちゃ。連休中にカタは付かんやろうから。あっけないなぁ、親がいなくなる瞬間、って。親孝行、できたのかなぁ。お母んはしゃべれるくらいやからどうにかなったのかな。ずっと車いすとかになると、誰が世話しよう。僕かな。これだけあっちゃこっちゃ考え倒してよく事故を起こさなかったものです。

休日のため病院の通常出入口は閉ざされており、何処から入ればよいのか判りません。動揺したまま守衛詰め所みたいなところで救急入口を尋ねて、受付にいま搬送された70代夫婦の家族のものであることを告げました。

しばらくすると兄夫婦も駆けつけてくれ、そのタイミングで父の仮置きされている部屋へ呼ばれました。

頭は大きく膨れていますが、息はしています。苦しそうに呻き声をあげるばかりで、呼びかけには応えません。これが、最後の姿になるのかな。そんな思いで父を見つめるしかありませんでした。脳挫傷・脳出血・鎖骨骨折・頭蓋骨折… その他。左眼も開かないようです。

警察から連絡があり、どうやら交差点で直進しようとしたら前方を先に右折してきた乗用車に驚いて急ブレーキを踏んだところで身体がバイクから投げ出されたようです。親父は運動神経が良く72を迎えたこの頃でも私の息子や母を後ろに載せてバイクで2人乗りであちこち出掛けていたのです。二輪で事故を起こしたことはありませんでした。交差点では直進が優先ですから相手方が急いで右折したことが原因でしょう。ぶつかったわけではないですが、これは相手方の過失になるとのこと。こちらが加害者になっていなかったことは不幸中の幸いでした。

のちに移動式ベッドに乗せられた母と対面しました。母は頭は打たなかったものの左膝の上の骨をばっきり折っており、緊急に手術を行なうことが決まりました。もともと看護師であったため冷静で、アドレナリンが出ているのか痛みもいまはそれほど感じない様子、当時の状況を話してくれました。神社に行くのに車が混んでたから引き返してバイクにして駅まで行こうとした、マスクを忘れたから取りに帰って事故に遭ったから、あの時取りに帰らなかったらなぁ… などと言うので「いま言うてもしゃあないしゃあない、いまは治すこと考えよ」と声を掛け、料金がおっそろしいこと掛かる個室に入りたい、と申すのであわてて私はまともに会話ができるうちに母の口座の暗証番号を聴いておき、今後の出費に備えました。両親ともに90日の治療予定で、翌日からの入院セットや洗濯サービスの段取り、保険の適応、治療の方針などを半分うわの空で聞いていました。

そのうちに事故当事者の相手の男性がやって来ました。誠実な人柄の方で何度も頭を下げてお詫びをされました。この方がすぐに救急車を呼んでくれたようで、事故の相手ながら母も対応に感謝していました。よかった、無茶苦茶な輩ではなかった。このことも不幸中の幸いでした。

その後弟2人も駆けつけ、各種説明を受けて役割分担をして解散しました。父は頭蓋骨と脳の間の血が引いて脳の腫れが治まれば良いが、明日までは何とも言えないとのことでした。

翌日、母から兄へ連絡がありました。脚の手術は無事終わり、父にも会えたそうで、なんと「お前も入院してるんか。可哀想になぁ」と言葉を発した、というのです。これには驚きました。しかし医師によると高次脳機能障害を起こしているうえに左眼の機能をほぼ失っている、ということでした。ショックはありましたが、まだ父が言葉を発せた、ということ、母を母と認識できた、という事実に涙が出そうになりました。助平で無責任だけどユーモアに溢れ人間味のある父のことが、私は大好きだったからです。

5月19日に父のみ自宅に近い別のリハビリ病院へ転院することになりました。その時兄の奥さんが付き添って動画を残してくれたのですが、相当ちゃらんぽらんなことを口走っており、もはや私の知る父は存在しないのか、と寂しい心地がしました。

転院後父は悪態をついて脱走未遂を幾度も繰り返し、連絡先の兄のもとへ何度も電話が架かって来たようです。安心させようとリモート面会(この当時は新型ヴィルスの蔓延で直接面会は不可でした)を行なうも、やはり話の内容は支離滅裂でした。しかし私や妻のことはしっかり認識しており、母が聞いても思い出せなかった私の息子の名前も思い出したようです。何か要るものはあるか? と尋ねたら「エロ本持ってきてくれ」と言われ付き添いの作業療法士さんも苦笑い、こういう所は変わらないんだな、とすこしほほえましく思いました。とんでもないセクハラ爺ですけどね。後日療法士さんから、認知症とは似て非なる症状なので、間違いは肯定せず訂正してあげてください、との旨言われ、私は驚いて考えを改めました。まだ元に近い状態に戻れる可能性がある、ということに驚いたのです。

そしてあんまり父の振る舞いが無茶苦茶なので母も予定を大幅に早めて5月末に同じリハビリ病院へ転院することに。おなじ病棟に奥さんがいると落ち着くだろう、と狙った病院側の目論見はズバリ的中し、そこから父の脳機能はみるみるうちに回復しました。母とは夕食後に食堂で二人になる時間も与えてもらい、日中もリハビリ中にすれ違うとハイタッチをする等、今までにない仲良し患者夫婦として院内でも有名になったようです。母と交換日記も付けるうちに親父らしいユーモアあふれるフレーズも飛び出すようになりました。

ただ閉口したのは病院・警察・保険会社・市役所への煩瑣な各種手続きで、ちょうど5~6月は税金の支払いが多数あるのを私が口座を管理して支払い、警察と保険屋さんの窓口も私が請け負ったので連絡や書類の入手・提出にてんてこ舞い、そのうえ家に居たときは気付かなかったのですが母親は身の回り品に無茶苦茶こだわりがあり、あれを持ってきてこれを買ってきて、と要求が細かく用意する側も疲弊、父が金もないのに同室の患者さんに缶コーヒーを奢ったりして手持ちの小銭がすぐなくなる始末、おまけに転院先は洗濯サービスが週一しかなくそれじゃぁ洗濯物が無茶苦茶になる、ってんで週2回誰かが要洗濯衣類の回収と洗濯済衣類を病院に届ける、という作業が生じました。病院によって提携するサービスも異なるのですね。

7月14日、私は休暇を取り妻と両親の退院手続きに訪れました。母は松葉杖が当面外せないようですが他は事故の前と変わらず、明るく前向きな性格がリハビリにも活きて驚異的なスピードで回復したようです。

問題の父は… 想像以上に事故前と変わらない様子で、私はこれに一番驚きました。まともに受け答えができるのです。あの日大きく膨れた頭で横たわっていた父が、ここまで元に近い姿になるとは思いもしませんでした。

しかし2カ月半ぶりに家に帰ると部屋の間取りなども忘れており、はじめに搬送された病院のことも、リハビリ病院から脱走を企てたことも、この3月に仕事を辞めたこともきれいさっぱり忘れてしまっていたのです。

ともあれ突然の両親の入院、という難局は幸い兄弟が4人もいてその奥さんも全員協力的だったおかげで何とか乗り切ることが出来ました。こういう時に兄弟それぞれが疎遠でなくて良かった、としみじみ思います。

1年が経ち、親父は事故前1年間の記憶をほとんど失い左眼も開かず、地図が判らなくなり趣味のドライヴや読書が出来なくなったことで家に閉じこもりがちになり、「税金納められんようになったら早よ死にたい」としょっちゅうこぼすようになりました。それでも「自分から死ぬわけにもいかんしなぁ」とパソコンや近所への買い物で気を紛らして暮らしています。以前より我慢が出来なくなりましたが喋れば洒落の利いた返しもでき、昔のことは私よりも憶えていることがあります。

母は優しい近所の方の厚意もあり松葉杖でも積極的に活動しリハビリも好調、杖はまだ持っていますがだいぶ無しでも行動できることが増えました。車も運転でき(操作は怪我していない右足なので)、父と二人で買い物に行くこともできます。喧嘩が増えたことを嘆いていますが命があっただけでも儲けもの、と自分に言い聞かせているようです。

最後にこのあと控えているのは母の治療が終わったあとに相手方の保険屋さんと損害賠償のやりとりがある、ということで、気の小さい私がどこまで相手に食い下がれるかが不安材料です。なぜ私がそんなことを? なんと親父のバイクには保険が掛かっていなかったため示談交渉サービスが付加されていないのです。まじでか、と思いました。年金もろくに掛けていなかった親父のこと、ただでさえ今後の老後生活が不安だらけなのにこちらから持ち出しが生じれば早晩家計は破綻します。相手方はまっとうな保険会社なので、良識ある金額提示がなされることを祈ります。

ようやく落ち着いたのでここに記しました。あと誰に話しても「70超えて夫婦でバイク2ケツってやんちゃやね」と言われます。

ハイ、それはおっしゃる通りです。親がやんちゃだと色々ありますね。以上長々と失礼しました。(オポムチャン 2023/6/19)

(寸評)うわあ、大変だったんだね。でもなんとかいい感じになってきて、読んでてホッとした。
自分の人生だけでもいろいろあるけど、家族の怪我や病気によっても変化って生まれるからね。
うちの両親は70どころか今年95と89だから、いつ何が起きるかわからない。それによっては息子たちも考えなくちゃならないから、自分のことのように読んだよ。もっともバイクのニケツは免許すら持ってないのでする心配はないが...。
ともあれとりあえず良かった。冗談好きのオヤジさん、なんか微笑ましい。全快応援ポイント、10ポイント。

初めてストーカーと対決

姉が独身時代から、会話もほぼした事がないような男に、結婚をせがまれる電話や手紙を何回も貰っていました。姉本人はもちろん、自宅で電話を受けた母も断っていたのですが、姉が結婚して実家を出てからも、時々手紙や電話をしてきました。しかも手紙は、直接我が家のポストに入れてる事もありました。怖いヤツ...。
そしてある日、その男の住所は手紙でわかっているので、姉に内緒で私と両親とでその男の家に話をしに行く事になりました。親は一応その男と面識があるので、結局両親だけが男の家に向かい、私は車の中から様子を窺い、異変があったらゴルフクラブを持って出ていくという形になりました。
その男は、自分も今婚約者がいて~等とトボケた事ををほざいていたそうですが、無事話も終わり、まあコレで流石に諦めてくれたやろうと思って家に帰りました。
それから姉へのストーカー行為は止んだのですが、その後あの男は、我が家も知っている他の複数の女性へ、また同じような行為をしている事が発覚しました。
もう、君は死ななきゃ治らないのだね...。(ひももん 2023/6/19)

(寸評)そういう奴、いるんだよね。俺もたまの他のメンバーのファンなどで、もはやストーカー的な人がいて困ってる話はよく聞いた。で、一種の病気みたいなものだから、言ってもわからないんだよね。なのでちょっと強行なくらいの作戦で出ないと駄目なこともあるよね。
ただ、ゴルフクラブ...。それを持ち出さなければいけない時はどんなことが起こるのか、それ考えたらちょっと怖い。箒ぐらいにしといた方がいいような? 6ポイント。

はじめての捕食

小学生の時、私は山の近くに住んでいた。当然、小学校も山の近くだった。そのため、うちの小学校の遠足は、決まって山登りだった。
ある年の遠足。確か小学4年の頃だったと思うが私達はリュックサック担いで水筒ぶら下げて、山に向けて行進していた。
そして山の入り口にやってきた。そこから上り坂になって山の中に入っていくのだ。そこはちょうど野球場になっていて、私達は野球場の脇の坂道を登り始めていた。
すると誰かが、「あっ!」と叫んだ。その視線の先には衝撃の光景が広がっていた。
誰もいない野球場のグラウンドのど真ん中で、何と1メートル以上はあろうかという大きなヘビが身体をくねらせて突進していた。そのヘビの先にはカエルがいた。坂の上からも分かるくらいだったから大型の食用ガエルだったと思う。近くに川があるので、そこに住んでいたカエルかも知れなかった。
カエルは、必死になってヘビから逃げていた。必死に、必死に、ぴょんぴょんピョンピョン飛んでヘビから逃げていた。
私達は遠足の途中だったが、言葉を失い、全員で固唾を飲んでその光景を見つめていた。しかしヘビのスピードは凄まじかった。カエルは高速で必死に逃げるのだが、ヘビのスピードはカエルを遥かに上回った。
ヘビはグイングイン身体をくねらせながら突進し、あっという間にカエルに追いついてしまった。
そこから先は私達はとても直視出来なかった。哀れカエルはヘビのご飯となってしまったのである。
まさかの小学校遠足の最中に遭遇した衝撃の自然の摂理。
これが人生で初めて出会った捕食の瞬間だったのである。(りんりん 2023/6/10)

(寸評)今だったら動画を撮影してアップしたらそこそこ再生数稼げるかも!? 子供の頃に生物の現実を知れたのは良かったかもね。6ポイント。

はじめてのカイコ

確か小学4年生の時だったと思うが、人生で初めてカイコを飼った。カイコとはあの蚕である。繭から絹糸を取る、あのカイコである。
カイコとはカイコガの幼虫で、桑の葉を食料とし、サナギになる時に繭を作るが、その繭が絹糸になるのだ。絹糸が主流だった日本ではかつて養蚕業として一大産業として栄えた。
さて小学生の時、近所にペットショップが出来た。そこは色んな生き物やら植物やら売っていた。生き物やら植物が大好きだった私は、よくそのペットショップに通っていた。そして小学4年生の時にそのペットショップに何とカイコが登場した。
私はペットショップでカイコを見つけるとすぐに買った。だってあのカイコである。小学生だって知ってる、あのカイコである。分かりやすく言うと、自宅で養蚕が出来るのである。うまく行けば繭から絹糸がゲット出来るかも知れない。私は興奮した。
さて、ペットショップで買ってきたカイコは箱の中に小さなカイコ1匹と、おそらく桑の葉から作られたと思われるペーストが入った小さな丸い皿が一つ入っていた。カイコとはズバリ芋虫だ。カイコガの幼虫は他のガの幼虫と違って、気持ち悪い毛虫や芋虫ではなく、白くて可愛い芋虫だった。
まだ小さくて可愛いカイコちゃんは桑の葉ペーストをモグモグ食べていた。カイコ飼育セットと言っても、カイコちゃんがペーストを食べるのを見ているだけで良かった。最初は。
カイコちゃんはすくすくと育った。見る見る大きくなっていった。そして、ここで大問題が発生した。
ある日、学校から帰ってきて、いつものようにカイコちゃんの箱をのぞいてみると、何と桑の葉ペーストの皿が空っぽになっていた。食欲旺盛なカイコちゃんはものすごい勢いで食べ尽くしてしまったのである。
さあ大変だ!育ち盛りのカイコちゃんである。エサをあげなければあっという間に死んでしまう!しかもカイコちゃんは桑の葉しか食べない!桑の葉を探さなければ!
私は真っ青になって自転車に飛び乗ると、あてもなく桑の葉を探す旅に出た。当時、私は植物が好きで知識があったので、桑の葉がどういうものかは分かっていた。桑の葉自体が特徴のある形をしていたからだ。でもそもそも桑の木はどこにあるんだ?そんな事小学生に分かるはずもなかったが、私はとにかく当てずっぽうで家の前の大通りをまず北に向かって自転車を走らせた。
私は周りを見渡しながら、桑の木を探した。家ではカイコちゃんがお腹を空かせて待っている。早く見つけなければカイコちゃんが死んでしまう!これは時間との勝負だった。
私は焦りながら自転車を走らせていると、何と奇跡が起きた。自宅から自転車で北に10分ほどの所にある大通り脇の雑木林に、何と桑の木の大木が1本、植っていたのだ。何でそんな所に桑の木があったのか今でも分からないが、私は桑の木を見つけると、すぐに桑の葉を何枚かちぎって大急ぎで家に帰った。
家に帰るとすぐにカイコちゃんの箱に桑の葉を入れてあげた。するとカイコちゃんは桑の葉をものすごい勢いで食べ始めた。桑の葉ペーストの時とは比べ物にならないスピードでモグモグ食べるのだ。やはりカイコちゃんにとって、桑の葉ペーストよりも桑の葉本体の方が美味しいのだろう。カイコちゃんは白いボディなので、桑の葉を食べると白いボディに透き通って緑色の線が見える。桑の葉を食べてる証拠だ。
私はカイコちゃんが美味しそうに桑の葉を食べているのをずっとながめていた。そしてながめながら、ある事に気づいた。「これ桑の葉足りないな」と。
カイコちゃんの食欲は尋常ではなかった。本当にものすごい勢いで桑の葉をあっという間に食べ尽くした。そして、どんどん大きくなっていった。
私は学校から帰ってくると、自転車でカイコちゃんのために桑の葉を取りに行くのが日課になった。新鮮な桑の葉でないといけないので、エサの桑の葉がなくなる度に補充しなければならない。
そうして桑の葉を思う存分食べ、大きな芋虫にすくすくと成長したカイコちゃんはやがて桑の葉を食べなくなり、ある日の朝、白くて美しい繭になっていた。やった!ついに繭が出来た!本来ならここで繭を茹でて絹糸を取るのが養蚕業の手順なのだが、それをやると当然、繭の中のカイコは死んでしまう。私はカイコちゃんが可愛いくなっていたので、そのままカイコガの成虫にさせる事にした。
カイコちゃんが白くて美しい繭になって、何日か経った。するとある日、繭の先端が溶けてきた。その溶けた所を突き破って、大きくて白くて立派なカイコガの成虫が出てきた。カイコちゃんはついに大人になったのだ。感動の瞬間だった。私は本当に感動した。
これが人生初めてのカイコとの出会いだったのである。(りんりん 2023/6/10)

(寸評)うちの親父は蚕糸試験場で働いていた。
ただ、蚕糸業は日本ではどんどん衰退していって、もうあまり需要も無いのに研究は続けなければならないジレンマもあったようだ。そして一番上の役職だった為、職員の8割をまったく違う部署に転属させなければならない業務に、かなりストレスも感じてたようだ。「あいつは残るのに、何故俺はこの歳になって全然違う仕事を一から始めなくてはならないんだ!」と文句も言われたそうな。
ともあれ、うちの家族はカイコに食わせてもらっていたから、俺もカイコが無ければ生きていけなかった。カイコよ、ありがとう。6ポイント。

はじめてのスパッツ

学生時代、初夏の陽気の昼下がり、私は必修のゼミに出席するため、小さな講義室に座っていた。ゼミなので机がロの字に組まれており、私は入り口のドアとは反対側の窓側の席にいた。私の他にはまだ誰も来ていなかった。
私がテキストを眺めながらぼんやりしていると、そこに一人の学生が入ってきた。同じクラスの女の子だ。ダンスサークルに所属している彼女はスタイルが良く、腰まで伸びたサラサラのロングヘアにメガネをかけ、Tシャツにオシャレな上着を羽織り、淡いベージュのスカートを履いていた。
彼女は講義室に入ってくると、そのまま窓際にやってきて、私の左隣の席にちょこんと座った。彼女は同じ学科で同期の友達だったので、ゼミが始まるまでの間、たわいもない話をしていた。ハタチそこそこの男子にとって、女の子と2人で話すのはどんな時でも楽しいものだ。 そのたわいもない話の中できっかけは思い出せないが、スパッツの話になった。スパッツとは伸縮性のあるボトムスで、足首まであるレギンスとは異なり、膝丈よりも上の短めの丈のものを指す。その当時、スパッツが流行っている、という話だったが、私はスパッツがどんなものか知らなかった。
私は何気なしに「俺、スパッツがどんなものか見た事ないんだよね」と口にした。本当に何気なしに。すると彼女は「私、今、スパッツ履いてるよ」と言うやいなや、さも当然と言わんばかりにスカートをスルスルと、そうスルスルとたくし上げ、私にスパッツなるものを見せてくれた。淡いベージュのスカートの下から彼女のみずみずしいふとももが私の前に露わになった。
「私、今、スパッツ履いてるよ」この彼女の言葉が何だか、遠い世界の別の言葉のように私の中で不協和音となって響いた。
講義室にはまだ誰も来ていなかったので、その空間にいるのは彼女と私しかいなかった。
ちょっと待て。お前はナニをやっているんだ。私はクラクラしてきた。いや、むしろ俺が待て。待つんだ。ここは冷静になろう。
昼下がり。
ふともも。
密室。
女の子と2人きり。
ロングヘア。
メガネ。
昼下がり。
スカートたくし上げ。
ふともも。
しかも何だかイイ匂いがする。
密室。
女の子と2人きり。
スカートたくし上げ。
これは何だ?ダブル役満か?いや、トリプル役満か?いや、4倍役満(以下略)
私は冷静になろうと試みたが、心の中で点棒を投げつけ、バラバラと舞い散る点棒の中で私の健全な精神はあらぬ方向に飛んでいってしまった。
俺のすぐ横で可愛い女の子がスカートをたくし上げている。俺のすぐ横で可愛い女の子がスカートをたくし上げている。俺のすぐ横で可愛い女の子がスカートを・・・
脳味噌がゲシュタルト崩壊する寸前、私はふと我に返った。隣の彼女を見ると、まだスカートをたくし上げたままだった。私は卒倒しそうになった。
しかし彼女は自分がしている事がいやらしい事でも何でもなく、知らない私に教えてあげるのはさも当然と言わんばかりに、アパレルショップの店員みたいにスパッツについての説明を始めた。スカートをたくし上げたままで。
確かにスパッツは下着ではない。下着ではない。が、しかし、である。
ハタチそこそこで健全に育った男子にとって、スパッツはあまりに、あまりに刺激が強すぎた。下着ではないと言ったところで、スカートの下で彼女のふとももは、ほぼ下着の位置まで露わになっていた。
昼下がり。誰もいないキャンパスの講義室で、机の下で繰り広げられる秘め事。
でもそれは淫靡な秘め事ではなく、アパレル説明会だった。
やがて講義室のドアがガチャリと開き、残りのゼミ参加者がワラワラと入ってくると、彼女はこれまたスルスルとスカートを元に戻して淫靡な秘め事、もといアパレル説明会は終了した。
その日のゼミの内容は私の頭に全く入ってこなかった。
ゼミが終わって私達は外に出た。新緑の中、太陽が何だかまぶしかった。
私とスパッツの彼女は外に出たところで次の講義までの休み時間、しばらく立ち話をしていた。その立ち話の中できっかけは思い出せないが、どれだけ身体が柔らかいか、という話になった。
すると彼女は「私、こんなに、身体柔らかいんだよ」と言うやいなや、さも当然と言わんばかりにスカートのまま足を高く蹴り上げ、つま先を頭上に垂直に跳ね上げた。
彼女のスカートは完全にはだけてしまった。
今やその全容を露わにした彼女のスパッツを目の前に、私はその場に倒れた。
これが人生初めての「スパッツ」との出会いだったのである。(りんりん 2023/6/10)

(寸評)りんりんが咄嗟に獣になって逮捕されなくて良かった...。
で「実はそのスパッツの彼女が、今、俺の女房となって、古ぼけたスパッツを洗濯させられているのだ」というオチじゃないよね? 7ポイント。

初めて猫を飼った

小学校低学年の頃、猫をいっぱい飼っている近所のオバサンに、大人の猫を1匹譲ってもらい飼う事になりました。
しかしその猫はヤンチャで家の中を荒らしまくり、私が頬ずりしたら耳をかじられたり、朝学校に行く直前に膝を本気ガリガリされて流血し大泣きするなど、私はこの猫が怖くなっていきました。
ある日、家族が留守の時に私が学校から帰ってくると、その猫が私にじゃれてきて足をガリガリしてくるので、ビビってる私は玄関の所にある小部屋で戸を閉め切って家族が帰ってくるのを待っていました。この様子を見た親が、ちょっと厳しいかな?となって結局2週間で猫を返す事になりました。
母が菓子箱を持って猫を返しに行きオバサンに事情を話すと、「あーそうね~!一番悪かったけんねぇ!」と言われたそうで、一番悪い子を...くれたのですか?笑と思いましたが、たくさんの仲間と暮らしていたのに、突然1匹だけ違う家に連れて来られたストレスもあったと思います。やっぱり子猫の頃から飼わないとな~。(ひももん 2023/6/10)

(寸評)良い猫は我が家に、問題猫はあなたに、だね。
まあ、そういうこと世の中多いよね〜。5ポイント。

はじめての全国民の前でXXポジを直す男

最近動画サイトで1970年代から80年代くらいの日本のプロ野球のテレビ中継の映像をよく観ています。その中で思い出したことがありました。
読売巨人軍にクライド・ライトという外人選手がいたのを覚えているでしょうか。
日本球界に初めてメジャーリーグで100勝を挙げた投手が来日したということで、話題になりました。気性が荒く、相手選手や審判などに激しい抗議を頻繁に行い、時には感情が抑えきれず手も上げるという行状に「クレージー・ライト」とあだ名されていました。在籍年数は1976年から78年の3年間でしたが、私は妙に記憶に残っています。1979年に入団した江川卓投手がつけた背番号30番をその前年までつけていました。
ライト投手が何故印象に残ったかというと、そのマウンド上での癖。 これは高校の同級生とよく話題になったのですが、マウンド上でことあるごとに股間に左手を触れて、チンポジを治していたのです!当時巨人戦は必ずテレビ中継されていましたから、この「チンポジ直し」は多くの視聴者に目撃されていたはずです。ところが、今ネットで検索すると全くその情報はヒットしません。これは私だけが観た幻なのかわかりませんが、いや私は確かにちんちんに左手を触っているのを見たと確信しております。なぜ左手かというと、ライト投手はサウスポーだったからです。
そんな全国民の前でチンポジを直す男の思い出、でした。動画サイトでライト投手のチンポジ直しはまだ確認しておりません。以上、尾籠な投稿おそ松さまでした。(波照間エロマンガ島 2023/6/10)

(寸評)若い頃から、人よりちんちんまわりに固執していた波照間エロマンガ島だけが覚えてるってことか!? 6ポイント。

初めての必要に迫られ購入したもの

こんにちは。私が初めてアメリカ合州国カリフォルニア州のロスアンゼルス市に行ったのは、1988年〔25歳〕の時でした。
空港に到着して最初に感じたのは次の二つ。

〔1〕排気ガソリンが有鉛特有の臭気を放っていたこと
〔2〕日差しが強すぎて裸眼では景色が見えにくくなっていたこと

〔1〕は日本に較べてアメリカの排ガス規制がまだ進んでいなかったので、このゴムの擦り切れたような異臭には最後まで慣れず難儀しましたが、〔2〕はすぐに空港施設に戻ってサングラスを購入しました。サングラスをかけると景色はちょうど良く見ることができ、たちまち快適な気分になりました。結局帰国までサングラスは手放せず、屋外ではずっとかけていました。

ロスアンゼルスではショッピングをしたり、観光したりして過ごしました。1988年は空前の円高で1ドル80円程度で、山ほど買い物しても何千円かで済んだので、行きはほぼ空だったスーツケースが帰りにはパンパンになりました。

特に印象に残ったのは、広いロスアンゼルスが、公共交通機関が発達してなかったこと。まだ地下鉄も開通してなくて、市の中央部のダウンタウン地区から西側のハリウッド地区までの移動は、フリーウェイをタクシーか路線バスに乗るしか方法がありませんでした。距離としてはこの間は25キロくらいあって、ちょうど東京駅から横浜駅くらいまでの距離感覚です。ここを私はタクシー、路線バス、レンタカーなどで移動しました。路線バスは後年、キアヌ・リーブス主演の「スピード」で登場したのでびっくりしました。ほぼ同じルートのバスに乗ったのですが、映画の中ではバスに爆弾が仕掛けられていて、時速80キロより遅くなると爆発してしまうというプロットになっていたからです。
というわけで、ロスアンゼルス旅行で必要に迫られて購入したサングラスと、旅行の印象について、でした。(波照間エロマンガ島 2023/6/10)

(寸評)人生でステージ上のお遊び以外でサングラスをかけたことが無くて「何故人はサングラスをするのだろう? 見えにくいじゃないか」と思ってたけど、こういうことだったのねー。
アメリカ本土はライブをしにニューヨークに行ったことがあるだけで、カリフォルニアはまだ見ぬ土地。最も空前の円安で貧乏性の俺には、ますます遠い土地になったなあ...。6ポイント。

はじめての万戸

あれは高校2年の春だっただろうか。私は国語の授業に出席していた。私の担任教師は国語の教師でもあったので、担任教師が教壇に立っていた。
担任教師は少し変わった人で、まるで俗世間から離れた仙人みたいな先生だった。冗談一つ言わず、世俗にまみれたものから最も遠く離れた存在だった。彼は生徒に教科書を朗読させるのが好きだった。そして生徒が読み方を間違えようものなら、冷徹にそれを訂正していくのを好んだ。だから国語の授業で担任教師に朗読を当てられるのは、皆にとって少し緊張する瞬間であった。
その日は漢文の授業だった。中国の昔の漢詩を勉強するのだ。漢字が羅列してあって何が書いてあるかさっぱり分からない。そんな事を考えながらぼんやりしていると、担任教師はある一人の生徒を朗読に指名した。それは一人の女子生徒であった。彼女はクラスの皆から「お嬢」と呼ばれている、深窓の令嬢みたいな美少女であった。
彼女は立ち上がると、始めスラスラと漢詩を読み進めていった。「大したもんだなあ」と感心していると、彼女の朗読はある所で止まった。
「何だ何だ?」と思って教科書を見てみると、そこには「万戸」と書かれていた。「何だこりゃ?こんな漢字見たことないよ」と思っていると、彼女も同じように思っていたらしく、少し間を置いてから自信なさげに「まんと」とその漢字を読んだ。
すると担任教師はすぐさま「違います。『まんと』ではありません」と訂正した。彼女は困ってしまった。「まんと」じゃないなら何だと言うのだ。僕も思いつかなかったし、彼女も思いつかなかったし、クラス全員、誰も思いつかなかった。
しばしの静寂が過ぎると担任教師は、それじゃあ仕方ないから助け舟を出してやるか、と言わんばかりに「『戸』は『こ』と読みます」と言い放った。何だって?私は耳を疑った。そして私は心の中で叫んだ。いや、クラス全員が同じ叫びをしただろう。「それ助け舟になってないから!」と。
彼女は、まるでギリシャ彫刻のようにピクリとも動かなくなった。当然だろう。クラス全員の前で、あの言葉を口にしなければならない。皆、彼女を凝視していた。今や彼女はクラス全員の視線を一身に集めていた。このクラス全員の前で、あの言葉を口にしなければいけないのか?いや、それでも口にしたくない。彼女は多感な17歳の女の子であった。クラス全員の前で、「あの言葉」を口にするなんて事は、絶対に彼女の人生で許されるべき事ではなかったのだ。
まるで時が止まってしまったかのように静寂が彼女を包んだ。そしてクラスの誰一人物音一つ立てなかった。皆の息づかいさえ聞こえてこなかった。皆分かっていたのだ。「ここで音を出したら負けだ」と。一瞬の隙も許さない、ピンと張り詰めた空気が教室を支配していた。 どれだけの時間が経ったのだろう。一秒、一秒が永遠に感じられた。でもその永遠を続ける訳にはいかないのだ。ここは学校だ。嫌でも時を進めなければならない。そんな悠久なる時の流れを妨げようとする動きに、彼女はたった一人、抗っていた。勝ち目がないと分かっていてもなお、彼女は闘っていた。それでも皆分かっていた。彼女に選択肢は残されていない事を。これはもう、言うしかないのだ。絶対に言うしかないのだ。あの言葉を。
さあ言うんだ!言ってしまえ!言って、楽になってしまえ!て言うか、あの言葉が答えだろ?だったら言うしかないじゃないか!皆の胸の中に憎念が渦巻いていった。さあ!言うんだ!言え!言え!言え! もう少しで皆の耐え難い憎念が爆発する、という刹那、静寂は終わりを告げた。
その静寂を破ったのは担任教師だった。
  彼は「こんな言葉も知らないのか」と言わんばかりに深い溜め息をつくと、ゆっくり、本当にゆっくり、そして少し重くしっかりした口調で「ばんこ」と口にした。
「ばんこ」。私の耳に、それまでの人生で一度たりとも聞いた事のない耳障りな発音が入ってきた。私は今までの人生でそんな言葉に出会った事はなかった。
「ばんこ」。いや、私だけではない。
「ばんこ」。永遠の時を刻もうとした彼女も、クラス全員一人一人も。
「ばんこ」。皆が皆、全員、人生で初めてその言葉の響きを耳にしたのだ。
やがて彼女は再び教科書に視線を投げかけ、担任教師が口にした言葉を呪文のように復唱し、そのまま朗読を終えると、静かに、本当に静かに着席した。
ここに悠久なる時の流れへの扉はそっと静かに閉じられた。
これが人生初めての「万戸」との出会いだったのである。(りんりん 2023/5/27)

(寸評)ぶはははっ! 久しぶりに投稿で大笑いした。文章力、素晴らしい! 9ポイント。

初めてのアルバムを褒めてもらう

さて ズミ天 音楽やるぞイヤーの次のステップはCD作り
今までの曲を再録音(一部過去のやつもあり)して音源化しました。

まず先行シングル(ということにした 実際は別の理由で公開したのだが)
のイマノキモチを公開
https://youtu.be/MaBR4YFQEiI

支援施設のスタッフさんからは好評でした。

更に自信がついたのは 韓国在住の音楽を趣味としている方が この曲を打ち込みでアレンジしてくださいました。

これは嬉しかったです。

これのお礼として アルバム全曲をデータでですが送りました(ギガファイル便 便利ですね)

すると即座に細かな感想を送ってくださいました。

これは非常に嬉しかったです。

自信がつきました

これはCDを作るべきだと確信しました。(ズミ天 2023/5/27)

(寸評)おおっ、どんどん行動するべきだっ! どこで誰が聴いてくれるかわからないからな。いろんな人に広がるといいな。6ポイント。

はじめてのアナルに指4本

ある日 私は告白した女性にブロックされて
その腹いせに風俗に行きました。

その嬢はアナル責めが好きな方らしく
「ねぇ~? アナルに指何本入る?」としつこく、時にいやらしく聞いてきました。

「2本くらいですかねぇ」と答えると
同意の元 私のアナルに指サックをつけてローションを塗りたくった 嬢 の指が
うほぉ すげえ
「あらぁ~ ずっぽしはいっちゃってるじゃなぁい」
とのことでアナルを執拗に責めてきました。

そこでふとクエスチョンが
はて では何本まで入るのだろう
「すいません 三本入れてみてもらえませんか?」

嬢は快諾しました
するとどうでしょう
ぬるんずぽりと三本の指がアナルに飲み込まれるではありませんか
じゃあ四本も変わらんだろうと
四本目を挿したところでフィニッシュ

よくよく考えたらフィストファックと同じですね(カルロスイベリコ豚 2023/5/27)

(寸評)あまりやり過ぎると肛門ゆるゆるになるから、気をつけてね。括約筋も歳をとるからね...。7ポイント。

初めての東京タワー

まだ4才くらいの時、叔父さんの結婚式に出席するために家族で東京にやってきて、そのついでに東京タワーに初めて行った。
当時、東京タワーは日本で一番高い建物で図鑑などで憧れていたので、子どもながらにものすごくドキドキしていた。
一番最初の150メートルの大展望台(現メインデッキ)からの眺めは素晴らしく、俺は子ども心に浮かれていた。そして4才のガキでもその上に250メートルの特別展望台(現トップデッキ)というのがあるのは図鑑で知っていたので、どうしても日本で一番高い所に上りたかった。そしてそこに上りたいと大人達にお願いした。
しかし、同行していた大人達はさらに上の特別展望台まで上るのが面倒くさかったらしく、祖母は「特別展望台は今、工事中だから今日は休みなのよ」と俺にウソの説明をして丸め込もうとした。でもどう見ても特別展望台行きのエレベーターから沢山の人達が乗り降りしていたのは4才児でも分かったのだが、ガキだった俺は「あの人達は工事関係者なのかな?」と思ってまんまと騙されて引き下がった。
大好きなおばあちゃんがそう言うのならそうなのかな?でもどう見ても家族連れにしか見えなかったのだが。そうして、俺はものすごく上りたかった特別展望台に上れないまま初めての東京タワーを後にした。
大人達は「どうせ子どもにはバレないから、適当なウソをついて展望台に行かない理由にしよう」と軽く考えていたのかも知れないが、4才のガキとは言え、大人の想像以上に覚えているものだ。
俺が初めての東京タワーで一番上の特別展望台に行かせてもらえなかったのは後々まで尾を引いた。
大人になってから東京タワーの特別展望台に上れなかった事を親に恨みつらみ話すと、親は「そんな事あったっけ?覚えてないなあ。アハハハハ!」と笑い飛ばすのだった。
覚えてないだと?冗談じゃない!俺はあんなに楽しみにしていた初めての東京タワーの一番上の特別展望台に行けなかったんだぞ!しかも工事中とかウソをつかれて!
大人の人達は気をつけた方がいい。「こいつはまだ子どもだから適当なウソをついて誤魔化せば良い」と思っても、子どもは覚えているものだ。分別がついていない間は誤魔化せるかも知れないが、大人になってその時の事がウソだったと分かった時、それは心の傷として残るのだ。そしてそれは恨みとなってどんどん増幅していき復讐・・・なんて事にはならなかったが、俺が東京タワー特別展望台に実際にリベンジするには数十年の時を要した。
東京タワーは動かないし、「いつでも行ける」と思うと、あえて他の事に優先して東京タワーに行く、という機会はなかなか生まれなかった。特に大人になってからは。
そうしてようやっと東京タワー特別展望台にリベンジする機会がやってきたのは初めて東京タワーに行ってから、実に35年の月日が経ってからの事だった。
初めての東京タワー特別展望台!俺は大人気なく興奮してドキドキしていた!「やっと子どもの時のリベンジを果たせる!あの時の借りを返せるんだ!」とドキドキしながらエレベーターを上っていった。
そしてエレベーターを降りた先の35年越しの特別展望台の風景。ものすごく高い!そして特別展望台が思った以上に小さい!狭い!
俺は自分が高所恐怖症なのをすっかり忘れていた。その日は風が強かった。ものすごく強かった。心なしか東京タワーが風で揺れている気がした。いや、間違いなく揺れていた!
ゆらゆらと揺れている東京タワー特別展望台の壁にへばり付きながら「これ東京タワー、風で倒れるんじゃないか?」俺は真面目に恐怖で怯えた。下から見るとそんな事は絶対にないと分かるのだが、特別展望台の上にいると今にも風で特別展望台が倒れそうな錯覚を覚えるのだ。
「揺れてる!揺れてるよ!ヤバい!ヤバいよ!」ドキドキが止まらない!動悸が止まらない!俺は冷や汗をかいてエレベーターに乗り込み、初めての東京タワー特別展望台を後にした。
こうして俺は35年越しに初めての東京タワー特別展望台に完膚なきまでに叩きのめされて帰ってきたのだった。(りんりん 2023/5/27)

(寸評)もしかしたら、親は息子がなんとなく高所恐怖症気味なのを知っていて「これ以上高いところは無理」と賢明な判断をしたのだとしたら...。
そういえば雑誌の企画で東京タワーを外階段で上ったことがある。是非チャレンジしてみて! 6ポイント。

初めての生アイドル

幼稚園のころ、石川秀美さんや岩井小百合さん、よっちゃんのThe Good-Byeなど〔他は思い出せない〕当時のアイドルが複数出演するコンサートに母と行きました。
肝心の演奏内容は幼かったのであまり覚えていませんが、トリのThe Good-Byeが演奏しだした途端、目の前に座っていたお姉さんが立ち上がり、体を左右に揺らしながら手拍子をしだして「ちょっとお姉さん見にくいよ~」と思った記憶と、テレビと同じ人だ~という印象だけ残っています。
実はThe Good-Byeのメンバー全員のサインが入った色紙を知り合い経由で頂いて、しばらく家に飾っていたのですが、気が付いたら無くなっていました。親が捨て たのでしょうが、今となっては勿体ない。(ひももん 2023/5/27)

(寸評)たのきんトリオの中では一番地味だったよっちゃんだけど、今もギタリストとして活動してるのは凄いね〜。5ポイント。

初めての坂本龍一クレジットのレコード

私が初めて坂本龍一を個体認識したのは1976年にリリースされた、女性シンガーソングライターりりィのシングル盤「家へおいでよ/オレンジ村から春へ」。レコードを購入しました。その時はまだ容姿は知りませんでしたが、坂本が属していたりりィのバックバンドのバイ・バイ・セッションバンドのキーボードプレイヤーとしてアレンジもこなしていて、レコードのレーベルに記載してあるのを見て認識したのです。もしかしたらまだ高橋ユキヒロに「教授」とあだ名付けされる前の「あぶ」時代かもしれませんね。
B面の「オレンジ村から春へ」は、確か資生堂の春のキャンペーンCMソングではなかったかと記憶しています。それでレコード買ったんじゃないかな。中学2年の頃でした。
りりィは当時FM雑誌にオーディオルームが載っていて、それが機材満載で自宅録音もできるというふうに紹介されていて、カッコ良いー!と憧れました。その時のバックバンドに坂本龍一も在籍していたのですね。他のメンバーは木田高介、伊藤銀次、土屋昌巳、斎藤ノブ、吉田建、井上鑑など、錚々たる顔ぶれでしたが、それを知ったのはかなり後になってからです。(波照間エロマンガ島 2023/5/27)

(寸評)へー、りりィのバックもやってたんだね。最初はバックミュージシャンから華麗に転進したね。5ポイント。

初めてのMG5 i-SMART

かつて英国の自動車製造メーカーのスポーツカーブランドとして有名だったMG〔エムジー〕。現在は中国の資本系列に入り、タイで東南アジア&オセアニア市場向けに小型自動車を多く製造しています。私の住むタイでは圧倒的に日本車の車両が多いのですが、ここ4〜5年ほどでMGの小型自動車を目にすることも多くなってきました。
過日、配車アプリでタクシーを呼んだところ、やってきたのは「MG5 i-SMART」。タイで製造されたMGの最新機種のセダンカーです。初めてタイ産のMGに乗りました。車内は思ったよりも広く、居住性は安定している第一印象を受けました。運転席前方の計器類などは最新の機器を搭載しており、右折左折後退する時などはリアルタイムカメラが自動的に駆動してモニターに映し出されます。あと今どきの自動車の証というのがエンジン音が最新技術で低く抑えられており、とても静かな移動空間でした。このスケールの乗用車は、以前は日本車の独壇場でしたが、それもどんどん変わってきたことを実感しました。新車の価格としては65万バーツから70万バーツ前後。日本車と比較してもめちゃくちゃ高いというわけでも無さそうです。日本に輸入したら目立つと思うのだがなー。(波照間エロマンガ島 2023/5/27)

(寸評)ううっ、先進国だと思っていた日本が停滞国、もしくは後退国となってきた今、日本でタイの車がメインになる時代も来るかもしれない...。5ポイント。

タイで初めてのジャガー

今から10年前。土曜出勤で人通りの少ないスリウォン通りを歩いていると、会社のビルの前でジャガーが停車した。
「あ、ジャガーだ」と思ったら、会社の受付嬢のお嬢が下りてきてビックリ。バンコクのお金持ちのお嬢だったのかー!
流石に運転手がドアを開閉するところまでは行かなかったけれども。そんな入社2年目の出来事でした。(波照間エロマンガ島 2023/5/27)

(寸評)漫画でよくあるシーンだっ! 5ポイント。

初めての東京ー富士五湖、8時間の旅

かつて「ゴールデンウィーク」と呼ばれた4月末から5月初旬にかけての大型連休。あれは社会人になって2年目のことだったか、父のクラウンを借り富士山方面へドライブ旅行を思いつき、行くことにしました。未明出発。途中母校のT美術大学に立ち寄り、キャンパス内を徘徊後、八王子インターから中央自動車道に乗りました。と・こ・ろ・が。
皆様ご推察のとおり、中央道は地獄の渋滞。車はまったく動いていません。ラジオで交通情報を聞くと連休初日のその日は談合坂サービスエリアを先頭に渋滞50キロだか100キロだかとアナウンスしていました。
仕方なく私たちは途中の相模湖インターで一般道におり、道志村を通るルートで富士五湖を目指すことにしました。ところが、同じことを皆考えていたようで、道志みちも渋滞で牛歩状態。山中湖に着くのになんと8時間くらいかかってしまいました。
へとへとに疲れながらもスーパーマーケットで買い物をし、山荘の庭でバーベキューを始める頃にはすっかり日も暮れてしまいました。特に運転手の私は疲労の限界で、夕食を食べ終わると寝落ちしてしまい、楽しい旅行の夜を楽しむことができませんでした。何十年経ってもこの夜寝てしまったことを後悔しています。そんな、GW初日に富士五湖まで通常2時間程度で着くところ、8時間かかってしまったという話でした。(波照間エロマンガ島 2023/5/27)

(寸評)道志村の民宿に泊まったことがあるけど、観光地化されてなくて、いい田舎だったよ。目的地を変えたら、面白かったかもね。5ポイント。


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