ドキドキドキリコ初体験(108)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめての剃毛

私(男です)が若い頃に入院した際、トイレに行けない状態の時におしっこを出すために、女性の看護師さんにおちんこから管をグリグリとネジ込まれるという経験を2回ほどしたのですが、点滴漬けでボ~っとしてるせいもあるかもですが、意外と痛さも喜びも(?)ありませんでした!下の毛を剃る剃毛も2回ほどやってもらいましたが、一回目は男性の看護師さんでしたが、この時もボ~っとしてたので恥ずかしいとかなかったです。辛かったのは、退院後しばらくしてからの検査入院での剃毛です。入院時と違い頭スッキリ冴えた状態で女性の看護師さんに下の毛を剃られるのです。その看護師さんも若くてウブそうな私に気を使ったのか(気のせい?)派手な色のアイシャドーをしてきて「ハイ!剃りますヨ!」とハイテンションでやってきました。ちなみにもう一人補佐みたいな女性の看護師さんと二人がかりで剃られました。反応しないように必死でしたが、ウブな私のムスコは反応してしまいました。今では笑い話ですがその時は本当に恥ずかしくて辛かったです。石川さんも入院や手術でこんな思いをしないように健康に気を付けてください。(ひももん 2022/11/28)

(寸評)入院はあるけど、剃毛は無いなあ。昔だったらもちろん反応しただろうけど、今は反応し無さ過ぎて「この人なんにも反応しない・・・ジジイ・・・」と思われるかも。どちらにしろちょっと恥ずかしいね〜。6ポイント。

初めての本格的VAPE

VAPEとは味の付いたリキッド(ニコチンなし。ニコチン含むものも中にはありますが)を蒸発させて吸ういわゆる電子タバコです。
次の就業先が電子タバコオンリーのため 紙巻きタバコは吸えません。
仕方なく 横浜のVAPE屋さんに行きました
ズミ天「あのー 強力なメンソールで吸いごたえのあるやつほしいんですけど…」
店員「ならこれっすね!」
若い兄ちゃんに選んでもらった機種を試すと
ガツンとメンソール!
これならいける!と思い 本体 リキッド 交換用のコイルを買いました。 喫煙所で改めて吸うとこれはタバコの代わりになる!と確信しました。

これを書いてる土曜日 ヘビースモーカーの私は午前中だけでも紙巻き5本ほどいくところですが一本しか吸ってません。

あとは吸う回数を減らせば禁煙ができるぞ(ズミ天 2022/11/28)

(寸評)へえ、VAPEというのは知らなかった。電子タバコも知らないしなあ。時代は変わってゆくのね〜。5ポイント。

初めての山下由

私が初めて山下由さんを見たのは、10年以上前、横浜のサムズアップでパスカルズのライブ時でした。
パスカルズが演奏中、すり鉢状になっている客席の間からいきなり見ず知らずのおかしな人が乱入してきて、あっという間に石川さんと揉み合いながら、ペットボトルに入った水を石川さんに浴びせていました。私はその瞬間はそれが石川さんの旧友で長い付き合いのある山下さんであることは気が付きませんでした。「狂人が乱入した・・・」と唖然としながらその模様を見守っていました。
演奏していた曲が終わると、ロケットマツさんが「山下くん、どうもありがとう」と言ったので、初めて乱入した人が狂人ではなく山下由さんであることを知ったのです。イムパクトは相当強かった。

その後、別の機会で石川さんとのユニット漫才の人間1号2号を見たり歌を聴いたり、何度か山下由体験をしました。もっと早く山下さんを知ってそのワールドをもっと楽しみたかったです。合掌。(波照間エロマンガ島 2022/11/28)

(寸評)そうそう、あの頃は毎回のようにパスカルズライブに乱入してた。知らないお客さんが「すわっ、事件かっ!」と思うんじゃないかとニヤニヤしていたのが、思惑通り也。
ギターを川に流したり、電車の中でお札をビリビリに破って捨てたり、パフォーマンスが俺は大好きだったなー。6ポイント

初めての田村魚菜

田村魚菜〔1914-1991〕。料理研究家。小学校卒業後、魚屋で奉公、長じてからは割烹料理を学び、1949年自由が丘に料理学校を開校する。1970年代はテレビの料理番組に多く出演し有名になる。
この料理学校は名前を魚菜学園と言い、東横線自由が丘駅から徒歩数分のところに立地し、高架線の電車の中から建物が見えたので、私も子供の頃から知っていた。
1970年代のある時、東横線で横浜方面に移動中に、私は車窓から魚菜学園の教室に田村魚菜が料理を教えている姿を目撃したことがある。教室ではニコニコして笑顔の絶えない優しそうなおじさんという風情であったが、おそらくは裏ではめちゃくちゃ弟子には厳しいだろうとなぜか想像してしまった。 魚菜は今から30年ほど前に亡くなったが、二代目が跡を継ぎ、現在も学校は運営されているところを見ると、魚菜校長の料理に対する理想が現在も生き続けているのだろうと思った。(波照間エロマンガ島 2022/11/28)

(寸評)料理研究家というと、バイクで高速を突き抜けて落ちたあの人は今どうしてるのだろう...。4ポイント。

初めての「玉切れ」指摘

タイ在住のご存じです。
私が初めて「玉切れ」を指摘されたのは1987年でした。
運転免許を取得して3年ほど経ち仕事でも運転するようになり、毎日都内を営業車で走り回っていました。
ある日、交差点で信号待ちしていると真横に白バイが停車し、コンコンと窓を叩かれました。ギョッとする私。
窓を開けると白バイ警官は「ブレーキランプが片方ついてないよ。整備不良だからすぐに電球を取り替えて」とのたまいました。
運転している自動車の「玉切れ」を指摘されたのは初めてだったので、驚いたのと同時に、電球は結構玉切れするんだな、と自動車の整備の重要性に気づいた次第です。
「『玉切れ』指摘」と書いて、あらぬ想像をした皆様、ご愁傷様でした〔笑い〕。(波照間エロマンガ島 2022/11/28)

(寸評)てっきり赤い玉がコロンと出て「終了〜」かと思った。ヤラレタ! 5ポイント。

初めての運河

タイ在住のHです。
私はタイのチェンマイの語学学校でタイ語を習いました。チェンマイにはお壕はありますが、運河は存在しません。なので運河〔クローン คลอง〕という単語を習ってはみたものの、なかなかイメージしづらい部分がありました。どちらかというとアムステルダムにあるような水路を想像していたのですが、2012年にバンコクに引っ越してきて初めて言葉の意味するものを理解しました。
そこかしこにある、生活排水垂れ流しのドブ川のような水路こそ、運河〔クローン〕だったのです!シンガポール在住の親友が先日出張でバンコクに来て一緒に飲んだ時、「バンコクって俺たちが子供の頃日本にあった、ドブ川の臭いがするよね」と言っていて、我が意を得たりと思ったものです。今日本では失われた臭いがバンコクにはまだあるように感じたのです。そんなタイでの「初めての運河」の話。(波照間エロマンガ島 2022/11/28)

(寸評)子供の頃うちの近くにもたくさんあったなあ。今は蓋をして道路の中とかに隠されているんだよね。いつかそれが暴かれる日が来るような気がする。5ポイント。

初めての文化勲章

タイ在住のHです。文化勲章といっても勲章を「もらった」わけではありません。勲章を「見た」という話です。
1990年代に横浜に住んでいた頃、友人女性に横浜港の花火大会の見物を誘われました。「山下公園に行くのですか」と彼女に尋ねると「友達の家が山手町の丘の上にあって物干し台から花火がよく見えるらしいので、誘われて行くことになったの」と答えました。
当日になり、伊勢佐木町の私の住むマンションから市営バスに乗り、10分くらいで最寄りバス停に着きました。そして徒歩1分でお宅に到着。その家は山手の風致地区ならではの建ぺい率60%の庭の広い洋館で、物干し台へは2階の和室を通って行くようになっていました。その和室の壁にかかっているのを見たのです、額装した文化勲章を。
その家の主人の亡き父上、つまり友人の友人の父方のお祖父さんが文化勲章受賞者でした。額に入った賞状の左下にはちっちゃい星形の勲章がリボンと共に収まっていました。自分の身の回りに勲章をもらった人など皆無だったので、その勲章からその人がどんな人生を送ったのかと思わず想像してしまいました。でも、国から叙勲されることに何か違和感を感じる自分もいるのでした。勲章を目の前にして、大江健三郎や杉村春子など叙勲を辞退した人たちのことを思い起こしました。
花火大会はとても楽しく、見物することができました。まさしく夏の夜の夢、そこには友人女性しか知り合いはいませんでしたが、私はいつものお調子者トークを発揮して積極的に場を和ませました。(波照間エロマンガ島 2022/11/28)

(寸評)俺はある知人の家で松田優作の映画賞の受賞メダルを見たことがあるなー。自宅に持ち帰らないで、こんな人が保管してるんだーと思った。
ちなみに、たまがもらった「日本イカ天大賞」の大きなトロフィーは、阿佐ヶ谷の8039(パオサンキュー)というバーに飾ってあるので、興味のある人は行ってみて。4ポイント。

初めての 「SPY x FAMILY〔スパイファミリー〕」

数ヶ月前、昼休みに会社の休憩室に行くと、タイ人女性スタッフがiPadでアニメーションを観ていた。何を観ているか訊ねてみると、日本のアニメーションで「SPY x FAMILY〔スパイファミリー〕」と教えられた。これが私とこの作品の初めての出会い。なんでも数年前より大ヒットしている作品とのこと。日本を離れて10年以上経ち、最近日本の世情や流行にとんと疎くなっていて、私は完全に乗り遅れていたのであった。タイ人に日本のヒット作品を教えてもらう始末で、とほほほ、情けない。
さて初めて「SPY x FAMILY」を見せてもらったが、これが新鮮でとても面白かった。設定はミッションを帯び敵国に潜入した、仮初〔かりそめ〕の家族に身をやつした赤の他人同士のスパイ家族が、その国でミッションを実行していく際のドタバタコメディーを描いている。
日本が舞台ではない日本製アニメーションで好きだった作品として、私が最初に想起したのは、1971年虫プロ制作の「アンデルセン物語」だった。キャンティ〔増山江威子〕とズッコ〔山田康雄〕の二人組が、アンデルセンの童話の世界に現れ、作品を紹介しながら事件を解決していくストーリーだったような。「SPY x FAMILY」もそういう非日本的世界、おそらくヨーロッパの国の日常を表現しているところが、バタ臭くて好みに合ったのであった。あと、赤の他人同士が家族になる設定は、最近観た映画だとマーヴェルの「ブラック・ウィドー」がそうだったように、近年のハリウッド映画でよく使われている設定なので、その今日的時代性も原作者はきちんと意識していると感じた。
そのタイ人女性スタッフは、日本語の勉強を兼ねてこのアニメーションを観ているとのことだった。なるほど、ストーリーがわかりやすいので、日本語の教材としては理解しやすいかも、と思った。そんな初めての「SPY x FAMILY」を観たという話しでした。(波照間エロマンガ島 2022/11/28)

(寸評)日本に住んでいてもタイトル聞いたことがある程度でまったく見ていない。どーも昔から「乗り遅れない」と意識する方がカッコ悪い気がして。只今ワールドカップ中だけど、選手の名前もひとりも知らないしなあ。4ポイント。

初めてのお叱り

チャットに「ズミ天、ファイブ・クエスチョンで投稿しすぎ 少し控えなさい」とのこと
だって思いついちゃったのだもの 忘れる前に投稿しなきゃ
というわけです。
  また思いついたら程々に投稿しますね(ズミ天 2022/11/12)

(寸評)いや、ほどほどじゃなくて、ガンガン投稿してください。
そんなこと書く奴は、自分が投稿もできない、ただ嫉妬してるだけの愚か者です。投稿を減らしたら相手の思うまま。なんのなんの相手の意のままにならぬぞ、という強い意志で投稿してください。いくらでも、待ってるで〜! 5ポイント。

初めてのエコー検査

いっときますが妊娠ではありません。
健康診断で肝機能がやばかったのでエコー検査しました

予定時刻をちょっとオーバーして検査
ゼリーをお腹に塗られ 呼吸したり止めたり
お腹に超音波機械を押し付けられ内蔵をしらべます

10分くらいでおしまい
結果 胆石が発覚
油もの アルコールは控えてといわれました
トホホ…(ズミ天 2022/11/12)

(寸評)トホホですなあ。まあ多少なら摂ってもいいんじゃないでしょうか。
知らんけど。4ポイント。

横浜タイヤの気持ち悪い顔の看板、初体験

タイ在住のHです。
私は1962年に東京都渋谷区生まれ、その前半生は東京都の西南部〔多摩川の近く〕や神奈川県の県庁所在地など数カ所で成育しました。一番古い記憶の一つに、父の運転する自動車に乗って、国道246号線を夜間ドライブした体験が記憶に残っています。
そう私は0歳の時は寝つきがとても悪く、母は私を寝付かせようと深夜に当時住んでいた世田谷区駒沢から国道246号線を父の運転する車でひたすら下っていき、相模原市にあった横浜ゴムの営業所のところで引き返してきたと、父から繰り返し聞かされていました。某国立大学理学部講師だった父は安月給ながら新婚家庭で安い自家用車を購入、生まれたばかりの私の子守りに都内を乗り回していました。そして深夜のドライブとなったわけです。
でも私は、その横浜ゴムの営業所のことは乳幼児ながらなぜか覚えていたんですよね。タイヤの中にある気持ち悪い笑った顔のイラストの看板がイムパクト十分だったからです。「横浜タイヤ 顔のイラスト」で検索するとすぐにヒットすると思います。結構トラウマになりそうなイラストでしょ〔苦笑〕。あと、当時国道246号線は、現在のように片側3車線のバイパスではなくて、片側1車線の狭い道路だったんです。246バイパスの新二子橋が完成したのが1974年で、その前は旧道だけで二子玉川駅前を通る二子橋しかなく、いつもノロノロ通行、その橋には玉川線という路面電車が走っていたという景色で、そこをどこまでも下っていったのでした。

余談ですが、1977年放送のTBSドラマ「岸辺のアルバム」〔山田太一脚本、八千草薫主演〕は、1974年の多摩川水害で、川の近くに建つ住宅が洪水で流される災害をモチーフにしたドラマでした。その大水害のとき、当時TBSラジオのアナウンサーだった久米宏さんは増水した二子橋を車で通ったとラジオ番組「久米宏 ラジオなんですけど」で語っていました。多摩川の河川敷の水位が上がり、橋ぎりぎりまで水がきてしまったそうです。久米さんは自由が丘に住んでいたことを存じ上げていたので、私同様とりわけ印象的な話題だったと言えると思います。
そんな横浜タイヤの気持ち悪い顔の看板初体験の巻き、および多摩川水害の話でした。(波照間エロマンガ島 2022/11/12)

(寸評)多摩川の思い出といえば二子新地に亡くなった山下由のアパートがあって、何度か遊びに行った。ギターを川に流したりしてパンクな人だったなあ。6ポイント。

初めての沢口靖子

私が女優の沢口靖子さんを初めて肉眼で目撃したのは、1986年8月24日日曜日日中、渋谷の明治通りを歩いているときでした。
どうして日付を覚えているかというと、テレビ番組の生中継をしていてその番組名をインターネットで検索したからです。それは日本テレビ制作の「24時間テレビ〜愛は地球を救う」という番組でした。
沢口さんはその年の同番組のチャリティーパーソナリティーとして出演していて、大型車両に乗ってパレード中に偶然出くわしたというわけでした。当時デビュー2年目、21歳の彼女はとても美しく、番組特製の黄色いTシャツを着て光沢のあるメイキャップで道ゆく人に手を振ってニコニコしていました。今から思うとあれはテレビ用の油性の練り白粉「ドーラン」だったんじゃないかと思います。とにかく光り輝くオーラを感じたものでした。以来57歳の現在になるまでおよそ35年以上、トップスターとして活躍されているというのは本当に驚くばかりです。
私が沢口さんの出演作で好きだったのは、明石家さんま主演の映画「どっちもどっち」〔1990年東宝〕。松田聖子が幽霊役で登場するラブコメディーでした。沢口さんは明石家さんま扮するプレイボーイの元カノ役だったかな。映画館で観た記憶があります。死んだ父は沢口靖子さんが好きで、日本に帰国して実家に帰るといつも「科捜研の女」の再放送を観てましたね。 そんな沢口靖子さんを初めて目撃したという話でした。(波照間エロマンガ島 2022/10/28)

(寸評)沢口靖子さん。顔はなんとなく思い出せるが出演作品は思い出せず。正統派という感じだったよね。芸能人を生で近くで見たことはテレビ番組共演などではいくらでもあるんだけど、街を歩く時はいつも人と目が合わないようにコソコソ生きているので、ほぼ誰もなし。もっとも相貌失認、隣に有名芸能人が座っていても、帽子やサングラスでもされたら絶対わからない自信あり。故に有名人と縁が無し。6ポイント。

PHSを持っていて初めて良かったと実感した瞬間

タイ在住Hです。昭和の話が多いわたしですが、今日は平成の話。
1990年代から日本ではポケットベルや携帯電話、PHS電話が流行し始め、最初は携帯電話の使用料金が高かったので、廉価なPHSを庶民が多く持つようになりました。私は1990年代後半から2000年前後まではポケットベルとPHSの2台常用していました。
あれは2000年の7月だったか、二子玉川河川敷で多摩川花火大会が開かれた日のことです。例年ですと主催自治体の神奈川県川崎市と東京都世田谷区では、日にちをずらして開催されるのですが、その年はどういうわけか同日開催になりました。私は世田谷区の二子玉川駅すぐ近くのマンションに住んでいる友人に招待されて、友人たちと最高の見物場所で打ち上げ花火を楽しみました。そこで発生した問題は、群衆でごったがえす近辺の人出のために携帯電話がかかりにくくなってしまい、友人との待ち合わせにはめちゃくちゃ難儀したことです。しかし、私が持っていたPHSはその頃すでに使用者数が減っていたせいか、すいすい電話はつながり、他の友人たちに較べてお宅までの往復にはさほど困ることはありませんでした。
PHSを使っていて初めて良かったと思う体験となりました。(波照間エロマンガ島 2022/10/28)

(寸評)どちらも持っていない僕は、なかなか会えずに、でもやっと会えた時の「おおっ!」という感動を得してま〜す。6ポイント。

初めてのヨコハマビーチ

横浜にビーチが? 江戸末期〔1859年〕、東海道から大きく外れた寂れた漁村が開港し、以来世界に開き通商の要衝となった神奈川県横浜市。・・・の話ではありません。ここはハワイ州オアフ島。オアフ島西岸のビーチロード93号線を西北に進むと、道路のどん詰まりにあるのが「ヨコハマビーチ」といいます。ここはその名の通り、横浜からハワイに移り住んだ日系人がよく出没して釣りを楽しんでいたことからヨコハマと呼ばれるようになったそうです。とにかく長閑〔のどか〕で人の気配は少なくドライブすると気分の上がるビーチでした。海の反対に目をやると海抜1000メートルクラスのワイアナエ山嶺の緑の岩肌がとても美しく、山頂には米軍の通信施設のドームが見えたりもします。1990年代に社員旅行で初めてハワイを訪れたとき、同僚は皆ゴルフなど楽しんでいる中、私は島内を隈なくドライブし景勝スポットを探していました。ここヨコハマビーチはその中で偶然巡り合った海岸で、波は高くなく海の色も綺麗、すぐにお気に入りの場所となりました。映画「トラ!トラ!トラ!」で日本軍飛行部隊がオアフ島のノースショアから上陸して真珠湾に向ったとき、その基地が登場したような記憶があります。
そんなまたいつか訪れてみたいヨコハマビーチでした。(波照間エロマンガ島 2022/10/28)

(寸評)ハワイはみんないいと言うので一度は訪れてみたいけど、この円安だと貧乏性の僕は何も食えなくなる予感。そのうち1ドル500円になると予想している人もいて、海外でボーッとするには、戦々恐々の時代がやってくるのかもしれないなあ。6ポイント。

初めて「石川浩司のひとりでアッハッハー」投稿王のコーナーで他の投稿者に順位を抜かれる

こんにちは、当HPの読者参加型コンテンツで「投稿王」の冠を戴いている者です。私は2008年から投稿を始め、休みなくほぼ毎日石川浩司さんにメールを送り続けてきました。特にたまや石川さんの熱狂的なファンではなかった私が、何故これほどこのHPにハマったのだろうと振り返るとなかなか答えは出てこないのですが、あえて言うなら「そこに自由に遊べる場所があった」ということが理由の大部分になるような気がします。そう、幼い頃から思いついたアイディアの断片をノートに書き留めておく癖のあった私は、それがいつか何かの作品に結実する日を夢見てきたのですが、「あ、それらは今このHPに投稿するためのものだったかもしれない」と思うようになりました。そしてこのHPはアイディアの格納基地として、または私のこれまで生きてきた思惟の記録として、または死ぬ時に一生を振り返る備忘録として遺しておきたくなり、投稿をしているところがあります。

そんな私のこの14年間の投稿者生活で、実は順位を抜かれたことがあります。投稿し始めて3〜4年経った頃、私生活が忙しくなり、投稿が日常の習慣から外れた時期が訪れたのです。そんな折、5日と20日に発表される「投稿王」のコンテンツで他の投稿者に順位を抜かれたという事実に気づきました。それまではあまり順位に拘泥はしてなかったのですが、順位を抜かれて初めて競争心みたいなものが芽生え、「もっと上位に行きたい」と思うようになりました。モチベーションが上がった私は、それから貪欲に投稿するようになった次第です。そしてしばらく抜かれた人を追う展開があり、その人を抜いてさらに上位を目指して・・・、そんな中で投稿王の冠を戴くことができました。これからどうなるかはわかりませんが、まだしばらくはこちらにいる積もりです。よろしくお願いします。(波照間エロマンガ島 2022/10/28)

(寸評)今でもぶっちぎりの投稿数。継続する力がとにかくスゴい。一時期集中的に投稿がある人でも、たいていはどこかでプツリと投稿が途切れることがほとんどなので、その継続力が他の誰にも真似できない、投稿王ならではのものだね。7ポイント。

初めてのラーメン髭

私がタイ国に引っ越してくる直前の2007年頃、当時よく遊んだ友人Kさんに「髭」というラーメン屋さんに連れて行ってもらったことがあります。場所は平和島。銀座の会社で日中勤務が終わった時にピックアップしてもらい、海岸道路を自動車で行ったので最寄り駅からの距離はまったくわかりません。二郎系ラーメンらしいのですが、私はそちらの知識は持ち合わせてなかったので、なすがまま、勧められるがままにこの店にやってきたのでした。それ以前にラーメン二郎は数回行っただけなのでまだまだ勝手はわかりません。ラーメンコミュをmixiで主催しているほどラーメングルメ猛者のKさんは、いろいろ親切に教えてくれながら、私は初めての「髭」のラーメンを堪能しました。ニンニク、焼き豚、麺、スープ、野菜が30%強はみ出ている丼に加え、店主がその場でアブラをかけてくれて客が「ストップ」というアブラトッピングシステムにはびっくりしました。Kさんは結構かけていましたが、私は遠慮しておきました。ニンニクも無料トッピングできるようでした。
味はというと、まごうことなく二郎系というか、ボリューミーで美味しかった!でも、着丼した時に「このラーメン、果たして完食できるのだろうか」という不安はそれ以前同様、払拭できませんでした。でも何とか修行するかの如く完食できました。 あのタイプのラーメンは久しく食べてないなぁ。そんな初めてのラーメン髭。(波照間エロマンガ島 2022/10/28)

(寸評)俺はもうそれは食えないだろーなー。普通のラーメン屋のラーメンでもおなかいっぱいになってしまう、悲しい年寄り。6ポイント。

初めての大河ドラマにおける村田新八

タイ在住のHです。最近よくYouTubeで大河ドラマを観ています。このところタイムラインに下りてきているのが1990年OAの「翔ぶが如く」。司馬遼太郎原作作品。これはOA当時視聴してなかったので、大変興味深く鑑賞しています。幕末・維新期の激動の時代を西郷隆盛〔西田敏行〕と大久保利通〔鹿賀丈史〕の二人の豪傑の生き方を通して描いた、まさに「大河」本流中の本流の作品と言えるでしょう。1977年の「花神」や2008年の「篤姫」と登場人物がダブるトリプるのも面白いことこの上ありません。
私はその中で注目したのは村田新八。益岡徹が演じています。私が幕末の志士群像の中でもっとも好きな人物の一人で薩摩藩出身、西郷隆盛に幼い頃から兄事し、戊辰戦争では東海道先鋒総督府参謀の西郷大将の腹心として各地を転戦、ついには会津若松城包囲戦にも参戦し武勲を挙げています。
村田新八の好きなところは、明治4年の岩倉使節団に帯同し大久保利通が描く日本の国家構想や政治思想に共鳴しつつも、自分を育ててくれた恩人の西郷隆盛が下野した鹿児島に戻り、西南戦争に参加し自壊していくというアンヴィバレンツな生き方を貫徹したところ。非常に風流な趣味人で芸術を愛し、西南戦争の戦場では、シルクハットをかぶって夜会服のスーツにフロックコートを着て鉄砲を担いで戦ったところ。司馬遼太郎の作品で読んだことはありますが、ここで初めて映像で益岡徹が演じる村田の姿を拝顔しました。かっこいいーーー!!こんな狂ったやつが西南戦争にはいたのだ、と叫びまくりでした。
そんな初めての大河ドラマにおける村田新八の巻き。(波照間エロマンガ島 2022/10/28)

(寸評)大河ドラマでも何でもそうなんだけど「戦争」が好きじゃないんだよなー。どうしても「戦うのがカッコいい」という流れになっちゃうから。まあ戦いなくして今の世の中が無いのはわかってるんだけどね...。6ポイント。


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