ドキドキドキリコ初体験(104)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめてのモヤモヤ

私が保育園児の頃でした。
その日は父の職場の親睦会?みたいなのがあって両親と私と知らない男女複数名で遊びに出かけました。
その中に30代くらいの女性が2人(おそらく父の同僚でしょう)いたのははっきり覚えてるんですが、片方がボケて片方がキツめのツッコミを入れるというやりとりを何度もしていました。
ツッコミ側はその度にボケ側を激しく引っ叩いて、叩かれたボケは「あは〜ん」といちいち色っぽい声をあげていたのです。
その時はもちろんムラッとしてる自覚などなくモヤモヤとして気持ち悪いな、と思いました。
どちらか一方にそういう感情を抱くというよりかはそのやりとり自体にそう感じたんだと思います。顔は2人とも特別綺麗ではなかったような気がします。その2人には積極的に近づかないようにしたと思います。
時は過ぎ、小3の頃にインターネットを徘徊していたら女子高生を脱がせてオナニーを鑑賞するフラッシュにたどり着き、意味はよくわかってないものの毎日のように親に隠れてこっそり見るようになりました。(ある日、やばい見つかった!と思うこともありましたが、特にコメントされませんでした。)
意味はわかってなかったものの、その女子高生がどんな感覚で悶えてるのかすごく気になるようになり、考えるとモヤモヤしながらも身体中が熱くなるのを感じました。この時に記憶の奥底に仕舞い込んであった例の女性2人組のことが頭にチラつくようになり、あのときの気持ちは今のと一緒だと自覚するようになりました。それから狂ったようにエロフラッシュやエロ画像の鑑賞をするようになりました。(私がいつも見てたホームページに荒らし目的でエロ画像を無言投下する人がいて、ムフフと思いながら見てました。)
そのあと小5の頃に椎名林檎さんの本能のPVを見てオナニーして無事にデビュー(?)を果たしましたとさ。父がこの投稿を一生見ないことを祈ります。(五十嵐アキラ 2021/6/12)

(寸評)おー、貴重なヰタ・セクスアリスをありがとう。確かに子供の頃って意味はわからないけどモヤモヤしてるものってあるよねー。俺は小学生の頃、ジョージ秋山の漫画で、水槽の中に全裸の女の子がたくさんいる描写を何度も何度も繰り返し見てモヤモヤしたなあ。8ポイント。

初めてのMADテープ作り

既存の音声を切り貼りコラージュして作るMAD。
古くは70年代後半から漫画研究会などでアニメを題材に作られ続けてきました。

中学生のころ、私は動画サイトでMADテープの存在を知り、早速自分でも作って見ました。
某サイトからゴニョゴニョした音源を編集して10本ほど作りました。

大変だったのは、当時使ってた編集ソフトが秒数を指定して切り貼りするので、見当違いなところで分割されてしまうことがあったことです。

これをきったはったして作り、早速某サイトに投稿。

結果はズタボロでしたが、めげずに製作、投稿を続けました。
反応は薄かったですが、高校時代、この技術を応用して
まりちゃんズ「尾崎家の祖母 昼の放送でも流せるRemix」をつくり、放送で流しました。
評判は薄かったですが、私的には満足でした。

今も作ろうと思えば作れるのですが、何せネタがない・・・
ネタよ降って来い・・・(ズミ天 2021/6/12)

(寸評)おおっ、まりちゃんズで! それは聴いてみたいなあ。
俺の音源でなんか作ってみてー。6ポイント。

初めてのアロハシャツ

波照間エロマンガ島〔はてるま・えろまんがしま〕です。
私が初めてアロハシャツを着たのは小学1年生のときでした。祖父がハワイ旅行に行き、そのお土産にもらったのでした。当時1969年は1ドル=360円の固定相場制で、海外旅行はまだ庶民にとっては高嶺の花の時代でした。それでも海外旅行の門戸は開放され、旅客機の性能もあがったからでしょうか、海外旅行ブームが到来しつつある頃でした。紀比呂子主演のスチュワーデスドラマ「アテンション・プリーズ」が大ヒットしたのはこの翌年でした。

アロハシャツのほかには椰子のみがデザインされたペン立てとか貝殻とかもらった記憶があります。あと、そうそう、祖父は日本航空催行の「JALパック」の団体旅行で行ったのですが、JAL製のショルダーバッグをもらいました。これは長いこと使っていましたが、今も残っていたら骨董品として価値が出ていたかもしれませんね。(画像検索するとすぐにヒットします)
しかし残念ながらこのアロハシャツは子供向けサイズだったので、成長期だった私にとってはすぐに着られなくなりました。

それから約20年後の1990年代になって、ようやく私はハワイに行くようになりました。勤めていた会社が羽振りが良かったので、毎年社員旅行でハワイに行っていたのです。ホテル代と飛行機代は会社が出してくれました。6〜7回行ったほかに、プライベートでも4〜5回行ったかな。タイに住むようになってすっかりハワイはご無沙汰していますが、コロナ禍があけたら久々に行ってみたいですね。

そんな初めてのアロハシャツの思い出でした。(波照間エロマンガ島 2021/6/12)

(寸評)ライブで呼ばれたら行きたいけど、貧乏性の俺は日本より物価の高い欧米にはなかなか触手が動かない。
ハワイはみんないいというんだけどね。ハワイ島に行ってみたいな。6ポイント。

初めてのササキレコード社@神保町

波照間エロマンガ島@バンコク在住、今年59歳になります。
わたくしが初めて東京神田神保町にあるササキレコード社に行ったのは1983年春頃と記憶しています。なぜ時期を覚えているかというと、初めて店に行き中古レコードをえさ箱で漁っていると、レジでオーナーのマダムと店員と思しき女性が「オールナイトフジ」出演のオールナイターズの品定めのおしゃべりをしているのを聞いたからです。まだ番組が始まって1ヶ月も経たない頃だったのか、初期メンバーをかなりマニアックに査定しているトークを聞くとはなしに聞いていると、「この人たち、わざとお客さんに聞こえるように話している」と直感で感じ取りました。「ずいぶんスノッブなこと言ってるじゃないか、お高くとまってよ」とわたしはマダムとその店員に反感をもちました。「オールナイトフジ」といえば、つい最近「王様の耳はロボの耳」話題386「テレビ」でその想いをぶちまけたばかりですが、初期からこの番組を見て女子大生たちを「査定」することは、確かに当時首都圏に住むテレビ好きには存在した感性だな、と今となっては思います。作家の小林信彦さんもいちはやく「オールナイトフジ」に目をつけ、蓮實重彦さん責任編集の「リュミエール」という映画雑誌のコラムで取り上げていました。その視点には「オールナイターズを今とりあげてる俺ってすごいでしょ」的スノッブ視点があからさまにありましたもの。

それはそうと、このササキレコード社でわたしは1970年代歌謡曲のシングルを買いあさっていました。
それから33年後の2016年1月31日にバンコクの沖縄料理レストラン金城にて、石川浩司さんと初めて共演した「昭和歌謡ナイト」というイベントでも、この頃買ったレコードをかけまくりましたよー。
以上、初めてのササキレコード社@神保町の思い出でした。

〔参考URL〕
ttp://ukyup.sr44.info/oosama/o386.html
ttp://www.kinjo.co.th/e171307.html (波照間エロマンガ島 2021/6/12)

(寸評)俺も一時期50円とかの名も無いシングルレコード漁ってたこともあったな。意外な当たりに出会った時は小躍り。
今のように音楽がただでいくらでも手に入る時とは、価値観が随分違ったな〜。6ポイント。

父にとって初めてのフランス料理

父〈78〉が1年間の町内会当番組長を務め上げ、慰労金として地元商店街で使える「GoToイート」の金券5,000円分を貰ってきました。
さっそく近所のフランス料理店に5,000円分の料理を注文してきた〈このご時世なのでテイクアウト〉と、父は帰ってくるなりテーブルの上を片付け何枚もの大皿を並べだしました。家族からの「フランス料理なら5,000円分と言っても薄くスライスされたローストビーフ4枚がいいとこじゃない?フランス料理店の前にラーメン屋を開くと繁盛するって言うし〈笑〉」との忠告も聞かず。
1時間後、歩いて1分のフランス料理店まで車に何枚もの蓋付きトレイを載せて受け取りに行きました。
帰ってきた父の手には……レジ袋の中にお惣菜パックが2つ、だけ。
開けてみると1つ目のパックには長さ10cm×幅1cm×厚さ1cmにカットされた牛ステーキが4本、2つ目のパックには頭から尻尾まで長さ10cmのタルタルソース付きエビフライが4匹……〈苦笑〉。
まあ予想通りでしたし、ショックを受けている父を慰めつつ感謝しながら「やっぱりフランス料理は美味しいね~!お父さんのおかげだね~!」と言いながら食べました。もちろん〆はラーメンで。(テングザル 2021/5/28)

(寸評)フランス料理だと5000円分ってひとりにも満たないものねぇ。父悲し。6ポイント。

はじめての手のひらゴキブリ

田舎者のくせに昔から虫が苦手でした。特に光沢があるのと羽がついてるのが苦手です。とにかくゴキブリはダメです。
実家にいたときにヤツと出会ったらとにかく静かにその部屋を離れて、父親とかが片付けるのを待ちました。(風呂から上がったらいた時は流石に焦りました。)
学生になり一人暮らしを始めたときは、同じ敷地内のアパートに友達がいたのでお互いの部屋に出たヤツをギャーギャー言いながらやっつけたりしたんですけど、社会人になってからはなかなかそうもいきません。
ある日、眠りにつこうとして電気を消すと、カサカサと音がするのに気付きました。そして電気をつけるとそいつは現れたのです。(そのまま気にせずに寝てたらと思うと恐ろしいです)
最初は棒状のもので撲殺しようと思いましたが、近距離戦は勇気が出ません。そうこうしている間に引越しの時に両親が殺虫剤を置いていったのを思い出しました。
壁にしつこくへばりついていたヤツを無事に落とすことは成功しましたが、ここで問題なのはひっくり帰ってバタバタしてるヤツをどのようにして片付けるかでした。
ほうきとかちりとりとかそんな気の利いたものがなかったので、学生のころから落書き用に貯めてきたミスプリントを何重にも重ねて掬って外に出すことにした(ゴミ箱に捨てるのは絶対嫌でした)のですが、あろうことか慌てて手前へ傾けてしまったのです。
ヤツが私の手のひらに乗った瞬間、まるで電撃が走ったかのように頭はショートし全身がビクッとなり異常な大声が出ました。触り心地は羽のところが結構ツルッとしてたような気がしますが、あんまり覚えてません。触ったこと自体があまりにもショックすぎて……。
そのあと1時間半以上の激闘の末なんとかアパートの前のドブにヤツを放り出すことに成功しました。
その後色々調べたり周りに聞いたりして学習したのは、意外とブラックキャップでは不十分なのでゴキブリホイホイを各部屋にひとつずつ設置するのと、家グモは味方につけること(あまり巣を作らないのと、ゴキブリを食べてくれるうえに羽と光沢がないので)と、ほうきとちりとりは買っておくことです。今季は暑い日とジメジメした日が既に多いですが運良くまだヤツとは出会ってません。(五十嵐アキラ 2021/5/28)

(寸評)昔、病院の受付バイトをしていた時に「寝ていたら耳の中にゴキブリが入って・・・ギャーッ、今、私の脳みそをバリバリ食べてるっ!」という患者さんがきたよ。6ポイント。

はじめてのドキドキチェキ

きっかけは有楽町で全国の田舎の自治体が自分たちの魅力をPRするイベントで、私も仕事で参加しました。
その時に売り子で現れたのがP(プロデューサーなので)とプロコスプレイヤーの女の子でした。全く打ち合わせとか無しでの2.5次元キャラ(町の観光スポットの擬人化だそうです)の登場で、出展者である田舎っぺたちは引いてましたが、私はお遊びみたいなコスプレしか今まで見たことなかったのでそのクオリティと誘客力に素直に感動してました。
ファンの人がめちゃくちゃウチのブースに金を落としてくれただけではなく、片付けを手伝ってくれたりして、オタクのおじさんはウチの職場のイキリオヤジと違って優しいなと思いました。

それからPと仲良くなり、仕事の話とかをしているとコスプレイヤーとかアイドルを使った町おこしを企んでいると知りました。 普通のスケベオヤジのくせに「美少女の力で元気な男子が増えたら少子化対策にもなる。それが本当の地方創生だ」となんかそれらしいことを言ってたのもまた気に入りました。
その中でスカウトされたのがグラビアアイドルのFちゃんでした。Fちゃんはがっつり仕事では肌を見せるし映像作品も超エロかったですが、Pの売り子をしてる時はスタイルのいい普通の女の子って感じでそれが余計にエロいというとにかく素晴らしい子でした。
そして先日Fちゃんが扮する擬人化キャラのお披露目イベントがあり、応援に行きました。軽食を出していたんですが売り子のおかげかとにかくお昼の時間帯は激混みだったらしく、私が顔を出した頃は特にPが疲れ切ってました。小学生の男子が顔を真っ赤にしてFちゃんとツーショットを頼みに来たのがなんとも微笑ましかったです。
その日の一番の見どころはなんといってもFちゃんとのチェキでした。恥ずかしながらチェキ初体験の私は完全にキョドってましたがPが「チェキってのはアイドルと密着するためにあるんだ」と嘘か本当かわからないことを言うと、Fちゃんはスッと私の腕に巻きついて手を握ってきました。私が女子だからかもしれないですけど顔もほぼくっついてました。
Fちゃんの肌のきめ細やかさや指の細さを感じ取った瞬間、身体中が熱に満ちるのを感じました。完全に""そういうこと""だなと思いました。
Pに「すごいいい笑顔やん!」と笑われましたが、確かにチェキを見るとここ一年間で確実に一番いい笑顔でした。
Fちゃんの対応は完全に私より優位に立った大人の女性だったんですけどプロフィール見たら年下でした。マゾっ気と「私より年下なのにカメラの前でこんな姿に……」みたいな感情が刺激されて、今度25になるんですけど一番私としてもアイドルを楽しむのに丁度いい時期だったのかな なんて思います。とにかく最高でした。(五十嵐アキラ 2021/5/28)

(寸評)それは良かったねー。俺も男が「一緒に写真撮ってください」と言うと(相手の様子を見てだが)キスするフリもするよ〜ん。女子にはセクハラになるので、やりまへん。6ポイント。

国際電話での怪音声、初体験

波照間エロマンガ島@バンコクです。
最近はスマートフォンにLINEというアプリがインストールできるようになり大変便利になりました。このLINEにはトークというテキストチャットできる機能のほかに、無料電話の機能もあります。これを使うとなんと! 国際電話も無料でかけられるのでした。会話はスムーズでどんなに遠距離でもクリアーな音声で会話することができます。

そんなわけで主にビジネスユースですが、日本や他の国にいる取引先のお客様とこのLINE無料電話をかける機会も増えてきました。これはよくよく考えるとすごい技術的発展です。わずか10年ほど前は、タイから日本に国際電話をかけるには有料で7秒10円ほどの通話料がかかり、電話代を請求されていたのですが、それが今やただで通話できる時代になっているのです。

ところが数ヶ月前、めずらしく固定電話で日本に国際電話をかける機会が到来しました。お客様がLINEを持ってないので電話回線にて通話することになったのです。

タイから日本へ固定電話をかけるには以下の順番にプッシュボタンを押します。

0〔発信番号〕+001〔タイの国際電話会社の頭出し番号〕+81〔日本の国番号〕+〔0をぬいた日本の電話番号〕

これで直通電話がかけられます。わたしはルールにしたがってお客様の電話番号をプッシュフォンしました。ところが・・・。

タイからタイの窓口までの電話回線、タイから日本までの海底ケーブル、日本の窓口からお客様の住んでいる地方までの電話回線、これらのどこで不調があったのか知りませんが、つながったお客様との通話が非常に不思議な音声が伴ってしまったのです。

こちらが普通に「もしもし、○○様でしょうか」と通話すると、自分の声がまるで回転数が落ちたテープレコーダーの音声のように「…んむぉしー、んむぉーし、○○すぁまぁーでしよおぉーーかー」とコールバックしてスピーカーから聞こえてきたのです! 相手の音声も同様に非常に回転数の遅い音声が「んもーしーんもーしー・・・」と聞こえてきます。しまいには回転数〔?〕が遅すぎて音声が止まってしまいました! そしてしばらくすると通話が途切れてしまい、電話が不通になる「ツー・ツー・ツー・・・」という機械音に切り替わりました。

これはどういうことなのか、まったく理解できませんでした。そして電話をあきらめすぐにメールにて相手に国際電話の通話不能状態を説明し、話したかった内容を説明しました。幸いなことにわたしの意図は相手に通じて、すぐにメールにて返信があり、電話しなくても用件は済ませることができました。

この体験は同時に遠い昔、海外旅行したときに初めてヨーロッパから自宅に電話して家族と通話したときのことを想起しました。海外から日本にかけた電話は、リアルタイムなのに時差が半日近くあり不思議な気持ちになったことを思い出しました。

以上、国際電話にて初めて体験した怪音声の巻き、でした。(波照間エロマンガ島 2021/5/28)

(寸評)ああ、そういうことってありそう。だけど実は相手が何か機械を使って悪戯しているのだとしたら、おかしいね。5ポイント。

初めての夜のサン=ドニ門



波照間エロマンガ島です。わたしがパリで好きな街はモンマルトルです。パリを訪れると必ず街歩きします。風俗店やポルノショップが建ち並び、猥雑な雰囲気をかもし出しています。モンマルトル地区は治安が悪いことで有名で、夜歩いているとひったくりやピストル強盗に遭ったりするとも言われています。さいわいなことに今までそういう怖い体験をしたことはありませんが、かなり緊張する街区であったと記憶しています。この画像は前回モンマルトルを散歩したときに偶然目の前に現れた、モンマルトルから南へ数キロ行ったところにあるサン=ドニ門の全体像。
サン=ドニ門はルイ14世のライン河での戦勝を祝って1672年に造られたパリにある凱旋門のひとつ。サン=ドニ門が登場する文学作品といえば『マダム・エドワルダ』ジョルジュ・バタイユ〔1941年〕を思い出します。

〔引用ここから〕
夜のこの時刻に、通りにはひと気がなかった。突然、性悪なエドワルダはひとこともいわず、ひとりで駆けだした。サン=ドニ門が目の前にあった。彼女は立ちどまる。私はもう身動きできなかった。エドワルダは私とおなじく身を固くして、門の下の、アーチの真ん中で待っていた。彼女は黒く、なんの飾り気もなく、穴のように不安をかきたてた。笑ってはいなかったし、それどころか、彼女を覆う衣の下に、もはや彼女が存在しないことさえ私ははっきりと悟ったのだ。そのとき―――私の中の酔いは完全に醒めはてて―――「彼女」が嘘をついていなかったこと、「彼女」が神であることを知った。彼女の存在は石のように理解できない単純さをもっていた。街の真っ只中にいながら、私は自分のなかで夜と化し、生命のない孤独に包まれている気がした。〔中条省平・訳〕〔引用ここまで〕

マダム・エドワルダといえば、そういう名前のバンドもありましたね。(波照間エロマンガ島 2021/5/28)

(寸評)パリは随所に怪しい路地があるよね。歴史的にいろんなことがあったんだろうね。血生臭いこともたくさん。4ポイント。

初めてのアチャコ

タイ在住の波照間エロマンガ島〔58歳〕です。大学時代は日本の古い喜劇映画を求めて各地の映画館や上映会に通いました。ある日のこと。のちの「秘密戦隊ゴレンジャー」の元祖とも言うべき映画を発見、鑑賞しました。その名を「天下の大泥棒 白波五人男」〔1960年 東宝 佐伯幸三監督、森繁久弥主演〕といいます。

「白波もの」といえば歌舞伎狂言で有名で、白波とは泥棒の隠語でもあるのですが、海岸の白波が立つその前にて男伊達の扮装に身を包んだ五人男の名乗りが名高いですね。「志らなみ」の字を染め抜いた番傘を差し五人男一人ずつ「渡り台詞」で見得を切り、七五調のリズミカルな「連ね」で名乗る姿。これは中高年の日本人ならたいてい誰でも記憶の奥底にこの映像が残っているのではないかというくらい、歌舞伎の様式美が凝縮されています。啖呵を切る口上は子供の頃から大好きでした。悪徳とか義賊とか背徳とか、そういう悪の匂いのするお話を日本人は好んできたと思われます。

実は小学校低学年に読んだ永井豪「あばしり一家」でわたしは初めて「白波五人男」を知った記憶があるのですが、女装の美男子、弁天小僧菊之助のキャラクターを永井豪は「女性が男装する」という設定に変え、見事にこの換骨奪胎は作品として成功しました。菊之助という男の名前を持つ女性〔にょしょう〕のボーイッシュな倒錯感に小学生のわたしはくらくらし、見事に「ちんぴく」をもっていかれました。ゴダールの「勝手にしやがれ」のジーン・セバークのようなベリー・ショートの髪型の女性が好きになったのも菊之助の影響です。
あともう一人、法印大子〔ほういん・たいこ〕という身長2メートル近くある巨大女性の巨乳とそのシルエットは豊満女性フェチを培養するのに十分なキャラクターたりえましたが、そちらは余分なので今回は語りません。

この映画では白波五人男は、以下の俳優がキャスティングされてました。そうそうたる俳優陣です。
森繁久彌(日本駄右衛門)
加東大介(弁天小僧菊之助)
フランキー堺(忠信利平)
有島一郎(赤星十三郎)
花菱アチャコ(南郷力丸)

そう、この映画の五人男の中に最後に口上を述べる南郷力丸こそ映画では花菱アチャコが演じた役どころなのでした。当時からもちろん小林信彦の軽演劇史の著作などで花菱アチャコは横山エンタツと組んだ戦前のしゃべくり漫才のトップスターだった知識はありましたが、実際に生でしゃべる姿を見るのはこの映画が初めてだったかもしれません。それよりもわたしが印象に残ったのは、どういうわけかクレジットには「花菱」という姓は載せず、「アチャコ」のみの記載だったこと。これは最近の名字を省略する芸名、瑛太とか乙葉とか杏とか小雪とか、そういう芸能人たちの先駆的な表記じゃないかな、と思ったりもしました。

あと、アチャコ演ずる力丸〔本作では力松〕の女房役で浪花千栄子が出演しています。2020年秋のNHK連続テレビ小説「おちょやん」で杉咲花が演じた浪花千栄子その人です。戦前戦後の激動期、松竹新喜劇の主宰者の二代目渋谷天外の妻として劇団の屋台骨を支えていた浪花千栄子でしたが、天外は同じ劇団の若手女優と不倫し私生児を出産させたショックで、千栄子は天外のもとを去り芸能界から失踪します。それを呼び戻しNHKラジオドラマ「アチャコ青春手帖」や「お父さんはお人好し」で千栄子を芸能界に復活させたのが花菱アチャコだったというエピソードを2021年5月第1週の今現在放送していますね。
芸能界復帰後の浪花千栄子は日本映画の巨匠たちに重用され、現在に至るまで万人の記憶に残る「大阪弁のうるさい、けったいなおばちゃん」像を求められるまま演じ続けました。浪花千栄子のオロナイン軟膏のホーロー看板は、わたしの幼い時分には街中に多く残っていましたよ。

お笑いって「旬」である現在がいちばん面白いので、過去一世を風靡したどんな演者や演目でも時代が経ってから見直すと古びて感じてしまうというのは仕方が無いのでしょうけれど、現在の吉本興業の漫才史の開祖の位置にある横山エンタツ花菱アチャコの正統派しゃべくり漫才は映像資料で見ておきたいなあと思うのでした。アチャコの弟子が岡八郎でその弟子はオール巨人なので、見事に現在までつながる芸の歴史があるわけでした。(波照間エロマンガ島 2021/5/16)

(寸評)そしてオール巨人の弟子が今やトップ芸人の座についた有吉弘行と。連綿と続いているね。6ポイント。

はじめての夢からの脱出

社会人になってほぼ毎日ひどい悪夢で最悪な気分で目覚めていました。
内容は大体高校時代の嫌な教師に怒られたりクラスメイトに嫌がらせをされたり、部活で大恥をかくとかそんな感じです。(本当に私の高校生活は黒歴史です。)
あまりにも毎日見てると、ついに夢の中でこれは夢だと気づくことができてさらに脱出できるようになりました。
嫌な場面が始まったらまず立ち上がって教室や音楽室の外に出ます。大体何故か廊下とかはなくていきなり外に出されるんですけど、ずっと走り続けてるとゆっくり意識が覚醒してきて目が覚めます。
鬼滅の映画の見過ぎなんじゃないかと言われそうですが、実際これで何度も夢から脱出できました。
でも夢の中とはいえ教師の前や部活など拘束時間中にすぐその場から離れることができるのは、「やる気のないやつは出て行け」とか言われた時に真っ先に立ち上がってどこかに行く冷めた(?)生徒だったからかなとは思います。実は子供のときから鍛錬は始まってたんですね。

ちなみにこの話を思い出したのは、夢からの脱出を身につけた結果、悪夢を見る頻度がかなり減り先日ついに『「布団が血塗れ」の回の友人がエロ自撮りを送ってくる』というハッピースケベな夢を見て、逆に目が覚めた時にがっかりしたからです。(五十嵐アキラ 2021/5/16)

(寸評)俺も夢の中で「これは夢だ」と気づくことあるね。
そんな時は女性を出して下着の中に手を・・・ムニャムニャ。4ポイント。

初めての9P

某ハプニングバーでの出来事。
ある男性に声をかけられました。
「ねえ、一緒にやらない?」
そういうと、一人の女性に男が数名。
乱交していたのです。
お誘いを受けて答えはOK
さっそくチンコを握ってもらいました。
気持ちよかったのですが、なかなかいけません。
しばらくして席を離れ、お酒をあおっていました。

えっ?挿入?できないできない・・・(カルロスイベリコ豚 2021/5/16)

(寸評)9人とはスゴい。お尻とかだけだと男か女か判別できないんじゃ? 6ポイント。

はじめてのベリーショート

人生の節目ごとに髪型が結構変わってきたんですが、初めてベリーショートにしたのは社会人になってからでした。
きっかけは同期の男子と純粋な友情を育んだつもりが飲み会で発情されて一線は越えなかったものの、それがきっかけで彼氏と凄まじい修羅場になったことです。女性でいるのが嫌になってしまいましたし、異性に好意を持たれるのが怖くなってしまいました。
こういう感じにしたいというかとにかく髪を切りたい という気持ちで美容院に行ったので、美容師さんに「とにかく短くしてください」と100回は言いました。
人生で一番髪を切って外に出たときは、あまりにも世界が輝いて見えてなんとも言えない気持ちよさでした。あと別に何も解決してないのに心が軽かったです。
家に帰ると更に魔が刺して顔の横の部分の髪を刈り上げました。

今まで恋愛や就活、また社会人になって間もないからという理由で着たくもない服や一般的な髪型にこだわってきましたが、初めて自分のために髪型を選んだので自分が凄まじいイケメンに見えてきました。
しかし、次の日から私を待ち受けていたのは残念な現実でした。

・職場のおっさんに「何があったんだ」と言われる。
・職場のおばさんに「ちゃんとした髪型にしろ」と言われる。
・彼氏に「流石にそこまでショートだと親に会わせられない」と言われる。
・自分の親に「そんな髪型で彼氏が許すのか」と言われる。
・例の同期の男子に「出家したのか」と言われる。(お前がしろ)

流石にへこみました。 しかし、ベリーショートはなんといってもシャンプーやドライヤーが楽です。
一度この快適さを覚えたら病みつきになり、以前より基本形がかなり短くなり髪が肩につくことはほぼなくなりました。切った瞬間世界が輝いて見えるのも最高です。それに周りにどう言われようがショートのほうが似合ってると思いました。
あれから2年が経ち、こないだ結構がっつり切ったので周りの反応が不安ではありましたが、ショートヘアが定着したのかもう誰も何も言って来なくなりました。多分彼氏も実家にあげてくれることでしょう。

職場の人の反応で嬉しかったこともあります。
職場のおばさんの中でも優しい人は「どんな髪型も似合うからいいな」と言ってくれたり、おじさんで前の部署にいた頃私に対する当たりが異常に厳しいがいたんですが、意外とベリーショートに対しては肯定的でしかも唯一「お前髪色もちょっといじっただろ」と言ってきたことです。(怒ってる感じではないです)髪色は彼氏も親も気づかなかったので、びっくりしました。

ちなみに今彼氏が「女性みたいな髪型」を目指して髪伸ばし中なんですが、彼の実家の両親やおばあちゃんからの当たりがあまりに強すぎて流石にかわいそうに思ってます。(五十嵐アキラ 21/5/3)

(寸評)俺がかわいいと思うのもたいていショート。一番苦手なのがキャバクラ嬢のようなゴテゴテの髪型。まぁ、それは人の好き好きだから良い悪いではないけれど。
ショートが好きなのは自分と親近感があるからかもしれないなー。6ポイント。

生まれて初めて飲んだ、コカ・コーラ350ミリリットル缶

波照間エロマンガ島〔1962年東京都生まれ〕です。わたしが生まれて初めてコカ・コーラ350ミリリットル缶を飲んだのは、1973年8月に家族旅行で訪れた広島県の宮島でした。
何故細かく記憶しているかというと、首都圏で生まれ育ち、それまで西日本へ旅行したことがほとんどなかった私は、コカ・コーラは首都圏では190ミリリットルのビンタイプと同じく500ミリリットルのホームサイズのビン、そして250ミリリットルの缶の3種類のみ製造されていて、それらを飲んでいたことを理解していました。当時首都圏のコカ・コーラは富士コカ・コーラボトリング株式会社で製造されていて、1973年の時点ではコカ・コーラは上記の3種類のみ販売されていることを社会科学習などで知識としてもっていたからです。神奈川県海老名市の東名高速近くに大きなコカ・コーラ工場があったことを覚えています。

そして広島旅行へ行ったときに宮島の売店にコカ・コーラの350ミリリットル缶が売られていて、ひどく驚いたのでした。広島地区は山陽コカ・コーラボトリング株式会社がコカ・コーラの製造販売を引き受けていて、この会社ではまだ東日本では製造されてなかったコカ・コーラの350ミリリットル缶を作っていたというわけです。初めて飲む350ミリリットル缶は、小学5年生の児童にとっては量が多めで、お腹がだぶついてしまった記憶があります。

関東圏でも350ミリリットル缶が販売されるようになったのは、1970年代後半に入ってからだったような記憶があります。そんな生まれて初めて飲んだ、コカ・コーラ350ミリリットル缶の話。*細部に間違いがあったらごめんなさい。(波照間エロマンガ島 21/5/3)

(寸評)昔は缶ジュースといえば250ミリリットルでほぼ統一されてたよね。野菜ジュースなどは除いて。
初めて350ミリリットル缶が出た時は「でけえっ!!」と思ったよな〜。ひとりで飲むには多すぎ、シェアして飲むには少なすぎといった感じ。でもいつしか350ミリリットル缶の方がベーシックになっていった。
昔より今の人の方が「ちょうどいい量」というのが増えたのかな。6ポイント。

初めての「榎さんのお昼だよ~!」TBSラジオ〔1978年8月〕

1978年8月、高校1年の夏休み。バスケットボール部の夏合宿の昼休みの時間のことでした。
同じ学年の部員仲間の誰かがトランジスタラジオをもってきていて、流れる音声が耳に入ってきました。その番組のパーソナリティーは落語家のような口跡で、一度聴いただけで声色を覚えてしまう魅力的な語り口をもっていました。その人の名は榎本勝起〔えのもと・かつおき〕。当時TBSラジオの看板アナウンサーでした。この「榎さんのお昼だよ~!」は1972年4月から1978年9月まで放送し、この番組の終了直後の1978年10月からは朝の時間帯に移動し「榎さんのおはようさん〜!」としてなんと1998年4月まで19年半に渡ってTBSラジオ朝の長寿番組として存続し続けました。そして1929年生まれの榎本さんは、91歳になる現在もかくしゃくとして講演活動など続けているそうです。

わたしが好きだったコーナーは、「榎さんのおはようさん~!」までずーっと続いていた「スピードクイズ」というコーナー。1分間のあいだに矢継ぎ早に榎本さんがあらゆるジャンルのクイズを出題し、電話回線をつないだリスナーの解答者が答えるというもの。バスケット部の仲間同士盛り上がってね、このコーナーをいつも聞きながらみんなで解答していたの覚えてますよ。楽しかった。

そんな初めての榎さんラジオ体験。(波照間エロマンガ島 21/5/3)

(寸評)ラジオって気づくと「あれ、この人って俺たちが子供の頃からずっといるよね?」という人いるよねー。5ポイント。

初めての冬の会津若松、ジモティードライバーの運転術に驚嘆

こんにちは、波照間エロマンガ島です。今から30年近く前、1993年頃の話です。当時つきあっていた女性の大学時代の友人が福島県会津若松市に住んでいて、遊びに行くことになりました。時期は2月頃。1年でいちばん寒い時候でした。
上野から東北線の在来線を乗り継ぎ、ひたすら普通列車で北へ向かいます。そして郡山で磐越西線に乗り換え、内陸部に入っていきました。郡山までは雪はまったくなかったのですが、会津に向かう途中で車窓からの風景は一変しみるみる雪景色になっていき、会津若松に到着したときには雪国そのものの光景でした。
まさかこれほど雪が積もっているとは思いませんでした。普通のスニーカーだったのですぐさま靴の中はびしょぬれになってしまい、旅館でゴム長靴を借りました。このゴム長、裏側がスパイクになっていて滑らないようにできていてプチ感動しました。 会津在住の女の子と合流すると、彼女の運転であちこち連れて行ってもらいました。彼女の運転がこの旅行でいちばん印象に残っています。チェーンはつけずスパイクタイヤだったのですが、かなりスピードを出して走るんですね。そして早めに減速して雪道を滑るようにブレーキもかけずに疾走するんです。で、ぎりぎり時速5キロくらいの徐行状態になって初めてフットブレーキを踏む、みたいな。雪国のドライビングテクニックを初めて体験しましたね。はじめは吃驚したけど、じきに慣れていきました。

近くの温泉や郷土料理、鶴ヶ城、そして彼女の運転などが印象に残った旅でした。あ、今思い出しましたが、夏の会津は1984年に家族旅行で行ったことがありました。(波照間エロマンガ島 21/5/3)

(寸評)会津はたまで「少年サンデー」のグラビア撮影で行ったな。
夜遅くまで撮影してへとへとになってホテルに着いたら、もうホテルの人は誰もいなくて晩御飯というか夜食というかが置いてあったのだけど、それが全部揚げ物でさすがにみんなウエーッとなったという思い出。5ポイント。

初めてチャットバーウキュピで名指しで誹謗中傷を受ける



こんにちは、波照間エロマンガ島です。
2021年4月20日のこと、チャットバーウキュピで上記の書き込みを発見しました。わたしはこういうのを看過できない性分なのでネタ投稿いたします。

波照間またアホの様に投稿しているな
空気読めばいいのに

宇宙のどこかさん、ありがとうございます。そしてこのコメントに対して一言二言。
「空気は読むものではありません、呼吸するためのものです」〔「凪のお暇」より〕
「嫌なら読まないでください」

以上。(波照間エロマンガ島 21/5/3)

(寸評)このホームページは人は代われど「アホの様に投稿する人」がいるから継続してる。
それがなければ毎日更新は無理。
アホの様に投稿する人、大好き、大歓迎。
この言葉を褒め言葉として、今後も投稿よろしくお願い致しま〜す! 6ポイント。

はじめてのロングトーン

私は今年で賃貸住宅歴7年になります。
学生の時のアパートは隣の人のいびきが聞こえてきたり、社会人一年目は上の人の足音で早朝に起こされ睡眠不足になって精神科送りになるなど、いろんな騒音問題がありました。
上の人も何度か変わり、私より年下の女の人が引っ越してきました。挨拶で地元のお菓子を持ってきてくれましたがめちゃくちゃ美味しかったです。
ただ引っ越してきてしばらくして、スマホを床に直置きしてることが判明しました。土曜日の6時にバイブ音で叩き起こされたからです。恐らくベッドではなく床に布団を敷いてるのかなと思いました。そのことは翌日に注意しに行って解決しました。
そしてつい一昨日の夜11時ごろ上の階からついに屁の音がしました。高い音でロングトーン気味に2回してました。結構はっきり聞こえたので他の物音と間違えたとかではないと思います。
未だに思い出すと笑ってしまうんですけど、ア◎ルをしっかり床に密着させてたんだなーというのと、妹以外に若い女性の屁を聞いたことがなかったのでなんか感慨深かったです。あ、そういうフェチではないです。(五十嵐アキラ 21/4/18)

(寸評)俺もアパート時代はいろんな音や声を聞いたな〜。色っぽいものも、きったないものも。
結婚後は一戸建ての家を借りてるので、生活音はほとんど聞こえなくなったね。6ポイント。

はじめてのカラーで掲載

社会人になってから、若手という理由だけで勝手に地方新聞のモデルにされることが何度かあったんですが、昨年は初めて自撮りが掲載されました。
というのも、コロナ真っ只中で地方新聞はネタがなくなりみんなのコロナ禍の過ごし方を取り上げる「私の巣ごもり」という特集が急遽組まれることになってしまい、まさかの町内代表に抜擢されてしまったのです。
私のコロナ禍の過ごし方は、某極道アクションゲームと某シューティングゲームで殺戮を繰り広げており、シューティングの方はオンライン上のバトルロイヤルで度々一位も獲得するという内容でした。実際そのときはストレスも溜まってて時間も忘れて明け方までプレイしまくったり、やたら調子がよかったです。
「記事の写真をどうするか」という話になり、職場にゲーム機を持ってくるわけにもいかず自撮りを送ることになってしまいました。しかも結構いろんなパターンを送らされました。
普段そこまで写真も多くないのに、なぜか私の記事がかなり大きく名前も年齢も職場もガッツリしかもカラーで掲載されてしまい、その日は一日中ラインが鳴り止みませんでした。
中には「是非ウチの子供とゲームをやってほしい」という話まで。いざやってみると、プレッシャーが凄まじくてめちゃくちゃ調子が悪かったうえに、全然子供のほうが強くてゲームチャンピオンだとかラインで言われたのが恥ずかしくなってきました。
さらに町長から町内の学校の部活動でeスポーツ部を作る話まで出始めました。(今のところは話が出ただけで進展はないようです。)
一番恥ずかしかったのは、彼氏の友達が「これってお前の彼女か?」と彼氏に連絡をよこしたことです。(その人とは会ったこともないし私の顔も知らないです。)
その後、記者が異動になりモデルにされる機会もなぜかかなり減りましたが、とりあえず知り合いにはウケて(?)まあ良かったと言うことにしておきます…。


一応シューティングの実際の画面もお送りします。問題なければ掲載してください。(五十嵐アキラ 21/4/18)

(寸評)おー、その地方ではアイドルなのかも? デビュー曲出たら教えてください(笑)。6ポイント。

初めてのサウスポー

先日運動公園へ行った時のこと。キャッチボールをしようということになったのですが、右前腕のどこかの起始が痛くて、まあ回復期かなあという気がしてきたので、何気に左で投げることにしました。

なななんと、まあまあの感じで投げられるじゃないですか、そりゃスピードボールやサイドスロー、アンダースローは無理なものの、女の子投げ(女子やキャッチボールをしたことがない人に多く見られる腕を押し出して投げてしまう投法)でもなく、いい感じでキャッチボールできます。サウスポーはその希少性と戦略的価値から、どこのチームでも欲しがるものです。最近増えてきた左打者や、一塁を見られるために盗塁対策に有効なんですね。

キャッチボールの相手に聞いたら「フォームはそんなに悪くない」とのこと。小学生のころ好奇心で左で投げたことがあったのですが見事な女の子投げで・・・。なんで今になって投げられるようになったのか? もっと早く試していたら今年のドラフト候補になっていたのに。

もともとスイッチヒッターなので、今度履歴書に「左右投げ、左右打ち」と書こうかしら。(わいわい 21/4/18)

(寸評)へ〜、子供の頃に逆で投げてみたことあるけど、やっぱりヘロヘロでお話にならなかった。
歳を取ったら意外といけるのか!? 6ポイント。

初めてのコロナ下でのサークル新歓

菊タローさんの言葉を借りるなら「ひとりであっはっはー」インターネット老人会に属すると思われ、見たところ数人しか学生・生徒はいないとみられるものの、そもそも石川さんがマイノリティの親分なので、その人のために書いちゃいます。それ以外の方は「ああ大学の時はこんな感じだったなあ」「コロナ下ではこうなのか」と感慨深げに読んでくだされば幸です。

新歓、新勧、サークル新歓(以下、全て新歓)は、一年の大学生活で非常に重要なイベントであります。新歓は新一年生のこれからの学生生活の根幹が決まるといっても過言ではなく、在校生にとっては一年間の運営方針や「どんな一年生が入るのかな」とわくわく的はあはあ的行事なのです。

通常期であれば、新一年生をめがけて、サークル勧誘員がチラシやフライヤーをもって突撃し、かわいい子にはリア充サークルが、体躯のいい人には体育会系が、オタクっぽい人にはオタクサークルが声を掛けまくります。どのサークルもチラシ配りやブースには「かっこいい先輩」「かわいらしい女子」「コミュ力があり人見知りをしない性格」を配置し万全の態勢で挑みます。

既にツイッターなどをフォローし入るサークルを決めている人もいれば、どこにしようかなあとうろうろしている子もいるし、兼サーでももちろんOKなのでどんどん声を掛けます。コツは新一年生に配られているキャンパスバックですね。その人に声をかけるのが鉄則です。ちょっと美人の子なんか手に持ちきれない程のチラシを配られ、ブースに勧誘され、目的の教室に中々辿り着かないということが多々あります。

・・・ところがこのコロナ下では、昨年はほとんどの大学で新歓は中止。今年は大学によってかなり異なると思うのですが、
・リモートで開催
・チラシ配り禁止
・教室や場所を変えて実施
・期間短縮

など昨年より改善されたものの、今年もすこし残念な結果となりました。
10日間、ガイダンスや説明会やオリエンテーションやTOEICや健康診断や奨学金や資格取得説明会・・・それが最小限を除いてリモートとなり、対面は半分くらいに短縮されました。
でもここまでの新歓実行委員会の努力で開催できたことに感謝しなくてはいけません。どれだけミーティングを重ね、大学側と折衝し、多くの時間努力をしてくれたことか・・・。

大学によっては駅から校門までずらっとサークル勧誘の人がいたとか聞きますが、今年はそうもいかなかったんでしょうね。 セレクションを行う体育会系や公認サークルはともかく、インカレや非公認サークルはどうしたのか、少し気になりました。(わいわい 21/4/18)

(寸評)この状況、ミュージシャンのライブハウスとほぼ同じ。違うのは、ミュージシャンやライブハウスはそれが収入の源の仕事ということだ...。6ポイント。

初めてのチーズフォンデュ

わたしが初めてチーズフォンデュを食べたのは1985年春のヨーロッパ旅行時、スイスのチューリッヒにて、でした。ガイドブック片手に友人たちと有名レストランに足を運びました。わたしは恥ずかしながらそれまでチーズフォンデュの名前も聞いたことがなくまったくピンときませんでしたが、まわりが盛り上がっているので、知ったかぶりをして便乗し同行することにしたのでした。
チーズフォンデュとは、もともとはアルプス地方で生まれた家庭料理、郷土料理で、チーズを白ワインで溶かしてぐづぐつ煮込んだ鍋に一口パンを刺したシルバーの串を鍋に入れチーズを巻き取って食べる料理。これが美味しかったー。しかし、鍋の直上はワインの蒸気が漂っているので、それだけで酔っ払ってしまうのが難点でした。
ちなみにおバカエピソードとしては、私たち4〜5人のグループは全員チーズフォンデュ初心者だったので注文する際知ったかぶりをしてしまい、チーズフォンデュに加えミートフォンデュも一緒に注文してしまったのでした。こちらは記憶している限りにおいてはフォンデュ鍋に串刺しの肉をつけてタレにつけて食べるというもの。似た料理を2種類注文したので、お腹いっぱいになり最後は皆へばってしまいました。

そんな初めてのチーズフォンデュを食べたときの思い出。(波照間エロマンガ島 21/4/18)

(寸評)俺もスイスでチーズフォンデュ食べたことあるな。チョコレートフォンデュというのも最近多いよね。ミートフォンデュは知らないなあ。タレがひき肉なのかと思った。5ポイント。

初めての円環的時間観と直線的時間観の違いを体感した瞬間

波照間エロマンガ島、58歳です。タイの日系企業でサラリーマンをしています。
唐突ですが、私が初めて円環的時間観と直線的時間観の違いを体感した瞬間は、大学を卒業して企業に就職して1年ほど経った頃でした。時間の仕組みについていろいろ過去の出来事と現在の出来事から考察している中で、「あ、わかった!!」と電撃に打たれたように時間についての仕組みを体感して理解してしまった一刹那の出来事でした。

それはどういうことかというと、学校に入学して卒業〔中退〕し労働をはじめるまでのいわゆる「学生時代」は、幼稚園、小学校、中学校、高校、そして大学もしくは専門学校と、それぞれの入学時と卒業時が年月日で区切ることのできる直線的時間が流れています。入学し決められた年月を過ごすと卒業を迎えます。スタートがあってゴールがあるという直線的時間。
それに対して学生時代を終え社会人になると、そこには円環的時間が流れていることに気づいたのです。たとえば会社に入社して退職するまでの期間というのは、かつての日本的な時間観においては終身雇用制という直線的時間観が流れていたと思うのですが、日本式労働生産モデルが崩壊しはじめた30数年前では、終身雇用制で定年まで同じ会社で生きられると想像している人は減少しており、否応なしに今の生活がいつまで続くのかは未定であり、始まりはあるが終わりについては答えを保留するという、諦念のような気持ちで生きている人が多いのではないかと思いました。
しかもそれは、地球が日々自転しながら公転する天体の運行と同期していて、繰り返しの季節変わりの円環的時間観に内包されていることにとつぜん気づいたのでした。それは西洋のキリスト教社会の聖書解釈における、始まりがあって終末があるという直線的な時間観ではありません。どちらかというとアジアの仏教的な価値観であるところの、世界は普遍な存在であり生々流転、つれづれに自分の生は流れていくという、始まりと終わりの存在のない、永遠に円環として時が続く時間観であることを。

わたしはそのとき高校時代の、時間に関して感じた出来事の記憶を同時に思い出しました。
それは1年の夏休みに補習で登校したときのことです。ある生徒が休み時間にクラスの中でイキっている姿を見て感じたのです。「どうしてあいつはこの高校に来て1年も経ってないのに、この学校に何十年もいるベテランのような現れ方をしているんだろう。なぜ初心者のように振舞わないのだろう。不思議だな」と。それはもしかしたら彼は円環的時間観の中を生きているのではないか、と無意識に感じたのかもしれません。

始業時間になり教室に入ってきた教師についても違和感を持ちました。教師はふつうに講義を始めたのですが、彼は一見生徒に寄り添って授業しているように見えているが、実はまったくそんなことはなく、自分の〔そのときはわかりませんでしたが円環的時間観の中での〕人生の時間をただ生きているだけではないか、と直感してしまったのです。
しかし両者は同じ時間を過ごしているにも関わらず、生徒にとっては卒業に向かって直線的に流れている時間の一瞬を生きており、教師にとっては自分の繰り返し繰り返し行き過ぎる人生時間を生きていることに思い当たったのでした。「そうだ、だから教師と生徒は基本的にわかりあうことはないんだー!」と社会人2年生のわたしは、おおげさですが世界の真理を発見したことの歓びに打ち震えましたね。まったく根拠はありませんが〔苦笑〕。

そのときの体験はたまに思い出してはいたのですが、今まで文章に書いたことはありませんでした。尻つぼみになってしまいましたが、そんな時間に関する感覚についての話でした。こういうことに興味をもって58年間生きてきたおっさんの繰言ですた。(波照間エロマンガ島 21/4/18)

(寸評)むむ・・・なかなか難しい命題だね。とりあえずミュージシャンには一見終わりはないが、体や心が使えなくなったらおしまい。あ、でもそれは普通に就職していてもそうか...。6ポイント。

初めての遺体収納袋

首都圏に生まれ育ち、13歳から45歳まで間断なく電車通学通勤をしていたので、駅で人身事故に遭遇したことはあります。けれども無意識的に脳内の記憶忘却装置が働くからでしょうか、それがいつどこでどんな状況だったかということについては記憶は曖昧になっています。あまり言葉にするのは憚られますが、バラバラに轢断された人体のパーツを駅員さんたちが共同で拾い集めて遺体収納袋に入れる瞬間を駅のプラットホームの離れた場所から見たような記憶があります。ショックでした。たぶん学生だった自分は「こんな過酷な仕事はないな、ひと様の生き死にまで扱う労働は俺にはできない」と思いました。後年鉄道関係に勤める友人と知り合い、彼からいろいろな鉄道こぼれ話を聞きましたが、鉄道会社に勤めるだけでたくさんの人生に関わるわけだから、それだけ多様なエピソードはあることに感心しました。そんな初めての遺体収納袋について。(波照間エロマンガ島21/4/18)

(寸評)その仕事や、実際に轢いてしまった運転士たちには心の傷から別の部署に配属希望や場合によっては退職してしまう人もいるそうな。それだけショッキングな光景なんだろうね。
ある礫死体には頭が無くて、いくら探しても見つからないのでどうなってるんだと思ったら、首の中に逆に埋まっていたらしい...。6ポイント。

初めての最大級目まいで死を意識する

タイ在住の波照間エロマンガ島です。つい2日前のことです。
いつものように睡眠が浅く未明に中途覚醒すると、今までの人生で最大級の目まいを体験。立ってられないほどのぐるぐる感。ふだんの目まいは小さい円周なのですが、今回はぐるぐるの円周が大きい感じ。その瞬間、いよいよその時(末期・まつご)が来たか、とわたしは観念しましたね。でもってどうにも動けないのでベッドにうつ伏せになってまどろんでいると、夜が明ける頃には目まいは解消していました。
朝になるとすっかり目まいの症状は治まっていました。
思い当たるふしとして数日前病院の定期検査で、もろもろ数値がよくなってきたので薬の量を変えたのが良くなかったのかもと考えたしだい。
いちおうまだ様子見ですが、またひどい目まいが起きたらすぐに病院に行こうと思っております。
わたしはたぶん長生きできないのではないか、と最近よく考えます。まぁ運悪く逝ってしまったらまわりまわって誰かが情報を流すでしょうから、そのときは皆様に挨拶できないけど死の通知だけは誰かがしてくれるでしょう。皆さん、これまでありがとうございました。そんな初めての、最大級の目まい症状でいっしゅん死を意識したの巻きでした。(波照間エロマンガ島 2021/3/29)

(寸評)わー。でも考えちゃうよね。特に外国でのひとり暮らしだと。
俺も去年のパスカルズ三木さんの突然死とかを知っちゃうと、そういうことも起きる年齢なのだなと。
お互いなるべく気をつけることしかできないけど、もしそうなったら最近は「あっちにも友達いるもんな」と思うようにしてる...。6ポイント。

初めてのFANZAでビデオ購入

某動画サイトにアップロードされてたエロ動画。
残念ながら消えてしまいましたが、それでも見たいということで調べるとFANZAにあった!
という訳で購入しました。
内容は黒ギャルが田舎男子を逆ナンして青姦するというもの。
ひさびさの名作でした!
その後も違法で見ていたものを少しずつ買っていきました。
あの頃やった違法行為も少しは罪滅ぼしになるでしょう・・・(カルロスイベリコ豚 2021/3/29)

(寸評)FANZAって知らなかったので調べてみた。アダルト販売サイトなのねー。
俺はずっと無料のしか使ってない〜。6ポイント。

初めてのスクリュードライバー

・・・といってもプロレス技ではありません。カクテルの名前です。
某風俗店。そこは、待合室でお酒を出してくれました。
そこで私は、おいしそうだなと思い、変わった名前のスクリュードライバーを注文しました。
中身はウォッカとオレンジジュースのカクテル。
結果はおいしい!ついお替りしてしまいました。

そして今、マンガ喫茶でスクリュードライバーを飲みましたが、バヤリーズみたいな無果汁味でちょっと拍子抜けです。(カルロスイベリコ豚 2021/3/29)

(寸評)俺も若い時はそんなカクテルを飲んだこともあったな。最近はシンプルに焼酎が多い。5ポイント。

初めて低緯度熱帯の国に住んでみようと思った動機付け

こんにちは、波照間エロマンガ島です。わたしは2008年3月、45歳のときに日本を出てタイに移住しました。今回は南の国に移住するという行動を起こしたそもそもの動機付けについて書こうと思います。

最初に「動機付け」とは「モチベーション」とも言い、行動を始発させ目標に向かって維持・調整する過程・機能のことを言います。動機付けは人間を含めた動物の行動の原因であり、行動の方向性を定める要因と行動の程度を定める要因に分類できます。

それは1979年、高校2年生の頃でした。岩波文庫でポール・ゴーギャンの『ノアノア』という書物を手にとり読んだところ想像した以上に面白く、その世界にはまり込んでしまいました。

ゴーギャンは19世紀半ばにフランスに生まれた画家ですが、10代の頃は水兵として世界中をまわり、海軍で働いた後パリに戻りました。20代はパリで株式仲買人の職につき家族も持ちますが、はじめは余暇に絵を描きはじめたのをきっかけに当時新興の印象派の芸術家たちと交友を持つうちに、しだいに画業を趣味から本業として考えるようになります。1876年初めてサロンに入選。そして決定的だったのは1882年、パリの株式市場が大暴落して職を失ったことが画業に入ったきっかけのようです。その後、パリを離れ妻の実家のあるコペンハーゲンへ引っ越したり、有名なゴッホとの9ヶ月間の共同生活、パナマでの生活などを経て、1890年代から2度にわたってタヒチに生活します。そこで描いた作品には現在まで残る傑作が多く残されています。タヒチで出会った現地の人々の宗教的儀礼やヨーロッパ社会から見た異国情緒〔オリエンタリズム〕を感じるさまざまな風習などをメモしたエッセイが『ノアノア』という書物だったのです。タヒチの女性の死への恐怖をプリミティブなタッチで表現した『Nevermore〔もはやなし〕』は特に印象に残る作品でした。

ほぼ同時期、NHK総合テレビで毎日夕方6時30分頃に放送していた『プリンプリン物語』という人形劇がありました。主人公のプリンプリンが、まだ見ぬ故郷を仲間たちと一緒に目指して世界中を旅する物語です。わたくしこちらにもはまり、よく視聴していました。その初期シリーズに「オサラムームー編」というのがありました。南の島が舞台で、のんびりゆったりした南洋の小島で起こる騒動は私にいつか南の島に住んでみたいなと思わせる動機付けとなりました。

ポール・ゴーギャン「ノアノア」と「プリンプリン物語」から約20年後の2001年、わたしは初めて友人が住むタイのバンコクを訪れました。そこは南の島の楽園ではありませんでしたが、気候は良く、1年中半袖に短パンで過ごすことのできる熱帯の国でした。わたしはタイにはまりそして7年後の2008年にはこの国に移り住み、さらにそこから13年経ち、現在に至ります。その遠い動機付けの遠因にあるのは、ゴーギャンとプリンプリンだった気がするのです。(波照間エロマンガ島 2021/3/29)

(寸評)俺はなんで南国に憧れたんだったっけなー。はっきりしたものというより、とにかくグータラしててもよさそうな場所を探していたような気がする。早くチェンマイ行きたい。6ポイント。

初めての不思議の国のアリス症候群

ついさっきのことです。自分が2〜3歳の幼い頃よく感じていた身体的な現象の名前が判明しました。それは「不思議の国のアリス症候群」といいます。これは知覚された外界のものの大きさや自分の体の大きさが通常とは異なって感じられることを主症状とし、様々な主観的なイメージの変容を引き起こす症候群とのこと。

わたしは幼い頃、ふとしたきっかけで視界の対象物が小さく見え通常とは異なって感じられてしまい、「小さい、小さくなった」とよくつぶやいたことを覚えています。それは数十秒あるいは数分で解消されるのですが、ふだん認識している人や物〔覚えているのは母親や家具など〕の大きさが小さく感じられて、イメージと実際とのあいだに齟齬を感じてしまったのです。毎回その違和感はめまいのような不快感を伴っていました。

実際に典型的な症状は、眼に障害がなく外界が通常と同じように見えていると考えられるにもかかわらず、一方では主観的にそれらが通常よりも極めて小さな、または大きなものになったように感じられたり、ずっと遠く、あるいは近くにあるように感じられたりするとの由。眼に障害があるわけではなく、脳の認識についての症状のようです。名前の由来はルイス・キャロルの児童文学「不思議の国のアリス」の中でアリスが薬を飲んで大きくなったり小さくなったりすることから精神科医が名付けたそうです。

わたしの乳幼児期の体験を覚えているのも不思議な話ですが、わたしにとってはなぜか忘れられない記憶として残っており、そのことが上記の名前のついた症候群と学術的に発表されていることにはとても驚きました。もちろんそれが真実かどうかはわかりませんが、幼少時のことを退行催眠などで探究すると想像以上にいろいろなことが意識下から掬いだされるかもしれないな、と思いました。(波照間エロマンガ島 21/3/13)

(寸評)大きくなってからはないのかな?自分の魔羅が異常に大きく見えてほくそ笑むとか...。6ポイント。

布団が血塗れ

先日、こんなご時世ではありますが県境を超えて友人に会ってきました。(一応宣言解除地域です。)自宅から集合場所まで車で四時間かかるので中間地点でホテルを取りました。
友人は色が白くてなんとなく椎名林檎さんに似てるけど清楚系で、はっきり言って私のどタイプです。
二人で飲食店に入り彼女がスマホを取り出し「最近出会い系アプリを始めた」といきなり話したので私は耳を疑いました。
しかもそれは出会い系の中でも特に遊び目的で使う人間が多いと言われているものでした。そのうえ画面も見せてくれたのですがもう何人かとはマッチしておりDMのやりとりをしてる様子。
「そんなアプリやってる男にいい人なんてほとんどいないからやめた方がいい」と伝えると、 「いや、ただ友達が欲しくてやってるだけ。」とのこと。嘘つけと心の中で叫びました。そのあと「まあ彼氏ができたら嬉しいけど」と続けてましたが…。
また最近彼女は""男友達""の影響で写真を撮るのが趣味になったらしく、私のことを被写体にしてみたり""男友達""の話を少ししたりしました。

他の友人も何人かはその手のアプリで彼氏を作っては失敗していましたが、彼女からその言葉が出たときは流石に受け止め方がかなり違いました。謎の怒りと、悔しさというか、悲しいというか。
本人の前では取り繕っていましたがホテルまで帰る途中で落ち込みすぎてアクセルを踏む足に力が入らなくなって無駄にPAに長居してるときに音楽が「赤ずきんちゃん御用心」の吉井和哉さんが歌ってるヤツに変わって、なんか胸が痛くなりました。

そのあとなんとかホテルに着いて一人で落ち込みながらビールを飲んでたら、インスタグラムで彼女の""男友達""のアカウントをつい見てしまいました。""男友達""が撮影したという彼女のめっちゃ可愛い写真を見ていると怒りとムラムラが同時にものすごい勢いで込み上げてきて、一時間くらい狂ったようにオナニーしてたら布団が血塗れになりました。ア●ホテルはもう出禁ですね。本当ごめんなさい。
自分の性癖(NTR?)と内に秘められた性欲の強さにびっくりした1日でした。
彼女のことは本当に、本当に友達だと思ってるんですけど本人にこの投稿を見られたら私は恥ずかしくて耐えられないでしょう…。

(一応、初めて要素を伝えると①社会人になってから一時間もオナニーしたこと②女の子の日でもないのに血が出るほどオナニーしたこと③友達をオカズにしたこと です。)
(あと私はバイセクシャルの女です…。)(五十嵐アキラ 21/3/13)

(寸評)ほへー、血が出るほどとはすごいね。男でも女でも友達でもイケるのもすごい。
全方位にオナニーできるって幸せだと思うよん。9ポイント。

初めて髪を結ぶ

小さい時なんでも目がクリっとしていて女の子みたいだったらしく、わたしの髪の毛を結んでは楽しんでいた、と両親が笑いながら話してくれたことがあります。

ワタクシはどこかで書いたと思うのですがカットモデルをしていて、そのためある程度髪を伸ばしているのですが、このコロナ禍のためモデルも出来ず、髪の毛を放置していました。9か月をすぎたころからだんだんうっとおしくなり、かといってお金を出して髪を切るのもしゃくなので伸ばしていたのですが、なにかと不自由になってきたので当初バンダナをしていたもののあまりよろしくなく、女の子みたいに髪の毛をゴムバンドで後ろで縛るようにしました。
大人になってからは初めての、そのレポートです。

1・湯船に入る時必要
日帰り温泉やスーパー銭湯では「髪を束ねてください」と女子風呂には掲示されていると思われます。それと同じですね。頭を洗う時以外、湯船に入る時は髪を結ぶようにしました。

2・車の運転時
女子はオープンカーが嫌いと言います。日に焼けるから、ほこりをかぶるから、の他に髪形が崩れるから、と聞きました。窓を開けて運転すると、髪形はどうでもいいのですが、風邪で髪が前でぱたぱた揺れていて、とにかくうざったいのなんのって。結ぶと解決ですね。

3・ヒゲが剃りずらい
女性はシェーバーで髭をそることはないとおもいますが、髪の毛が耳で隠れさらにその下まで伸びて来ると、めちゃくちゃヒゲをそるのがめんどいのです。それも解決しました。

4・夜は外す
髪の毛を結んだまま寝ると、後頭部が枕と段になってしまい、寝づらいです。それなので私は外しています。またゴムが蒲団の中でどっかへ行ってしまうのを予防することもできます。

5・髪をクシでとかさなくて良くなった
お風呂に入った後や出かける前、これまでよいしょよいしょと髪をとかしていましたが、しなくてよくなりました。これは大いなる発見です。シャンプーやコンデショナー時は櫛を使用しています。

6・顔を洗う時、髪の毛が濡れない

意外と利点が多くて、びっくらしました。(わいわい 21/3/13)

(寸評)俺にはできない技だ。でも坊主頭の利点と似てる! 6ポイント。

初めての茅の輪くぐり@神田明神 〔2006年6月20日、43歳〕



タイ在住の波照間エロマンガ島です。
記憶に残っている限りわたしが初めて「茅の輪くぐり」をしたのは、2006年6月20日。場所は神田明神でした。神社にお参りするのはお正月初詣のときくらいだったので、このときまで知りませんでした。神田御茶ノ水界隈を散歩していてふと神田明神に行き着いて参内したら、このようなものを見つけたのでした。

「茅の輪くぐり」とは古来の神話に由来する神事で、1年に2回、神社では6月と12月の晦日に大祓の神事を行います。半年に1度、身についた穢れや罪障を祓い落とすための行事です。茅の輪くぐりはこの祓えの一環です。
くわしい作法はわかりませんが、この輪をくぐることで身が清められ罪や穢れがリセットされるといいます。わたしは神仏への信仰心は特にありませんが、現世利益な人なので、これでいいことあるならいいかぁ、ってな軽いノリでくぐりました。するとあーら不思議、なんとなく身体が軽くなったような気がしましたよ。もちろん気持ちの問題ですが。

その翌年だったか代々木八幡宮に初詣に行くと、そちらにも茅の輪が供えられていました。そしてくぐることになりました。代々木八幡宮は山手通り沿いに立地する古い神明社で、小田急線代々木八幡駅からも近いです。たしか脚本家で小説家の平岩弓枝さんはここの宮司さんの家系だった記憶があります。実はその日は友人たちと待ち合わせして明治神宮にお参りしようと思ったのですが、原宿駅のところでもう人いきれが超すごいことになっていて気持ちが萎え、神社を換えて近所の代々木八幡宮に初詣したしだい。
そんな茅の輪くぐり初体験の話でした。(波照間エロマンガ島 21/3/13)

(寸評)火の輪をくぐると、もっとハッピーが訪れるかもよ! 5ポイント。

初めて地上26階から……。

波照間エロマンガ島@タイランドです。
わたくし実はここ何ヶ月か、睡眠障害が日を追って酷くなっていました。数年前からこの症状は始まり、意を決して精神科の門を叩き不眠症について相談したこともあるのですが、そこで処方された睡眠導入剤が身体に合わずえらい目にあったので、それ以来薬には頼らず自分の力で睡眠を得るよう努力してきました。しかし、なかなか状況は好転せずに現在に至る、だったのです。最近は乗り鉄系鉄道動画を自動再生しながら睡眠に入ろうと努めていましたがなかなかうまく眠りを拾えず、夜行列車の窓の外の景色の暗闇をじっと凝視して過ごすつらい夜が続くこと。

ある夜のこと、わたしはいつものようにベッドに寝転んで動画サイトの鉄道動画を見ていました。するとある瞬間あることを思いつき、ガバッっと起きあがり短パンとTシャツに着替えると部屋を出ました。そしてマンションの非常階段に行き、部屋のある26階から歩いて1階まで下りることを開始しました。意識ははっきりしていましたが、まるで夢遊病のように階段を下りはじめたのですから、あとから振り返るに自分の思いつきの決断からの行動の速さにちょっと恐怖を感じました。
さて26階というのは調べると高さ95メートルほどあるようで、そこをひたすら地上に向かって下りていったのです。ところがどれだけ下りても地上には着きませんでした。かなり下りたつもりだったのにまだ20階、たった6フロアしか下りていなかったりして、時間と空間の感覚がイメージと実際とで、かなり誤差があることに気づきました。そしてじょじょに階段歩行をつかさどっている身体中の筋肉のふしぶしに負担がかかりはじめ、悲鳴を上げてきたのでした。10フロア下がった16階辺になると心身ともにへたばりそうになりました。けれども気力をふりしぼり下りていきます。そして10階を過ぎ9階、8階、7階とゴールが見えてきてがぜんやる気が起こりました。ところが5階を過ぎたところで異変に気づきました。5階から下のフロアはマンションの駐車場のフロアなので今までの1フロアの高さに2フロア分の階段があり5階の下は4A階、ついで4階、3A階・・・と倍の階段を下りていったのです。すでに階段降り運動は惰性で1階に向かっていましたが、意識がどうしても現実と同期せずにどこか夢見ているようなふらふらした感覚になっていました。そしてようやく1階に到着。私は下りなので楽々できるだろうと甘くみていたのですが、はるかにハードな体験だった、そしてそれをクリアした達成感を静かによろこびました。そしてエレベーターホールに着くとエレベーターに乗り26階の部屋にいっしゅんにして戻り。よほど疲れていたのかそのままベッドに倒れこみ寝落ちしました。そこで今までは睡眠が浅く朝までうたた寝と覚醒をくりかえしていたのに、その日は朝まで眠ることができたのです。わたしは睡眠障害でも身体が疲労すれば眠ることができることを発見したのでした。(波照間エロマンガ島 21/2/26)

(寸評)おおっ、そんな突飛な方法で解決を。エレベーターが壊れてなくて良かったね。7ポイント。

初めてのPCR検査 @タイランド

タイ在住の波照間エロマンガ島です。過日タイ国政府から「無料でコロナPCR検査を受けられますよー」というお知らせが届いたので、早起きして近所の区役所の駐車場に設えた検査場に行ってきました。

検査場に着くと無料だということで、たくさんのタイ国国民が列を作っていました。わたしはバンコクのローカルエリアに住んでいるせいか来ていたのはほとんどすべてタイ人で、外国人は姿を見ませんでした。屋台の食堂で使うようなプラスチックの椅子が野外コンサート会場のようにたくさん並べられていて、そこに受付を済ませた順に前列から座っていきます。受付ではタイ人はIDカードのコピー、外国人はパスポート写真ページのコピーをその場でとり、申込みフォームに記入していきます。名前、住所、年齢、既往症の有無など白衣の係員にあれこれ質問されました。わたしは外国人ということでゆっくりとした英語で質問を受けたのですが、タイ語で質問に答えたので「なんだ、こいつ、タイ語わかるのか」と係員は一転して態度が変わり、申込書のフォームを乱暴に渡してきました。整理番号と記入済みの申込書を手に取ったわたしは検査場の近くの待機用テントに入り、順番を待ちました。

検査の順番はけっこうスムーズに流れていき、あっというまに自分の番になりました。検査はハイラックスの1トントラックの荷台を部屋に改造したような車に仮設の台を置いただけのところ。この車の荷台がどういうわけか日本の宝くじ売り場そっくりの形をしていて、アクリル板に丸い穴が空いていたのにはびっくりしました。部屋の中にはフェイスシールドにマスク、白衣にゴム手袋をした検査技師が座っていて、長い綿棒を水平に伸ばしてわたしの鼻に入れるのです。台に乗ったわたしのほうが中腰の姿勢になって、技師の出した綿棒と同じ高さに鼻の位置を合わせなければならず、それはかなり間抜けな図でした。検査を受けたことのある方ならご存知のとおり、鼻の中かなり奥まで綿棒を入れて「痛い痛い」と声が出る寸前のところで細胞を摂取されました。その時間およそ40秒。
検査を終えると「これで終了です」と別の係員が言って解放されました。あっという間のPCR検査でした。

そして2週間ほど経った昨日、アパートに検査結果を記した手紙が届きました。結果は陰性。ただ結果のシートが数字も含めてすべてタイ語で書かれていたので実際のデータについては理解できませんでした。タイ語を読むことはできるのですが、細かい文字で紙の幅いっぱいにびっしり何やら書かれていたので読む気力をなくし、結局はその手紙を会社に持っていってタイ人スタッフに読んでもらいました。いちおう2021年2月初旬現在陰性だったということを報告してこの項終わります。(波照間エロマンガ島 21/2/26)

(寸評)俺も検査受けて陰性だったけど、諸々で17000円くらいかかった。もっとも宮崎県の県主催のイベントに出る為だったので費用は全額持ってくれたけど。そうじゃなかったら一回17000円は高いなあ。家族5人だったら85000円だもんね。
日本も早くタイのような先進国になってくれ...。6ポイント。

初めての「鬼滅の刃」

波照間エロマンガ島です。先日ようやく2020年話題となったアニメーション「鬼滅の刃」を初めてアニマックスというケーブルテレビチャンネルで視聴しました。
申し訳ありません。最初から画風などと馬が合わず第1回が始まって10分足らず、主人公の炭治郎が炭を売りに家から山を降りてきたところで視聴を中止しました。このあとの展開がどのようなものだとしてもたぶん乗り切れないのだろうな、と気持ちが冷めてしまいそこで視聴を止めました。今後再び観るかどうかはまったくわかりません。マスコミでいろいろ喧伝されているあんなことやそんなことが起こるのだろうかとも想像しますが、それは観ても観なくても自分の人生はそう変わらないだろうと判断したもので。(波照間エロマンガ島 21/2/26)

(寸評)画風が合わないと見られないのよく分かる。昔から少女漫画とかでもギャグ漫画以外は画風に慣れなくて読めなかったし、アニメも観られなかったな。何度か挑戦したんだけどねー。4ポイント。

タイ・チェンマイ郊外で筏くだり初体験〔2009年〕

タイ在住の波照間エロマンガ島です。今から11年前、まだチェンマイの語学学校にてタイ語を学んでいた時分の話です。同級生に象キャンプのスタッフをしている女性がいて、彼女から象キャンプが運営している筏くだりツアーに遊びに来ませんかと誘われ行ってきました。象キャンプというのは基本的に水場の近くにあるので、水量たっぷりの川でこのようなアクティビティーもできるというわけでした。



会場に着くと、川岸に竹でできた筏が係留してありました。一艘につき定員は7〜8人で前と後ろに二人の船頭さんが立ちこぎでお客さんを下流まで連れて行ってくれます。この日は観光客が20人くらいいて3〜4艘の筏で繰り出しました。

(左上)筏が係留しています(中上)象キャンプのトレッキングツアー、象の背中の椅子に乗って散歩します。川を渡ろうとしているところ(右上)わたしたちの筏は日本人団体でしたが、となりの筏はイタリア人の団体で大声で歌を歌ったり、やたらと笑い声を上げたり、少々はた迷惑な、でも気のよさそうな連中でした。
(左下)竹をしばってこんな感じです(中下)船頭さんは少数民族のリス族の人でした。タイ語とは言語形態がまったく異なる「リス語」を話していました。(右下)雨季だったので曇り勝ちで風がそよぎ気持ちよかったです。

小1時間の筏くだりを終えると、近くの食堂で昼食をいただきました。日本人ツアーのお客さんと親しく話し楽しかったです。
今のウイルス騒動が治まったら、また行ってみたいものであります。(波照間エロマンガ島 21/2/26)

(寸評)俺も友達何人かと行ったなあ。ひとりの女の子が見事にイカダから転落して、水中で一回転してた。無事怪我もなかったが、一歩間違えば笑い事では済まされなかったかも。
でも、一度は経験しておいて損はないイベントだったなあ。6ポイント。

初めてのアスキーアート自画像



タイ在住の波照間エロマンガ島です。西暦2000年前後、ネット世界ではアスキーアートというのが流行しました。アスキーアートとはプレーンテキストによる視覚的表現技法のこと。テキストアート、活字アート、絵文字などとも呼ばれしばしばAAと略されます。わたしの記憶では1999年頃2ちゃんねるなどの電子掲示板が世の中に登場したときに、コメント欄には画像を貼ることができなかったのでプレーンテキストで絵文字を作って言外のニュアンスを伝えるため独自に発展していった思い出があります。簡単にコピー&ペイストして利用できるのでプログラムの知識がなくてもすぐにインターネット上に反映することができました。
これは何かのツールを使って自分の写真をアスキーアート化し、スクリーンショットで画像保存したもの。当時ウェブ日記を書いていたのでよくこんな遊びをしていました。懐かしいです。(波照間エロマンガ島 21/2/26)

(寸評)適度に不便な方がアイデアでこういう遊びもできて、それはそれで楽しかったよね〜。6ポイント。


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