ドキドキドキリコ初体験(105)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめてのわたしにはなかった

学生の頃、異常にオナニーに対する好奇心があったので、催眠オナニーとやらを試そうと思い情報を漁っていました。
催眠オナニーというのは、スケベなドラマCDみたいなのを聞いて上級者になるとそれを聞いているだけで体に触らずイクことができるというそれはそれは夢のようなものなのです。

まず、音源を探しました。
イケメン風の男がサムネイルになっている女性向けのものもありましたが、そちらは全く興味が出ず「ロリ姉妹が言葉責めしながらエロいことをしてくる」というものを選びました。
密閉型のイヤホンをつけ、リラックスして音源を再生すると、最初に催眠状態に入るための導入が流れます。レモンの味を想像して唾液が出るのを感じたり、両耳で違う言葉が流れるのを聞いて催眠にかかるのを待ちます。
導入を経て結構感情移入したときに姉妹のどちらかが「おちんちんがこんなに大きくなってる!」と囁いてきました。しかし、わたしにはおちんちんはなかったのです。
それまで確実にそこにいたロリ姉妹は一瞬でどこかへ消えてしまい、散らかった部屋には全裸の私だけが取り残されました。

妥協して男に攻められる音源にしとけばよかったのに、女子に挟まれてイチャイチャするという凄まじい贅沢を望んだ故の失敗でした。ちなみに女子とスケベになりたい気持ちは未だにありますが、キスまでしかしたことはありません。しょぼん。 (五十嵐アキラ 2021/9/11)

(寸評)ちょっと違うかもしれないけど、大きなお尻が映しだされていて、お尻好きの俺は「これはいいわい」とせっせと上下運動していると、カメラが変わった途端、それが相手の男のお尻だとわかった時のしょぼん。
その男の尻、きれい過ぎるんじゃあぁぁぁっ! 7ポイント。

買ったばかりの携帯電話〔ガラケー〕で初めての夢日記〔2007年1月25日、44歳〕

今直前まで見ていた夢、まだ半分寝ている、ユメセカイとゲンジツセカイの両方に身体がいます、ミラノのスカラ座の近くのホテルに宿泊していた私は窓から毛並みのよい猫が部屋に紛れ込んできたのを部屋備えつけの姿見ごしに発見した。私は猫が逃げないようにそぉーっと窓を締めにいった、閉まった。次に猫の写真を撮ろうと思った。マチアルキ用のデイパックからデジカメと携帯をだした。まず携帯電話の写メールでmixiに日記を送ろうと思った、日本のマイミクに今私が現前化している状況を伝えたくなったのだ。そんなことを思いながらソフトバンクの赤い携帯を手に取った、対象を狙ってシャッターを押した、ピロロロロ〜ンという音がした、日本と同じ音だ。でも空気が乾いているミラノは音の響きがよい。猫はクローゼットの工具箱の中に隠れていた。部屋に入ってきたときに「ニャーオ」とアイサツをしたのでもうコミュニケーションは出来ていると思った。猫語にもイタリア語があるのだろうかとふと思った。さていつの間にか私の興味は猫の写真うpよりも猫が隠れていた工具箱のほうに移行しつつあった。おそるおそる私は工具箱を開けた。すると中からホテルの名前が刻印された鉛筆と日本の銭湯で売っている50円のシャンプー(薄いピンク色をした)、それにT字型の安全カミソリがスウホン入っていた。なんですかこれは、前の客が残していった残骸を集めたのだなと直感した、あまり気分のよいものではなかった。気がつくと部屋の中央を占拠していたセミダブルのベッドは無くなり、そこにはエレピが置いてあった。スイッチを入れて弾こうとしたその瞬間、ドアの向こうから声が聞こえた。「○○ちゃーんご飯よぉ〜」なんてことだ。お袋もミラノに来ているのか、なんだつまらない。私は部屋を出た。その瞬間、ここがミラノではなく自分の家であることに気付いた。そして目が覚めた。自宅の岩盤浴ベッドで3時間ほど寝たらしい。喉がからからに渇いていたので冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んだ。炭酸入りなので一気飲みしたとき少しむせた。おしっこは我慢できた。あと20年もすると俺は夜中起きて何度となくトイレに行く老人になるのかな、と思う。さてこの日記を書いているうちに意識は完全に覚めた。一度読み返した。ひどい内容だ。さっき夢で取り出した携帯電話でこれを書いています。携帯電話は夢日記を書くのに便利なツールだ、と思った(完)。

(完)。←ここでちょうど1000文字でした。携帯だと1000字以上入力できないんですね。
エレピは昨日パスカルズのライブでロケットマツさんが弾いていたのと同じやつでした。多分直前に見て記憶に残っていたので夢に出てきたのでしょう。
イメージと時間を定着させようととにかくしゃにむに入力していたら「マチアルキ」とか「ゲンジツセカイ」とか変換を直さないまま文章を組み立てていました。これって自動筆記(オートマティズム)のようで面白いなー、と。
起きた瞬間に日記を書こうと思い、とりあえず手元の携帯で日記を書きました。書きながら夢が逃げていくようでスリリングな体験でした。多分、書かれたテキストは夢とはまったく異なるものとなっております。夢の不思議なところはそういうところですね。捕まえられない。

今ミクシィ日記からこれを書き起こしている2021年9月6日時点で感じたことは、2007年1月は携帯電話を「ガラケー」とは認識してなかった。「ガラケー」を意識しだしたのは、スマートフォンが主流になった2010年代以降だろう。だからタイトルは2021年現在から振り返った2007年ということで、時間の流れというものはまことに面白いものがある。あ、ミラノのスカラ座は2005年に実際にイタリア旅行で行ったことがあるので、記憶に残っていて夢に出たのだと思われます。(波照間エロマンガ島2021/9/11)

(寸評)「王様の耳はロボの耳」で投稿が一番多いのが「夢の報告」。しかしこれがなかなか難しい。本人はある種それを「体験」してるから興奮するのはわかるのだが、読む方は「どうせ夢の話だろ」というところから入ってるのと、追体験ができないので、相当な想起させる文章力がないとそれは伝えられない。夢の話あるあるだね〜。4ポイント。

初めての極楽マッサージ体験

今から12年ほど前、タイのチェンマイに住んでいた頃の話。
わたしはタニン市場の中にあるタイマッサージ屋に行った。

この店は2007年2月にチェンマイ旅行したときに、長期滞在していた石川さんに連れてきてもらった店である。そのときは母と娘の二人きりでやっていたが、いつの間にか経営者が替わり、マッサージ師が3〜4人常駐するようになっていた。マッサージ学校も兼ねていて生徒さんがOJT〔on the job training〕でお客さんにマッサージしながら技術を覚えているようなシステムをとっているようだ。

店に入るとわたしの顔を覚えてくれていたようで「サワディーカー。サバイディーマイ?」と歓迎モードで出迎えてくれた。わたしは2時間コースを注文し、マッサージ着に着替えて施術マットに寝転がった。担当したのは以前も施術してくれたわたしと同い歳の女性であった。

このときチェンマイに住んで1年あまり、チェンマイのタイマッサージ屋はあちこち行ったけれど、この店は総じて施術師のレベルは高いと思った。はずれに当たったことがない。マッサージが上手な人はもうそれだけで満足で、気持ちのよさにいつしか眠りに落ちてしまうのが常なのであった。その日もすぐに眠ってしまった。仰向け、横向け(左右)、うつ伏せと姿勢を変えるときだけ起こされるが、すぐにまた眠ってしまった。

目が覚めると、まだマッサージは続いていた。
ところが何か変だ。いつもと感覚が違う。これはなんだろう。うつ伏せの状態なので振り返れないので、身体に感じる感覚をたどって行くと、やがてびっくりすることに気がついた。

いつの間にか、3人の施術師に同時にマッサージされていたのである!!

これはなんという感覚なのだろう。快感が3倍増しで身体を伝っていった。そしてなんかエロチックな気分になったww。思わず振り返ってどういうことか聞いてみると、その日はお客さんがいないので、サービスでマッサージしてあげる、と言うのだ。一度に三人を相手にタイマッサージされたのは初めてだ。でも、めちゃくちゃ気持ちがよいことに気がついた。極楽気分とはこのことだと、まさに実感したしだいである。

また来よう、とマッサージが終わってから心の中でつぶやくわたしでした。料金は2時間で240バーツ(約750円)。チェンマイの相場はこれぐらいなんですよ。安いでしょ。

そんな初めての極楽マッサージ体験の話でした。(波照間エロマンガ島 2021/8/29)

(寸評)うわー、まさかの4P! 最初から頼んだとしたら3人分取られるだろうからラッキーでしたな〜。
二輪車なら経験あるけど。うわー、マッサージ乞食の俺としては本当にうらやましー! 7ポイント。

はじめての内緒の趣味

内緒の趣味ができた話です。
ある日仕事から帰ってくると彼氏が「競輪のアプリを入れた」と話してきました。
ついに暑さで頭がおかしくなったかと心配しながら「大丈夫か?」と聞いたら、今とあるアプリを入れるとアプリ内ポイントを3000円分入れられるとか。
さらに、彼の友達が競輪にかなり詳しくて毎月本業の何倍もの金額を当てていて、その予想のメルマガやブログで副収入がものすごいとか。(酒とタバコで消し飛ぶようですが…)
招待コードを送るとアプリ内ポイントがさらに増えるということで、私もやる羽目になりました。
どうしてもギャンブルなのでいい気はしませんでしたが、折角手に入れた3000円+2000円なので友達がやり甲斐があると判断した試合のみ賭けてみることにしました。
友達の言う通りに賭けるとアプリを入れた翌日から100ポイント賭けておよそ35000円がいきなり当たってしまいました。

発狂に近いほど喜んだのは当然ですが、本物の運動音痴の私はスポーツそのものにあまりいい思い出がなく(運動部の子にいじめられるとか)、オリンピックもそこまで熱くなれず周りとのギャップに悩んでいましたが、競輪はひとつの試合が短くてテンポがいいし、運が全てに思われているギャンブルの中ではかなり戦略や読みがあるようで、面白いことに気づいてしまいました。

「最近競輪にハマってる」
こんなこと友達に言えば多分引かれるし、親に言おうもんならぶん殴られそうなので黙っていますが、選手の得意なことなどを見極めたうえで賭けずに試合を見守るのも楽しいです。さらに私たちには凄まじい勝率を持つ先生もいます。
とりあえず今その友達にお礼の食べ物か何か送りたいなと思ってるので彼を説得しています。ちなみに今日も15000円くらい当たってしまいました。カイジみたいにならないように気をつけます。(五十嵐アキラ 2021/8/29)

(寸評)競輪はやったことないけど、いろんなギャンブルの中では一番堅いと思う。中野浩一なんてほぼ負け知らずだったから、彼に賭ければ配当は少なくてもかなり確実に儲けることはできたみたいだしね。
他の公営ギャンブルに比べれば運の要素は低い気がするので、遊び程度の金額ならいいんじゃないかなあ。5ポイント。

初めての日本語とタイ語の翻訳不可能なすきま空間の領域についての気づき〔2008年6月〕

波照間エロマンガ島です。タイに住んでタイ語学校でタイ語を学びはじめて1ヶ月ほど経ったときに気づいたこと。

〔日記よりばっすい〕 タイ語を勉強していると、日本とタイとの生活様式や習慣の違いに驚かされることがたくさんあります。毎日カルチャーギャップにぶちあたっています。といっても、もちろん「生きるの死ぬの」といった生存の危機ということはありませんが、アイデンティティーが根底から揺さぶられることはしょっちゅうです。深く考えれば考えるほどわからなくなる。最終的には「タイ人って何なんだろう、日本人って何なんだろう」という形而上学的問いかけにまでいきついてしまいます。語学学習とは、お互いの言語のある部分同士が1対1対応で訳すことができない、その翻訳不可能なすき間空間について考えることをいうのかと最近は思い始めています。もちろんわからないまま、適当に折り合いをつけてコミュニケーションしているんですけどね。異文化とのコミュニケーションはそれでないとやっていけないですから。理解は後回しにしてもまず言葉を覚えないと。

日本では出かけるときに「行ってきます」、帰宅したときに「ただいま」と言いますが、タイ語ではこれに相当する言葉が存在しません。またご飯をたべるときに「いただきます」、食べ終わるとき「ごちそうさまでした」と言いますが、こちらもタイ語で相当する言葉がありません。
タイ語の先生は「タイ人は面倒くさがりやだから、なんでも省略する方向になる。日常の挨拶の言葉のほかに『行ってきます』や『いただきます』は言わないよ」と言います。ちょっとルビー・モレノ似の美人のN先生の片言チック日本語でそう言われました。

「カチャッ」というドアの開閉音で帰宅したことがわかるので、今さら「帰ったよ」とか「おかえり」とか言う必要はないじゃないか、というのがタイ人の考えです。そうかなぁ、やっぱり挨拶は必要ではないか、と日本人のわたしは考えます。
レストランで誰かと食事をするとき、料理が配膳されると何も言わずに食べ始めるのがタイ人、食事が終わって会計のときに支払ってくれる人に「コップン・カー〔ありがとうございます〕」とワーイ〔合掌〕することはしますが、特に「ごちそうさまでした」は言いません。

この辺はタイに来るようになって5〜6年経ってもまったく気にもとめない事柄でした。タイ語を勉強し始めて、タイ人の考え方や習慣に触れたときに気づいたことでした。
タイ語の不思議なところはまだ他にもいくらでもあるのですが、これから気づいたらちょくちょくメモしていこうと存じます。〔ばっすいここまで〕

この日記を書いてから13年くらい経っていますが、日常生活でタイ人と会話することで「翻訳不可能なすきま空間的領域」を意識すること、いいかえるとタイ語やタイについての新鮮な発見はほとんどなくなりました。他者としてタイ人と会話していることはもちろん意識してますが、すっかり語彙は安定し、難しい言葉や専門用語・概念などはかんたんなタイ語に置き換えて説明することができるようになったからだと思います。そうやってだんだん外国語理解の謎な部分は補修されて、思考が固まっていくのかなとも思い、少し残念であることも確かですが。さて、来年60歳になるわたしは、このままこの国にとどまって余生を過ごしていくのでしょうか、それとも日本に戻って朽ち果てていくのか、まだまだ決定しえず、どうなるのかわかりません。
そんな初めての「日本語とタイ語の翻訳不可能なすきま空間の領域についての気づき」から13年経ち、現在のわたしのタイについての雑感でした。(波照間エロマンガ島 2021/8/29)

(寸評)そうそう、外国旅行に行き始めた当初はいろんな日本との違いに驚いたり刺激もあったけど、回数を重ねると「あ、このパターンね」と分かってしまうのは、ある意味面白くなくなって残念なことかもねー。6ポイント。

初めてチェンマイ大学の芝生のベンチでまどろんでいて、夢のような連続思惟体験をした

チェンマイに住んでいた2008年から2012年までのいつかのある日のこと。わたしは午前中タイ語学校の授業を受けその午後、チェンマイ大学まで自転車に乗ってぶらぶらと繰り出しました。大きな池の近くに何面ものサッカーコートがあり、その近くのベンチに座って持ってきた島尾敏雄の短編「夢の中での日常」を読んでいるうちに、うとうと舟を漕ぎ始めました。そのとき見た夢のような連続思惟を目が覚めたあとすぐにノートしたのが以下のものです。

B5のワトソン紙かケント紙みたいなすべすべした紙をらせんリングで1冊に綴じたスケッチブック。でも紙の一部が楕円にくりぬかれていて、水彩絵の具のパレットみたいに親指を入れられるようになっている。パレットに絵の具を溶くみたいにチューブ絵の具をいちばん上の紙にそっと置く。すると絵の具は紙を選択透過して下の紙につぎつぎに染み込んでいくのね。あるいは自分の左手の親指を伝って下の紙にも到達してしまっていた。それはチェンマイ大学のグラウンドでの出来事だった。私は右手を使ってページをめくってみると、次のページ、その次のページに抽象画みたいな色の滲みの染みができていて「まるで絵みたいだ」と感心した。
「これは心理学の実験か」気がつくと左腕から始まってわたしの身体中に大量の水彩絵の具がしたたりおちてきて、ボディーペインティング状態になっていた。サッカーコートの草むらの上、裸足だった自分は直立不動で身体じゅうについた絵の具を、自らが筆となってチェンマイ大学グラウンドに定着させようと「うわぁーーーーーーーー、れぷらーーーーー!!!」と叫んで走り回り、ごろごろごろとグラウンドを寝転びまくった。グラウンドは夢特有の場面跳躍により、瞬時に実際の風景からスケッチブック上の平面に変化した。ボディーペインティングを紙にこすりつけて絵画作品を作成する自分。
そして走りまわっているうちにとつぜん目が覚め、もちろんボディーペインティングなどしてるわけもなく、無人のサッカーコートをただ走っていたようです。これは夢うつつの状態でよく見る「想念即映像」の状態だな、と直感しました。自分が生きてきた人生でそんなことがたまに起こったことを覚えていました。また夢遊状態にも近く、これは非常に危険な瞬間であることも自分では認識していたつもりです。そんな体験でした。その瞬間、どこからが夢でどこからが現実かについて、より探究していきたいとここタイランドでひとり生きていることはわかっていました。狂っている自覚はありません。狂気の世界があっちの側にあるような方向性だけは感じています。そんな自分にとってチェンマイ大学というと思い出す初めての夢体験の一コマ。でした。(波照間エロマンガ島 2021/8/14)

(寸評)ハッと気づいたら現実なことが確認できたら怖ひ...。6ポイント。

はじめてのピーポーピーポー&ストーンメイキングin尿路

このHPでもちょこちょこ触れて来ましたが私はあまぁい飲料が極めてすきで、お茶・鉱泉水など砂糖っ気のないものを飲むことがほとんどなく、日々の水分は自販機飲料で摂取、家に帰ればカルピスやアクエリアスレモンを炭酸水で割って飲む、という生活を繰り返してきました。
おまけに無類の脂もの・肉類好きで、なおかつ運動らしい運動はまったく行わない、という、自由気ままな小太りライフを謳歌しておりました。なんでみんな金払って味ない水なんか買って飲んでんねやろ。短い人生、食事くらい好きに食べ飲みしたらえぇのに。あははははは。とか言うて。そう、あの日までは………

自覚こそなかれど予兆のようなものはありました。
2019年の8月、実家にてお盆。柔道整復師をやってる兄がみんなの足裏のツボで何処か悪い所はないか診てやろう、と言うのです。グリグリっと押した足ツボの痛みが出る箇所に応じて現在悪くしている身体の部位が判るのだそうです。

私がまず言われたのが前立腺でした。まぁこら日々のルーティンワークであるところの手淫過多による疲弊、納得の結果です。たはは。
次に私がたい痛い痛いアババババババと泣き騒いだのが腎臓にあたる場所。兄は申します。「お前、また缶ジュースの飲み過ぎやろ…真水もちゃんと摂ったほうがええぞ」
もともと私の食生活が実家にいた頃から無茶苦茶だったことを知っている兄貴は図星も図星な指摘をしてきますが当の私はどこ吹く風、「ほーい」とか気のない返事をしてスルーしたのであります。ただアトピー性皮膚炎がひどかったこともあって、朝起きがけにコップ1杯の水を飲むようにはしました。

そして1ヶ月後、9月14日土曜日、未明4時。

激しい右横腹の痛みで目覚めた私は、あまりに小便がたまり過ぎての痛みか…と、よろよろ厠へ赴き、排尿。しかし、ギリギリと痛みは引く気配を見せませんでした。こんな事は初めてです。
一旦ベッドに横たわるも、痛みは引くどころか増すばかり。まずは携帯電話を…と居間に行こうとするも、とうとう私は歩けなくなってしまいました。廊下で膝から崩れ、四つ這いのまま汗を垂らしてウゥウゥ呻くことしかできなくなったのです。

異変を感じた嫁はんが起きてきました。

狸子「どないしたん、大丈夫⁉︎ 救急車呼ぼか?」

私は一瞬こんな夜中に閑静な住宅街でサイレンを鳴らされてはご近所さんもいい迷惑だ、と思って自力で救急病院に行くことも考えました。しかしこの激烈な痛苦、まともな運転が出来る気がまるでしません。

5秒の沈黙のあと私は嫁はんに、たのむ、と絞り出し、程なくしてサイレンの音が近づいて来ました。ぼうずはすやすや眠っていました。
隊員さんに迷惑を掛けたくないので私はどうにか階段を自力で下り、よろぼい玄関まで壁を伝って向かいました。
嫁はんは階下に住まう叔父に息子が起きた時の面倒を依頼し、私と救急車へ乗り込みます。

担架に乗っかり、私は指先に何かを嵌められました。この感染症蔓延の事態になってようやく判りましたがあれはパルス・オキシメーターなる血中酸素濃度(正確には動脈血酸素飽和度)を測定する器材で、隊員さんは「99!」と伝えていたのを憶えています。酸欠を起こしてはいない事は安心ですが何しろ原因がなんなのか判らないのです。これは内臓のどれかしらが破裂したんじゃないか、と本気で思うような痛みでしたから……

苦しみ悶えてたどり着いた市立豊中病院。10分程で着いたでしょうか。近場の救急病院が空いていて本当に幸運だった、のですが…

喚き散らしながらCTに載っけられ、ごうごう音を立てて我が身がスキャンされます。その結果医師と看護師はあろうことかにこにこ笑っているではありませんか。笑うな。あほ。などと喧嘩を売るほどの余裕もなく相変わらず私はぎえぇぐえぇと泣きほたえています。
医師は嫁はんに「尿路結石ですね。土曜日ですから近くの泌尿器科が開いたらそこで診てもらって下さい」と言い放ち診察終了、それでもあまりに私がやかましいので看護師さんが「お産や、お産や」と笑いながら(笑うな)私の可憐なお菊に坐薬を挿入、けっこうお菊の感受性は優秀な私ですがそんなゆとりは一切なく、ただ苦しさだけが脳裡を支配していました。それにしても常に冷静であるのは医療関係者として立派な態度ですがもう少し患者を慮ってくれても良いのではないでしょうか。それとも尿路結石の如き自業自得の疾病罹患者にはもはや人権など存在しないのでしょうか。石川さんも看護師さんに「他の患者さんが居るから、静かに!」って一喝されたと何処かで書いていらした気がします。つらい。

尻にぷっすりヤクを挿されても狂おしい激痛は止むこともなく、私は吐き気を催してゲェゲェ言い始めました。お医者は「痛みが強いと吐き気が出るからね」と説明しますがもう診察は終了、厄介払いはお早めに、と早々に待合室に追ん出されてしまいました。
いやいやいやいや、せめて近所の泌尿器科が開くまで居らしてくれやぁ、まだあんた6時前やで。などというこちらの都合など通るわけもなく敢無く退去を余儀なくされ、タクシーを呼んで帰宅、もう3時間経つまで何も打つ手なくのたうち回り、貰った痛み止めもすべて嘔吐、地獄の時間でした。

8時半、叔父に車に載せてもらい呻吟しつつ豊中駅前の泌尿器科へ。嫁はんに付き添われよたよたと受付へ、ご年配のみなさんで溢れる待合室に突然若いのが顔面蒼白で現れて空気がざわつきます。
改めてレントゲンを撮り、確認するとどうも私のニョーロには7mm程度の石が出来ているようです。な、7mmぃ⁉︎ そ、そんな直径のもんがこのほっそいほっそい尿道から出て来れるかいな‼︎
恐怖と痛みに朦朧としつつ聴いた説明では、今後ウロカルン、コスパノンというお薬でニョーロを拡げて排出しやすくする、とのこと。しかし5mm以上の石は自然排石は難しい、とも。嗚呼、ついに死ぬまで絶対にやりたくない、あの戦慄の尿道に管挿し込んでやるやつを体験する羽目になるのか…… 目の前が真っ暗になりました。
まだ痛みが引かず苦悶の表情を浮かべる私に、看護師さんが再び坐薬をお菊に挿します。つるり。
………おぉ?

未明4時から苦しみ続けて来た痛みが、漸く落ち着いて来ました。このとき午前10時過ぎ、実に私は6時間のあいだ間断なく右横腹に激痛を抱えていたのです。看護師さんはベテランのようで「効いたでしょ? コツが要るねん」と誇らしげでしたが、果たして坐薬が効いたのか、石が動いて塞がれた部位の摩擦が緩和されたのかは判りません。ともかくほっと一息です。

結局幸いなことに苦しみのピークはその6時間で済み、私は付き添ってくれていた嫁はんに歩いて帰ろうか、などと言い放つほどに気力が回復、その日1日は入念に坐剤をあにゅっと仕込んで痛みを回避、今後の排石までの道筋を思案しました。

まず缶飲料、とくに石の元になるシュウ酸が多いコーヒーを廃し、当分の間はあれほど忌み嫌っていた鉱泉水をもっぱら飲み続けることに決定し、また運動によりニョーロの蠕動を促して排出を早めるために1日10000歩を目標にウォーキングを始めました。
さらには食生活の改善、肉類に偏った食事は尿を酸性に傾けるため石を作りやすい(←リクツがよく解らない)といわれ、溺愛しているコンヴィニ揚げ物を断念、カルシウムとマグネシウムの摂取も大事と聞いて弁当に切り干し大根と南瓜などを導入、また腎臓内にある物質が尿中の結晶を結石にするため、その働きを弱める人参や大豆を摂るとよい、とエネーチケーのガッテンで言うてたのでそちらも参考にしました。

ちなみにその腎臓内のストーンメイクを促進させる物質の名前は… 「オステオポンチン」と言うそうです。
……どっかで聞いた事のある名前だな…… って、後半がほぼほぼ私のハンドルネームみたいなもんですね。お捨てオポムチャン。なんたる奇縁……

なんとか尿道ぶっ挿しを免れたい一心で2ヵ月、水をジャブジャブ飲み日々歩き、大好物の揚げ物を我慢してウロカルンを飲み続け、再び診察へ。
なんとレントゲンの結果、私の初ストーンは姿を消しておったのです! 普通7mmものサイズなら簡単に出てこない筈なのですが私の徹底した生活改善が功を奏して気付かぬうちに排出していたのか、それとも薬で溶けるタイプの石だったのか、はたまた日課の手淫に乗じて滑らかに旅立って行ったのか… ともあれ現物がもうないので分析のしようもないのですが、私は恐怖の陰部管挿しから逃れられたことを心から喜びました。さらばマイストーン。もう二度と来るなよ。

この排石活動には嬉しいオマケが付いて来ました。
まずウォーキングを習慣付けることで体重が4kg減少、成人してから今が一番軽くなりました。70kgを割る日なんて、来ないと思ってました。
そして砂糖水ばかり飲むのを止めて真水の積極摂取を始めた結果、アトピーが大幅に改善したのです! っちゅうかまぁ、これは当たり前ですよね。逆によくここまで何も無かったものです。また体重減にも関係したでしょうね。

ただこのニョーロストーンの恐ろしいところは高い再発率で、ほとんどの者が5年後までにおニューの石を造成しちゃうこと、10年で見ても約4割の人間がセカンドストーンをニョーロのいずこかに抱いて爆泣きしつつお医者と看護師さんに白い目で笑われることになっているのだそうです(後半は極めて偏見的な私観です)。

私はもうこんな絶望の坩堝は御免ですので今日も飲水と体重管理に気を配り、歩ける範囲でウォーキングを続けていますがついつい制限し過ぎた反動で大好物の揚げ物とコーヒーを口にしてしまいアトピーもプチ再発、おまけに抱えている眼病の治療にはコーヒーが有効なうえに過剰な飲水は眼圧上昇の原因、とどっちを取れば良いのか混乱発狂、やっぱり短い人生好き勝手に飲み食いしようかな、と見事に振り出しに戻りそうになる日々を送っているのでした。第二造石は近い。嗚呼地獄アゲイン。

皆様も(とくに男性!)過度な食生活の偏りにはお気をつけて! 結石は本当に辛いです! ほうれん草にはジャコと鰹節を! コーヒーには牛乳を! 大豆と南瓜でサボらせろ?、オステオポンチン(笑)!
  ※オステオポンチンは免疫のバランスを司る物質で必ずしも悪者というわけではありません。赤ちゃんには良いらしいので気になったら調べてみてね。(オポンチン、もといオポムチャン 2021/7/30)

(寸評)ひー、痛そう〜。って、俺も昔やったけど喉元過ぎればなんとやら。でも確かに昔に比べてバランスは考えるようになったなあ。ほんで、ひとつの病気で摂るなと言われるものが別の病気では摂れと言われたりも難しいよねー。
まあ年を取れば何の病気もない人の方が珍しいので、うまく付き合っていくしかないよねー。
ほんで甘いジュースと、脂たっぷりの揚げ物はンマイィィィィーッ! 8ポイント。

初めての路線バス女性運転士

波照間エロマンガ島です。
わたくしが日本で路線バスにて初めて女性運転士さんに遭遇したのは、2006年8月3日(月)のことでした。場所は東京都営バスの新橋駅から渋谷駅区間。日記に書き残してありました。
それまで海外の都市、たとえばホノルル、ロスアンゼルス、パリ、バルセロナ、チューリッヒなどで女性運転士さん運転の路線バスに乗車したことはありますが、日本ではその日が初めてでした。

乗車中にSNSにてその体験をアップロードしたのですが、すぐさまコメントがつきました。

〔福岡県在住の友人女性Iさん〕
福岡市内では最近、女性のバスの運転手さん、多いです。女性の運転手さんの方が・・・おおむね感じがいいです。
降りるときに「いってらっしゃい、お気をつけて」と声をかけてくれた運転手さん、女性ならではかしらん?と思った次第です・・・。

〔わたくし〕
Iさん、発車や停車の時や運賃支払いの時など、細やかな配慮が好感を持ちました。本来サービスとはそういうものだったはずなのに、無愛想な運ちゃんになれきった身としては新鮮でしたよ。そうか、福岡には女性運転士が多いのですね。

あれから15年ほど経ち、現在住むタイ国バンコク都でも、路線バスで女性運転士の運転するバスに乗車することはあります。タイではワンマン運転ではなく車掌さんが必ずいるので、女性運転士+女性車掌の組み合わせも当たり前に存在します。そんな初めての女性運転士の路線バスに乗った、という話でした。(波照間エロマンガ島 2021/7/30)

(寸評)ちなみに「運ちゃん」は放送禁止用語なので、当初「運ちゃん」になっていた歌詞を「おっちゃん」に変えさせられたことがあります。5ポイント。

初めての「左へ曲がります。ご注意ください」in バンコク

タイ在住の波照間エロマンガ島です。ついさっきの出来事です。
会社の近くの総合病院の駐車場に大型バスが入ろうとしていました。そのとき、耳を疑う音声を聞いたのです。

「左へ曲がります。ご注意ください。左へ曲がります。ご注意ください」

なんということでしょう。ここはタイなのに日本人の女性の声で拡声スピーカーからアナウンスがされていたんですね!
おそらく日本から中古の大型バスを購入したのでしょうけど、スピーカーの音声は日本語のままのようでした。
びっくりしました。そんな初めての「左に曲がります。ご注意ください」でした。(波照間エロマンガ島 2021/7/30)

(寸評)俺もチェンマイで聞いたことある! 日本の車や古い電車なんかもそのまま輸入されてるんだよね〜。4ポイント。

初めて 自分の意志でパチンコをした日

かなり前にパチンコの初体験を投稿しましたが、つい先程 またパチンコ屋に行きました。
友人同行ではなく 自分の意志で独りで。

その日、私は病院の予約時間を潰したかったのです。
暇だったのです。
病院の前にはパチンコ屋。
私は時間つぶしになるなら と思いふらりと入っていきました。
テキトーに打つ台を決め、1000円だけ入れてハンドルをひねる
はずれの穴の中にボンボコ玉が入っていく。
みかねて隣のおばちゃんが「そのうち方じゃ駄目!もっと上狙って!!」とアドバイス
するとあたりの穴の中に玉が入っていきます。ありがとうおばちゃん。
しかし全然当たらない。
虚しくなって換金もせず店をあとに。

あぁ こんなことなら中古のCD買ったほうがよかったなぁと思いました。

CR 石川浩司が、出るまではパチンコはいいかなぁ と思いました。
うるさいし。(ズミ天 2021/7/17)

(寸評)パチンコ屋もでもだいぶ衰退してきてるよね。昔より勝てなくなったから離れていく人が多いみたい。
完全に無くなったら、それはそれでちょっと寂しいのかもね。
まー、俺はそんなところで運を使いたく無いのでやらないけどねー。5ポイント。

はじめてのゴリラと一晩

初めて職場の同僚(異性)と一晩過ごした話をさせてください。

先日の大雨では太平洋側の多くの地域に警報が出て、中には大災害に発展したところもあります。本当に悲しいことです。
私の住んでいるところにも長いこと警報が出ており、私は避難所の当番になりました。
普通に仕事が終わってから防災服に着替えてみんなで集合して2人で1箇所の避難所に行ったのですが、私のペアになったのはとある男性職員でした。
その職員は男子相手には職場の揉め事を暴力で強引に解決してきたり、女子相手には私の後輩がストーカー被害に遭うなど、もう少しウチの職場が法治国家だったら多分お縄になってるような職員なのです。陰でゴリラと呼ばれています。
その人と二人きりで一晩過ごさなきゃならないんですが、父親や彼氏以外の男と二人きりで過ごす最初の相手がゴリラかよと悲しくなりました。しかも夜の9時から翌日夕方5時までと一番の長丁場に当てられてしまったのです。

夜9時に避難所に閉じ込められてすぐにゴリラが寝ようと言ってきました。仕事なのに寝てもいいのかと疑問に思いましたが、その時は雨もほとんど降っておらず確かに誰も来ないなと思いました。
ゴリラは、俺が防災用の段ボールベッドを使うから五十嵐さんがソファベッドで寝てもいいよと言って譲ってきました。かろうじて壁で離れているのですが、普段から私はゴリラの怒りのツボがわからずに密かにゴリラパンチに怯えているので、一応私が女である以上いつムラッときて襲われるかわからない恐怖が凄まじかったです。
普段から睡眠薬を飲まないと眠れない不便な体質なのですが、この日はどんな姿勢になっても全く寝付けずそのまま鳥の鳴き声が聞こえてきたので諦めて起きました。
結局避難所には一人も来ず、ゴリラと本当の意味で二人きりの20時間が過ぎていきました。
その後、避難所に入っていない職員はもちろん普通に働いていたのでとりあえず顔を出して帰ろうとしたら、私の事務所に上司が一人だけいました。
するとゴリラは「五十嵐さん、全然寝れなかったって!俺が襲うかもしれないから!」と一人で爆笑しながら上司に話し始めたので、私は脳内が読まれたのかと怖くなって「私の口からは何も言えません」と言って帰りました。
とりあえず私の住んでるところでは遊歩道に落石があったくらいで済みましたが、疲労がいつまでも取れない上に、本当はのんびり片付けようと思ってた案件が避難所対応のため追いつかなくなり爆発したり、クレーマーのババアに「お前なんか土石流に飲まれればよかったんだ」という旨の暴言を吐かれたり(この発言は土石流の被害者の方をも馬鹿にした許されないものです)、あまりのストレスから未だに体調が悪いのでこの仕事は30歳になる前に本当に辞めようと思っています。(五十嵐アキラ 2021/7/17)

(寸評)まあ、相手がゴリラじゃなくてもやはり緊張するよね。あまりに今後もストレスがあるようだったら、転職も考えた方がいいね。給料がたとえ多少高くても、精神的に辛いのは一番良くないからね〜。5ポイント。

初めてのCTスキャン

ある日、私はひどい頭痛に悩まされ会社を休み病院へ駆け込みました。
すると先生は「一応CT撮っときましょうか」とのこと
わけもわからずCTの機械に乗る私。
眩い光が出るので強く目をつぶってくださいとのこと。
数分で終了。
目を開けてたらどんなことになってたかと思うとちょっと怖いです。

結果は異常なし。でもCT代で5000円も取られた。財布が一瞬にして氷河期になりましたとさ。(ズミ天 2021/7/17)

(寸評)目を開けてたら地球が滅びていたらビックリだね。5ポイント。

初めてのポータブル心電図

ある日、私は胸部の強烈な痛みにもだえ、会社を休み病院へ駆け込みました。
レントゲンを撮っても異常なし。万事をとってポータブル心電図をつけることに。
なんか一瞬サイボーグになった気分でした。
結果は異常なし。でも心電図代で6000円取られたとさ。(ズミ天 2021/7/17)

(寸評)一瞬じゃなくて、実はサイボーグに既にされていたりして。5ポイント。

初めての成田発シンガポール航空シンガポール経由バンコクへ〔2004年7月1日、41歳〕

2004年は頻繁に休みをとり、1年に4回ほどタイに通っていました。ふだんは成田=バンコク直行便を使うのですが、このときは初めてシンガポール航空でシンガポール経由で乗り換えてバンコク入りしました。
その仔細な記録が残っていたので、バンコク到着までを以下に再現してみます。このご時世、なかなか海外旅行できない日々が続きますが、旅行気分だけでも味わっていただけたら幸甚です。

〔以下、旅日記からばっすい〕
午前1時、横浜の某キャバクラへ。キャバクラ嬢の送り副業の仕事。
帰宅2時半。ただちに荷造り。
シャワー、着替え等もろもろの準備を済ませ、午前4時半、家を出る。

用賀インターから首都高3号線〜中央環状線〜レインボーブリッジ〜湾岸線を経て東関東自動車道へ。未明から明け方なので渋滞に遭わずイージードライブで気持ちよい。途中、湾岸幕張と酒々井〔しすい〕のパーキングエリアにて車を停め時間調整。

午前6時45分、成田のいつもの民間駐車場にチェックイン。午前7時成田空港第1旅客ターミナル着。
午前7時半、団体受付カウンターのオープンと同時に搭乗券を受け取る。今回はHISで格安航空券を購入した。そのままシンガポール航空カウンターにチェックイン。
午前8時、出国ゲートオープンとともに荷物検査、パスポートコントロールを抜け、シンガポール航空のビジネスクラスラウンジへ。〔当時スターアライアンスのゴールドメンバーだったのでラウンジ使い放題でした〕円筒形のビルの4階。ここは初めて来た。ラウンジの窓からこれから乗るジャンボ旅客機があり、ベルトコンベアで荷物を積み込んでいるのが見えた。
午前8時55分、搭乗。9時20分、オンタイムで離陸。ここまで問題なし。

7時間半の飛行時間中は持ってきた「ハリー・ポッター」の3作目を熟読し過ごす。案外、時間は潰せた。徹夜明けなので食事後は眠くなり熟睡。トイレは1度だけ。

現地時刻午後3時15分、シンガポールのチャンギ国際空港に着陸。約3時間のトランジット。免税店をまわるが何も買わず。SQのラウンジに寄って休息。冷たいかぼちゃのスープをいただく。
チャンギ空港の書店にビル・クリントン元大統領の回顧録が並んでいるのが印象的だった。

午後5時40分搭乗。バンコクに向け離陸。
誘導路を走行中頭痛がしてきたので頭痛薬を飲む。滑走路まで行く前にうとうと眠ってしまい、機内食の時間まで眠っていた。CAに肩を触られ目が覚めた。

現地時刻午後7時30分、約2時間のフライトを経てバンコクのドンムアン国際空港に着陸。ドンムアンに降り立つと気のせいかソムタムの匂いがしてくるのはどうしてなのだろうか。また、バンコクに着きほっとするのは、タクシーに乗って高速道路に乗ったときだ。タイに来たぞー、と実感する。
午後8時45分、常宿のパッポン通りの某ホテルにチェックイン。
荷解き、着替え、シャワーなど済ませ、まだ気力体力が残っていたので、お水関連のオキニの女の子に電話し、夜のパトロールに出発した。
あれこれあって深夜2時過ぎホテルに戻る。泥。朝まで目が覚めずに熟睡。(ばっすいここまで)

当時の平均的なタイへの渡航パターンがここに書かれています。まだ羽田便は就航する前なので、東京の端っこの世田谷区から東京、千葉を縦断して成田空港まで移動します。距離は50キロくらいあるのですが、これが毎度面倒くさい。二子玉川から田園都市線・半蔵門線で水天宮前まで直通で40分、水天宮駅直上にある東京シティーエアターミナルからリムジーンバスで成田まで約1時間という電車+バスのルートもよく使いましたが、スーツケースをもっての移動は難儀なので、このころは自家用車で成田まで移動することが多かったです。

旅の目的はというといろいろとありましたが、オネエサンに愛に行くというのがまあ一番の目的かな。このころは特に女狂いに嵌ってましたねー。41歳の自分はどこにそんなエネルギーがあるのだろうというくらい岡場所三昧でした。58歳の今から振り返ると「ようやるわ」と呆れるほどでした。でもタイに住むようになるとなぜか女遊びはぴたっと止まりましたね。これはタイでの生活が日常になってしまうと、食指がまったく動かなくなるんですよね。飛行機に乗って足しげく通うからこそ、オネエサンを愛でることができたわけです。こういう心情、男性の方でしたらわかってくださると思います。

さて、この翌日7月2日はチェンマイに初上陸の日だったんです!いつかこの日のことも再現できれば、と存じます。ではではそんな感じで、本日はここまでご高覧いただきありがとうございました。(波照間エロマンガ島 2021/7/17)

(寸評)「夜のパトロールに出発した。あれこれあって深夜2時過ぎホテルに戻る」の「あれこれ」が一番知りたかった(笑)。6ポイント。

初めてのすわ脳機能障害?失語状態に陥る

タイ在住の波照間エロマンガ島〔58歳〕です。数ヶ月前、かつてない目眩に襲われ、死を覚悟した体験を告白しましたが、同じ時期に仕事中とつぜん脳機能に障害が起き、言葉をしゃべることができなくなる症状が現れたことがありました。その症状についてここにレポートします。現在は完治していると思います。

その日は休日出勤でオフィスでひとり仕事をしていました。レポート作成をしていると固定電話の着信音が鳴ったので電話をとりました。取引先企業のタイ人スタッフからでした。用件はわかっていたのでコール&レスポンスには何の問題もなく、先方の質問にすぐにタイ語で回答しました。ところがそのとき何か脳内が目眩というか、ぐるぐる意識が酩酊していくような感覚を覚えたのです。タイ語と日本語を変換する言語中枢周辺でなにやらざわざわした違和感を感じたというか。そしてそれはとつぜんやってきました。運悪くその瞬間また電話のベルがなりました。受話器をとると今度は別の取引先の日本人スタッフからの電話でした。彼はとうぜん日本語で話しかけてきました。と・こ・ろ・が。彼の質問に対してわたしは日本語で応答しようとしたのですが、頭の中で言おうとした言葉が口をついて出てこないのです! 「もぐもぐもぐ…」音声にするとこんな音が出ていたような気がします。電話先の日本人の方は「もしもし?! もしもし?!聞こえますか」と繰り返しますが、私はそれに対して何か返答をしようとしたのですが、「もぐもぐもぐ・・・」としか発声できなくなっていました。わたしは内心パニック状態に陥ってしまいました。こんなことは生まれて初めてです。そして意識が少しずつ遠のき、通話不能になり、電話を切りました。デスクに突っ伏してしまいました。小一時間後くらいか意識が戻り平静になったところで、再度電話をして先ほどの非礼を詫びましたが、電話をおいてからの数十分はデスクの前で半分気絶状態でした。

わたしはすぐに病院へ行き、かかりつけの医科で精密検査ののち医師の診察を受けると、各数値は正常であり現在処方している薬の服用を続けて大丈夫とのことでした。そのあと薬の服用、食事や運動も取り入れて生活習慣を改善するよう努めると、そのころ常に感じていた目眩の兆候は無くなっていました。そして数ヶ月経ち現在に至ります。
まだ完治というわけではありませんが、無理せず生活をしているのでここのところ調子はよいです。という現在進行形で綴る、わたくしの生まれて初めての思ったことが言葉にできないという体験でございました。(波照間エロマンガ島 2021/7/3)

(寸評)それは怖いねえ。その状態になったことはないけど、なんとなく分かる。自分で自分が操作できない状態ね。
とにかく少しでもまた予兆があったらすぐに医者に行ってね。その状態になってる時しか診断が出ないかもしれないしね。
自分もそういうことが起きる不安は持ってる。還暦だものね。治りますように祈願ポイント、10ポイント。

初めての潮吹きビデオ受け渡しの現場

2009年4月のことだったと記憶しています。
当時タイチェンマイの語学学校でタイ語を学んでいたわたしは、タイの旧正月休暇に合わせて日本に2週間ほど一時帰国しました。タイに引っ越してから1年経ち、ちょうど1年ぶりの帰国だったので、日本では旧友たちとお花見をしたり、直前2月にチェンマイにやってきた石川さん界隈の新しい友だちの皆さんと会ったり、また同時期にタイ語学校のN先生も日本旅行に来ていたのであちこち東京案内したりもしました。久々に充実した休日を満喫しました。

さて、この時期はニヒル牛2で通称「天使イベント」が行なわれていました。背中に羽根を模した軍手を安全ピンでとめた白い布をまとった天使さんが、お客さんのリクエストに応じてさまざまなショーを見せてくれる企画。石川さん、否!天使さんの即興パフォーマンスや持ちネタ、オリジナル曲の数々を目の前、数十センチの至近距離で体験できるめったにない機会でした。一言で「最高!」な時間。

その日はチェンマイで遊んだ友人たちが何人か来て、わずか2ヶ月ぶりの再会でしたが旧交を温めました。その中にひとりの女性でチェンマイでは「潮吹き動画観たい、どこかないかな。エロさん、どうやったら無修正モノ観れるか知ってますか」とずっとのたまっていた、ち○ぽ先輩という人がいました。どうやらヒト科ホモ・サピエンス・サピエンスのメスがとんでもない距離の分泌物を体外に放出する映像に興味津々で、チェンマイではずーっとそんな話題をしていたのです。しかしそんなことはすっかり忘れていた中、久々にち○ぽ先輩と再会したのでした。すると、いつになくそわそわしているち○ぽ先輩に声をかける男性が登場しました。彼もその年の2月チェンマイ逃避組に参加したKさんでした。彼はち○ぽ先輩に会うやいなや「あっ、どうもどうも。例のブツ、もってきたんで」といきなりバッグの中からDVDらしきディスクを取り出してち○ぽ先輩に渡していました。「おーーーー!」〔わたしの心の叫び〕わたしはそれが何であるかあえて口にしませんでしたが、おそらく紅○ほ○るさんの作品だったと想像します。ち○ぽ先輩は欲しかったDVDを手にして満足げな表情を浮かべていました。その後感想は聞いてませんが、さぞかしよかっただろうと推察されます。ち○ぽ先輩の心のち○ぽはギンギンだったと思われます。
そんな初めての潮吹きビデオ受け渡しの場面に遭遇したの巻きでした。(波照間エロマンガ島 2021/7/3)

(寸評)そのことは知らなかったけど、潮吹きについて熱く俺にも語ってくれました。訓練してるのかな? 8ポイント。

初めての卒業生の訪問

2008年、チェンマイの語学学校でタイ語を学びはじめて2ヶ月ほど経った頃のこと。
授業中、突然ドアをノックする音が聞こえ、若い日本人女性が教室に入ってきた。
「おお、○○さん!!」とN先生。彼女は去年1年間ここで勉強した卒業生だったのだ。私たちの先輩に当たる。今日、日本に帰るので先生にお別れを言いに来たのだと言う。そのことを告げると、みるみる大きな涙が彼女の頬を伝った。
「先生のおかげでタイ語が話せるようになりました、ありがとう」とタイ語で言った。
予期せぬ感動的なシーンに遭遇したので、とてもよい気分になった。
しかし、私も1年経ったら彼女と同じようにに流暢にタイ語が喋れるようになるのだろうかと、一抹の不安が脳裏をよぎったのも事実だった・・・。

あれから13年。私のタイ語レベルはそれほど上達したとも思えないまま、タイの会社で毎日仕事をしている。まぁちょっとは上達しているのかなとも思いますが。そんな今日このごろ。(波照間エロマンガ島 2021/7/3)

(寸評)そういうことって他人事でもいい気分になるよねー。
実はみんなのやる気を出させる演出お芝居だったらすごいな。5ポイント。


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