ドキドキドキリコ初体験(103)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

初めての朔太郎

私が初めて萩原朔太郎に出会ったのは中学3年生のとき。教室が図書室のとなりだったので毎日昼休みは図書室に入り浸っていたのだが、ある日新着書籍として萩原朔太郎の詩集が学校に到着したのであった。第一詩集「月に吠える」にはとてつもなく影響を受けた。最初の「竹」は、「ますぐなるもの地面に生え、するどき青きもの地面に生え」から始まり一気呵成に展開する口語自由詩の文体にガツーンと一発殴られたかのような衝撃を受けた。ここから日本の近代の日本語が始まったという確信を得た。詩を読んでいるのにその文言が耳に聞こえるかのように音楽として日本語が聞こえる。そこには「E」音や「I」音で韻を踏み、行を横断してリズムを作り出している作詩の作法があり、そしてそこから広がる世界は地面を這うような視線の低さから遠くを見つめる視界の不思議さも感じた。
休み時間繰り返し繰り返し手にした朔太郎だった。その5年後、進学した大学で彼の孫である萩原朔美に映像論の授業を習うことになるとはこのとき知る由もなかったことはまったく後付けの結語であるが。(波照間エロマンガ島 21/1/18)

(寸評)群馬に住んでいた時は萩原朔太郎は郷土の一番の名士だったな。
萩原朔美はビックリハウスの編集長もやってたので、馴染みがあるなあ。5ポイント。

初めての赤ちゃんキリン@クアラルンプール〔2006年1月10日、43歳〕



波照間エロマンガ島です。2005年12月30日、東京の自宅で新聞を読んでいると、マレーシア・クアラルンプールのネガラ動物園でキリンの赤ちゃんが生まれたという記事を読みました。そのしゅんかん、わたしはなんとしてもこの赤ちゃんに会わなければならぬと思い、すぐに航空券を購入しマレーシアに行くことを決めました。

その12日後、この動物園に着くと、まっさきにキリンのいるコーナーへ直行。赤ちゃんキリンは奥の宿舎で眠っていたのですが「起きろー、起きてくれー」と心の中強く願うとあーら不思議、わたしの超能力が通じたのか、足元もおぼつかないまま起きてわたしのほうへ近づいてきました。生後わずか15日目の赤ちゃんキリンを初めて肉眼で見たのです。お父さんお母さんと同じ画面に入った赤ちゃんは、ごらんのように人形のように華奢な体つきをしていました。きゃわゆーい!!

キリンといえばアフリカ・ケニアにある「ジラフマナー」というホテルが有名で、いつか行ってみたいと思っています。キリンが首だけ延ばして窓から部屋に入ってくるんですよ。むかしテレビで見て感動しました。

そんなこんなの赤ちゃんキリンの初体験@マレーシアでした。それにしても43歳の頃のわたしはまだ行動力がありました。58歳の現在はすっかり枯れはててぐてーっとしていまふ。(波照間エロマンガ島 21/1/18)

(寸評)俺もメキシコの小さな町でキリンの親子が間近で見られた時は感動したなー。キリンっていいよね〜。6ポイント。

初めてのコーラからのげっぷ、鼻つーん

まだ幼稚園か小学生低学年の頃。父の実家に遊びに行ったときに、コカコーラを飲ませてもらいました。190ミリリットルのビンがくびれた形の瓶入りコーラをラッパ飲みしました。
そのとき加減がわからなくて喉から一気にコーラを飲みこんでしまい、直後にげっぷが出てほぼいっしょに鼻がつーんとなってしまいました。初めてのコーラでの不快な体験でした。コーラってしゅわしゅわ泡があって美味しいけれど、危ない飲み物なんだなー、と幼児のわたしは実感しました。

しかし大人になり、いつのまにかコーラからのげっぷも鼻つーんもなくなりました。印象ですが自分が子供の頃に飲んでいたコカコーラはチクロなど人口甘味料が成分に入っていた時期〔チクロが発がん性物質と認定され禁止された1970年以前〕なので、それでげっぷや鼻つーんがひんぱんにあったのではないか、というのが根拠のない推察です。どうなんでせうね。(波照間エロマンガ島 21/1/18)

(寸評)俺が高校生の時だから1975年ごろの話。近所でやけにかき氷がおいしい店があってよく行ってた。
ある時おばちゃんに「ここのはおいしいねー」と言ったら「ナイショだよ。実は余ったチクロを今でも使ってるのさ」という答え。
もうなくなっちゃったけど、久しぶりにチクロ食べてみたいなー。5ポイント。

初めてのムーランルージュ〔1985年2月〕

フレンチカンカン発祥の店として有名なパリのキャバレー、ムーランルージュをわたしが初めて訪れたのは、1985年2月、初めてのヨーロッパ旅行時でした。1880年代にオープンし、2回の世界大戦中も営業を休まず現在までレビューを上演し続けています。19世紀世紀末には画家のトゥールーズ=ロートレックがこの店に入り浸り、数多くの絵画や商業用ポスターを制作したことでも有名です。

パリの中心部モンマルトルに位置し、建物外観には大きな赤い風車〔ムーラン・ルージュ〕があり、それがランドマークになっています。840名収容の館内は中央に大きなステージがあり、何十人もの踊り子のレビューは壮観でした。わたしが行ったときは大きな水槽をステージに配し、水中バレーの趣向もあり非常に驚きました。またダンスの幕間にはスタンドアップコミックのお笑いコーナーもあり、観客を飽きさせない演出で計算されつくしたエンターテイメントショーの世界をじゅうぶん堪能しました。

ほかに印象に残っているのは客層について。有名な店で団体旅行のコースに入っているので、マナーの悪い客が目立っていたこと。しっぽりした男女の濡れ場的寸劇のシーンに大声をあげ冷やかした輩がいて、ほかの観客に「しーー」〔静かに!〕と注意されていました。声をあげたのはすぐにアメリカ人の団体客だとわかりました。当時はまだアメリカからの観光客が多い時代なので「またアメリカ人だよ、けっ」という場内の蔑みの空気はよくわかりましたね。
しかしながらロビーに飾ってあったロートレックのポスターは素晴らしかったし、本場のフレンチカンカンは感動ものでした。そんなムーランルージュでキャバレーショーを初めて見た思い出でした。(波照間エロマンガ島 21/1/18)

(寸評)パリではよくムーランルージュの前をライブ前後に車で通ったけど中には入ったことないなあ。
先日ムーランルージュを舞台にした「フレンチカンカン」という映画を観て「こんな感じだったのかなあ」と思いを馳せました。6ポイント。

初めての京都遠征 (1)
~手続きって大変なのね編~

2020年4月に紫明会館にて行われる予定の「滝本晃司+知久寿焼+石川浩司弾き語りライブ」が11月に延期になったので改めてホテルの予約を取りました。
延期前には新幹線とホテルのパックが一度に予約できて楽だったので、またこれにしようかというのと、コロナウイルスの影響で間際に取ってもまだ空きがあるだろうと思ってましたが、これが誤算でした。
延期日の11月は丁度3連休で紅葉シーズン&Go to キャンペーン真っ只中。新幹線も自分の予算に合うホテルは既に満員。
ガビーン…、なんてこったい…。
一旦交通手段を考え直そうかと思い、高速バスを1度見てみました。確かにうちの最寄り駅から京都行きはありましたが帰りはコロナウイルスの影響(2回目)で運行していないという案内…なんじゃい!その片道燃料サービス!わしゃ神風特攻隊かい!
そこでふと気づいたのが新幹線の列車系態。今まで時間短縮したい理由で「のぞみ」しか見てなかったので、「ひかり」は?「こだま」は?どうなんだろということでもう1度見ると、「こだま」で空席がまだありました…。東京から京都までのこだまは約3時間30分。
取り敢えず「こだま」で向かう方向で往路を仮決定し、次に宿泊先へ。
ビジネスホテルではお手頃の部屋はないので(高いのばっかりしか残っていませんでした)。Googleで「京都 簡易ホテル」で調べたら、駅前にあるカプセルホテルが出てきました。値段は3連休なので、通常より少し高め(ビジネスホテル並)でしたがお風呂があり、コロナウイルスの影響(3回目)でGo toキャンペーン対象で宿泊費が少し安く、早いもん勝ちみたいな広告だったので即効決めました。
そして復路です。
往路は仮決定のこだまなので「ぷらっとこだま」で行けるかなとサービスで調べたらなんと希望時刻であり、しかもコロナウイルスの影響(4回目)で「ぷらっとのぞみ」という新商品がありました。一部の「のぞみ」で運転している列車が対象で丁度時間のタイミングが良いのがあったので思わずこれ!迷ってたらもう取れないと。そして仮決定の「こだま」も「ぷらっとこだま」で決定。
往路+復路をぷらっとシリーズにしたことで通常料金より2~3千円お得&飲み物付き、ホテルはGo toキャンペーンを適用(お代は現地払い)した結果、交通費は前回に比べたら約5千円程安くおさまってました。
新幹線と宿泊先はなんとか予約完了、最後に新幹線の指定席受け取りです。
いつもなら「みどりの窓口」で発券ですが、ぷらっとシリーズは東海ツアーズの商品なので東海ツアーズの支店へ行くか、東海ツアーズ表記の発券機でしか受けとることはできません。自宅(千葉県)から近くの発券機は東京駅。本番一発成功に自信がなかったので事前に手続きに行ってしまうことになりましたとさ。(もちっこ 21/1/18)

(寸評)ぷらっとシリーズでは痛い目にあったことがある。当該車両以外切符がすべて無効(払い戻し一切なし)になってしまうので、そこまで行く間の私鉄とかが遅れるとすべてパーになってしまうのだ。
そうなってしまった友達もいるし、ちょうど台風で新幹線が遅れた時も、その号数の列車じゃないと駄目なので、他の新幹線はどんどん来るのに、その号数の車両は4時間遅れでえらい目にあったこともある。
なので俺はぷらっとは怖くて使えなくなり、いつも金券ショップ。コロナのおかげで今はかつてないほど安いっす。5ポイント。

初めての京都遠征(2)
~京都駅から紫明会館までは未知なる景色ばかりで立ち尽くす街角…でもなくて楽に着いたーっ!編~

2020年11月21日。
とうとう待ちに待った運命の日。
この日は朝5時半に起床し、7時過ぎに家を出ました。
こだま号の出発時間は9時57分、京都到着時間は13時34分。出発時間まで少し早い気もしましたが、駅弁選びやら「ぷらっとこだま」のドリンクサービスやらお手洗いやらでいい具合で時間の消化ができました。
そしてこだま号到着、指定席は通路側。窓側にはトレンディエンジェルのハゲラッチョ(どっちの方言うてんねん)に似てる人が乗ってました。ハゲラッチョさんは私に「窓側にコンセントあるので、もしスマホ充電するなら線をつなげてますので良かったらどうぞ、すぐに電池すぐなくなっちゃいますからね。」と優しく声をかけてくれました。なんていい人なんだ、ハゲラッチョさん。ありがとう。
9時57分東京駅出発。
今まで用事で大阪へ行くことはありましたが、いつものぞみ号でしたので、各駅停車のこだま号で掛川駅辺りで駅弁を食べてゆっくり京都までくつろぎました。
余談ですが、去年、名古屋駅から東京駅へ向かう時こだま号に乗りましたが、各駅停車の場合は停車駅で5分待ち時間があるのですね。岐阜羽島駅、米原駅に停車して風景を見れたのは貴重でした。
13時34分京都駅到着。
京都駅から紫明会館のある地下鉄鞍馬口駅へ行くにはまだ時間が余っていたので、京都駅前コインロッカーに荷物を預け(空きが残り少なかったです。)、地下駅ナカの施設見学と宿泊先のカプセルホテルの場所の確認をしてから、鞍馬口へ向かいました。
鞍馬口駅に到着。開館時間にはまだまだ時間に余裕がありました。そこで駅前にあるスーパーに入り100円ショップで手提げのパンダ顔バッグと目が合ったので、もしライブで物販してたら買ってこの子に入れちゃおうと決めて購入。
それでも開館にはまだまだ時間があったので、1度紫明会館へ向かって周辺散策して時間つぶした後、漸く開館10分前になったので紫明会館へ到着しましたとさ。(もちっこ 21/1/18)

(寸評)あのあたり時間潰すところがあんまり無いよね。前にある公園くらいかな?
こだまは待ち時間は各所であるけど、たまにはゆっくり乗るのも楽しいよね。5ポイント。

初めての京都遠征(3)
~カプセルホテルで右往左往してウォーッと叫ぶ編~

さて初めての京都遠征(2)の続きです。
紫明会館に迷うことなく到着し、石川さん・知久さん・Gさん(出演順)ソロ弾き語りとしょぼたまセッションを堪能。終演後は物販でCD2枚購入して宿泊先に向かいました。
宿泊先はカプセルホテル、京都駅から地下街道を使って、ある地下出口から約1分の所です。
チェックイン時にカプセルホテルのシステムを聞き、リストバンドを貰いました。
「このリストバンドがセキュリティキーです。寝室の貴重品のロック、寝室エリアの扉開閉の他にレンタル用品の精算もできます。宿泊費はあちらにある精算機で前払いでお願いします。リストバンドをかざしたら料金が表示されますのでお支払いください。」
言われるがままにアタフタと自動精算機へリストバンドをピッ、Go toトラベル割引になった宿泊料金ドンと表示…あれ、割引になってないぞ?Go to トラブル発生。
「すいませーん。割引になってませーん!」
「失礼しました。」
すったもんだで前払い終了したので、荷物を置く為、先に4階の寝室へ向かいました。
カプセルホテル。泊まるのは今回が初めてですが、部屋の構造は大体知っています。
階上は嫌、ハシゴ昇ったり降りたりめんどくさいもん。階下でありますように…という私の願いは叶わず寝室は階上。仕方なくハシゴを昇って荷物を置いて一息。
そうだ室内着どこだっけ?タオルはお風呂かな?
カプセルホテル探検開始です。タオルは2階のお風呂にあり、室内着は1階フロント前にで発見して4階の寝室へ持って行きました。
あっ、ご飯まだだ。
お腹すいたー。
ラウンジにて軽食サービスがあるとHPにて案内があり、リストバンドで精算だから財布持って行く必要ないからいっかと思い、また寝室のハシゴを降りて3階にあるラウンジへ。
さぁ何食べようかな?と思った時に、「コロナウイルス感染対策により只今ラウンジでの食事は休止しています。」の張り紙を発見。
なんじゃい!そういうのは事前に案内せんかい!
仕方なく近所のコンビニでご飯を調達しに、また寝室(4階)、ハシゴ昇り降り、買い物、ラウンジ(3階)でご飯。
はあ、なんか全然休んだ気にならない。もう最後にお風呂に入って寝ようっと心に決め、この日最後の大移動、寝室(4階)、ハシゴ昇り降り、お風呂(2階)、寝室(4階ハシゴ登り)でようやく眠りにつくことができましたとさ。(もちっこ 21/1/18)

(寸評)ははは、俺も昔はよくカプセルホテルも泊まったなあ。エロチャンネルが無料で見られたでしょ?5ポイント。

初めての京都遠征(4)
~ロッカー訪ねて三千里、道中での遭遇、そして苦しい編~

京都遠征2日目です。
朝7時半に目覚め、早くご飯食べたかったので、すぐにチェックアウトしました。
11月22日の京都の朝は寒く、足首の芯に冷えを感じました。京都は本当に寒いなぁと思いながら、京都駅内へ。3連休の2日目はどのお店も朝から行列でしたが、なんとかお目当ての喫茶店でゆっくり食事して会計に地域クーポン券を利用。 朝ごはんの後、まだ時間があったので家族や友達へのお土産を買ったりしてました。
さぁそろそろ荷物をロッカーに入れようかな?と思ったところで、時すでに遅し。
様々な観光グループや団体さんが京都駅に終結して駅前のロッカーに空きはありません。
仕方ない、ちょっと遠いけど地下鉄の方にもあるからそこにも行ってみよう…と地下鉄に向かう途中のマクドナルドの窓側カウンターで座っている男性にふと目がいきました。
え?まさか、嘘やろー?と思い、もう1回チラッと。
うわー!石川浩司さんやー!何か怖そうな顔してるな…などと思った時、男性はお店から出て地下鉄へ消えてしまいました(笑)。
あ、ロッカー探さなきゃと我に返り再開しましたが、残念ながら京都駅内のロッカーは空きなし。
こうなったら紫明会館まで向かうまでの駅にあるかネットで探した所、烏丸御池駅と鞍馬口駅にあったので、途中下車は手間ですが数の多い烏丸御池の改札内のロッカーに荷物を入れ、無事に紫明会館へ向かうことができました。はー良かった。
そして知久さん・Gさん・石川さん(出演順)ソロ弾き語り+しょぼたまセッションを楽しんだ私は終演後、速攻で帰りの新幹線「ぷらっとのぞみ」に乗車して23時半頃に帰宅。家で母親から猛烈な消毒スプレー攻撃を受けましたとさ。 (もちっこ 21/1/18)

(寸評)マクドナルド見つかってたのか〜。ホテルが朝10時チェックアウトで会場入りが12時だったので、そこで朝飯食いながら時間潰してたのよね〜。怖い顔してた?まぁひとりでいる時にゲラゲラ笑ってたら、そっちの方が明らかに怖いけどね。6ポイント。

はじめてのお代は払えど観賞辞退

昨年(2020年)1月中頃。私はたまカラ開催の約束をしていた関西の投稿仲間のANAさんや西大路さんと、4月に予定されていた京都は紫明会館における石川さん・滝本さん・知久さん(以下・正式な呼称ではないと存じ上げながら便宜上《3たま》と表記させていただきます)のセッションありライヴの予約についても相談していました。結局たまカラは2月の10日に決行、3たまライヴは4月4日の土曜に予約を入れ、幸運なことに全員当選、4月を心待ちにしていました。

紫明会館でのライヴは一度拝聴に伺ったのですがそれはもう素晴らしい歓喜の空間で、いままで幸運に恵まれ千倉や服部緑地などの野外でも観て&聴いてきた大好きな3人の音楽がより密度・濃度を増してこちらの心をドカンと揺さぶってくる感覚が忘れがたく、生きているうちにもういちどあの感動を味わえるなんて僥倖などそうそうあるものではないに決まってる、これはもう配偶者と息子も巻き込んで予約するしかない、と決断したのです。

そして京都にお住まいながらもいつも予約するすべがなく見送って来られた西大路さんに、この機会に是非そうそう聴けないたまの音楽を生で味わってほしい、と思い、私が家族の分と合わせて4人分で予約を申し込んだ、という経緯があったのでした。


が。


御存知のとおり2月以降の新型ヴィルスの流行であれよあれよと開催は延期、11月21日に振り替えられる、ということでした。しょぼん。まぁせっかく当選したんだし、中止でなくってよかったなぁ、と思うことにしたのです。今から思えばたまカラの開催はほんとにタイミング的にギリギリでしたね。当日も部屋用の置き型クレベリンを買っていこうかと思いましたがすでに売り切れていて買うこともできませんでした。まぁなんとか11月には収束してくれてるよね…… さすがにね。


そして時は流れ。

11月、ライヴ開催月。ここにきて、それまで9月11日以降1日当たり100人以下で推移してきた大阪府の感染者数がまるで私を嘲笑うかの如く右肩上がりに増加し、11月3日に156人、7日に191人、14日には285人という完全な感染拡大ペースに転じました。


………………

何故? なぜ、今なのか。よりによって、キャンセル期間が終了した11月に入ってからって…… 私はこの呪わしい状況に絶望しましたが、ライヴは中止にはなっていません。観客はフルで入場させるが、対策を充分執ったうえで開催する旨インフォメーションされています。これはもう腹を決めて行くしかないじゃないか。私はそう思っていたのですが、私と嫁はんとの間には相当の温度差がありました。


狸子「……これは、あかんやろ。制限なしのフルやろ? 感染しに行くか、させに行くかのどっちかになるわ」


私は目の前が真っ暗になりました。運よく家族3人と西大路さんの分までゲットできた席です。今回のライヴは、是が非でも私以外の3人に聴いてほしかったのです。しかももうキャンセル返金は出来ないライヴ直近、このままでは我々はともかく西大路さんから預かって支払ったライヴの代金もまったくのパー、無駄になってしまいます。


念のため西大路さんのご意向も伺っておかないと… と連絡、すると西大路さんも正直なところ不安を感じていらっしゃるご様子なのでした。


オポ「なぁ、せめて会場まで行ってから考えへんか? 様子見て大丈夫そうやったら入ろう、ヤバそうやったら帰ったらええやんか」

狸子「あのな、会場まで行っといて入らんと帰れるか? 無理やろ絶対入るやろ」


そんなことはない、と言いたかったのですが、改めて常識的に考えるに、感染の特に多い大阪の子連れでとりわけ迂闊な人間、すなわち私、が京都に行くという、その行為自体が甚だ非常識で自己中心的です。それも全国の人が集まる場所に行くわけですから、いま我々が高々6,100円×3名分ていどの金銭を惜しんで来場し、その皆様を無自覚に感染させてしまったら? あまつさえ、それが元で落命される方が出てしまったら?? お詫びのしようも責任の取りようも何もありません。

そしてそのお金は、見方を変えると無駄にはなりません。いまアーティストや主催者は本当に大変な状況です。相次ぐ開催中止で、廃業される方も少なくないと聞きます。その中で頑張っている皆様への、応援資金と割り切ってしまえばいいのです。


ここにきて、ようやく私は諦めることを決断しました。まさに、断腸の思いでした。


11月18日、涙で曇った視界のまま、西大路さんにやはりライヴ観賞は断念します、とメールを送信しました。西大路さんは代金のことは気にしなくてもいい、と仰ってくださいました。私が誘ってしまったせいで大きな損をさせてしまって、本当に申し訳ない限りです。

ただ「いや内心ホッとしました。暴走しがちな我々を冷静に諫めてくれた、さすがオポムチャンさんの奥さん! ますますお会いしたくなりました」と、コメントしてくださいました。


ANAさんと主催のSOLE CAFEさんにも断念の旨メールをし、その日とライヴ当日は心の底から落ち込んでずっと部屋に独り閉じこもっていました。ANAさんはその決断も良い判断だと思います、と慰めてくださり、SOLE CAFEさんからもご丁寧な返信を頂戴しました。ライヴの配信もご案内くださいましたが、18,300円が泡と消えた上にさらに出費して生ではないライヴを拝聴する気には、主催者様や石川さん・滝本さん・知久さんには誠に申し訳ないのですが、なれませんでした。本当に見に行きたいライヴだったのに、もう心が挫けてしまっていたのです。


本当に悲しかった。本当に悔しかった。

でも誰も悪くないのです。ことに主催・演奏家サイドに関しては。また、私がその日に京都に行くこと自体が、悪だったのですから、行かなくて正解だったのです(もちろんしっかりと対策を執り、覚悟を持って感染の多い地域からお越しになられた来場者の皆様を責めるつもりは毛頭ありません。会場では大変きっちり対策がなされ、観賞マナーもすばらしいものであった、と窺っております。私は大変な粗忽ものである上に子連れで、さまざまな注意すべき事項がおろそかになりがちな状態であるため、“私”が京都に行くことは悪だ、と書いております。どうかお気を悪くなさらないでくださいね)。嫁はんの判断は、正しかったのです。私は改めてこの妻を誇りに思いました。そして嫁はんの思った通りに大阪の感染者数は断念メールの翌日に338人に増加、11月22日の490人をピークに、年明け1月3日までゆるやかに微減していくのでした。本当に、私をライヴに行かせないことを目的にしたような感染者数の推移でした。

でもまぁ強いて言えば会場は開いていたわけで、観賞できなかったのは一方的に中止されたのではなくこちらが勝手な判断で来場しなかっただけの話ですので、それに対して悲しい、悔しいなどとほざく方が愚かで身勝手な行為とも言えましょう。なに勝手にいじけとんねん、お前が来んかっただけやないか、ほんまに観たかったんやったら嫁はんぼうず打ち捨てて防護服着てでも観に来んかい、ほんで2日分アーカイブ買って観んかい、というね。


3人のその日にしか聴けなかった、最高だったであろう音楽たちに思いを馳せて泣いていると、彼らにかつて近かったあるアーティストの歌声が私のかなしみに満ちた脳裏の底から響いてきました。


「♪タイミングがワルイ 別に誰も悪くない…」


嗚呼… そうだ。悪いのはタイミングなのだ。べつに、誰しも悪くはないのだ。


ひょんなところで柳原さんの昔のソロアルバム曲に救われた私は、この悔しさをバネに投稿を再開するぞっ!! と意気込み、すこし見えにくくなった目で今夜もこちこちキーボードを不器用に叩くのでした。べつに誰にも望まれてないのにね。アハッ。(オポムチャン 21/1/18)

(寸評)このイベントは本当に大変だった。前日まで「当日でもキャンセルの人には返金すべきではないか」という議論が出てた。しかし主催者はこのイベントだけをやっているわけではない。なのでそれを認めると、すべてのイベントに対して同じように当日でも対応せねばならず、夫婦ふたりだけで主催してくれているので、この二日間だけでも400人以上の人にメールで確認するのは不可能、という判断だったんだよね。
急遽配信も行ったのも、少しでも来場者が配信に切り替えてもらえればという判断で、それも配信をやるやらない、アーカイブを残す残さないで意見が割れ、スタッフもメンバーも連日メールの嵐で相談して大変だった。
なので本当にこういう方には申し訳なかったす。日々予想できない展開に太刀打ちできなくて。
そしてこれを書いてる現在、大阪は東京を超える死者数...。
とにかく生きることを最優先に。他のことは全部後回しでもなんとかなるからね。
申し訳ないポイント、15ポイント。

初めてのツイッターアカウント凍結

  それは2020年12月13日のメカイシンのライブが終わった後に起きました。
アパートに帰ってきたのが午後11時ごろ。ノートPCを立ち上げて
一言ツイートしてライブの感想を書こうとした12月14日に入ったちょうど
いきなりアカウントが凍結されました。
画面には「電話番号を入力してください」となっていたので、
固定電話の電話番号を入力したものの、反応なし。

よく見ると「携帯電話の電話番号」でした。
困った。私は携帯電話を持っていない。
すぐに「異議申し立て」をしましたが、ノートPCに送られてきたメールは
機械的で事務的なものでした。

確かに18禁の絵を投稿してるので、心当たりはあるのですが、
まずは「警告」から入るはず。いきなり「凍結」はひどすぎます。
私より絵が上手い人のアカウントはいくらでもあるはず。

12月18日にTwitter社から送られたメールからログインを試みたものの、凍結中。
12月23日病院から帰ってきて「異議申し立て」で送られたメールにこう返信しました。
「このメールだってbotが機械的に送ってきているんだろうな(´・ω・`)」
その後ツイッターを見たら、凍結が解除されてました。一体何だったのだろう? 

とりあえず言えることはアカウントが凍結されたら、携帯電話の電話番号が必要だということです。(ももか777 21/1/11)

(寸評)うわー、俺も持ってないからなあ。凍結されたら本当に困るからエロい画像は載せないようにしよう。だけどAIが機械的に判断してるのなら、ホルモン鉄道もヤバいかもね。
政府も「携帯料金引き下げ」をこのコロナで慌ただしい中審議してるけど、オイラにゃなんの関係もねー! 6ポイント。

はじめてのAll Toilets are closed(※下品です・閲覧注意)

大阪の街に大型台風の爪痕が未だ残っていた2018年晩秋、11月。肌寒さが日に日に増してゆく朝空の下、私は自宅近くから通勤のバスに駆け込み阪急電車宝塚線の豊中駅へ向かいました。ここから国鉄西九条駅を経て徒歩20分の私の当時の職場へ赴く、約1時間の出勤のスタートです。

駅前のバス停車場からエスカレーターを駆け上がり、この阪急電車のターミナル駅たる大阪・キタの梅田駅へと走る急行電車に乗らんと改札を通過した私の腹に、一抹の不安が走りました。

どうもお腹が冷えている気がする。

ここんところ急に夜の空気が冷たくなってきていたので、迂闊に腹を出して眠ってしまうとお腹をブレイクしてしまいます。どうも今朝はそれをやってこましてしもうた、そんな陰核…もとい感覚がしました。いちいち下ネタを挟まんと話が出来んのかお前は。まぁともかく私はお腹を冷やしてしまっているようなのです。

ましかしその時点では気がする、程度の感じでしたので私は職場までなんとか持つかな、なぁんて軽い気持ちで急行電車に揺られておったのですが、どうも様子がちょいとおかしい。

気が付くと不安は一抹から十四抹くらいに増大し、梅田駅に着くころには私のお菊は上方向からの凶悪な圧力に耐え続けていました。ぐぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶ、痛い痛い腹が。そしてなかなか差し迫ったところまで、マグマのような奴が攻めてきている。やばい。

しかしまだ冷静さを保っていた私は、広い阪急梅田駅構内の中でも比較的空いていて個室の多い茶屋町口改札そばの手洗いを一直線に目指して早歩きを敢行しました。うーん我ながら冷静な判断。と調子に乗って自画を自賛するもんだから言わんこっちゃない、空いている筈の茶屋町口のトイレにはすでに先客があり、2分ほど待ってもちっとも個室が明く気配はありません。

これでは出勤に支障を来たします。私は茶屋町口のお手洗いを諦め、国鉄大阪駅の連絡橋口そばの新しい手洗いを目指すことにしました。そう、この手洗いは阪急から国鉄へ流れてくる乗客の動線から少し外れているため私的穴場のお手洗いなのです。くふふ、ここならきっと空いていよう、と、私はまたも差し迫った状況であるにも関わらず冷静な判断を下した己を称賛してその穴場へ向かったらばなんということでしょう、おっさんの列が苦悶の表情を浮かべてクネクネモジモジしてけつかるではありませんか。ここでも3,4分待ちましたが誰の一人も個室から出てきやがりません、私は穴場ですら己が穴を開放できなかったのです。なんて日だ。私はクネモジおっさんの群れを尻目に国鉄大阪駅の改札をくぐりました。

せめて、改札の中の手洗いは空いてるだろう…! もう手洗いの質など構っている場合ではありません、お菊が頑張って留めてくれている溶岩流はもうそこまで来ています。願いを込めて入った連絡橋口改札中の手洗いは…… 忌々しいことにまたしても困った顔をしてクネクネモジモジしているおっさん達。5人居ます。そしてここでも私は同じようにクネクネして列が短くなるのを待ちましたがどういうわけかいつまで経ってもどの扉さえも微動だにせず、物音すら聞こえてこない始末。だんだん朦朧としてきました。

さらに時間を4分無駄にし、私は階下の駅構内で一番広い手洗いまで足を引きずって行こうとしましたがいつまでも大阪駅に居たのでは遅刻してしまいます。せめて最寄りの駅まで行こうじゃないか… それにあまり今更アップダウンを繰り返すと、お菊が決壊してしまいかねません。私は決意とケツを固めて満員の大阪環状線に乗り込みました。が。

一駅でもう無理!!! キョァァァアア!! となり、私は半泣きで尻肉を極限まですぼめて異様な歩き方でちょらちょら福島駅ホーム階下の便所へ急ぎました。もう、もう持たない……!! しかしそこでもデジャヴのようなおっさんの列。私は顔面を白黒させながら階段を上り、次の電車を待ちました。呪いに満ちた瞳をして。

次の野田駅を般若の顔でスルーしてついに職場の最寄り駅・西九条。私はひょっとこのような顔つきでしかし猛烈に焦燥しつつ、見た目と心理が乖離した狂気的な状態で限界のお菊を絞ってちょこちょこ便所を目指しました。愛テロ、相手路、空いてろ、個室………

これ、なんかのマニアックなホモAVのドッキリ企画でもやってんのか……? ここまで来ると意図を持った何者かが近辺のあらゆる便所を封鎖しまくっているとしか思えなくなってきました。ことごこく訪ねる便所訪ねる便所、5人ほどの眉間にしわを寄せて頬を染めクネクネ悶えるおっさん・おっさん・おっさん……… そして一向に開くことのない、個室の扉。無情にも経過する、時。もはや私の普段の出社時間と相成りました。

デンシャノベンジョ、全敗。私はなぜ自分がこんな目に遭わねばならぬのかと己の不幸を嘆きました。がそれも一瞬のこと、嘆くよりも今は耐えに耐えてきたお菊を早急に慰撫してやらなければ。職場まで20分、歩けるか…? いや、歩かねば。40にもなって路上でマグマを炸裂させるなんて事件、起こしたくはないのだ。堪えろ、子等エロ… 嗚呼腹が激烈に痛い。もはやお菊が痺れてきた。でも進まなきゃ、一歩ずつ、祝福の地へ向けて……!!! 

普段なら階段を駆け下り&駆け上がる安治川トンネルもこの日は阿修羅の面してエレベーターで上下、もうすぐ職場です。ハッ!!? こ、この安治川トンネルの西区側すなわち職場サイドには、公衆便所があったじゃないか!!! やった!! 助かった!! 私の中で最低ランクのクサ汚い便所だがもうそんなことはどうでもいい、便器でさえあればもう何だっていい、いざお菊、解放だ!!!

公衆便所は台風の影響で破壊せられ閉鎖されていました。

私は獰猛な腹の痛み・邪悪なお菊への圧迫を内に秘めつつも虚ろな表情をして、極端に尻を窄めてよろよろと、しかし速足というさながらゾンビのような格好で職場へ進みました。死神が私の可憐なお菊を鎌でつついています。もはや吐き気・悪寒・戦慄さえしてきました。私はこの朝、一体何か所の便所に敗北してきたのでしょうか。私もあのおっさん等と同化してクネクネモジモジを続けておれば、今頃エデンの園で天使たちと戯れ微笑んでいたのでしょうか。いや、もうそんなことを考えるのは止そう。私は即座に支店の扉を開けられるように鍵を片手に持ち、青白い涙目の狂人のまま往来を行きました。

扉を開けると店長が作業をしていました。

オポ「オヒャース!!!!!! シチュァーース!!!!!!!」(お早うございます、失礼します、の意であろう言葉)

そう絶叫するや否や私は鞄と鍵を壁にブン投げ、驚く店長を無視して神速で便所へ突入しました。バタン!!!!

ようやっと、むごいむごい仕打ちから、お菊は赦されたのでした。光が射し、天使がやさしく私の涙を拭いました。アーメン。

オチとしてお菊大爆裂のうえ大遅刻、という結果でなくって大便…もとい大変申し訳ないのですが、本当にあそこまで行く先々の手洗いにシャットアウトされ続けたのは初めてでした。どのおっさんも前日の冷え込みで腹を破壊せられたのでしょうかしらね。それにしてもほんとにどの個室からも一切の物音がしなかったし、やっぱり特殊な性癖を持った方むけの撮影が秘密裏に… って、もうええっちゅうねん。こんな内容の長文投稿でほんとすいません…… (オポムチャン 21/1/11)

(寸評)最近は貧乏な若者が、ネットカフェ代わりにトイレの個室を使っているという噂を聞く。無料でゆったり座れて、なんなら飯も食うという剛の者もいるらしい。
ところでそれだけ菊力があるのは若いね。俺も昔だったらそこまで我慢できたかもしれないけど今は無理。最初の駅で脱糞するね。オポムチャンももう少し年を取れば「ああ、あの頃は菊力があったなあ・・・」と回顧しながら脱糞していくサマが、今から見えるよう。肛門括約筋、鍛えようね。9ポイント。

初めてのリコーダーの魔術師

小学1年か2年かのこと。通っている小学校に「リコーダーの魔術師」と呼ばれる音楽家が演奏にやってきました。体育館で全校児童で見ました。この音楽家はとにかく小学生のわたしが感心するほど笛の名手で、クラシックから童謡まで多彩なレパートリーを演奏しました。
しかし、ただ演奏するだけでは間延びするからか、途中魔術師は最前列の児童を指差して舞台上にあげ、ちょっとしたエンターテイメントショーを行いました。最初にその男の子に耳元でなにかつぶやくと、男の子の背後から覆いかぶさるようにしてリコーダーは男の子に吹かせて、運指は魔術師が行ない、当時の大ヒット曲「黒ネコのタンゴ」を見事吹きとおしたのです!!
これには全校児童「おおおぉぉ」と声をあげて感動しました。男の子はまんざらでもない顔をしていました。もちろんこれはあらかじめ打ち合わせをせずに、曲が成立したことに驚いたわけです。
この「黒ネコのタンゴ」というのは、童謡歌手の皆川おさむが発表した1969年大ヒットとなった曲です。皆川おさむは私と同じく1963年早生まれの同学年なので、余計に印象に残ったのでしょう。でも、今から思い返すと芸能人が「営業」で学校に来て演奏するというのは、どこかしら鼻白むものがあるような気もしました。小学1、2年の頃は感動しても、あとからその体験を小学校高学年になってから振り返ると、なぜかしらどこか本物ではないというか、いんちきというか、B級芸能人というか、教育的な胡散臭さというか、そんな思い出として思い出されてしまうのでした。これはわたしがひねくれていただけかもしれませんが。
そんな思い出を書いてみました。(波照間エロマンガ島 21/1/11)

(寸評)それ誰だろう。もしかしたら知り合いかも...。6ポイント。

初めての日焼けサロン〔1982年、20歳〕

波照間エロマンガ島です。こんばんま。
わたしが日焼けサロンのビーチボーイ原宿に初めて行ったのは1982年初秋、20歳のときでした。きっかけはアンディ・ウォーホルが発行していたニューヨークのカルチャー雑誌「Interview」の姉妹版の雑誌「Studio Voice」に広告が掲載されていたのを目にして興味を惹き、行ってみたしだい。
当時わたしは大学1年生で、ニューウェイブミュージックが好きでディスコにもよくかよう、ロンドンのサブカルチャー大好き青少年でした。一方でハワイやアメリカ西海岸のサーフィンカルチャーにも興味をもちはじめていて、それで日焼けサロンの存在を知り、これに食いついたというわけでした。

このビーチボーイ原宿は山手線原宿駅裏の隠田〔おんでん〕という住宅街の中にあり、一般住宅を改造して営業していました。オーナーのナターシャ・スタルヒンさんは元巨人軍投手のヴィクトール・スタルヒンさんの愛娘で、美容と健康の観点から日焼け器具を輸入し、日本で初めてのこの日焼けサロンをオープンさせたといいます。初めて訪れたときナターシャさんの説明を聞いたのですが、日焼けマシンはやりすぎは駄目だけど、適度な利用ならば身体の新陳代謝を促すのでお勧めできます、とのことでした。
紫外線入りの蛍光灯が底面と天面両面にあるマシンにココナツ系オイルを肌に塗って入ります。30分ほどで汗をびっしょりとかいてマシンから出て、シャワーを浴びます。それで週に数回通うと肌が小麦色に変化してきました。わたしは色白なので真夏に海水浴など行くとすぐに赤黒くなってしまうので日焼けは嫌いだったのですが、日焼けサロンではそんなこともなく、きれいに日焼けしてくれました。20代前半の数年間はよく通っていました。

でも、そのことを人に話すのはなぜかとても恥ずかしく、大学の同級生にもまた高校時代の友人にもなぜか話すことがためらわれました。あれから40年近く経ち、今まではまったくの黒歴史として記憶から封印していましたが、いま思い切ってここに初体験としてカミングアウトしたしだいです。まぁ若い頃はいろいろなことに好奇心が旺盛だったのでしょうね。そんな初めての日焼けサロンの話。(波照間エロマンガ島 21/1/11)

(寸評)実は未だに日焼けマシーンの存在の意味がわからない。自然に焼いたのならともかく機械で焼く意味が。まあ褐色のボディがカッコいいというのはなんとなくわかるのだけど、それを強引に作るというのが。
まぁそんなモテることとまったく関係ない安さ最高のダサい服装でアングラ音楽やってたからねー。いろんな青春の過ごし方があるのだよね。6ポイント。

初めてのコロナ禍の神宮球場(2020年9月)

毎年応援に行っている東京六大学。春の大会はコロナの影響で八月に一試合勝ち点制で行われ、秋の大会は続く九月に二試合勝ち点制で開催されました。
春の大会は行くことが出来ず、秋の大会だけ応援へ行きました。
入り口で手の消毒と体温チェック。
わたしはいつも応援席に座っているのですが、コロナの影響で応援席が無く、バックネット裏、内野席がすべて自由席として開放されました。ここぞとばかり通常は高価なバックネット真裏に陣取る私。通常は応援席に座っているので相手チームとは席が違うのですが、コロナのおかげで敵チームと混在する羽目になりました(笑)。
マスク着用、席は一席ずつ空けて座るよう指導されます。大学応援団はそれぞれ外野席におり、通常通り応援しています。
わたしたち一般客は、コールや校歌、応援歌は禁止。拍手をすることだけ認められました。
普段とは違う席なので、選手の動きやイニング間の選手の動きが見れて、新鮮と言えば新鮮でした。また外野の応援団の姿もゆっくりと眺めることが出来ました。・・・普段は攻撃時も守備時もずーーっと応援しているのでそんな余裕はないんです(笑)。
校歌斉唱です。カラオケも行けず、球場でも歌えない、大学ラグビー選手権以来の生校歌を聞いて、ジーンと涙ぐみそうになりました。(わいわい 21/1/11)

(寸評)ライブハウスと感染対策はほとんど同じだね。ライブハウスも消毒やマスク着用はもちろん、声出し禁止、拍手のみ可、席はひとつおき。もちろんコール&レスポンスも禁止。
声で応援できないので、拍手の音だけはいつもより大きいのよねん。6ポイント。

初めてのコロナ禍での秩父宮(2020.12月)

今年の12月の第一日曜日。恒例となっているラグビー早明戦へ行ってきました。対抗戦グループの最後の試合は、前年の成績がどうであれ毎年早明戦に固定されているんですね。今年はコロナのため座席数は大幅に減らされ、一席空けて座らなければなりません。そのためただでさえプラチナチケットなのに、4分で見事ソールドアウト。まあ一週間徹夜したころに比べれば・・・うん。
自由席で並ぶのも辛いため、はじめて指定席をとっちゃいました。うーん太っ腹! それでもB指定の3000円ですけど(笑)。
席は一席開け。新鮮だったのは立ち席側の上部が各大学のベンチ入りが出来ない部員の控えになっていたことです。 売店は出ていたけど、各大学や協会の売店、大学スポーツの配布が無いのはかなり残念でした。

試合は、校歌も無し。普段は「おーせ、おーせ!」「とめろーーーーっ」「×××!(大学名)」のコールですが、それが皆拍手だったということです。
それでも「あーノットストレートだ」「あーノックオン」と声が聞こえてきましたけどね。よく言われますが、その分両チームの選手の声が聞こえてよかったです。試合終了、表彰とインタビューとメディア向け記念撮影会。

滅多にない光景でしたが、なんか物足りなかったなあ。(わいわい 21/1/11)

(寸評)ライブハウスも物販買ってくれた人には握手とかしてたけどそれも無し。俺は希望者にはハグとかもしてたのにな〜。
ああ、早く合法的に女の子とハグしたい(笑)。6ポイント。

初めての新国立競技場(2020年1月)

これは2020年の大学ラグビー決勝の話です。
25年ぶりの対抗戦全勝対決を制した明治大学。リベンジをかける早稲田大学。そして大学決勝の舞台は新国立競技場。しかも早明戦という黄金カード。この年はラグワールドカップの影響もあって、チケットは3分で完売! これは参ったなあ・・・。一応自由席は確保しました。

秩父宮と違って、新国立は千駄ヶ谷の目の前です。友達とゲートでまちあわせ。入場までに三カ所のticketチェックがありました。最初はチケットを持っているかどうか。無いと敷地内にすら入れません。二つ目が荷物チェック。三つ目が回転ゲート。つまり席を取ってからチケットを友達に渡す、という芸当が出来ないのです。
敷地内には「××大△△支部」と旗を持った集団がたむろしています。地域ごとに応援に来るのですね。

新国立はとてつもなく広かったです。とにかく広大。旧国立のすり鉢型の光景もよかったけど、こっちもいいなあ。
特徴はトイレが多かったことです。それも一方通行型です。売店も多い。まあ競技場価格ですけど、許容範囲です。もちろん持ち込んだので買わなかったです。
席を確保してから友達と新国立の中を一周。おいおい通路で酒もりしているグループがいるよ。まあ旧国立は、毎年大学の同期会的な物が行われていましたけどね。
前からカメラをもった人たちがやってきました。ゆーちゅーぶチャンネルの撮影でしょう。友達が、
友「××さんですよー」
私『なんで知ってんだよ』
友「よくテレビに出てますよ」
握手して、写真撮って貰いました。
「×大勝ちますかねー」
『勝ちます』
この即答がいいですよねー。大学の学生チケット売りでも「今年は勝ちますか?」「勝ちます」という部員の即答振りが素晴らしい!
動画に私写っているかなあ(笑)。

秩父宮は陽が落ちるとめちゃ寒くなるので、完全防備できたのですが、新国立はハーフの屋根があり且つ上から見下ろす形なのでそんなに寒くなかったです。
そして・・・一番の難点がサッカー天皇杯でも言われていたことですが、横に歩く通路が無い事でした。これは相当きついですよ。
詳しく説明すると、普通自分の席へ行くには、ある程度検討を付けて、立てに入りそして横に歩くじゃないですか。その横の通路が無いのです。つまり外周を周り、自分の席に向かって縦に入り、そしてその席に着かないとならないのです。その分縦の入り口は沢山あるものの間違えると一度外周へ出なければなりません。サッカー天皇杯でかなりネットで非難されていたので、最初は自由席は横一列をつぶして通路にしていましたが席が埋まるにつれてその通路も席を戻したので横移動できず、また前の席との間がめちゃ狭く、移動するときには座っている人が足を抱えないとだめなんです。これは何とかしてもらいたいです。

試合が始まります。満席でも57000人以上が入りました。新国立より狭かった旧国立の66999人ってどんな状況だったんだろう(笑)。

ここで意外だったのが校歌斉唱です。早明戦は98%が現役学生、大学OBOG、大学関係者(職員、教員)が見に来るのでどちらかの校歌斉唱時は必ず起立して校歌を歌うのですが、今回は違っていて、合わせても四割くらいしか立ち上がりませんでした。これは意外でした。たぶん「ワールドカップがあったから見に行こうかな」「新国立できたばっかりだから見学しようかな」的な人たちが多かったのかもしれません。

試合は下馬評で圧倒的有利だった明治を早稲田が倒し、11季ぶりに優勝でした。早明戦は下馬評があてにらなず、全勝で来ていた早稲田を下馬評で不利だった明治が勝った年などいくつもあります。こういうのが面白いです。(わいわい 21/1/11)

(寸評)あ〜、俺新国立競技場たぶん駄目だな。その「座席が狭くて途中トイレに立とうとしたら、他のお客さんが膝を抱えなければいけない」という状況が。これ、小劇場でも時々あって「いつでも簡単にトイレにいけない」という状況が閉所恐怖症的な感じのストレスでめまいとか起こしちゃうので。
特に人よりちょっとだけ体もでかいしな。ま、完全にスカスカのイベントとかだったら行けるかもしれないけどね(笑)。6ポイント。

初めてのマラッカのセント・ジョンズ砦の砲台〔2004年11月22日、42歳〕

こんにちは、波照間エロマンガ島です。
2004年11月、わたしはシンガポールからバンコクまで陸路でマレー半島を縦断する旅をしました。シンガポールからバスに乗ってマレーシアを北上、マラッカ、ペナン島、そしてタイへ入りハジャイなどを経て、バンコクまで約1800キロを移動する旅でした。エアチケットは往路が東京からシンガポール、復路がバンコクから東京という「オープンジョー」というチケットを購入したのでこのような旅が実現できたのでした。途中で宿泊する都市は、気のむくままに自由に決められたのです。

さてシンガポールのバスターミナルでマラッカ行きのバスに乗り込み約250キロ、4時間半ほどかけて北上しマラッカのバスステーションに到着しました。時刻は午後6時半になり、あたりはずいぶん暗くなっていました。最初に両替所をさがしたのですが、バスステーション内には見つからず。実はシンガポールを発つ時にマレーシア通貨のリンギットに両替するのを忘れたので、ここでわたしは無一文になってしまったのでした。いきなりの大ピンチです。
しかし40数年も生きていれば、こんなときになんとかする術は身につけているもの。日本にいたときに何度か使った手を思い出しました。タクシーに乗って途中で銀行に寄らせてそこで両替〔あるいは引き出し〕してから目的地に向かうというものです。そうやってピンチを切り抜けたことが何度もあります。そんなわけでわたしはタクシーに乗ると、ドライバーにホテルの名前を告げて、マレーシアの通貨を持っていないので最初に両替所に言ってほしいと伝えました。するとそのドライバーはとても親切で、その場で手数料をとらずに公共のレートでシンガポールドルからマレーシアリンギットに両替してくれたのです。わたしは感謝の言葉を述べ、旅先で受けた親切をかみしめました。そしてマラッカの第一印象は非常によいものになりました。ホテルにチェックイン後、街をぶらぶらするとオランダとイギリスが統治した歴史から西洋的な町並みがまだ残っていて、オリエンタリズムの情緒を誘うことじゅうぶんな景色が広がっていました。



翌日は半日タクシーに乗ってマラッカの町をぶらぶら観光しました。印象に残ったのはセント・ジョンズ砦。市内東部の小高い丘の上にある砲台跡です。18世紀当時この地を支配していたオランダ人が作った砦で、大砲が雨ざらしでそのまま置いてありました。
マラッカ海峡は全長900キロ、幅60キロほどでマレー半島とスマトラ島のあいだを通る海峡なので、当然マラッカを襲う船舶に対して砲台が設置されていると想像したのですが、そうではなく、これがなんとオランダ人が支配しているマラッカをマレー人の攻撃から都市を守るため、つまり海側ではなく陸側に大砲が向いているとのこと。これは歴史を知らなければわからない事実ですね。でも、見晴らしがよく風がよく通り気持ちよかったです。

それと、わたしはマラッカというのは、1979年発表のパンタ&HALの「マラッカ」というアルバムの収録曲の印象が非常に強かったので「こんな街なんだろうな」と想像していたのですが、そのイメージがまったく裏切られたということ。それは当時流行ったクロスオーバーサウンドっぽいテイストだったのですが、まったくそんな都市ではありませんでした。あれはちょっとがっかりしたかな。そんな初めてのマラッカの印象でした。(波照間エロマンガ島 21/1/11)

  (寸評)俺も昔ひとりでシンガポールからバスに乗ってジョホールバルで一泊してからマラッカ行ったな。砲台にもなんとなく行った記憶はあるが詳しくは覚えておらず。でかいショッピングセンターを缶ドリンクを求めて延々歩いて歩き疲れた記憶。あとニャニャ料理というのも食ったが、これまた味はあんまり印象ないな。6ポイント。


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