ザ・レポート(56)
今まで石川がかかわってきた全ての活動、つまり「ソロ」「パスカルズ」「ホルモン鉄道」等のライブ、CD、ビデオ、またテレビ、ラジオなどのマスメディア、演劇、書籍、ニヒル牛、コレクション、すごろく旅行、このホームページ、その他とにかく俺がかかわってきたありとあらゆる表現活動の感想、評論、思い出等を募集します。
既にどこかに発表したものの再録も自分で書いたものであれば0Kです。批判やお叱りももちろん構いません。他の人のプライバシーの侵害や、特殊なケースを除き、基本的に全て採用します。何についてのいつのもののコメントかをなるべく分かりやすくして、メールにて題名「レポート」でお願いします。投稿ひとつ10ポイントです。裏話等や本人のそれに対する意見や感想なども付けていくつもりなので、気軽に応募して下さいな〜っ。
例えば俺本人も知らない「こんなとこに載っていた」情報及びその感想とか「すごろく旅行を実際やってみた思い出」など俺にインスパイアされたものでもOKですよ〜ん。
石川浩司鵠沼凱旋公演「喫茶石川」
お話:石川浩司、話し相手:後藤勇
2025年8月23日 本鵠沼RoundCafe
石)ああ、久しぶりに故郷鵠沼に帰ってきたなー。 懐かしいけれど、もう8月の下旬だというのになんだかちょっと暑いから脱いじゃおっと。 (ランニング姿になる)ああ、なんだか自分に戻った気分がします。 よし、マスター、アイスコーヒーをください。 ブラックでお願いしまーす。おや、そこにいるのは後藤さんではないですか。
後)後藤です。
石)たまたまですね。まさか鵠沼にいらっしゃるとは思いませんでした。
後)まぁ、たまのたまたまで。 去年も来ていただいてね。 ありがとうございます。 今年も凱旋して、里帰りのライブですね。 この間、本当にたまたま通ったんですけど、 江ノ電の鵠沼駅の近くのめぐみルーテル幼稚園の卒園だそうで。
石)僕が幼稚園に通った頃はもっと駅に近かったんですが、何十年か前に鵠沼駅が移動して。
後)そうなんですか。 また今年も午後二時十五分のまちあわせ、ありがとうございます。
(歌う)
げんげんげろげろげげげろろ
バス停につかまり赤いバスを待つ
兄さんはヨシムラでハムカツ買って食べ歩き
粉がついてる口のまわりにハムカツの
粉がついてる口のまわりにハムカツの
げんげんげろげろげげげろろ
鵠沼ラウンドカフェの前で
昼二時十五分の待ち合わせ
不便だ、不便だ、不便だ、不便だ
でも不便のほうが便利よりだいぶいい
石)って、それほど不便じゃないですけどね(笑)。
後)ありがとうございます。本日の一曲目、まちあわせでした。
石)後藤さんの演出で、これをやれと言われました(笑)。
後)ここから先はほぼ何も決め事はないんですよ。 石川さんはたまで一躍有名になりましたけれど、 その前とかその後とか『たまという船に乗っていた』以外のことを話してみたいなと思って。去年のライブの後で「石川さんの最近の弾き語りは人の死を扱った歌が多いですね」って話をしたんです。それで、石川さんの歌ってどこから来てるんだろう、創作ってどこから生まれて来るんだろう、とか、石川さんに影響を与えた人って誰なんだろう、と思ったんです。 まずは今、石川さんが参加しているパスカルズという大所帯のグループが三十周年を無事迎えたそうで。すごいですよね。
石)たまは十九年しかやってないから、それよりも長くやってます。しかもまだ継続してますからね。 歌もちょろっとありますけど、基本はインストのバンドですね。
後)聞いた話によると、リハーサルの時には、石川さんだけには譜面が渡らないそうで。
石)それどころじゃないですよ。譜面が渡らないのは当然で、リハのあるメールすら来ないんですよ。 だから、今日メンバーみんな吉祥寺に集まってるけど何かあんのって言ったら、リハだよって言われて(笑)。バンマスのロケット・マツさんは、もう石川くんはライブ本番の即興が一番いいから下手に曲なんか知らなくていい、もうその場で反応してやってくれるのが一番いいから、 リハなんか来なくていい、って言ってる。 (笑)なのでリハは僕だけ一人無視されて。 そういう存在なんです。
後)果たして音楽家と言えるのかどうか(笑) 。
石)たまは二十二年前に解散して、もうギターを弾いてた知久くんともお別れかと思ったら、 その数日後にはパスカルズのヨーロッパツアーでずっと一緒で、全然別れられなかったというね。いまだに別れられないね。
後) それで、たま以前のことになりますが、いつ頃に音楽を始めたんでしょうか?
石)最初はね、僕ね、中学の時にちょろっと詩を書いてて。その頃、ちょっとギターも持ってみたんだけど、 手先がとにかく不器用なんですよ。 未だにFのコードとか押さえられなくて、もう指が二本か三本のコードしか押さえられないので、 あっ、これはダメだと諦めて。小学校ニ年からは、鵠沼から群馬の前橋市に移ったんですけど、中学生の時に前橋市民の歌に応募したらなぜか通っちゃいまして、僕の書いた詩が大舞台でオペラ歌手によって歌われたという。
後)それ、歌えますか?
石)覚えてない、、えっとね。
(歌う)
知らない新聞読んでるおじさん
そんな人にも幸せがあるのかも
石)みたいな感じでね。詩を書いたりラジオや雑誌に投稿したり文章を書くのが好きだったんですけども、結構内気だったから、ひきこもりじゃなくて学校には行ってたんですけども、自宅でこそこそやるのが多くて。で、高校に行ったらなぜか演劇部に入っていきなり人前に出ることになっちゃって。でも人前に出てみたらそれはそれで楽しいことがわかって、あれ?俺、人前大丈夫かも?って気づいて。それまで内気で、小学校一年生の時はあまりにもシャイなもんで、先生が一緒にお歌を歌いましょうみたいな時にも一人だけ歌えないで下を向いてたような子で。で、親が学校に呼ばれて、この子はおそらく大人になっても社会生活をまともに送れない、と言われてたのに、高校生になってなんかの弾みで人前に出たら、あれ?僕、なんか大丈夫になってる、ってなって。でも演劇はいろんな人と一緒にやる共同作業みたいな感じで、人と合わせるとやっぱり不器用だから、 いまいちタイミングが合わなかったりとかして。それで、なんか一人でできることないかなーと思っている時に、三上寛さんというフォーク歌手のライブが近くであって観に行ったら、複雑なギターのコードなんか一切弾かずに、三つぐらいコードだけで延々歌ってるんです。
後)三上寛さんは、ほぼ全曲三つのコードですよね。
石)それでもいいんだって気が付いて、 僕も高校卒業する直前ぐらいにギターを初めて持って、その簡単なコードだけで歌を作り始めて今に至る、みたいな。きっかけはそんな感じで、だから割と遅いですよね、音楽を始めたのは。
後)詩や文章で言葉に目覚めて、演劇で人前に出るのが大丈夫になって、 それで東京へ出てきて参加するのが、弾き語りの歌い手たちが集まる「地下生活者の夜」?
石)そうですね。これはですね、 僕が十八、十九の時に上京してきて、まず北千住の甚六屋とか両国のフォークロアセンターっていう、ちょっと東京でも外れの方にあるライブハウスに、オープンマイクみたいな、この日来れば自由に二曲ぐらいずつ歌えるよみたいな日があって、まずそういうところでちょっと人前で自分の作った曲をやってみようと。そこに十人とか集まってくるんですけど、大体は吉田拓郎とか長渕剛とかルーツが見える人が多かったんですけど、 そうじゃない人がたまにいて。それが知久寿焼だったり大谷氏だったり山下由だったりして、すぐにそういうちょっと人たちと友達になって、ちょっと外れ者たちだけでコンサートをやってみようじゃないかって言って、山下由と組んで、大久保のバレースタジオを安く借りて、毎月、地下生活者の夜っていう企画ライブをやって、毎回、地下生活者会議というミニコミを発行してました。
後)石川さんが最初リーダー格だった?
石)そうそう。僕がもう全部。この地下生活者会議はもう156号ですから、これは青木タカオさんに移ってますけど、第70号まで70ヶ月は僕が中心でこのミニコミを作って、ライブの出演者も決めていました。
後)初代事務局長なんですね。地下生活者の夜っていうタイトルを考えたのは山下由さん?
石)そうですね。 山下さんは五年くらい前に亡くなっちゃったんですけども。
後)この近くに住んでたんですよね。
石)そうそうそうそう。 湘南学園のすぐ裏に。子供さんたちも僕と同じ鵠洋小学校だったから、この辺とはすごく縁がある。 山下由と二人で「ころばぬさきのつえ」というユニット組んだんですね。 それは結構パフォーマンス性が高くて。一応楽器はあって音楽なんだけども、 例えばシーツの袋があるじゃないですか。シーツを入れる袋にニ人で入って、客席からは袋がもごもご動いてるようにしか見えない中で演奏して歌ったりとか、 そういうしょうもない活動をしてたんですね。
二人だけじゃ寂しい時は、そこら辺のミュージシャンの友達、 知久君とか柳原幼一郎(現・陽一郎)とか後にホルモン鉄道を組む大谷氏とか毎回その場にいる人がメンバーになって、二人以外は毎回メンバーが違うという活動をしてたんですね。二、三年やったんですけども、そのうち知久、柳原がちょっとクレームじゃないですけど、あまりにも音楽の方が疎かになってパフォーマンスが過ぎる、と。本当にただライブハウスに行って、ただ単に飯食ってるのをお客に見せたり。
後)ステージに電気釜があって、みんなでご飯をよそって黙々と食べてる映像を見たことがあります(笑)。
石)そういうことばっかりやってたんで、もうちょっと音楽的なことができないかっていうんで、地下生活者の夜の第25回目だから二年目ちょいぐらいのときに、じゃあ一回こっきりの遊びで、 組み合わせでライブをちょっとやろうじゃないかっていうので、 僕と知久と柳原が三人で組んで、それぞれが自分の作った歌を自分で歌って残り二人がバックというか邪魔をするみたいな感じで。
後)邪魔してたんですか(笑)。
石)でも一回こっきりの遊びのつもりでやったら反応が良かったんで、あれ?これそのままバンドにした方がいいんじゃね?みたいに悪だくみして、そのままバンドにして。最初は一回こっきりだからバンド名なくてよかったんですけども、ぴあとかシティロードとかのタウン情報誌のライブハウスのスケジュール欄に載せなくちゃいけなくなって、その頃、僕よく弁当屋でかき揚げ丼食ってたんで、別に一回こっきりで無くなるバンドだから何でもいいだろってかき揚げ丼で出したら、それが反応が良かったんでバンドにしようってことになって。それで家でいろいろ考えたんですけども、ゴミとか松葉くずしとか、なんかそれだとちょっとパンクバンドっぽいなって。そんなエレキの楽器も使わないしそんなのないなってときに、僕のアパートの部屋には野良猫とかも勝手に入ってきてうろちょろしてたんですね。もう野良猫だから名前無いんですけど適当に、たま、たまとか呼んでたんで、もう名前のないものにつける名前で、たまでいいじゃないかって言って。それでかき揚げ丼って名前をたまに変えて、その時の録音をカセットテープにして 売り出したんですね。それが1984年の11月11日、ポッキーの日ができる全然前ですよ。で、ちょうど五年後の1989年の11月11日、全く同じ日にTBS『三宅裕司のいかすバンド天国』通称イカ天という番組に出ることになっちゃいまして、それに出たらなぜか勝ち抜いてしまって五週勝ち抜いてグランドキングみたいな殿堂入りみたいになって、それでデビュー。まさかのね。僕らはさっきも言ったようにはみ出し者たちが集まってて、自分たちのアングラ性とか全然商業的じゃないのをわかってたから、まさかメジャーデビューするなんてことも考えてなかったんですけども、よもやの反応でメジャーデビューすることになって。「さよなら人類」という曲で「今日人類が初めて木星に着いたよ」って歌ってたんで、 僕が思わず後ろで「着いた-!」って言ったら、それがちょっとプチ流行みたいになっちゃって、その、着・い・た、三文字のおかげで、結構お金もらいましたね。
(会場笑)
石)それはともかくとして、それがきっかけで、それ二十八歳の時だったかな、 今僕六十四歳なんですけども、そのおかげでなんとか音楽で暮らしてこられたんで、やっぱりなんか機会があったらそういうの出たほうがいい。 意外なチャンスがある、と。
後)そういう風に、かきあげ丼からたまへと出世魚のように格上げしていったんですけども、その前に、ころばぬさきのつえのままだったらどうなるかっていうのを、ここに「ころばぬさきのつえのテーマ」の譜面があるんで、ちょっと歌っていただいてよろしいですか。
石)何ですと!いきなり何の前触れもなく。
(歌う)
月にすっぽん住んでいる
犬も警察よけていく
豚に真珠はよく似合う
馬も念仏聞いている
ころばぬさきのつえ!
石)っていう歌。
後)これはよくやってましたね。これ、ちなみに山下由さんが書いた譜面で。
石)音符じゃなくて、全部豚の絵が書いてある。
後)山下由さんは、シュールというかダダなんですかね?
石)そうですね。ダダの人。
後)私もダダの人だと思うんですけども、貝類の研究者でもあって。私は晩年の山下さんを十年ぐらいベースでいろいろサポートさせてもらって、その辺で石川さんとはよく対バンさせていただきました。
石)そうですね。山下由バンドみたいなのがあってね。そこに僕もゲストで出るような。
後)たぶん一番最初に石川さんと一緒にやったライブが、グッドマンっていう変わったお店で。
石)荻窪の頃?
後)荻窪の頃です。 今は高円寺に移転しましたけど、上手いジャズ奏者は全然出ない。マスターの鎌田雄一さんは、上手すぎる人は好きじゃない、これしかできない人が好きだ、っていう変わったお店なんですけども。グッドマンがまだ荻窪にあった時に、山下さんが演奏していたら石川さんが客席から飛び入ってきて、 ピコピコハンマーでピアノを叩いて演奏し始めた。そうかと思ったら、おもむろに山下さんのところに行って、演奏してる山下さんの頭にシェービングクリームをブシューってかけて。
石)覚えてない(笑)。
後)脱いだ革靴の中に、ブシューってシェービングクリームを入れて(笑)。
石)よくそんなことやってますね。
後)私はその時ベースを弾いてたんですけど、すごい、と思って。
石)(笑)
後)今度は横浜の別のライブの時に、演奏してる石川さんの頭の上から、山下さんがビールジョッキを持ってジャバジャバジャバーってかけて。
石)もうお互いそれはオーケーで。
後)懲りずに二回か三回かけて、石川さんは帰るのに着替えのズボンがない、と。
石)ステージ始まったら、殺さない限りオーケーっていう(笑)。
後)そういう関係。一時、一緒に住んでとか?
石)っていうか、奴が住む家がなくなって、うちに一、二ヶ月居候をしてたっていうことがあって。アングラミュージシャンって本当にお金ないから、知久くんも一ヶ月くらいうちにいたし、 他にもちょっと名前言えないNさんって人もいて。Nさんは一ヶ月くらい居候してたんだけど、いつの間にか俺の部屋からどんどんいろんなものを質屋に売っ払って。そんなこともありました。そのね、グッドマンっていうライブバーみたいなところで、アマチュア時代の、まだベースの滝本が入る前に三人でやったことがあるんですよ。そうしたら結構お客さんが来ちゃったんですね。 そうしたらマスターに怒られて「うちはお客さんがいっぱい来るようなバンドがやる店じゃないから、もう二度とやらないでくれ」って言われて(笑)。普通はお客さんいっぱい来たら喜ぶのに。逆なんです。そういう店じゃないからうちは、って言われて、お客さん呼ぶんなら来ないでくれって(笑)。まだ高円寺にありますけどね。
後)山下さんと出会ってころばぬさきのつえが生まれて、山下さんを袖にしたから、たまが生まれたわけですね。
石)そうですね。 そのころばぬさきのつえに知久とか柳原とかたまのメンバーが混じってやってて、音楽的なことをやろうって感じでたまになったので、ころばぬさきのつえで山下由がいなければ、たまも生まれなかったということですね。
後)さて、この本は私の若い頃のバイブルなんですけど、雑誌「宝島」が出版した「ロッカーズ1983」。この表紙が誰かというと、町田康さんですね。 町田町蔵だった頃。
石)INUっていうバンドのね。僕と同い年なんです。
後)この本にはまだ、たまは出てこないんですよね。
石)そう。たまは1984年に出きたから、その一年前の本なので、まだですね。
後)この本の中に出てくるバンドで、石川さんと縁があって、石川さんの楽器のキャリングバッグに「突段」ってシールが貼ってある、突然段ボール。
石)このバンドまだやってますからね。今結成四十八周年くらいかな?来年か、さ来年五十周年かな。
後)イカ天にも出てるんですよね。
石)出てますね。
後)突然段ボールはこの兄弟、蔦木栄一さんと俊二さん。
石)これはロックバンドなんですけど、これまた僕が上京してきて一番ライブを見て刺激を受けたバンドで。 歌詞も曲もすごいオリジナリティあふれてて、スタイルも、他のロックバンドみんな、かっこいいバンドっていうのは自分のかっこよさを争うみたいなところがある中で、この人たちだけ全然逆方向で、公務店の人がなんかステージが壊れて作業してるのかなと思ったら、いきなり演奏を始めて、あっこの人たちバンドの人なんだって驚くぐらいバンドの感じがなかったりとか。今は亡くなっちゃった兄貴の蔦木栄一さんは自転車でステージにやってきたりとか、そういうバンドだったんです。そのバンドに影響を受けたので、たまがまだアマチュアの頃にMANDA-LA2っていうお店で突然段ボールと2マンライブの予定があって、僕の憧れの突然段ボールと一緒に共演できると思ったら、なんか手違いがあって突然段ボールがその日来れなくなっちゃって、たまのワンマンライブになっちゃったんです。で、メジャーデビューした後に、そういえば昔流れちゃったライブがあったよねってことで一緒にやる機会があって、その時に楽屋で「僕、本当は突然段ボールにすごい影響を受けて今も活動してるんです」って言ったら、じゃあ今度一緒にやろうよってことになって、結果的に石川浩司プラス突然段ボールっていうユニットで二枚のCDアルバムを作ることになったんです。それで、先々週も突然段ボールのワンマンライブがあって、僕がゲストで呼ばれてちょっと一緒にやってたりもして。だから言いたいことは、アングラとかちょっと特殊な活動をしてる人は、別に売れる売れない関係なく好きでやってるから、やめない、ってことなんですよ。だから何年もしつこくいつまでも、だってそれしか人に褒められることはないんですもの。
後)売れないから辞める、っていうのがないんですね。
石)そうですね。だから商業主義的なことが悪いとは思ってないですけども、そういうバンドは三十歳過ぎても売れなかったら他の仕事で頑張ろうという風になるんですけど、三上寛さんとか突然段ボールとか自分の好きな人たちがそもそもそんなに商業的に儲かってる人じゃないから、 二十代の頃はバイトをしながらライフワークとして音楽をやっていければいいなぐらいに思っていて、それでやっていたらよもやの展開でメジャーデビューすることになってラッキーだったんですけども。なんか数年前に、しくじった人を採りあげるテレビ番組から依頼があって、そのしくじったっていうのはおそらく一発しか大きなヒット曲がなかったのをしくじったと捉えたと思うんですけども、僕らとしては全然しくじった記憶がなくて(笑)。
後)しくじってないですよね(笑)。
石)全然、自分たちでやりたい音楽が売れる音楽じゃなくて、でも偶然一曲だけ宝くじが当たったようにヒットしちゃっただけで。だからその番組は好きなんだけども、全然しくじったと思ってないんでその感じでは話せないから、 むしろ一発売れちゃったことがしくじったってことなら何とか話にできれますけど、って言ったら、向こうから却下されました(笑)。はい。
後)突然段ボールって、その当時の感じをうまく説明するのが難しいんですけど、ニューウェーブ的な音でヘタウマな演奏でもありつつ、見た目はパンクとかそういうファッションに行かずに普段着で、なんか自分たちのことをやる、みたいな。今聴いても歌詞がすごく面白くて。
石)歌詞も面白いしねぇ。あと曲も。大体の曲は途中で、普通一拍とか二拍のブレイクを置いて次に行くから即興でも何とか合わせられるんですけども、彼らの場合はそこからさらに一拍置いたりとかそういう独特な間もあって、それがすごい刺激になりますね。
後)それは石川さんの世界にも確かに通じる。石川さんの秘密を知りたければ、突然段ボールを掘っていただくと面白いと思います。
石)最近はYouTubeでも聴けますからね。昔のもね。
後)もう一人、今度は音楽以外で影響を受けただろうと思う人は、つげ義春さん。ガロっていう漫画雑誌があって、その中で一番と言っていいくらい有名。
石)そもそも先ほど三上寛さんのライブを観て音楽をやろうと思ったって言いましたけど、三上寛さんを知ったのも、まずその当時住んでいた群馬ってやっぱりちょっと地方なので大メジャーなものしか世の中に流れていなくて、今のようにインターネットとかもないから、週刊漫画誌も少年サンデーとかマガジンとかジャンプとかそういうのしかなかったし、テレビもメジャーなものしか流れていなかったから、そういうアングラとか今でいうサブカルチャーみたいな世界のことは何にも世の中にないに等しかったんですけど、あるとき古本屋に行ったら、つげ義春さんの漫画があって。あれ?これなんか少年誌に載ってない独特な漫画、これなんてもう僕にぴったりな、すごいなんかゲラゲラ笑えるでもない、でも寂しくて悲しくてなんか虚しいような、でもすごい心に突き刺さるような漫画だなと思って読んで。それで、そういうアングラの世界をちょっと掘っていったら、そこから寺山修司という人に出会って。その人の映画が面白くて、そこに三上寛さんという人も役者としても出てて。
後)あ、寛さん出てましたね。
石)寺山修司の「田園に死す」という代表作で三上寛さんを知って、その人がライブに来るというので観に行ったというさっきの話につながるんです。
二人)つげ→寺山→三上寛
石)の順番で段々アングラ界を知っていった。だからその古本屋さんに行かなかったら、いまだにジャンプとかマガジンの世界しか知らなかったかも知れないですね。
後)石川さんの一時期の曲、例えばたま時代の「汽車には誰も乗っていない」とかソロのファーストアルバム「おいしいうそがいっぱい」の歌詞をみると、ガロに漫画を描いていた蛭子能収さんの影響を感じるんですが。その後タレントとしても活躍しましたけど、蛭子さんの漫画は今読むとすごいですよね。
石)僕は漫画家としての蛭子さんが好きで、ちょうどたまがデビューした頃に、デビューした時にわりと派手に、派手にじゃないけど、いきなり初登場一位みたいな感じでデビューしたので、今すごい乗ってるから、今ならなんか好きな人いれば誰とでも対談ができるから、たぶん各メンバー好きな人誰か名指ししてくださいって。僕は漫画家としての蛭子さん。タレントとしてちょろっと出始めてたんですけどまだ漫画家としての方が有名だったので、迷わず蛭子さんを指名して対談をしたっていうのがきっかけでね。その後、著名人マージャン大会みたいなところで一緒になったこともあって、その後、当時僕、埼玉県所沢ってところに住んでいて蛭子さんも所沢に住んでいたから街で会うことがあって、今度石川君マージャンやろうよとかいうことを話してて、いいですねって言ったら、その後に蛭子さんは賭けマージャンで捕まっちゃったので、実現せずに終わっちゃったんですけども(笑)。
後)蛭子さんとかガロの漫画は、なんというか、ブラックユーモアだったり、ちょっと今のコンプライアンスの時代からすると不謹慎極まりない、もうこんなことやっていいのか、ってすぐSNSで叩かれて炎上しちゃうような。
石)そうですね。そうそうそうそう。
後)一時期の石川さんの歌詞にも、そういうのがやっぱりあったような気がするんですよね。
石)あー、あったかもしれない。
後)昔、山下由さんと一緒に演奏していた時に思ったんですけど、山下さんって人から顰蹙を買うのを良しとしているようなところがあった人だと思うんですけど、同じように石川さんの歌詞の中にも顰蹙とか眉を顰めちゃうようなものを、なんかケロっとした笑いに変えるようなところがあったような気がするんですよ。
石)山下さんも僕も金子光晴っていう人が好きで、あの人の『反対』っていう詩があって、詳しくは覚えてないんですけどとにかく何でも反対だみたいな。なかでも一番気持ち悪いのは、みんなの気持ちが一つになることだ、みたいな。
後)あぁー。
石)普通だったら良しとすることが、それが一番気持ち悪い。嫌だ、反対だっていう。
後)あぁそれはすごくわかるなぁ。
石)そういう人が好きだったんでね。
後)もう一つ不思議なのが、石川さんと演劇との繋がりなんです。石川さん自身も映画に出演したり、アニメの声優もやられたりしてますが、結構、演劇関係者との付き合いがあって、パスカルズでいうと、少年王者舘とのコラボがありますね。
石)名古屋の劇団ですね。
後)以前、横浜中華街で少年王者舘のダンスとのコラボを観させていただいて、すっごく面白かったです。
石)実は少年王者舘とはたま時代からずっと付き合いがあって、パスカルズになっても付き合いが続いているっていうことなんですけどね。
後)あと、たまがナゴムレコードから、自主制作盤を出してますよね。 ナゴムレコードっていうのは、当時はケラさん、今は劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチさんのレーベルで。
石)ケラさん、紫綬褒章も取ってますからね。
後)そうなんですよね。 でも、たまはなんでナゴムに行ったんですか?なんか、たまとナゴムってちょっと不思議な感じがしたんですよ、当時。
石)たまがアマチュアの時代は、まだCDとかなくてアナログレコードとカセットテープの時代。 でも、アナログレコードを出すっていうのはすごいお金のかかることだったんですよ。 だから簡単にできるのは、ダブルカセットデッキでカセットからカセットにダビングして、それを販売するっていうしか手がなくて。でもアマチュアだけどそこそこお客さんが入るようになって、カセットが結構売れるようになってきたのでダビング作業が大変で。でも自分たちの力ではアナログレコードはなかなか出せないなって思っていたら、ナゴムレコードっていうところがあって。他にもそういうインディーズのレコードレーベルはいくつかあったんですけども、他は結構パンクとかヘビメタとかもう完全にジャンルが違うなっていうところだったんです。その中でナゴムってところが一番近いなと思ったので、デモテープ募集、良かったらレコードにします、みたいに書いてあったので応募したんです。でも半年くらい音沙汰がなくて、あーダメだったんだなぁと思ったら、どうやらすごい応募が殺到して代表のケラさんが聴く暇が全然なかったらしくて。それで半年後に聴いたら、あれ、これ面白い、って思ってくれたらしくてすぐライブに来てくれて、いや、君らのテープ聴いたよ、すぐレコードにしようって言われて。当時アナログレコードを出してくれたんですね。
後)ケラさんは、その頃、有頂天というバンドで演劇っぽいステージをやっていて、またここから演劇の話になりますけど、維新派とのお付き合いも?
石)はい。名古屋の少年王者舘と大阪の維新派は、ちょっと近い位置にあってよくコラボみたいなことしてたらしくて。そこで、じゃあ、たまっていう面白いバンド見つけたから、劇中バンドとして出てもらおうぜ、みたいなんことになって呼ばれて、名古屋の白川公園っていう広い野外の公園の中に鉄骨でこう、すごく高い三階建てくらいの、吹き曝しのところにオルガンとか持ち上げて演奏して。もう、なんか演奏よりも落ちるんじゃないかっていう、ちょっと行けば落ちるような感じで。
後)じゃあ、音楽担当っていうよりは、劇中に出演しながら演奏していた、と。
石)そうですね。でも、維新派の代表の松本雄吉さんも、少年王者舘の代表の天野天街さんも、もう亡くなっちゃったんですよね。次々、あっちの世界に友達が行っちゃってるんで、もう僕もいつ行っても友達向こうにいるんで安心です。
(会場笑)
後)もう一人亡くなっちゃった人がいて、時々自動の。
石)あー!
後)時々自動は、芝居っていうのかパフォーマンスっていうのか?
石)まぁ芝居は芝居なんですけど、音楽芝居ですね。
後)あそこも今井次郎さんというユニークな代表の方がいて。今井次郎さんとの話も聞かせてください。
石)今井次郎さんの時々自動という劇団と知り合ったのは、たまが1990年に紅白に出たときで。紅白って長時間で、たまは最初の方に出て、それから最後の方でもう一度みんなの前で手を振るんですけど、それまで楽屋でずっと二時間くらい待機。でも退屈じゃないですか。そしたらスタッフの人が、近くで友達の芝居やってるから観に行かないって言って、紅白抜けだして観に行ったのが、その時々自動で。それからなんだかんだ、ちょっと交流ができて、そこに今井次郎さんという人がいて。
後)太った白髪のおじいさんですね。
石)僕もそのとき今よりも太ってたんで、 2人でDEBUDEBUっていうユニットを組んだんです。今井さんがまたね、もうめちゃくちゃでね、大体楽器っていっても韓国のマッコリの空瓶を頭でポコポコ叩きながら歌うとか、キャベツを真剣に床に叩きつけて歌うとか、ころばぬさきのつえに近いような パフォーマンスがかったユニットで。で、DEBUDEBUも五、六回はライブやったんだけど、今井さんはその後ちょっと病気になっちゃって、まぁ亡くなっちゃったんですけどね。
後)なんか段ボールかなんかで作ったような、小さな人形劇みたいなのを持ってきて。
石)あー、そうそうそうそうそう!
後)パフォーマンスして歌ったりとか。とにかく何が起こるのか、全然わかんない。
石)ははは!だから本当は、アートと演劇と音楽のコラボみたいな、それとデタラメのコラボみたいな感じですかね。
後)デタラメなんだけど、面白かったですねぇ。下北沢のラカーニャで、石川さんとパスカルズのリーダーのロケット・マツさんのイシマツっていうユニットと、ふちがみとふなと、今、船戸さんってコントラバスの人は、パスカルズにもゲストで参加していますけど、その二組の対バンがあった時に、今井次郎さんが乱入したんですよ。階段のところで暴れてすっごいとにかく破天荒で。今井さんはPUNGOっていうパンクとタンゴを結びつけたグループにも参加していたんですが、そのメンバーだったのが、すきすきスウィッチっていうバンドをやっていた佐藤幸雄さん。
石)PUNGOは観られなかったんですけど、すきすきスウィッチは結構好きで観に行っていて、二十代の僕のロックヒーローだったんです。僕が五十歳を過ぎた頃にうちの妻の姉と佐藤さんが恋仲になりまして、そして結婚。僕、実の弟が二人いてずっと弟しか知らなかったんですけども、五十歳を過ぎてから義理の兄貴ができて、それが僕の二十代のロックヒーローだった佐藤幸雄さんだったんですね。とかいうそういう縁もあって。だからもう、とにかくアングラ界というかサブカル界は全部繋がってるので、どうしてもどっかにくっついちゃうので。
後)ついに最後は血縁関係になってしまって。
石)そうなんですよね、まさかね。
後)こういうお話でありました。
石)はい。
後)どうも石川さんありがとうございました。また来年の夏も、本鵠沼で午後二時十五分のまちあわせ、よろしくお願いします。
石)ありがとうございます。
(本人より)先日藤沢でやったライブの合間にやったトークコーナーを主催者でトーク相手の後藤さんがすべて文字起こししてくれました。よくぞこんな長いものを。ありがとー!
あ、本当に 石川さん 落ちちゃったよ
『たまという船に乗っていた』で、ライブ中に石川さんがステージから落ちてしまったシーンがありましたね。
そのシーンは YouTube でしっかり 残っておりました。「さよなら人類」の間奏のところで、ステージの背後に鳶職人用の足場みたいなパイプが組まれたところに よじ登って、そのパイプをパーカッションの楽器のごとく 叩いていたら、見事に ゴロンと落ちたのですね。
他のメンバーの方も、すごくびっくりした様子だったのに、誰も駆け寄ることはなく、心配そうな感じを醸しつつも演奏を続けていました。
無事だった石川さんに安堵したように、柳原さんがアドリブで「落ちないで、落ちないで〜、のぼせちゃいけねぇぜ〜♪」と歌っていたのがとても面白かったです。
誰しもが演奏をやめなかったのは、プロ意識ですねぇ。
ご無事で何よりです。(ブルマン青山)
(本人より)リハーサルの時に「おっ、この場所使えるな」と確認しておいたのだけど、リハーサル時には点いていた照明が本番はステージだけに当たっていたので、真っ暗で何も見えず、突然足元に何も無くなった。実際撤去時に確認したら落下したところの鉄骨が衝撃でグニャリと曲がっており、この「グニャリ」が鉄骨ではなく自分の首だった可能性もあったのだなあとビビった。
そしてまるで予告するように柳ちゃんが俺が落ちる直前に即興で♪光る空から落ちてくる トンビの先生が〜 と歌ってるんだよね。
ちなみにこの映像は、たま企画室が販売しているビデオからの無断違法アップロードです。まあ、たまのものはそもそもすべて違法アップロードだけどね。だってバンド解散した時にYouTube自体がまだ無かったからね(笑)。たまの公式チャンネルは存在しません。
2025/3/15 桐生ムジカサーカス
3/15に行われました「桐生ムジカサーカス」出演ありがとうございました。主催の有識者会議、KPCです。
前回は観客として来ていた嫁のレポートを送りましたが、今回は自分自身のレポートを書きました。
事の始まりは昨年の12月。
当初は群馬県前橋市の古い蔵を改装したスペースでライブを予定していました。
ここは広いのでやりたい放題やれる。その場で打ち上げも出来るし最高の条件でした。
しかし本番二日前になりまさかのインフルエンザ。誰が?自分が。
怒りました、呪いました、そしてそれを隠して強行しようとする気でいましたが、周囲に止められ断念。
そこからが苦難の始まりでした。
一旦延期扱いとなり、まず同会場で調整を試みるも足並みが揃わず。
今回の出演者は総勢7名で、まずそこから合わせるのが難しく結局は会場変更する事となり、代替地選びがまた難航。
3か所が候補となりましたが、どれも一長一短で、最終的には古民家の畳敷き宴会場のようなロケーションでライブをやる事が面白いのでは、という点が決め手となり決定。
群馬県桐生市の会場に決まった時には、最初の延期からおよそ三か月が経過していました。
新会場は少し手狭ですが、それを補って余りある風情。
個人的には幼い頃に親戚一同が正月なんかに集まって、芸を持ち寄るような大宴会のイメージが浮かんで、楽しくなる確信めいたものはありました。
当日。JR桐生駅へ石川さんを車でお出迎え。
石川さんとの共演は5年ぶり二度目で、前もこうして駅まで行ったなあと感慨に浸りつつ、久しぶりに再会した石川さんは懐かしくもありつい最近会ったような錯覚も覚え、時間の隔たりが瓦解するような感覚がありました。
駅から会場までの道中、桐生へは以前もライブに来た事があって、その時はフリージャズの人らとセッションをしたと聞きました。
石川浩司とフリージャズ。想像がつくところとイメージが湧かないところとがあって、何気に面白そうです。
会場へ到着したら、まずは掘りごたつにみんなで入って挨拶。それから軽食と軽い打ち合わせです。
と言っても有識者会議のライブはいつも完全即興なので、今回ライブの最初は石川さんの弾き語りでスタート。後は流れだったり石川さんの方でぶった切って曲に入ったりパーカッションにいったり自由です。他の全員も自由ですからという確認のみ。
有識者会議はジャンルの異なる民族楽器奏者による完全即興ユニットですが、こういうスタイルでメンバー3人だけの時もあれば、ゲストにダンサーを入れたりテクノDJが入ったり津軽三味線と共演したりなどという活動をしています。こないだ10周年を迎えました。
で、今回のライブは大々的にやりたいという趣旨があって、ゲストも今までになく豪華で石川さんの他にクラウンのサクノキさん。それに南京玉すだれのたこっ茶さんという女性二人組をオファーした事で、今までになく予測不能で、でも間違いなく面白いという確信がありました。
ポイントはゲストの全員がお互い初対面である事。クラウンのサクノキさんは世界でも活躍しているので、石川さんや我々とは何があっても大丈夫。そこにおめでたい芸風のたこっ茶さんが入る事で不確定要素が生まれ、誰しも読めない空気感が発生するのでは、という狙いがありました。
で、ライブ本編。
さすが石川さんです。早くも2曲目から有識者会議を激しく揺さぶり、サクノキ登場の時点から当意即妙な阿吽の呼吸で、そこに割って入るたこっ茶の良い意味で堂々たる空気の読まなさ。
もう全員がやりたい放題。
そんな本編の一部始終がこちらになります。
https://youtu.be/F-36NYa9f_c?si=l3WR7j9u7Pawy1TK
この動画を編集している時も、もう何度も見ているのに石川さんの予測不能な動きに爆笑で、きっとお客さんにも喜んでいただけて、お腹いっぱいになったのではと思います。
ありがとうございました。
またよろしくお願いします!(KPC)
(本人より)こういう、まったく出演者の誰もがまったく展開が予測不可能なイベントだ〜い好き。これぞ「思い通りにいかない」人生そのもの。即ちライブ。音楽だけのフリーはたまにあるけれど、クラウンなど音楽以外の要素もあることにより、本当に「次は何をしたら面白いだろう」と瞬間瞬間に考える頭脳ゲームの表現。こういうイベント、また是非企画してほしいなあ。KPCさん、ありがとう!
人生の最終章で頂いたプレゼント
私がこの場所にたどり着いたのは去年SNSで紹介されていた石川さん原作の「たま」という船に乗っていたを読んでからです。もう面白くて一気に2冊読みました。同時期に街録チャンネルに出演されていて、サービス精神旺盛で知的な方だと思いました。
それからユーチューブを見て衝撃を受けました。なんて凄いバンドだったんだと。もちろん「さよなら人類」は知っていましたが、当時、最果ての珠洲に住み、子育て、家事、仕事に忙殺され、文化的生活とは、程遠い時間を過ごしていました。
今年になってCD.DVDを買い集め(中古のCDはすごく高いです)毎日聴いています。
「ウララ」が一番好きです。楽しくなって体が自然に左右に動いてしまいます。「カニバル」を初めて聴いた時は途中で止めてしまいました。精神が壊れて、あちらの世界にいってしまいそうで。でも数日経つと非常にまた聴きたくなり、最後まで聴けました。今ではこの世界に入り込んでいます。
遅れてきたファンですが人生の最終章で頂いたプレゼントを楽しんでいます。(nanzan27)
(本人より)たどりついてくれてありがとう!それぞれのソロも含めれば膨大にあるからまだまだ楽しんでね!そして地球レコードのものについては、ほとんどまだ新品を現在も販売中です。騙されてより高い値段で中古品を買わないようにね。なんたって中古品買っても僕らには一銭も入らないしね(笑)。今後も宜しくお願い致しま〜す!
しょぼたま
昨日、地球レコードから「しょぼたま」が届きました。
聴いたら、全然しょぼくないのに、どの曲もやっぱりたまらしく 完成度があって、全然悪くないのに。
滝本さんの「ハル」(あれは絶対 G 線上のアリアをモチーフにしてると思うのですが)、あんまりにも悲しくて、切なくて、滝本さん 本当は終わりたくなかったんだろうな ってそういう気持ちがすごく 伝わってきて、たまというバンドはすごく面白かったんだろうな、楽しかったんだろうなと思いました。
聴きながら、この CD はきっと 解散することを決めてから作った CD なんだろうなと思い、どこか自分もしんみりしてしまい、少し涙ぐみました。
石川さんの曲はどれも、やっぱりどれも得体が知れなくて、聴けば聴くほど 癖になる感じです。(ブルマン青山)
(本人より)ありがとう。ただ二点間違いがあります。ひとつは「しょぼたま」の「しょぼい」は僕らにとってまったく悪い言葉では無いということです。ゴージャスに仕立て上げられた音楽が多い中、最低限の楽器でもいい音楽が作れるのではないかという抵抗で「わざとトコトンしょぼい音で素敵なものを作ろうぜ!」という意気込みなのです。だから僕らにとってはしょぼい=簡素が故に飾らないライブそのままの音、ということなのです。
もうひとつは「しょぼたま」を作った時は解散の「か」の字も出てなかったことです。しょぼたまでネパールなどにも公演に行ったりしたし、その数年後にラストアルバム「しょぼたま2」が出た頃にようやく解散の話が出たけど、このアルバムの頃は「さぁ『たま』とも微妙に違う、よりシンプルなしょぼさで勝負だっ!」と3人とも意気揚々としていたのです。Gさんもベースではなくピアニカに持ち替えて、でも口で吹くとコーラスが取れないので風船つけて弾いたりして、みんなゲラゲラ笑いながら楽しくライブも、CD作りもしたのでした。
ちなみにこのアルバムのレコーディングの半分は、詩人・翻訳家として著名な故・矢川澄子さんの長野の山の家に泊まり込んで録音されました。矢川さんもニコニコと料理を振る舞ってくれたりして、楽しいレコーディングだったなあ。
さいこうたま イシマツ 下北沢ラ・カーニャにて
告知された瞬間 行くことは確定していました
だって好きなさいこうたまと個人的に好き度がガンガン上がってるイシマツのコラボなんだもの
さて開場時間の1時間前に会場に到着(それまではカピカピに乾いてるのに高い寿司やにんにく焼売の飲み屋などで暇つぶし)
顔見知りさんとお話しながら 時間を待っていると 少し早めに開場 これは嬉しかった 暑かったからね
入ると石川さんが「カルロスイベリコ豚だ!」と叫んでいました(その週の伊集院光 深夜の馬鹿力でネタが読まれたからね)
石川さんに来週藤岡藤巻のライブに行くと伝えると
「是非俺からも共演したいと伝えてくれ!!」と熱いメッセージ(日常クイズ参照のこと)
絶対伝えるぞと心に誓いました
さて ハナはさいこうたま
バンバンのいちご白書をもう一度(どうでもいいが バンバンと聴くと白いブランコを思い出す… それはビリーバンバンか)やYMOの東風 長谷川きよしさんの卒業など さまざまな昭和レトロソングが!!
イーグルスのホテル・カリフォルニアの ちょっとした替え詞などもよかったです(アルカディアのときもそんなことありましたね)
休憩中 タバコを吸ってたら斎藤さんが
斎藤さんの電子タバコの充電が切れてたので 他のお客さんからもらいタバコ
昔はどこでも吸えた マンダラ2には席ごとに灰皿があったなどとトークは盛り上がりました
続いてイシマツ
金属食器を使った音が痺れました
そして 手 海馬のワルツ タイトル不明の「このピアニカの音は録音かもしれない 周りのお客さんもエキストラかもしれない 本当のお客はあなただけかもしれない」は 世にも奇妙な物語チックで鳥肌が立ちました
そしてマツさんと抱き合いながら ピアニカを演奏する石川さんなどなど見どころ満載でした
アンコールはイシマツ&さいこうたま
僕の猫は前回の南青山でのイシマツでも歌われてましたが これ ミュージカル100万回いきたねこのために作られた楽曲とのこと
だからポップだったのね 知らなかったよ
石川さんと珠美さんの掛け合いがかわいかった
終演後 さいたまのライブ盤 ロケット・マツさんのソロCDを買い サインを頂きました
斎藤さんには「東風は絶対にYouTubeに上げたほうがいい!!」と熱弁 荒れたら非公開にすればいい!!と言ったら 前向きに検討してくれました YMOのアコースティックカバーって面白いと想うのだが みなさんはどうです?
総評としては 石川さん よくぞやってくれました!!
そしてこの二組の共演はまたやってほしい!!(ズミ天こと カルロスイベリコ豚)
(本人より)この日はツーマンなれど、どちらのバンドもメンバーなので俺的にはワンマンみたいなもの。さいこうたまもイシマツも相手がさいたまであることと、マツさんであることで、俺のやりたいことも変わってくるというか意識も変わってくるので、結構テイストは違ったんじゃないかと思う。
思えば俺は「一緒にいるミュージシャンでどんな立ち位置でどんなことをやりたいか」が変わるタイプのミュージシャンなのだと自覚。お客さんより、まず同じステージに立っている人を喜ばせたいのだ。
実際お客さんを相手にしてもお客さんにもそれぞれ趣味がひとりずつ違うのでその全員が喜ぶようなことをするのは困難。ならば一番近くにいるステージ上のメンバーが喜びそうなことなら多少絞れるのでそれをやっていこう、というのが俺の基本姿勢なのかもしれないなあ。
地獄のスリーマン……それは本当に地獄でした((´∀`))ケラケラ
20時から自分の配信だったし、
配信があること自体を把握できてなくて。
現地に行ける人いいなぁと思っていたら。
自分が気づいてないだけで、しっかり配信の事もアナウンスされてた……
地獄のスリーマンライブ。
何が地獄って、もう出てるメンバーが地獄。
・野獣のリリアン
・石川浩司
・蜂鳥あみ太=4号
濃い!!!!!!!濃いんだよ!!!!!!!!!!!
野獣のリリアンはよくわからない着ぐるみいるし、光るギター持ってる人が居るし、
いつも元気なクドウヒロポさんいるし。
石川さんは、歌わせたらそこはもうエンターテイメント。一つのドラマを演じる一人舞台。
蜂鳥さんは、全身網タイツの男……その実態はシャンソン歌手。
意味が分かりません((´∀`))ケラケラ
でも、配信がある事をリスナーさんから知り、無事に配信ライブという形でこの地獄の蓋をあける事が出来たのでございます。
他の出演者の事は、置いといて、石川さんの出番のとこだけ。
メインで語って行きたいと思ってます。
まず一言。
石川さん、超変態だった(爆。←褒め言葉です。
7曲くらい歌ってらしたかな。
レインボーですね、てへ。
7色に輝いていたはず。
必ず訪れるとは限らないけど、人はボケるから。
そんなボケをテーマに真面目にエンターテイメントする。
そんな事を書いてる私は、たまに昼ご飯前にもう朝ご飯食べたか忘れる事がある。
ボケってそういうもんなんです。まだ若いのに((´∀`))ケラケラ
お次に来たのが悪代官。
「お主も悪よのぉ~」とか言ってるアレです。
女の子脱がしてしまうアレです。
……いやあ、見ながらイイ感じに気持ち悪いなと(爆。
あとで歌詞調べたら、ホルモン鉄道のだった(笑。さすがですわ。
私は女の子の胸に顔をうずめるのと、ツンツンするのが好きです。←私も変態。
そこから続いたのが、これまた途中から迷子になっちゃう
「夏のお皿はよく割れる」
この歌も中々凄くて、途中アドリブなんだろうなぁ……歌詞になかったから((´∀`))ケラケラ
いやぁ、れっつエンターテイメント。独り舞台。最の高。
全部ここまで真面目にエンタメして、笑わせてくるんですよ。
すごいよなぁ。と。
そして後半の4曲は、此度でましたアルバム「ラザニア」から4曲。
・夜の牛達のダンスを見たかい
・汽車には誰も乗っていない
・ソフトムリーク
・ラザニア
アルバムを買った人はご存じでしょうが、
この4曲だけインストバージョンが入ってるんですよね。
そのインストに、パーカッションと石川さんの名演技を合わせて。
紡がれていく至極の曲たち。
「夜の牛達のダンスを見たかい」では、パーカッションで牛の狂ったシャウトを見事に叩ききって表現し、
「汽車には誰も乗っていない」は二十歳くらいの時に書いたという事で、情景豊かに身体全体使って、歌を表現し、
「ソフトムリ―ク」では、人によってはホントにこれ号泣必至なんだけど、語る語る叫ぶ叫ぶタイムリミットの事、子どもの時に間違えて覚えた言葉。
因みに私はヘコリプターが一番好き。
サラッとMCで命の危機があった事を語り、歌い始めた石川さんの歌声は、渾身の魂の叫びでした。ホントに魂の叫び。
そして、最後はこの曲で締め。
「ラザニア」アルバムタイトリングのこの曲もまた、いい叫びの石川さんが見れる。
フェードアウトする時の太鼓の後、響く渾身の叫び。そして、その前にも響く優しい優しい「♪生まれて良かったねぇ~」
沢山の祝福を終えた後、満面の笑顔でソロステージを「ありがとうございましたー!」と、
終えていく石川さんはやっぱりいい人。
変態にはいい人多いのかもしれない((´∀`))ケラケラ
そう、このあと事件は起こるのです。
【石川浩司セクハラ事件((´∀`))ケラケラ】
色んな意味で地獄を味わった後、地獄のセッションタイムでその事件は発生した。
石川さんがスティックで、あみ太さんの網タイツをかいくぐり、乳首をもてあそび始めたのを……
私は見てしまった((´∀`))ケラケラ
しかも、めちゃくちゃ楽しそうだった。
石川さん、そんな楽しそうな事、一人でしないでくださいよ(笑。
セッションタイムでは、唯一、ホントに石川さんが一番マシだった。凄く綺麗な歌だった。
けど、このセクハラ事件で帳消しである。
いや、セクハラ事件が先だったはずなので、このセッションステージで名誉を挽回したが正しい?
これを送ってる7月25日現在、まだ間に合います。
見てない人、私みたいに配信を知らなかった人は、
代々木バーバラさんの案内をチェック!
アーカイブでご視聴あれ。
楽しい地獄が待ってます(爆。(美ゆり)
(本人より)あみ太の乳首もてあそびは言わば鉄板ネタ。彼とセッションする度にやっているお約束。ちなみに「悪代官」では野獣のリリアンも、あみ太も歌の中で乳を吸ってやりましたなあ。これももちろん即興。なんせこの日のイベントのタイトルが「地獄のスリーマン」だから、地獄を見せなきゃ男がすたるっ!と思ったからね。またこんな悪いイベントに呼ばれたいっ!
2025/6/15 紙芝居だよ!石川さ〜んあそぼ!in紙芝居処こころみ亭(葛飾区金町)
熱烈な石川さんファンの〇〇一味源兵衛さん企画の不思議なライブ。
紙芝居とのコラボって何?で頭の中いっぱいにして会場に到着、20人程のお客さんで、石川さんファン3割こころみ亭ファン7割の感じ、普段のライブと違う雰囲気にワクワクする。
開演時間になり、源兵衛さんの音頭で「石川さ〜ん!あーそーぼ!」のかけ声で石川さん登場!源兵衛さんの汗がすごい。
プログラムに沿って紙芝居で石川さんの歴史が紹介され、さらに石川さんの名曲「リヤカーマン」が紙芝居で披露される。可視化されたリヤカーマンのインパクトたるや!“下半身はうちでご飯の用意”がどんなイラストになったかぜひご想像いただきたい。
その後も源兵衛さんが恐縮しながら次々と無茶振りを繰り出し、それに石川さんが期待以上の返しをし続けて笑いの絶えない時間が流れ、最後には石川さんの歌で締め括られた。写真撮影タイムもあり、お客さん大満足で終了!
石川さんの新たな扉が開いた紙芝居とのコラボライブ、初夏の恒例にしてもらえることを願ってます。(わにこ)
(本人より)実は〇〇一味源兵衛さんの結婚パーティの出前ライブも昔やったことがあった。その時にはマジックで書いた口髭は無かったが...(笑)。
事前には簡単な流れの打ち合わせだけで、ほぼ即興。でもこういうのだ〜い好き。「来年もまた企画します!」と言ってくれたのでいつもの感じとちょっと違う笑える即興紙芝居ショーを見たい方は是非来年!
我が息子、『ラザニア』を熱唱
私が料理中ラザニアをかけたり、最近では練習パットでラザニアに合わせてドラム練習をしたりしていたからか、すっかり小2の息子が憶えてハマりました。
たまに口ずさんでいるのですが、この間は夕飯時にカレーライスを食べながら、急に「生まれて〜よかったねぇ 生まれてよかったねぇぇええっ!」と熱唱しました。
テレビを点け、YouTubeで『ラザニア』を検索し、見ていることもしばしば。
このようにして、石川さんの歌は次世代にも受け継がれてゆくのですね。
小さなファンができましたよ。(ブルマン青山)
(本人より)わあっ、嬉しいねえ。どこで何が繋がっていくかわからないからねえ。学校でも流行るといいな。
カニバル
YouTubeで「そのろく」を見つけて、「あ、カニバルはここに入っていたのか」と思いました。
私は、昔々、30年以上も前に中国(あれは、上海だったの?)で元たまさんたちがライブしたのを祖父に頼んでBS放送してたのをビデオ録画して何度も見ていました。
聴いていたころは中学生だったと思うのですが、「カニバル」は、あまりに迫力があってすごく印象に残りました。「そのろく」のより、ライブでやってたやつのほうが、ずっとずっと迫力があります。「カニバル」は、絶対にライブで聴くのが好いと思います。今も時々無性に聴きたくなって、You
Tubeでライブのを見つけて観ています。
実質、3分にも満たない短い曲なのですが、私は襲われるように聴きました。あれを生で観たら、どれほど鳥肌が立ったろうと、今思い出してもぞくぞくします。
社会に巨大な一石を投じるような、「デキソコナイの王様ダレダ!」という歌詞が忘れられません。
今は、実は「夜の牛たちのダンスを見たかい」にハマっているのですが、このレポートは、また、そのうちに。(ブルマン青山)
(本人より)外国(ドイツ)の国営放送のBSテレビの番組は、実は偽物です。いや、ライブは本物だけど「如何にもドイツで番組が作られたように演出された」日本だけでの放送です。騙された人が多かったなー(笑)。ネットも無かったので種明かしする場所もなかったしね。
あと「そのろく」のカニバルはそもそもスタジオではなくてライブ音源で6分以上あったと思うけど...逆にYouTubeでどれを観てるのかわからないけど、テレビの番組でやったやつなら3分の短縮版ですよ〜。
どちらにしろあの曲気に入ってくれてありがと。即興の部分ではメンバーみんな弾けるので大好きな曲。ライブによってはGさんが痙攣しながらステージを転がり回ったようなこともあったんだよね。面白かった〜。
ラザニア、届いた!
リアルタイムで聴いています!!
やべーっ!!
良すぎて、どうしようっ!!
こんな気持ち、言葉でなんか言い表せるわけないだろーーーーーっ!!
した。
P.S.宛先の住所や名前を書いてくれたのは、まさか、まさか、石川さんですか?! この、不器用そうな一生懸命な文字!!(ブルマン青山)
(本人より)残念ながらニヒル牛から送っているものは、ニヒル牛スタッフが書いてます。不器用そうな字・・・おそらく妻です。
ラザニアが、美味しく焼けたよ
Xで石川さんの「ラザニア」にまつわるポストが流れてきて、イラストがあまりに魅力的だったので、どんな曲なんだろうと思って、そこについていた動画を再生しました。
私は、よくひとりでカラオケへ行くのですが、歌うと途中で泣いてしまって歌えなくなる歌があります。
アンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓十五の君へ」、中島みゆきさんの「ファイト」、一青窈さんの「ハナミズキ」が主にそれで。
だけど、石川さんの「ラザニア」は、様々な背景を持つ人たちの誕生を祝福したあとで「ラザニアが美味しく焼けたよ」と石川さんが笑いながら歌ったところで、すっかり涙腺が崩壊しました。自分で歌いもしないうちに歌を聴いて泣いたことが、45年以上生きた人生のなかであったかな。もしかしたら、はじめてかもしれません。
自分が人生で行き詰ったときに、そうした苦悩や辛辣な心を洗うような歌を聴いて泣くことはあったかもしれないけれど、平素なんでもなく過ごしているときに歌を聴いて涙するなんて、はじめてでした。
私は、昔、昔とはいっても五~六年ほど前まで看護師をしてきて、いろんな人の人生を見てきました。自分自身も、ずいぶんとおせっかいな性格だったから、いろんな人の人生に自ら首を突っ込んで巻き込まれたりしてきて、首を突っ込んだくせに何ひとつ手助けなんかできなかった若かりし頃の自分を思い出したりしました。
それに、昔、ホームステイした先のオーストラリアのホストマザーが焼いてくれたラザニアや、そこに一緒に住んでいた四人の可愛い子供たちのことも思い出しました。
そのとき、私はホストマザーからラザニアの焼き方を教えてもらったから、私も自分の家族に時々ラザニアを焼きます。すごく、おいしいです。
さまざまな背景の人たちに「生まれてよかったね」と祝福の言葉をかけることは、実は、すごく心苦しいことだと思います。だけど、その人たちがこの先の人生を喜ばしい日々にしていくためには、誰かがそんなふうに声をかけて、おいしい手料理を何気なく、さりげなく、差し出すことは、その誰かをすごく安心させるだろうと思います。
もし、万が一機会があったら、ぜひ、そんなやさしい石川さんにも、私のラザニアを。
(英語で発音するときは、「ラザーニャ」と言います。)(ブルマン青山)
(本人より)どんなに辛い人生でも、フフッと笑えた瞬間はあったはず。そのたったひとつかもしれない瞬間の為にでも、人は生まれてきて良かったと思ってる。うん。
素晴らしき、JOYSOUND
カラオケに来たのに、「たま」で検索したらミュージックビデオが7曲分入ってて、ずーっと見ちゃったよー。
何しに来たんだか分かんなくなった。
石川さんが、まるでザ・ブルーハーツのヒロトさんみたいに動きが激しかった。
見終わってから、カラオケ続けられなくて、ポカーンとしています。(ブルマン青山)
(本人より)それ、最近YouTubeでも公式に観られるやつじゃないかな。同じなら自宅でも観てね。たま時代の俺はとにかく動くよ。だから手だけで演奏している。足は動き踊りまくる為にあるからね。
「たま」という船に乗っていた
全部読んで、たった今、パッと思うのは「柳原さんちに、石を投げに行けば良かったのに。ビートルズの、ポールとジョージみたいに」
というのは冗談ですが、元たまの皆さんがどんなふうに活動し、どんなふうに終焉をむかえたのかを知ることができ、うれしく思います。
私は昔、看護師として病院勤務をしていて、実に20年近くも働いたけれど、チームワークが良く、充実していたと思えた期間は、たったの2〜3年程度のことです。
時代は移ろっていきます。
それでも、今も、ご自身の世界観を磨き、それを音楽に変換し、世界に流していくことを楽しんでほしいと願います。
それに、私は石川さんとやってみたいこともあるのです。
少しずつ貯金しています。
なので、毎日元気になるように、妙なヤバい念力を送りますから、どうか今日ものびのびとハツラツとお過ごしください。
レポートなのか、意思表示なのか、ファンレターなのか、よく分からないものになってしまいました。
では、また。(ブルマン青山)
(本人より)えっ、なんで石を投げるの!?柳ちゃんに恨みはないよー。それぞれ好きなことするのがベストだからね。一緒にやりたければやればいいし、ひとりでやりたければやればいい。そんな自由な船だったからね。
石川浩司生誕祭2025
さて 今年もやってまいりましたよ!!
トップバッターは毎度おなじみ クドウヒロポとピーポーズ
おならの歌からスタートというなんともコミカルなスタート
そして昆虫博士のヒロポさんの息子さんの歌、お馴染みの誕生日の歌と続きます
今回は64歳のゲストで固められてます
トップは大谷氏
「石 Gさん …もう一人別の人(知久さん)のほうが良かったでしょ?」と笑いを誘いながら
誰も知らないヒット曲を、カラオケ音源に乗せて歌ってる姿はさながらディナーショーのようでした
続いてとっちゃん
魂や夜の鳥など好きな歌が続き そしてびっくりしたのが 石川さん訳詞のジ.エンド・オブ・ザ・ワールドを歌ったこと
これが石川さんとは違う感じが出て非常に良かったです
そしてGさん
いつものラッパで開始の合図
たま時代の歌を中心に。そしてむしのときに 虫笛を忘れたとのこと(でもあの人数じゃ回せなかったかもね…) 石川さんがソロリソロリとやってきたところはちょっと笑ってしまった。
そしてパルテノン銀座通りのときに歌詞とギターがわちゃわちゃに これぞライブ 新曲もよかったなー
最後は石川さん
CDのカラオケ音源に乗せてパーカッションと歌。
どのアレンジも素敵でした。
そしてみんな揃って When I'm Sixty-Fourのヒロポさん訳詞を。
この曲 サージェント・ペパーズの中の曲なのねと帰りの電車の中で知る。
記念撮影をして終了
お客さんの中には 石川さん関連のTシャツをお召の方 温泉ホルモンでご一緒する方などもいらっしゃったり 熱気がすごかった
石川さん ながいきしてくださいね!!(ズミ天)
(本人より)今年も楽しかったねえ。盛り上がったねえ。全員同い年なのに、いろんな人生を感じてもらえたら幸い。
今回はほぼ全面的に俺がメンバーも選びビートルズの「When I'm Sixty-Four」(64歳になっても僕を必要としてくれるかい?)を歌いたいこともヒロポに頼んだのよねん♪
学校に間に合わない
『たま』の「学校に間に合わない」をYouTubeで見ました!
どこかの屋上でやられているようでしたが、石川さんの表情と歌い方、皆さんの演奏とコーラス?がものすごく好きで、何度も見ていたらダンナさんもハマってよくテレビでも見ました🤩
その後、CDの方でも聴きましたが、私は映像で見る方が好きです。
私の子ども時代を思い出しひそかに救われました。
子どもの頃は人知れず傷ついて忘れていたけど、その当時は結構深刻にとらえていていたのをこんなふうに昇華(あってますように)できる石川さんは天才だと感動しました✨
女子ということもあってか、あんなふうには怒られたことはなかったけど、子どもの頃は大人が苦手で、優しい先生や父は大好きでしたが、「常識」を押しつけてくる大人がほとんどであまり大人で良い印象の人は覚えていません。
私は石川さんに本当は色々このようなお話がしたかったのに、なぜかできませんでした。
色々お恥ずかしいところを見せてしまったので、ようやく書けるようになったのかもしれません😁
長くなりますが、続けます。
私が『たま』で石川さんがすばらしいと思うのは、重いテーマの音楽でも石川さんの優しさや明るさが他のメンバーの心の支えになっていると感じるところです。
「方向音痴」も映像で見ましたが、これは本当はかなしいテーマの音楽だと思いますが、4人全員が音楽で支え合って楽しくしようとしているところに感動します。仲が良くていいな〜とうらやましくなります。
本当に長くなるので、もしそれでも良ければ明日も書きます🙋♀️(ゆかり)
(本人より)実は悲しみと嬉しさは反対のものではなく、同時に起こることもある。泣きながら笑うこともあるからね。感情って、複雑だね。
「ソフトムリーク」の表紙の絵
最近のお話で気づいたことを思い出しました。
「ソフトムリーク」の表紙の絵ですが、あれは『たま』での「青空」のことを絵で伝えているように感じました。
鏡?に映る男の子?は青い靴をはいていて、色がある世界。
手前には女の子?が白黒で描かれた色のない世界みたいだなと思っていました。
ソフトクリームも手前のコにはありません。
「青空」の歌詞が浮かびそれを指していると思っています。(ゆかり)
(本人より)たぶんそれは違うとは思う・・・かな。まあ絵を描いた金子さんに聞いてみないと本当のところはわからないけどね。
正直な感想
正直な感想を言います…実は石川さんだけでなく『たま』の皆さまの音楽は不真面目(ごめんなさい)なように表現していても、本当はまじめな歌であることは知っています。
ですが…石川さんの音楽は初めて聴くと置いていかれてしまったように感じることが多いです💦
でも必死に追いかけて最後には追いつけるのですが、もう終わってるみたいな感じで、でも楽しそうなのでこちらもうれしい✨みたいな。
この印象は『たま』として演奏されていた時には感じませんでした。
3人のそれぞれの音楽がそれぞれを活かされていたのかなと私は思っています。
何も知らないのに偉そうですみません。
何でもOKということだったので、正直な感想です。(ゆかり)
(本人より)どう感じるのもどう思うのも、聴く側の自由です。なんらかの琴線に触れられれば、歌としては成功と思ってる。追いついても、追いつけなくてもね。
石川さんのすごいところ
石川さんのすごいところをお伝えしていませんでした!
前の文では音楽の感想のことを何も書いていませんでした!
演奏の感性というのでしょうか、あまりにすごいことを石川さんの自然体でされるのに、毎回必ず驚きます。
これは『たま』の皆さまに共通する驚異的なすごさで、どなたかも言われていましたが、どう演奏されているのか見てもわからないと。
本当にそう思います。
だから、半分神さまか、本当に神さまなのではないかとひそかに思っています。
本当にそうでも驚きません。
でも、こうやって好き勝手に書いていると、たまに神さまかもしれないことを忘れてしまいます。
失礼ばかりですみません。
まだちゃんと聴けていないのですが、気づけていない石川さんのすごさを発見するのがこれから楽しみです!
石川さんの演奏で今思い出せるのは、絶妙な「間」だったり、音楽の空気をつかんで演奏されていて、瞬発的だったり、静かだったり、演奏する人を支える時は相手の方を見て合わせているという印象です。
ギターも少ししか聴けていませんが、すばらしかったです!不器用とおっしゃっていましたが、私は不器用ですがあんなふうには絶対になれません。
あんまり思ったことを書くと営業妨害をしていると言われてしまいそうが、真摯さがなければできない音楽だと思っています。(ゆかり)
(本人より)長年音楽をやっていると、少し全体の空気が読めるようになってるのかもね。そしてもしかしたらそれが培われたのは、子どもの頃いじめられっ子だったからかも。みんなにいじめられないように、常に「どういう状態がいいのか」を自然に考える癖がついていたからかもね。
いじめてくれて、ありがとう。
「ソフトムリーク」について。
今気づきました!やっぱり頭にもやがかかっていたようです。
クリームが逆ですね。
気づくのが遅くなってすみません。また解読します。(ゆかり)
(本人より)子供が言葉を間違って覚えて喋ってるのが面白いなと思って、歌詞に取り入れてみました。それをどう解釈するかは、自由です。(石川浩司)
石川さんとの接点
こんにちは。戻ってきました😊
外はものすごく暑いですね💦
インターネットが苦手で情報は完全につかめていないと思いますが、ご予定でお忙しくされていましたら、どうぞお身体に気をつけて🙇♀️
親友とは明日電話できることになったので、今日は別のお話をします。
思い出しました!石川さんとの接点がありました!
私のダンナさんは同じく福祉職をしているのですが、その専門学校の元恩師がマスターをしている藤沢の認知症カフェに来てくださっていました🤩
私が『たま』を知ったばかりの頃で、その話からダンナさんも偶然思い出して話してくれました。
いいな〜いいな〜とうらやましがっていたのに…なぜか今日まですっかり忘れてしまってすみません🤯
カフェには見えない変わったコンセプトのカフェで、私も一度だけ遊びに行ったことがありいつも地元の人がふらりと遊びにきます。
地域のコミュニティスペースを目指しているとのことです。
その元恩師はトラさんと言って、ミュージシャンを目指していたので音楽が好きで、お店でもよく演奏しています。そして、お店にはレコードやギターが色々飾ってあります。
私のダンナさんはギターは…弾いてくれたことはありませんが、ダンナさんのお兄さんが言うには昔「弾けてた」そうです。
ダンナさんは一見するとそうは見えないと思いますが、実は面白い人が好きで、本人も基本はかなりまじめですが面白いことが好きな人です😁
カフェの正式名を今はど忘れしてしまいましたが、そんなことで、その節はお近くにお越しいただきありがとうございました🤗✨(ゆかり)
(本人より)藤沢は俺が物心ついて幼稚園、小学校と通ったところだからね。俺の原点なのだー。
ちなみに、この後もゆかりさんの投稿はあったけど、俺に関するレポートではまったく無かったので割愛させていただきました。ご了承ください。
父が「たま」を買ってきた日
私がたまさんの音楽と出会ったのは、小学5年生の頃のことでした。
父が突然、「たま、買ってきたでぇ」と、なぜか青森出身なのに関西弁で嬉しそうに「さんだる」のCDを見せたのを今でもよく覚えています。
しかし、もっぱらタイガースやテンプターズ、カーペンターズといったグループサウンズ好きな母と、当時流行っていた米米CLUBや徳永英明さんに熱を上げていた姉はほとんど興味をしめしませんでした。
CDをかけると、歌がすごく怖かった記憶が強くて、母や姉が聴く類のものとは明らかに異色であることは小学五年生の私であってもよく分かりました。父は元来飽きやすい性格で、それ以降新しいアルバムが出ても買ってくることはありませんでした。
なのに、私はどうしてか怖いのに聴くのをやめられず、なんでかずっと聴いていました。ずっとというのは、世間からたまさんがどこへ行ったか分からなくなるまで。
当時はインターネットもなかったし、小学生・中学生だった私がたまさんたちの活動を知る由もありませんでした。高校生になったころ、学校の図書室でなぜかたまさんの本を見つけたけれど(けっこう厚みのあるやつ)、どんなだったかそれはよく憶えていません。
それで、当時私はセキセイインコを飼っていたのですが、学校から帰るとインコたちを放鳥しながら飽くこともなく連日「さんだる」ばっかり流していました。それぞれ、なんとなく歌詞を、全文ではないけれど、そらんじています。
「ひどい詩だ」といつも思いながら、ギロチンにかけられた人魚や、「僕」をにらむラクダの目を想像しました。川をどんぶらこと流れてくる女性の腹を殴るボクサーは、なんと恐ろしいことだろう。おやつが風邪薬7錠じゃ、それこそ自分のほうが医者にかからなくてはならなくなる。
何にも知らない子供の私が「オゾンのダンス」を歌っていたら、母が「それは、家の外では絶対歌わないで。お母さんは、その歌、いやだ」と言うのできょとんと母の顔を見ました。今では、あれは確かに卑猥な感じだったかもなぁと母への理解もいくぶんします。しかし、食事も睡眠もふつうな生命の営みであるのに、どうしてか性的なことだけは、湾曲させてしまいますね、人間は。
それで、「学校に間に合わない」は、忘れ物ばかりする私にとって、すごく怖い歌でした。草むらの中、教科書を探し、ノートもどっかいっちゃって、取り残されてしまうのだから。
それにしても、階段だけしかないそれだけの建物、そんなのがあったら、確かに子供はとりあえず登ってみて、てっぺんから飛び降りてみたくなるかもしれません。
ひところ、バンジージャンプや遊園地ではブルーホールみたいな高いところから落ちていくのを楽しむのが流行っていましたから、歌で、その先取りをしたのかもしれませんね。(ブルマン青山)
(本人より)昔はネットが無かったから、テレビや雑誌に出なくなったら「消えたもの」「やめたもの」と思われてたよね。実際は規模の縮小はあれど、相変わらずライブを続け、CDも出していたのにね。結局大手事務所にいないとテレビに出たりライブの宣伝がちゃんと出来たりしないからね。まぁその辺りは「『たま』という船に乗っていた」を読んでいただければ分かるかもしれないが。
それにしてもある種のトラウマ的なことになっていたのは、良く解釈すると子供ながらに琴線に触れたということで、それが表現者としては一番嬉しいこと。バンドやってて良かったなあ〜。
ぶつぶつ昔話 チャットバー ウキュピ編
私が石川さんのHPに初めてアクセスしたときには まだチャットがあった(なぜなくなったかは 色んなとこで書かれてるので省略)
一時期石川さんが先導して X(当時はツイッターね)でリプして人を集めてたりしてましたね
印象に残ってる会話があります
私がパワハラで会社を辞め 一年就職浪人のようなものをしてやっとこ入社が決まったとき たまたま石川さんがチャットにいらっしゃったので顔を出したら
「ズミ天、仕事決まって良かったね!」と激励してくれました
これは今でも覚えてます。嬉しかったです。
別の日
大谷氏も交えて数名でお話
議題がうんこというお上品なテーマ
私は記憶に残ってた 本物の乾燥人糞が付録でついてたレコード 愛欲人民十時劇場とボソッと呟いたら
石川さんが「懐かしい…」と呟いてくださいました
この頃私は山崎春美さん(上記のレコードの中心人物)にハマっていたので呟いたらまさかの反応
そしてファイブクエスチョンで聴いたことあるか訪ねたら ダビングで聴いてたとのこと
あとで調べたら 山崎春美さんとも共演されてたことを知ってびっくり
他にも私や現投稿王への誹謗中傷などもありましたねー
私はネットの悪口など便所の落書き程度にしか思ってなかったのですが あまりにもしつこいので んーとは思ってました
その後 石川さんとライブで会った時(山下由さんの追悼ライブ)石川さんから「チャットに負けるなよ!!」とこれまた激励
隣りに座ってた知久さんは「なんのこと?」と笑ってました
といろいろブツブツ呟いてみました
復活は望まないけど 昔はこんなこともあったよなぁとふと思い出すことはあります(ズミ天)
(本人より)楽しかったんだけどねぇ〜。マナーの悪い人に潰されちゃったね。残念。
2025/6/11 大阪虎辰企画25周年
ついに来ましたこの時が。
生石川さんに会える時が。
関西にいらしてくれてありがとうございます。
私の住んでる場所はアクセス最高なので、関西までは庭のようなものです♪
夜行バスにて、関西に到着したのは
ライブの朝。
前日にライブがあった京都でした。
まずはいつも行く神社にご挨拶と……。
本当は、ライブの日の夜にそのままトンボ帰りするつもりが、
第二目的の方がトリを務める&夜行バスの時間を過ぎてしまうので、一泊することに。
ネットカフェにて一泊1500円なり。コスパ最高(笑。
会場はわかりやすい一本道なので、迷わずいけました。
と言いたい所でしたが、ほんの少し通り過ぎてしまい、来た道を戻るという失態。
会場への降り方がわからず、ここでも迷いました(苦笑。
昭和ポップな感じが印象的だったANIEKEY A GOGO!さんからはじまり、寺田町さんの美しいギターサウンドが響き、リレー形式で虎辰さんのバースデーと企画25周年を祝っていきます。
石川さんは舞台上では、やっぱりランニング姿(笑。
普通のお姿の時には、ともすれば気づかないんじゃないか?くらいのオーラで会場入りをしていった石川さんは、ランニング姿でステージに立つと、やはりそこはプロ。
会場にいる皆様を惹きつけていきます。
虎辰さんへの導入MCという事で。
「今日は、色々な方が出演してますが……虎辰さんの誕生日という事でね、もう僕らは倍は生きられませんから。」
というような短めの挨拶が終わった後、、まさかあれが来るのか?いや、でもあの曲長いし、まさかね?
と思って、ドキドキしてたら予感的中。
聞いた人、誰もが自然と涙出たと評判のあの曲。
―ソフトムリーク
これを生で聞く覚悟はまだできてなくて、生で聞く「ソフトムリーク」は。このライブだからこそ
最高の輝きを放ってくれて。
私。なんと目の前の席で大号泣(苦笑。
この曲を歌ってるとき、半分も石川さん見れてなかった気がします。
生で聞くソフトムリークは本当に最高でした。
もう一回聞きたい。
曲の後半で何とか持ち直してステージを見ながら聞くも
その曲を聴いてる間はずっと泣いてた記憶があります。
生で聞けて良かった。
二曲目のソロは何が来るんだろうと、思っていたら。
ここはスペシャルステージ。
食事つきライブという事で、
―ラザニア
がふるまわれました。
この曲でしたっけ。途中、最後のほうで、終わったと見せかけて曲が復活して
最後に石川シャウトが炸裂するじゃないですか。
この曲でも、魂のような叫びのMCが出てきた後、
ここは割と普通にあたたかな声で。優しく。
「うまれてよかったなー」が炸裂しました。
そして、ラザニアを歌うとき、実は石川さん。
最初で突然歌詞が飛びまして。
自分で書いたんちゃうんかーい!と心で突っ込みながら、
目の前でこれも泣き笑いみたいな感じで聞いてました。
石川さんは気づいておられたのか、
いや、そりゃ目の前であれだけ大号泣されたら気づくよな。
この二曲を歌った後、はけるときに
「また会えるからね、悲しまないでねー!」
と言って消えていったのが象徴的でよかったです。
京都のライブもきっと温かでよかったんだろうなと思う一方
二か所はいけなかったので、
どっち見に来るのがよかったかというと、
こっちでよかったな、立ち会えてよかったなと思える
名MCとライブでした。
ラザニアの曲の途中のMCですが、
「ここに皆さんがいるということは奇跡的なことなんです!」
というようなことを、おっしゃっていて。
初めて会った方とも、普通に仲良くおしゃべりしてたので、
本当にその通りだよねぇ。と思いながら、聞いてました。
ソロは長い曲と短い曲という石川セレクトで終わった後、いったんはけた後は、
お仲間が増えてグループセッションに切り替わり、バンドバージョン。
何をやるんだろうと思っていたら。
なんと「たま」!!そう、「たまの曲」が二曲!
―月の夜の寂しさに
で、しっとり楽しませた後、
「これをやらなきゃはじまらねぇ……(しゃらららら」
まさか。あの曲が来る?
とおもったらきました。
―さよなら人類
こんな形で、まさか子供のころに聞いていた
あのたまのトレードマークの代表曲を聴けるとは思ってなくて。
聞けないもんだと思ってたので、びっくりうれしく思いました。
生石川さんのステージは、グループセッションの時は、
メインボーカルを立てるように歌ってらして、踊ってらして。
盛り立てるのが本当にお上手だなと。
「ついたー!」
を生で聞けたときは、めちゃくちゃ感動しました。
たまが現役時代にライブに行きたかった。
やっぱりたま最高だよ。たま。
石川さんの温かいエスコートでグループセッションも無事終わり、
次のアーティストへ。
本当に皆さん素晴らしかったです。
石川さん、ほんとにほんとにまた会いましょう。(美ゆり)
(本人より)なんと九州から! ありがとー。
この日はいつも僕の関西出前ライブを企画してくれる方の誕生日企画。出演者もプロばかりがズラリ。その分、ひとりあたりの演奏時間は短かったのに遠方から来てくれて嬉しかったなあ。最近はだいたい僕が最年長なことが多いのだけれど、この日は山本恭司さんはじめ僕より年上のベテランがほとんど。なのでちょっと小さくなっていました(笑)。とはいえステージでは「若造が!」と思われないように(流石に還暦過ぎは若造とは思われないか...)ハッチャケたけどね。ソロとたまカバー、両方観てくれてありがたかった。また来てね!