午前一時のポリス来襲

 旅も中盤を過ぎ、少々疲れも出てきたので、夕方は洗濯をしたり、俺の部屋でドン払いの賭けウノとかをして遊ぶ。
 最初のうちは時間のある限り町をうろつきまわっていたかったが、この国は実はだらだら日がな過ごす、というのが正しい旅のやり方だ、ということが、やがてわかってくる。
 何故なら、この国は他の国のように、あっと目を見張る観光地や、自然の造形物に特段恵まれているわけではないからだ。
 しかし何故にこんなに俺達を引き付けて、2年も続けて来させたのか?
 そう。むしろ味わうべきものは、みんな日常生活の中にさり気なく隠されているのだ。
ちょっとした食堂の飯に、なんでもない窓枠の装飾に、汚いガキの歯っかけ笑顔に、何ごとにも替えがたいものがあるのだ。
 だから本当はどこにもいかなくて、同じホテルでただぼーっと1週間居ついて日々を過ごすだけでも、その楽しみのほとんどは享受出来るのだ。ただ、休みの期限が決められている俺達は、どうしてもそうしてしまう勇気がなくて、あっちにいったりこっちにいったり「大変だーあそこ見なくちゃ、これ食べなくちゃ!」と右往左往してしまうのだ。まぁ、それはしょうがないとしても、変に「凄いものを見てやるぞ!」なんて意気込み過ぎると、肩すかしを食らう。その辺を見間違うと、この国はあまり楽しめないのかもしれない。

 遅い昼食だったのであまり腹は減ってないが、夜10時過ぎ、近所のフォン・グー・ラオ界隈を飲みに出かける。なんかいい店はなかんべいか、と歩いていると、横断歩道のところで突然、バイクに乗った白人に「エクスキューズ・ミー!」と声をかけられる。てっきり道でも聞かれるのかと思って近づくと、「おまえはミュージシャンか?」と聞く。「そうだ。」と答えると、「俺はおまえのライブを見たことがある。それじゃ!」とだけ言って、ブロロロローと、去っていった。
 日本で見たのか、それとも公演をしたことがあるニューヨークかパリで見たのか。こんなところで声をかけられ、さすがにちょっとびっくり。
 まあ、もちろん観光で来ている日本人にはしょっちゅう気づかれて、「ランニングだぜ、ランニング。」
 とかいわれて顔をわざわざ覗き込まれたりしてムッとしたりすることもあるが、外国人に言われると嫌な気はしない。
 (俺は国際的有名人、てか?)と、思わず頬がほころんだのを、R君にすぐに指摘された。
「今、ちょっといい気になったでしょう。バ~カ!」

 結局ビアホイの店に入り、またぐいぐいやっていると、初日に奇跡の再会をしたマッサーが、またどこからか上得意客である俺達を見つけると、いつのまにかフヒェフヒェ笑いながら、マッサージを始めていた。
 もちろん、初日にはいなかった傍若無人のクニちゃんは、「もっと足を強くやってー」とか注文の限りを尽くして、マッサーをへとへとにさせていたのは、いうまでもない。

 すっかりショッピングに火がついたR君や上杉あやが「アオザイ、オーダーメイドで作ってくる!」と夜の町を足バタつかせて浮かれているのを尻目に、俺と健さんとくす美さんは、ファム・グー・ラオの路地裏をさまよった。
 ここは俺と同じく、つげ義春好きの健さんが思わず「やられた。」という程、素晴らしい路地裏だ。
 人ひとりがようやくすれ違えるような細道がうねうねとどこまでも続いている。家と家のわずかな隙間も、よく見りゃみな通路で、まるであみだくじのようにどこまでもどこまでも続いている。
 開放的な家々からは大きなテレビドラマの音楽が流れ、家族が適当に寝転んだりしてそれを見ている。老人はハンモックに揺られている。
 もう夜11時をまわったというのに、子供達がまだお面を被ってタイヤを転がして遊んでいる。
 ただの家だと思っていると、入り口のところに安っぽい極彩色の駄菓子がわずかに並べてあり、商店だったりする。
 壁や、カラフルな色に塗られた裸電球は、まるっきりアングラ演劇の舞台セットのようで、なんだか現実感がない。
 角に椅子を出してただじっと座っているおばさんは、緑魔子か。
 真っ黒な物体が向こうから少しずつ大きくなってくる。やがてそれが自転車に乗った子供になって俺達の横をギリギリですり抜けていく。
 チリンと、さみしげにベルを鳴らす。
 歩くだけで、涙が出そうになる。

 てことで、すっかり雰囲気に浸って歩きまわっていたら、ホテルのシャッターを閉められていたので「俺達を入れてくれいー。」とガンガンやったら、フロントマンはシャッターの裏側で御座を敷いて寝ていたようで、すまんすまん、と開けてもらう。
 各自部屋に戻り、俺も本など読んでうだうだして、さあ、夜中1時もまわったので、明日の為にぼちぼち寝るかー、とR君にいったその時だ。コンコンコンと、ドアを激しくノックする音がする。
「誰?」
「健でーす! ポリスも一緒でーす。」
「えっ? ポリス!?」
 一体この真夜中に何があったというのだ?ポリスに捕まったのか?
 健さんといえば確かに、性に生きる男として仲間内ではつとに有名だ。ホンダガール(ベトナムの売春婦)でも買ったのが見つかったか?・・・いや、今夜は彼女であるくす美さんが一緒のはずだ。それはないだろう。それでは一体何を?
 しかしそれを考える暇もなく、ポリスは俺達の部屋にも入ってきた。
「ちゃんと申請されている人が泊まっているかどうかの、抜き打ちのチェックだって。ベトナムだよなー。いやあ、俺、けんかしちゃってさあ。」
 健さんの話によると、こうだという。
 健さんも風呂に入って、さあ、寝るべいやーとパンツ一丁でいた所、突然ノックの音。こんな時間に誰だ、というと、一言、
「ポリス。」
 ポリスがこんな時間に何の用だ、と聞いても何も答えない。というかあとで思ったのだが、このポリスはベトナム語以外全く喋れなかったのかもしれない。
「理由がないなら、開けられない。」
 と健さんが突っぱねたのも道理だ。なにせ、本当のポリスだという確証もどこにもないんだから。ドアを開けた途端にホールドアップされる危険性だってないとはいえないのだから。
 ところが、ポリスは、
「おとなしく、開けろ!」
 の一点張り。健さんはもちろん、
「開けられるか、バカヤロー! おめえは何者だ!」
 と怒鳴り返す。
 長い押し問答の末、フロントマンらしき人の声まで聞こえたのでうんざりしながら開けると、抜き打ちの宿泊チェックだ、ということがわかった。
 おそらく、申請している人がちゃんと泊まっているかどうか、それ以外の人がいないかどうか、のチェックらしい。
 そう知ると、昨年、カブラギがマッサーの家に泊まりにいったのだって、実はやばかったのだ。カブラギはホテルに泊まっていなければいけなかったし、マッサーはカブラギを泊めてはいけなかったのだ。さすが、町を歩いている時はドイモイ政策により、資本主義国となんら変わらないように見えるベトナムでも、やはり社会主義国だった。

 結局、健さんが機転を利かし、他の部屋でも開ける開けないでトラブルがあるだろうから、とりあえず一緒のグループの部屋だけは健さんがポリスに同行して、説明に来たのだという。
 実際、俺もR君との関係を聞かれ、バスルームの中まで、他に不審者がいないかどうか調べられた。
 俺達の隣の部屋に泊まってた人は、やはり無視したらしく、結局、合い鍵で夜中2時過ぎに侵入されられていた。
 ただ、健さんが、「そういや、カブラギのとこだけは部屋番号がわからなかったので、同行してないんだ。」と言うので、翌朝カブラギに、
「きのうは、ひとりのところにポリスが来て、怖かったろう。」
 と聞くと、
「えっ!? なんのこと?」
 と寝ぼけ声。あんなに念入りに各部屋とも調べられていたんだから、カブラギの部屋だけ外すなんてことは、考えられない。さすがにスペシャルなカブラギのとこには、ポリスも部屋を開けたものの、「はっ!!」となにかグニャグニャした得体の知れない身の恐怖を感じ、即座にドアを閉めたか? もしくは、さんざポリスに調べられた事をこやつは何ひとつ憶えてないんじゃ・・・。
 どちらにしろ、カブラギ、おめえはすごい奴だよ。


シクロのおっちゃんの夢、消ゆ

 次の朝は、激しい雨の音で目覚めた。窓ガラスに玉団子のような雨が投げ付けられ、それが割れ、外の景色は全く見えない。
 布団の中でそんな音にぼーっと包まれながら、まだうとうとしている俺の横で、R君はもうひとりで着替え始めている。
「じゃあ、あたし行ってくっから。」
 そういうや、部屋を出ていった。
 今日は、ホーチミンから数100km北にいったファンティエット、という町に出かけるのだ。そしてこの町には通常、観光客はバスで行くのだが、せっかくベトナムに来たのだから一度は列車にも乗ってみたい、ということで、鉄路で行く算段になったのだ。
 しかるに、R君はその朝のパンを買いにでかけたのだ。R君が前回来た時感激したパン屋が町にあるので、それを皆に是非食べさせたい、と張り切っていたのだ。
「みんな眠いだろうから、あたしひとりでシクロに乗っていってくっから。」
 そういって出かけた妻はしかし1時間後、あわただしく戻ってきた。
「だんな、4万ドン、っていくら?」
「えっ・・・まる2個取りゃいいんだから、400円じゃない。」
「・・・そっかぁ。」
「どうしたの?」
「いやぁ・・・あたしてっきり40円だと思っててさ、シクロのおっちゃんに最初の交渉の時、このパン屋まで往復でいくらですか、って聞いたら4万ドン、って。」
「400円だね。少し高いね。」
「そうでしょ。だいたい相場が50円から100円ぐらいだな、と思ったわけよ。」
「ふんふん。」
「だからなんとか50円ぐらいで行ってもらおう、と思ってたわけよ。50円、50円って。」
「はぁ。」
「そしたら、善人そうな顔で4万ドン、っていうから、あたしてっきり40円だと思ってさ。思ってた値段より安いんで、即OKしちゃったわけよ。だって400円なんてふっかけてるなんて思えなかったんだもん。あっ、この人いい人じゃーん、って。」
「金額は口で言ったの?」
「それが紙にバッチリ書いてあるのよ。交渉した時の。」
「それじゃ、駄目だよーっ。こっちの完全な間違いなんだから払ってあげなくちゃ。」
「でも、きのうもっと遠いところに行った時だって、100円いかなかったんだよ。」
「でも、結局払ったんでしょ?」
「それがさ・・・。降りる時に、親切だったし、こりゃあ少しチップはずんでやるか、と思って20円プラスしたのよ。つまり6000ドン。そしたら、なんか急に怒りだして『もっと金よこせ!』みたいなこといってるから。」
「そりゃあたり前だわな。4万ドン貰えると思ったら6000ドンじゃ。」
「でもこっちは自分が間違ったなんて思ってないから、あっ、なにこの人! なに難癖つけてあたしから取ろうとしるの! すっごい悪い人! って思ってさ、6000ドンだけ投げ付けて帰って来ちゃったってわけ。」
「は・・・いやぁ・・・それでその人は帰ったの?」
「・・・いやあ、たぶんホテルの前にいると思う・・・。でも相場は50円くらいなんだもん・・・。」
 しかしこれは、R君の方が明らかに悪いであろう。一般にベトナムはまだ日本より遥かに「定価」の概念がない。物をいくらで売ろうが買おうが自由であり、欲しい人の値段と売る人の値段が合致すれば、それで良いのだ。
 それがはたから見てどんなに理不尽を感じる値段であろうが、関係ないのである。納得すればそれがその時の価格なのだ。
 だからシクロのおっちゃんも、とりあえず「このくらい貰えりゃ、あっしは幸福なんですがね。」という夢の金額を提示したのであろう。別に夢を持つのは勝手なんだから。しかるにそれは当然拒否されて、「なに馬鹿なこと言ってんのよ!」と一喝されると思ったら、あろうことか、すんなりOK。「こりゃ、朝から縁起がいいやー!」と上機嫌でペダルを漕いで、「はーい、到着!」と言ったところで10分の1近い額を「どうも!」とにこやかに渡されても、そりゃ納得しないだろう。
 とりあえず下のフロントの所に降りてみると、案の定、シクロのおっちゃんはフロントのお姉さんにもつっかかっていた。
「おめえんとこの馬鹿客が、踏み倒しおったんじゃ。こちとら、踏み倒すことはあっても踏み倒されるなんて前代未聞なんじゃーっ!」
 とでもいってるようである。
 とりあえずフロントのお姉さんも、
「しょうがないわね。でも、4万ドンはあまりに高いわ。よくて1万ドンも追加で渡せばいいと思うわ。」
 というので、俺が、おっさんすまんな、という感じで、1万ドンを渡そうとすると、おっさんは頑として受け取らない。
 そのうち、駅に行かねばならない時間になり、タクシーがやってきた。何度も1万ドンを渡そうとしたが受けとらないので、
「おっさん、俺達はもう行くぞ。」
 と言ってタクシーに乗り込もうとすると、そのタクシーのドアをガシンとつかんで離さない。
「2万ドンだ。」
 俺もちょっと頭にきて、「おっさん、これでいいだろ。」と小さくつぶやいて1万ドン札を差出しながら、ちょっと凄んでみた。坊主頭は、時にそのスジに見えないこともないので、それなりに怖いと思う。ましてやシクロのおっさんは小柄で、俺はこの国にはいないデブだ。
 ところが、じっと目を見つめてみると、年はおそらく俺とあまり変わらないであろうそのおっさんは、決して俺と目を合わそうとはしなかった。震えているようにも見えた。
 そして、その目は真っ赤に充血していた。それは、怒りというより、哀しみの充血だった。そして俺にはこんな声が聞こえたような気がした。
「棚からボタモチだと思ったのに・・・。今日はもうこれで店仕舞いで、あとは昼からビアホイでも行こうと思ったのに・・・こんなラッキーは滅多にないと思ったのに・・・。なんだよ!」
 その目をみたら、急に彼の男の哀しさがわかってしまった。ベトナム人は、実はプライドがとても高い。気さくな反面、一度OKをもらったものを翻されるなんて、絶対に我慢が出来ないのだ。馬鹿にされることは、決して許さないのだ。
 俺も、相手が挑戦的だったり、仲間を集めたり力で押し通そうというものには反抗したくなるが、男の哀しみを背負ってるものには、からきし駄目なのだ。
「・・・じゃあおっさん、2万ドンだ。」
 そういって2万ドンを差し出すと、彼は物も言わず、赤い目のまま、雨の中を車から離れた。
 タクシーは走りだした。おっさんの姿は、すぐに見えなくなった。


ピーターパンの村

 朝のスコールで完全に床上浸水している路地をしばらく走り、タクシーはやがてサイゴン駅に到着した。
 駅舎はそれなりに大きいが、人は閑散としている。やはり交通機関の中心は他のアジアと同様に、バスに取られている。
 鉄道マニアのカブラギは落ち着きがない。あっちにひょこひょこ、こっちにひょこひょこ、ハッと気づくと、列車の下かなんかを覗きこんでいる。
 ただ、カブラギよ、ひとつ忠告しよう。いろんな場所を覗くのはかまわない。なんでも見るがよかろう。ただ、列車のドアを鼻を近付けてクンクンするのは、やめた方がいいぞ。さすがのベトナム人もギョッとしているぞ。

 ホーチミンのどでかい肖像画の下の改札口を通って、列車へと乗り込む。指定席に着くと、窓から突然ひとりの女の子がよじ登ってくる。と、それを皮切りに、次々に開いている窓から子供達がよじ登ってくる。物売りの子供達だ。マンガ、地図、卵、パン、水・・・。
 しかし列車が走りはじめ、子供達が降ろされると、車掌は窓に付いている鉄格子のシャッターを降ろすように指示した。
 これは物売りの子供達や無賃乗車の人達の侵入を防ぐ為か。何故なら、少なくとも市内通行中、列車は自転車並みのスピードしか出ていないのだ。これでは窓から「あらよっ!」と飛び乗る事なんざ、オチャノコサイサイだろう。
 実際、まだ7,8才と思える少年が、煙草を片手でふかしながら、ニラミをきかして、もう一方の手でデッキにぶらさがってたりした。
 しかしそれにしても、やけに頑丈な鉄格子は、もしかしたらそれとは別に、軍事上の理由があるのかもしれない。事実はわからなかったが。
 もちろんカブラギは、「これじゃ外がよく見えないよー」と言って、鉄格子に顔をくっつけて外を見ている。カブラギよ、もうひとつ忠告しよう。外を懸命に眺めるのはよかろう。いつまでも見てるがよかろう。ただ、鉄格子の柵に完全にくっついているので、鼻がはさまってるぞ。列車が揺れた勢いで鼻をちぎって、皆を仰天させるのだけは、やめろよ。

 上杉あやが、ホーチミンで見つけた、
「これっ、子供の頃よく買ったんだよー。見かけないかと思ったら、こんなところにあったのかーっ。」
 と言って、いくつも買い占めた「指輪ドロップ」というのをしゃぶっている。これは、指にはめる指輪のようになっていて、その宝石にあたる部分が飴になっている。上杉あやは最初、指にはめたまま、眺めてはなめ、眺めてはなめしてて、それはそれで怪しいものがあったのだが、そのうち口にくわえてなめだした。するとそれは完全に赤ん坊のしているいわゆる「おしゃぶり」と全く同じ形になって、それをいい大人が列車の名でべえろべえろなめているものだから、それはとても危ない幼児プレイに見えた。しかもさみしいひとりプレイ。
 偶然そっちを見た白人の親父が、「しゃ、車内で何を・・・」と、ギョッとしてた。    ホーチミンを出て約3時間。列車はムオンマンという町に着いた。ここで、ファンティエット行きに乗り換えるのだ。もちろんギリギリになってからトイレに入っていたクニちゃんは、「降りまーす!!」とかトイレの中から大声張りあげてたけど。
 いきあたりばったり、といおうか調べる術がなかったので、ファンティエット行きは次は何時か、と、おばさんの駅員に聞くと、約2時間後だという。おばさんは、2週間前から英語を習い始めたので、ちゃんと喋れなくて恥ずかしい、というような事を言っていたが、日本人の俺達のだれよりも、まともに喋れてた。おいっ! 日本の英語教育は本当に間違ってないのか? 
   実は、今回のメンバーの中で、一番現地の人と意志の疎通がはかれているのは、R君である。ちなみにR君は高卒で、しかも相当できの悪い方の高卒である。まぁ、妻のことなので本当は隠しておきたいが、かなりぶっ飛んだ学力である。例えば、ハタチ過ぎ、始めて俺とデートした時、夕方になってふと空を見た妻は、とてもびっくりしている。どうしたのかと問うと、
「月と太陽が、両方出てるじゃない!」
 と言うのだ。
 季節や時間によってはそんなこともあるので、
「えっ? それがどうかしたの?」
 と聞くと、
「???・・・だって月は、太陽の夜の姿でしょ。」
 一瞬、妻は詩人になってとてもポエトリーな発言をしたのだと思ったが、顔を見ると、単にいぶかしんでいるだけだ。おいおい。
 まぁ、これは本当に一例で、早い話、偏差値30である。
 もちろん英語だって、からきし駄目。15と50の違い、フィフティーンとフィフティは表現できないし、彼も彼女もヒーもシーも全部一緒である。でも、メンバーの中の誰よりも相手に通じる。だからといって、他のメンバーが全員、狼に森で育てられたので小学校もいけなかったんじゃー、今でも夜毎、森に向かって遠吠えしてしまうんじゃー、ということはない。まがりなりにも大卒だっている。
 つまり、会話はまず、押しと、身ぶり手ぶりのジェスチャーと、絵文字である。何かを伝えたい、という気力である。
 そんなこと、ちっとも学校じゃ教えてくれなかった。でもそれがどんな英文法よりも、英会話の第一歩なのだ。みな、R君の「当たって砕けてモアディスカウント」会話法には、目を見張っていた。

   とにかく時間があるので、それまで、町を探索することにする。
 駅舎には、鍵がかかっている。そしてその窓には、もう子供達がビッシリ貼り付いてこちらを見ている。ここはホーチミンやハノイといった大都市ではない。また、ダラットやニャチャンのような観光地でもない。ただのベトナムの寒村だ。外国人が降り立った、というだけで、もう子供達は上へ下への大騒ぎだ。
 駅舎を鍵を開けてもらい出ると、駅前は実にのどかな光景だった。ビルはおろか、商店ですら、なんでも扱ってまっせー、の小さな雑貨屋が2,3軒あるだけ。道路も鋪装されていない赤土の道で、車なんて一台もない。あるのはわずかなバイクと自転車だけ。そして大勢の子供。
 道は一本道なので、真直ぐ歩いていくしかない。俺達7人は、あっという間に、子供達に囲まれ、ハメルンの笛吹きよろしく、一大パレードとなった。
「なんなんだー、これはー!」
 と、思わずみんな、苦笑するしか、すべがなかった。

 しばし歩いていると、突然ひとりのおっさんが、両手を広げ、俺達の歩いている道を封鎖した。俺達はわけもわからず立ち尽くした。
「えっ?ここから先、行っちゃいけないの?」
 しかしおっそんは英語は一切解さないらしく、ただただ両手を広げて、何ごとかブツブツ呟きながら、道を塞いでる。なんだか怒っているようだ。俺達は一旦、引き下がるしかなかった。
 確か昔、中国のアモイという町に行った時、山道をのほほんと適当にふらついていたら、いつのまにか軍事施設の中に紛れ込んでいて、「やべっ!」と冷や汗を垂らしたこともある。
 もしかして、この町も何の知識もなく降り立ったが、未開放の村だったりするのかもしれない。
 しかし、どうも様子が変だ。そのおっさんはどうみても公安関係には見えないし、なにより酒臭い。そして周りを見渡してみると、そこにたむろしている他のおっさんやおばさんは、にやにやしてそのおっさんを見ている。
 ここで、俺は奇襲に出てみることにした。
 いきなりおっさんの肩を抱くと、
「フレンド、フレンド」
 と言ってみたのだ。
 するとおっさんは、急に俺以外の人を手でシッシッと追い払うと、
「オー、フレンド!」
 と言って、俺の肩を抱き返してきた。そして、にこにこ楽しそうに俺に話しかけてきたのだ。もちろん言葉は全然わからないが、俺も適当に相槌を打った。
 と、そのうちおっさんはまたふらふらふら~と、俺達を怒っていたことも忘れて、どっかにいってしまった。
 結局、世界のどこでも棲息する、ただの酔っ払いだったのだ。
「おっさん、明日も幸せにな!」
 俺はおっさんの背中に、声をかけた。

 子供は相変わらず、2,30人ほどついてまわってる。そのあたりの、安っぽいながらも、妙にお洒落な窓枠の写真なぞ撮っていると、
「もっと立派な家がこっちにあるから、そこを撮れ。」
 と言う。
 行ってみるが、そこは俺達にとっては何の変哲もない、近代的な無機質のコンクリート作りだったりする。
「こっちの方が自慢なんだろうけど、これは面白くないんだよ。」
 とわかってもらえない言葉をかける。

 そうこうしているうちに、上杉あやが良い大人ぶって、子供達に飴をくばり始めた。しかし、
「これ、買ったけど、まずいんだもーん。」
 が、その配る理由だから、とんだ善人である。
 ところが、目の前のほんの2,3人に渡すつもりが、袋を破った途端、地響き立てて子供達が上杉あやをもみくちゃにした。もちろん、そのもみくちゃに乗じて、上杉あやのデカパイをもみくちゃにしてるガキもいる。とにかく、村中の子供の手が飴を求めて伸びてきた。
「ちょ、ちょっと待って! あげるから、お、落ち着きなさーい!」
 といったって、それで落ち着く生易しいガキなんて、ベトナムキッズの名折れだ。子供達は、そんなにヤワじゃない。
「もう、あんた! あんたにはさっきあげたでしょ!」
 右手の次は左手を出す奴もいる。
 そんな中、ひとりのダウン症の女の子だけは、後ろの方でにこにこしていて、手を出せないでいる。
「ほら、あんたも取りなさい。」
 といっても、こちらの方を見ているだけ。
「あの子にも、あげてね。」
 そう近くの性格の良さそうな女の子に渡すと、彼女はタタタタッと駈けていき、その子の手に飴を握らせた。
 ダウン症の女の子は、さっきと同じにこにこをしていた。

 健さんは、地べたにペタンと座り込み、子供達と砂に盤を描いて遊んでいる。
「モッ、ハイ、バー(1,2,3)」
 少し年長のにきび面の子供が、星形の図形に石を置き、パズルのようなことを始めた。
 健さんは何度もそれに挑戦するが、うまくいかず、失敗するたびに、みんなドッと笑う。
「ベトナム人って、頭いいなぁーっ。」

 くす美さんには、子供達が手を引いて、こっちこっちと、家の裏の果物畑を見せに連れていかれた。
「この電球を当てて、大きくするんだよ。すごいでしょ。」

 カブラギには、子供達に一番なつかれていた。手をつないだり、「写真撮ってくれよぉ。」とせがまれたり。いつもカブラギは子供と犬にだけはモテモテNO1だ。

 R君は、女の子達となにか話をしていた。なかでも「ムオンマン美少女トリオ」という感じの3人がいて、本当に日本でアイドルにでもなれそうな子達だ。目がクリックリッして人なつこく、頭も良さそうだった。ロリコン趣味の健さんも、ちらちらそちらをうかがっている。

 俺は持っていたハンディのビデオカメラをみせてやった。モニター画面が写るタイプなので、みんな生まれて初めてテレビに出演したような興奮状態になって、ピースをくり返し、キャハキャハ歓声をあげている。

 クニちゃんが帰り際、小学生とも思える子供に、年を聞いた。
「ねぇ、君、いくつ?」
「・・・15。」
「えっ!?」
 その時は皆「へーえ、ベトナムの子供は、年よりも若く見えるんだなー。欧米では、ボインボインのいい女が中学生だったりするのに、逆だなぁ。」ぐらいの感想しか正直、持たなかった。
 ところが、帰国して何ヶ月か経った時、とあるベトナム紀行のテレビ番組を見ていた時、その理由が明らかになった。
 つまり、栄養が足りないので、育たないのだ。
 もう15,6の年令に達しているのに、小学生程度にしか体が発達していないのだ。大きくならないのだ。つまり、ピーターパンだったのだ。それはもしかしたら、現在本人の栄養が足りないという以前に、ベトナム戦争時代の親の栄養が足りなかった結果なのかもしれない。とにかく、まるっきりの子供だと思っていた人達が、実は日本でいう中学生や、時に高校生だったのだ。
 俺達は大人を連れてハメルンしていたのだ。
 この事実には、さすがの俺もちょっとドキッとした。

 2時間が過ぎ、ファンティエット行きの列車がようようやってきた。ディズニーランドのアトラクションにでも走っていそうなレトロ列車で、なにもかも木造りで、床の裂け目から、走行中の地面がみえる。デッキだけは妙に鉄枠の装飾がお洒落だ。
 しかし乗り込んだ途端、ひとりの老婆が近寄ってきて、
「日本人か。」
 と聞くので、
「そうです。」
 と答えると、突然、
「日本人なんか、降りろ!」
 と騒ぎ出した。
 結局、車掌がやってきて老婆をなだめて事なきを得たし、まわりの乗客もそれを見て笑っていたから、たいした問題ではなかったようだ。しかし、親日的な人が多いベトナムでも、時折こんな人がいる。あの老婆には、日本人はいったい、どこで何をやらかしてしまったのだろうか。どんな悲しい思いをさせてしまったのだろうか。俺達にはそれを知る由もなかった。

 列車は走りだした。子供達はもちろん、さきほど町歩きしていた時にはあまり見かけなかった大人達まで手を振ったり、ピースをしたりしていた。
 あのダウン症の女の子も、遠くに小さくこちらを見ているのが、みえた。


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