(33)
ここは自分のまわりのおバカな奴の行動・言動などを紹介するコーナーだ。
なるべく本人を直接見たり本人から直接聞いたものが良いが、信憑性が高ければその友人ぐらいまではOK。もちろん人間じゃなくてもかまわないぞっ。
さぁ、まだ世間に埋もれている貴重なとっておきのバカを紹介してくれいっ!
メールにて投稿は題名「おバカ」で、末尾に自分の名前を入れてね。
ポイントは3ポイント以上〜ーだっ! ダ〜〜〜ッ!!
「童貞」と「紅潮」
高校の校長は帝国海軍の出身で、何から何まで軍隊調でした。
全校集会で体育館に集合するのに一切の私語は禁止。もし一言でも言葉を発する者があれば、一旦全校生徒を教室に戻らせ一からやり直し。
校長の訓辞も全員を「起立気をつけ」させたまま50分もの何の内容もない話。
そしてある日の全校集会で、生徒会長のK君がこう話を締め括りました。
「・・・僕たちの前に道はありません。僕たちの後ろに道は出来るのです!」と。
この言葉がいたく気に入った様子の校長。続けて登壇し「今の生徒会長の言葉を聞きましたか。実に素晴らしい言葉じゃないですか。僕たちの前に道はありません。僕たちの後ろに道は出来るのです。全くその通りです」と興奮気味に称えていました。
この時は生徒の人権も守らない奴が何を言ってるんだとしか思っていませんでしたが、ここからが「おバカ」の本領発揮なのでした。
ちなみにこの校長、教師による暴力事件が全国ニュースになると「校門の前にいる連中(マスコミ)は無視するように。学校の品位を落とすような言動(インタビューに答える行為)は絶対に許しませんから、そのつもりで」と生徒を脅迫するような奴でした。
当時は学校のホームページなんてありませんでしたので、代わりに学校案内のパンフレットや体育祭・文化祭のプログラム、ありとあらゆる学校行事の冊子にこの言葉を校長自らの自筆で印刷させました。もちろん生徒会長のK君も校長のお気に入りに。
「『道』
僕たちの前に道はありません
僕たちの後ろに道は出来るのです
福岡県立〇〇〇高等学校 生徒会長 K」
まあ、ここまで聞いても何が「おバカ」なのか分からない方がおられると思います。
ただ知らないだけのことを「無知」だと馬鹿にするつもりはありませんし、「無知(無知識)」を馬鹿にする奴こそが本物の馬鹿だということも分かっていますのでご安心を。
生徒会長の言葉に感動した人権無視の校長・・・?
実はこの「僕たちの前に道はありません。僕たちの後ろに道は出来るのです」という言葉、高村光太郎の詩「道程」のパクリなんです(笑)!
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
・・・(高村光太郎「道程」より抜粋)
「学校の品位を落とすような言動」を、自らが中心となって行っていたおバカな校長なのでありました。
あ、タイトルの漢字を間違えてましたね・・・失礼(笑)。(デクノボー 16/9/12)
(寸評)しかも俺ですら知ってるすげー有名な詩じゃん。
パクリの前に道はない
パクリの後ろに警察が来る
ああ、逮捕よ
およよ
8ポイント。
巻いちゃいました
10年ほど前のお話。
結婚して2年ほどの頃。私は嫁はんと旅行をしておりました。お互いふざけることが大好きで、あほなことを仕掛けてはどう返すか、その応酬が楽しい時期でありました。今でもたまにやりますがやはり楽しいもんですね。
宿にて。風呂の前に全裸で陰茎を手を使わずに腰の動きだけで高速回転させたり、架空のバカ怪獣になってへらへら笑いながら延々あほしゃべりを続けたりとおおよそ30前の男女とは思えぬ低レベルの戯れをしたりして遊んでいましたがええ加減にせんと風邪を引くので私は先に風呂に入ることにしました。
ぷひゅう。いい湯であった。一日の疲れを癒してご機嫌な私、ベッドルームに戻ろうとすると、なにやらベッドの端に奇妙な物体、そして切迫感のある呻き声が聞こえてくるではありませんか。
何ごとか、と思いよく見てみると果たしてそれは掛け布団でぐるぐる巻きになった嫁はんで、一体何者にかような狼藉を働かれたのか。そして私に必死で助けを求めています。両手を布団の中に収納した嫁はんは危うくベッドから転落しそうになっています。
私はあわてて嫁はんを保護、息を荒くして涙目になっている嫁はんから事情を聴くと・・・
嫁はん「はー、はー、あのな」
オポ「どないしてん、なにが起こった」
嫁はん「布団に隠れようと思って、ベッドに転がって身体に掛け布団を巻きつけてたら、手足の自由が利かなくなったうえにベッドから落ちそうになってん」
私は腹を抱えて爆笑しました。
この嫁はんは、私のいない間になにを独りであほなことをしておったのでしょうか。
嫁はん「いやいや笑うけどな! これほんまに怖いで! ちょいオポムもやってみ」
オポ「ほほう、ほしたらやってみようやないかいな。どぅれくるくる・・・ ひっっ!!!」
こっ、これ怖い!! 身体をセルフですまきにした結果、きっちり手足が封じられて身体のコントロールが急激に困難になり、みずからすまきを解くことが容易にできなくなります。そのうえ身体を布団で巻き切ると必然その身はベッドの端っこへ、そのベッドの端から落ちても我が身は受け身ひとつ取れる状態ではなく、つまり落ちるに任せるしかなくなり、角度によっては頭から床にごつんと行きかねないのです。恐るべしセルフすまき。良い子は真似しちゃ、ダメ、絶対。
時は流れ、我々も親となってしまい子供の前ではろくにふざけることも出来なくなってしまいました。
しかしこのあほあほすまき事件は私の中の嫁はん史に燦然と残っており、さすがは私と結婚した女性だ、と妙な納得をするのでした。あの頃君は、ばかかった。(オポムチャン 16/9/12)
(寸評)うちの夫婦は50過ぎて未だにやってる・・・。
子供がいないといつまで経っても大人になれんなっ! 8ポイント。
おいおい、懲りひん阿呆がまた九州行きよったど 〜九州たま会2016.9.3〜
(※ 念のため投稿者の方以外には一部イニシャルを使用しています。)
ちょっと待てお前、こないだの投稿「ちゃんとせぇ、おっさん」でもう人前に出るのは辞めよ、て言うたばっかりやないかいこの嘘吐きめが、とお叱りのむきにはお詫び申し上げます、鈴を、鈴を“知久さんギターだけにとどまらずマンドリンさらに滝本さんベースや柳原さん鍵盤までれんしうを重ねぐんぐんパワーアップを続ける熊本のたまファン若人”NHさんに返さんなんのです。はぁ? なにが鈴かえす、じゃ、さっさと郵送せぇ白痴、とおっしゃられてもですね、私はNHさんの住所を存じ上げないのです(笑)。答えは簡単、9月の九州たま会に参加すればいいのですよ(←もう手の施しようがない狂人)。
調子に乗った関西の狂人おっさんは女房子供にまで許可をとり、勢い九州観光も兼ねて連れ出すことに。家族サーヴィスもいっぺんに出来るなんて一石二鳥やんけー。この時点でもうすでに前回の激しい落ち込みは忘却の彼方へ去っている模様。あほは便利です。ただ開催日程の連絡が来た段階ではまだ私は落ち込みを引きずっており、会にて私の15年替えていない錆っびさびの弦交換をして前後の音の違いを聴かせてもらえないか、との打診があって私はハイと答えたもののそれって私の糞耳露呈の公開処刑じゃん、と勝手に曲解をして落ち込んだりして主催の方にいつになく愛想ないメールを送ったりして実に不細工なおっさんでしたごめんなさい。しかし時間の経過は日にち薬とも申しまして、そのうちたま好きの皆さんとまた遊べる喜びの方がぐんぐん大きくなり私のちんけなプライドなどどうでも良くなってきて、弦替えの凹み云々は雲散霧消しておりました。
さて前々回の3月の九州たま会ではリコーダーをお持ちの方がキーボードのジェレ美さん(投稿王ランキング28位:2016.9.6現在、以下同)とかつてたまのコピーを「ちくわ定食」という所属バンドでなさっていた、石川さんともセッション経験のあるベーシスト・マンドリニストの森嶋さん、のお2人だったのですが、リコーダーが必要なところではお2人とも演奏で手が離せず、やむなく私が森嶋さんのリコーダーをお借りするという申し訳ない事態になったので意気込んだ私は楽器店にてついにマイソプラノリコーダーを購入、ベルマークも12点も付いててぼうずの幼稚園で喜ばれるやんけー、とうきうきしとったらこのあほのおっさん、小学校で習った運指が「ジャーマン式」ということを知らずになんか響きからそれっぽい、という理由だけで「バロック式」リコーダーを購入、ファの音がわやで半泣きになりながら運指を憶えなおしたのでした。あとピックなんかも生まれて初めて買いましたが持った途端にぜぇんぜん弾けなくなったのでこちらは使用を諦めました。不細工な不器用。でもいいの、たのしい方を選ぶのだ。さらにライドオン図、すなわち図に乗って「東京パピー」「かなしいずぼん」「海にうつる月」の鍵盤をれんしうしたりして開催の日を待ちわびました。
で、ホテル込みで激安新幹線チケットを予約してなんと博多駅から徒歩1分の好条件の宿をゲット、さぁあと2日で当日じゃい、と思たらなめたことに台風12号が発生してけつかり、9月の3日4日は九州地方大荒れ、などとぬかすではありませんか。おいおい待て待て、モロに九州たま会とだだかぶりやんけ、と私は(デフォルトで狂ってるけどさらに)発狂、こんな時に我が身の日頃の行いの悪さを呪いました。このチケットは激安なかわりに指定以外の電車には乗れないのです。なめとったらいかんど台風、私は女房子供にどつきまわされても独りでも九州へ行く、とNH幹事長とジェレ美さんに連絡、結局会は開催が決定、オポム一家は9月3日の朝5時半に起きて降水確率が80%の福岡博多に新幹線で突入したのでした。
意外や意外、11時に到着した博多は降雨がありません。大きな傘も持って来ましたがどうやら出番がなさそうな気配。ははは、やった勝った。私の気色悪さに台風も怖気づいたか。たはは。ざまみろ。残りの2割に当たったのです。そう、降水確率80%ってことは20%は降らない、ってことですもんねー。私は日頃の行いの良さを噛みしめました(どないやねん)。
一部の参加メンバーの皆さんはもすこし早くから集まって、書籍「たまの月経散歩」の博多の回をなぞるなぞりの旅を敢行なさっており、それが終わり次第我々オポム家はお昼ご飯の「ラーメンしばらく」で合流する段取りにしていました。私はグーグルマップさんで下見をして道を完璧に憶えたはずでした。が、見事に道に迷い、半ベソ掻いて古代電話でお店の位置を再確認、「つかれた、あるけなーい」とこれまた半ベソのぼうずを肩に担いでラーメンしばらくへようよう到着。お店の前でジェレ美さんがお出迎えくださいました。店内には月経散歩メンバーの皆さんが。
まずは会に欠かせない知久さんギターの名手・NH(幹事長)さん。3月以降、どんどん扱える楽器の幅を拡げていらっしゃいます。
東京のたま鑑賞会にもお越しだった九州たま会常連、RKさん。今回もデラックスな歌詞カードを作ってくださいました。
3月にもお逢いしたたま&プロレス好きという金髪のカッコイイ柳原さんファン、VMさん。
そして初めてお目にかかるお2人は当ページ投稿者。千葉からお越しのすこんぶさん(投稿王ランキング98位)! バンドのヴォーカルもなさっています。
もうひとかたは広島からの0さん(投稿王ランキング139位)! ギターを持ってご参戦、このあと岡山の石川さんのライヴへ飛んでゆくとのこと!!
ジェレ美さんセレクトのこのお店は細麺豚骨、お昼は100円プラスで牛飯が付けられる、しかも替え玉50円て!! 「うまくて安い」を体現した素晴らしいお店でした。
おなかもふくれたところで女房子供を博多駅へ放ちしばしアディオス。現在13時前だがたま会終了の18時まで、どうか粘っておくれ。スマン。
会場のカラオケ屋さんに着くと、これまた初めてお逢いする貴重な男性メンバーOTMさんが。他のメンバーさんは九州の柳原さんのライヴでお逢いしたことがあるそうで、今回の開催を聞きつけてご参加くださったのです。
開始時間すこし前に満を持してご到着されたのは頼もしいベーシスト、森嶋さん! 今回は重いベースとアンプに加えマンドリンまでお持ちくださいました!
さて全員が揃ったところで会のプロデューサージェレ美さんから各メンバーのご紹介。そして今回の担当パートは・・・
NHさん:ギター・ハーモニカ・マンドリン・キーボード
ジェレ美さん:キーボード・ピアニカ・ヴォーカル・コーラス
森嶋さん:ベース・マンドリン・おもちゃの笛・リコーダー・叩き物・コーラス
OTMさん:ギター・ウクレレ・叩き物・ヴォーカル・コーラス
0さん:ギター・ヴォーカル・コーラス
すこんぶさん:スライドウィッスル・ヴォーカル・コーラス
RKさん:ヴォーカル・コーラス
VMさん:ヴォーカル・コーラス
オポム:叩き物(内訳/小和太鼓・ひのきの板・タンバリン・カスタネット・トライアングル)・リコーダー・おもちゃのラッパ・ギター・キーボード・ヴォーカル・コーラス
です。あとどなたかに鈴をお願いしましたが忘れちゃいましたごめんなさい。それにしても今回も私はどれも中途半端で下手糞なのでやたらといろんなものを担当してますね・・・ そもそも本来はパーカッションの名手の方がいらっしゃるご予定だったのがお越しになれなくなってしまい、しかもギターの人数が充実していたため私は行き掛かり上おもにパーカッションを担当させていただいたのでした。そもそも石川さんのヴォーカルやコーラス・語りのポジションは何故か私で固定みたいなので(笑)、ちょうどパーカッションでいいのかな・・・なんて思いつつ。しっかしやってみてわかりますが、歌ってなくてもただでさえテンポが走っちゃうのに歌いながらのパーカッションって、めちゃくちゃ難しい!! もう走りまくって他の演奏隊の皆さんに随分ご迷惑をおかけしてしまいました。あらためて石川さんのプロフェッショナルな技術を思い知りました。やはり石川さんは凄い・・・!
演奏の詳細は各メンバーのTwitter(#九州たま会 等)に上がっていますが、ほんとにもう、楽しかった・・・・・・!!!
もちろん私が演奏に加わっている段階で本家には遠く及ばないのですが、それでも確かな演奏テクニックのあるメンバーの皆さんに支えられ、同じ大好きな音楽を皆で演奏しているよろこびに、会場は包まれたのでした。それぞれが楽しみながらも適切にヴォーカルを執りコーラスを入れ、担当の楽器をその場その場で見事に執り回し、それはもう自然とたま愛がそうさせるようなハマりっぷり。今はもう生で聴けない愛おしい音楽たちを、せめて自分たちの手で声で造って歌おう・・・ 出来の巧拙はともかく、そんな皆の想いがあふれる素敵な演奏でした。
あと途中休憩をはさんだ時、私がジュースを取りに行ってる隙にNH幹事長(´・_・`)が素早く私のさびさびギター弦を張り替えてくださいました! それまで全然わからなかったのですが、15年振りに張り替えられたギターは音が不貞腐れていない、若い響きがしました(笑)! こりゃいいわー。まったく弦の音にこだわりのなかった私に蒙を啓いてくださり、NHさん有難うございます!
夢のような演奏タイム5時間はあっという間に過ぎ去りました。恐らく30曲くらいは演ったのではないでしょうか。
私はこんなに豪華なたま会は初めてでした。9人による、愛あふれる大合奏・大合唱・・・! その空間はあまりに幸せすぎて、罰が当たるのではないかと思うほどでした。
なんとか5時間粘ってくれた嫁はん&ぼうずと合流し、メンバーの皆さんと餃子の「旭軒」へ。ジェレ美さんセレクトで焼餃子と水餃子と手羽先と酢モツが山盛り。うめぇ。5時間ほぼぶっ通しで疲れた身体に染み入ります。楽しくトークしおなかも一杯、九州たま会はお開きとなりました。
開催の段取りからいろんな楽器を見事に操り弦まで替えてくれた幹事長NHさん、経験の浅いメンバーの多い中しっかりと音楽の土台を作ってくださった頼れる森嶋さん、歌に弦楽器に叩きにマルチで活躍いただいた新戦力OTMさん、遠方から初々しいギターで一生懸命頑張ってくれた0さん、さらに遠方から来て私の「学校にまにあわない」を喜んでくれたまた非礼を許してくださった(笑)スライドウィスラーすこんぶさん、とにかく楽しんで会を盛り上げてくださったムードメーカーVMさん、たくさん録音や写真をTwitterに上げてくださった歌詞カード&車もありがとうRKさん、今回の総合プロデューサーでいつも鍵盤とヴォーカルありがとうもてなし女王ジェレ美さん・・・ 遊んでくださった皆さん、本当に有難うございました!!
あとは私が馬鹿騒ぎするために長時間粘ってくれた嫁はん&ぼうず、そしてこんな素敵な皆さんと出会うきっかけを作ってくださった石川さんに感謝です! 懲りない阿呆は、まだまだ懲りそうにありません・・・・・・!! あ、鈴は無事NHさんの元へ帰還しました(笑)。
このたま会には翌日、一部メンバーに豪華なおまけがありました。その話はまた後日。(オポムチャン 16/9/12)
(寸評)ツイッター等でいろいろ流れて来たよ。「とにかくオポさん最高!」と。
しかもマルチプレイヤーか・・・。
いつか俺と勝負じゃあぁぁぁ! 8ポイント。
280人の行列
今は昔、文化放送(1134MZ)で平日昼間「吉田照美のやる気MANMAN」という番組が放送されていました。番組中「あまり流行っていない店にみんなで押しかけ一気に注文しようではないか」というアホな企画が持ち上がりリスナーへ募集が掛けられました。私は面白そうなので指定された地へほいほい行きました。そこには300人くらいのヘビーリスナーが集まっていました。デレクターから集合者へ「店に入ったら大声で何でもいいので注文してください」「注文した料理は自分で支払ってください」と指示されました。
私は見事最初の20人ほどの注文グループに選ばれました。1400、生放送のコーナーが始まると、私たちは一気に店へなだれ込み、おばちゃんに次々と注文します。店はボロボロというよりかはどこにでもある普通の定食屋だったか中華料理屋だった気がします。店はおばちゃんとおじちゃん2人だけで仕切っていました。私はチャーハンを注文しました。一気に私たちが大声で注文しても、おばちゃんは冷静に「はいはい」といった感じで冷静に注文を取った気がします。ややしてお助けマンの寺島さん(局アナ)が現れ「うわー凄い人ですねー」と店のおばちゃんにインタビューしました。おばちゃんはインタビューに答えると、寺島さんが「店の外を見てください」というとずらーーーーーっと残り280人くらいが店の外で行列を作っていました。
最後に寺島さんがネタバレして、コーナーは終了。デレクターが事情を説明して終わりました。最初からお客が店内にいなかったのかどうか今となっては思い出せません。店の人は全く怒っていなかったみたいです。最後はメモでも何でもいいから住所と名前を書いた紙をスタッフへ渡しました。後日、かなりの番組ノベルティーが家へ届けられたのを覚えています。残りの280人は注文はしないでそのまま帰りました。
吉田照美さんは昔「セイ・ヤング」の企画で、東大の合格発表へ行ってわざと「合格した!!!」と大騒ぎ。胴上げされその姿がNHKで放映されたり、「吉田照美のてるてるワイド」では生放送中ライバルのTBSラジオに突撃したという伝説を持っている局アナ(当時)でした。今では考えられませんけどね。(わいわい 16/9/12)
(寸評)こういうイタズラ大好きなんだけどなぁ。
今では何でもクレームが入って、即打ち切り。
「クレーマー愉快犯」もいるからなぁ。果敢に戦ってる番組やタレントは応援する! 8ポイント。
話は尾ひれがついて伝わるの一例
噂話というのは、かならず尾ひれがついて伝わります。そういうおバカ話を思い出したので以下に書きます。
中学2年の林間学校で山中トレッキングをしたことがありました。信州の高地の宿泊所を出発してクラスごとにいくつかのコースに別れ、日帰りで山歩きしたのです。途中で他のグループとすれ違ったりするときは無性にうれしかったりしました。
あるところで休憩中、他のクラスのS君がうんこをもらしたという話が噂話で伝わってきました。どういう状況かというと生徒が並んで歩いていると何かうんこの臭いがしたきて生徒が「おかしいぞ」と鼻をつまんでいたそうですが、臭いの元をたぐっていくと、前方を歩いているS君にいきあたった。S君はジーンズのお尻がもりあがり縫い目のあいだからからうんこがあふれ出てきたそうです。
よくよく考えるとそんなことはありえるはずがないのですが「ジーンズの縫い目のあいだからうんこがあふれ出てくる」という表現が妙にリアリティーを感じ、その模様がビジュアライズされました。S君はそのとき以来卒業まで可哀想に「林間学校うんこくん」としてみんなの記憶に留まり続けました。真相はどうだったのでしょうね。(波照間エロマンガ島 16/9/12)
(寸評)大人になってからも通称「うんこの○○」と言われてた知り合いが居たな。
でもうんこがどうしたのだったか詳細が思い出せない!
俺の知り合いでそれを知ってる人がいたらすぐ教えてくれい。夜も眠れん。あの高円寺に住んでたうんこの○○だっ! 7ポイント。
お前と股擦れに
正式な題名表記がわからないが、「道連」という歌がある。最後の部分、「決めた決めたお前と道連れに」と書くと、「ほいほいあの歌ね」とわかる人は居られるであろう。この歌に関する話し。
俺が幼稚園から小学校低学年の頃、夜飯を食べた後親父は近くのスナックに行くのに、なぜか俺を連れ出していたのだ。当然スナック内では殆ど飲み食いできる物はなく、チョコレートが唯一の楽しみだったのだ。そしてもう一つ定番なのが、聴きたくもないカラオケ。常連客とは言え、おっさんおばはんの歌なんて、当時の俺が聴いても何の楽しみもないどころか、意味すらわからない。
で、やはり常連客のおばちゃんが歌う道連、実は最後の部分がちょっと違うのだ。
「決めた決めたお前と股擦れに」
必ずこのように歌う上、店内は爆笑。当時の俺は、「肥った人が歩く時に股擦れたら痛いやろなあ」と想像するのがやっとだったのだ。
ところが、ある程度の年齢になるとえらいもんですなあ。
「お前と股擦れに」
自身からなかなか言えない俺。実際に口で言われたらどうかとは思うものの、この歌詞を想像しながら誘われたいものであります!(西大路 16/8/30)
(寸評)股と股がこすれあう。
淫微な歌やね〜。 6ポイント。
オシャレな便器
今は昔、それは今から7年位前の実話でございます。
場所は石川さんもお住まいになられたことのある群馬県。
高崎市には高崎城址公園という公園が市内中心にございます。市民の憩いの場所でございます。
ワタクシは用を催したので、公園のトイレに行こうと思いました。
トイレに入ると、男性用便器は少しかわいいものでございました。男性の方はご存知かもしれませんが、あの形は大きいのから小さいもの高いものから低いものといろいろ形がいろいろあるものでございます。
ワタクシは「高崎市は音楽の街、芸術の街を称しているので、便器もなかなかオシャレに作ったものだなあ」と感じ入りながら用を足しました。
手を洗って外へ出ると、その公衆トイレへ若い女性の方が入って行くではありませんか。
(あれれれ、まずいぞ、注意してあげた方が良いのではあるまいか)
と思いつつ後姿を追ったものですが、女性はそのまま入っていってしまいました。
彼女はなかなか出てきません。
(あれ? 男子便所で用を足しているのかな? それともおかまさんかな?)
といらぬお世話を感じでいていると、ワタクシめは、はっと気づきました。
そこには女性のユニバーサルデザインが。
そうなのです。私が入ったのは、最初から女性トイレだったのです。
小さな男性用便器は、お母さんと一緒に入ったお子様用便器だったのでございます。
ああ、なんということでしょう。間違っていたのは 、このワタクシの方だったのでございます。
もしワタクシがトイレから出てくるのが、ほんのわずか遅くなっていたら・・・。
あなおそろしや。(わいわい 16/8/30)
(寸評)「痴漢です!痴漢です!おチンチンも出てます!おしっこも出てますぅぅぅぅっ!」はい、逮捕。 7ポイント。
スケボーイベントで見たおバカさん
1980年代後半、東京都港区の芝浦界隈はウォーターフロントと呼ばれ、海岸そばの古い倉庫やビルなどを改造して画廊やライブハウスなどが次々とオープンし、新時代の文化発信基地の様相を呈するようになっていました。その中に「インクスティック芝浦ファクトリー 」というライブハウスがありました。1986年12月5日から1989年12月31日という期間限定営業でしたが、そこで流行の最先端のバンドや催しが数多く行なわれ、私も足しげく通ったものでした。
ある時、生バンド演奏とヘヤカットショーとスケートボードコンテストをミックスしたイベントが開催され、友人と観に行きました。
ヘヤカットショーというのは、当時はカリスマ美容師が席捲した時代でステージ上でヘヤカットしているのをお客に見せるという、今となっては信じられないようなショーで、時代を象徴する光景でありました。カットモデルの中には20歳前後だった村上里佳子がいたのを覚えています。
さて、事件はスケートボードコンテストの時に起こりました。
オールスタンディングの会場中央を広く空けたスペースを、イベントの司会者の掛け声に合わせてスケートボーダーたちが走り抜けていき、そのスケーティングテクニックに審査員が点数をつけて優勝者を決めるという内容でした。審査員には藤原ヒロシもいた記憶があります。
何人ものスケーターが華麗なテクニックでスケボーを操って走っていきました。
ところが、あるスケーターはものすごい怒りの形相で、出てくるやいなや持っていたスケートボードをおもいっきり遠く高く放り投げたのです。観客は落下してきたスケボーがぶつかりそうになり「キャーー」という悲鳴を上げ逃げまどっていました。その男はスケボーを拾うと再び遠くへ投げつけ、そしてどこか引っ込んでしまいました。会場は騒然となり司会者も苦笑するだけでフォローできなかったですが、会場はイカレた若者の登場にけっこうウケていました。
私が感じたのは、そのスケーターはイベントに流れていたオシャレを気取ったスノッブな雰囲気に心底腹を立てていて、それをぶち壊そうとしたのではないかと。そんな印象を持ちました。その事件は30年経った今となってはヤラセか本当のハプニングだったかはわかりませんが、そのおバカさんの怒った形相は今もなお記憶に残っています。俳優の橋本功さんに似ていたっけな。(波照間エロマンガ島 16/8/30)
(寸評)多分持ってたスケートボードが壊れてたか何かで激高しただけな気もするが・・・。
過激なパフォーマンスも多かった時代だからね。
今は少々過激なことをやっても「あぁ、昔○○がやってたやつね」と言われるのが悲し。 7ポイント。
満員電車の中で…。
波照間エロマンガ島@バンコクです。今出勤途中で満員のBTSスカイトレインに乗車中です。1分くらい前の出来事です。ちょうど私から30センチくらいの距離に向かい合って立っている若い女性がスマートフォンで誰かに電話をかけました。相手が出るやいなや、女性は「ハッピーバースデートゥユー」と歌い始めました。これにはビックリ! 驚きを越え、呆れるを通り越し、思わず笑みがこぼれてしまいました。と、これを書いているうちに乗り換え駅に着いてしまった。以上、2016年8月26日朝7時03分、バンコクから波照間エロマンガ島がお送りしましたっ。(波照間エロマンガ島 16/8/30)
(寸評)タイの「ハッピーバースデートゥユー」は日本のディア○○〜の部分が無いんだよね。6ポイント。
偏差値25
高校3年生の時、駿台の模試で英語偏差値25という天文学的数値を取ったことがあります。
普通、白紙で提出しても偏差値30くらい行くじゃないですか。それが25ですよ。
東大理�などでは偏差値75というのはよく聞きますが、25なんていうのもあるんだなあ、としみじみ。
200点中、30点くらいだった気がします。まじめにやってこんなもんでした。(わいわい 16/8/30)
(寸評)うろ覚えの知識だから違うかもしれないが偏差値25以下って無いんじゃなかったっけ。
白紙答案より低いとは最早超白紙。ある意味突き抜けてるのかも!?
答案用紙に先生への罵詈雑言書いたんじゃないよね? 7ポイント。
歩いた日
研修会のやつとの話。こいつも以前おバカに登場しており、神社で銭洗と言って一万円を本当に洗ったというネタを書いた事がある。今回は今月13日から1泊で静岡県に行った時の話だ。ここではこいつをsと記す。
このsの患者さんの中に、徳川家と深い縁のある方が居られるようで、関係する神社や城にどうやら行きたいらしく、sから見たらどうも俺が一番誘いやすいと言うのだ。それで、先月の全国合同研修会の夜の食事会の時に俺を見つけたs、
「西大路、盆休みはいつからや?13から14日あたりどう?」と言ってきたのだ。で、空いてた俺が何処に行くのか聞いたところ、久能山東照宮と言うのだ。しかし、東照宮という所が神社という以外何も知らないというかどうでも良い俺は、「日光以外にも東照宮てあるんや」ぐらいなのり。しかしこの時点で行く気にはなっている。で、東照宮が徳川家に関係した神社で全国にある事を知らされる。まあこの時点で俺はバカですな。
ところが、静岡駅から電車で40分ぐらい行った所の「日本平」という駅で降り、そこからロープウェーで上がると言われるものの、駅探でその場で調べても、日本平が見つからないのだ。とりあえず、宿泊先のホテルの予約だけお願いしてその場を離れたのだが。
「静岡駅から日本平ロープウェー行のバスが出ててそこから上がるみたい!」とsからメール。この時点で、ナビタイムを使って調べたらわかると思った俺は、
「ほいほい、静鉄ジャストラインね。毎時23分に静岡駅から出てるバスやな。全国のICカード使えるで!」とsにメール。どうやら、「静鉄ジャストライン」という名前でsは鉄道と思ったらしいのだ。で、ホテルは無事押さえられたと言うので、13日当日俺が乗る新幹線こだまにsが豊橋から乗って車内合流する事を確認。
そして当日合流後すぐの会話。
「どっちから行くん?東照宮か駿府城。駿府城はホテルからどれぐらいな距離?」と俺。
「駿府城は静岡駅から歩けるし、ホテルも静岡駅からすぐやし近いよ!」とs。
「いやしかし今日のこの暑さ。京都とは違うものの家から西大路まで歩いただけでベショベショになったぐらいやから、今日はバスで行く東照宮の方がええなあ。駿府城は明日朝9時出発でも行けるで。今日なんか真っ昼間の炎天下やん!」と俺。
「確かにそうやな。あまり暑さの事考えてなかったわ!」とs。
そして、静岡11時10何分に着いて外に出た二人。
「いやーこりゃ暑いよ。静岡市内もこんな暑さか。こりゃ今日は東照宮が良さそうですなあ!」とs。
「この暑さの事は考えてなかったんかいな。まあ京都とは違うけど、昼間歩く時にまず考えるのは暑さ対策や!」と俺。
そんな事を話しながらその夜泊まるホテルに荷物を預け、再度静岡駅へ。
「昼何食べる?とりあえず暑い!」と俺。
「北海道ラーメン?何かあるで。冷やし中華あるで!」とs。
「静岡ではあるけど一回目の飯はここでええか!」と俺。
まあそんな感じで冷やし中華で体を冷やした後、
「ところで明日の帰りは在来線乗り継ぎで豊橋まで戻るんやろ。俺はsと浜松か豊橋まで戻ってきたら、次は米原行の新快速乗るつもりやで!」と俺。
「なに?在来線で帰ろうとしてるん?京都まで?」とs。
「そうや。今日は時間決めてたし新幹線にしたけど、明日は極端な事言ったら、米原発の終電に乗り継げたらええんやしそうするわ!」と俺。
「京都のもんがそう言ってるんやから豊橋までやったら余裕で帰れるわ。切符買ってしまってるけど払い戻しするわ!」とs。
「特急券買ってたんかいな。そんな急いで帰る必要ないやん!」と俺。
この払い戻しの時初めて知ったのだが、手数料いるんですな。よっぽど計画的に切符は買わないとね。
その後、思ってた1時間前のバスに間に合ったので、久能山東照宮へ。そしてまたsはやってくれた。
「何々さんの鍼治療させてもらってる者です」と、神社関係者にアピール。まあ、患者さんにその事を伝えて良いという許可はもらってると思うのだが、隣の俺はあれやられるとなかなか恥ずかしいものがあるのだわ。
そして神社内へ。俺は基本的にあまり詳細説明されても頭に入らない。雰囲気味わえればという思いで行くので、何かひたすらお賽銭投げては拝みというのを繰り返してた感じ。でもでかい神社ですな。博物館やら何やら行ったものの、涼しくて良いわて感じ。
そして、こんな旅なら付いてくると思ったs。夜行った居酒屋で、
「次は日光東照宮ですな。おまえ今度の正月東京に行くんやろ?目的は?」とs。
「ライブ観に行くんやけど、友達とバスで往復するねん」と俺。
「おーそれやったらライブ終了後に俺と合流して東照宮行こうや」とs。
「いやいや、ライブの後は打ち上げがあったりその後もファン仲間と朝まで飲んでると思うし無理や」と俺。
「いじゃあその後俺と合流して東照宮行くんや」とs。
「いやいや、おまえ俺殺す気か。一緒に行った友達と関西まで帰らせろ!」と俺。
「いやおまえは帰らなくても良いよ。俺と日光行きや!」とs。
まあこんな乗りで次の日は、駿府城から浅間神社、昼飯の後は電車で移動して浜松城へ。
この日は曇り空だったため気温は押さえられていたものの、一日目に駿府城と浅間神社に行ってたとしたら、確実に熱中症で倒れてたであろうというぐらい歩いたのでありました!(西大路 16/8/30)
(寸評)年取るとますます暑さに耐えられなくなりますな。
こんな時災害などでまともにクーラーとかも無い施設しか行き場がない人がいると思うと・・・。
ちなみに俺がよく避寒で行くチェンマイ、この時期なら日本より涼しいよん! 6ポイント。
唐突な遺棄
小学校低学年の頃でしょうか。夏休みに母親の田舎に帰った時のお話。
私のおかんの故郷は熊本の天草下島・本渡市です。今は天草市に名前が変わりましたが、私は本渡の病院で生まれ落ちた熊本産の大阪育ちのおっさんなので今でも郵便局などにも残る本渡という呼び名には懐かしみ・親しみを覚えます。
田舎行きはいつも大人数、私達4人兄弟とおかん。飛行機でびゃーんと飛んで熊本空港までじいちゃんに迎えに来てもらうのです。
そんな本渡市の海水浴場に、茂木根港そばにある本渡海水浴場があります。水族館やロープウェイなどもありましたが今はもう無かったかな? 私はいつもモギネに行く、と言われたらその海水浴場に行くことだと理解していました。正式名称はいま調べてはじめて知りました(笑)。
さて大所帯の我々。行きしなはじいちゃんと伯父さんの車でみんなを乗っけていきますが、帰りは伯父さんは用事でどっかへ行ってしまっていてじいちゃんの車に全員を乗せられません。
そこでおかんは私にこう言いました。
「あんた、そこに居りや」
そう言っておかんは駐車場へ向かいました。
え。
幼い私のあほな脳味噌には、かつて母親から言われた言葉がリフレインしました。「あんたは捨て子で病院の近くの川から拾ってきたんや」
私はそれを聞いても「でも育ててくれてるし血のつながりとか特にいいや」と気にもしませんでした。しかしそんなセリフを聞いていたがゆえに、おかんの「あんた、そこに居りや」を「あんた、そのままずっとそこに居りや」と、解釈をしてしまったのです。
唐突な遺棄。多産がゆえの取捨選択。育児ストレス。兄弟の中でひとり出来損ないのクネクネと芯のない身体をした気持ち悪い子。ああ。これは私は捨てられたか。
いや無理だ。そんな行為には私、負けない。負けまい。じいちゃんの家までの道はだいたい憶えている。海パン一丁姿で街を歩くのはちょいと恥ずかしいけど、じいちゃんの家まで帰り着いてやろうじゃないか。
私は意を決して、海水浴場から足を踏み出しました。
身に纏うものは海パンとビーチサンダルのみ。本渡市街へ向かう細く真っ直ぐな田舎道を独り、とぼとぼ歩きます。すれ違う子供、大人たちが海パン一枚の私をせせら笑ったり奇異の目で見て去って行きます。
恥辱。寂寥。でも負けん。じいちゃんの家まで、道は間違いない。耐えろ。進め。ちいさな私は己を鼓舞して真っ直ぐに進み続けました。
いくら歩いても変わらぬ景色になかば絶望しかけたその時。前方から車がやってきます。
車は私を見て停止しました。運転手は、じいちゃんです。
「ポム! 海で待っとれ、ちゅうたやないか」
私は呆気にとられてぼぅっとするしか出来ませんでした。完全に捨てられたと思っていたからです。どうやら母親は単に車に全員が乗せられないから私に「迎えに来るからそこで待機しておりや」という意味で「あんた、そこに居りや」と言い放ったのでした。言葉、足りな過ぎです。いや・・・ 普通の子ならちゃんとそう解釈できるのか??
じいちゃんに無事保護され、私は家まで運ばれました。おかんも私の行動にビックリしていたようで、「チッ、帰ってきやがった・・・」的なリアクションは見られなかったので他意はなかったのでしょう。
まぁそれにしても疑問は残ります。何故兄貴ではなく私を置いて行ったのか? 保護者も居ない状態で10歳にもならない小坊主を半裸で置き去りにしてオッケーだったのか? べつに私は海水浴客に投石をしたりしたわけでもなくいま流行りの「しつけ」で置き去りにされたわけでもなさそうです。
やはり・・・・・・ いや、これ以上詮索しても仕方ありません。その後も私はますます気持ち悪い子供になっていったながらも、親は私を棄てずに育てて就職するまで面倒を見てくれたのですから、感謝の念しかありません。たとえその時その気があったのだとしても、今更な話です。
私は外へ出かけたときぼうずが一瞬でも居なくなるとパニックを起こします。今は呑気な時代ではなく陰惨な結末が待っていますからね。それとも、この出来事が頭の隅に残っているから、我が子ひとりを置き去りにすまい、と無意識裡に思っているのでしょうか?
ともあれおバカなおかんと私の、夏休みのひと騒ぎの記憶でした。(オポム 16/8/18)
(寸評)敢えて反面教師になり孫を見据えたお母さんの教育、素晴らしや!
・・・海のモズクにならなくて良かったね。 8ポイント。
先生
中学時代、別の学年の担当にひとりの英語の先生が居ました。
不器用そうですが教師の仕事に恐らく本人的にそれなりのプライドを持ち、がんばっていらっしゃるようにお見受けしていました。
そう、記憶の中でそのA先生はなんとなく頑張っていらしたのです。
時は移り高校3年生の始め頃、進学校でしたので同級生は皆それなりに受験勉強に本腰入れていかなきゃなぁと部活を辞めたり通う進学塾を増やしたりと勉強へ気持ちを傾けつつあった頃。同じ中学出身の子たちの間で、とある噂が流れるようになりました。
「○中のA先生が、英語教材の訪問販売に卒業生の家に来よるって。」
既に幾人かの同中学卒業生の子の家には訪問に来ているようでした。まだのんびりしていた頃でしたし何分田舎でもあった為、割と知り合いからの電話でのアポイトメントからの訪問販売というのが、その頃はまだ容認されていたのでした。
我が家にも来られました。細かい経緯は忘れましたが、ある休日に両親と私とで家庭訪問時のようにお迎えし家の座敷にお通ししてお茶をお出しし、お話を伺ったのでした。
A先生ははじめ、簡単なテスト問題を出されてそれに私が答えたと思います。私は偶然少し前に行った短期留学先で英語のLとRの発音の違いを指摘されて直す努力をした経験があった為、そこに注意しながら発音問題に答えたところ「ああ、とても丁寧にLとRの発音が出来ていますね」と褒められたのがちょっと嬉しかったことを覚えています。
一通りのテストが終わってから、教材の説明がありました。大量のカセットテープ付きで当時50万円ほどでした。
回答は保留した上でその日は一旦お引き取り願いました。
両親も胡散臭さはもちろん承知していましたが、それでも父親はとにかく大学に受かって欲しかったのもあり、若い時の勉強に自分が必要と思う教材ならば買ってやる、と言ってくれました。が、私の方はとにかく自分の大学進学に関してできるだけ親にお金を使わせたくない信念がありましたので、教材の購入は断る事にしました。
後で聞くと、同じ訪問販売を受けた子たちの中で購入した人が何人かいたようでした。
少し経った頃に、その頃私は個人的にずっと懇意にしていた中学時代の女性の担任の先生が、産休中で御宅が近所だったこともありしばしば学校帰りに遊びに行って思春期らしく色々と相談事などをしていたのですが、話の流れでそのA先生の訪問販売のことをお話したことがありました。
元担任の先生は、一連の話を「ああー」と何かしら腑に落ちるところがある様子で聞いておられましたが、最後に「A先生ね、うん。・・・あなた達が卒業した後だったけど、『もっと別のやりたいことが見つかった』って仰って辞められたのよね」とポロっと教えてくださいました。なんとなくその時、あっA先生は恐らく職場(職員室)でも少し浮いたところがあったのかな…と感じました。
そんなことがあってから半年以上たったある日。
町内のスーパーマーケットはお盆や年末年始の売り出しの際にドカンと増えるお客さんに対応して、一時的にお向かいの企業さんの駐車場を借り交通整理のガードマンも雇ったりして大売り出しをするのが恒例になっていました。が、その年末の大売り出し時に駐車場の整理をしているガードマンがなんと、A先生なのを見つけてしまったのです。それはもう、ジャージを着て体育祭の準備に奔走していた中学教師のそれでも販売セールスマンの背広姿のそれでもなく、日焼け顏に無精髭を生やしてなんだか肩を落としていて、何というか明らかに気落ちをしたその日暮らしの風貌でした。
少し前まで地域の中学校の先生だったわけですから、当然お客さんの中には顔を知っている親御さんや元生徒もたくさんいて、「あっA先生だ!こんにちはー!良いお年を」なんて頻繁に声を掛けられたりもしており、A先生もそんな時には笑って会釈したりしておられました。が、私はどうにも心が苦しくなってしまった。一度だけ一瞬目が合ったものの会釈だけしてサッとその場を立ち去ってしまいました。その時A先生は、懐かしそうな笑顔とどうにもしようのない恥じらいの表情を浮かべていた、その様子がとても強く印象に残りました。私は、18歳の若造ながらも先生のその頃たぶん色々うまくいかなかったのであろう人生を考えてしまい、それと同時にきっと先生は日雇いの際に恐らく自分のことを知っている子達がいるところに敢えて来たんだろうなと、納得できるようなできないような寂しさを強烈に感じたのでした。そしてそれを哀れむような顔をしてしまったんです。私はバカです。
その後、A先生がどうなったかはとんと噂にもきいていません。
今の私ならあの時ににこやかにただ笑顔でご挨拶を出来るだろうか、
それともやっぱり複雑な気持ちを上から目線で顔に出してしまうだろうか。
時々思い出して、ギューッと目をつぶってしまいます。(ジェレ美 16/8/18)
(寸評)なんか切ないね。でも人はそれだけでは分からないからね。
もしかしたら何か趣味の世界に没頭する為に仕事を辞めても充実した人生を送ってるのかもしれないしね。
なんか人間を感じるね・・・。 8ポイント。
大回り
今回も前回登場したyとの話だ。実はこのy、おバカや王様には「y」と記さない形で以前にも何回か出しているため、これら全てを本人が読んでいたら、「出演料出せ」てそろそろ言われそうなぐらいなレベルだ。で、今回は共通友達の男のやつの家に行った時の話。鉄道路線図を見ながら読んでいただくとわかりやすいであろう。
この共通友達が住んでいるのは三重県の近鉄大阪線名張駅の近く。俺の家から最短距離で行こうとすると、JR西大路から京都まで行き、近鉄に乗り換えて奈良県の大和八木で再度乗り換えて名張に向くのが普通である。ところが、大阪市東南部に住んでいるyは鶴橋駅で近鉄に乗る事になるのだ。また、同じ近鉄大阪線の奈良県の一番西の端に研修会のメンバーが居り、「勉強会やって下さい」と言って呼ばれ、鶴橋乗り換えで行っていたため、俺としても鶴橋でyと合流して名張に行きたかったのだ。しかし、
「あんた、西大路から鶴橋まで来るんしんどくない?」
思わぬyからの質問だ。大阪駅から西大路に来るのに加古川行の電車を事前に調べてたというyの口から、考えられない質問が飛び出したのだ。しかし、俺の気持ちを察知して怪しまれないようにするためには理由が必要になるのだ。
ここで、鉄道関連の障害者割引について一部書こう。
基本的には、JRを含む民間事業者が運行する鉄道については、100キロを越えない限り、障害者単独移動だと運賃全額を払う事になる。ところが、同じ区間を付き添いの人と移動になると、二人で一人分、つまり一人半額で良いのだ。この話で言うと、鶴橋から名張までの乗車券は、単独移動だと1010円、付き添いが居る場合は510円になるのだ。
話は本論に戻る。
鶴橋から名張までは俺の付き添いという事で一人510円。西大路から鶴橋までは俺単独移動で800円。上に書いた、西大路から名張まで一人で全額払って単独移動よりも安い事が判明。
次に単独乗り換え移動の問題だ。上に書いた最短移動だと、大和八木で乗り換える事になるのだがこの駅、駅員は多く居られるものの単独乗り換えはなれていない。こりゃ鶴橋合流が確実。
次に、俺は誰もが知るぐらいなレベルの乗り物好き。
そしてもう一つ。11歳上の女をねらってるとは思ってないであろう。
歳のさの事を除く三つの事を説明し納得してもらい、当日俺は大回りを実行。鶴橋からは二人で名張に向かったのでありました。勿論、鶴橋名張間の交通費は全額俺が払いましたわよ。
以上、どう考えても実らないとわかっていながら実行した、自身のおバカな話でした!(西大路 16/8/18)
(寸評)西大路とライブ後一緒にバスに乗った時、降りる際にいきなり「僕の手を掴んでください」と言われて「えっ?」と思ったら「付き添いは無料になりますから僕を介護しながら降りるとタダです」と言われたのにはビックリしたなあ! 7ポイント。
礼文島
6年位前の北海道礼文島の話です。
私は、その時はまだ北極に行って無かったので、最北の海水浴地を更新しようと思い、北海道礼文島へ出かけました。普通、海水浴やダイビングというと、「サンゴ!」「熱帯魚!」「白い砂浜!」というイメージが付くと思いますが、礼文の海は、「昆布!」「うに!」「ほっけ!」でした。某桃岩荘YH前にある通称自炊浜というプライベートビーチから、猫岩の方へ向かって泳ぎました。自炊浜には、誰かが持ち込んだドラム缶風呂もあったものの幸か不幸か使用せず、7月だったので水温気温ともまあまあ高く、海水パンツとTシャツで十分でした。
持ち込んだ荷物ですが、礼文島の「愛とロマンの8時間コース」トレッキングと、隣島の「利尻富士登山」も考えていたので、
持ち物は、フィン、スノーケル、マリンシューズ、海水メガネなどのマリングッズと一緒に、ハイカットの登山靴、
ゴアテックの雨具、足首を守るスパッツ等登山用品が同居しているという状態でした。(わいわい 16/8/18)
(寸評)利尻富士から一気に海へ飛び込みなせい・・・。 6ポイント。
シンガポールの回春マッサージ屋にて
シンガポールに旅行したときのことです。なんとなくムラムラしてきたので「それ」系のマッサージ屋に行くことにしました。シンガポールは華人国家なので漢字が街中に氾濫し「それ」系のマッサージ屋はすぐに識別することができました。チャイナタウンにある「回春按摩」と漢字表記のあるマッサージ屋に入店しました。
受付にはものっそいセクシーな中華系の女性がいました。髪型は黒髪のボブカットでバストは1メートルを超えているかのようにたわわに実り、ウエストは異常にくびれ、そしてヒップは非常に大きい。そのエロエロの肢体のラインが出るぴっちりしたチャイナドレスを着ていました。そのセクシー女性にいざなわれマッサージルームに入りました。部屋は真っ暗闇で何も見えず、かなり大きな部屋であることが想像されました。ふわふわしたウレタン製の床にバスタオルを敷き、うつぶせになりました。彼女のセクシーでエロエロな肢体の感触を楽しみながらマッサージを受けました。
マッサージを受けていると途中から手をつないでもらい女性の身体を触らせてくれました。「あ、これは女性を愛撫して手から伝わる感触で回春効果を得るのだな」とわたしは早合点して、女性のマッサージの動きに合わせて女性のあちこちを衣服の上から触りまくりました。
あっという間に時間が来てマッサージは終了しました。わたしは「手コキ」のスペシャルマッサージもあるのかと期待しましたが、そこまではありませんでした。でも暗闇の中でセクシー女性の肢体を触りまくり大変に満足しました。わたしは起き上がり、部屋に入ったときと同じように女性にエスコートされて部屋を出ました。と・こ・ろ・が!!
部屋を出てびっくりしました。なんとわたしの手をとっていたのは年齢50歳以上のかなりくたびれた姿形の肥えた中年女性だったのです!確かにバストとヒップは大きいですが、それと同じくらいウエストもありました。円柱形の体型に近かった。
つまりはこういうことだったんです。真っ暗なマッサージルームに入った時に受付セクシー女性からそのおばちゃんに入れ替わったのですね。「やられたー!!」わたしは心の中で絶叫しましたよ(笑)。「おれの元気になったこの息子のオトシマエはどうしてくれるんだ!」と嘆くもあとの祭り。萎えたしょんぼりした面持ちで店をあとにしました。よく言いますが、人間は期待しすぎるとしっぺ返しが鞭のような手痛い仕打ちで返ってくるという一例ですね。
というシンガポールで回春マッサージでのおバカ体験の巻きでした。(波照間エロマンガ島 16/8/18)
(寸評)太め熟女にもストライクゾーンを広げなせえ。
さすればパラダイスはよりまわりじゅうに溢れるであろう。 7ポイント。
真夜中になるとやってくる自切俳人氏
6月下旬から7月にかけ、ずっと体調不良に悩まされていました。呼吸不全というか、すぐに息があがってはぁはぁぜいぜいしてしまうのです。特に酷いのが就寝時で、眠気が襲ってきて意識が遠くなる瞬間に無呼吸状態になり眠れなくなり、その状態がひと晩中続くという状態が何日も続きました。睡眠ができないので病院に行って原因を調べましたが心肺機能の極端な低下によるものと診断され、すぐに入院しました。
眠りかけると息が苦しくなり、何かうわごとをつぶやいていることに気づいたのはそんな時でした。
夢うつつの状態なのですが、意味不明なことをわめいていることを耳から聞くと、まるでもう一人別人格の人間がそこにいるかのようでした。わたしはその人を「自切俳人(ジキルハイド)氏」と名づけました。その人は熱の花を咲かせた自分の変身であることは確かで「ばかやろばかやろばかやろばかやろ、てめえざけんじゃねえぞこのやろうばかやろう…」とずーっと罵詈雑言を叫び散らかしたり、「なんでこうなるんだよーいてえんだよー」と自分の体調不良を嘆いたり、とにかく苦しさから逃れようと精神的危険から一時退避するためにありとあらゆる言葉を発していたようです。それ以前この1年以上、よく眠れずひと晩に何度も目が覚めてしまう慢性睡眠不足が続いていたので、今回の自切俳人氏の来訪は
その総仕上げとも言うべき体験でした。
死ぬことはもう少し先のことだろうけれども、でもこのまま医者にかからなかったら死んでいたかもしれない、と思いました。そして死ぬ前段階にはこのような発狂というか「おバカ」というか、そういう状態を通過していくだろうこともカンとして実感しました。そんな体験でした。
あれから1ヶ月半ほど経ち、身体は復調の途上にあります。最近はようやく睡眠が向上し、
ぐっすり眠れるようになりました。まだまだ予断は許さない状況ですが、
これからも引き続き摂生していくしょぞんです。(波照間エロマンガ島 16/8/18)
(寸評)なるほど。それは怖いね。体もだけど自切俳人氏が。
多分意識下にいる抑制の利かない自分なんだろうね。
年を取ると若い時には想像してなかったようなことが時々起こるのは俺も実感することがある。
何とかうまく付き合っていくしかないんだろうね。 7ポイント。
言語学的特徴なのか、性格なのか…。
一時の勢いは衰えたとはいえ、日本同様こちらタイでも中国人観光客の旅行ブームと「爆買い」と呼ばれる大量物品購入は、現地経済に多大な恵みを与えています。特にタイは陸続きなので、近年は中国からラオス経由で自家用車で訪れることができるようになりました。わたしが以前住んでいたタイ北部のチェンマイは、ここ数年急速に中国人向けのお店やホテルが増え、街では中国語の看板が増えています。
先日チェンマイのゲストハウスのロビーでくつろいでいると、フロントに20代前半と思われる中国人女性がスタッフと英語でコミュニケーションをとっていました。どうやらオプショナルツアーで象トレッキングツアーに行きたいようでその詳細を尋ねている様子でした。彼女の英語はとても滑らかで優しく育ちの良いミドルアッパークラス以上の気品を感じさせました。
話がひととおり終わるとロビーのソファに移動し、スマートフォンをバッグから取り出し電話をかけました。するとどうでしょう。さっきまで上品で気品のある印象が一変しました!
ものすごいまくし立てるような勢いの中国語で誰かと話しているのです。残念ながら意味はわかりませんでしたが、印象としては友人というよりも家族と話しているような遠慮の無さを感じました。そう、中国語の会話を聞いていると他人を攻撃しているような強いパッションを感じることが多いのです。人口が多く激烈な競争社会であり割り込みは当たり前、とにかく自分本位のエネルギッシュな人びとというイメージ通りの光景が目の前にありました。でも、最近バンコクで見かける中国人は大人しい人が多い印象だったので久々に「アッパー系」の中国人の会話を聞いたのでした。
これは言語学的特徴なのか、単にこの女性の性格なのか、簡単には判断がつきませんでしたが、中国は国土が広いので地方によってエネルギー量も違うのかもしれないな、と思いました。なんか、日本で言うと、高知県土佐出身の友人を想起しました。普段はやさしい日本語を話しているのに、同郷の友人に電話したらいきなり豹変し、非常に荒っぽい言葉になってしまった時の印象を思い出しました。
というわけで、可愛らしい中国人女性、中国語で豹変するの巻きでした。(波照間エロマンガ島 16/8/18)
(寸評)ああ、そういうのあるね。標準語の人が同郷の人と会うと訛丸出しになるばかりか勢いまで変わる人。
特に中国だとその両方の顔の違いは大きそう。もしかしたら本人は気づいてないのかもしれないね。
群馬弁で喋ると普通の会話でも「何ケンカしてるの?」とビビられる口調とかも出ることあるな。 7ポイント。
だいぶん場違いだったが、でも刺激を受けたようでした、な人
こんにちは、バンコク在住の波照間エロマンガ島です。先日の出来事です。
勤める某日系企業でタイ人スタッフ主催の焼肉食事会が開かれました。会社主催のパーティーは年数回あるのですが、今回は会費制で行なう食事会で日本人はたまたま夕方会社に残っていた私だけ。全部で15名くらい参加しました。
会は盛況で食べ放題の肉やシーフードを食らいおしゃべりは弾み、とても楽しい宴でした。中年のオッサンの私は早々にギブアップして近くの席の女性スタッフと他愛のない馬鹿話に興じていました。そのとき私はある考えがひらめきました。
実はその前の日に日本から友人Kさんがバンコクに遊びに来ていて、その日は「戦場にかける橋」で有名なカンチャナブリにドライブに行っていたのですが、時間が合えば会いましょうという話をしていたので、この食事会に誘ってもいいかな、という考えが浮かんだのです。メールをすると「あと30分くらいでホテルに戻るのでぜひ参加したい」との由。タイ人スタッフたちにこの話をすると皆「マイペンライ、OKですよ」との答えでした。
はてさて、そうこうあってKさんがお店に現れました。タイ人スタッフたちは気を使って最初はKさんに挨拶と会話をしましたが、Kさんはタイ語がまったく話せないので、すぐにタイ人たちは自分たちの食事とおしゃべりに戻り、Kさんにかまわなくなりました。私はその対比がとても面白かった。タイ人スタッフは20代半ばのキャピキャピした女性が多かったのですが、齢60代のKさんとは親子ほどの歳の差があるのです。しかも本来はまったく接点のない私の会社の食事会なので話も弾まずなんとなく「場違い」な空気が漂ってしまいました。でも、ふだん出会うことのないごく普通のタイ人の若者と話すことができて、Kさんも刺激を受けているようでした。最後レストランの前で記念写真を撮ったとき、この食事会に誘ってよかったと思いました。
そんな今日このごろ。(波照間エロマンガ島 16/8/18)
(寸評)場違いでも何か化学反応が起きる可能性が少しでもあるならやっちゃった方が面白いよね。
何も無くても別に誰が怪我するわけでもないのなら尚更ね。 6ポイント。
そんな国の名前あるかっちゅーの。
幼稚園から小学校低学年にかけてのいつか。記憶はかなり薄れていますが以下のようなことがありました。
日本語がじょじょに読み書きできるようになっていた時分だったと思います。
ある日、近所にある叔父の住むアパートに遊びに行きました。彼は父の弟で当時20代前半の大学生。今思えば当然のことながらやりたい盛りでしょう、部屋には週刊プレイボーイや平凡パンチなど、成人向けのアダルト週刊誌が多数置いてありました。そのうち一冊を叔父のいない隙に手に取り眺めました。グラビアページを見ると外人の女性モデルが単体で出ていました。そのモデルはシャツを1枚ぺろーっと着て下着がブラジャーもパンティーもつけていませんでした。そこに大きな文字でキャプションが入っていました。「わたしはセックス共和国のヤリマン王女。いつでも裸が普段着よ」とかなんとか。
わたしはまだセックスの意味もよくわからない頃でしたので、「へぇ〜、セックス共和国っていう国があるのか」とその書かれていたキャプションを「文字通り」理解しました。
そのあと叔父に会うとすぐに尋ねました。「ねぇ、セックスきょうわこくってどこにあるの?」叔父はギョッとした顔をしました。「な、何を言ってるの?そんな国ないよ」「でも、さっき雑誌を見ていたら出てたよ、セックスきょうわこくのやりまんおうじょって。」叔父さんはタジタジになってその内容を必死に否定していました。
そのあと何年かしてわたしは精通も始まり全ての意味を理解しましたが、そのときは叔父さんはさぞや「そんな国の名前あるかっちゅーの」と思ったでしょうね。(波照間エロマンガ島 16/8/8)
(寸評)ヌハハハハッ!叔父さんの焦り顔が目に浮かぶっ!
そしてそんな子供は大人になってエロマンガを名乗るようになりました、か。出来過ぎ! 8ポイント。
お誘いは真に受けますとも
過日。私は趣味の合う方々のTwitterをあかうんとも持っておらぬ身の分際で卑猥にも覗き見するのが趣味である品性下劣極まりないおっさんなのですが、そんなネットストーカーにそのTwitterを(勝手に)拝見していた共通趣味の友人から連絡が届きました。
「嫌がっていた帰省、結局やっぱり帰っておくことにしました。某月中頃の土日は倉敷におりますので、もしご家族や趣味仲間の皆さんと近くにお越しになるご予定があれば案内なんかしますのでお声かけくださいね。 P.S.わざわざご予定をつくるようなことはなさらないで結構ですからね」
普通に読めば「あっ帰省するんだな。嫌がってたのに残念なことだね。お近くにお越しなら来てね、ってよくある社交辞令で本当に行ったら『・・・え゛、マジで来たん・・・・・・』って顔されるやつだよね」で終わるところなのですが、残念ながら私はなんでも真に受ける気を違えたおっさんです。
「そうか。帰省イヤだから遊びに来て欲しいんだな! じゃあ予定をこしらえよう」という短絡的な考えが一瞬にして出来上がり、未だ踏みも見ぬ倉敷の地へ思いを馳せるのでした。私のこんな脳味噌を見越して付けてくれたP.S.は虚しくスルーされました。友人は選ぶものですね。
さてこの友人ですが私の嫁はんは一切逢ったことのない方でしかも女性です。
いきなり妻と面識もない女性の友人の帰省先に家族で遊びに行く、なんてどう考えても完全に気が狂っていますが、でも私は折角連絡をもらったからには行かなきゃ倉敷、とすでに行く気満々です。
オポ「嫁はん、女性の友人が倉敷に帰省するから遊びにおいで、というのでみんなで行こか」
嫁はん「・・・・・・?」
オポ「なんか帰省が嫌で遊んでほしいみたい。案内もしてくれるって。倉敷行った事ある? 私ない。行ってみたい」
嫁はん「倉敷はええとこやで。たしかにそんな機会でもないとお前私達を何処にも連れてってくれへんもんな」
オポ「いきなり知らん女の人のとこ行くなんて気ぃ悪い? ごめんね」
嫁はん「それはたぶん大丈夫、オポムの友達なら女の腐ったような奴は絶対おらんやろから」
オポ「??? よくわからんけどありがとう、じゃぁ行くって連絡するね」
そんなやりとりをしておると当人から連絡が。
「奥さまに見ず知らずの女の帰省先に遊びに行くなんておっしゃったらお気を悪くされるかもしれないので、ご無理なさらないでくださいね」
さすが私の行動を見越した名判断、でももう遅〜い。
オポ「あっ大丈夫です。私の友人は変人が多いのでこういうことは日常茶飯事です。ほんとにお伺いしますね」
折角のお気遣いも水の泡なうえに知らぬ間に奇人扱いされるわで可哀想な友人女性。ほんとにこの既知外は来てしまう様子だ・・・ と観念し、手早く待ち合わせの段取りを組んでくれました。
電車か車か悩みましたが、電車の時間を気にするのは嫌だから車で行くことに。しかし私は大阪は豊中市から倉敷市まで行った事なんてありません。生涯最長距離のドライヴを敢行することになります。でもなんか調べると車の方が速い場合もあるし向こうに着いてから移動もしやすかろうと思い切って車で行くことにしました。
えーと中国自動車道から入って山陽自動車道で倉敷まで行けばいいのね。10時半には倉敷に着きたいな、と思って早起き、朝8時に家を出発、勢い名神吹田ICへ一直線・・・ あ、あれっ? 名神吹田から中国吹田って、繋がってないの・・・・・・?? なんということでしょう、ノリだけで行動した私は高速道路のジャンクションの仕組みもろくに調べないまま「吹田」というイメージだけで高速に入ってしまったのです!! 泣く泣く名神豊中ICで降りて中国池田ICまで下道を走って仕切り直し、これで30分のロス。ほんで中国池田、入った瞬間から大渋滞でやんの。
結局11時15分着、あほが勢いでものを決めたらこういうことになるんですね・・・。ごめんなさい。ただ彼女の段取りがまた素晴らしく、非常にわかりやすい待ち合わせ場所&説明で高速を降りてすぐに見つけることができました。
あれこれいろんな迷惑を掛けましたが結局嫁はんも友人も果てはぼうずまで喜んでくれた一日となり、結果的にみんなが楽しめた素敵な一日になりました。社交辞令を真に受けてもニコニコ丁寧に対応してくれた心の広い友人と、それに付き合って楽しんで結局友人と仲良くなっちゃった寛大な嫁はんに感謝です! 馬鹿も時にはハッピーを呼ぶもので、今回ばかりは己の無計画・無鉄砲さも役に立ったかな? なんて珍しく調子に乗って自己肯定したのでした。ほいで倉敷ぶらぶらの詳細は「ドキドキドキリコ初体験」にまたそのうち投稿しま〜す。(オポム 16/8/8)
(寸評)迷ったら何でもやっちゃった方がいい。
誰かが明らかに傷つくとかじゃなきゃ。
迷ってるうちに機会を逃して人生なんか夢のように終わっちゃうからね。 7ポイント。
冬休みの課題わすれとったらば
毎度毎度の自前おバカ、恐れ入ります。
高校2年の冬休み。古文の課題で「冬休み過ごして起きた出来事をなんでもよいので『徒然草』風の古文体で書いて提出すること」などという超面倒くせぇ課題を出されました。
これは国語教師陣が本校に古くからある国語科の冬期課題作の名作を冊子にしたものシリーズ(「硯池」とかなんとか言う無駄に分厚い冊子、もらったけど即刻なくした)に掲載するため各教師がテーマを考えて生徒にそれをやらせてみてチョイスするという魂胆があったようなのですが、そんなことを知るのはもっと先のお話。私のクラスを受け持った教師が考えた課題が現代版・徒然草を書いて来い、だったのですね。
休みが明け、課題を提出する者はほぼいませんでした。だって自分の考えをわざわざ古文に訳して書かんといかんわけでしょ? そんなかったるいことやってられるかい。んで一週間後、あまりに提出者が少なくて自分の与えられた持ち分を冊子編集担当の先生に提出できない当クラス受け持ちの国語教師は焦り出しました。
私は内申点が下がることも辞さぬ覚悟で課題をすっぽかしてやろうと決め込んでいましたが、比較的国語と音楽の成績だけはよかった私に教師が執拗に課題を提出せぇ、課題を提出せぇ、とねだるようになったので、鬱陶しくなった私は重い腰を上げてネガティヴな気持ちを課題にそのままぶっつけてふざけた作品をこしらえたろ、と思うたのでした。
作品は土日を徹してでっちあげました。教科書副本の「徒然草」や古語辞典を糞真面目に開いては脳味噌に浮かぶおちょくった文章をちょこちょこ古文化していきました。タイトルは「新たなる年明くれど」。
もう全文もどこにも残ってないので現代語訳を要約して記しますと、
「新しい年は明けたけど」 オポム
新年が明けたけど、私の暮らしは何ら新しく変わることもない。てれびをつれづれ見てもどれも同じような内容でつまらず、されども寝正月なるはいとむなし、と大阪天満宮に初詣に参った。
神社はおっそろしい人込みで賽銭箱に辿り着くのに滅茶苦茶時間がかかった。なんでこの人達はこんなにめでたい、目出度いとわめいて集まりまくっているのか。そもそも年がひとつ明けることのなにが目出度いのかがよくわからない。我々は正月といえばせいぜいお年玉をせしめることのみを目出度し、とするものだ。とぼやいておったら爺さんの投げた賽銭が私の目に直撃し、だだへこみで帰ってきた。
そうして陰鬱に日々を過ごしていたら瞬く間に冬休みは終わり、宿題なるものにさっぱり手をつけてなかった。いとをこなり(←どあほだ)。
新年が明けたものの私のうだつの上がらなさはむしろいや増し、いよいよ情けない一年の始まりとなりにけり。
ってな内容でした。ネガティヴ加減がいまとまったく変わりませんね。こんなおちょくった文章を古文体にしてやけくそで提出してみたらば、ある日私は件の国語教師にちょいちょい、と呼ばれて職員室に連れていかれました。
わちゃぁ・・・・・・ さすがにふざけ過ぎたからめっちゃ怒られるんやろな・・・・・・ とびびりつつ国語科の机の並ぶところへ行ってみたら、なんと私の後出しのネガティヴ徒然草が「ユーモアにあふれ大変面白い」と絶賛され掲載作品に選ばれてしまったのです。
私は完全に怒られる気満々だったので拍子抜けしました。
おいおいおいおい・・・・・・他のやつはぜぇんぜん提出せんかったんかい。いくらなんでも私よりましな作品はあったはずです。しかし私の他に選ばれたもうひとりの吹奏楽部のお天気女子Oさんの作品は「マンションから初日の出見た。良い一年になるといいな」的な、ちょっとお前小学生か、と思うような内容でした。しかも古文調に直すのがでたらめでやたらと赤ペンで直しが入っていて真っ赤っかだったのですが私の直しは一か所のみ、しかもその教師の表現の仕方の趣味みたいなところを一文字だけいじられただけでした。どうもふざけたにせよ本気で現代文を古語化したのは私ひとりだったようです・・・。
1カ月後の国語の時間。生徒全員にその年の国語科課題優秀作品集と教師陣の当年度の論文が掲載された「硯池」が配布されました。
まさかそんなごりっぱな冊子に私のおちょくった古文エッセーが載っけられているとは夢にも思わず吃驚しました。そして他の学年やクラスの連中の作品は現代文だったり詩作だったりどれもハイレベルで見事な作品たちだったのに、なんですかこの場違い感満載な私の文は?? 各クラスの課題作品に対して、冊子の巻末で国語科主任教諭がそれぞれにコメントを書いていましたが、あきらかに私のクラスのいんちき徒然草に関しては他クラスに比べてコメントがなげやりで短かったです。そらそうだ。確実に他作品たちより格調が低いもの。一緒に載せられた作品・論文に申し訳ない・・・ あの教師め・・・・・・。
それでも自分の書いたものがきちんと活字になって残るということは妙に誇らしいもので、今でも母校に私のテキトー作品が収録された冊子「硯池」が残っているのかと思うと、ちょっと嬉しいような情けないような、わけのわからない気分になるのでした。ちなみに爺ぃに賽銭投げられて目ぇに当たったのはほんとは私ではなく当時の部活の後輩(彼女)です。いちいち記憶があまずっぺぇな。たはは。(オポム 16/8/8)
(寸評)是非この大量の「おバカ」「初体験」を 「硯池 優秀OB汚歩夢先生特別号」として学校から刊行するように伝えましょう。
正式な学校名を教えてください。 7ポイント。
オフィスの固定電話の表示名
波照間エロマンガ島@バンコクです。前職の日本でのサラリーマン時代のおバカ話を思い出しました。
東京銀座にある本社オフィスフロアは、社長室のほかはフロアに20名前後の社員がデスクを並べていました。副社長は静岡の製造工場に常勤、そのほかの営業担当取締役4人は関東地方数箇所に点在している各営業所に詰めて仕事をしていました。なのでわたしの直接の上司は人事と経理の責任者であるY部長でした。否、Yというイニシャルではこの話の面白みが出ないので名字を明らかにしてしまいます。日本で12番目に多い名字、約83万人いるので明らかにしても大丈夫でしょう。部長は「山田」さんといいました。
ある日仕事が忙しくて休日出勤した私は、報告書類を提出するために無人の山田部長のデスクのところに行きました。デスクの上を何とはなしに目をやると、固定電話に目が留まりました。NTTのオフィス用の内線式固定電話です。プッシュボタンの上方が長方形の液晶ディスプレイになっていてそこに電話使用者の名前が表示されています。
それを見て私は「ぷっ」と吹き出してしまいました。本来なら「山田部長」と表示されるべきところ、そのディスプレイには「やぁまだ」という文字が表示されていたのです!!
「やぁまだ」というのは漫画「ドカベン」で、チームメイトの岩鬼が主人公の山田太郎を呼ぶときの言い方なのです!普通は山田という名字は、「やまだ」の「ま」にアクセントが置かれ発音しますが、岩鬼は最初の「や」にアクセントを置いて発音するのでした。 アニメ版の玄田哲章さんの声が脳内再生されましたよ! 山田部長は部長なのですが、物腰が柔らかく本社の社員から親しまれていました。というかちょっとナメられているところがあったので、その悪戯を本社の社員がしたことは明らかでした。はじめはこの「やぁまだ」のディスプレイを見たときには妙にツボにはまり、その日はずっとニヤニヤしていました。が、しばらくすると誰か異常に気づいたのか固定電話のディスプレイは「山田部長」と直されていました。
という「やぁまだ」な山田部長のおバカ話でした。(波照間エロマンガ島 16/8/8)
(寸評)俺は「やぁまだ」は今は笑点の座布団運搬業に精を出してる山田くんのアイドル「ずうとるび」時代の自己紹介の鉄板ギャグ「○○はまだかい?」「やぁまだ、やぁまだ、山田隆夫です!」を思い出すな。 7ポイント。
ほめられてるのかけなされてるのか
王様の耳はロボの耳の話題242に、11歳上の女性を好きになりかけた事があると書いているのだが、この人と初めて会った日のやりとり。この女をy、もう一人の女をaと記す。
「yさん、西大路の皮膚、これ見た目ではっきりわかるアトピーの皮膚やけど、ここまで鍼治療で良くなったんやで」とa。
「ええそうなんですか!」とy。
「そんなんあんた、私が見た事のある一番ひどい時なんか、指は開けへんし曲がれへんし伸びへんし、手の平はボロボロどころか、皮膚ボロボロ落ちるし、痛い痛い言って大変そうやったやん。それが全身ひろがってたんやろ?」とa。
「それが何年ぐらい前やったんですか?」とy。
「あれ何年ぐらい前やった?10年ぐらい前?」とa。
「俺が鍼の国家試験受ける前の年の夏やし11年前か。でもあれを最後に、手にひどいアトピーが出る事はなくなったわ。あんな手で治療でけへんもん!」と俺。
「ええそうだったんですねえ。じゃあ、ずっと誰かに治療してもらってはったんですか?」とy。
「研修会の先輩の一人と僕が小学校1年の時からのつきあいで、僕が23になる年の春やったかなあ、遊びに行けへんと誘われた日がひどいアトピーで出られへん状態やって、次の日からその先輩に治療してもらうようになったんです!」と俺。
「そうやったんですねえ」とy。
「まあ今は治療としてはやってもらってはないけど!」と俺。
「研修で台になれるからやろ?こいつ、ただで治療してもらいよるねん!」とa。
「いやーしかしaさん、今日のこんな状態の時にこんなええ話しせんでも。今実は手の指痛くて曲げにくいねん!」と俺。
「いやーあんた何言うてるん。これぐらいやったら良くなったてしっかり言えるレベルやて!」とa。
「まあ、あの治療で今の研修会に入る事決めたと言うか、研修会のやり方で治療やりたい思って鍼の学校入る事になったし、ええ切っ掛けになりましたわ!」と俺。
「そうなんですねえ!」とy。
「おう良かったやん。ビール止めたらもっと良くなるのになあ!」とa。
「ビール止めるのは無理。ストレスで逆に悪化します!」と俺。
「治療師がこんな事言うてるし」とa。
ほめられてるのかけなされてるのか、よくわからない会話であった事は言うまでもない!(西大路 16/8/8)
(寸評)ほう、自分のアトピー治療からこの世界に入ったんすな!
人間何がキッカケで進むべき道が変わるかわかりませんなぁ。 7ポイント。
アナーキー
私がまだ若かりし頃の実話です。
とある年の8月、道内で知り合った友人と、札幌から稚内行の夜行列車「臨時利尻」に乗りました。まだ北海道内に夜行列車があった時代なんですねえ。
二人で列車に乗っていると、車内で一人の女子大生と知り合いました。その彼女は、札幌の大学に通っていて、旭川の少し先の実家まで帰省するとのことでした。
私たちは後日会うことを約束して、別れ、そのまま旅を続けました。
何日かして約束通り待ち合わせの旭川駅へ着くと、彼女は友達を連れて、わたしたちをキチンと待っていてくれました。
そのあと食事をして・・・もしかすると飲みだったかもしれません、4人でカラオケへ行きました。
言ったカラオケ先は、靴を脱いで部屋に上がるタイプのものでした。
私は室内に入ると、どうも彼女の視線がワタクシの靴下に注がれています。
そうです。私の靴下には、見事な穴が開いていたのです。
・・・
言い訳をさせて頂くと、旅の間は、ボロボロのパンツやヨレヨレのシャツを着て、そのまま旅先で、迷惑顧みず服を捨ててしまうというのが私の旅のスタイルです。
旅が進むにつれて、どんどん服は少なくなって行き、着なくなった服はパンフレットやお土産類と共に実家へ送るなどして、荷物を減らしていきます。そして旅を楽にします。
私は、その時、穴が開いていた靴下をはいていたという訳で・・・必死に弁解しました。
みなさん、いつ何時、素敵な出会いがあるかもしれません。
旅とはいえ、いつも勝負下着を履くことを忘れないようにしてください!(わいわい 16/8/8)
(寸評)いや、本当にいいと思ったら靴下の穴開きぐらいは乗り越えてくれます。
むしろそれを笑ってくれるくらいの人の方が運命があるかもね。 7ポイント。
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