ドキドキドキリコ初体験(64)
さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールにて。題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!
初めての下北沢
お金がないので無料だったり安価のライブイベントなどにはめざとい自分。特に追っているのは元たまのメンバーや大谷氏。チェックしていると2013年6月2日(日)に 知久さんが出演されるイベントで無料のものを発見!結構重たいテーマのイベントだったのだが、何の考えもなしにフラフラと(なんて行ける所じゃないが)行く事を決定。
念のため下見にも行った。片道2時間かかり、会場の北沢タウンホールを確認。いつも通っていた井の頭通りの延長線上。チラシをもらい帰りに寄ったニヒル牛2に差し上げた。出演者の似顔絵が描いてあり知久さんは「カワイすぎ」(笑)
イベント名は『第6回 ゆんたく高江』 13~20時までの長丁場のイベント。バンド編成のジンタらムータ。今評判が広まっている青葉市子さん。前衛的な音楽パフォーマンスや朗読劇など盛りだくさんだった。
その朗読劇なのだが沖縄のオスプレイの着陸基地配備による、政府と住民とのトラブルを扱ったもの。このイベント自体のテーマもそれが主体で、沖縄のほかにもさまざまな住民問題を訴える人が出演した。
知久さんの出演はラスト。会場が公共施設ということで禁酒となっており、近くの居酒屋で一杯やってきたとの事(笑)高江との関係を話したり、イベントでは定番となっている曲目を演奏した。
帰りも2時間かかるので体力を温存していた。帰り道、町内のバーで夏みかんを買ったがとても感じのいい店だった。後日、下北沢に一時期住んでいられた方に話を聞いたが、ファッショナブルでありながら人々はギスギスしておらず、とても住み良い町だったとの事。今度また滝本さんのライブにでもきっかけを作っていこうかな。
最後に石川さんに質問です。出演予定で残念ながら欠席となった七尾旅人さんて、西荻窪のお店「秋田ばる七尾」の方ですか?(Sankaku)
(寸評)七尾旅人さんと「秋田ばる七尾」は多分まるで無関係っす。
毎日の様にライブやりながら同時に毎日店ひとりで開けるなんて出来ないしね。
ちなみに俺は運動関係のイベントには極力出ない。
例え意見に賛成でも。
なんか群れて声を出すのがとにかく生理的に駄目なのだ・・・。5ポイント。
はじめての裏帳簿
昔むか〜しの話。そこの会社が飼ってた犬が、私にやたら懐いていた、という理由だけでとある会社にアルバイトに行くことになりました。
私の仕事の内容は「犬の世話」「社長が出掛ける時に車に同乗する」「掃除」「お茶くみ」「伝票の整理」のみ。にも関わらず、お給料はやたらと高い(笑)。
「こりゃあ楽でええわ〜」と最初は毎日へらへらしながら通勤していたのですが、いかんせんやる事がなさすぎる。経理には私以外にも女性職員が2人いて、その人達は毎日忙しそうに電卓を叩いたりパソコンを打ったり・・・。
社長に言っても「何もしなくて良い」と言われるばかりだったので、お給料をもらうのも申し訳ないし、先輩職員さんに「私にも何かやらせていただけませんか?パソコンできますし電卓早打ちも得意です」と申し出てみました。
お二人は困ったように顔を見合わせて沈黙。
「社長に訊かないと・・・。」
そして数日後、「今日から台帳(出納帳)つけてもらうから」と先輩から言われました。おそらく社長からのOKが出たのでしょう。私はやっと仕事を与えてもらってラッキー(仕事がないから毎日社長と出掛けないといけなかったし^_^;)!!と思ったのもつかの間、その台帳って、「入り」と「出」がヘン。
先輩に相談すると「あ。領収書、家に忘れてきたわ。それで合ってる合ってる。」
でも毎日ヘンっておかしくないかい。。。
そうなんです。私が付けてたのは「裏帳簿」というヤツでした。
本物は先輩職員さんがつけていて、私は毎日ワケの分からない台帳をつけていたんです。
ぎゃ〜っっ。これってなんかあったら私も捕まるのかいっ!?
先輩からは「知らぬが仏って言葉があるのよ。掃除だけしてりゃ良かったのに・・・」と言われたけれど後の祭りです。
「どうする?知ってて続けられる?」と訊かれ、一瞬だけ「高給を手放すのは惜しいな・・・」と思ったのですがやっぱりモヤモヤしたくなかったので「辞めます。」と答えました。
「残念だったね。」と先輩社員から言われ、上手い具合に社長に話をして下さり、無事私を退職させてくれました。
辞めた後も金庫が盗まれた体(てい)にして、保険金をゴニョゴニョしたなど、残っていた先輩職員さんから教えてもらって心底ビビりました。
そこの従業員の人、社長を含めみなさん私にとっては良い人だったんです。可愛がってた犬が死んじゃった日の朝も「今日は会社に来なくていいから!」と連絡がきました。。私が悲しむと思って「犬は逃げた事にしよう」と社長が言ったとか。死体の処理があるから、一日休ませようって事になったらしい。
でもやっぱり世間的には悪い人なんですよね〜。
これ何の初体験かなぁ。「はじめての裏帳簿」かなw (でゅおめいぷるようこ)
(寸評)それはもったいないことしたね!
そういえば俺が昔出た商業演劇の演出家、結構しょーもない人だなと思ったら最近捕まったらしい。
文化庁かどこかから補助金貰って演劇公演をうつフリして、実はそんな公演は全く無く全部ポッケに入れてたらしい。
やっぱりお天道様は見てるかもね。 7ポイント。
バンコクのカレー屋で 尾田栄一郎 「ONE PIECE」 初体験!
仕事帰り、バンコクのタニヤにある日本カレー屋さんに行ったときのことです。その店は、石川県金沢市に本店がある有名なカレー屋さんで、タイに進出してきているのです。カレーを注文し、ふと席の横に目をやると、書棚にコミックス本がたくさんあるのに気づきました。目を細めて背表紙を読むと、尾田栄一郎 「ONE PIECE」 と書いてあるのがわかりました。「おお、これが有名なワンピースか」と、70巻ある第1巻を手にとって読み始めました。すると、ぐんぐん内容に引き込まれてしまい、途中カレーが配膳され、食べた後も読み続け、その日は2巻の終わりまであっという間に読んでしまいました。そこで私は、「このカレー屋で70巻制覇するぞー!」と決意しました。でも、そのためにはあと何回来なくてはならないか、途方もない回数を要する気がします。コンプリートするのは、2014年中かなと想像しています。・・・というわけで、タイのバンコクで、日本の人気漫画「ONE PIECE」を初体験したの巻でした。(波照間エロマンガ島)
(寸評)なるほど・・・やっぱり面白いのか。
どーも漫画に限らず「人気がある」というだけで手に取らなくなるヒネクレものなので・・・。5ポイント。
はじめてのホームラン
体育が2。
どんな運動をやらせても極めて鈍くさく、身体だけは妙に柔らかくてスポーツテストでは前屈だけトップクラス、あとは全部E判定みたいな感じの私。
そんな私ですが、野球が好きでした。
もちろん下手の横好きの極みで、右手と左手どちらで投げても他人の1/2以下の球速しか出ない、どちらで投げたらいいのかわからず結局グローブも左右両方持っているというハイパー持ち腐れ、ソフトボール投げでは6年生にして2mという驚異的な記録の持ち主、という書いてて嗚咽したくなるレベルの体たらくでした。
でも、好きだったんです。好きなものはしょうがない。
そんな調子ですから打つ方も散々、身体が変に柔らかいのが災いしぐにゃぐにゃのフォーム。
人から「タコ打ち」と称されるのですが本人はいたって真剣にフルスイングをしているつもりなのでした。
笑ってかわしながら心で号泣していた中学生の私は、隣町のバッティングセンターへ練習に行くことにしました。
案の定大人のボックスでは球が速すぎてかすりもしないので、マシーンから距離も近く球速も70kmしか出ない小学生用のボックスで練習を重ねました。
専用コインは1枚で20球200円。最高記録は53球連続空振り。沈痛な面持ちで家路に着くことはもはや定番でした。
もう、楽しんじゃおう。私は打撃上手になる夢を実にあっさり放棄しました。
そんなある日、友達といつものバッティングセンターに遊びにいきました。
うまくならなくていいなら気楽。ふざけて当時のパリーグの強打者・デストラーデ選手のマネをして打ってみると、今まで飛んだこともないような遠くへボールが飛びました(あくまで私の中で、です。実質40m程度)。
こりゃいいわー。次は右打席に戻り、セリーグのベテラン・落合選手の独特のフォームをまねてスイング!
すると・・・
ごちーーぃん。
“カキィン、ワー。ふゎんふぁかふぁんふぁんふぁーーーーん、おめでとうございます。係員におしらせください”
なんとにわか落合で打った打球は、当たれば賞品がもらえる「ホームラン」と書かれたマトに直撃したのです。
鈍くさ王の自分が、ホームラン・・・
有り得ない出来事にしばし呆然とし、歓びはあとからじわじわと湧いてきました。
もしかしたら、うまくなりたいと力みまくっていたのが良くなかったのかな?
マトの言うとおり、係のおっさんに伝えました。壁には「ホームラン1号:グローブ」と書いてあり、ええっそんな高いもん貰えるの? と期待しましたが中学生が小学生用のマトとの距離が近いボックスで打ったので、グローブはくれぬそうです。
かわりにおっさんは1ゲーム遊べる専用コインを、1枚私によこしました。
これを使っちゃうと運動神経の通っていない私が偶然でもホームランマトに当てた、という事実が消えてしまいそうな気がして、専用コインは持ち帰り「オポム 1号記念」などとペンで書いて大事に保管していました。思った通り、その後2度とホームランは出ませんでした。
あれから20年。元木選手のサインが飾ってあった名神豊中バッティングセンターはもうありません。
バッティングは依然絶望的なありさまですが、いつもバッティングセンター跡を横切るたびにあの生涯一度のホームランの情景が思い出され、ちょびっとだけ、誇らしい気持ちになるのです。(オポムチャン)
(寸評)俺も球技は全般酷かった。
ホームランって打ったことあったかな?
子供の頃しかやってないけど多分ないな。
球は遅いけど制球が割と良かったので一度だけピッチャーをやらせてもらったような記憶があるが・・・。
たまの「野球」のDVD買ってね。ホームランの映像だいっ! 7ポイント。
はじめてのライブ会場
以前「はじめての生石川さん遭遇」で投稿したように、私は食欲性欲睡眠欲以外の欲がないのか好きなアーティストの演奏はCD・DVDを見聞きすれば比較的満たされてしまう性格で、お金を払って遠くへライブを見に行く、という発想が希薄でした。
しかし石川さんもおっしゃるように、生のライブの臨場感や雰囲気は決してテレビやプレイヤーの前でひとり見聞きするのとは違うもの、今まで体験したことのないハートのムーブがあることでしょう。
とはいえ私貧乏子持ちおっさん、遠方では電車賃あるいはガソリン代がかかる、おっきなホールでは4ケタ後半あるいは5ケタのステージもあると聞きます。偏屈で吝嗇の私、CDにはとち狂って48000円出したくせに(もうええっちゅうねん)、1回きりで聴き直し見直しのできないライブにお金を落とすことには躊躇がありました。
かといって(しつこい)ここまでこのHPと石川さんにハマった私です。せめて1度でもライブに行かないと、なんだかすごく後悔しそうな気がしたのです。そんな折、来ましたよ来ましたよ交通費もかからずドリンク込み3000円のお手頃なやつが! 梅田なら通勤定期券が使えるし勝手知ったる街。ビビりの私にものこのこ出かけて行ける場所ではあーりませんか。
というわけで「ザ・レポート」と被ってしまうのですが大阪梅田のムジカジャポニカという土日にライブを開催しているカレーが売りのバー・・・というなんだかよくわからないけどステキなお店に、人生初ライブに行ってまいりました。メインは勿論、我らがホルモン鉄道。
開場10分前に雨の中お店の前で並んでいると、お店のお姉さんが「整理券持ってる?」とおっしゃいます。へ? そういうシステムがあるんですか? マヌケ面で佇んでいると券を下さいました。番号は7番。おっ、なんかラッキーな数字やんけ。同じく待っている皆さん達。友達連れ、子連れの方も。・・・どうも一人で来るのは場違いだったでしょうか? ぼうずが小さくなければどこかに預けて嫁と来るのですがただいま嫁はぼうずの奴隷。残念無念。妻子を見捨てて夜のバーへ繰り出すお父ちゃんを許しておくれ。
18:00開場。中に入ると左手にカウンターのあるバー、奥に厨房、右手に小ぶりなステージが。へえぇ、これがライブハウスなのか。なのか? このお店が基本的なライブハウスの形なのか? 基本食べ物屋さんなのでここは特殊な会場なのか? 脳内がなのかだらけですがともかくお会計先払い。予約済み、確かに3000円ポッキリで一安心。ドリンクチケットは22時までに使ってね、とのこと。みなさん早速お酒をあおってらっしゃいます。えー、そんなはよから飲んだらライブ中に小便が・・・ また石川さん達の出番は後の方やし・・・ それにドリンクったってメニュー見ても基本ベースのお酒の名前が書いてあるだけでどうしていいのかわからない(例:カンパリ/ヨギー)。何かで割ってちょうだいな、とか言うの? お酒が弱くライブハウスにもバーにも来たことのないウブな35歳おっさん、泣く泣く大して好きではないが一番注文しやすいビールを貰いました。あほの涙。この歳で注文の仕方なんて、恥ずかしくって聞けません。
会場では石川さんや大谷さんファンの方達ばかりだから、気安く話しかけられるだろうと思いきや、皆さん結構お知り合いや2人連れで、単独で来ている方が少ない模様。さっきのお酒のこともあり気分は完全アウェー、それに調子づいて石川さんTシャツを着て来たことがさらに場違い感を増幅させます。消えてしまいたい。そんな心の声は見せないように、努めてニコニコ、無意味に平静を装いました。誰のためでもなく。我がためだけに。
そんな精神的敗北者のへこみはよそに、楽しいライブは幕を開けます。オープニングに、蒸し暑い中キュートな羊ルックのお嬢さん2人がダルダルトークで笑わせてくれます。もうそこからはそれまでのへこみは何処へやら、アドレナリン大放出の連続!!
これか! これが石川さんの言うライブの雰囲気か!!!
その場に居るものしか感じられない、言葉にしがたい熱狂! 気付けば満面の笑みで、手が痛くなるほど拍手をする自分がいました。目の前に、こんなに近くにホルモン鉄道が! 2人のパフォーマンスをたくさんの人達と爆笑しあえるなんて・・・!!
来て、よかったのです。整理券ラッキーナンバー7は、嘘をつきませんでした。
大いに盛り上がり、あっという間に終演。終演後には客席のすぐ後ろでお2人が物販。こういうライブハウスは終わった後も出演者の方との距離が近いので嬉しいです。大きなホールでは演者は引っ込んじゃってその後出て来られないんですよね? 行ったことないから知らないんですが・・・。
何か買おうとしたら、手に入れてないのは大谷さんの「保存版」だけ。石川さんおすすめのTシャツはすでにこの身に纏っています。そのうち「保存版」も売り切れ、買えるものがなくなってしまいました。
せっかくここまで来たんだ、お話ししないと後悔するぞ! と、シャツを宣伝する石川さんに
「すいません、もう買って着て来ちゃいました・・・」
と近寄ると、
「もしかして・・・ オポムチャン?」
と、なんと気付いて下さったのです! その日の「俺の日常クイズ」の答え(ハズした)の後に、「今日のライブ、青の石川さんシャツ着て観に行きます!」 とか書いたのを憶えていて下さったのです!! か、感激!!!
結局何も買わなかったのに気さくにケータイでの記念撮影に応じていただき、私がテンパって操作がわからなくなっても優しく微笑んでいらっしゃいました。お疲れのところ、本当にありがとうございました!
そのまま夢見心地で会場を後にしたのですが、ああいう所ではその後に打ち上げ的な催しが有料なりであったりするのでしょうか? もしそうだとしたら誰とも喋れないなりに残っていたらよかったのですがなにぶん初めてなのでニコニコ帰ってしまいました。忘れぬうちにと夜中の3時までせっせと「ザ・レポート」を書いて寝ました。
それにしてもビビってアウェー感を勝手に感じてしまうという問題はあるにせよ、ライブ会場には聴衆を虜にする不思議な何かが棲んでいるのですね! また大阪にお越しの際は、財布とタイミングの都合が付けば石川さんのステージを見に行きたいと思います!
・・・エッ!? 9月に柳原さんがムジカジャポニカに来はる!? ・・・参ったなぁ、こりゃ嫁はんと財布をめぐって殴り合いだ。(オポムチャン)
(寸評)ありがとー。
まずライブハウスだけど「基本的な形」というのはないす。
店によって全部まちまち。普段ライブをやらない喫茶店でその日だけライブをやるような店もあれば「ここはホールじゃないのか?」と思うほど広い場所も。
なので自分にとって心地いいライブハウス、というのも人によって違うかもね。
お客さんだけど、そもそもはみんなひとりで来る場合が多い。特に元たまのメンバー関係の場合は。
仲間と来ているように見えるのは、そこでお互い顔見知りになって話してる人が多いからかと。
趣味が合う人が学校や職場で決して多くないだろう音楽だからこそ、一度会場でちょっとした会話から友達になって、その後に友達関係になる人は多いみたい。
あと打ち上げはあの規模の店だと通常、普通に追加オーダーだけすれば終演後のミュージシャンと自由に話せる場合も多い。
もっともこれはお店によっても、ミュージシャンによっても違うから一律にそうだとは言えないけど、小さめの店で地方ほどミュージシャンと触れ合える機会は多いね。
なのでもう少し残っていれば、他の投稿者とかも紹介出来たのに〜(まぁ俺も名乗ってもらって「あぁ、常連投稿、もしくはチャットで話したあの人かぁ〜」と思うことは多いのだけど)
とにかくライブハウスデビューおめでと。
俺の出るとこは大抵アットホームな会場が多いから、これから愉快なライブハウスライフを是非始めてくれ給へっ! 勇気ポイント10ポイント!(ってか、俺に関わる初体験は「ザ・レポート」に投稿した方がポイント高いよ〜)
はじめての息子の骨折
私の家系は、元来交通事故は過去にあれども、とても軽くて骨折をしたこともありませんでした。
ですから私ももちろん、うちの息子は骨折なんぞしないと思っておりました。
ところが、ついに息子が骨折したのです。
7月に入ってすぐ。
私が仕事から帰宅すると、息子はもじもじしながら、
「あんなー、ちょっとなー、バイクにぶつかってん・・・」と。
話によると、息子はいつもの水泳教室を終え、中耳炎の治療で耳鼻科に自転車で向かっていました。
広い道路だったのですが、息子は道路の真ん中近くを走っていたらしく、
交差点手前の路上で、交差点を左折してきた男性のバイクと接触したらしいのです。
息子の自転車の右ハンドル側が相手のバイクの一部と当たったようで、
転倒はしなかったものの、右手首内側と、右小指を強く打ったようでした。
相手はどうしたのかと聞くと、「大丈夫とは聞いてくれた。で、大丈夫って言ったら走って行った」と息子。
『そんなの、当て逃げと一緒やんか〜〜!!』
私はもうボー然でした。
道路の真ん中を走っていた息子も悪いけど、子ども相手に、自分の名前や連絡先も言わず走り去るなんて。
誠意のある人なら念のために病院に連れて行き、当然親に謝る。そこまでするでしょうが、
その男性は、どうせ相手は子どもで自分のことも憶えられないだろうし、色々と面倒だと思ったのでしょう。
警察に届けても、ミニバイクなんて沢山あるし、相手の特徴がわからなければ見つからないよと言われるだけなんで、届け出るのも諦めました。
で、息子の手を見てみると、手首は赤かったものの腫れている様子なし、小指は内出血だけど、手をグーパーしても痛みがないと言うので、タダの打撲だと私は思い・・・
そのまま様子を見ることにしました。
しかし、腕をついたり回したりすると痛みが出るのは続くので、「もしや・・・」と思い、受傷4日後、整形外科を受診しました。
医師が音叉を使って息子の骨伝導を調べ、「こりゃ、折れてるで!!」と。
「折れてる!?」私も、息子も目が点。ビックリでした。
レントゲンを撮ってもらったら、やっぱり内側の手首近い骨がポッキリと
折れておりました・・・(@_@;)
医師は息子の手首を持ち、思いっきり引っ張りました。「いで〜〜〜!!」と叫ぶ息子。
しかし、きちっと引っ張って修復したお陰で、手を回すときの痛みはなくなった様子。
後はギプスを、右手から上腕部までしっかり固定。
医師によると、手首の骨は肘の関節とつながっているので、そこまでの固定が必要らしいのです。
しかし・・・その日から、息子は右手を使った作業(鉛筆や箸を持つなど)が全く出来なくなり、
今の季節だからこそ入れるプールすら、見学しなくてはならなくなりました。
一番困るのがギプスによる蒸れで、「かゆいかゆい」と半ばパニック状態。
我慢できず、息子は耳かきをギプスの間に入れて中を掻いています・・・(^ ^;)
シャワーもギプスを濡らさないよう、ビニールを巻くなどしたり、
着替えも手伝わないといけないので、親の私も大変です。
ギプスが取れた時の臭さも怖い・・・(-_-;)
子どもは骨折しやすい代わりに治りは早いので、2週間くらいでギプスは取れますが、
経過によっては、小さなギプスを付けないといけないかもしれません。
・・・しかし今回初めて子どもの骨折を経験しましたが、骨折って本当に大変です。
石川さんやファンの皆さんも、どうか交通事故や骨折には気をつけて下さいね!! (ハーブティー)
(寸評)俺は生涯で骨折は二度。一度は中学生の時友人(幅跳びの選手)に蹴られて。
もう一度は昨年チェンマイですっ転んで。
チェンマイは意外に軽くて一ヶ月で治ったけどやっぱりギプスの中が痒くて俺も棒突っ込んで掻いたなー。
中学生の時は、もう指が一本取れかかっていて骨が完全に露出していたので骨折だってすぐ分かったよっ。キャハッ! 6ポイント。
初めての海外送金
海外生活をしていて、ここでの生活は金銭的に今のところ、事足りているのですが、プリンターのインクカートリッジなど、日本の通販でクレジット決済をした際、日本の銀行口座に送金をしなければならないのです。
そろそろ自分で自分の使った分ぐらい、負担できるようになりたいと思い、昨年加入した銀行のネットバンキングを利用して、送金することにしました。
家族からは「送金は手数料が高いぞ!立て替えておくから、帰国した時に払えばいいだろ!」と言われましたが、見栄を張り、「マイレージもたまるし、レートは現金で両替すると、もっと高いから」と言って、何度か住んでいる部屋の近くの銀行へ行って、手続きの方法を説明してもらい、一人で作業を進めました。
もっとも、今後円安が進んで、円の価値が大きく下がり、現金で両替する際のレートが送金した時点のレートを下回れば、手数料込みの送金額よりも多額の日本円が受け取れて、お得なのですが…。
まず、銀行のサイトにアクセスし、ネットバンキングのIDでログインし、送金先の銀行名・コード・受け取り人名(自分ですが)、保安コードなどを書き込み、一番下の「送金」バーをクリック。
しかし、1度目には新たに送金用の口座を開設せねばならないとのことで、その日の送金は断念。次の日はレートが上がって、米ドルでマイレージがたまる最低金額を下回ったため、またまた断念。
そして、数日かかって、無事に自宅でPCを通して、送金完了。
これで終わりかと思ったら、実家に翌日、銀行から電話が来て、外為法の関係上、何のための送金か、説明が必要と言われました。
「クレジットカードの支払いのためです」と答えたところ、それですんなり納得。無事、引き落としの日に間に合いました。
韓国生活はもうそろそろ4年になりますが、金を稼ぐだけでなく、金融関連の世界にまでズッポリと深入りするとは、学生だった頃には全く想像もしていませんでした。
何年か経ったら、本業の仕事のほかに、株にまで手を出しているかもしれませんが。(Hi-)
(寸評)早く儲けて俺を出前ライブで呼んでくり〜!
てか本当にヘタな国内より韓国の方が交通費とか安いかも・・・。 6ポイント。
初めての密漁現場
休憩時間に、かねてから気になっていた砂浜の向こうの出島みたいな所に行ってみたました。
そこで凄いの見ちゃったんです。
中年の男女が4人ほどいて、直径30センチ高さ80センチ位の網に大量の牡蠣をぎっしり詰めた物を2個立てています。
更に手元に抱えきれないほど置いて、貝を器具でこじ開けているのです。
そのそばで一人のおっさん(あえてそう呼びます)が「早くしろ!!早く!!」と急かせてるのです。
私がその光景を気にして見ていたのに気付いたようで、少し歩いて振り向いたらさっきのおっさんが後をついてくるではありませんか!!
昼間とはいえ回りには誰もいません。
怖いので道をそれて広場に歩み寄り、写真を撮ってやり過ごましした。
辺りを一周してさっきの道を戻ると、密漁の現場に警官が一人いて網のなかの牡蠣を海に戻させています。
そこに元締めのおっさんの姿はなく、素知らぬ素振りで自転車に乗り走り去るのを目撃しました!!
ちなみに牡蠣を採らされていたのは中国人のようでした。中国語を喋っていたし、スポーツバッグの文字が中国漢字だったからです。
元締めのおっさんの服装は青い上着に白のズボン、白い長靴…これ和食の調理師のユニフォームじゃありませんか!! (♪ごりぽん)
(寸評)見てしまったんだね・・・。
背中に気をつけて! 7ポイント。
初めてのドゥーテスト
高校時代から付き合っていた1年後輩の彼女。
ある日何だか暗い顔をしてたので理由を聞いてみると、
「いつもなら来てるはずのものがまだ来ない」
とのこと。
血の気が引いた。
もちろん若気の至った10代とはいえ、子供が出来ても責任なんてとてもじゃないが取れないのはわかってる。
だからいつもちゃんと避妊は怠らなかったが、どうして・・・。
たしか性教育で習った。コンドームは100%ではない、と。
それでも真面目で慎重な僕等、危険日まで計算して事に及んでいたのだ。
おそらく不慣れな性交で排卵のタイミングがずれたのではないか? 若いときはそういうこともあると聞く。というか、どうかそうであって欲しい。学校をやめて働く覚悟や自信は、ない。
バイト先の経験豊富な先輩に聞いてみた。
「薬局でドゥーテスト買っておいで。すぐ判るから」
女の人の尿の成分で、妊娠しているかどうかを色で判断する簡易妊娠検査キットのことらしい。
駅前の坂を下りた、古びた爺さんがやってる薬局に張り紙があった。
ズバリ「ドウーテスト有リマス」。
店の前でしばらく立ち往生する。こわい。恥ずかしい。
でももっと不安なのは彼女の方だ。今僕が買わないと、ずっと不安な気持ちにさせてしまう。
一歩を踏み出し、店内へ。
びびりながら爺さんに、「ドゥ、ドゥーテストください」。
「1回用と、2回用がありますよ」。
「に、2回用で」
さっそく次の日彼女に手渡し、結果を待つ。
うちに帰ってから電話があった。「今から確かめてみる」
心臓バクバク。
判断結果は・・・妊娠しておらず。
よかったぁ・・・。電話口で2人、一旦胸をなでおろした。誤診があっても怖いので、例のものが来るまでは安心はできないけど。
翌々日、来るべきものはやって来たという。ちょっとだけ遅れただけだったみたいだ。ホッ・・・。
若かりし頃の、ドキドキドゥーテスト初体験でした。(匿名希望)
(寸評)でも実はやっぱり出来ていて「親父!」と或る日突然そこそこの年齢の兄ちゃんがやって来る。
何故か手には出刃包丁を持って・・・。 7ポイント。
はじめてのお弔い
なぜかハッキリ記憶がある、4歳の頃の話です。
今は遠い昭和の56年9月、何か月か前から入院していた祖母が亡くなったと知らせがありました。59歳でした。私にとって初めての親族との別れです。
祖母とは一緒に住んでおり、微かながらにお風呂に入れてもらった記憶もあります。ドラえもんのようなしゃがれた声だったような気がするのですが、もう近頃は思い出せなくなってしまいました。
私と兄貴は普段着ないような余所行きの服を着せられ、あまり実感が湧かないまま家のすぐそばの斎場に歩いて向かいました。
人が死ぬ、ということはなんとなく解っていましたがそれに伴う悲しみなどはまだ感情として存在しておらず、ああ、ばあちゃんがいなくなるのか。なんかちょっとさみしいなあ。くらいの感覚でした。
その日は薄曇りながらも10月初日、まだまだ暑さの残る時節です。お弔いの雰囲気や意義などを全く理解できない幼児2人・兄と私はじきに不満・退屈・文句を申し立てます。叔母から小遣いをもらい、近くのタバコ屋兼駄菓子屋兼雑誌屋兼パン屋にお菓子を買いに行きました。赤い庇の、爺と婆がやっている店。なにか声をかけられた気がしますが、内容は理解できませんでした。
祖母が何かの台に乗っけられます。祖父がニコニコして言います。
「次出てくるときはな、ばあちゃん骨になって出てくるねんど」
(後に親父から聴いた話では、祖父は大変な愛妻家であったそうです。幼い私達を気遣ってか、辛いところを見せずニコニコと語ってくれたのでしょう。)
私はびっくりしましたが、そういうものなのか、と一旦納得しました。周りでは知らないおばさんがすすり泣きを始めています。
機械の音がゴトンゴトンと低く鳴り続け、私達は暑さの残る中待ち続けました(当時の市営の斎場は屋外だったのです)。
おそらく無邪気にまだぁ? なんて心無いことも口走ったでしょう。何分経ったのかわかりませんが機械の扉が開き、祖母のお骨が出てきました。知らないおばさん達が一斉に泣き崩れます。
お坊さんが何かしら言いながら、祖母の頭の骨をお箸のような棒で崩して、爪楊枝の入れ物みたいな小さい容器に詰めていきます(ほんとに爪楊枝の入れ物なんじゃないか? と思える、半透明のグリーンの容器でした)。ある程度詰めると、祖母のお骨はまた機械の中へ。ぜんぶいれないの、と聞くと全部ははいれへん、と親父が応えました。
なんかばあちゃんかわいそうやなぁ、とぼんやり思いました。
時は流れて27の時結婚した私。
あるとき嫁の弟の生年月日を知り、奇妙な縁を感じました。
昭和56年、9月29日生まれ。
ばあちゃんがあちらへ行ったその日に、嫁の弟はこの世にやって来たのでした。
もちろんその日に生まれた人なんて何人もいるのでしょうが、身近に現れた時は偶然ながらも何かの縁を覚えました。
命、人生の不思議を妙に感じたエピソードでした。(オポムチャン)
(寸評)義弟さん、お風呂に入れてくれたりドラえもんのようなしゃがれた声じゃない? 6ポイント。
はじめての自転車乗れたー!!!
幼少期の思い出を探っていたら、一緒に眠っていた記憶が蘇りました。
恐ろしいことに日付まで憶えていて怖いのですが、昭和57年の8月14日のことです。
幼稚園に入ってから、補助輪付の自転車であちこちを走り回っていたのですが、「小学校になっても補助輪付はカッコ悪い」と兄貴や親父に言われ、そんなことはない、自分は生涯補助輪付自転車ライフを貫くという私の抵抗も虚しく、泣く泣く練習を始めさせられました。
狭い歩道、真横は天神橋筋という交通量の多い大きな道路です。そんな危険なシチュエーションにも負けず、日夜膝を擦りつつ、ベソをかきかきコマ無し自転車にまたがり続けました。
そして上記日付、5歳になってから4日目のお盆前。
小遣いの50円をポケットに、私は天神橋筋の向こう側のお菓子屋に自転車で向かいました。まだペダルをこぎ続けることはできません。
短い両足で地面を蹴り、勢いを付けたところでこぐ。いつもその繰り返しで、なぜか途中でバランスを崩して足を付いてしまうのですが、その日は違いました。
横断歩道を渡っている最中。勢いを付けてこぎ続けて・・・あれっ、倒れない。
不思議な感覚が身体を包みました。
お菓子屋に着き、菓子を買いがてら店のおばちゃんにしずかに興奮しながら告げました。
「自転車、いま、乗れた」
「ほんまぁ、良かったねぇ」
身体を包む感覚が消えないうちにと急いで自転車にまたがり、鼻息荒く家までこぎ帰りました。身体はしっかりとその感覚を掴み取り、以後消えることはありませんでした。家に入るや「自転車、乗れた!!!」と突然報告する息子に、両親は大驚きでした。
てなわけで人に自転車の乗り方が教えられません。何故突然乗れるようになったのか、本人にも解らないのです。ただ言えるのは、その時期はばあちゃんの初盆。鈍くさい孫を憐れんで、アッチからスキルを授けたのでしょうか??
霊的なものを全く信じない私ですが、自転車に乗るコツは? と聞かれると、
「誰かの初盆に横断歩道で乗ってみなさい」
と、怪しげなアドバイスを贈ることにします(笑)。(オポムチャン)
(寸評)俺、免許持ってないけど車もいけるかな?
今度試してみよっと! 7ポイント。
初めてのA感覚
こないだはA風俗で失敗した話を書いたけど、実は自分のAを開発するのは昔から興味があった。オナニー覚えたての中学の頃、ヘンにいろんな知識を周りから吸収するから始末が悪い。そんな頃エロ本に「前立腺刺激」でチンコがビンビンに、なんて記述があった。なんかAは第二の性感帯で、男にしかない前立腺ってのがAから指突っ込んで刺激できるらしい。
エロいことに貪欲な俺は早速夜中、部屋でグリグリするけど気持ち悪イだけで何がいいのかさっぱりわからん。なんだよー、って興醒めしてしばらくAの事は忘れてたんだけど、ある夜いつものように一人ナグサメに夢中になってる最中、ふとAに指を伸ばしてみた。この前と違ってなんかいい。左手の指を添えてるだけで妙に感度が上がってく。よくわかんねーけど俺の場合、どうもある程度刺激が高まってからAをいじると効果があるみたいだ。快感が高まるにつれて、指を奥に奥に突っ込みたくなる。チンコだけの刺激とは違う、味わったことのないキモチよさだ。これが前立腺か!
果てた時、いつもの倍くらい飛んだ気がした。
俺のマニアックな性癖はここらから始まったのかも。その後しばらくAいじりにハマって、ブドウを入れて出てこなくなったり、バナナを拝借してぶっ刺したらおっそろしく飛んだり、とやんちゃを続けてたら「ヤり過ぎると尿漏れしやすくなる」って情報を新しく入手、たしかにキレが悪くなってきたから22の時封印した(笑)。20代で尿漏れってしゃれなんねーわ(笑)。結局その後自分に入れる方から、人に入れる方に興味が移ったんだけどね。(ナルセ)
(寸評)病院受付バイト時代はおホモカップルが救急で元旦にやって来て「オモチャ取れなくなっちゃった。キャハ♡」ってな患者も来たな。
俺はAは興味はありつつまだ開発してないが、射精直前に玉をサワサワ柔らかく(絶対強くは駄目!)触ると快感は倍増ヨン。
試してみてね! 8ポイント。
初めてのピアノ曲コピー
家にピアノがある。母の持ち物で主にピアノ教室に通っていた弟が弾いていたが、その弟も家を出てゆき、弾く者が不在に。折角なので音楽を始めた自分が弾くことに。自分も幼稚園から小学2年まで弾いていて、昔とった杵柄で拙いながらオリジナル曲の創作を始めた。
実は音楽を始める以前にも滝本晃司さんの「カタチ」を、また始めたばかりの頃には「レインコート」をコピーしていた事があった。まだ自分の中にもコンセプトが見えずにシドロモドロで、あまり弾き応えは感じなかった。
ギターで創作を続ける傍ら、時間を見つけては足繁くピアノの前に座った。ギターに比べて明らかに自分の感覚に馴染まぬ弾き心地。2~3年続けたが、できた曲は5・6曲程度。そのうち本当にモノになったのは1曲のみ・・・。もっと手頃な弾き方は無いものかと考えるうちに、滝本さんの楽曲に着目。簡単そうな上ユニークな演奏の仕方に惹かれ、早速CDを聴きながら耳コピを開始!
まず最初に選んだのが「JUICE」 始めたは良いが、これまた大変だった!コードが分からない、間違ってる、左手パートの音が聞き取れない、そして弾く事に気を取られて声がうまく出ない!!滝本さんの曲って耳コピがとても大変!(泣)・・・おかげで耳がよくなります(笑)。
結局2ヶ月弱かかって一応の完成。おかげさまで頭が少し良くなりました(笑)。次に選んだのが「サーカスの日」。 前の曲で苦労したおかげで時間が少し短縮した。
余談だが、とあるライブハウスの『体験出演イベント』に出演した際、ピアノを演奏する人やカラオケで歌う人を見てきたが、手元が自由でのびのびと歌うカラオケの人に対し、ピアノの人は何か手元がこわばっていて声がうまく出せていない様子だった。そんな事からもどういう方法で上手く弾くかを考えるキッカケになった。
『王様の耳〜』でも書いたが、自分なりに思案を重ねる内に至極簡単な方法論に辿り着き、明らかに以前とは違う感触を手に入れる事ができた。また「丘の上」「なぞのなぞりの旅」をカバーする事で、曲の魅力に改めて気づく事もできた。
自分の創作のための習作という狙いで始めたが、今やすっかり滝本さんの曲のトリコに!こんな所でも音楽の楽しさを教えてくれる『たま』の魅力ってやっぱり底知れない!!いろんなキッカケってどこに隠れているんだろう。(Sankaku)
(寸評)俺も最近作った新曲、ピアノのあるお店ではピアノ弾き語りしてる。
と言っても曲を聴いてもらえればわかるがただの出鱈目。
ところが共演した超絶テクニックの奥の間の面々に「あのピアノ素晴らしかった!」と言われていい気に。
今度は本格的に弾き語り出来るような曲作ってみるかなあ。 6ポイント。
はじめての居眠り運転
大学時代、コンビニで夜勤のアルバイトをしていました。
この勤務先の朝勤の姉ちゃんが当日いきなり遅刻・欠勤をかます常習犯でしょっちゅうひどい目にあっていたのですが、気の小さい私、「ハハッ、いいっすよ」と気さくに欠勤に応じ、心のうちでは悪態をつきつつ12時間コンビニに張り付きっぱなしという日も稀にありました。
その日も夜の9時から朝の9時まで働き、家に帰ってから思い出しました。
今日中に演奏会の立て看板を完成させないと、役員会でぼろくそにこきおろされるぞ。
当時所属していた合唱団で私は学内マネージャーを務めており、演奏会の宣伝のために大学構内に設置する立て看板の制作を担当していたのですが、期日までに立て看板を完成させないと演奏会の告知が遅れてしまい集客に影響が出てしまいます(実際は立て看板ごときでそんな変わるもんじゃないんですけどね)。
そして今日がその期日。役員会の、馬鹿学生特有のベクトルを間違えた生真面目さ、それを起因にはじまる必要以上の詰問体制。「渉内チーフが立て看板を完成させられなかったことについて、どう責任をとるつもりですか」・・・そんな無意味な叱責を食らうのはまっぴらです。
ちょっと無理しても、大学行って看板仕上げよかな。
玄関で30分ほどぶっ倒れ、「気ぃつけて行きや!?」と心配する母親に「気ぃなんかつけられへん」と起き上がり、50cc原動機付自転車(めんどくさいので以下バイク)にまたがり朦朧と大学へ向かいました。
バイクを運転してるんだから、寝ることなんて有り得ないだろう・・・とおのれの若さを信じて疑わなかった、一睡もしてない私。
風を切って運転している最中、どうも頭がふらふら揺れます。おや、やっぱりちょっと眠いな。おかんも気をつけろって言ってたな、気を、気を・・・
気が付けば、T字路を直進しようとしているところでした。眼前にコンクリの壁。ひえぇぇぇぇっ!! あわててブレーキ、横から車が来てなくて命拾いしました。
どうにか右折、あと1㎞ほどで大学です。あとちょっと、気いつけて、気ぃ・・・つ・・・・・・け・・・・・・・・・
暗転。人の声が聞こえます。
「大丈夫ですか、大丈夫ですか」
・・・なんだか全身に鈍痛があります。おや、唇と歯茎の間になにかグシャグシャのものが挟まっています。
目を開けると、私のバイクは細い路地道の左脇の低い壁と電信柱にぶつかり停止した模様。その上で私はうなだれていた様です。
声をかけて下さったのはどうやら通りすがりの通勤者のようです。「救急車呼びましょうか!?」
「・・・大丈夫です、大丈夫です」妙に冷静に背負ったリュックからタオルを取り出して鼻血を拭く私。通勤者の方は大丈夫と判断されたのか、その場を去りました。
・・・・・・やっちまったな。
歯茎の前のグシャグシャはなんだ。口中の肉がえぐれたに違いない、と怯えていましたがどうも土のようでした。
??? 土ぃ?
まるで憶えちゃいないのですが、どうも低い壁の上に盛られていた土に顔を突っ込んだようで、その時に口の中に入ったのでしょう。よくもまぁ歯が折れなかったものです。
それにしても交通量&人通りの少ない路地道で、かつ公共物の損壊もなくてほんとに良かった。バイクのスロットルも居眠りで緩くなっていたためか、比較的ゆるやかなスピードで衝突をしたのでしょう。
鈍痛にも慣れてきました。何処も折れてない。鼻血も止まりました。あかんあかん、はよ大学行って立て看板仕上げな。
あちこちに 付いた鼻血を拭きとり、バイクのキーを回していざ大学へ・・・あれ? エンジンはかかるのに・・・進まない。衝突によりバイクの前輪は車体にめり込んじゃっており、ピクリとも動きません。・・・だめだこりゃ。事故現場の道の端にバイクを寄せて、残り1kmを徒歩で往くことにしました。
どないか立て看板の遅延は(私の傷だらけの顔面を見せて)お咎めなしになりました。夕方電車での帰り道、親に電話したら無茶苦茶に怒られました。翌日近所から軽トラを借りて、親父とバイクを撤去しました。残念ながらバイクは再起不能でしたが、貴重なモノや尊い人命を再起不能にしかねなかったのです。私のケガとバイクだけで済んだ事をことほぎました。
それ以降ろく に寝てないときは運転しないことにしました(当たり前だ)。
飲酒・寝不足時は本人の思ってる以上に大丈夫じゃないことを大学時代に学びました。誰かの大事なものを奪ってしまう前に、身をもって気づけてよかったと思います。(オポムチャン)
(寸評)俺も昔原付の免許取る為に参考書買った。
○×方式で「眠い時は運転しない方がいい」
○を付けたらなんと不正解。
正解は「眠い時は運転をしてはいけない」。
気をつけましょーね。 7ポイント。
初めてのカラオケボックスであはんうふん
10代の頃。
ヤりたい盛りのおれ達だったが、しようにも場所がない。
もちろんホテルはそこらじゅうにあるけど、バイトもしてないから金が無い。
夜に人気のない場所で…っていっても彼女に門限があるからそれも無理。
どうにか2人きりになれる場所はないものか。そこで思う存分あはんうふんしたい。
お金もない、知恵もない。短絡的に思いついたのはそう、カラオケボックスだった。
でも意外とカラオケ屋の個室って、外から中の様子が丸見えの部屋が多い。
何度か挑戦しようとした盛りのついたおれ達だったが、あきらかにばれそうで断念することばかりで、欲求不満でいた。
ところがある日。すけべなおれ達の思惑を察したのか、あるカラオケ屋で通路から完全に死角になる場所がある部屋へ案内された。
部屋の条件を確認した2人は、もうカチカチ&じゅんじゅん。
一応慎重になる。こういうところって意外な場所にカメラ付いてんじゃない!?とか。
またちゃんとカラオケしてますー、的なアピールのために10曲フルで予約を入れたり。
カメラは、見当たらなかった。
部屋の隅の、死角にひそむ、2人。
若さにまかせコトを急ぐおれ。愛撫もそこそこに、背後からショーツを下ろす。
ブラックライトが、純白のショーツを青白く輝かせる。
まだ両手で数えるほどしか潜り込んだことのない、秘密の園が目の前に。
壁に手をついて立ったまま、そっと後ろから互いの興奮した場所を重ねあう。
…!!!
いつもと違うシチュエーションに興奮しすぎて、7秒で果ててしまう。最短記録更新!
彼女はさすがに物足りない様子で帰るまでしばらくむくれていたのが、可愛かった。
遠い昔の話。(匿名希望)
(寸評)俺はアパートでしてたけど「猫のノミがいる!」(俺は刺されないが彼女は刺される)ということでもっぱら寂れ〜た連れ込み宿行ってたなあ。
昭和の風情があってあれはあれで良かった。 7ポイント。
はじめてのネットオークション落札…依頼
4人たまの名盤『そのろく』を聴いていて、このCDを入手したときのエピソードを思い出しました。
たまのCDをフツーに集めていた我々兄弟。つまりCDショップにフツーに置いてあるものばかり収集していたため、『ろけっと』の次は3人たまの『たま』である、と何の疑いもなしに思っておりました。
ところがどっこいどっこいしょ、今晩は~のお早うさん。石川さんの名著『「たま」という船に乗っていた』を偶然購入し読んだところ、なんとその間に4人たまのインディーズアルバムが存在することが判明したのです。なんと! 発表当時は大阪の片田舎の高校生だったのでそんな情報はなかなか入手できる状況ではありませんでした。本を購入したのは2005年、すでに発売から10年が経過しており、『そのろく』はもはや販売していませんでした。
当時の私はパソコンを所有しておらず、実家のパソコンで調べてみても売っているところは無し。曲目もほとんどが聴いたことがないものです。
今もその傾向は強いのですが当時の私はパソコンの知識が微々たるもので、ネットオークションなんぞに手を出すととんでもない値段をふっかけられるとか、個人情報をいいように利用されるとか、金払っても商品が来ないまま泣き寝入りとか、知らぬ相手とコンタクトを取るなんて怖くて怖くてとかそんなことに怯えて手を出せませんでした。
それからというものの粘着質な私は、道すがらの中古CDショップに入りびたったり、ダメモトで一般のCD店に注文をかけてもらったりと無駄なことを繰り返し、しまいにはやっと『そのろく』を手に入れたぞ~っ!! と思ったら夢だった、というのを何回も経験したり、と煮え切らない日々を過ごしていました。
そこでとうとう私よりちょっぴりその辺に詳しい兄が見るに見かねて、オークションで出品が無いか見ておく、と協力してくれました。あまり貸しは作りたくない相手なのですがもうなりふり構ってられません、兄さん頼んます!
すると3月も経たないうちに出品があったぞ、と兄貴から連絡がありました。
はやる気持ち、焦る心。
兄「いくらまで出せる?」
私「2万までなら!」
兄「お前…… 相当本気やな」
安月給のくせに強気な私の願いが通じ、兄は11,000円で念願の『そのろく』を落札してくれました!
もう絶対手に入らないと思っていた幻のアルバム。嬉しくてうれしくて何度も聴きました。CDはもちろんケースも歌詞カードも破損したら二度と買戻しできないからと、毎回慎重に出し入れしていました。
さてこの先の展開はもう皆様おわかりですよね。
1年後、地球レコードのたまのCDページ。一番下にあるのは………『そのろく』。
「リクエストが多かったので再販しました!」
Gィィィィィィィさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!(いやこういうことの決定者が滝本さんなのかどうかは存じ上げませんが…。)
『おいしいうそがいっぱい』の時といい、わしこんなんばっかりや……。今では『そのろく』もフツーに購入できる時代になりました。めでてぇな。
でも先の事なんてわかりません。運命の歯車とは奇妙なもので、もし私がオークションで『そのろく』を落としてもらってなければ再販は無かったかもしれないのです(思い込み)。ええ、後悔してません。
果たして入手できるのか、それとも……とドキドキした、初ネットオークション(依頼)でした。(オポムチャン)
(寸評)まぁ確かに「高値で取り引きされてるらしい」(もちろんいくらで取り引きされようがこちらには一銭も入ってこない)という情報を聞いて、ある程度の数が売れるような雰囲気が見えて来たら再販するということはあるから、オポムチャンが買ったこともその引き金のひとつになったかもしれないよ。
ちなみに既にインフォメーションではお知らせしてるけど、7月頃より俺の廃盤になってるソロアルバム「おいしいうそがいっぱい」音源だけネット配信で販売始めます。
まぁネット配信なら初期費用くらいでリスクは少ないからね。
CDは再販希望が多くてもライブと違ってひとりでは一枚しか基本買わないから、例えすごーく熱心に言われてもその人数が数十人とかだったらやっぱり難しいんだよね。
実際1000枚作るのも10000枚作るのもそんなに金額に差がない。
つまりロットが多ければ多いほど一枚あたりの単価も全然安くなる。
また、売れなくてももし作ってしまって在庫を抱えると「財産」として税金もかかるということもあるしね。
なので何でも簡単には再販出来ない現状があるんだよね〜。
ヨシヨシ、なぐさめポイント10ポイント。
はじめての音楽で喝采
高校時代。今とも昔とも変わらぬ冴えない小太りだった私。クラスでも地味な、友達の少ない根暗なキャラでした。
さてある日の音楽の時間。先生は「好きな友達と組んで好きな曲を演奏・発表してください」とおっしゃいました。
私の数少ない友人は……何も楽器が出来ません。せいぜい小中で習ったリコーダーくらいでしょうか?
私はというと親父から「お前は何にもできん奴やからギターの一つでも弾けるようになってみんかい」との温かい言葉を投げつけられ、簡単なストロークによる伴奏が出来るようになっていました。
さあこの3人で一体何を発表する…? 笛とギターというのも妙で何だか乙ですが、小中で習った曲をギターで合わすなんて間抜けもいいとこです。
ひとつここは、歌でいったろかい。友人①の趣味で、ギターに合わせるなら長渕やろ、と「しゃぼん玉」を演奏することに。
クラスでも目立たない地味ぃ~な3人組、思わぬ硬派な曲で勝負です。昼休みには音楽室に籠もり、勝手にギターをかっぱらって地味ぃに練習を続けました。
そして当日。
エレクトーンとボーカルで合わせてくる女の子。
ギター4本で本格的に合奏する男ども。
我々よりトモダチイナイの奴は、一人で「夢路より」をリコーダーで吹き切りました。大した奴です。
吹奏楽部の2人は金管で合奏しています。ちくしょう、本気でクラシックやりやがるぜ。また上手いぜ。
どいつもこいつもバッチリ仕上げてきやがって… こちとらギター1名にボーカル2名、この2名は別にハモれるわけでもないド素人で、ユニゾンでおんなじメロディを歌うだけの芸のなさ。果たしてどうなる事やら……。
3人、前に出ました。「あいつ、ギター弾けるのか?」なんて声が聞こえます。そらイメージ無いですもんね。
ギター1本、じゃらんとGのコードをストローク。曲が始まりました。好調な滑り出しです。
伴奏に徹していた私ですが、「そういえばここまで声でハモるグループはいなかったな。この曲、サビでコーラスあるからひとつハモったれ。」と謀反気をおこしました。
「りんりんと泣きながら…」
たまやチャゲ&飛鳥で兄貴にハモらされていた経験が活きました。ユニゾン2人の主旋律に対して丁度いいバランスです。ええ感じや! はじめての人前での演奏ながら、わくわくしてきました。
2番とサビの繰り返しを終え、最後のGコードを鳴らし終えると、予想だにしない音量で拍手喝采が起こりました。
………!!?
「すげえな!」「おまえそんなんできたんか!」普段地っ味いいな3人が意外な選曲で意外なテクを見せたのが受けたのか、今まで味わったことのない歓声を浴びせられました。
……地味で、よかった。
その授業のあとは再び地味な存在に舞い戻った3人ですが、音楽でもって浴びたあの喝采は今でも忘れることのできない感動です。案の定、それ以降浴びたことは無いんですけどね。
その後この件がきっかけで大学でコーラスを始めることになり、今の嫁と出会うきっかけになりました。音楽っていいものですね!(オポムチャン)
(寸評)俺も似た様なものだったな。
やはり文化祭で俺がボーカル軽音楽部の連中が演奏で「月の砂漠」をやった。
あの♪月の砂漠をはるばると〜 という童謡ね。
一番は朗々と歌い上げたが二番になった途端、着ている服を脱ぐと歌詞に合わせてラクダの上下。
そこから曲調がガラリと変わり、パンクロック調月の砂漠に。シャウト、シャウト!
と、物凄い客席の歓声。
この時の人前で歌って驚かすことの快感が今に繋がってる。
イメージとの落差、っていうのが特に肝だったな。
あの時思い切って馬鹿やって良かったなあ。 7ポイント。
はじめてのもうどっかいなくなっちゃおう
大学4回生の秋、就職が決まらず単位も思うように修得できておらず、部活では音を外して邪魔しまくりといろんなことがだめだった22才の私。
なんにもできることがないなぁ。もうどっかいなくなっちゃおう。
午後9時過ぎ。ふらっとこの世界からいなくなりたくなりました。
家族には何も告げず、玄関にはいつもの靴を残して在宅を装い、滅多に履かないサブ靴をそっと履いて外へ出ました。
具体的ないなくなるための段取りは何も考えず、電話と財布はしっかり持って出掛けたので、今思うと大した覚悟はなかったようです。
ともかく自分の属しているあらゆるものから、断ち切れてしまいたかったのです。
夜の土手道を下流に向かって、軽装の小太りが黙々と歩きます。
やんちゃな若人の皆さんに絡まれて鉄パイプや釘バットで滅多打ちにされないかしら。そう願った時にはそんな方々は登場しません。彼らはいつも願わぬ時にやってくるようです。
眼つきの怪しい5番アイアンのおっさんも、腹を空かした小汚い野犬の諸君も、こんな夜に限って現れてくれません(いつもは結構いるのに)。
なんにも事件が起こらぬまま土手の道は終わってしまい、これ以上川を下れなくなりました。
残るは、大阪のど真ん中・梅田の街へ続く道だけ。そんな場所ではひっそり野垂れられません。
なんだか疲れたし、ジュースでも飲もうかな。自販機で見たこともない変なリンゴジュースを飲んだ刹那、急激に自分の行動に冷めました。
なんじゃい、いなくなる気だったくせに栄養を摂取してるやないか。なんにも覚悟できてないやんけ。
一気に馬鹿馬鹿しくなって、いなくなる計画はあっさり頓挫しました。
電車に乗るのもなんだか癪で、そのまま明るい国道沿いを自分の街に向かってよたよた踵を返しました。
着信を無視し続けた家からの電話には夜11時半にようやく応じ、兄貴に怒られました。曰く母が「あの子は自殺するかもしれん」と泣いていた、と。
お母さん残念、息子にはとてもそんな根性ありませんでした。
友達に急に誘われてカラオケ行っとってん、とテキトーな嘘をついて誤魔化しました。
オール徒歩でフラフラになって家に着き、どれだけ歩いたのか地図で調べたところたったの14kmでした。
あまりの間抜けさに赤面しました。
たかだか14kmでこの足の激痛か。俺、どれだけ根性ないねん。
生きるのも屈辱の連続、でもどうも根性無さ過ぎていなくなれないみたいだ。
もうちょっと、生きてようかな。
その後2回目も敢行されましたが結局箕面(大阪北部・猿多し)まで歩いてガタゴト電車で帰ってきました。間抜け度、倍増。
あほの決断、遠足に似たり。おかげさまで今、元気です。(オポムチャン)
(寸評)そういう時期って誰でもあるんだよね。
マラソンの距離の三分の一か。
挫折して良かったね。 8ポイント。
はじめての出産立会い
2011年。震災で世間が大わらわの最中、思いがけず妻の妊娠が発覚しました。
結婚8年目。今までも挑戦はしたもののうまくいかず、あきらめていた時です。
難儀なつわりや奇妙な父親教室を経て、10月。その日は先生によく歩くように言われて巨大なお腹の妻と近所の土手べりを散歩していました。歩くことで中の子どもが出てくるのを促すそうです。
夜10時。促し効果はいきなり抜群、陣痛が来る前に破水しました。
早速行きつけの産科へ行かないといけません。慎重に車を飛ばし、妻を送り届けました。陣痛がまだ弱いので、おそらく産まれるのは次の日だろうとのことで、妻を置いて実家に帰りました。
夜中の2時。産院から電話がありました。「あれから陣痛が急速に進みました。産まれそうです。」
ワオ! 全然寝てませんがそんなこと言ってられない、嫁の命を賭した大仕事。2階のおかん(元看護師)を叩き起こし、寝静まる街中、車をかっ飛ばしました。
着いたのは2時半。妻は苦しそうに横たわっています。
よく言うひっひっふー、なんて一緒にすればいいのか。旦那なんて、何をしていいものやら判りません。
いきみ逃がしのために、会陰を思い切り押せ、と看護師さんに言われました。普段なら喜んで押すところですが事態が事態です。びびりつつ押しても妻は「全然効けへん」、と不機嫌。というか単に痛くて辛いから不機嫌そうに見えるのでしょう。結局役に立たず看護士さんに替わってもらいました。
呼吸が整えにくい妻を、母がリードします。こういう現場には強い母、冷静に状況をとらえて励まします。
私の役割は見守るだけ。唯一元看護師の母から生まれたのが今回役に立ったことでしょうか。「まだ出てこないの~!!」とますます辛そうな妻。その妻の手を握り、大丈夫、それでいいよと声をかける母。
となりの部屋ではよその奥さんの喘ぎ声。こう書くと艶めかしいですがそんな事考えてる場合じゃありません。
隣室に先を越された様子、先生はそっちへ行っちゃいました。ますます焦る妻。
いつまで続くかと思われた、妻の苦痛の表情を見ながらも何もできない時間。そして到着から90分…
未明3時58分、黒い塊が引っ張り出され、産声があがりました。
安堵の瞬間。「おめでとうございます!」あれだけ永遠と思われた時間ですが、スピード出産であったそうです。感動して泣くとかは無く、妻は「やっと出た……」とクタクタ。
当の私は産声のキーに神経を集中させていました。何故なら「西洋音楽がA(ラ)から始まるのは、すべての赤ちゃんの始まりの声(産声)がAの音だからだ」、という説があるからです。確かめる機会は、きっとこれっきり。
ひとしきり処置が済んだあと母が私に聞きました。「何の音やった?」
「C♯。Aって、嘘やったな。」
この一大事にこの親子は何を気にしとったんだ、と先生も看護士さんも怪訝顔。困った奴らですみません。
我が子のあとに胎盤が出てきました。人間の身体の中にこんな色の器官が入ってるのか……と驚くばかりの、赤や青がかった白く鮮やかな何か。光さえたたえていたようなあの青白い色が、忘れられません。
妻の胸に生まれたばかりの我が子を乗せて、デジカメで親子3人ハイチーズ。えらくオープンな産院でした。
しばらく母子は別室、疲れ果てた妻は休みます。
寝てない私も仮眠を取り、母を実家に送り届け、仕事に行きました。……暇な日でよかった。
夫は本当に何の役にも立ちませんでしたが、あの神秘的な体験ができたことは私の人生にとっての財産です。そして産声はAではないと、あちこちに言いふらしてやりました(笑)。(オポムチャン)
(寸評)出て来た胎盤は食べなかったの?
俺の友達はワサビ醤油で食べて旨かったらしいぞ。
次の時は是非食べてみてね。 7ポイント。
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