話題4 人殺しは何故いけないか



人は人を殺しては、何故いけないんですか。(ハタケチガイ)

***レス(発言は古い順に並んでます)***


ううむ。これは哲学的な問題だ。簡単そうで難しい。なんせ、ほとんどの宗教は基本が「汝、殺すべからず」だと思うのだけれど、そう言っておきながら宗教戦争とかやって人、殺してるもんな。
 あと、チャップリンの映画で、
「(戦争の時に)100人殺すと英雄と呼ばれるのに、(戦争が終わった途端)ひとり殺しただけで「殺人者」と呼ばれるのは何故だ!」
 というセリフもあったしな。(石川浩司)

以前、鴨川つばめさんと小山田圭吾さんの対談で、鴨川つばめさんが「殺人が許されるとするならば、それを食べてみろと言いたい。なぜなら、殺めるという行為が最低限許されるとするならば、それを食すという以外ないからだ」(クイックジャパン 太田出版)といった趣旨の発言をされていました。正にその通りだと思いました。絶対できないもの!!
生きているってことは、やわらかいこと、あたたかいこと。それがわからなくなったら体は生きてても、心は死んでいる。そしたら人ではなくなってるぞ( >_ <)!!
深夜のニュースは小さな命が奪われたことを伝えています・・・。
暗い話で本当にごめんなさい。なんだか切なくなってしまいました。by norizona

戦時中、フィリピンで、日本軍が食べ物が底をつき、現地の村を襲い、人を殺して食べた。
その後、食料は確保されたものの、依然として日本軍は現地の村を襲い、人を殺して食べた。
何故なら、おいしかったからだそうだ・・・。この現実をどうとらえればいいのだろう。(石川浩司)

「自殺」っていうのも、自分という人を殺している、殺人だよね。(クリッコ)

エスキモー(今はイヌイットというのか?)の世界では、年寄りは、ある程度の年になると「もう十分生きたからいい」といって自殺するそうです。いつ死ぬかも、全部自分で決めることなのだそうです。これって、日本の自殺とはちょっと違うよね。(石川浩司)

この世の中で一番辛いことって生きていくことじゃないかなって私、いつも思うんですけど
でも、それでもなんだかほんわかするようなささいな幸せや、小さな未来への希望だったりが
背中を押してくれて、みんななんとか生きてがんばっている。
それで、死んでしまう時に、ふっとなんか私の人生もいろいろあったけど、まあぼちぼち捨てたもんじゃなかったな~、なんて思えたらすごい幸せなような気がします。

それが人間として生きてきた最後にして最高にいいことだじゃないかなと思うんです。
そんな気がするから私はいつも、死ぬための生き方を考えます。死は怖いけど暗い気持ちにはなりません、肯定的に死を考えます。
その人生最後にして最高のことをこれから知る人を、他人が勝手に殺めてしまっていいのかな?
人間はもともとみんな他人でしょ。他人にそんな権利ないんじゃないの?と単純に思います。
他人に自分の死期を決定されるのは辛いことでしょう。
石川さんのエスキモーの話、潔さ感じました。(マスタード)

寺山修司の詩に「ぼくは不完全な死体として生まれ何十年かかって完全な死体となるのである」という一節があるよね。(石川浩司)

エスキモーのその死に方は、年寄り象のそれに似ていますね。
ちょっと関係ないですが、長野の姥捨て山の駅からの景色って、悲しい物語のあった場所だけど、とっても素敵ですきです。(えへへくん)

姥捨の駅からの眺めは、俺も通るたびに「いいなぁー」と思う。それはさておき、「姥捨て」は結局、老人を山に連れていって餓死させる、今でいえば「殺人」だけど、その頃の人は、本人も含めて、それが当然と思っていたんだろうなぁ。死生観の変化か。でも、ほんのちょっと昔の話なだけなんだよね。(石川浩司)

もともと法律がない時代だったらだれも殺しちゃいけないとはいってないよ。でもわたしは誰もころさないよ。だれかにいけないって禁止されなくてもやらないよ。あなたは? (りな)

今としてみればなんじゃそりゃって云うことでも、ちょっと前までは当然のようにされていたことって、色々ありますよね。
子供を親が身売りしたり、赤紙一枚で戦争に行かなきゃ行けなかったり、そこの集落に生まれたが故に差別されたり。。
今でも少しは名残があるかな?
私は道端の草のようにさりげなく生きたいです。そして死ぬことは生きることであり、人を殺すことは自分を殺すことであると思います。(えへへくん)

体を殺すことができても魂を殺すことはできませんよね。
板垣さんの言葉みたいですけど(笑)(るつ)

上にも書いたけど、さらに思った事。
このテーマを考える私達は、たぶんだいたい皆同じ社会の中にいて、その視点から考えてしまいがちだと
思う・・・
例えば、人と助けあわなきゃなきゃいけない、っていう社会の常識があるとします。
その理由を自分の子供とかに説明するとき、どうやって説明だろうな?いろんな、もっともな説明のしかたがあるけど、私が思うにそれは、もとをただせば生き延びて行く為に必要だからだと思う。それと同様に、違う社会では生き延びる為に他人を殺す事が必要なときもあるかもしれない(動物も含め)。そこでは、人を殺しちゃいけない、っていうことは常識ではないと思うんだよなー。
でもとにかく、私達には、そういう世界にない、もっと深く感じられる余裕と豊かさがあるという事だと思うので、それはとっても素晴らしくて大事な事だとおもいまーす! (りな)

私は因果律を信じているので、私が「テメエが殺されたいのか?」と恫喝すると、大概の人は納得します。
哲学的でなくて、すみません。(憩)

これは友人が言ってたことの受け売りなんですが、いまや無宗教と言われる日本で、子供に納得させられる理由としては、「だれでも生きる権利を持ってる、それは法律で守られてることでもあり、だから誰もその権利
をおかすことはできないし、おかされることがあってはならない」と。私は納得しました。『正当防衛」もこれで筋がとおります。道徳的にはいろいろあるかもしれませんが。

しかし日本に死刑制度がある、ということは「だれでも生きる権利を持ってる」と矛盾するのでは? (石川浩司)

石川さんの言う通り、死刑制度もあるんですよね。
例えばマスコミにも取上げられてたAさんの話を聞いてください。
Aさんは通り魔的に、奥さんを暴行され、殺され、そばにいて泣いた赤ちゃんも殺されました。
犯人は無期懲役で死刑にはなりませんでした。
日本では無期懲役といっても恩赦などがあり模範囚なら刑務所から出てきてしまいます。
Aさんの怒りと悲しみはどこへ向ければいいのでしょうか。
Aさんは犯人が出てきたら殺してやりたいと言いました。
私がAさんでもそう思うでしょう。
人殺しはいけないことです。
しかしAさんの思いを考えると…難しい問題です。(M)

難しくてかなり考えてしまいました。
戦争という化け物は人の倫理感をも狂わすのだなと。欲望にのみ忠実になるのも人なればこそなのかと。そういう自分こそが人であるということも・・・。
死が目前に迫った状況では、生きる為の本能だったと思います。「うまいから」というのは、いつ来るかも知れない死の淵の、ただ一つの悲しい欲望だったのでしょうか?
そう捉えれば良いのかな???。本能は死を回避しようとするでしょう。しかし欲望は自己愛にすぎないとも感じられたのです。けれど、その兵士の心情を思えば、子を生み出す性として、切なく苦しく胸が痛みます。こんなことは、二度と繰り返しちゃいけない!!!
生きることに意味を見つけだすことが人にとっての命題であり、故に答えを探し続けるのでしょう。人と出会い、学び、何が出来るかの繰り返し。探し物だからこそ尊いと思うのです。その権利を他人が剥奪することは許されないこと。誰も自分と変わらないのだから。苦しみも悲しみも喜びも大差ない。見つけたいのは、自分を生き、愛したかだけ(^_^)。

人は人に生まれるのではない。人になるのだということを。 by norizona

私の母は姥捨て山がいまも続いていればいいのにと言います。
“そうすれば子ども達に迷惑をかけず皆若者が幸せに暮らせる”
と・・・迷惑かけてもいいんだよ。長生きしてほしい!って言ってるんだけど・・・なんだか悲しくなってしまいます。
お母さん長生きしてね。

おじゃまします。

他人の生きる権利を無碍に奪った人間に生きる権利が継続してるのはどう考えてもおかしい。
あと、場合によっては死ぬ権利も必要だとおもう。死ぬ権利を遂行したい人が現れたときに、誰かにその人を殺す権利が与えられればいい。 ペンネーム:くー

僕は自殺はだめだと思います。ある人が死ぬと、必ずある人が悲しみます。自殺は自分勝手な行為でしょう。しかし、人の為に、国の為に命を落とすことを惜しまない人には、心から敬意を表します。(田仲)

俺も若い時は、自殺はなにがあっても絶対に駄目、と思っていた。
「私が何か助けてあげられたかも」
という気持ちもさそい、病気や事故よりも、ある意味まわりの人のダメージは大きいから。
しかし年令を重ね、いろんな事例を身近にみるにつれ、同じ「自殺」でも、ある人は精神病による、自分の意志ではコントロール出来ない死だったり(つまりは、みかけは「自殺」だが、実質的には「病死」)、老境の人の「自分の人生は自分で完結させる」という強い自己計画による死は、ひとつの「尊厳死」と思っても良いのではないか、と思うようになった。
で、俺は「人の為」はわかるけど「国の為」はよく分からない。そもそも「国」の定義はなんなのか、聞きたい。(石川浩司)

そうですね。自殺に見えて、自殺でない、ということもありますね。 あと、国のため、ということについてですが、国とは国民、つまり国民の平和のためということです。でもジョンレノンが言っているように、国なんてなくなり、どこどこの国民、なんていう言葉もなくなり、世界がひとつになればいいなあ、といつも思います。(田仲)

国民・・・でも、沖縄戦ではきっと、本土の人達は、ただ自分の土地から離れている、要するに見えない、ということだけで、沖縄の人を犠牲にしたと思う。その時、「沖縄の人も、我が国民」という意識は低かったような気がしてしょうがない。あと「日本は単一民族」という発言が政治家からあったけど、アイヌの人達や、先程の沖縄=琉球の人達も「民族」は違う気がする。逆に、在日朝鮮人二世なんてのは、日本で生まれて、日本語しか喋れない人もたくさんいるのに、「日本の国民」としては、選挙権がないなど(税金は取るくせに)認められていない。この「国民」の定義については、どう思う? (石川浩司)

人は、間接的には、人を殺しているんだよね。本人も気づかないうちに。
例えば、一時期「ナタ・デ・ココ」というのが日本で流行ったでしょ。で、フィリピンだったか、「これは儲かる」ということで、凄く喜んで、借金して大きなナタ・デ・ココ工場かなんかを立てたら、あっという間に日本でブームが去って、注文が全く来なくなって、莫大な借金から自殺しちゃった人もいたらしい。
先日のバリ島のテロにしたって、直接の被害者はもちろんのこと、基本的に「観光で食べている島」だから、その影響で観光客が来ない=仕事がない=死ぬしかない、ということもあるわけだもんな。
「俺には関係ない」と思ってても、まわりまわった因果で、自分も人を殺している事は考えた方がいいかもね。(石川浩司)

石川さんの言うとおり、まわりまわったら、何が人を殺しているかわからないもの、ってありますよね。例えば有名人が自殺すると「後追い自殺」があったり。大企業が不祥事を起こしたおかげで、下請けの会社に仕事が入らなくなって、一家心中したり。直接手をくだしてなくても、「因果関係での殺人」ってありますよね。03/2/20(プヨ)

間接的な殺人って、ほんとに殺人と呼べるのかな?
間接的に自殺したりするのも、
最終的には、自己判断だし。
自殺も、自分の意思で死んでいける、唯一の手段で。
でも、思うのは、
この世こそが地獄であり、
死んだら楽になれる気がする。
でも、それを皆、深層心理では知っているから、
「お前だけ楽になるな」
という意味で、
「生き続けろ」
と言っているのではないかと思ってしまう。
だからと言って、自分から死ねる勇気もない私です。 03/2/24(ともこ)

もちろん法的には「間接的な殺人」は殺人じゃないけど、まわりまわって、死ぬしかない状態になる、ということはあり得ると思うよ。仕事がなくなって、住む家もお金もなくなって、餓死したり、凍死したり。そしてこれほど苦しいなら自殺しようとかね。自己判断では、いかんともし難い事態もあると思うなー。 03/2/24(石川浩司)

世界のいろんな国にいろんな法律があるけど「どんな場合も(戦争でも)人殺しだけは国連で違法」というのがあればいいのにね。何でそうならないのかも不思議。 03/3/10(プヨ)

もー、この際、全部「ジャンケン」で決めればいいのにね。それぞれの国のいっちゃん偉い人が。いっちゃん偉い人選んだの国民なんだから、負けたらあきらめて。但し、いっちゃん偉い人負けたら絶対に恨まれて暗殺とかされそーだから、なんかどっか南の島にほとぼりがさめるまでいられるとか決めてさー。 03/3/10(石川浩司)

私はよく人を殺したくなります。家族、友達、会社の人、あるいはテレビに映る人、ころしたくなります。瞬間に感情が高ぶり、こいつぅー刺してやるッ、相手を包丁で腹を刺すイメージが浮かび、、物を投げつけるにとどまります。周りがばとるろわいある戦国時代ならおおいに活躍したいです。いつでも自分の考えてる事が正しいと思います。じゃまな人間はいなくなれ。自分がかわいいです。皆、虫になって私の前で平伏せよ、と。こんなちっぽけな人間が人殺しをとどまるのは、人をころすとそのし返しはこわいです。人殺して商店街を歩けないです。瞬間の感情と他人の関わりで自分の人生とかそんなものふっとんでしまうのはヤです。今の競争社会では相手を蹴落として、障害になるのはいなくなればいいという、根底にはそんな意識が層をなしていると思います。  03/3/17(ミク100)

ミク100さんの「今の競争社会では相手を蹴落として、障害になるのはいなくなればいい」という思想わかります。「みんな死んじゃえー!」という気持ちも。本当に死んじゃったら、怖くて気が変になるだろうけれども。
 戦争から立ち直る時に、競争社会にして人の気持ちを鼓舞する教育はその時代には正しかったろうけど、その反動(?)が今来ているのだと思います。「教育の根本」ということを、文部省、いやすべての大人が真剣に考えねばならない時期にきてると思います。03/3/24(プヨ)

このメールが届くころには、アメリカはどうしているんだろう。
今日、「人間の盾」をやっていた人が亡くなりました。
世界中の人が、人が死んだら悲しい、ということは分かっているのに、どうして殺し合いはなくならないのでしょうか?
私には、誰かを殺してでも守りたい人がいないから、人殺しはだめだって思っているのでしょうか?
誰かを守りたい人がいる人は、いざというとき、相手を殺してしまうかもしれないと思いますか? 03/3/24 (ともこ)

「世界中の人が、人が死んだら悲しい、ということは分かっているのに、どうして殺し合いはなくならないのでしょうか?」
 答えは単純です。みんな自分が得したいから。それがその意識を上まっているから。
「知らない人」が死んでも心が本当には痛まないから。人類始まって以来、ずっとそう。
 この際、宇宙人にでも襲撃されて「地球ひとつで団結してがんばらねば駄目なんだ」ということでもない限り、戦争がなくなることはないように思う。 03/3/24(石川浩司)

日本では医師による「安楽死」は殺人になりますよね。でも私は、この考え方は間違っているのではないだろうかと思うのです。そう思うきっかけとなったのは、五年ほど前に深夜にNHKで放送されたドキュメント番組です。
海外では「安楽死」を治療の一環と考え、実践している国がありますよね。その国で一人の末期ガンの女性患者が「安楽死」を選択し、家族の同意を得て、家族や友人とのお別れから注射器で毒物を打たれ永眠するまでが記録されたものでした。
見た感想を一言であらわすと、悲しかった。でもその悲しみは、彼女がなくなった直後よりも、友人や家族とのお別れをする場面の方が大きかったです。なんでだろう?と考えたのですが、それは思い出や身辺を整理するところが悲しいのであって、不治の病に冒された人が、実際に死ぬと決めて身辺整理をすませ、自分の意志で亡くなる時には人は本当に安らかな顔をして眠りにつくという事がわかったからです。
苦しい死か安らかな死か。誰でもできれば最後は楽に死にたいと思うはず。いろいろな病気が蔓延している現代社会では「老衰」という死に方はほとんどなくなってきました。理想的な死に方=老衰だと私は思うのですが、それに近いものが安楽死なのではないだろうかと思います。
個人の希望をくみ取る死(日本では殺人)=「安楽死」ならば法的に処罰する事じたいが間違っているのではないだろうかと私は思います。
難しく書きすぎてしまいましたが、「安楽死」という名の日本における殺人は、いけない事ではないと思います。  03/5/12(たらこそば)

「安楽死」俺も賛成。ただ、患者の意識と意志がはっきりしているかどうかの確認が難しいかもね。 03/5/12(石川浩司)

この話題は単独で考えるのは難しいですね。

「人殺し」には、戦争だったり、憎しみだったり、恨みだったり、様々な状況が背景にあります。だから、ここまでの話で出ているような国家とか社会とか病気とか、大きなナニカとの関連を抜きにしては考えられないように思います。

たまたま、今私たちが生きている時代と社会で、法律によって人殺しが禁じられているだけで、人の命の重さが顧みられなかった時代や社会もこれまで地球上にたくさんあったのではないでしょうか。

幸いに、今は人殺しが悪だということが社会の共通認識になっている時代なので、この時代が少しでも長く続くように次の世代に伝えていきたいです。  03/5/19(わにこ)

魔女狩り、人柱、姥捨て、それから生まれたばかりの赤ん坊を水死させたりするのも、ほんのちょっと前の時代には、いちいち「殺人」とは言ってなかったもんな・・・。 03/5/19(石川浩司)

話がいろんな方向に発展しているところ、腰を折るようで申し訳ないですが、最初の質問をした方に逆に聞いてみたいのです。本当に分からなくて質問しているのか、と。
中学生くらいの子供が、大人を困らせようとしているように見えるのです、私には。
そしてそんな貴方には、簡潔かつ的確な答えが用意されています。それは、
「法律で禁止されているから」。  03/5/26(匿名希望)

それはひとつの分かり易い正解ではあるね。
 でも、法律って変化するからね。
 例えば戦争になったら「敵を殺さなければ違法」だからね。難しい。 03/5/26(石川浩司)

匿名希望さんの意見を受けて私も一言・・・・・。
「なぜ人を殺してはいけないのですか」という本があります。出版社は幻冬社でヒュー・ブラウン著書です。著者は、北アイルランド紛争の元テロリストだったのですが、あるきっかけで牧師に転向しました。読んでみて下さい。話題名を見たときからこれのことかな?とずっと気になってたのですが、この本の存在をご存知なのかなぁ?わりと有名な話題作です。 03/7/14(たらこそば)

気になるHPがあったので紹介します。ここの4月8日の書き込みを見てください。視点が少し違うのは戦う人だからなのかな・・・。 03/7/21(たらこそば)

http://www2u.biglobe.ne.jp/~wongwen/kojin/diary/2003/4.html

自殺は咎めません。
上に出てた『間接的な殺人』も自殺なので咎めません。
でも、他人に直接自分の命を左右されるのは癪に障る。
世の中の大半がそう思ってる事はわかる事なのだから、殺人はやるべきではないです。
恨みがある殺人は、一度これを許すと世の中で殺人が当たり前になりかねない。
そんな物騒な世界は嫌です。
だから人殺しはいけません。
じゃあ恨みはドコにぶつけるのか、というと。
殺人以外で恨みの解消する方法(拷問)はいくらでもあるのだから、それを法律で決めればよろしい。
てのが理由つけた考えです、、、、、が、別に理由が無くても殺人は気分が悪いからダメです。 03/7/21(勾丞)

単純に殺されたくないなら、殺してはいけない、と思います。
人と人の関係はフェアでありたいです。(サボテン)

「殺されたくないから殺してはいけない」この意見は素晴らしいと思った。でも、自分は殺されたくないけど「こいつ、殺してやろうか?」と思ったことがあるのも事実。理性が働いているから思うだけにとどめられるけど、その限界を超えたときに人は行動するのだろう。その後に後悔しても死んだ人は帰ってこないという事実を一瞬だけ忘れて・・・・。03/7/28(たらこそば)

戦争とかで上からの指示で殺人を起こさなければならない場合や金銭目当ての計画殺人等以外、ほとんどは瞬間的に精神状態がおかしくなって結果的に「殺人」になってしまうのだと思うなー。 03/7/28(石川浩司)

戦争とかで人を殺すことを命令されて殺していて、癖になるというか人殺しが趣味になる人もいるのでしょうね。要するに精神の極限状態では、人の理性なんざあてにならないということです。人殺しを快感だと思う人はみんな口をそろえて言います。「人が泣き叫び助けを求める様が楽しくてたまらない」この状態はいじめにも通用するものがあると思うのですが・・・・。 03/8/4(たらこそば)

あると思う。SMの「S」状態にも近いかも。 03/8/4(石川浩司)

SMのSが極限に達したときに、人は狂気に身を委ねるのでしょうか。ちょっとケースは違うけれど、不倫相手の性器を切り取った阿部定の事件については、私は共感できるものがある。好きすぎて気が狂うのは理性じゃ止められないもんなぁ・・・・。 03/8/18(たらこそば)

Mの方も「俺の首をしめてくれ。・・・もっと強く!」とか言ってて本当に事故で死んじゃうことあるらしいしね。何事もほどほどに。 03/8/18(石川浩司)

近頃通り魔が多いですね。誰がいつ被害者になってもおかしくない。
殺人は殺された人は勿論、周囲の人も悲しむのでよくないです。
でも、自分が殺さなければ、相手に必ず殺されるから止むを得ないという、いわゆる正当防衛はあってもいいと思います。03/8/18(たにし係長)

動物に対する殺生についてですが、ガンジーはこう言っていました。
「生きるために殺すのはいいが、味わうために殺してはならない」
 ガンジーの説法自体、性善説的な部分を大前提にしているので、あてはまらないこともでてきますが、
 対人間については、こう言えると思います。
「生き延びるために殺すのはいいが、楽しむために殺してはならない」
 私は、資本主義の名の下に搾取され貧しくなり、結果、生き延びるために殺人を犯した人を頭ごなしに否定することができません。03/8/18<ブルヒータ>

人は人を殺しては、何故いけないのか。

それは、
殺された人が死んでしまうからです。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、喋ったり、唄ったり、
食べたり、動いたり、考えたり、愛したり、しなくなるからです。

何も残らなくなるからです。

病気や寿命で死んでしまうのとは異なる死に方をするからです。
突然いなくなってしまうからです。
生きている人が、生きている人を死なせるからです。

みなさんのレスを読んで他の問題についても色々考えたのですが、
全く考えがまとまらないので、一応、
何故いけないのかについての自分なりの意見のみを書きました。
まとまったらまた投稿したいと想います。03/9/8(カヲル)

当たり前すぎて、こういう疑問が人の口に上ることが信じられません。
それから、自殺は咎めませんが、できることならやめて欲しい。一番身近にいた人をどれだけ苦しめることになるか、一度よく考えてからにして欲しい。それを凌駕するほどの苦しみなら仕方がありませんが、せめて遺書を残してからにするべきです。私が高校生の時に末期癌の祖父が無理矢理退院してきました。昼間は母が仕事(自営業)をしながら看病、夜は私と妹が徹夜で看病していました。でも昼間は学校があるので全く寝る時間がありません。3日ほどすると限界が来た私達の様子を見計らって、祖父は夜中に家を出て入水自殺をしました。そして私達はお葬式の日に親戚から人殺しと呼ばれました。すぐそばにいながら何をやっていたんだ、と。あまりの辛さに記憶を封印してしまったのか、そのことを思い出したのはごく最近です。 03/9/8(のん)

私なりの答えとしては、「自分は人から殺されたくないし、殺された人の家族や身近な人がとても悲しい思いをするのでいけないと思う」と考えていました。
それに関連して、とても印象深い文章があったので紹介します。池田小児童殺傷事件の判決報道のあった日に毎日新聞の余録(朝日新聞でいう天声人語)に書かれていた文章です。(一部抜粋)

・・・(前略)▲哲学者の長井均さんは「なぜ人を殺してはいけないか」という問いを考察し、「私には愛する人などいないし、いつ死んでもかまわない」という人に倫理は無力だと述べている。まず自分の生を根本のところで肯定することこそが、あらゆる倫理の基盤なのだ(「これがニーチェだ」講談社)▲だから子供には道徳を教えるより先に、人生が楽しいということ、自分の生が肯定されるべきものであることを体に覚えこませることが第一だともいう。(後略)・・・   03/9/8(冷凍バナナ)

人殺しは何故いけないか… 愚問です。至って自己中心に考えての発想ですね。人の命を殺めるということは、どういうことなのか。まずは自分の命を絶ってみて、実体験してから考察してみては如何でしょうか。それがどういうことなのか、自分に置き換えて考えれば容易ではないでしょうかね。戦争も然りです。戦争を起こす人は概して戦地に行かなくて済む人々ですからね。また、宗教戦争と言われるものも、その実態をよくよく調べると経済・利害関係が殆どです。フィリピンで頻発している宗教間トラブルと言われているものも、その地域にその後にドコの国の企業が進出しているのか調べれば、答えは見えますよ。暴動や紛争を装って正当化していますが、その裏には必ず利害があります。参考までに、現在も尚続くフィリピン政府による迫害状況を撮影した映画の監督による講演録の参照を添付します。
http://www.ipe.tsukuba.ac.jp/~s0201912/amnesty337/takaiwa-2002/02_taka_kouenroku.html

話が逸れて恐縮ですが、人を殺す前に、人を殺さんとする己を殺すべきが、平和への一歩になるのではないでしょうか。己を殺せないなら、人を殺すべきではありません。03/9/22(匿名希望)

私が人を殺さないのは、法律で禁止されてるとか殺したい相手がいないとかいろいろあるけど、本当の理由はたぶん「寝覚めが悪い」から。例外はあるだろうけど、大抵の殺人者は死体(の特に目)を隠すんだそうです。人間って人間を殺したら平気でいられないと思います。どんなに想像力を働かせても今の私には平気でいられる人の気持ちが理解できません。

戦争に行って人を殺すくらいなら自分が死ぬほうがましだと思います。自分の大事な人が人殺しになるのも嫌。 03/10/21(うろたえ太郎)

確かに戦争の時は「人殺し」法律で禁止ではないものね。というか逆に「敵を殺さない」事が法律的に罪に問われる。
所詮、法律ったって、ちょっとした状況の変化で簡単に変わる物。そんなテキトーな物、盲進してやってられっかっ!! 03/10/21(石川浩司)

きっと人が人を殺すとそれが習慣になってしまうからじゃないでしょうか。麻薬と同じような感覚に陥ってしまうのだと思います。法律で殺人が良いということになれば、人類はいなくなってしまう。 03/10/27(めめ)

俺、絶対人間の肉は旨いと思うしな~。特にデブ。あっ! 俺は体の中に、カメムシたくさん入れておくからな! 不味いぞ。ムシャムシャ食うのはやっ、やっめろ~。あっ! あぁーーーーーっ!! 03/10/27(石川浩司)

9/8のバナナさんの引用に思わずうならされました。
最近多くなっている、簡単に人を殺したり傷つけたりする若い人たちの事件と、「自分の生を肯定できない」ということとは深い関連があるように思います。自分を大切にすることができなければ、他人を愛したり大切にしたりすることも難しいですよね。03/11/04(わにこ)

人殺しは何故いけないのか?・・・表面的には「法律で決まっているから」かな・・・と思うのですが、じゃあ、もし法律が変わって、たとえば、無差別に殺しまくるのは別としても、「理由によっては殺人も認められる」なんて内容の法律になっちゃったらどうだろう・・・?
それでも私はやっぱり人殺しはダメだと思います。
じゃあ、どうしてか?
「人の命を奪う権利はない」から?かなぁと思います。

でも私たちは他の生き物を殺しています。それは食べる為、皮をとる為、剥製を作る為、実験の為・・・、目的は色々ですが、命を奪っています。中には面白半分に生き物の命を奪う人もいます。「面白半分に・・・」というのはともかく、そういう動物の命は奪ってもよくって、何故人間はダメなのかというと・・・やっぱり分からないんです。

食べる為ならいいのなら、人も食べる為なら殺してもいい?
実験の為ならいいのなら、人も実験の為なら殺してもいい?
やっぱり、私はいけないと思うんです。
でも他の動物ならいいんですよね・・・?

結局、「何故人殺しはいけないのか?」という問いに対する私なりの本当の答え、自分が納得できる答えは分かりませんでしたが・・・「法律で禁止されてるから」「人の命を奪う権利はないから」かなぁ・・・と思います。
何だかよく分からない文章になっちゃってすみません。03/11/04(冷凍みかん)

最低限の人としての決まり、と思いたいけど極悪な犯罪者には死刑賛成者の方が「インディアンケート」とかでも明らかなわけで。ということはやっぱり「人を殺してはいけない」と矛盾するし。むむ。03/11/04(石川浩司)

わたしも9/8の冷凍バナナさんの引用文を読んで、自分の子供に道徳より先に生きる喜びを与えてあげなきゃと気付かされました。
 殺人についてですが、一個人が、平穏に暮らすひとりの人間を故意に殺すなんていうのはあっちゃいけないと言いたい。その殺人者にもいろいろな事情やそこにいたるまでの背景があったかもしれない。そこで、その殺人者個人の理由によって、被害者やその家族から未来をうばってしまうのだから、当然わたしは死刑があっていいと思う。残された人がその後どんな苦悩の人生を送ることになるか。
逆に殺人者の家族だってみなさん引っ越しされて嘆きの人生を送るのでしょうし。
 死刑はそのあやまちの重さです。 03/12/22(杏)

ただ「どこからが死刑か」の判断基準が難しいかもね。通常は本当に「死刑」になるのは3人以上殺した場合(もちろんケースバイケースだけど)で、それまでは無期懲役ぐらいらしいね。しかし恩赦等で早ければ数年で出てくることもあるらしい。
 また「大量殺人」の場合ははっきりいって、ある種の精神異常。「人殺しをしなければ我慢出来ない」状態は明らかに病気でしょう。それは本人の自覚で直るものは少ないように思える。つまり本人がコントロール出来ない精神状態の病気で殺してしまったのに死刑になる。それを考えると俺は殺人者の方も可哀相だと思う。そういう人がそういう状態にならないような精神病研究が進むことを願う。 03/12/22(石川浩司)

そうですね。判断基準は難しいですね。ただどうしても被害者側の立場に立って考えてしまうので、高ぶる感情から見かたが偏ってしまうんです。なんでこんなめに合わなきゃ行けないの?って。このような判断基準でむやみに意見すべきではないですね。
わたしが短大の頃、ちょうど宮崎○の連続幼女殺人事件があり、やっと逮捕されたとき友人らと絶対死刑だといっていたところ、ある先生が講義中に「わたしは今回の事件で、犯人は死刑になるべきでない。彼も人の子である」というようなことを言ってました。あのときも精神鑑定はかなりやったようですが、病気から起こってしまった事件は不慮の事故として受け止めるべきなのでしょうかね。03/12/29(杏)

俺は正直そう思う。被害者の人にはかわいそうだけど。03/12/29(石川浩司)

女性の人工妊娠中絶、つまり堕胎も、実質的には殺人です。
死刑執行と人工妊娠中絶の二つは、現在日本国内で行われている合法的な殺人です。04/1/5(ぱるる)

そしてきつい話しだけど、一部の重度精神病院でも事実上殺人に近い行為が行われている場合がある。だけど、家族にも見放された人達なので告訴されることもない・・・。04/1/5(石川浩司)

有名な殺人鬼エド・ケンパーは殺人は人間の伝統だと言いました。ケンパーはバイキングを例にあげてたけど、バイキングは討ち取った敵の首を晩さんの席に飾ったりしたし、戦国時代の武将も敵の首をさかなに酒盛りした。大昔の人間に言わせれば「誰も死なずに平和なんてありえねえ」じゃないでしょうか。
今の世の中、平和、人類愛とか言うけど、結局、大きなものに反逆しないようにうまく操られてるに過ぎない感じ。それも、みんな意識的に我慢してるワケじゃなく、無意識レベルの話で。「平和、自由、平等、人類愛」。それは単に無意識的レベルで、そういう人間が人間である証しであるところの衝動に抑圧をかける呪いの言葉ですね。人類の希望なんかじゃなく、臭いもの(人間性)に蓋をする重石。
みんな表面的に良い人に見えても、でもそれが実は抑圧的なだけなら、しかも、その抑圧のキーワード「平和、自由、平等、人類愛」をほとんどの日本人が口にしてるわけで、怖いです。一見平和に見えてもその実、みんな我慢してるだけ。だからその分、弱い人間に矛先が向いて、イジメが陰惨になるんじゃないかな。
このスレと関係なくなってきた 04/1/12(正)

いやいや、なかなかいいところついてるよ。04/1/12(石川浩司)


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