話題4 人殺しはなぜいけないか(2)



***レス(発言は古い順に並んでます)***


正さん>破壊衝動というのは確かにあるでしょうね。実際、平和な日常というのは我慢することだらけなわけでして。岸田秀さんが、「ものぐさ精神分析」という本の中で、日常では自分よりも金持ちだったり地位が高い人も、戦争では銃一本で殺してしまうことができる、という事実は、人間にとっての無意識的な快感であり、だから戦争を手放すことは出来ないだろう、というようなことを(確か)主張しています。確かに、空襲は、大邸宅もボロ屋も同じように焼き払います。日常では努力に努力を重ねなければ絶対に手に入らないような家も車も、焼き払われます。金銭面への劣等感、というのは、そのような光景を喜んでしまうのかもしれません。
 ぼくが思うには、戦争がなくなるためには、おそらく、永井均さんの引用にもあるように、一人一人が自分の生を肯定できるような世の中になればいいんだと思います。言い換えると、みんながあんまり我慢しなくなれば良いのではないでしょうか。勿論、人生というのは少しは我慢しなければいけないのかもしれないけど、それをできるだけ少なくしていくこと・・。というか、我慢することも肯定してしまうようになればいいのかもしれません。人生なんて思うようにいかないのが当たり前だ、というラインからスタートすることが人生を楽しむコツかなあ、と最近考えています。その思うようにいかなさを楽しむというか。このことは「精神異常」と「自己責任」の線引きが難しいことともつながっているのですけど。
 人殺しはなぜいけないか。全感情をこめて、「いけない」と言える人間になりたいなあ。(長くてすいません) 04/1/19(真心)

「思うようにいかないのが当たり前だ、というラインからスタートすることが人生を楽しむコツ」共感するね。思い通りに何事もいったら、こんなつまらない世の中ない。04/1/19(石川浩司)

倫理的に「いけない」ということがどういうことなのかがそもそも難しいです。殺人のような猟奇的な犯罪を「ひどい!」と感じる感性から考えれば厳罰に処して再発を防ぐ、ということになるのはあたりまえですが。やっていることは同じなのに、戦争では犯罪にはなりません。「それはおかしい。」と思うのももっともです。じゃあ、やむをえないかどうか、ということも考えなければならない。たとえば正当防衛。たとえば暴力を振るう家族に対する、「窮鼠猫を食む」的な殺人。(これは日本では情状酌量されることが多くなってきましたね。)たとえば介護に疲れた殺人や「保護責任者遺棄致死」(介護放棄による死)。たとえば、子育てでテンパっちゃった母親がつい子供に振るった暴力で死に至った場合。(やむをえないとまではいいませんが、こういうのが、なつかない継子に対する児童虐待と同じように扱われるのはどうかと思います。).........などなど、場合によりいろいろです。まあ法律関係者は精一杯アタマを使っているでしょう。そして、どの場合にせよ殺してしまった人の心の中がどうなっているかはさまざまです。たとえ殺さなければ殺された、という場面であれ、たとえば、大河ドラマで小次郎を殺した直後の武蔵が昭]困蛤?佞僚??判于颪?賁未?△蠅泙靴燭?△里Δ里Δ函∋笋楼??覆い伴?箸鮖?辰討い蕕譴襪發里?靴蕁△隼廚い泙垢諭?覆發舛蹐鷯?]困鮖Δ気佑佗霏△?Δ気譴討い燭錣韻任垢??肪單直?了?錣糧反佑了犒瑳?竜せ?舛忙蠅辰討倭杼?發任?泙擦鵝被害者のことを考えれば、さらに複雑になります。こういうこと全てを思い、こういうことが無くあってほしい、と思い、まとまらない気持ちにカタを付けたい願いから、「人殺しは(全て)いけないことだ!」という叫びになる............私の気持ちは、こんなところです。
人の死、特に最も関係の深い人の死が、最も強いトラウマになります。さまざまな酷い目にあうことや嫌な思いにも増して。........... 04/1/19(かづ)

えっと、話題と違うのですが途中が文字化けになっているのはうちのパソコンだけかな? 04/1/19(石川浩司)

倫理的に「いけない」ということがどういうことなのかがそもそも難しいです。殺人のような猟奇的な犯罪を「ひどい!」と感じる感性から考えれば厳罰に処して再発を防ぐ、ということになるのはあたりまえですが。やっていることは同じなのに、戦争では犯罪にはなりません。「それはおかしい。」と思うのももっともです。じゃあ、やむをえないかどうか、ということも考えなければならない。たとえば正当防衛。たとえば暴力を振るう家族に対する、「窮鼠猫を食む」的な殺人。(これは日本では情状酌量されることが多くなってきましたね。)たとえば介護に疲れた殺人や「保護責任者遺棄致死」(介護放棄による死)。たとえば、子育てでテンパっちゃった母親がつい子供に振るった暴力で死に至った場合。(やむをえないとまではいいませんが、こういうのが、なつかない継子に対する児童虐待と同じように扱われるのはどうかと思います。).........などなど、場合によりいろいろです。まあ法律関係者は精一杯アタマを使っているでしょう。そして、どの場合にせよ殺してしまった人の心の中がどうなっているかはさまざまです。たとえ殺さなければ殺された、という場面であれ、たとえば、大河ドラマで小次郎を殺した直後の武蔵が小次郎と懇意の女性と出会う場面がありましたが、のうのうと、私は悪くないと自身を持っていられるものかしら、と思いますね。(もちろん小次郎を殺さねば武蔵が殺されていたわけですが。)
池田小の事件の犯人の死刑囚の気持ちに至っては想像もできません。
被害者のことを考えれば、さらに複雑になります。こういうこと全てを思い、こういうことが無くあってほしい、と思い、まとまらない気持ちにカタを付けたい願いから、「人殺しは(全て)いけないことだ!」という叫びになる............私の気持ちは、こんなところです。
人の死、特に最も関係の深い人の死が、最も強いトラウマになります。さまざまな酷い目にあうことや嫌な思いにも増して。........... 04/3/1(かづ)

破壊衝動てのは大きな意味で何かを生み出す原動力でもあると思います。だから否定的に扱われちゃうそういう人間の一面、そのすべてを「悪」といっかつして、社会ぐるみで否定するのはあまりいい傾向じゃないと思います。なぜ世間の人達が問題ないものと卑劣なものの区別が出来ないのか不思議ですね。

ぼくは殺人や暴力を全肯定はしませんが、全否定もしません。いい、悪いとかじゃ簡単に決められない、もっと深いものだと思うし。暴力を考えることは結局人間のことについて考えることと同義だと思うし。でも何だろ、たいていの人はいつ自分が被害者になるかわからんとか言って嘆きますが、じつはいつ加害者になってもおかしくないという可能性もあるのに、それには触れないんですね。
なんていうか罪を犯した人と自分を区別したいんでしょうね。ヘンタイ殺人鬼と自分が同じ人間だとは思いたくない。なぜそう思うのか??
「殺人願望の心理学」なんて本がありますが、そこにおもしろい一節があって「人が何かを批判している時、その人がどんなことを批判してるかよく観察する必要がある。その人が批判するもの。それはその人自身に禁止されているものである」なんて言ってます。

まあ、人殺しの念てのはその人の置かれてる状況とかも関係あるでしょうね。幸せなら誰か殺したいなんて思わないだろうし。でもぼくはそうじゃないのでw 嫌いなやつはブッ殺していいんだ!!とは言わないまでも、殺す殺されるなんてしようがないじゃん、なんて思ってます。でも俺も幸せになれば変わるのかな?? 04/3/1(正)

まさか自分が人を殺すなんて考えていなくても車で人を轢き殺してしまうことがあるかもしれないし、今まで経験したことのない発作的な感情にみまわれて、結果殺人を犯してしまうこともあるかもしれないしね。 04/3/1(石川浩司)

死刑制度について思ったんですが、
親族ができる「敵討ち」の正当手段ではないでしょうか?
同じことをすれば、自分も殺人者になってしまう訳ですから、
それが唯一、許された方法かと思います。04/3/8ともこ

まぁ現実問題として「仇討ち」が復活するのは難しいと思うけど、今の法律ってあくまで「加害者への反省及び制裁」だけで、被害者側への措置がないがしろにされてるよね。04/3/8(石川浩司)

飛び込み自殺などで人を殺めざるを得ない仕事している身にとっては、人の死は意外と身近にあります。グシャグシャになった遺体を扱うのも仕事です。いくら仕事上やむを得ないといっても、人によっては呵責に苛まれ、精神を病んで仕事を変えざるを得ない状況になる人もいます。人を殺しても良いと思っている人は、人を殺した事がある人にお話を聞いてみては如何でしょう。それが不可抗力であったとしても、人を殺した人の呵責は相当なものです。人の死を生で見てきた人ほど、戦争など理由はどうであれ人殺しを否定します。そういうものだと思います。 04/4/5(匿名希望)

戦争に駆り出されて、一生精神状態がおかしくなる人も多いらしいしね。 04/4/5(石川浩司)

アルカイダってどちらかというと現代社会に起こるべき組織だったのでしょうか?
全然話の流れに関係なくてごめんなさい・・・。  04/4/12(勾丞)

アルカイダについて知識のある人、お願いします。教養ないもんで。  04/4/12(石川浩司)

人殺しについていつも思うのは、殺された人は、産まれた時、親や兄弟と楽しんだ時、喧嘩した時、人生で色々な事が起こっていて、これから先も色々楽しい事があるのに、一瞬でそれを奪われてしまう。と考えると、とても切ない気持ちになってしまいます。
アルカイーダの事は詳しいですが、長くなるので次の機会にでも。(笑)04/5/10(ペロ)

ちなみにインド(ヒンズー教)では「来世信仰」があるので、人が死んだり殺されたりしても「それも今回の人生。次をもっと楽しめばいい」と考えるらしい。そしてバリでは「新しく生まれるんだね、おめでとうっ!!」とみんなニコニコでお祝いするそうだ。死生観は難しい。(石川浩司)

それじゃ、インドでは殺人罪とかは軽い罪になるのかな?インドの人教えて~。04/5/24(ペロ)

インドの人見ていたら教えてね。でもヒンズー語だと文字化けするので日本語でおっ願いしっま~す。ナマステ。04/5/24(石川浩司)

簡単なようで簡単じゃない問題だと思います。
置かれている環境によって、変化するものではと私は考えます。
基本的には、絶対人なんか殺したくないし殺されたくないと思っています。もちろん子供にも、理屈抜きで「人を傷つけてはいけないものだ」と教えます。

平和に草だけ食べて生きていけたら、それが一番平和とも思います。でも私は菜食主義者ではないので、動物の肉を食べて栄養にしています。だから、究極の場面では鶏の首を自分で締めて食べたりはしそうです。それがエスカレートすると・・・正常な精神があればしないでしょうが、大切な人を守る為に殺人を犯すってことは考えられますね。
理想は平和主義者ですが、現実派かなりエゴイストだと自負します。仲間や身内がかわいい・・・。

でも、自分がより贅沢する為の人殺しは意味が無い。怖いと思います。今の日本は少しずつ、自分が贅沢する為にだれかを殺しているのでは・・・と思うと空恐ろしい気持ちになります。でも具体的にどうしたら良いかなんてのはわかりません。判らないけれど、考えつづけて行こうと思いました。

自殺の話がでていましたね。私は自殺を否定できないです。生きているほうが辛いことってありますもん。精神病での自殺は、止められるものと止められないものがあるように思います。がん細胞のように、ぶわっと病が広がったとき、他人ができることはあまり無いのかもしれない。判らないけど。
自殺しないで生きていけるか、自ら命を絶ってしまうかって、その人の持つ運の強さや生命エネルギーで大半が決まっているようにも思います。自殺しやすいタイプの人がいて、生きるか死ぬかってのは、交通事故に遭う確立と近いものを感じます。

尊厳死は認められるべきだと思います。無意味な延命治療は、逆に拷問や金儲けにしか感じられないし。残された人は、ただただ、悲しい。それはわかります。
でも人はいつかは死ぬのです。

中絶も、やむをえないこともあると思います。
ただ、5ヶ月(正式には確か22週目)までは「物」あつかいで、一日でもすぎたら「人」として扱うというのは、難しい問題だと思います。中絶となるか、殺人者となるか。
中絶や以前行われていたという間引き。悲しい現実だと思います。子供を実際に持ってみて、それらがどんなに身を切られるように苦しい出来事だったかと思うと、本当に切ない。
こけし人形って、子消し人形って由来だそうです。
可愛くない人形だなーって昔は思っていましたが、そんな簡単なもんじゃなかったんですね。

一生懸命考えてみました。
長文で読みづらかったら失礼。
たくさん皆さんの意見がありましたが、私はnorizonaさんの意見に同感です。
生きることに意味を見つけ出すことが人にとっての命題であり、故に答えを探しつづける。
人は動物であり、人になろうと努力する生き物なんですね。 04/8/9(きぃ)

ほとんど俺も同じ意見だな。ただ「贅沢をする為の殺人」はつまるところ大きく考えれば「領土をより多く持って資源を得る」という戦争の根元的な問題であり、昨今に限らず古来からのものかも。自殺、尊厳死は俺も同じ意見。中絶については宗教の問題(受精した時から人間とみなすか生まれてから人間とみなすか)も関係してくるから難しい。
 ちなみに何かの本だったか、それともこのホームページ上の誰かの投稿だったか忘れたけど「日本人は長生き」というのはある種の数字上のトリックで、キリスト教が強い国では、生まれても長生きしないだろうことが妊娠中に判っても中絶が基本的に禁止なので幼児の死亡率が高いので、結果、中絶を簡単にしてしまう日本人が「長生き」になってしまうとか・・・。04/8/9(石川浩司)

「なぜいけないのか」という問いの答えにはなっていないかもしれませんが、私は「人に殺される」という死に方だけはぜったいにしたくないです。
人が人を殺す場面というのも、ぜったいにみたくない・・・。
恐ろしいです。(ってやっぱ答えになってなかったですね。^^;)

自殺は殺人とはまた別の問題だと思います。
自殺もとても悲しいことだけど、
死ぬことによって本人は楽になれたんだって思います。04/8/17(りあ)

俺もテレビで人殺し(特に刃物)場面になりそうになると、カール・ルイスの早さで番組を変える。04/8/17(石川浩司)

一番簡単な答は「自分がされたくないことを人にするな」です。 04/9/6(のん)

長文ですみません。

人殺しは何故いけないのか。

人間は、地球上で一番勝手な生き物です。
人間の命が一番価値があると思っている。
それは何故でしょう?

私は、人は生きているだけで色んなものを殺しながら生きていると思います。
自分の意志に関わらず。生まれた時から、死ぬまでずっと。

人間は所詮動物なのです。それなのに、自分が他の動物より優れてると思っている時点で、他の動物より愚かなのです。

今、世界で、飢えを案じずに生きている人間は実に少ないのです。
日本で私達は、何日も飲まず食わずで、明日の命さえわからないという状況にある人は、いるとしてもごく僅かだと思います。
それどころか、お金があれば、好きな物を食べられるという人が殆どでしょう。

「生命の維持に必要な最低限だけ殺すのは良くて、味わう為、楽しむ為に殺すのはいけない」
という話がありましたが、それなら、美味しい料理を味わう事は罪です。
私達日本人が、必要最低限の食事だけし、それ以外の食料は今この時飢えに苦しんでいる膨大な数の人達に与えればいいじゃありませんか。それができるのに、それよりも、自分が美味
しい物を食べる楽しみ=娯楽(自分の命に関わらないのですから)を選んでいるのだから、た
くさんの人達が助かる事より、自分が楽しむ事を、自分で選択していると言えないでしょうか?
それは、自分の意志で、たくさんの人を殺している事にならないだろうか?

他人の為に苦痛を味わうより、己のその瞬間の欲望を優先するのは、当然だと思います。
人間は所詮動物なのですから。己の身を守るのが動物にとって一番大事なんですから。
そんな事、人間以外の動物はちゃんと知っています。それを自覚せず、人間が一番情け深い
生き物なんだと思っている時点で、人間は他の動物より劣っていると私は思うのです。

人間は生きているだけで、多くの動物、人間の命を、意識するしないに関わらず奪いまくって
生きていると思うのです。

本当は、人間は多すぎるので、地球の為には、数が減った方がいいのだから、地球レベルで考えれば、人殺しはむしろ正しい事とも考えられるかもしれない。

しかし、私はだからと言って人殺しを肯定しているわけではありません。
良い、悪い以前に、生きる=殺人行為なのではないかと思うわけです、ある意味。

実際私も生きているだけで、人を殺しまくっているわけです。そう思っていながら、自責の念にかられて自殺をする事もせず、生きているのです。
それは、私がそれだけ愚かな生き物であると自覚しているからです。生きるとはごう慢な行為ですが、生き物、殊に人間はそういうごう慢な生き物であると思っているからです。だから人
間である私が、ごう慢にも生きているのは仕方ない事なんだ、と思っています。

長くなりましたが、人間は生まれた時から数えきれない物を犠牲にして生きています。
ええ、それはもう、自分の命と引き換えにしてもぜんぜ~ん足りない位に。
だからこそ、生きている事は罪であると同時に、仕方ない事なのです。

と、私は思います。あくまで私の意見です。

もう一度言いますが、だからと言って決して人殺しを肯定しているわけではないのです。
良い、悪い以前の問題で、何も殺さず生きる事などできないと思うという事が言いたかったのです。  04/9/6(紫ローズ)

例えば「何もしないこと」ですら、間接的にそれによって遠い因果関係で死んでいく人もいる。また、もっと直接的には自分が発した「言葉」(チャットや掲示板等も含む)が自分が気づかないところで相手の神経をおかしくし、結果的にその人を自殺なりに導いてしてしまうことだって可能性はある。すべての人間は殺人者だ、という認識があまりにもなさすぎることは俺もよく思う。  04/9/6(石川浩司)

それと、人殺しには理由があると思います。
戦争中の人が、人殺しに快感を感じるようになるという話、私は理解できる気がします。
カタルシスみたいなもので、人を殺したくないのに殺す以外に選択肢がない場合、初めは人を殺すという行為が苦痛でしょうが、それを苦痛のまま続けるのは、あまりにストレスになります。そしてそのうち生きている事が苦痛で仕方なくなり、生きている事ができない精神状態になるかもしれません。そして最後は自殺してしまうかもしれません。
そうならない為に、本能的に自己防御作用が働いて、次第に人殺しを楽しい、快いと感じるようになり、そうなる事で精神の破綻をま逃れるのではないかと思います。
つまりは生きる為にそうならざるを得なかった、生存本能が働いた結果である可能性があると
考えられます。

幼い頃虐待を受けた者が、痛みを快感に感じるマゾ資質をもつ人間になる事があったりするのも、これと似ていると思います。それを受け入れるには、生きる為には、必要な事だから
そうなるのだと思うのです。

戦争中の話でなくとも、例えば理由のないように見える猟奇殺人だって、元を辿れば、犯人の
幼児期のトラウマが原因だったりする事が多いし、何の原因もない事はないのです。通り魔だって、例えば犯人が凄く被害者意識を持ってる事が多かったりする気がします。
全く理不尽に見える場合でも、何かしらの理由があると思います。実際、そんなに恨みがあるわけじゃない相手に対しても、殺意を持ったりする事はあります。知らない人が通り過ぎ様に言った言葉が自分に向けられたような気がして、殺意を抱いてしまう場合もあるでしょう。それは、その時の自分の状況とか心境も関係するでしょうし。
例えば、あなたにとって大事な人が自衛隊員で、イラクに行っていて危険な状況にいる時に、
電車の中で誰かが「イラクとかどうでもいいしー」「別に勝手に死ねって感じ」などと話をしているのを聞いたら、嫌な気分になりませんか?言ってる本人達は悪気があって言ってるわけではないでしょう。
ごく軽い感じで、何も考えずに言ってるだけでしょう。その場に、大事な人がイラクに行っていて心配している人がいる事を知っていたら、そんな話しなかったかもしれません。でも、そんな事わかる筈ないし。
その話が面白可笑しく笑い話のネタとして続けられれば続けられる程、貴方は嫌~な気分になりませんか?
それが殺意の原因になるならないは個人差だと思うので、置いておいて。

知らず知らずのうちに人に嫌な思いさせていたり、誤解を与えていたりする事って多いと思います。
また、例えばあるアーチストの曲を聴いて、とか、ある映画を見て、人を殺したくなった、または人を殺してもいいんだ、と思った事がきっかけになって起こる殺人もあると思います。
曲や映画だけでなく、誰かの言葉とか、行動とか、表情とか、何が引き金になるかわかりません。
私がこうして書いてる文章を読んだ誰かが、人殺しをしたくなってする可能性だってあるのです。
そう、可能性はいくらでもあるのです。やるやらないはおいといて。

だから、理由があるんだから人を殺していいのか、というと、私はそうは思わないのです。
ただ、あまりにも、加害者は加害者としてしか見られない気がします。
殺した事自体は確かに良くない。でも、元をただせば、その加害者も実は被害者だった、という事もあると思います。虐待は自分の意志で受けていたわけではないし、戦争で人を殺したくないのに殺すしかない状況も自分の意志ではないし。人を殺すとか傷つけるとかしたら完全に
悪と判断されるのは、ちょっと浅はかな感じがします。

ちなみに、過激な映画、漫画、本、ゲームなどは、犯罪を誘発する恐れがあるという理由で、
見たり聞いたりするのが規制される場合があります。しかし、犯罪を誘発する可能性は、どこにでも、いくらでもあるのです。どんな事が、人の心理にどう影響するかはわからないのです。
それは、感じ方は人それぞれで、同じ事をされても物凄く怒る人と全然気にしない人がいるの
だから当たり前なのです。過激な映画、漫画、本、ゲームなどがある故に起こらないで済む犯罪だってあるでしょう。
そう考えると、重要なのは、それを見たり読んだりする人の感じ方、考え方であって、それを左右するのは、育った環境とか、生きてきた過程とかなんじゃないかと思います。

とにかく、殺人は絶対駄目、どんな事があってもやらない、と今思っていても、もし違う環境で育ってきたら、もし状況が変わったら、と考えると、”絶対”とは言えないように思います。
で、私は自分が殺されるのは嫌です。多分殺されるのは嫌だという人が多いんではないでしょうか?
で、私は人が嫌がる事ってすすんでしたくはないです。それと、人を殺したら自分が苦しむと
思います。という自分勝手な理由で、人は殺したくありません。
自分勝手だけど、でも、常識とか法律とか曖昧なものよりは、まだ確かな理由だと思います。

でも、さっきも言ったように、あまりにも抑え切れない殺意を抱いてしまった時は、思いとどまれる自信はありません。やってしまったらその後後悔しきれない程後悔するだろうと思うので、やりたくはありませんけど。

やりたくてやるわけじゃない殺人て多いんじゃないでしょうか?
その時の感情をコントロールできなくて。もちろん、できればどんな時でも感情をコントロールできればいいんですが、私はそんなできた人間じゃないんで、全く自信ありません。
04/9/6(紫ローズ)

戦争の時は殺さなければ殺される。殺さないで殉死するのが優しさなのか、殺して生き残って世の中を変えていく方が真の優しさなのか。それは自分で決めることだ。 04/9/6(石川浩司)

それと、自殺についてですが、私は自殺が駄目、とは思いません。

生きるのが辛くて、死ぬより辛い人がいて、その原因が解決できない事の場合もあります。
そういう人に、生きるのを強要するのは、わがままではないでしょうか?
自分が、その人がいなくなったら寂しいとか、それは自分の都合です。
自分の都合で、「私の為に、苦しくてもどんなに辛くても生きててくれ」と言っている事になると思うのです。
もちろん、大切な人などが死にたいと言ったとしたら、嫌だと思うのは当然です。
私は、「自殺は駄目」ではなく、「大切な人が死ぬのが嫌」と思います。
そして、それはあくまで自分のわがままだと思っています。自分がもし生きているのが死ぬより辛くてたまらなかったら、人の寂しさとか悲しさに構ってられないと思うし。
自殺する人は自分の人生なんだから、自分の勝手にする権利があると思います。
自殺しちゃ駄目だと思う人は、自分が自殺しなければいいんであって、それを人に強要する事は違うと思う。
だから、自分の大切な人が、死にたいと言って、それが死ぬ事でしか解決できない事だとしたら、悲しいし嫌だけど、それは私のわがままであって、誰が悲しかろうが何だろうが引き止められない位生きてるのが苦しいのなら、その人を「間違っている」と言って責める事なんて、
私にはできないと思います。自殺は駄目というのは、あくまで生き残った自分が辛いから、悲しいからだと、私は思います。
だから、私は、「自殺は駄目」とは思わないけど、大事な人には自殺してほしくないです、自分が辛いから。  04/9/6(紫ローズ)

俺もその通りだと思う。「生きている状態の方が辛い」というのは経験したことのない人には理解しずらいだろうけど、絶対にあるものなのだ。よく「精神が弱いから自殺に走るのだ」などとしたり顔で言う人がいるが、社会的にも芸術的にもすぐれた作品を残した多くの小説家や画家などが自殺で亡くなっているが、彼らはむしろ人より強靱な精神力を持っていたと思われる。そういう人間が何故自殺という道を選ぶことが多いのかを考えた方がいいかもしれない。 04/9/6(石川浩司)

ちょっと話はずれるのですが・・・
「人殺しは何故いけないのか。」という子どもの問いを、危険なものとして扱う大人たちがいます。
しかし、このような疑問をもつことが本当に危険だとは思いません。根拠の曖昧なルールを疑うことは自由であり、また疑い、何故かと考えることによってその対象をより信じることもできるはずです。疑問をもつからといってそのルールを守らないということではないのです。また、軍事研究者=反平和主義者でもないと思います。  04/9/6(Rio)

一番大事なのはどんなことも疑問に思って、自分で考えてみること。「○○は絶対××だ」は例え大多数の人が正しいと思うことであれ、その思想の押しつけはつまるところ新興宗教の洗脳と何ら変わらない。「教育」の名の元に「当然」と思っていることをもう一度自分なりにどんな単純なことであれ、考え、例え頭ででも咀嚼してみることはとても重要なことだと思う。  04/9/6(石川浩司)

死について考えるのは大切なことだしみんなが同じ結論を得られることもないしその必要もないでしょう。
ただ、親しい人の死は痛いです。親しい人の死で痛んでいる人を見聞きするのも痛いです。(「悼む」じゃないですよ。)我が事のように痛みを感じられるということはとても大事なことだと思います。
ひとそれぞれ、どういう状況(事件とか事故とか自殺とか病気とか老化とか)にビビッドに反応して共感するかというのは経験によるものが大きいでしょうけど、例えば子供たちには他人の死を重大事件として心が響く人になってほしいと願います。
テレビゲームで敵を殺したら死んだ敵のことは普通考えないでしょう。昔の、実際の戦争に行った人の話では逆に敵との間に生々しい人間的な気持ちのやり取りが(まあ現場の兵隊は両方とも極限状況におかれているから共感しやすくなっているんでしょうけど)あるらしいとよく聴きます。死のリアルさが、社会的に低下している(リアルさをあまり感じない人が増えている)としたらそれこそが深刻な問題なのではないかと思うのです。04/9/13(かづ)

バーチャルリアリティが進み過ぎて「現実」と「空想」の境が子供はもちろんのこと、大人だって怪しくなってる。この現状を打破する何か良いアイデアはないのかな? 04/9/13(石川浩司)

もし自分が「衝動的に殺してしまったら?」と考えると怖いですね。
酒で酔って因縁つけて、逆に殺されると言う事件もありますね。
酒って、覚せい剤よりこわいドラッグですよね。04/9/13(ペロ)

確かに。俺も酒飲みだから禁止は嫌だけど、実際危険性、習慣性などほとんど変わらないと思う。覚醒剤だって昔は「睡眠をあまり取らなくても受験勉強が出来る薬」などとして「良い薬」の宣伝で売られていたわけだからね。 04/9/13(石川浩司)

私も、どんなことでも自分で考えてみるのは良いことだと思います。今はネットの普及やマスコミなどで情報がすぐ手に入るようになっているけど、結局自分は何を考えているのだろうと思った時、じっくり一人で考えてみたり、人と話してみると言うのは大切だと思います。
本当は、なぜ人殺しはいけないかのテーマで両親や兄弟とも話してみたいです。でも、実際にはちょっと気が引ける・・・。それは、頭ごなしに私の意見を否定しそうなので話にならないことが予想されるのと、私に頭がおかしいというレッテルを貼られそうで怖い(というか不愉快)からです。
ですので、一部の友人とここのHPの人だけですね。私の意見を公表したのは。まさに「王様の耳はロボの耳ーーー!!!」です(笑)04/9/13(きぃ)

ほーんと「情報操作」で人を惑わすなんて政治の基本だし。また日常生活で一般人だって自分に都合の悪いことはあまり言わないでしょ。これだって軽い無意識の情報操作だもんね。 04/9/13(石川浩司)

「人殺しはなぜいけないか」この質問に私はあやふやさを感じます。というか私の意見がまとまりにくいので この質問を1、「人殺しはなぜ禁止されているか」に変えて意見を述べさせていただきます。
1、についての考え

A 社会(世論)において人殺しは禁止(いけないことと)されています。大きな理由は禁止しないと 社会運営がスムースにいかないからだと思います。怨恨による殺人だろうと快楽殺人だろうと、 いかなる理由でも社会運営を妨げる殺人は万引きが禁止されているのと同様禁止です。
つまり戦争(少なくとも防衛戦争)や死刑制度、正当防衛は社会運営を妨げないもしくはスムースにする のでこれらの人殺しは禁止されないわけです。

B 個人の内面において人殺しはなぜ禁止されているか。理由は当然人それぞれです、刑罰を恐れたり、相手やその家族を考えたり、罪悪感を感じたりして人殺しを禁止するわけです。 ここまで長々と書いといて恐縮なのですが私の意見は少なくとも個人の内面において、人殺しはいけないことでは ないと思っています。人の内面において禁止事項などないと思っています。人を殺すのも強姦するのも万引きするのも禁止されていません、常に選択肢(権利ではない)はあるけれどもただ選択しないだけというスタンスです。

だから人殺しはなぜいけないかと問われれば社会的にはAだけけれども君個人は人殺しがいけないことだと考える必要はないと答えたいですね。04/9/21(?)

>つまり戦争(少なくとも防衛戦争)や死刑制度、正当防衛は社会運営を妨げないもしくはスムースにする のでこれらの人殺しは禁止されないわけです。について。
 まず防衛戦争と言うがそもそもAという自分の国とBという敵国があったとして「Bが攻めてきたので防衛した」という論理だろうが、Bに言わせれば「いや、30年前にいきなりそちらが攻めてきた」「いや、それは50年前にそちらが攻めてきた事への復讐だ」「馬鹿な。元々100年前に・・・」ときりがない。「本当の防衛戦争」の定義が曖昧。
 死刑制度について。カンボジアのポル・ポト政権時代を例にとれば「学があって、今の政府に反乱するかもしれない」というだけの理由で、あらゆる大学生や知識人をそれ以外の理由なく「死刑」という名の殺戮をした。国の全人口の3分の1という莫大な人数の殺戮を。旧ソ連などでも時の権力者にはむかう者はそれだけで死刑になることなど、枚挙に暇がない。それ以外にも「冤罪」ということもあり、難しい。
 正当防衛についても基準が曖昧なケースも少なくない。
 これだけ取ってみてもいかに「社会運営を妨げる殺人」といっても、人によって時代によって取り方が違うかがあるかわかると思う。 04/9/21(石川浩司)

こないだ、香田さんが、殺害される映像を見てしまいました。。
難しいこといえないけど、人殺しはいやです。 04/11/8(魚、)

人殺しは特殊な人以外は普通誰でも嫌でしょう。でもいろんなしがらみで、見えないところで間接的にみんな誰かを殺してる。例えば選挙で知り合いが立候補していて、ただそれだけの理由で投票した人は自分が人を殺すなんて考えもしてないと思うけど、その人が当選して、自衛隊派遣に賛成の派閥に入って、結果的にイラクで一般市民を巻添えで殺してないとはわからないからね~。 04/11/8(石川浩司) 

友達同士での会話の中において「殺す」とか「死ね」とかの言葉が出ること自体がたとえ冗談でも生理的に嫌です。でも最近街を歩いてる時とか電車の中とかでそういう言葉をよく耳にします。しかも笑いながら言ってる…。
人殺しはなぜいけないのか、そんなことはごく当たり前だと私は思っていたのですが、そういう疑問が人の口から出るようになったのはここ10年くらい。それと同時期くらいから子供による殺人が増えてきているような気がします。これってなんとなく関連があるような気がします。 04/11/15(のん)

テレビの影響が大きい気がするな。たぶん「殺す」とか「死ね」とかはダウンタウンあたりのお笑いの人の影響だろーね。で、俺は子供の殺人が増えたのは、教育のような気がする。そのひとつは子供のけんかを「暴力」ということですべてストップさせてしまったのが、逆に子供の時に憶えなければいけない「どの程度のことをしたら、またされたらどの程度の痛みがあるのか」を学べない為、その加減がわからず一気にMAXの殺人にまで至ってしまうケースが多い気がする。俺は人間の根本的な欲求の見地からも「子供はある程度のけんかはすべし」と思っているんだけど。まぁ、女の子の場合はちょっとわからないけれども。どう思う? 04/11/15(石川浩司)


この話題の(3)に行く
この話題の(1)に戻る
王様の耳はロボの耳に戻る
石川浩司のひとりでアッハッハーに戻る