テキトー日記02年10月(1)

文章中の文字の色の違うところをクリックすると、詳細が見られたり、リンクに飛ぶぞ。

 10月1日(火)

 台風だったのに、頭弱かったので、一番いい傘さして町に出て、壊れた。バカサ。
 妻は、骨だけさしていた。バカサ。
 ひさしぶりの、すごい台風、かっこいい。

 林真理子「そうだったのか・・・!」読む。

 10月2日(水)

 ライオンメリィさんバンマスの「メリィズ」今年もライブ。そのリハーサル、たまスタジオにて。
「ぼちぼちさすがに年令が・・・なので悩殺下着姿は今回が最後です」
 なんて、さみしい事言わないでよ、メリィさーん。
 ベースは「マルコシアス・ヴァンプ」の佐藤君。

 「イカ天」を見てた人達は、感慨深い物があるだろう。あの番組史上伝説的な「対決」相手が10数年の時を経て、同じバンドにいるのだからなー。
 もっとも本人達は、視聴者が見ているほど、「対決」したという意識はない。だって、勝った負けた、といってもはなから音楽性が全然違うんだもの。俺達も毎週毎週勝ち抜いていったのは嬉しかったが、それは「勝つ」ことより「また別の曲を見せることが出来る」というのが最大の喜びだったもんなー。
 だから、5週目は、実は負けにいったのだ。
 だって、勝っても負けてもこれで見せられる演奏は最後(5週勝ち抜くと「グランドチャンピオン」になり、出場は最後となる)、ということならいっそ裏をかいて「普通の演奏じゃなくやろう」ということで、ギター一本であとはボーカルとコーラスだけ、というほとんどアカペラに近い演奏(「まちあわせ」)をしたのだ。俺だけランニングで、あとのメンバーは背広で正装、背筋を伸ばして合唱団、という意表を突いた格好で。でも、何故か勝ってしまった。別に自慢とかじゃなくて、だいたい、すでにそのそれは「バンド」とは素直に言える形態じゃないじゃないか! 負けるつもりで出た本人達が一番びっくりした。

 で、その時の対決相手がマルコシアス・ヴァンプだったわけだ。ちなみに対決相手とは、その週に出た10組みのバンドの中から、一番点数の高かったバンドが選ばれるが、すでにその時マルコシはインディーズ界では大御所で、演奏も群を抜いていた。
 で、結果たまがそれでも勝ってグランドチャンピオンになったわけだが、これほどの演奏力を見せたマルコシをこのまま敗退させてしまうのは、あまりにも惜しい、ということで審査員代表の萩原健太氏が異例の「暫定的チャンピオン」として負けてはしまったのだけれども、マルコシを残す、という特別措置を取ったのだった。これが「見事な采配」として、当時喝采を浴びた。
 結局、その後マルコシも他を寄せつけない圧倒的かつ怒濤の演奏力を見せて、俺達の次のグランドチャンピオンにまでなったのだ。
 そしてその中でも一番目立って、なおかつ超絶テクニックを見せていたのがベースの佐藤君。
 佐藤君のバカテクと俺の馬鹿テク・・・一体どんなライブになるんだーっ。
 ちなみに佐藤君は、リハーサルの時もあのトレード・マークの白手袋は、はめてたよーん。

 源氏鶏太「大出世物語」読む。

 10月3日(木)

 BUBKA原稿書き。
 ポッカコーヒーの「猪木缶」「たけし缶」「ガクト缶」を買う。
 夜は、近くに出来た「サイゼリア」にR君と行く。

 戸田健夫・松永偵郎「水は旅して」読む。

 10月4日(金)

 事務所にて、来年の正月に発売予定の「温故知新」ビデオシリーズ「きゃべつ編」「犬の約束編」のチェック。これも一般発売(CD屋さん等)の予定はないので、ライブ会場か、通販、もしくは「ニヒル牛」で買ってね。
 ちなみに「さんだる編」「ひるね編」も打止めが近いので、欲しい人は、今を逃すと買えなくなるので注意ね。本当はどのCD、ビデオも廃盤にせずに販売し続けたいのだけど、生産ロット上等の問題で、なかなかそうは出来ないのだ。ご了承下さいな。

 あと、要望が多くても、メジャーで出した作品(CD・ビデオ・本等)は、出版権がそのレコード会社・出版社等にあるので、たま企画室には基本的にどーすることも出来ないのだ。なので、そういう要望がある人は、レコード会社等に直接手紙等出して下さいな。反響が多ければ、レコード会社等も動くかもしれないので。よろしゅう。

 中島らも「超老伝・カポエラをする人」読む。

 10月5日(土)

 眼精疲労で頭痛いよー、めそめそ。きのうは事務所で延々5時間くらいビデオ凝視して、それから家に帰ってまた延々パソコンで調べものとかしてたからなー。ちゅうわけで、寝とくわ。

 「谷川俊太郎詩集」読む。

 10月6日(日)

 BUBKAの取材で新三河島へ。いつもこの取材は、編集者とイラストレーターと、ふたりの20代の女性を従えて町を散歩する、という企画だから、はたから見たら、ジゴロですかな? ほっほっほ。

 後、ひとりで夕暮れまで谷中墓地でボーッとする。幽霊が出る前に帰宅。
 ねじめ正一「青春ぐんぐん書店」読む。 

 10月7日(月)

 初台・DOORSでしょぼたまライブ。
 本番前、時間があったので、近くの「不動通り商店街」へ。
 「なんでも勝利」という屋号の八百屋があったが、一体、何に勝利するのだろうか。・・・あ、「なんでも」か。それとも「なんでもカツトシ」と読むのかな。どちらにしろ意味がわからんなー。

 古くからあるような「純喫茶 車」というのがあって、
「あぁ、こういうところ、山中さんとかが好きなんだよなー」
 と思って、ひょいと店の中を覗いてみると、当然のように山中さんがいる。
 俺は無言で店に入ると、下を向いて一所懸命物を書いていて、何も気づかない山中さんのテーブルを挟んだ前の席に座り、
「御相席、よろしいですかな。」
 と低い声で渋くつぶやいた。
 席はいっぱい開いているのに、突然男が前に座ったので、一瞬、ビクッとして、おそるおそる顔をあげた山中さんがおかしかった。

 山中さんをおどかした後は、銭湯へ。
 と、背中一面に見事な入れ墨をした若者がふたりもいる。
 ところがふたりとも、髪型とか顔とかは、全然普通の大学生、といった感じなのだ。
 というか、服を来たら、ちょっと弱々しそうな若者に見えるかもしれない。
 なんとなく、おどおどしているようにも見えるし。いかにも、カツアゲとかされそうなタイプだ。
 こんな彼をもしカツアゲしたら、きっと彼は静かに服を脱ぎ、やおら、
「こういう者だけど、いいんだな。」
 と急に顔つきも変えてドスを効かせた声で言われたら、まさしく、小便ジョージョー漏らして、
「お見それしやしたっ!!」
 だな。「静かなるドン」を地でいってるな。

 さて、今日のライブは「日本アセアン交流なんとか」という冠がついていて、ベトナムのバンド「レイン・イン・フォレスト」との共演だ。で、これがなかなか良かった! 口で弦をくわえて、括りつけた木を動かしながらビヨンビヨン鳴らす楽器があって、音も間抜けなら、それを恍惚とした表情でまじめに弾いている奏者の姿形も間抜け。他にもいろいろ間抜けな音のする楽器があって、間抜け好きな俺達はやんやの喝采。
 最後は一緒にセッションで、向こうからの希望で「ふるさと」を演る。堂々とした日本語の歌いっぷりで、1番を「レイン・イン・フォレスト」のお姉さんが歌い、その後を俺達に歌え、ということだったが、歌詞が全然わかりましぇーん。ということで、ベトナム人に歌詞を書いてもらって、それを見て歌ったのさー。はははは。

 清水義範「発言者たち」読む。

 10月8日(火)

 西荻・ターニングで大谷のライブのソロゲスト。
 しかし、いつもの如く、大谷のゲストの時は楽器はいらない。
 何故なら、常に「即興パフォーマンス」での出演だからだ。
「ケモノ・パラダイス」という曲の時は上半身裸になり、胸にマジックででっかく「ケモノ」と書き(ちなみに、自分で書いたので『ノ』の字が鏡文字になってしまって、本番前に楽屋であわてて書き直した)、ケモノになって、大谷や、他のメンバーにじゃれついたり、
「ケモノはお水がダイチュキ!」
 と叫んで、ライオンの形の水鉄砲で、大谷を中心に、メンバーや客に水鉄砲を撃ったりした。
「ガリバー」という曲では、ガムテープを用意し、
「ガリバーは、こびと達に縛られましたっ!」
 と言って、大谷の足とかをテープでぐるぐる巻きにしてやった。
 と、大谷が、
「あっちにもケモノがいるぞ!」
 と坂本弘道の方を指差した。
 これには困った。俺は「即興」とはいっても、(もちろん全くの即興の時もあるが)基本的に小道具とかを使う時は、事前に「こんな風にやろう」と多少は考えているのだ。まぁ、俺も大人だしな。
 で、大谷は立ってギターを演奏しているので、足をぐるぐる巻きにしたところで、演奏に支障はない、とふんで足に巻いたのだった。
 しかるに大谷が指差した坂本さんは、確かに風貌は誰よりもケモノだ。というか、ケモノそのものだ。
 しかし座ってチェロを弾いているので、縛るところがない! チェロは大きな楽器なのでほぼ全身を使って演奏しているので、へたなところを縛ったら、演奏が出来なくなってしまう。さすがにそれはルール違反なので、ハタ、と困ったあと、一ケ所だけ、巻けるところがあるのに気がついた。
 頭だ。
 フランスの新聞に「アフロのチェロリスト」と書かれ、
「俺はアフロじゃねえ! ただのくせっ毛だっ!」
 と何故か本人が怒っていた、頭だ。
 しかし、ステージの流れ上、大谷に指名されたとあっちゃ、どこかは巻かなければならない。一瞬躊躇したが、俺は坂本さんの頭をターバンのようにグルグル巻きにしていった。

 その曲が終わり、大谷の弾き語りのようになったので、俺も坂本さんもいったん楽屋に引き上げる。そして、ガムテープを剥がそうとしたが・・・剥がれない! 無理に引っ張ると、頭全部がすっぽ抜けてしまいそうだ。悪いことに、テープは紙ではなく、布製だったので、粘着力も強力だったのだ。少しずつ剥がしていくが、
「いてえ、痛いよー」
 とかわいそうだった。俺もハサミとかを使って、少しずつ取って行ったが、遅々として取れない。
 と、そうこうしているうちに、また坂本さんの出番が来てしまった。
 しかも今度は「ケモノ」や「ガリバー」のようなお馬鹿ソングではなく、しみじみとした、まじめな曲だ。
「くそーっ」
 と言いながら、彼は中途半端にガムテープがひらひらと残った、最高に格好悪い頭でステージに出ていき、まじめにチェロを弾いていた。
 限り無く、間抜けな光景だった・・・。

 利根川裕「喜屋武マリーの青春」読む。

 10月9日(水)

 事務所にてバリツアーの打ち合わせや、「たま通信」作り。せっせかせー。

 源氏鶏太「浮気の旅」読む。

 10月10日(木)

 急に寒くなった。俺の皮膚感覚には「春」と「秋」なんてぇ、中途半端なものはねぇ! (男らしいっ!)
 ってことで、Tシャツ一枚からいきなりジャージに半纏を着込み、そして扇風機のコードを抜いて、ストーブをガンガンに焚いた。これ、まじ。

 エンリケ・バリオス「アミが来た」読む。

 10月11日(金)

 渋谷・青い部屋にてしょぼたまライブ。サエキケンゾウさんプロデュース、司会はかとうけんそうさん。トークショーなどやった後、特別ゲストの、この「青い部屋」の大ママ、作家でシャンソン歌手の戸川昌子さんも、「たま」にからめて「玉乗りの歌」を歌ってくれたが、曲紹介の時、耳の悪い俺は、
「『玉の井の歌』ですか。昔の赤線の歌ですね」
 と言って、
「馬鹿! 「玉の井」じゃなくて「玉乗り」だよっ!」
 と一喝されてしまった。が、歌いながら俺の頭を撫でてくれて、久しぶりにちょっと照れくさかった。

 かとうけんそうさんには、デビュー前から本当にお世話になっている。
 インディーズのナゴムレーベルでたまがレコードを出した時、すでにライターとして活躍していたけんそうさんは、宝島、スコラ、シティロードなど数々の雑誌に「今、このバンドが面白い!」と書いてくれたり、イベント等も企画してくれた。
 たまの初インディーズ・アナログ・シングルが、いきなり帝都無線(インディーズの置いてある大手レコード店)のシングルチャートで1位になったのは、けんそうさんの功績だろう。正直言って、「さよなら人類」がメジャー・チャートで1位になった時よりも嬉しかった。もっとライブで動員の多いバンドはいくつもあったのだから、けんそうさんの影響としか考えられない。
 「イカ天」に出たのだって、それが自信になったから応募した、ということもあったかもしれない。とにかく、けんそうさんには、本当に感謝!

 椎名誠「ハマボウフウの花や風」読む。

 10月12日(土)

 昼は妻の実家で甥と遊ぶ。あんまり遊んでくれなかった。
 夜はニヒル牛のスタッフで、「ニヒル牛ナイト」というイベントの打ち合わせ。
 夜中、明日からの旅行の準備。3時頃、何気なくインターネットのニュースのページを見ていたら、バリ島のクタ地区でテロらしき爆発があり、10人が死亡との一報。
「男の人の首がピューと飛んでいくのが見えた」
 と報道も生々しい。いやー!! 首ピュー嫌ーっ!!
 あのー、明日からファンクラブツアーで行くのは、まさにそのバリ島のクタ地区なんすが・・・。

 大谷英之・淳子「ありがとう大五郎」読む。

 10月13日(日)

 インターネットのニュースを更新する度に、死傷者が増えていくので、とても眠れない。心配症の俺は、夜中の3時にはマネージャーにメールで「たぶん中止だろうけど、その場合、せめて急遽何かイベントだけでも出来ないだろうか?」とメールを打ったが、我慢ならず朝4時頃、マネージャーを電話でたたき起こして相談する。
 が、まだ旅行会社もやってないので、どうなるかわからないとのこと。朝の連絡を待って、でも、もう北海道や九州からこの為に上京している人もいるだろうから、とりあえず成田までは、例え中止になろうが、行こうということにする。朝7時、わずかな睡眠をとる為寝る時には、死亡は100人に膨れ上がっていた。
 
 午後、空港に着くと死亡は180人に。
「これは中止だろう」
 と思ったら、案に違えてツアーは決行、という旅行会社の判断。
 何故なら、空港も閉鎖されておらず、国からの「危険勧告」も出されていなかったからだ。
 国が危険勧告を出せば、おそらく特別措置として中止にしても、旅行代金等返ってくるのだろうが、それがない今の現状では、ただの「旅行当日キャンセル」になってしまい、各々が支払った20万円近い旅行代金はほぽ全額フイになってしまうのだ。
 ちなみに、外務省が「危険勧告」を出したのは、これから3日後。ツアー最終日前夜だった。対応が遅すぎるんじゃー!! 意味ねーぞっ!!
 そして、それでもお客さんは、
「お金が戻って来なくても、危険なので私は行きません」
 ということが言えるが、俺達メンバー・スタッフは、このツアーが仕事なのだから、いくら不安を感じていても、
「やめます」
 とは言えない立場だ。最悪、死を覚悟しての「楽しいツアー」。
 「ファンの人と遊ぶのが仕事とは、いい稼業ですな」
 と嫌味も言われるかもしれないが、それだけのリスクもちゃあーんとあるのだ。
 結果的に、ツアーは最後まで無事に行われたが、もしも何かあった場合、誰が悪いのだろうか・・・。
 ちなみに、地方から出てきた人とかは、全くニュースを知らない人もいた。
 そして結局、キャンセル者も出ず、飛行機は、オーバーブッキングになるほどの満席だった。

 夜中、バリ到着。空港に危険な気配はなく、全くいつもと様子は変わらない。思ったほどの暑さはない。
 ホテル(ラマダ・ビンタン・バリ)の部屋は広々していて、基本はふたりずつのツインなのだが、人数の関係で俺はシングルの部屋。
 何故か、キングサイズのベッドには枕が3つ並べてある。こっ、これは、両側に女をはべらせろ、ということか!? おっ、俺の体力では、ふたりはちょっと・・・。

 大原利雄「中国ひとり突撃旅行記」読む。

 10月14日(月)

 朝から、観光ツアー。ガイドはスパルタさん。
「昨日の事件の時、私すぐ近くのレストランの2階にいたんですよ。2階は壁のない吹き抜けだったんで問題なかったですが、1階はガラス張りだったので、そのガラスが突き刺さって怪我した人、いたようですね。でも本当は最初、その事件のあった店に行こうとしたんですよ。でも駐車場が満杯で、別の店にしたから、助かりました。神様のおかげです」

 バロンダンスを鑑賞、その後は恒例の土産物屋めぐり。もちろん俺はキョーミないので、そこらの路地をジャランジャラン(散歩)ひとりでしていた。牛がのんびり歩いている。

 やっとスーパーに寄ったので、缶ジュース大量購入。そしてイーグルスのCD17枚が1枚のCDにMP3形式で入っている物を300円で購入。自分で買っておいてなんだが、これじゃ、ミュージシャンも浮かばれないよなー。10年以上かけて作った物を1枚に入れられちゃって、なおかつもちろん海賊版だろうから、本人には一銭も入らない。もし、たまのMP3作って売っている奴いたら、指の爪を一枚ずつ、ベリッ、ベリッと剥がしてやるからなっ!!

 夕方まで観光して、夜はデラックス・スイートルームを一室借りきり、そのリビングで秘蔵ビデオ観賞会。本当は、会議室のようなところを借りることも出来たのだけど、
「出来るだけ、メンバーとリラックスして、友達感覚でビデオを見てもらおう」
 という企画からこうなった。みんな飲み物やつまみ(「メロンの種の緑茶味」が意外にうまかった)を持ちよって、ソファーに座るもの、床にあぐらをかくもの、寝っ転がるものと、自由な格好で観たビデオは、
「ライジング・サン・ロック・フェスティバル及び北海道でのローカルテレビ出演」
「テレビ版『室温』の演奏シーンのみ、ノーカット版」
「『電波少年的放送局』出演」
 いずれも、著作権がテレビ局とかに属するので、発売とかは出来ないし、こういう形で見せるしかないものばかりだ。
 バーカウンターもあったので、バーごっこもして、
「お客さん、飲み物のおかわりはよろしいですかな?」
 とかやって遊ぶ。

 しかし客観的に見ると、「たま」と「しょぼたま」は結構違うなー。特にGさん。「たま」では「青い靴」等のベース・ソロはバリバリのロックミュージシャンだが、「しょぼたま」で海辺を行進しながらピアニカを吹いている姿は・・・とても同一人物とは思えませんなー。

 吉村昭「冷たい夏、熱い夏」読む。

 10月15日(火)

 昼間は自由時間だったので、ひとりでバリに前回来た時通っていたマッサージ屋に鼻歌もランラン向かっていたら、突然バリケードと警官と無数の野次馬。
 そう、なんとそのマッサージ屋のあたりが、まさに爆発地点だったのだ。その近くの壁には、白い布が張ってあり、様々なメッセージが書かれていた。被害者の近親者らしき人の泣き顔の絵もあった・・・。そして爆風にやられたらしい猫の屍骸が道の隅に転がっていた。
 今現在、犯人もわかっておらず、犯行声明も出されていない。が、それが余計に怖い。どう気をつけていいかわからないからだ。被害者が観光客だ、というのも無気味だ。とりあえず、あまり大勢の人が集まっているところを避けることぐらいしか出来ない。足早に離れる。

 夕方からはケチャを鑑賞。終わった後、ダンサーと一緒にステージで写真を撮れるのだが、
「石川さんも一緒に写ってくださーい」
 で、俺もダンサーと一緒にずっとステージにいる。ダンサーは、何故この腹の出た変なおっさんをみんなが我も我もと懸命に写真を撮っているのか不思議だったろう。で、最初はファンクラブツアーの人と撮っていたのだが、いつのまにか俺に気づいた関係ない日本人達も、
「一緒に撮って下さい」
 で、(ゲーノージンよ、ゲーノージン)とこそこそ言われていた。
 そうか、俺はゲーノージンなのか・・・まぁ、もちろんファンクラブツアーしてるぐらいだし、テレビに出ることもあるからなー。そう思えばゲーノージンなのかもしれないが・・・なんか、すっごい違和感があるのは何故だろう。

 晩飯にレゴンダンスを観て、夜中は自由行動だったのだが、ホテルのフロントの黒板に、
「石川と夜中にプールでキャピキャピ遊ぶ会」
 を企画して遊び、さらにその後は他のメンバー達も来たので、三々五々海辺に集まり、なんとなく波や月を見ながらメンバーが時折ギターを鳴らしたりして、南国の夜を、ダラダラとみなで何時間も過ごす。こうしていると、とても「危険地域」にいるなんて思えない。平和な熱帯の夜だ。
 みんなで南十字星を探す。
 誰かが焚き火を始めたので、その上を俺が飛び跳ねたりして、まだまだ若い事をアッピールする。
 波の音だけが、高い。

 宇野千代「普段着の生きて行く私」読む。  
前回の日記を見る
振り返り人生(もっと過去の日記を見る)
石川浩司のひとりでアッハッハーに戻る