テキトー日記02年9月(2)

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9月16日(日)

 名古屋今池・TOKUZOにて「たまの温故知新 犬の約束編」ライブ。
 MCで最近忘れっぽいことを、
「ニュートロンがうまく働かなくて・・・」
 ってな事を言ったら、HPの掲示板で、
「それはニューロンではないですか?」
 と突っ込まれてしまった。ほほほ、馬鹿でーす。理科は苦手だったんじゃー。ま、理科だけじゃなくて、古文も、英語も、数学も、歴史も、体育も全部苦手だったけどなー。41才になってから、そのツケがくるとはな。トホホホホ。

 打ち上げで中華に行き、仕上げに「タンタンメン」を食べる。なんとなく、
「ただのひき肉ラーメンかー」
 ってな感じで、実は今までの人生で頼んだことがなかったのだ。
 だって、「タンメン」が野菜入りラーメンなので、その筋で「タンタンメン」はそのひき肉版だと思ったのだ。
 そしたら、ひき肉も確かに載っているが、スープが、俺が最も好きな胡麻の西洋風味ではないか!
 そして案の定、旨い! 素敵! ビューテホー!
 俺の最も好きなタイプの味だ。これを41年間も知らなかったなんて、なんて俺は馬鹿者なのだ。もおぉぉぉぉ、浩司の馬鹿馬鹿馬鹿!
 宣言します。俺の人生、これから「タンタンメン」に走ります。押忍。

 畑正憲「ムツゴロウの本音」読む。

9月17日(月)

 名古屋からバンで帰京。名古屋付近の高速のサービスエリアで「パチンコ饅頭」というのが売られていて馬鹿馬鹿しかった。すんげえ小さい玉状の饅頭なのだろーか? 買わなかったけど。でも、本当はパチンコ台って、ほとんどは群馬県の桐生市あたりで作られているんだよねー。
 海老名のサービスエリアも、江ノ電ショップはあるわ、日本テレビショップはあるわ、マッサージや美容室まで出来ていて、昔の立ち食いそば屋程度しかなかったサービスエリアとは、隔世の感。

 武蔵小山の辺で今日も早速タンタンメンを食べてから、写真スタジオに行き、来年の春に、近藤芳正さんらとしょぼたまでやる、ダンスのような、演劇のような、音楽のようなヘンテコな舞台「ダンダン・ブエノ『いなくていい人』」の宣伝写真撮り。
 
 芝木好子「冬の梅」読む。

9月18日(火)

 明日から中国なので、資料等調べる。しかし、中国だけは他の外国とは明らかに違う印象だったことを思いだし、単純に、
「海外旅行だ、ワーイ、ワーイ」
 じゃないイメージが甦ってきた。一度、三週間ほど上海、桂林、アモイなどを回ったのだが、何とも言えないカルチャー・ショックを味わった経験があるのだ。それもあまりいい意味ではない。ま、カルチャー・ショックを味わったということは、それなりに異文化を味わうという「旅」としての意味は強いわけで、それはそれで良いのだが、とにかく
「あと10年は、行かなくていいね・・・」
 というのが、一緒に旅をした人の共通の感想だった。何故なら、
・町はほこりっぽくゴミだらけで、至るところで人は痰や唾を吐き散らす事。しかも方向も全く考えてないで吐くので、へたすりゃ、こちらの体にひっかかる事。
・どこでも汚れた人がムアーンとあふれかえり、外国人と知るや、顔を10cmの近さまで近づけて、じっと無言で覗き込む事。
・物を買おうとすると、怒ったように物も釣り銭も投げ返す事。
・笑顔という顔の種類があることを知らない事。
・自分の肩にたまたま乗ったヌエという鳥を「千円、千円!」としつこく売りつけようとする事。
・腰の曲がった老婆が500円玉二枚と千円札を取り替えてくれ、と憐れんでいってきたので親切に取り替えてあげると、見せてくれた時は500円玉だったのに、渡された瞬間、その老婆の腰がピーンと伸びるや、物凄い勢いでピョーンピョーンと山の中に走っていくので、はて、と思って自分の手の平を見てみたら、どっかの国の、500円玉とそっくりの安いコインに化けていた事。
・歩いていただけで「この日本人め!」と怒鳴られた事。
・友達になって「飯をおごってやる」と言っていたのに、10人ぐらい友達を集めてきて、「猿の脳味噌鍋」を食わせて、会計の時になったら、「全部おまえらが払え」と言ったので「そりゃ、おかしい」と言ったら、刃物が出て来た事。
・トイレなんかも、とーぜんドアなんかなくて、武利武利と丸見えになっている事。
・一週間以上滞在した人は、全員、一度は病気になって寝込んだ事・・・。

 そして今年がほぼ、その10年目だ。ちなみに今回は「ニヒル牛旅行」。ニヒル牛を開店するにあたり、随分と友人に手伝ってもらったが、すべて無償だったので、
「お店がうまくいったら、どこか旅行でも奢るから」
 という口約束をしていたのだ。そして開店2年、まあまあ軌道に乗ってきたので、約束を果たそう、ということになったのだ。さぁ、果たして中国は変わっているのか、いないのか!?

 小田空「中国の思う壷(上)」読む。

9月19日(水)

 成田より北京へ。とりあえず、R君、島田さん、くす美さん、山中さんと5人で出発。俺達は夜の便だが、すでに昼の便で、亜古ヤン、門田さんも出発している。およそ4時間で到着。
 今夜の宿は、蒋介石の官邸をそのままホテルにした「友好賓館」。中庭のある、四合院造り、という古い建築様式だ。
 夜中12時過ぎ、近くのレストランで遅い晩飯。中華、ビール等とって、ひとり180円ほど。

 近くの雑貨屋で「牛乳瓶コレクター」の島田さんが、牛乳の亜流であるヨーグルト便を手に入れ、「トイレットペーパーコレクター」である山中さんが、不審気な顔をされながら、かわいいデザインの物を1ロールだけ売ってもらっていた。俺も缶ジュースを探して、目を皿にする。

 小田空「中国の思う壷(下)」読む。

9月20日(木)

 皆は早く起きて、朝飯を食って散歩もしてきたようだが、俺が起きたらやっぱり北京でも昼だった。
 胡同(フートン)と呼ばれる昔ながらの路地がホテルの周りに広がっているので、まずはそこをみんなとブラブラ散歩。「貧しくも楽しい」昭和初期的な雰囲気が、いい感じ。
 途中、肉マン屋があったので、でっかいのを一個買って、みんなはもう朝飯がすんでいるので、俺だけ、
「これが俺の朝飯じゃー うっまそうじゃのー!」
 と食らいついたが、それは「肉なし肉マン」だった・・・。つまり、皮の部分だけがギュッと中までつまっていて、餡が何も入っていない純粋饅頭だったのだ。うーむ、つ、通はこれを食うんじゃよ。ワッハッハー。

 湖のまわりを散歩していると、そのほとりに健康器具が、公園の遊具のように、点々と置いてある。これはその後、あちこちでみかけたのだが、アスレチック器具の簡易版みたいなもので、みんな自転車のようなものをこいだり、ブランコやシーソーみたいなものを懸命にやっている。
 中でひとつ、ボツボツのある回転板みたいなものがあって、「こりゃ、どーすりゃいいんだ?」と使い方を迷っていると、近くにいたお婆さんが教えてくれた。まずは、その回転板を思いっきり回し、そこに手を置くことによって、手のツボを刺激する、というものらしい。しかしツボを刺激するほど回転板に手を押し付けると、回転板の回転が停まってしまうという、なかなかに意味不明な器具であった。

 昼飯もそうだったが、晩飯も日本の感覚で7人分たのむと、量が半端じゃない。例えば、餃子ならひとり前が普通の大きさで約20個。他のものも、みんな大皿。泣く泣く残す。うわーん、「もったいないおばけ」が出るよー。
 でも、世界的に見たら、中国人が大食いというより、日本人が小食民族なんだろーな。ヨーロッパやアメリカも量が凄いもんな。
 ちなみにビールは1本約45円。で、晩飯は結局ひとり頭85円。安いとそれだけで幸せだなー。

 島田さんとサウナにマッサージに行くと、そこはベッドが100床以上も並んで、映画でみた、戦時中の巨大な傷病棟のよう。そこにみんな全裸で寝転がっていて、あっちもチンチン、こっちもチンチン、目の前チンチン。
「♪チンチンチンチン あ、それ、チンチン!」
 と歌い出したくなるような、「チンチン丸出し大会」の様で異様な光景。マッサージは高校生くらいの少年が450円くらいでやってくれたが、イマイチ。

 夜中に、健さん、クニちゃん到着。これで全員、9名のちょっとした団体になった。
 で、一見団体旅行のようだが、みな団体が嫌いな個人主義のやつばっか。
 なので基本的に晩飯を食う時と、行きたい場所がたまたま一緒の人が適当に待ち合わせする、といった、「多人数個人旅行」である。
 ホテルも、金のある奴はバトラーがつくようなホテルに、空港からリムジンを迎えにこさせ、金のない奴は、トイレシャワー共同のホテルにバス移動と、バラバラ。

 健さんの40才のバースディを祝って、食堂でピータン豆腐。で、これが旨かった! 日本のように豆腐の上にピータンが載っているのではなく、ピータンを練り込んで作った巨大な豆腐で、さながら健さんへのバースディ・ケーキのようだった。ローソクを立てたかったなー。

 ジュースは、日本のV6ならぬ、中国のF4というアイドルグループの顔写真入りのコーラを手に入れ、ほくそ笑む。

 伊集院静「三年坂」読む。

 9月21日(金)

 島田さん、クニちゃんと、路地の中にあるちょっとシャレた喫茶店で朝飯。でも、ほんのちょっとシャレただけで、飲み物とかがいきなり10倍の値段になるところが凄い。ま、それでも日本並みだけれど。

 しかし・・・はっきりいって、中国は変わっていた! 物凄く!
 数日前の日記に書いた杞憂はほとんどなくなっていた。
「えっ!? 10年でこんなに変わるものなの!?」
 というほどに。
 もちろん北京は初めて来た町で、以前は上海とかだったので単純な比較は出来ないけれど、おそらくは、10年前は8対2ぐらいの割合いで、「古い中国」と「新しい、国際的基準のような都市」だったのではないかと思われるのだが、しかし少なくとも、町の中心から数10kmに関しては、その割合いは全く逆転していると言っていいんではなかろーか。
 古そうな路地はほとんどが <
「エイエイ、壊しちゃえー、こんなボロッちいものー」
 ってな感じの壊滅状態と言ってもいいほど破壊され、雨後の筍の様な勢いで高層デパート、高層マンションがニヨッキニヨッキと立ち並んでいる。空き地なども、すべて、
「これからでっかいビル、まだまだおっ立てまっせー、やりまっせー、おらおらおらー!」
ってな基礎工事が行われていた。

 確か「マクドナルド」が初めて北京にお目見えして、ちょっとしたニュースになったのが5、6年程前だと思うのだけど、今では、大きな交差点を見渡せば、必ずといっていいほど、あの黄色と赤のマークが目に飛び込んでくる。
 日本にもないような巨大なショッピングセンターがあちこちに立ち、漢字の看板さえ見えなければ、いきなり目隠しでここに連れてこられて「ニューヨークだよ」と言っても信じてしまうかもしれない。

 しかし、建造物はまだわかる。2008年のオリンピックを控え、突貫工事を行えば、近代的都市なんて、1年で出来てしまう、ということは、日本がやはりオリンピックや万博といった国際的イベントで大きく町が変貌した実績もあることだからなー。
 しかし、もっと驚いたのは「人」だ。
 人に「笑顔」がある。
 痰や唾を吐いている人もほとんどいない。
 こういう、民族のアイデンティティにもかかわる、そのマナーすら、変わってしまったのだ。
 笑顔も自然で驚いたが、痰や唾は、どうやって直したのだろうか!?
 そもそも、急に今まで出ていた身体的な癖が、簡単に直そうと思って直るものだろうか?
 でかけた雲古をコーモン様からヒュルルと引っ込めるのと同じようなことだぞ。・・・出来るか!?

 そしてそれは「強制」なのだろーか?
 だとしたら、社会主義国の「力」が逆に、底恐ろしく感じられる。(その後、日本で知ったが、やはり痰吐き等は罰金制になったらしい。シンガポール並みだな・・・)
 今は確かにいろいろな意味でアメリカが一番、というのは悔しいけれど、認めざるを得ない部分がある。
 しかしこの中国の変貌ぶりを見ると、それが「中国」に変わる日も、俺が生きている間に起こりうるかもしれない。ちなみに、おおよそ日本の人口1億、アメリカ2億、そして中国は12億だ。それが本当に一丸となったら・・・。

 夜は路地にひっそりと隠された「幻のレストラン」とひと昔前まで言われていたレストランへ。「宮廷風家庭料理」とかいう、「どっちなんじゃーい!」という代物で、要は、政府の要人達が、「俺様はえらいんだけど、本当は毎日北京ダックなんだけど・・・こほん。今日はひとつ、庶民が食べる野菜炒めでも食べてみるかな」という店。前菜はさすがに凝っていたが、3000円くらい。日本の物価なら2、3万円、といったところか。

 それからホテルを変えようと、怪しい物好きの我々は、「中国紅十字会賓館」といういかにもスパイの本拠地のようなホテルへ。
 そして・・・怪しかった、確かに。
 何故なら、ホテルの前は巨大建造物の基礎工事中で、ミキサー車の脇を、横になってズリズリと、しかも泥水の道を、スルメのようにすり抜けなくては中に入れないほど警備が厳重で、なおかつどんな重大機密を隠そうとしているのか、その工事の埃がそのホテル全体を覆い、外壁だけでなく、部屋の中まで、もうもうと砂だらけ、埃だらけだったからだ。
 むむぅ、これでは何の秘密も探ることが出来ないデワナイカ! おっとろしき紅十字会の鉄壁さ・・・。
 そして、俺達は言った。
「明日、すぐここを出て、他のホテルを探そう」

 ちなみに、本題とは関係ないが、今、これを書いている(パソコンに打ち込んでいる)のは、「園明園」という北京郊外の公園の中のベンチなのだが、北京市内ではいくらこのiBookを開いても、ほとんど歩行者がチラリと横目で見て通り過ぎていくだけだったのに、さすがにここはちょっとした観光地なので、田舎から来た観光客も多いらしく、現在、5名ほどに後ろから覗き込まれている。おいおいおっさん達、鳩とか噴水とか花とか出ないから、あっち行っとくれー。

 鷺沢萌「君はこの国を好きか」読む。

 9月22日(土)

 朝、「北京遠洋酒店」にホテルをうつり、昼ご飯にみなで食堂に。多人数なので、いろいろ頼めて楽しい。メニューに「臭豆腐」があったので、頼んでみる。この「臭豆腐」、台湾でも食べたことがあるのだが、確かに多少の臭みはあるが、名前ほど臭くなく、ちょっと変わった味で、俺は全部たいらげてしまった。むしろ、旨かったといってもいい。
 早速「臭豆腐」がやってきたが、
「おや? 台湾のとちょっと形状が違うなー」
 台湾のは、汁の中にいろんな具材とともに入っていたのをすするのだが、ここでは単品で小さく切った豆腐が出て来た。
「さ、食べてみてよ。名前はあれだけど、意外といけるから」
 そういって、箸をつけた。その時である。
「グ、ブグェェェェェーーー!!」
 誰からともなく、獣のような声が聞こえてきた。
「ブ、ブロロロロロー」
 何故かバイクのような音を口先から発しているものもいた。
 なんだろうと思って、俺も臭豆腐を自分の鼻先に持って来た。と・・・

「面! 面! 面!」
 いきなり、剣道着をまとい、誰彼かまわず竹刀を振り回し、
 次に柔道着に急いで着替え、
「巴投げぇぇぇぇ。ほりゃー!」
 と誰彼かまわず投げ飛ばし、
 次にあわてて空手着に着替え、
「そいや! そいや! そいやぁぁぁぁ!」
 と誰彼かまわず割り続けたい、そんな気持ちにかられた。

 臭い。
 否、「臭い」などという生易しい言葉では到底あらわせない。
 納豆、くさや、ドリアン。
 世の中に臭い物は数々あれど、これほど臭い物が存在していた事が信じられない。
 しいていえば、不廃物を食べた後の強力な下痢を、一週間履いた靴下の中に入れ、数年間痰つぼの中で寝かせて、発酵させきったものを皿にもった、と言えばいいだろうか。とにかく、キョーレツな臭さで、店員を呼ぶや、
「日本人への嫌がらせか、ク、ク、ク、クヌヤロー!」
 と言って、その店員の顔に手づかみで臭豆腐をヌチャラヌチャラとなすりつけ、ドブの川の中にポイッと放りこんでやりたいほどだった。が、さすがにそれは出来ないので、ふたつ離れたテーブルの上にそれを放り投げた。それでも箸についた臭いだけでも強力で、一所懸命ナプキンとかで拭いたものの、その後の食べ物は、終始「うんこ風味」になったことは言うまでもない。うんこ餃子、うんこ焼きそば、うんこチャーハン。死亡者が出なかったのだけを幸いと、転がるようにその店を出た。
 
 近くに芸術家達の集まる村がある、という情報をどこからか聞きつけ、おまわりさんに聞いたりしてそのあたりに行ってみたが、どうやら情報が古かったらしく、すでにそのあたりは再開発の為に、更地になっていた。
 でもその近くにいい感じの村があったので入りこんでみる。と、俺が以前にテレビで見て、食べたいと思っていた「刀削面」(面は麺のこと。太いうどんのようなもの)があったので、まださっきの食事からあまり時間は経っていなかったが、さっきのは食事に行ったのではなく、全員でトイレに入っただけのものとみなし、その食堂に入る。

 と、ここはその刀削面もそうだが、餃子等、あらゆるものが旨い! しかもビール大瓶一本1、5元(22円)。これは、その後のどの店よりも安かった。しかし、この日記を何年か後に読む人の為に記しておくと、日本では、安い居酒屋でも、今現在ビール大瓶一本、600円はするであろう。実に30倍近い。というか、酒屋での小売り価格でも300円近いはずだ。それが22円・・・。
 ちなみに、北京市内にある「スターバックスコーヒー」のコーヒーは20元(300円)からである。都市部と田舎の経済格差がはっきり出ているといってもいいだろう。
 この後、何かにつれこのビールの値段が基本となってしまった。
「マッサージ1時間60元か・・・900円程度だから日本よりは格段に安いけど、ビール40本分か・・・」
 などと。

 ちなみに、確かにこの村は貧しそうだったが、食堂の横の汚い部屋でゴロリと寝転がってる爺さんの枕元を見たら、衛星テレビがあり、DVDもあり、しかもそれは別にその爺さんの自慢の逸品ということではなくて、一般家庭の標準装備、といった感じなのだ。

 つまり、日本ではオーディオといえば、アナログレコード→カセット→CD→DVDという感じで、10年おきぐらいにハードが変わり、しかしまだDVDはさすがに普及しきっているとは言えない。
 ところが中国では、カセット→いきなりDVDなのだ。これはオーディオに限らず、とにかく1960年代から2000年代まで、一気に40年ほどいろんな物や文化がワープされた感じなのだ。うーむ。

 夜はマッサージ屋へ。と、ここは個室に通され、若い娘さんがついた。
 ひととおり背中を向けてマッサージをしたところ、俺の尻にあるイボをチョンとつついて、
「フフフ」
 と笑うので、俺も、
「やめておくれよ。フフフ」
 と言う。
 そして仰向けになれ、というので仰向けになると、マッサージもそこそこに、俺のチンチンの先っぽを、チョン、とつついてくる。そしてまた、
「フフフ」
 と笑うので、俺も、
「やめておくれよ。フフフ」
 と言う。
 しかし今度の「チョン」は一回では終わらなかった。
「チョン。フフフ。」
「やめておくれよ。フフフ。」
「チョン。フフフ。」
「やめておくれよ。フフフ。」
「チョン。フフフ。」
「やめておくれよ。フフフ。」
「チョン。フフフ。」
「やめろっていってるんじゃー、ボケー! 日本のヤクザをなめとるんかー!!」

 と、俺は突然怒りだし、半身を持ち上げ、睨んだ。
 ま、もちろん俺はヤクザではなく、一介の温厚なジェントルマンであるわけだが、丸刈り頭ということを利用して、一度このセリフを吐いてみたかったのだ。もちろん日本語は相手はわからないから、ただ、俺が「セクシーマッサージはいらんのじゃーーー!!」という意味だけがわかったのだと思う。あきらめて、ちょっとふくれっ面になって、普通のマッサージを続けた。

 最も、ヤクザだったら、普通のマッサージをしているネーチャンに、
「スケベなマッサージもせんかい! こらっ!!」
 と言うのならわかるが、その逆だからなー。
 俺は本当に純粋なマッサージがされたいだけなんじゃーっ。
 マッサージこじきとは俺のことなんじゃーっ。

 玖保キリコ「非常識がジョーシキ」読む。

 9月23日(日)

 昼、みんなで中華を食いにいく。
 そして俺達が食い終わりかけた時、ちょうど従業員の「賄いタイム」になったようで、制服を着た店員達が丼に山盛りのご飯(まさに山盛り。おそらく茶碗4、5杯分くらいは裕にある)の上に、あまったおかずをザバーッとそれぞれかけて、ひとつテーブルに集まって食うのだが、みんなの、
「飯だーっ!!」
 というこぼれんばかりの喜びの表情が、見ているこっちの方が嬉しくなるほどだった。
「飯だ飯だ、俺達はこれから飯を食うぞーっ!!」
 ってな、もはや昨今の日本では見ることが出来ない「食う喜びの笑顔」。
 もう、テーブルまで待ちきれないで、運んでいる途中で、ニッコニッコ歩きながら食い始めている奴もいる。
 本来、この店では、客が帰る時に大きな銅鑼を鳴らして、
「ありがとうございまーす」
 ってなお見送りをするサービスがあるらしいのだが、もちろん自分の飯しか見えていない今の彼らは、俺達が帰る時も、銅鑼を鳴らすのなんかすっかり忘れて、丼に顔をうずめて食らいついていた。

 その後はみんなと別れてそれぞれ個人行動。俺はマッサージをしたり、路地をうろついたり、歩道橋の上から凧上げをしている爺さんを見たり、瓦礫の山の中で何故か上半身裸のおっさんを見たりして、本屋に入ったら、偶然島田さんがいたので、山中さんも呼び出して3人で「吉野屋」で牛丼の晩飯。日本より安かったが、生卵と紅生姜がないのは、イッカーン!!

 夜中、腹が減り、ホテルの近くの屋台で羊肉の串焼きを買ってきてビール。中国では、実は羊が、肉としては豚や牛よりも一番ポピュラーなものだということを知る。

 東海林さだお「ずいぶんなおねだり」読む。

 9月24日(月)

 万里の長城に行く者、天安門広場に行く者といる中、俺だけは何故か、
「地下鉄の終点まで行ってみようーっ、と。」
 と思って、何の予備知識もなく、1号線の東端にある「四恵東」駅へ。降りてみると、そこは高架になっており、その高架のまま、広い敷地が広がっており、その上に数十階建てのパステル・カラーのマンションが何十棟も建っている、新興住宅地だった。
 そしてその高架から下を眺めると、わずかに古い民家と、工場のようなものと、荒れ地が残っているのが見える。そしてその先は、また延々と見渡す限りの高層マンション郡だ。
 もちろん俺のキョーミは下の貧民街(?)の方にあるのだが、そこに降りる道がなかなか見つからない。完全に下の集落とは、隔離政策を取っているようだ。
 30分ほどうろついて、やっと隠し階段のようなところを見つけ、下の集落に潜入することが出来た。

 しかし、下の集落はわずかに人が残っているものの、壊滅されるのは時間の問題、という感じだった。子供たちだけが、無邪気に汚い家々の間を走りまわっている。
 さて、この集落もあらかた見てまわったので、俺は駅とは反対方向の道に出て、新たな町へ行こうと思っていた。ところが、ここもどこに行っても行き止まりばかりで「集落から逃げ出せない」。

 もちろん先ほどの駅に戻ることだけは出来るが、結構歩いてきてしまったので、それだけは嫌だった。しかし、時折砂埃をあげてトラック等が通り過ぎていくので、どこかに道は通じているはずだ。なんせ「すべての道はローマに通じる」だからな。最低でも、ローマには行ける、というわけだ。日本のように島国じゃなくて、同じユーラシア大陸、理屈上も問題全くなしだもんな。ただ、ローマに行ってしまった場合、帰りの電車賃は少々足りないが・・・。

 ともかく、車の走って行く方に向かってみよう。ところが、来たトラックは工場のようなところに吸い込まれていってしまうので、立ち入ることが出来ない。おっと、そこから出て来た車がある。あっちだな! よーし、一本道だ。これなら迷うこともない。アッハッハー。・・・って、高速道路に入っていくじゃないか! ここには人は入れましぇーん。めそめそめそ。んじゃば、おらば、この集落から一生出られずじ、中国の一農民として、粟や稗を作って、泥まびれになっで、いぎでいぐじがないのじゃー。ぎょほぎょほぎょほ。

 と思ったら、やっと見つけたよ。出られる道を。それは、地下鉄のさっきの隣の駅への階段だった。結局、人は地下鉄でしか、この一帯には入りこめないのねー。

 まー、「万里の長城」なんてとんでもないものを作っちまった国だ。何ごとも「囲いで覆う」のが好きなのねー。新興住宅地も、貧民街も。その方が管理し易いってことかなー。うーむ。

「冬虫夏草ジュース」を購入。思ったほど飲みにくい味ではない。

 阿刀田高「猫の事件」読む。

 9月25日(火)

 今日は天津に行くよーん、と北京駅に昼頃行くと、3時過ぎまで列車なし。オロローン。北京と天津は、日本でいえば東京と横浜みたいな関係だ。1、2時間程度の隣町で、なおかつ天津は港町。といっても、そこは中国。北京はもちろんのこと、天津でも東京と同程度の人口を誇る巨大な町なのだ。
 他にも、中国の地図を見ていると、聞いたこともない町が凄い人口で、大阪程度の人口の町なら、掃いて捨てるほどあるのに、驚く。ま、もっとも日本の12倍の人口があるんだから、当然か。しかも「12億」という人口はあくまで公称。「ひとりっこ政策」の為、実際は生まれたのに、登録されていない赤ん坊がたくさんいるらしいので、実数はさらに多いのだろーしなー。
 でも「戸籍がない」ってことは、例え殺されたとしても、何もなかったことになるのか。なにせ、書類上では、そもそも「存在してない人」なのだからな。

 「存在してない人」が空を見る。
 「存在してない人」が自分のことを、ふと考える。
 「存在してない人」が犬を追いかける。
 「存在してない人」が花の匂いを嗅ぐ。
 「存在してない人」が子供の頃の夢を見る。

 さて、ようやく天津行きの列車が来た。座席指定制だが、もちろんなーんも関係なく、俺達の席にはおっさんやねーちゃんが、堂々と座って、ひまわりの種とかパリパリ食っている。ま、こんなことでいちいち腹を立ててたら中国やってられないので、でも一応抗議して、なんとかバラバラだけど座って行く。そして、まぁまぁなごやかに天津到着。と、急に列車の様子が激変した。実はこの列車は北京始発の上海行きだったのだが、北京は始発ということもあり、ほぼ客は座っていたのだが、当然ここから乗る客には、ほとんど席はない。
 ところがホームに到着した途端、物凄い人が、山のような固まりになって、列車に乗ろうともがいている。ほとんど、戦後の(知らないけど)闇市列車、という塩梅だ。窓からでかい荷物を放り込み、それから自分も強引に窓から車内にひきずり昇っている。とりあえず、天津から列車に乗らなくて、よかった・・・。

 そこからタクシーに乗って、ホテルへ。へへへ、うちの夫婦はスイートルームに泊まっちゃうもんねー。なんせ、ゲーノー人ですから。おほほほほっ。ベッドルームの隣にリビングルームがあり、ソファと麻雀卓(ゲーム卓)を合わせれば、10人は悠々くつろげるざまーす。おーほっほっほ。
 って、実はこのスイート、1泊6000円。ふたりで泊まるので、ひとり頭3000円。日本だったら、カプセルホテルにも泊れないお値段。これも、北京よりもさらに物価の安い天津だから出来ることなのよねー。おろろーん。「俺達はスイートにも泊まったことのある夫婦だ」ということを思い出にして、この先の人生の苦難を乗り越えて行こう、っと!

 それから「観光食堂街」みたいなところに行って、ガイドブックに載っていた「天津一旨い」と書かれた肉マン屋へ。ところが肉マンは冷えていて、全然旨くなーい。どのガイドブックにも載っていたので、きっと客が押し寄せたので、いい気になって、手を抜いたか。そういうとこ、多いんだよねー。有名になった途端、値段があがって、味が落ちるところ。
 インターネットもこの先、こういうことに使うと面白いかも。毎日の株相場のように。味や雰囲気、おばさんの機嫌などが、行った人の投票で刻々と変化する、リアルな「今、一番旨い店」の情報。安食堂ミシュラン。いいと思うがなー。

 飴細工のおっさんの妙技など見ながら、その「観光食堂街」を出て、道を渡って、一本路地を入ると、くす美さんが叫んだ。
「こここそ、あたしの来たかった中国よっ!」
 そう、そこには日本で言えば「戦前の路地裏」が残っていたのだ。裸電球の下に、焜炉で串を焼き、煙りがもうもうとしている。人々があちこちをにぎやかに覗きながら行き交い、雑貨店には、ホーローの洗面器がツヤツヤと光っている。懐かしいデザインの香油やシッカロールには女性陣も狂喜。小さなホールでは京劇をやっていたり、「舞」と書いてある店は、紳士淑女達が、社交ダンスを華麗に踊っているのが見える・・・。 
 まるで舞台のセットに紛れ込んだような感じで、全員、すっかり浸ってしまった。ただひとつ、舞台のセットと違うのは、その路地の向こう側に、近代的な高層建築がそれを今にもこの町を飲み込まん、と睥睨していることだ・・・。

 本場の天津甘栗を買って帰る。ちなみに「天津丼」はどこにもなかったぞ!

 北村薫「覆面作家は二人いる」読む。

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