石ヤンのテキトー日記00年7月(1)

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7月11日

 事務所引っ越し当日。朝9時に集合するも、引っ越し屋さんがガンガン重い荷物を持って階段を駆け下りていくのを見て、
「若い、ってな、素晴らしいことよのう・・・」
 と他人事のようにお茶をすするだけの老人メンバーだ。
 というか、へたに手伝っても、かえってペースの邪魔になるだけで、さらには足かなんかグキッとかいって思いっきり捻って引っ越しの荷物以上にお荷物になるのは、火を見るより明らかだからな。

でも聞いてみると、引っ越し屋さん達は若いけれども、みんな世帯持ちだという。何故なら、会社が世帯持ちしかキツイ現場に出さないそうなのだ。つまり、独身で入社した時は事務や倉庫仕事などの割合楽な仕事をさせておいて、世帯を持ってもう社会的責任の足枷から抜けられなくなってから、このキツイ現場に回されるのだという。うーむ。なかなか社長さんも考えるねぇ。 「今月の有名人の引っ越し」とかいう社内報のコーナーの為に引っ越し屋さんと写真を一枚撮る。でもみんなミュージシャンとしての顔は露ほどもなく、ただの無精ひげの作業親父の顔だけどな。

近所のそば屋は昼の休憩に入ってしまったので、冷やし中華で引っ越しそばの代わりとする。
 実は今回引っ越したこのビルは、JRの八王子駅の構内にある。国鉄時代の作業員詰所とかに使われていたビルで、相当古い建物だ。1Fにスタジオとして一室、2Fに事務所として一室借りたのだ。でも使われていない部屋には、往時の国鉄職員が使ったであろう大浴場や、仮眠室の跡などもある。なかなかある種味わい深い建物である。事務所に借りた部屋には、靴箱に使っていたであろう棚がずらっと並んでいて、それはそのままファンクラブの会報を置く棚に転用する。佐々木とか、五十嵐とか菊池とかまだ名札も残っている。

そんなロケーションなので、窓からはひっきりなしに列車が通り過ぎていく。松本行きや甲府行きの旅行気分の特急・普通列車、高尾行きのギュウギュウ詰めの通勤電車。赤茶けた無蓋貨車もゴトゴト音を立てて通り過ぎていく。鉄道ファンなら、一日中見てても飽きない光景かもしれないなー。

7月10日

 事務所引っ越し前日で、最後の梱包作業に大わらわ。食器を詰めるのに新聞紙を使っていたら、ふいに事務員のマニが、
「新聞って、毎日来るんだね。驚いちゃった!」
 というので、
「?」
 と思ったら、マニが子供の頃住んでいた家は、時折登山者が「こんな所にも、家が建ってるぜ!!」と驚かれるほどの山奥で、新聞配達など到底なく、読みたかったら、下の集落の雑貨屋まで買いにいかねばならないものだったという。しかも、それも朝刊と夕刊の統合版だったらしく、
「この間、友達のところに泊まったら、夜にも朝にもどんどん新聞が来るんだもん。驚いたよー!」
 と言っていた。
 ちなみにマニはそうはいってももう23才。山から下りて来てからもそれなりの時間が経っている。何故、今までそんな事に気が付かないんじゃー!!
 あと、ついでに言うと、駅の自動改札機に、100円玉を直接入れて機械を破壊させるのも、駅員が口をあんぐり開けるので、やめた方がいいな。
 ・・・でも未だに驚くことがいっぱいあるって、幸せな人生だなぁ。おじさんは、もう滅多な事では驚かなくなってしまって、少々つまらんよ。

7月9日

 夕方、ニヒル牛へ。本日、パスカルズのメンバーであるクリスティーヌさんが、息子のソウ君と来店したという。そしてソウ君は、最初、俺が作った「気弱怪獣」を熱心に見ていたという。これは俺がハンディ・マッサージ機にペイントし、段ボールで顔や尻尾を付けた物で、スイッチを入れると、ブルブル震えながら何故か後退していく、というオモチャだ。ところが、動かす前には、
「石川さんの作ったこれ、欲しいや」
 と言っていたソウ君が、そのスイッチを入れた途端、ブルブル意味なく震える怪獣を見て、
「俺、やっぱ、これいらねーや。だって、マジこえーや、これ。世界で一番こえーや。」
 と言って遠慮したという。そうだよな。前に進むでも、目が光るでもなく、ただただ震え続ける物は怖いからな。オモチャ以外でも、ただただブルブルと震え続ける物はたいてい怖い物だから、大人になってもそういう物を見かけたら、近づかない方が無難だぞ。ひとつ勉強になったな、ソウ君よ。

 夜中の3時半頃、自転車飛ばして漫画喫茶へ。漫画喫茶ではあるが、目的は漫画というより、マッサージ・チェア。マッサージ席は4つしかないので、この時間じゃないとなかなか空いていないのだ。ということで、この一週間で3回も丑三つ時も過ぎたこの時間にやってきてしまった。
 医者に「こんなヒドイ肩こりの人、見たことありません」と言われ、整体師に「みんなー、ちょっとこの人の背中触ってみてー。ほらっ、ガッチガチ、石みたい~」と笑われた俺の情けない肉体をほぐしにいくのだ。本当は人にやってもらう方がもちろん数段いいが、そうそう頼んでもいられない。なんせ町のマッサージは高いしな。でも、完全に固まって「生きた銅像」になるのは、いやだからな。生きた銅像になったら演奏も、少々しづらいしな。

 帰る頃には夜が明け、途中の茶畑は、そこだけ朝靄が漂っていてぼんやりいい感じ。もう仕事に出ているおっさんが、靄の中で薄い影になっていた。朝日がオレンジに、でかい。

7月8日

 久しぶりに昼間暇だったので、マージャンのメンツを電話で探したが、誰も捕まらず。仕方なく、夫婦でテレビゲームの「いただきストリート」全制覇にチャレンジしよう、というお馬鹿な考えにまとまった。この「いただきストリート」は要するに「モノポリー」の変形で、土地を買ったり、株を売ったり買ったりして、少しずつ資産を増やしていく、というゲームで、単純な故に飽きの来ないゲームだ。結果20コースぐらいあるうちの5コースまで終えて、取りあえず本日のところは一旦、中断。ちなみに1ゲームに1~2時間位かかる。戦績はなんと1勝4敗。最初の一回に勝ったのでフフフ~ンと余裕で鼻毛抜いていたら、その後ボロボロになってしまった。ま、得てしてゲームとはそんな物ですな。で、そんな物はいいんだけど、罰として、家中の掃除をやらされたぜ。トイレも念入りにタワシでゴシゴシとな。トホホホ・・・。

 夜は家でニヒル牛の先月分の経理決算会議。ちなみに俺はあくまで「プロデューサー」で、「オーナー」はR君とクニちゃん。なので、経理の細かいことは基本的にオーナーまかせ。俺は横でシュークリームとか食べながらゴロゴロ転がって(本当に転がっていた)、時々口を挟む程度の感じ。ま、「商売」に関しては全員シロートなのだけど、もうドロ舟は漕ぎ出しちゃったからな。ギィコ、ギィコとな。岸はもう、見えねえぜ。前にも、もちろん後ろにもな。

 布団に入って寝ようとした時、唐突に隣にいるR君が子供の頃の話を始めた。近くに空色にちょっと緑がかった実のなる木があって、それがきれいでよくそれを見に行ってた事。原っぱも好きで、でっかいチョコレートを持って、原っぱの真ん中でパクついた事。
 俺もなんか急に、その俺は知らないはずの思い出の中に吸い込まれていくような感じになって、ひとときの幸福な記憶に入りながら、少しずつ、少しずつ、まどろんでいった。

7月7日

 朝、風呂に入っていると、一匹のゴキブリが風呂場の隅で苦しんでいた。どうやら昨晩、R君が殺虫剤をかけたらしい。普段なら殺虫剤をかけた後、すぐに新聞紙かなんかで包んでつぶしてしまったり、もしくはシンクの後ろかなんかにバタバタ隠れて行ってしまって正体がつかめないので、こんなに間近で苦しんでいるのは、初めてみた。もうひと晩経っているというのに、1分おきぐらいに急に「ウワーッ」という声が聞こえてきそうな感じで足を思いっきりバタつかせて苦しんでいる。「死ぬのやだっ、俺、死ぬのやだーっ!!」という必死の、まさに必死の抵抗だった。体が逆さになり、もう起きあがることさえできないというのに、死にものぐるいで手足をバタつかせている。なんだかそれを見たら、ゴキブリと思えなくなってきて、まるで猫か犬かが必死にもがいているように見えて、かなり悲しくなってしまった。
 そーだよなー、ゴキブリなんて、普段は"ゴキブリホイホイ"で体貼りつかせて、餓死させてるんだもんなぁ。こんな風に「生」への執着を見られることなんて滅多にないけど、本当はもがき苦しんで死んでいくんだよなぁ。今からじゃ俺は助ける事もできないけどなー。
 でもゴキブリや蝿もそうだけど、豚だって牛だって、魚だってみーんな人は殺していくんだもんな。殺して俺達は幸せな食事を楽しむんだもんな。殺して幸せな家庭を築くんだもんな。ただし、その「死んでいく所」は基本的に目、つぶっちゃえっ、という事で俺達殺戮者たちの、ほのぼのとした一日は終わっていくんだよなー。
 考えてみれば、ニワトリにとって、カーネル・サンダースの人形は、ヒットラーの銅像どころの話じゃないよな。首をキューッと絞められて、全員恩情なしの、みな殺しの英雄なんだからな。なんせ秘密製法で骨まで食ってしまうぐらいだからな・・・ニワトリにとって、カーネル・サンダースがどこの駅前でもニッコリ笑っているのは、とてつもなく怖ろしい光景だろーなー。

 台風が接近して豪雨の中、夜は高円寺のショーボートという店で「しょぼたま」のライブ。なんでもお店の7周年記念の、7月7日というスリーセブンのめでたい日に呼ばれたライブなのだ。元々たまは高円寺で生まれたバンドなのに、ほとんど高円寺ではライブやったことないからなー。「次郎吉」以来か。途中、取り付けてあったタンバリンが突然崩壊してしまって、おまちゃんや知久君に助けてもらって、マイクスタンドにガムテープで強引に貼り付けた。まさに「しょぼたま」のしょぼらしさの面目躍如、といった感じのライブだった。

 家に帰って遅まきながら古本屋で買ったテリー伊藤の「お笑い北朝鮮」を読んだ。金正日は芸術的国家プロデューサーだ、という話はかなり面白かった。が、驚いたのは、金正日が着ている例の「人民服」がどうやら、俺が「まちあわせ」という曲の歌詞で使った「顔のワイシャツ」という店でのオーダーメードだ、ということだ。あの何気なく使った歌詞の店が、そんな世界的に注目を集める服を作っていたとは・・・。ちなみに「顔のワイシャツ」を見つけたい方、歌詞では「神保町」となっていますが、実際はその隣町の「小川町」の交差点の付近に店はあります。とにかくでっかい看板だから、すぐにわかると思うよ。

7月6日

 朝、というか実際には昼過ぎに起きたら、朝飯はなんとうなぎ弁当がドーンとテーブルの上に鎮座ましましている。土用が近いからか。それとも俺に精をつけさせて、朝っぱらから、というか昼っぱらから俺をどーにかしようという妻の陰謀か。だったら怖いな。
「それにしても、朝からうなぎなんて食えるかよー!」
 と言ってその15分後にはスマイルバッジのような顔をして、すっかり平らげてしまった。やっぱうなぎはウメーやー。でも、うまいんだけど実はうなぎのうまさの6割はあのタレのうまさじゃないか、といつも思ってしまうのは俺だけだろーか。多分おいしいうなぎにまずいタレをかけて食うより、まずいうなぎにおいしいタレをかけて食う方がおいしいのではなかろーか。でもその割にはタレだけかけて「タレ丼」とかにして、
「これがなによりの、好物でねぇ」
 なんていってご飯ほっぺにくっつけて、にっこにっこ笑いながらモシャモシャ食っているよーな人はあまり見かけない。というか全然見たことない。何故だ。安い定食屋のメニューにあったら、俺はひとまずいってみるぞ。でもあのタレ、うまいよなー。なんでうなぎ以外に使わないんだろう。謎だ。

 午後から、ニヒル牛の打ち合わせを、近所の喫茶店を2軒はしごして行う。スペースをレンタルし、そこで無審査で自由に作品を売ってもらう、というのを常設でやっている形態の店は多分他にないので、つまりは基本マニュアルがない。なので、細かい点でいろいろ取り決めなければならないことや、1ヶ月やってみて出てきた問題点や工夫点などを話し合う。もちろん経営の問題もある。結局、店内に箱を増やした理由は表と裏のふたつがあって、表の理由はもっともっと作品数が多い方が、店として見に来るお客さんにとっても面白いだろう、ということ。で、裏の理由は、みんなのつける値段設定が基本的に安すぎる為、売上収入があまり見込めないので(『西荻大全』というホームページで『とにかく安すぎる。これで経営がやっていけるのだろうか。ひとごとながら不安に思ってしまった』と書かれてしまった・・・)、箱を増やし、そのスペース代で穴埋めをしよう、ということだ。(なので、値段設定は今後も安かろーがかまわん。好き勝手につけてくれい!)とにかくこの店は大儲けしようとは思っていないが、なるべく長く続けていきたいからな。その為には少しは経営の事も考えないとな。だって・・・かなり面白い大人の遊びだもん!

 あと、ニヒル牛は「アートギャラリー雑貨店」だ。「アートギャラリー」であるが、「雑貨店」でもある。つまり「芸術」でもあるが「商売」でもある。その同時が混在している状態が最も面白いと俺は思うのだ。芸術だけではなんかツンとすましてる気がして、ついつい「わかった、わかった。はいはい、ご立派なこって」と言ってしまいたくなるし、商売だけで「金儲かりゃそれで良かじゃないですかー。ワーハッハ!」もまたそれはそれで「なんかそれだけじゃつまらんのよねー」というのがあって、その接点がニヒル牛なのだ。だからもちろん作家によって「芸術」寄りになってしまう人も「商売」寄りになってしまう人もいて、それはそれで全然構わない。そのバランスがなんとなく取れていれば店としては良いのだ。
 とにかく俺の望みは、みんな好き勝手に「シロートだからできる、いろんな意味での無茶苦茶大冒険」をやって欲しいのだ。プロ(というか、大量生産品を作る人たち)は常に最低限のレベルが要求されるので、それはそれで安定した物を供給しているわけだから文句を言う筋合いはないが、その「レベル」が足枷になって、とんでもなく馬鹿げた冒険はしずらいからな。そこをドーンと突いてくれると、俺は嬉しいね。
 作る阿呆に買う阿呆~同じ阿呆なら、作らにゃソンソン!

 夜は逆にサッパリ。冷やし中華、モッツァレラチーズとトマトのサラダ、茹でトウモロコシ。あぁ、夏だねぇ。

7月5日

 事務所にて引っ越しの梱包作業。事務所の引っ越しは、デビューの頃の使っていた代々木上原からここに来て以来、2度目である。といってもスタジオとしてはもっと前から使っていたので、実質10年間使ったことになる。アルバムも5枚録音した。そこそこ長かったわけである。

で、事務所の引っ越しは2度目であるが、俺自身の家の引っ越しは、生まれて以来何度あるか数えてみる。
 まず、生まれたのは東京は目黒区。江戸っ子だったわけね。火事も喧嘩も大嫌いで、出来れば宵越しの金はわずかでも絶対残しておきたい性質なんだけど、そのことはおいといても、江戸っ子だったわけね。病院は港区の虎ノ門病院だから、実際は港区が出生のホントウなのだが、まぁ、住んでいたのは目黒区。だという。だという、ってのは、よーするにここは一歳の誕生日を迎える前に引っ越しているから、とーぜん、記憶は一切ないわけだ。サンマの臭いも、別に懐かしくもなんともない。  しかし0歳時の記憶というのは、脳の一体どの辺にしまわれているのだろーか。トラウマ、なんてものもあるわけだから、奥深くのところにはあるのかもしれないな。見たことないけど。でもまぁ、見ても母親のオッパイとか、ベッドの上のガラガラとかが、抽象的な水彩画のようにあるだけなんだろうなぁ。なんせ赤ん坊はケモノ以下の馬鹿だからな。そんなもんだろう。

 そして一歳からは神奈川県の藤沢市鵠沼、というところに移り住んだ。ここはあの所謂「湘南海岸」まで500mくらいのところ。戦前は別荘地だったところで、おじさんの家の離れに住んだ。つまり「湘南ボーイ」だったわけね。ところが、海が近いのに海が怖くて波打ち際から10m以上離れないと歩けなかった悲しい小心の湘南ボーイだったんだよなー。小学校に入学するも、急激な子供数の増加で校舎のキャパシティを超えてしまい、教室は急場しのぎのプレハブ校舎であった。

 小学校二年生になる時、今度は群馬の前橋市三俣町、というところに引っ越しした。物心ついて初めての引っ越しである。ちょうど市街地の外れで、道を隔てたこっち側は住宅地だが、向こう側は延々田んぼが続いていた。学区内に飲屋街の地域が含まれていたせいか、ガラが滅法悪く、小学校二年生でありながら、クラスにもう少年院経験者がふたりもいた。特に女子のIさんなどは、「立派に万引きして来なければ、今日の晩飯は抜きだからね!」という徹底した英才教育も母親にされていたほどだ。ちなみにクラスの半分が生活保護家庭であった。湘南が割と「お坊っちゃま」が多かったせいもあって、この印象は強烈だった。また、担任の先生が老婆だったのだが、方言がひどく、何を喋っているのか全くわからないのでぼんやりしていたら、「石川君はちゃんと人の話を聞かない」などと言われて睨まれたこともあった。

 小学5年生の時、同じ前橋市の昭和町というところに引っ越した。そしてここには高校を卒業するまで、8年間住んだ。近くに「岩神の飛石」という赤城山から飛んできたというでっかいひとつ岩があり、友達との待ち合わせは常にそこだった。築100年、という古い大きな家で、今でも夢の中で一番「帰って」しまうのがこの家だ。実際には現在、隣にあった群馬大学の校庭となり、トラック競技のコースになってしまったので、そこに帰ってもただランナーがドドドドッとその上を走り過ぎていくだけなんだが・・・。

 高校を出てボンヤリした(よーするに浪人してたのね)一年は、茨城県の谷田部町(現・つくば市)というところに住んだ。これは親父が公務員で、親父の勤めていた「蚕糸試験場」が群馬からつくば研究学園都市に移った為の引っ越し。で、ここで面白かったのが、元々前橋で公務員宿舎に住んでいて、それが丸ごと移転になった為、100km以上移動してきたにも関わらず、「近所の人が変わらない」ということだ。よーするに民族大移動のようにゴソッとまとめてみんなで引っ越してしまったのだ。景色がまるで違うのに、お隣さんの顔ぶれがかわらない、という珍しい引っ越し。

 それから遂に東京でひとり住まい。杉並区高円寺北1-17-14 三岳荘、という家賃2万、風呂無しトイレ共同のヨジョーハンのアパート。ここは部屋に鍵をかけなかったルーズな暮らしぶりだったので、完全に似たような境遇のぐーたらアーティスト達のたまり場となった。自由きままな馬鹿ばっかりのメチャラクチャラの日々だった。しかしここから結局「たま」も生まれ、現在の様々な活動の元が生まれたのである。ちなみにここも現在駐車場になって往時の様子を忍ばせる物はなにもない。

 結婚を機に、27歳の時、埼玉県の所沢市有楽町へ。なんとなく「昭和」を感じさせる古い家。ちなみに所沢にしたのは、妻の実家が近かったことと、なんとなく少々東京暮らしに疲れていたこともあったかもしれない。坂の登り口にある家だった。住んでいたのは2年ほどだったが、なんとなく今思い出してもノスタルジーを感じてしまうが、現在、すぐ近くに30階建ての高層マンションが建ってしまい、古き良き昭和の風情は一変してしまった。ちなみに二軒長屋だったその家も、現在はマンションになっている。

 たまがデビューし、少しは広い家に住める、ということで次は二階建ての一軒家。同じく所沢の向陽町というところ。裏が雑木林で、よく飼っていた猫が遊び回っていた。ここには結局今から5年くらい前まで住んでいたのだが、この前見にいったら、やはり家はもう変わってしまっていた。

 そして現在の某所(詳しくはヒ・ミ・ツ)に移って約5年。これまた二階建ての一軒家だが、駅に近いので便利にしている。でもここも俺達が引っ越したら取り壊しが決まっているのだそうだ。

 こうして考えてみると、世の中、変わらない物はないね。なにもかも。だからあんまりつまらないことに固執していつまでもしがみついていてもしょうがない、ということがよくわかる。まぁ、せいぜい変化を楽しむ方向に持っていきましょうや! 何においてもね!

7月4日

 スープがちょっとだけ「ぬるくなっとるぞーっ」程度の距離にある妻の実家へ。ニヒル牛の載った雑誌を見せに行ったところ、突然のカミナリと豪雨。テレビをつけると大雨洪水警報で、しかたなく腰を落ち着けたところ、夏らしく素麺をごちそうになる。大きな木桶に氷をたっぷりと入れ、いかにも涼しげ。あー日本の夏。この日記を見ていると言っていたネパールのアヤコさん、うらやましいでしょー。やっぱり日本の夏は良いなーっと。フフフフフ。なんでも家でいつも買っているのの4倍ぐらいの高級素麺だそうで旨いが、実のところは1,25倍くらいの差でしかおいしさがわからず、俺にはブタに小判。すいまへーん。
 妻、義母、義姉と女ばかりの家なので、ついついただひとりの男である俺が、男らしさを見せつけてやるごくわずかのチャンスとズルズルズズズーーッ・・・チュルリッ! と最後の一本まで平らげ、お腹パンパン。まぁ、俺が男らしさを見せつけられるのはこんなことぐらいしかないからな。普通の男が頼まれ易い釘とか打ったりネジとか回したりの行動をしたら、必ず「有り難迷惑」や「かえって、回り道」の言葉がピッタリとあてはまる事象に発展するし、重たい物とか大きい物とか運んだら、腰がヘニャッとへんな形に曲がって、いろんな物が壊れたり崩れたり割れたり弾け飛んだり、思いもつかないトラブルが起きてビックリするからな。

 夜中、冷や奴とチーズ食いながら、「快速ノサップ」というビデオ流しながら、一杯飲む。これはいわゆる鉄道マニアの「車窓ビデオシリーズ」で「ノサップ」は釧路から根室に向かう快速列車。延々と釧路湿原のはじっこや淋しい海などの風景が映っている。キョーミない人には淡々としすぎて全く退屈な映像だろうが、旅好きにはたまらない物がある。風景のいいところをダイジェストで流すのではなく、長いトンネルに入ったら5分も10分も画面は真っ暗なまま。ただ、ゴーッというトンネル内の音だけが響いている。「この駅で特急待ちの為5分停車します」と言ったら本当に5分間、風景は変わらず、どうやらビデオの近くにいる女子高生らしい女の子たちのごく普通の日常会話が偶然収録されていたりする。でもそもそも旅とはダイジェストで行われる物ではないからなー。点ではなく、線だからな、ジンセイのように。
 車窓シリーズはこれ以外にも、「黒部峡谷鉄道」とか「わたらせ渓谷鉄道」とか何本か持っていて、時々無性にぼーっと眺めていたくなる。ちょっぴり旅のリアルな気分に浸れて、なおかつ疲れたら家にワープして眠れる。一種の理想デショ。

7月3日

 あぅぅぅぅぅーん、うぉう、うぉう。ウギャギャギャギャーッ。ついに俺も30代最後の365日が始まっちまったーい。30代ならまだ「青年です」の主張も、強引に睨みつければ出来るが、40代になったら政治家にでもならない限り「青年」としては完全に涙の引退だからな。ということで本日39才になりました。「サンキュー君!」と虚しく呼んでくれぃ。「あいよっ」ってなもんさ。ま、しかし幾つになってもやっている事は、相も変わらず小学校低学年並だけどな。進歩なんて全くする気ないけどな。むしろアイ・アム・ディーボだけどな。

 「とおいスタジオ」にて最後のリハーサル。終わって2階に上がると、マニちゃんが近所の「スーパーくりはら」で買ってきてくれた「レアチーズケーキ」と「巻き寿司」でメンバー・スタッフみんなで誕生日を祝ってくれる。ありがとうよ。
 家に帰って、R君に「肩もみ」のプレゼントしてもらう。それがなんたって俺にとっては一番だからな。変なことに金使ってプレゼントなんかされても、「大事な家計を、もったいない」の気持ちが働いてあんまり嬉しくないからな。これまた、ありがとうよ。

7月2日

 今日はなんといっても、まずはマックをなんとかせねば。せねば。せねば。ヤバイぞーい!! きのうの夜、R君が起動したところ、ちゃんと立ち上がったとのことで、まだ完全にはポシャッてはいないようだ。でもポシャルのは目に見えているので、その前にバックアップを取らねば、ということでCD-Rを買ってきて、あわてて必要書類とかをコピーする。あせり、あせり。ついでにニヒル牛に卸している俺のフロッピー作品(「ある朝起きたら」「へら」)もきのうみたらほとんど在庫がなくなっていたので、それもコピーして製作。あせり、あせり。もしもこの日記が一週間ぐらい更新されなかったら、俺が壊れたマックをじいっと見つめながら、ナンマイダーッと読経をしていると思ってくれ。
 などとやっているうちにニヒル牛の新作が作りたくなった。で、作る。今度の新作は「書道ポストカード」だ。もちろん一枚一枚手書きだぞ。

 それから今日はひとつチャレンジしたことがある。それは「『ユニクロ』に行ってシャツと、半ズボンと、靴下を買ってくる(!)」だ。ハッキリ言って俺の制服はみんなも承知の助のとおりランニングだが、もちろん俺もおとぎ話の住人で四六時中いられるわけじゃないので、普通の服も着る。しかし着る物には、トーンと無関心なので、いつもR君にテキトーに買ってきてもらったり、ファンからのプレゼントですませていたのだが、今日は勇気を出してはじめてのおつかいと、ひとりで行ってみたのだ。
 もちろんブティック調の店なんかに行ったら、入った途端そのあまりの場違いさに耐えきれなくなって、ぶるぶる震えながら泣きながら「服の、服の、服の、バカヤロー!」と叫んで逃げ出すことはわかりきっているので、店が広くて入り安く、店員も「お客様はどんな服をお探しですか?」と話しかけてこない、買う時もカゴだけ無言でレジにムンッと差し出せばよい、この店に来てみたのだ。結果、まんまと買い物に成功。もちろん試着なんてアクロバチックな行動は俺にはできないので、とりあえず「なんでもL」で買ってきたのさ。俺もやれば出来る、っていうことさ! わっはっはーっ。どうだい、俺の勇気は? うんっ!?

7月1日

 昼は、今日ニヒル牛の店内に設置する予定の六角形の「タワー」の仕上げを手伝う。忙しくて誰も手伝えず、島田さんがひとりで作り上げたのだ。男らしいな。ヤスリかけ等久しぶりにやってもう汗ダラダラ。

 一旦家に戻りシャワーをフフフ~ンと浴びて、ついでにちょいとインターネットでも覗こうかとマックを立ち上げた途端、画面が激しい揺れのバグ。子供の頃、よく叩いて直したテレビのようにグニャグニャな画面。「ありゃりゃ!?」と思って再起動するが、今度は立ち上げたソフトから壁紙が透けて見える形にブレて、またバグ。おいおいおいーっ、で三度目も最初のニコちゃんマークは出るものの、何のアイコンも表示されず固まってしまった。ば、馬鹿な!!
 アイヤー、ついに来てしまいましたよ!! 寿命っていう奴がこのマックにもーーーーー。
 おりしもこの日から、たま企画室が運営していた「地球レコード」のサイトを一旦閉じ、俺がプライベートで作っているこのサイトにたま関連の情報だけは公式サイトとして移行しよう、といったまさにその当日だというのに。ど、どーすりゃいいんだいっ。
 思えば、モニターは俺が初めてマックを手に入れた時から使っていたLC630のもので、もはや5年以上の月日が経っている。パソコン本体はパワーマックの7100/66AVというやつで、去年義妹から譲り受けた物だが、その時も義妹が、
「このマック調子よくないんで、もっといい機種に買い替えるんだ!」
 ということでもらったものなので、モニターか本体かどちらがおかしくなっているのかも不明。とにかくヤバイ。かといって、今うちには「そんじゃあ、新しいMacでも買うべぇかぁ」ってな余裕もない。ど、どーすりゃいいんだべか!? この非常事態は。

 むぐぅ。そう唸りながらも時間が来たので再び島田家に行き、分解したタワーを車に載せ、ニヒル牛へ。夜12時過ぎまで設置にかかる。それからタワー完成記念だーっ、と阿佐ヶ谷「8039」へ。これから1年間、世界漫遊旅行に出かけるという笹山さんを呼び出す。そして旅行先からのハガキをニヒル牛の笹山箱にリアルタイムで展示し、各地の路上で唄ったテープをダビングして箱内で販売していったら面白いね、ということになった。ちなみに笹山さんは20年来の俺の唄うたいの友達だ。

 夜中3時半頃、車で家の近くの島田家まで戻ってきたが、久しぶりに昼間ヤスリかけなぞやったので背中が痛い。今からすぐに帰っても妻はどーせグースカ高いびきなので、あと1時間遅くても変わらないだろうと、マッサージ機のある漫画喫茶に行ってマッサージする。割引券があるので、250円くらい。これでついでに飲み物も飲めて、有線で好きな音楽も聴けて、「ご自由にお取り下さい」の古い雑誌ももらってきてだから、お得な娯楽だ。1時間ウダウダして外に出たら、もうすっかり夜は白々と明けていて、へーんな感じ。早朝に自転車でコキコキ帰宅。


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