ドキドキドキリコ初体験(118)

さて、このコンテンツは初体験を告白するページだ!
・・・と言っても、Hな事ばかりが初体験ではないぞ。世の中は、初体験のことで満ち満ちている。それを報告してもらいたい。例えば立ち食いそば屋に初めて入った初体験、母親を初めて背負った初体験、ファンレターを初めて書いた初体験、ビンタをくらった初体験、万引きで捕まった初体験・・・。大きな事でも、些細な事でも、アホアホな事でも何でもいい。
 最近した事、昔の事、とにかく「初体験」にまつわるエピソードを送ってくれい。メールの題名は「初体験」で。ペンネームもな。ポイントは内容によって3ポイント〜∞(無限大)だ。ドキドキしたその時の様子を報告してくれい!

はじめての緊縛


その日はいつもと違うことをしたいと思い、ちょっぴりえっちなバーに行った時の話です。

会員制なので登録と軽くお話して、お酒をもらいます。そのときは男性の店員さん2人と女性の自分だけでした。どういう性的嗜好か過去にはどんな人が来たか、どんなことをしたかなどお話してくれ、楽しんでいる中その瞬間は来ました。

店員さんが「縄で縛ってあげようか」と言うのです。

普段出来ないことに二つ返事でOKし、縛りやすいように、とセーラー服に着替えます。真ん中に椅子とマットがひいてあり、そこに座ります。その周りを囲うようにテーブルがあるので、ショーの女優の気分です。彼は麻縄で器用にするすると私の身体を縛っていき、全く身動きが取れないようにされました。胸を強調し、腕を固定され、足は動けないように真っ直ぐ伸ばした状態で縛られ、マットの上に横になるしか出来ない状態でした。麻縄の擦れる感じが痛くも心地よく、不思議な感覚でした。気が付くと常連っぽい女の人とはじめてらしき男の人がおり、恥ずかしさやら何やらで頭がぐちゃぐちゃになったのを覚えています。

その日は刺激的でかなり印象に残る一日になりました。(なつごろ 2025/4/25)

(寸評)クセになる人はクセになるらしいね。俺は逆に束縛恐怖症だから絶対無理。いつでも手足を自由に動かしたい〜。これってまさか舞踏病!? 7ポイント

はじめてのインドカレー屋


その日はずいぶん疲れていて、「たまには違うものを食べよう。」とふらりとインドカレー屋に入ったのでした。

中に入ると大々的にパーティが行われており、子供の誕生日会のようです。7人くらいでご飯食べたり、話したりしています。営業中ではあるようで案内されるがままカウンターに座りますが、アウェー感を感じまくってしまいます。そそくさとカレーとナンを頼みます。「キニシナイデネ。」なんてカタコトで言ってくれるけど気にしちゃいます。

待ってる間、ふとカウンター越しにキッチンを見るとなんと店員さんは何かを食べながら素手で私のナンを作っているじゃありませんか。日本じゃありえないことに驚きつつ、飲み物も頼もうと店員さんを呼ぶも「テレビミテルカラマッテネー。」と笑って返されちゃいました。失敗ばかりの日々に落ち込んでいた私も気付けば彼らの緩さに少し許されたような気分になっていました。

帰りに「マタキテネ。」と店主らしき人に言われ、子供からも手を振られ、幸せな気分で帰りました。(なつごろ 2025/4/25)

(寸評)そこまでじゃないけど、チェンマイ(タイ)の緩さもそれに似てるかも。ある意味テキトーなところが心が緩むというか。几帳面過ぎる日本感覚からたまには抜け出したいよね。6ポイント。

初めて女の子100人以上一度に泣かせた話


春である。春と言えば卒業式と入学式のシーズンである。私は卒業式には忘れられない思い出がある。
私が卒業したのは千葉の田舎おバカクソ中学校だ。私自身は大阪生まれ大阪育ちだが、小学6年生の春に父親の転勤で大阪から千葉に引っ越してきた。
さて、その時の千葉県と言うのは、当時「西の愛知、東の千葉」と揶揄されるほど管理教育の権化の酷い所であった。私の父親がその手の情報に詳しく、事前に情報を得ていた私は、わざわざ大阪から引っ越してきて、そんなバカみたいな所の学校に通わなくてはならない事に心底ウンザリしていた。
多分、中学生になるかならないかの頃だったかと思うが、「西の愛知、東の千葉」の、その「西の愛知」のドンみたいな御仁がテレビに取り上げられた事があって、その御仁は番組内で「いかにして生徒を縛るか」と言う事をひたすら熱く語っておられた。私はそれを見て心底ウンザリした。
私自身は小学校の入学式当日にいきなりクラスメートとケンカして泣かせてしまった問題児で、当時流行り始めていた公文式や塾に通う同級生を尻目に、放課後はひたすら近くの川に入って魚獲りをしていたような人間だったので、そんな管理教育で「学校で良い子にしていましょう」なんて戯言は唾棄すべきクソみたいな話だった。
しかも、私が入学した千葉のクソ中学校は男子は坊主頭にしなければならないというクソみたいな校則のクソ学校だった。管理教育のバカ学校の常であるが、クソみたいな校則で生徒を縛ると言うのが常套手段であった(そもそもそんなクソ校則にクソほどの意味もない)。私が通っていた中学校には定期的に頭髪チェックなる儀式があり、男子は5ミリ、女子は前髪眉上3センチのオンザ眉毛を守らないと風紀担当のバカ教師にその場で髪の毛を切られるというクソみたいな所だった。今なら人権侵害の大問題だ。
だから私は私が通っていたクソ中学校が大嫌いだった。一刻も早く、こんなバカ学校とは金輪際オサラバしたかった。しかし、だからと言って、私は決して投げやりな中学校生活を送っていた訳ではない。私が通っていたクソ中学校は千葉の田舎のおバカ中学校で、勉強そっちのけで行事に打ち込んでいた学校だった。元来お祭り好きの私であれば行事と言えば全力投球するのは当然の事であった。それでとにかく行事には全力投球した結果、我が3年1組は中学校の行事全てで優勝出来たのである。
ただ一つ、忌むべき事があったとすれば、そんなクソ中学校に於いて、私が生徒会長に祭り上げられてしまった事だ。前述のように、所謂小中義務教育9年間の初日に於いて、いきなりクラスメートを泣かせて問題児のレッテルをしっかり貼られた私にとって、良い子の生徒会長なんて似合わないにも程がある、対極の極致のような存在だった。
今から振り返っても、なぜそんなアウトローの一匹狼の野蛮人の私に生徒会長なんて職務が舞い込んだのか分からない。大阪の小学校時代、さんざん暴れ回った事が歪んだ形で千葉の学校に伝わったのかも知れない。ただ一つ思い当たる節があるとすれば、そんな千葉の田舎おバカ中学校で、私がたまたま一番成績が良かった、という事だ。でも、成績が良かった奴に成績が良いという理由で生徒会長をやらせようなんて、あまりにも短絡的で浅はかな考えだ。
大体、中学校の生徒会なんて、教師が裏から手を回して調整して、無投票でほぼほぼ決まるのが常であった。しかし、私の代では、学年主任が推す良い子の生徒と、私のクソ担任教師が推したアウトローの私と、2人立候補の形になってしまい、珍しく生徒会選挙に於いて生徒会長職が投票で決まる事になった。私のクソ担任教師は私とものすごく仲が悪かったのに、私を生徒会長に推薦するなんて、もはや完全に嫌がらせであった。
しかし、何の因果か、生徒会長選挙で僅差で私が勝ってしまった。話によると、卒業する3年生は学年主任推薦の良い子に投票し、私の代の2年生は真っ二つに票が割れ、下級生の1年生はアウトローの私に投票したらしい。そうして、卒業する3年生より下級生の1年生の方が人数が少し多かったものだから、その差で私が当選したという訳だ。まわりの教師からは、卒業していなくなる3年生より、中学校に残る1、2年生に支持してもらって当選の方が良いじゃないか、と言われたが、こちとらそもそも生徒会長になんてなる気がサラサラないのに、そんな事を言われても良い迷惑であった。
当選してしまった事で、私はものすごく憂鬱になった。私は良い子の生徒会長なんて柄ではなかった。小学校時代、しょっちゅう事件を起こして廊下に立たされていた(私の頃の昭和時代にはまだそんな時代錯誤的な罰が現実に存在したのだ。たぶん今の時代、生徒を廊下に立たせたらアウトだろう)、問題児の私が中学校の生徒会長なんて、何のギャグであろうか。私にとっての黒歴史である。そして、私が生徒会長に当選した時に、同じく生徒会副会長に当選したのが、例のラブレターの彼女だったのだ。
「初めてのラブレター」で投稿した時に差し出し人の名前のないラブレターを私に出したのが副会長の彼女だと書いたが、その時の生徒会長が私だとは書いてなかった気がする。でも、そもそも私が生徒会長に、彼女が生徒会副会長に就任したのは、差し出し人のないラブレター事件の後の話なので、ラブレターの話の展開にはあまり関係のない事であった。実際、生徒会の職務を務めるにあたり、ラブレターの副会長は、私に対してそんな素振りは一切見せなかった。まあ、もしかしたら、ラブレターの夏休みの待ち合わせ場所に私が現れなかった事で、彼女の中では私の事はもう、終わった事になっていたのかも知れない(実際は何となく彼女の中では終わっていなかったような気がしてならないのだが、今その可能性に言及すると鬱な気分になるので省く)。
とにかく私は、私が大嫌いなクソ中学校で生徒会長なんてものを務めるのが死ぬほど嫌だった。そして、その嫌さ加減を決定的なものにしたのが生徒総会であった。生徒総会は中学3年の1学期に行われ、中学校に於ける様々な事柄を決めていく儀式だ。儀式だ、と書いたのは、中学校の生徒総会なんて、形式ばった、形だけの形骸化したものでしかなかったからだ。だから、毎年の生徒総会なんて、全くの無風の退屈なものに過ぎなかった。私の代を除いては。
私は嫌々生徒会長になってしまったが、しかしだからと言って、教師の言いなりのお飾り生徒会長を粛々とお務めするなんてまっぴらゴメンだった。そんな中、私が生徒会長を務める任期中ただ1回の生徒総会に於いて事件が起きた。
生徒総会は議題に従って粛々と進行されていく茶番劇なのだが、その茶番劇が終わりを迎えようかと言う刹那、1人の生徒が手を挙げた。私は体育館の壇上からその生徒を見ていたが、知らない顔だったので、下級生のようだった(同学年の連中の顔と名前は全部覚えていたから)。その生徒は私に向かって「部活動は必ず入らないといけないんでしょうか」と質問してきた。そんな質問をするくらいだから、1年生だったかも知れない。所謂、後々社会問題となる「部活動全入問題」である。当時、中学校は全生徒に対し、無理矢理何らかの部活動に入るよう強制していた。しかし、実態はどうしても部活動に馴染めない生徒が出てきており、私の知る限りでも2桁の生徒が部活動を辞めて帰宅部となっていた。
私は個人的に部活動はあくまで課外活動であって、強制的にするものではないと常々思っていたので「部活動はあくまで個人の自由によるもので、入りたい人は入って、入りたくない人は入らなくて良いと思います」と答弁した。
すると、私が答弁した瞬間に私のクソ担任教師が壇上に飛んできて「現在、我が中学校で部活動に所属していない生徒は1人もおりません」と答弁して、私に一瞥を加えるとそのまま立ち去っていった。
私は「この嘘つき豚野郎が!」と心の中でクソ担任教師を罵った。そうして、生徒総会は険悪な雰囲気の中、そのまま時間切れ打ち切り終了となった。
私はとてもウンザリした。現実に部活動に属さず帰宅部になっている生徒は少なからずいて、教師側もその事は把握しているのに「部活動に所属していない生徒は1人もおりません」とはこれ如何に?まさか帰宅部も部活動とかぬかすのではあるまいな?私は嘘八百を平気で並べ立てる私のクソ担任教師に心の底からウンザリしたし、心の底から軽蔑した。
この件が決定打になったと思われるが、これで私と私のクソ担任教師との仲の悪さはもはや修復不可能なものとなり、私はクソ担任教師から中学校代表としての陸上競技大会への参加を妨害されたり、定期テストの答案用紙を改竄されて点数を不当に下げられるなど、ありとあらゆる嫌がらせを受けた。今もこのクソ担任教師が生きているのか死んでいるのか知らないが、もしまだ生きているのなら、私自らの手で引導を渡してやりたい気持ちで一杯である。
こんな感じなものだったので、私は私が通っていたクソ中学校に1秒たりともいたくはなく、さっさと卒業して永久に縁を切ってしまいたかった。行事にはプライドをかけて一生懸命取り組んだが、中学校生活そのものは私にとって、ひたすら我慢の時間であった。
そうしてひたすら我慢に我慢を重ね、高校受験も終わって、やっと中学校卒業の春を迎える事となった。生徒会長なんてものになってしまっていた私は卒業式に於いて、卒業生代表として答辞を述べる事になった。卒業生答辞は代々ペアで行っており、私は副会長の彼女とペアを組んで卒業生答辞を述べる事になった。
副会長の彼女とは国語の女性教師の指導の下、卒業生答辞の練習を一緒に重ねていた。その練習の間、私と副会長の彼女はずっと2人で一緒にいたのだが、特に彼女の方から私に対して特別なアプローチがある訳でもなく、淡々と練習は進んでいった。
そうしてついに、卒業式当日を迎える事となった。このクソ中学校卒業式を迎えるにあたり、私には以前より計画していたある壮大な企みがあった。私はこのクソ中学校を卒業するにあたり、どうしてもこのクソ中学校に対して復讐を果たしたかった。こんなクソ中学校、ただで卒業してたまるか!絶対に復讐してやる!そうして、当時の私が考えた復讐方法というのが、超感動的な答辞をワザと読んで、中学校のみんなをワザと号泣の嵐にしてやる、というものだった。
この駄文をお読みの方の中にはこの復讐方法に呆れている方もおられると思う。「何だこの厨二野郎は!」と唾棄されている方もおられるかも知れない。しかし、仕方ないのである。当時の私はまだ中学校3年生で、言わばバリバリの厨二病真っ最中だったのだから。今から思い返してみても、何故そんな復讐方法を思いついたのか分からない。
しかし、全校生徒の前での答辞というのはなかなかに大きなイベントの機会である。その貴重な機会を私が取得しているのであれば、その絶好の機会を利用しようと考えるのは合理的判断だったと思う。その衆人注目の場で、最もこの中学校から卒業するのを喜んでいる、中学校生活に未練が微塵もないこの私が、ワザと感動的に答辞を読んで、そんな私の思惑を知らずに生徒達が号泣すれば、そんな愉快な事はないではないか!泣きじゃくるみんなを見て、俺様は内心ほくそ笑んでやる!そんなアホな事を当時の私は考えたのである。
今から考えると本当に馬鹿馬鹿しいし、何故そんな事を考えてしまったのかと自分でも呆れるが、当時厨二病真っ盛りの人間が考えてしまったものは仕方ない。私は内心に邪悪な企みを秘めて卒業式に臨んだ。
卒業式は卒業証書授与、在校生送辞、と粛々と進んでいった。そして、いよいよ卒業生答辞である。卒業生答辞は前述の通り、生徒会長の私と副会長の彼女の2人で行う。
まず副会長の彼女が中学校入学から3年生1学期の修学旅行に至るまでの思い出を振り返る答辞を読んだ。副会長の彼女は一切泣く事もなく、淡々とクールに中学校生活を振り返っていった。あまりにも淡々とクールに読むものだから、私は内心「もう少し感情込めて読んで俺のために雰囲気作りしてほしいなあ」などとアホな事を考えていた。そうして、そのまま、副会長の彼女は淡々とクールに答辞を読み終えてしまった。
これは私にとって少々誤算であった。副会長の彼女は女の子なので、もっと感情的に、何なら思いっきり泣きながら答辞を読むものとばかり思っていた。そうして、所謂場が温まったところで私が出てきてみんなを号泣の渦に巻き込むのである。はずだった。
しかし場は一切温まっていなかった。むしろ少し冷えていた。私は「何もこんなにクールに淡々と答辞を読まなくても!」と内心文句を言いながら演壇に向かった。しかし、私も決して手をこまねいていた訳ではない。私の答辞の持ち分は、中学3年2学期の体育祭から合唱祭を振り返るという中学校行事最大のクライマックスの部分であった。
我が3年1組は、「むかつく!」の「体育祭の大虐殺」で投稿した通り、校内陸上競技大会総合優勝・体育祭総合優勝・体育祭応援賞・合唱祭最優秀賞・校内ロードレース大会総合優勝と、中学校の行事全てに優勝を果たしており、なおかつ私が学年1位の成績でかつ生徒会長という、言わば文武政治全てに於いて中学校を制圧していた伝説のクラスであった。しかしだからと言って他のクラスは我が3年1組が学校行事を蹂躙するのをただただ指を咥えて見ていた訳ではなく、どのクラスも「打倒3年1組」を掲げて、何とか我が3年1組に一矢報いようと必死だった。そんな切磋琢磨の末に合唱祭では中学校史上最高レベルの争いに達し、今まで存在しなかった「審査員特別賞」まで出来てしまう程だったのである。だから、私の代の生徒にとって、学校行事はとても思い入れのあるものだったのである。
しかも、卒業生答辞は自分の席から体育館の壇上に上って、みんなに背を向けて読み上げるのだが、我が3年1組は1組なので最前列に整列していた。つまり、私の真後ろに、私の仲間達は並んでいたのである。
これは私にとって、最高に有利な条件だった。中学校の歴史上、最高に行事に思い入れのある伝説のクラスである我が3年1組が私の真後ろにいるのだ。それはつまり、私の答辞に対して、仲間達が真っ先に反応してくれる、という事だ。
もちろん、私の邪悪な計画は私のクラスメートはおろか家族にも誰にも打ち明けていなかったので、クラスメート達は私がクソ中学校への復讐という邪悪な下心をもって答辞を読み上げるなど、夢にも思っていなかった。
技術的な部分でも、私はもともと朗読は得意で国語の女性教師に絶賛されており、また声ものちに井森美幸さんやプロの声優の方に「良い声だね!」と褒められたくらいだったから、みんなを泣かせる朗読技術は持っていたはずだった。この朗読技術をもってすれば、卒業生のみんなを号泣させる事が出来ると踏んで、私は確信的に犯行に及んだのである。
私は演壇に進むと、思いっ切り感情を込めて答辞を読み始めた。私の答辞の出だしは、答辞が手元にないので、はっきりとは覚えてはいないが、確か「最後の体育祭!」みたいなものだったと思う。そして、私が「最後の体育祭!」と言った瞬間、我が3年1組の女子全員が一斉に号泣し始めた。そうして、我が3年1組女子の号泣がまるで合図になったかのように、卒業生である3年生の女子全員が堰を切ったように号泣し始めたのである。
それは一瞬の出来事だった。一瞬にして、まるで津波のように号泣の波があっという間に卒業生の席を駆け抜けていったのである。私はみんなに背を向けていたので、答辞を読んでいる時はみんなの表情は見えなかったのだが、後で卒業アルバムを確認すると、1人残らず全員号泣していたのである。何なら女子だけでなく、男子も号泣していた。
私の代は1学年200数十名の陣容だったので、女子の人数は100人以上。その全員が私の答辞で号泣したのであった。それはそれは壮観の光景であった。そんなの卒業式だから、みんな泣くに決まってるじゃないかと言われる方もおられるかも知れないが、他の年の卒業式では、卒業生はみんなにこやかに、基本笑顔で卒業式に参加していた(これは妹の卒業アルバムで確認済み)。私の先輩達の2年間とも、卒業式は笑顔であった。
その後、答辞が合唱祭の段に差し掛かると、卒業生の号泣は最高潮に達した。私の代の卒業生にとっては、中学校の新たな歴史を作るほどの史上最大の大激戦となった伝説の合唱祭になったのだから、みんなの思い入れはひとしおのようであった。
私は、私の背中に皆の号泣の泣き声を浴びながら、ちょっと油断すると少しウルッときそうになってしまった。しかし、私はあくまで演技をしているのだから、こんな事で泣く訳にはいかなかった。今日はこのクソ中学校と縁を切れる、素晴らしいお祝いの儀式なのである。涙など許される訳がない。私は渾身の演技で感情を込めて、答辞の朗読を続けた。
結局、卒業生の女子全員プラス男子、さらには教師達までもが号泣するという感動的な卒業生答辞はそのまま感動的なフィナーレを迎えた。そして、それまで、今にも泣き出さんばかりの迫真の演技で答辞を読みすすめていた私は、答辞を読み終えるや否や、コロっと表情を変えて満面の笑みをたたえてみんなの方に向き直り、満面の笑みで壇上から降りていった。私の大勝利であった。
そんな卒業生の女子(何なら男子も)全員が号泣するという空前絶後の卒業式になったのであるが、私が一番意外だったのは、号泣している卒業生の女子全員の中でただ1人、副会長の彼女だけが壇上で一粒の涙も流さなかった事である。
そうして壇上から降りて、後は自分のクラスに戻るだけ、というシチュエーションで今の今まで泣いていなかった副会長の彼女が号泣しながら学年主任に連れられて、私のところに握手をしにやってきたのであった(「初めてのラブレター」参照)。さっきまで全く泣いていなかったので、いつどこで副会長の彼女が号泣したのか私には分からなかったが、もしかしたら壇上で副会長の彼女は、必死に涙をこらえていたのかも知れない。
クラスに戻る前に、答辞の指導をしてくれた国語の女性教師が号泣しながら私のところにやってきて「最高の答辞だったよ!」と褒めてくれた。復讐という邪悪な気持ちで答辞を読んでいた私は、その国語の教師の言葉にちょっとだけ良心の呵責を感じた。あくまでちょっとだけであるが。
そしてクラスに戻った私にはまだやる事があった。クラスのみんながまだ号泣している中、私は憎きクソ担任教師に向かって、あの感動的な私の答辞が全て演技であった事を打ち明けたのだ。さすがの担任教師も呆れ返っていた。まあ、今の私から見ても呆れるだろう。本当に厨二病まる出しである。わざわざネタバレしなくても、せっかくみんな泣いたんだから、ここは空気を読んで、黙っていた方が、みんなハッピーで賢明ではあっただろう。しかし、当時の私は好き好んでみんなに泣いてもらおうと思ったのではなかった。ハッピーな思い出に残る感動の卒業式にするために答辞を読んだのではない。これは復讐なのである。卒業生全員を使って、俺はこんなクソ中学校とは金輪際縁を切ってやるぞ!と宣言するための復讐なのだ。だから少なくともクソ担任教師には、あれが演技であった事を伝えなければならなかったのだ。
その時、クソ担任教師は「役者だな〜」と言って、軽蔑の眼差しで私を見下ろしていた(クソ担任教師の方が私より身長が高かったので)。クソ担任教師は、本当に心の底から私の事を軽蔑していたと思う。しかし安心しろ!私は最初からお前の事は軽蔑していたのだから!
私とクソ担任教師のやり取りを見ていた仲の良いクラスメートの女の子(合唱祭の伴奏者)は「私、りんりんの答辞に感動して泣いたのに!」とあれが演技であった事に心底驚いていた。
クソ担任教師はもう一度「役者だな〜」と言い残してその場を立ち去った。
こうして、私は私の答辞によって女の子100人以上を泣かせるという偉業を達成したのであるが、その経験がその後、私の人生で生かされる事は一切なかった。私はプレイボーイとなって女の子100人斬りする事もなかったし、取っ替え引っ替え遊びまくって女の子を泣かせまくるという人生を送る事もなかった。演技力を生かして俳優になる事も朗読力を生かして声優になる事もなく、ただただ、平凡な人生を送るのみであったのである。
ちなみに以前「初めてのラブレター」を投稿した際、石川さんより
「くぅぅーっ、甘酸っぱいねー。でも文字に気づいてから慌てて取り戻す、というのはなかったのかな? もしりんりんも本当に好きなら、そういう行動もあったと思うのだけど、やはりそこまでではなかったということかもしれないね。今はその子はどうしてるんだろうね。」との寸評を頂戴した。
これについて弁明させていただくと、副会長の彼女の文字に気づいたのは卒業アルバムが配られた、卒業してから2か月も経過した5月中旬で、もうゴールデンウィークも過ぎており、私も含めてみんな新しい高校生活をスタートさせている最中であった。しかもその時、私は副会長の彼女がどこの高校に進学したのか知らなかったのである(と言うか今でも知らない。だから彼女が今、どうしているか分からない)。そんな状況であったため、いくら卒業アルバムの筆跡が酷似(というか完全に一致)していたとは言え、彼女が書いたという絶対的な確証を得られていない状況で、どこに進学したかも分からない副会長の彼女を探し出して「今から2年前の夏休みに僕にラブレターくれましたよね?」とアタックする訳には毛頭いかなかったのである(タイミング的に遅すぎた事もある)。もちろん私が、卒業式で女の子100人以上泣かせた事を生かすようなプレイボーイ人生を送っていたならば、副会長の彼女を探し出してハートを射止めていたかも知れないのだが、私のあらゆる実現可能な選択肢の中を探してみても、そんな展開は望むべくもなかった。
まあ、所詮私はその程度のちっぽけな人間だったのである。
これがある意味ムダに初めて女の子100人以上を泣かせた、私のクソ中学校卒業式の思い出である。(りんりん 2025/4/25)

(寸評)俺もそこまでではないけど、小学三年生の頃、担任に完全にいじめの対象とされていた。そこで詩の授業があった時「大人はこういう風に書けば『子供らしい』と喜ぶんだろ」と思って全く感情無く、子供向けの本よろしく詩を書いたら、あれほど俺を嫌っていた担任が「これは素晴らしい!」と黒板に全文を板書した。この時ハッキリと大人の求めていることが分かり、本人に伝えこそしなかったもの「してやったり」と思ったものだった。8ポイント。

初めての中学校合唱祭最優秀賞


「むかつく!」の「体育祭の大虐殺」で投稿した通り、我が3年1組は騎馬戦で2位以下を木っ端微塵に粉砕し、圧勝で体育祭総合優勝を果たし、2年連続受賞となった体育祭応援賞と合わせて、中学校としては稀に見る体育祭2冠を達成した。
体育祭閉会式終了後、各クラスの首脳陣が私の所に集まり(その時点で私は生徒会長だったので)、口々に「体育祭は1組に完敗だったよ」と潔く敗戦の弁を述べた。そして敗戦の弁に引き続き「体育祭2冠達成したんだから、合唱祭最優秀賞はもういいだろう?」と談合的発言をしてきたのである。
行事が異常に盛んな我がおバカ中学校に於いて、体育祭は最大のビッグイベントであったが、合唱祭もまた、体育祭と並ぶ最大のビッグイベントだったのである。そこで、各クラスは体育祭はもう仕方なく2冠くれてやったから、合唱祭でも最優秀賞を狙うなんて野暮な真似はするなよ、と釘を刺してきたのである。
これは我が3年1組からすると、片腹痛い妄言であった。なぜなら、我が3年1組は実力で貴様らのクラスを粉々に打ち砕いたのであり、ただただ貴様らは我が3年1組にひれ伏したのみであったのだ。そんな輩が「体育祭は仕方ないから合唱祭最優秀賞は譲れ」とは寝言を言っているのか?しかも前年度合唱祭学年優勝は我が3年1組なのである(2年からそのまま持ち上がりのため)。ディフェンディングチャンピオンに対して「合唱祭最優秀賞を譲れ」とは貴様らは何を勘違いしているのだ?
しかしながら、これは各クラスに於いて偽らざる本音であった。体育祭総合優勝並びに応援賞というビッグタイトルを逃した今、各クラスは合唱祭最優秀賞という最大の目的に向けて全振りしているのであった。
そもそも我がおバカ中学校は行事に全振りしているのであるが、特に合唱は毎日朝の会、昼休み、帰りの会と1日3回も練習する熱の入れようであった。だから秋(2学期)の合唱祭だけでなく、1学期にも3学期にも歌声交換会なるものを開催して、常に合唱の研鑽を積んでいたのである。
そのため、我がおバカ中学校の合唱のレベルはとてつもない事になっていた。当時はインターネットなどなかったので、自分達の立ち位置を把握出来ていなかったのだが、今、ネットで他の中学校の合唱レベルを確認すると、我がおバカ中学校はそれらの中学校を遥かに上回る実力の持ち主だったのである。それはある意味、当然の事であって、朝・昼・夕、毎日練習していれば上手くもなるというものだ。
こんな事を書くと「それはお前の思い出補正されているだけであって、実際はそんな大した事なんかないんだろ?」とご指摘の方もおられるかも知れない。しかし、残念ながら私は中学校当時の合唱の音源を今も保持しており、何十年も前のものではあるが聴き比べてみても、今、ネットに公開されているそこらへんの中学校より遥かに合唱の実力は上であった。特に我がクソ中学校は全クラスが混成四部合唱に取り組んでいた。ちゃんとソプラノ・アルト・テノール・バスとパートを分けて、混成四部合唱曲を歌っていたのである。
ところが中学校当時はそんな事は分からないものだから、修学旅行の際に東京駅コンコースや京都の清水寺の舞台で合唱(混成合唱のためのカンタータ「土の歌」の「大地讃頌」など)を披露した時、私は恥ずかしくて仕方なかった。どうせ「千葉の田舎中学校が何かしているよ」と行き交う人々から嘲笑されていると思い込んでいたのである。しかし、今、冷静に当時の状況を振り返ると、東京駅でも清水寺でも周りの人々は我が中学校を嘲笑する事なく、合唱に聴き入ってくれていたのである。つまり、少なめに見積もっても、人様にお聞かせするに足るレベルの合唱の実力は有していたのだ。
そんな3年間毎日毎日歌っている我が中学校に於いては、やはり合唱祭最優秀賞というのは、各クラスにとって悲願のタイトルであった。実はディフェンディングチャンピオンの我が3年1組は、2年生の時点で合唱祭最優秀賞を狙っていた。後に伝説のクラスとなる我が3年1組であるが、2年生の当時から合唱の実力は凄まじいものがあった。そこで、我がクラスの合唱の実力に目を付けたクソ担任教師は超難易度の高い歌を自由曲に選んで、ガチで当時の3年生を倒しに行ったのである。
我がおバカ中学校の合唱祭のシステムは各クラスが課題曲と自由曲の2曲を歌い、外部からも審査員の先生を招聘して審査を行い、1・2年生は各学年優勝クラス(合唱祭優秀賞)を選出、そして3年生のみ学年優勝を最優秀賞として表彰し、3年生の学年準優勝を優秀賞として表彰した。
こうして書くと分かるが、合唱祭最優秀賞は常に3年生の専売特許であった。他の学年の出来如何に関わらず、その時の3年生の学年優勝クラスを最優秀賞に認定してきたのである。
これに真っ向から異を唱えたのが我がクラスのクソ担任教師であった。「今のお前らなら今の3年生にガチで勝てる」と歌いこなすのが非常に難しい組曲のラストの曲を選んできた。当時2年生だった私達もガチで3年生を倒すため、練習に練習を積み、本番では最高の合唱を披露。我がクラスの後に出てきた3年生はどれも我がクラスを上回っているとは冷静に見ても思えなかった。
しかし、結果は非情にも合唱祭最優秀賞は3年生のクラスが選ばれた。これには当時2年生の私達は納得出来ず、後日の音楽の授業で、合唱祭審査員も務めた音楽教師に説明を求めた。すると音楽教師は「ここだけの話だけど」と断った上で、実際、3年生の最優秀賞受賞クラスより2年生の我がクラスの方が上手かった事を認め、「でも3年生を差し置いて2年生から最優秀賞を出す訳にはいかないから、そこは理解して」と政治的発言をしてきた。
この話を聞いて我がクラスは大変に悔しがり、3年生になったら、他の追随を許さないレベルで優勝してやる!とその時誓ったのであった。
しかし、体育祭が終わった直後、我が3年1組は謂わば燃え尽き症候群の抜け殻となっており、体育祭のタイトルを全て逃して「打倒3年1組!」を掲げて即座に合唱練習に取り組んでいる他のクラスに完全に遅れを取っていた。その最大の原因が、合唱祭で歌う自由曲がなかなか決まらなかった事である。
我がクラスの合唱曲は全てクソ担任教師が決めていた。我がクラスのクソ担任教師は私がクソ担任教師と書いている事からも分かるように、パワハラの権化のクソ教師であった。そんな奴だから合唱曲は自分で勝手に決めて、クラスの生徒の意向を汲むなんて事は一切なかった。そのクソ担任教師が大事な合唱曲自由曲をなかなか決めなかったのである。
私の情報網には他のクラスは早々に自由曲を決め、早くも練習に取り組んでいるとの情報が入ってきていた。体育祭が9月中旬で合唱祭が11月頭であるから、実質1か月半しか練習期間はないのである。だから早く自由曲を決めて練習に取り掛かりたいのだが、その自由曲をクソ担任教師が決めてくれなかった。
クソ担任教師に何度か直談判したが聞き入れてもらえず、私達は仕方なしに課題曲の練習だけをしていた。ディフェンディングチャンピオンとは言え、我が3年1組はそんな体たらくだったので、合唱祭の下馬評に我がクラスは上がっていなかった。その時点での下馬評は圧倒的に3年6組だったのである。
我が中学校史上最高の運動神経を誇り、その時点で校内陸上競技大会と体育祭2冠を制していた中学校きっての野獣クラスで学年1位ではあるがアウトローの野生児生徒会長の私を有する我が3年1組に対して、学年主任が率いる良い子のクラスで(当然、生徒会会長選挙で私に僅差で敗れた良い子はこのクラスの人間であった)、あのラブレター事件の生徒会副会長を有するのが3年6組であった。
3年6組は副会長の彼女を筆頭に団結力が強く、特に副会長の彼女は合唱祭では指揮者としてクラスをまとめ、2年時でも合唱祭学年優勝候補であったが、我がクラスの前に敗れ去っていたのであった。2年時に我がクラスに敗れた事で、副会長の彼女を筆頭に3年6組は「打倒3年1組!」で完全に団結していた。3年6組の気合いは凄まじいものがあり、早々に自由曲を決め、練習に取り組んでいるとの事であった。合唱はやはり歌唱力もさる事ながら、みんなの心が一つになるというハーモニーを生み出す団結力も重要なため、その意味でも3年6組は強敵であった。
そんな宿敵副会長の彼女に対して、私はと言えば、幼少時にピアノを習っていた事もあり、楽譜を読めた関係で男子のバスのパートリーダーを中学高校の6年間務め、自らもバスの主力としてクラスの合唱の一翼を担っていた。このように私と副会長の彼女は、双方がそれぞれのクラスの主力として、合唱祭に向かっていたのである。
さて、合唱祭を迎えるにあたり、一つの大きなポイントがあった。それは、我が3年1組・2組・3組が入る旧校舎と3年4組・5組・6組が入る新校舎の位置が離れており、お互いがお互いの様子を伺う事が全く出来ない状況になっていたのである(これは学年主任の3年6組が権力を行使して、新校舎を奪い取ったと専らの噂であった)。だから、下馬評では3年6組が凄いと言われても、具体的にどう凄いのか、どんな曲を歌うのか、さっぱり分からなかった。
そうこうするうちに我がクラスのクソ担任教師はやっと自由曲を勝手に決めてきてのであるが、それは何とアカペラ(無伴奏)の大変難しい民謡であった。我がクラスはこれには大変落胆し、そして反発した。3年生では、所謂合唱曲らしい王道の合唱曲で最優秀賞を狙いに行きたかったのだが、クソ担任教師は自分達に何の相談もなく、勝手によく知らないアカペラ民謡を選んできてしまったのだ。
この時点で我がクラスのモチベーションは最低レベルであった。
こうして最初はドン底からスタートした我が3年1組ではあったが、そこは腐ってもディフェンディングチャンピオンである。難解とされる民謡を各パート練習で習得していき、初めて全体練習で合わせてみた時、「これはもしかしたら結構行けるんじゃないか?」というレベルにまで達していた。
しかしながら、いかんせんスタートダッシュに失敗していたので、合唱練習を見てもらっている音楽の時間に、音楽教師に「どうせ最優秀賞は3年6組なんでしょ?」と聞いてみた。すると音楽教師は「いや、そうでもないよ」と全クラスの合唱練習を見ている立場からコメントしてくれた。この音楽教師のコメントを聞いた時、初めて我が3年1組は、3年6組と勝負出来るところまで仕上げてきている事を実感したのである。
しかし、繰り返しになるが、我が3年1組のいる旧校舎と、宿敵3年6組がいる新校舎は離れていたので、お互いの状況を把握出来ないまま、時間が経過していった。言わば、見えざる敵との闘いが繰り広げられていたのである。
我が3年1組は、2年生の時もそうしたのだが、曲想解釈のため、各班ごとに民謡の歌詞をイメージした絵を作成し、完成すると教室の後ろの壁に掲示して、その絵を見ながら練習する事もした。こうして、曲のイメージを深め、ただ歌うのではなく、その描かれている世界観も理解しながら、練習を進めていった。最後の方では、音楽教師は公平を期すためと言って、他のクラスの様子は口にしなくなっていた。それでも、音楽教師が我が3年1組の練習を聴いている反応を見る限り、かなりのレベルに来ている事だけは確かだった。
こうして練習に練習を重ね、ついに合唱祭本番当日を迎えた。私は練習にかなりの手応えを感じ、本番で持てる力を出し切れたならば、必ず最優秀賞を獲れると確信するまでに至った。合唱祭当日は我が3年1組のクソ担任は、教育委員会の会議が何かに出席しなくてはならず、合唱祭は不在となった。我が3年1組はクラスメート同士声をかけ合い、本番に臨む事になったのだ。
合唱祭の演奏順は1年生から始まり、次いで2年生、最後に3年生となっていた。そして気になる3年生の演奏順は、我が3年1組のライバル3年6組がトップバッターで、3組、4組、5組と続き、我が3年1組はトリの2組の前の最後から2番目、という並びであった。
1年生、2年生の演奏が終わり、いよいよ3年生の出番。我が中学校の歴史で最高峰の闘いが切って落とされようとしていた。最初に出てくるのは副会長の彼女を筆頭とする強敵3年6組である。そして、我が3年1組は、ライバル3年6組の合唱祭の曲を聴くのはこの時が初めてであった。
出だしで3年6組の女声パートが歌い始めると会場内に戦慄が走った。何だこのレベルは!完全に全国レベルの凄まじいとしか言いようのない女声パートの歌声に会場内はざわつき始め、私は思わず息を飲んだ。あの副会長の彼女はここまで仕上げてきていたのか!私は副会長の彼女の合唱祭にかける本気度を思い知らされる事となった。その圧倒的な歌声に、会場内はただただ圧倒されていたのである。完全に他の年度であれば最優秀賞間違いなしの出来栄えであった。
3年6組の合唱が終わると、会場からは割れんばかりの拍手が鳴り響いたのだが、その時、我が3年1組男子部隊は、私のところに集まって「おい、6組凄すぎるだろ?ヤベエんじゃねえのか?」と先程の6組の合唱のヤバさを口にしていた。私は動揺している男子に対して「確かに6組の女声パートは凄まじかったが、男声パートは完全に1組の方が上だ。自分達の力を出し切れば必ず6組に勝てるから大丈夫だ」と説明した。
これは別にクラスの男子に嘘をついた訳ではなく、実際、6組の合唱は圧倒的であったし、他の年度なら間違いなく最優秀賞を獲れるレベルではあったが、最後が静かに終わる曲でもあった事で、1組を倒すにはインパクトに欠けると私は感じた。ものすごく辛口で言うと竜頭蛇尾であった(でも他の年度ではその竜頭蛇尾にも絶対に勝てないというレベルの竜頭蛇尾であった)。対して我が3年1組の民謡は最後に最大の盛り上がりを見せる曲なので、そこをいかに上手く表現出来るか、がポイントであった。
3番目の4組のところで我が3年1組は出場準備のため、体育館から外に出て、ピロティに整列した。そこでクラスメートの指揮者の男子がおどけた事をして、みんなの緊張をほぐそうとしてくれた。
合唱祭は課題曲と自由曲の2曲を歌うのであるが、他のクラスは、6組もそうだったのだが、課題曲からエンジン全開でパワフルに歌っていた。しかしながら、それでは自由曲とのメリハリがつきにくいと私は感じていた。そこで、クラスメートに1組の作戦を伝授した。我が3年1組としては、課題曲は他のクラスのようにパワフルに歌うのではなく、丁寧に歌う事を心がけて、我が3年1組の自慢のパワフルさは自由曲で一気に爆発させる、というものだった。それによって課題曲と自由曲のメリハリをつけて、自由曲のパワーを際立たせる、という作戦であった。
私はピロティで整列しているクラスメートを眺めていたが、皆、あきらかに緊張していた。それは仕方のない事かも知れない。ライバル6組の凄まじい合唱を見せつけられては、緊張するな、という方が無理な話であった。
そして、前の5組の合唱が終わり、我が3年1組は体育館のステージに進んでいった。皆、緊張の面持ちであったが、自分達の力を出し切れば必ず最優秀賞を獲れるから、と声をかけ、ステージ上で整列した。
課題曲は作戦通り、丁寧な合唱を心がけ、満足のいく出来栄えだった。そしていよいよ自由曲。ここはいきなり出だしからテノールのパワフルな入りから始まり、聴く人を圧倒した。曲の入りは本当に上手くいき、一気にパワー全開となったのだが、ここで恐れていた事が起きた。皆、緊張していた事もあって、音楽業界用語で言うところの「走って」しまったのである。つまり、歌のペースが若干速くなってしまったのだ。
私は何とか元のペースに戻そうと試みたが、最後まで「走った」状態となり、通常よりはややアップテンポで曲は進んでしまった。それでも最後のクライマックスでは曲の強弱を最大に表現する事が出来て、歌い終わった瞬間、会場からはこの日最高の拍手が鳴り響いた。
実はこの時、当時2年生の私の妹が会場の後ろの方にいたのだが、そこにいた3年4組の担任が「3年1組にやられたな」とつぶやいたのを聞いたという。
歌い終わった我が3年1組は最後の5組の出番があるため、自席には戻れずに体育祭の端で床に座って待機していた。丁度そこは1年生の席の真横で、しかももう1人の音楽教師が担任をしているクラスであったが、その1年生の席の真横で、我が3年1組のクラスメートの多くが歌い終わって泣いていた。特に伴奏者の女の子を始め、女子は皆、泣いていた。まあ力を出し切って感極まって泣いていたのだと思うが、私はと言えば、曲が走ってしまった事に文字通り頭を抱えていた。いつも通りの合唱が出来れば6組に勝てると踏んでいたが、曲が走ってしまったのをどう審査員に評価されるか。その事を考えて私は最後の5組が歌っている間、ずっと頭を抱えていた。
1年生からすれば、すごく上手に歌った3年生が歌い終わって泣いたり頭を抱えたりしているものだから、驚いたに違いない。でもそれは、それ程我が3年1組がこの合唱祭にかけてきた、という証左でもあったのだ。
最後の3年5組の合唱が終わると我が3年1組は立ち上がって、自分達の席に戻った。ここからは審査の時間に入る。審査員の方達は体育館を出て、審査室に向かっていった。残された私達は、審査が行われている間中、ずっと心臓が張り裂ける思いで運命の刻を待っていた。
10分が経過した。審査員は戻ってこない。
20分が経過した。審査員はまだ戻ってこない。
そして30分が経過してもなお、審査員が戻ってこない事に対して、会場内が騒然とし始めた。これは一体どういう事なのか?過去の合唱祭では審査員は10分ほどでいつも戻ってきていたではないか!審査室で何が起こっているというのだ!
私は、これは我が3年1組の曲が走ってしまったのと、3年6組の合唱を比べて、どっちを最優秀賞にするかで揉めているのではないかと不安にかられていた。我が3年1組のクラスメートは、みんながみんな祈るような思いで審査員が戻るのを待ち続けていた。
そうして、審査時間が40分になろうか、という刹那、やっと審査員の方達が体育館に戻ってきた。もう下校時刻が近づいてきていた。すぐさま結果発表に移り、1年生優秀賞、2年生優秀賞と順々に発表されていった。
いよいよ3年生の発表である。本日最大の緊張の瞬間だ。そしてここで大事件が起きた。審査員長の音楽家の方が「今年はあまりにもレベルが高過ぎるため、新たに審査員特別賞を作りました」と言い出したのだ。これには会場内は完全に騒然となった。審査員特別賞だって?そんなもの、今までなかったじゃないか!この時点で審査員特別賞なるものが、どのような位置付けか分からなかったが、最優秀賞を目指している我が3年1組にとってただ一つ間違いなく言える事は、審査員特別賞で呼ばれてはいけない、という事だった。
3年生の発表は審査員特別賞から発表される事になり、会場内は騒然としたまま発表を待った。「審査員特別賞!3年4組!」その瞬間、歓声とも悲鳴とも取れる声が3年4組から上がった。この審査員特別賞がどのような位置付けなのか発表されていなかったのだが、とにかく受賞したという事で、3年4組は概ね喜んでいるようだった。
続いて運命の優秀賞の発表である。最優秀賞を目指していて、ここで名前を呼ばれてしまったクラスは敗北を意味する。ある意味、審査員特別賞よりも何倍も緊張しながら、皆、運命の発表の瞬間を待った。
「優秀賞!3年6組!」その刹那、悲鳴というか断末魔の叫びのような声が3年6組のいるあたりから発せられた。続いて会場内に鳴り響くほどの号泣の声がこだました。この瞬間、3年6組は敗北した。合唱祭最優秀賞だけを目指してきた3年6組は敗北した。この時点で最優秀賞はまだ発表されていないので、3年6組がどこに負けたかは分からないが、敗北だけが確定したのである。
私は前方にいる3年6組のあたりを眺めていたが(合唱祭発表順で前から着席していた)、あまりにも響く号泣の叫びに驚くとともに少し気の毒な気持ちになった。特に指揮者として3年6組を率いてきた副会長の彼女が泣き叫ぶ声はここまで聞こえてきたので、私は少し複雑な気持ちになった。彼女がそこまで泣き叫ぶのは今まで一度も見た事がなかったのだ。
そして、いよいよ最優秀賞発表。最大のライバルの3年6組が消えた今、もう受賞は自分達しかいない。我が3年1組のクラスメートはそんなはやる気持ちを抑えながら、発表の瞬間を待った。「最優秀賞!3年1組!」その瞬間を待ち構えていた我が3年1組は皆、飛び上がって喜んだのだが、驚く事にその発表の瞬間、さらなる断末魔の叫び声が3年6組のいるあたりから響いたのである。3年6組は自分達が宿敵3年1組に敗北したという厳然たる事実を突き付けられて、改めて絶望の断末魔の叫び声を上げたのだった。
この後の審査員長による講評で意外な事実が判明した。実は空前絶後の審査時間の長さは、最優秀賞を決めるための時間ではなかったというのだ。今回の合唱祭は今までにない、あまりのレベルの高さで、最優秀賞は一瞬で3年1組と決まったのだが、3年6組と3年4組のどちらを優秀賞にするか甲乙付け難く、その議論で時間がかかったというのである。そうして、とうとう埒が開かずに今までの中学校の歴史にない審査員特別賞(3位相当)を新設して、表彰する事にしたというのだ。
そして最優秀賞を獲った我が3年1組を審査員長はベタ褒めであった。特に私がパートリーダーを務めるバスの歌声は最高に素晴らしいと絶賛してくれて、私は周りの男子と顔を見合わせて「良かった良かった」と喜んだ。ちなみにあまりのレベルの高さにこの年、設けられた審査員特別賞は翌年からも3年生3位相当の勝利として継続して表彰された。しかし、審査員特別賞はあまりにもレベルが高かったから特設されたのであって、ただ3年生の3位だから表彰するというのは違うと思ったものだ。
さて、審査員講評に続いて表彰式に移ったのだが、ここで衝撃の光景が繰り広げられた。表彰式は1年生優秀賞、2年生優秀賞、3年生審査員特別賞、3年生優秀賞、3年生最優秀賞と登壇するのだが、3年生優秀賞受賞でトロフィーを受け取りに来た3年6組の指揮者を務めた副会長の彼女が、最初から最後まで号泣し通しで、トロフィーを受け取って壇上から降りる時はそのまま崩れ落ちるのではないかというくらい、泣きじゃくっていた。それまで、私の前の2年間はもちろん、妹の代でも合唱祭で優秀賞のクラスは皆、笑顔で表彰式に臨んでいた(妹の代は卒業アルバムで確認出来た)。本来、3年生にとって合唱祭優秀賞でも嬉しいものなのである。しかし「打倒3年1組」を掲げ、最優秀賞のみを目指していた3年6組にとって、優秀賞は敗北でしかなかった。それが指揮者を務めた副会長の彼女の姿に表れていたのであった。そして、私は今まで、副会長の彼女のそんな姿は一度も見た事はなかった。そんな空前絶後の衝撃的な光景を、私はただただ、目に焼き付けるのみであった。
表彰式の後は恒例で最優秀賞を獲ったクラスがもう一度ステージに上がり、最優秀賞受賞の自由曲を歌う事になっているのだが、この年はこともあろうに審査時間が長引き過ぎて下校時刻が迫っている、という理由で最優秀賞お披露目合唱は中止となってしまった。これには会場内大ブーイングであったが、融通の効かない中学校だから仕方ない。
結局、中学校史上最高のレベルで最優秀賞を獲得したにも関わらず、時間切れタイムオーバーでお披露目合唱出来ないという前代未聞の結末となり、そのままクラスに引き返す事となった。その際、新校舎の3年4組、5組、6組から退場していったのだが、ちょうど3年6組が我が3年1組の前を通った時、3年6組女子全員はおろか、男子までも全員号泣し、泣きじゃくっていて、悲痛な姿をさらけ出しながら我が3年1組の前を通って教室に戻っていったのである。
私は宿命のライバル3年6組を倒して悲願の合唱祭最優秀賞を獲得出来た事はものすごく嬉しかったのだが、3年6組の全員が全員泣きじゃくりながら帰る姿に少し同情の念を覚えた。
我が3年1組はクラスに戻ると、ステージ上でお披露目出来なかった課題曲と自由曲をもう一度歌った。この時、同じ旧校舎棟である3年2組と3年3組のみんなが廊下に出て聴きに来てくれた。
そうして、我が3年1組が歌い終わったタイミングで、1人の女の子が学年主任に連れられて我が3年1組にやってきた。3年6組の指揮者を務めた副会長の彼女だ。その時、3年1組のクソ担任はいなかったので、これには私が対応し、副会長の彼女は泣き腫らした顔で泣きながら「バスの差で負けたよ」と私に言ってきた。私が「いや、6組の女子も凄かったよ」と答えると、副会長の彼女はもう一度「バスの差で負けたよ」と私に言い、泣きながら私と握手をして互いの健闘を讃え合い、3年6組の担任である学年主任に連れられて、また自分のクラスに戻っていった。こうして見てみると、副会長の彼女が学年主任に連れられて私と泣きながら握手をしたのは卒業式の前にも一度あったのだ。
こうして、我が3年1組は初めての最優秀賞を獲得する事が出来たのだった。(りんりん 2025/4/25)

(寸評)なんだかんだ言って、りんりんは凄いリーダーだったんだな。本人の意思とは無関係に。そしてここまで熱くなる思い出を持ってるのは、本当に素晴らしい。7ポイント。

初めての女の子の家

これは僕がまだ穢れを知らぬ小学六年生の頃のお話でございます、、、
当時、僕と仲の良かった「Tちゃん」という女の子が同じクラスにおりました。
その子はゲームが趣味だったり一人称が俺だったりと、ひどい言い方をしますと女の子らしくない女の子といった感じの子でした。だからこそ僕と仲良くしてくれたのかもしれませんけどね、、、

まぁそんな感じで彼女とは学校ではゲームの話などをして仲良くしていたわけです。
そんなある日彼女はふとこんなことをいうのです。
「俺、全然ステージ進めてないからこの武器持ってないんだよね、太郎、進めてくれない?」
はい、彼女はこの時流行っていた「スプラトゥーン」というゲームのストーリーを僕に代わりに進めてほしいというのです。まぁ今考えればパシリみたいなもんです。
ところがスプラトゥーンのできるWiiUは据え置き機なのでこのことには「私の家に来て」という意味も孕んでいたのです!!!!!

そして当日、その時の僕はまだ性には目覚めていないとはいえ少しは緊張していました。
Tちゃんの家は少し古そうなアパート、ですがボロっちいというよりは時を重ねておしゃれになっているような、まるでジブリアニメに出てきそうなアパートでした。
中に入るとキッチンにはTちゃんによく似たお母さんが、そしてT母にすでに二個減っている五個入りクリームパンをおやつに出されると同時にゲームを始めました。

、、、ここからの記憶がほとんどありません、というのもTちゃんとこの後話した記憶が「足しびれた、、、」「大丈夫?」といったやり取りしかないのです。
そして帰るときに「お邪魔しました」と言ったらいつの間にかいたTちゃんのおじいちゃんに「元気がないなぁ」と言われたことしか記憶がないのです。
こうして何の面白みもないままお宅訪問は終わり、これ以降Tちゃんとはあまり話さなくなってしまい次第に疎遠になってしまいました...
せっかく二人で家に集まったんだから気を利かせて二人同時にできるゲームでもやればよかったのかなぁなんて今でも思います。
そしてこれ以降女の子の家には上がれることはなく、女の子に縁のない人生を過ごしているのでした。

P.S この話を中学の頃、友達に話したら「それセッOスできたやん」と言われました。

  できるわけねぇだろバーーーーーーーカ!!!!!!!!!!!!!(名も無き太郎 2025/4/15)

(寸評)小学六年生とはまた微妙な歳だね。男は子供、女は大人な年齢。Tちゃんに今聞いてみたいね。「あの時、僕はどうすれば良かったの?」と。興味津々。6ポイント。

初めての歩きながらイヤホン

これはつい先日のこと、僕は電車で座りながらイヤホンで「たま」を聴いていました。
そんな楽しい時間も最寄り駅に近づくにつれ終わりを迎えようとしており、僕は「あぁ、、、そろそろイヤホンをスマホから抜いて降りる準備しなきゃなぁ」と、考えていました。
ところが、ふと、悪魔のささやきが聞こえてくるじゃあありませんか。
「よぉよぉ、そんなかったりぃことしねぇでよ、イヤホンつけたまま降りて駅の駐輪場まで歩いて行っちまえよ。」
しかし僕にだって良心というものはあります「いや、歩きながらイヤホンなんて危ないじゃあないか、周りの音が聞こえないし、、、」
ところが「音ぐらいなんだってんだ、第一危ないかどうかはやってみなきゃわからんだろ!!」との二度目の悪魔のささやきに簡単に屈した僕はついに、歩きながらイヤホンを決行することに決めました。
その時、僕は「そのろく」を聴いておりホームに降りるとほぼ同時に曲が「東京パピー」に切り替わりました。

「リンリンリンリンリンリンリンリン電話のベルが鳴る♪カンカンカンカンカンカンカンカンかねの音がする♪」
「あぁ、これが歩きながらイヤホンの世界、、」などと感傷に浸っているのもつかの間、階段に差し掛かった時異変が起きたのです。
「コオロギまざってわからなくなる」トン、トン、ポン、カツ、「四角い魚を梱包すればニューギニアの子供の喉が渇きます」パカ、ポン、トン、トン、ポン、パカ、パカ

気持ち悪い!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

階段を上るタイミングと曲のリズムが全く合ってない!!!しかもかすかに自分の足音も聞こえるから余計気持ち悪い!!!!!!!

そんな気持ち悪さに苦しみながら駅から出て、駐輪場に向かい始めたところで東京パピーが流れ終わりました。
ここで僕は一つの作戦を思いつきます。「よし、一か八か歩くタイミングを曲に合わせてみよう。あとはこの道をまっすぐ5分くらい行けばいいから階段よりはリズムを合わせやすいはずだ。」
この作戦が大間違いだったのです、、、、

曲は「月食仮面」、「頭のいびつな子供が空を見上げて笑ってる♪」タンタンパンポントントンタンタンポコタントントンパンポントンタン、てな具合で曲のリズムを意識しながら歩くと妙に力が入ってしまい気づけば軍隊のなり損ないみたいな歩き方になっていました。周りに人がいたら笑いものになるか変な目で見られること間違いなしです。

そんなこんなでリズムに合わせるのも慣れてきたとき、悲劇が起こったのです。
「夜更けの月をバキューンバキューンと打ってみたらば」トンタントンタn、、おわっと!!!
はい、なんと突然のバキューンにより転びかけたのです。まさに銃に打たれたかのような衝撃でした。完全に転ばなかったからよかったものの、僕は完全に怖気づいてしまい、イヤホンをしまって、もう一生歩きながらイヤホンはしないと決意しながら自転車にまたがりさっそうと家に帰るのでした。とほほ、、、(名も無き太郎 2025/3/31)

(寸評)はははっ、しかもたまの曲は途中ブレイクが入るものもあるからね。オットトットとなるから、まわりにも注意せねばね。とりあえず歩きスマホ、歩き音楽はやめときましょ。6ポイント。

初めての東北

前々から行ってみたいなと思った東北ですが今月1、2日に行ってきました! ちなみに行ったきっかけはネット友達が山形県民で、東北まだ行ったことないから行ってみたいなと軽くその友人に話してみたらものすごく歓迎されて、早速日程組んで行くことにしました。
ちなみに東北といえば言葉が聞き取りづらかったり冬はめっちゃ寒かったりという印象でしたが意外とそんなこと無かったです。
ただ山形へ向かう飛行機に乗り外を見てたら山形に近づくにつれ綺麗な雪景色になってゆくのには感動を覚えました。(ラメール・ローラ 2025/3/22)

(寸評)東北、面白いんだよね。ただ最近の地方旅はライブに呼ばれたついでに周ることが多いので、なかなか東北は人口が少なくて呼ばれないんだよね。でも各県、それぞれに特徴もあって楽しい印象。5ポイント。

初めての山形

というわけで東北は山形にて1泊2日の旅行へ行きました。
山形といえばさくらんぼやラ・フランスのイメージが強いですが、私は泊まる旅館の夕食についてある米沢牛のすき焼きを特に楽しみにしてました。 山形駅に着いた時に思ったのが意外と雪積もってなくそんな寒くなかったということでした。
そして山形駅東口から出る旅館への送迎バスに乗り蔵王温泉街へと行きました。
着いたらスキーのレンタルショップで色々用具をレンタルして5時間ほどスキーを楽しみ、終われば旅館へ。
夕食はまさに山形尽くしといった感じの内容らしく、メインの米沢牛すき焼きだけでなく山形のブランド豚の蒸し煮やこんにゃく蕎麦等どれも美味しかったです。
そして肝心の温泉ですがこれもよかったです。
ただ、湯がかなり熱かったのが気になりましたがそれもしばらく入ったら段々慣れていき、数十分くつろげました。
翌日は山形駅でネットで知り合った友人と初めて会いました。
そこで友人から提案されたお店で山形の食材を使ったブイヤベースを注文し食べました。
エビや白身魚がスープの味と絡まり本当に美味しかったです。
そのご山形駅周辺を色々案内され1時間以上過ごしたところで解散。
本当に楽しく過ごせたのでまた改めて山形及び他の東北にも行きたいという思いがさらに強くなりました。(ラメール・ローラ 2025/3/22)

(寸評)去年、山形のお寺で篠笛の人とふたりでセッションライブしたな。昼に入った蕎麦屋が美味かった。俺は日本で一番美味い蕎麦は山形だと思ってるんだよね。以前山形県内を三ヶ所ライブで周った時も主催者に「毎日別の蕎麦屋に連れて行ってください」と要望を出して、どこもすごく美味しくて唸ったよね〜。ああ、また行きたいなー。6ポイント。

初めての樹氷スキー

冬の山形に行ったのならばやはり名所の蔵王の樹氷は見とかないとということで行きました。
ちなみにもし天気が晴れてなければ、樹氷は見ずにそのままスキーだけするという予定にしてましたが、山形駅に着いて天気が十分晴れてたのでこれならば行けると思い見に行くことを決意しました。
樹氷が見れるエリアまで行けるロープウェイはとても混雑しており、30分以上は待ったような気がしますが私は樹氷が見れると思うと待ち時間のことはそれほど苦にならずワクワクしました。
そしてロープウェイに2回乗り樹氷が見れるエリアへ。
頂上へ着くとめっちゃ寒いと感じましたが、それと同時に数多くの樹氷を間近に見ることができとても興奮しました。
色々樹氷の写真を撮ったあとスキーを滑りました。
樹氷が見えるところで通り抜けるのは本当に気持ちよかったです。(ラメール・ローラ 2025/3/22)

(寸評)若い頃に樹氷を見に行った記憶。でも青い沼のようなところから噴煙を噴き出している蔵王の「お釜」の印象の方が強くてあまり覚えてない...。5ポイント。

はじめての入院トイレ

骨折入院手術など、初体験のオンパレードから9ヶ月が経過した2025年3月、手術で骨に埋め込んだプレートを除去するため、同じ病院に2泊3日で入院する事になった。前回の入院の時、同じ病院内で病棟を三つ移動した事はこのトピックやおバカのトピックに書いているのだが、今回の病棟は前回の入院で一番長く居た二つ目の病棟に入る事になったのだ。

一階で受付を済ませた後、母親の付き添いで3階の病棟まで上がり、指示通りに担当看護師さんを待っていると、「おはようございます。前回の入院覚えてますよ。では案内しますね。」と言われ病室へ。俺のベッドは、トイレ付き4人部屋のトイレのすぐ隣。つまり、杖を使わなくても良いぐらいの所だったのだが、同部屋の患者さんに視覚障害者である事をわかってもらうためもあるのだろう、杖を持ってトイレに一人で行く許可が出ていたのだ。この時点で入院初日は、トイレに行きたいという理由でナースコールのボタンを押す事はないと、この時点で思った。実際その日にナースコールを押す事そのものが一度もなかったのだ。入院時にトイレに一人で行ってベッドまで戻る。入院してナースコールを一日押さない。これが初体験となったのだ。まあ、これら二つの体験は次の手術日の朝にはできなくなるのだが(笑)

話を病室入りの時点に戻そう。母親が帰った後、最初の病院食が昼食。

「西大路さん私覚えてる?」

前回の入院の朝食の時、天気を伝えてくれてた人という事はすぐにわかった。今回の入院時はその一回しか会えなかったのが少し残念だった。

「同じ名前あるなあと思って顔見たらすぐわかったわ。今回はトイレどないしてるん?」

夕食を持ってきてくれた男性看護師だ。前回の入院時は、タイガースの先発が誰とか、現時点で何点入れてる、打ったん誰とかなど、タイガース中継をラジオで聴いてる俺が尋ねられてよく答えていた。これこそ、入院患者と看護師との理想的な会話ですな。勿論野球に限った話でないという事を記しておく。

同じ病院への二回目の入院でこのような会話がくりひろげられるという話はよく聞いてはいたものの、実際に自身が体験するとこんな嬉しく有り難い話はないと思った。ここに書いた人以外にも多数出会ったのだ。ところが、次の日の朝の体験は予想はしていたものの、これほど難しい事だとは思ってなかったのだ。そりゃそうだ。前回の入院は大半が車椅子移動だったからだ。点滴を繋いでからの歩いての移動だ。

朝9時からの手術に備え、6時半ぐらいには点滴が繋がれたのだ。前の夜からの担当看護師さんに、「これ繋いだら部屋のトイレに一人で行くん難しい思うしナースコール押してや」と言われ、「とりあえず今ここに居る間に連れていって」と言うと、「はいはい。じゃあ先に友達(点滴)を中入れるからその後入ってもらおか。私の腕持って!」などと言ってくれるのだが、立った状態で尿を出そうとしたところで点滴のコードが絡まりそうでできない。では座ろうとすると、「点滴が反対側にあるから逆回転して座って。私一回トイレから出るけど部屋にはそのまま居るし呼び出し押さずに扉開けて」と言われ、終わって扉を開けるとさっきと同じように「じゃあ先に友達出すからその後ろね」などのような会話をしながらのベッドとトイレとの往復を、手術後も含め数回繰り返す事になる。

手術が終わった日の夜には点滴がない時間をできるだけ利用してトイレに行ったのだが、手術後一定時間ICUでの経過観察が決められている病院で、点滴が繋がれてから一人でトイレに行く事はなかった。逆に言うと、下半身麻酔での手術後に麻酔から覚めていく間、何とも言えない不思議な感覚だったのだ。この状態で一人でトイレは危険だという事も体験できたのだ。以前も書いたように、前回の手術後ICUでは「こんな人初めてや」と言われるぐらい寝ていたのだ。

これを書いている日が、入院三日め。つまり、ICUから10時に退院して何時間が過ぎたであろう。本来本日と次の日は仕事なのだが臨時休業させてもろてます。そして、通院はまだ続くのだ。(西大路 2025/3/22)

(寸評)俺も一年半前に入院した時は友達(点滴)が邪魔でトイレ大変だったなー。でもあの入院があったから今元気にこれ書けてると思ったら感謝しなくちゃね。生きてて良かった! 7ポイント。

初めてのStudioOne

いやー 遂に買っちゃったよー
パソコン用作曲ソフト StudioOnePro
無料のでも良かったけど やりたいことをやるにはちょっと手間がかかってたのでこっちに乗り換え

しめて28000円
初日は音出し サンプラーの操作まで確認しました

これで色んな曲が作れるといいなー(ズミ天 2025/3/4)

(寸評)すげーの作って後悔、いや公開してくれっ! 5ポイント。

はじめての自前でキーボード

ギターは弾けるようになった 次は鍵盤楽器だ と思うも スピーカー付きのカシオトーンなどは高いし 今後の引っ越し先では使えない

そのため ちっちゃくてもいいから パソコンにつなげて音を鳴らせるMIDIキーボードが欲しいと考えました

早速地元のハードオフへ(いっときますが パワハラ店長のいたハードオフではありません)

そしたらちょうどいいのを発見 でもケーブルなし
ジャンクケーブル置き場で合うのを探したら 奇跡的に一本発見

合わせて2000円也

早速家に帰りパソコンに繋げ DTMソフトを起動すると
おっ!音なった!!
キーも全音OK!

これからキーボードでも曲作りができるようになりましたよー

まずは色々覚えなきゃね(ズミ天 2025/3/4)

(寸評)2000円とはお得だね。一曲作れば元が取れる。これまた期待っ! 5ポイント。

初めて合成酒を見た

母親が定期的に買ってきている日本酒「元禄美人」
よく見るとそれは合成酒

はぇー 今の世の中でも合成酒なんてあるのかーとぼけっと見てました

飲んでみましたが 個人的には合わない
まぁ酔えりゃいい人向けですね(ズミ天 2025/3/4)

(寸評)俺の若い時代は合成酒ばかりだった。飲まなくて済むのなら飲まない方がいい、とだけ言っておこう。5ポイント。

初めて指が痺れる

腕枕のしすぎで腕が痛いとは 王様にも書きましたが 指も痺れました
恐らく 寝っ転がって首を上向けにしてスマホをいじってるから 首に負担がかかってるのだろうなと思います
事実 座るとしびれはあんまりでない
まぁ ちゃんとした姿勢でスマホはいじりましょうということですかね(ズミ天 2025/3/4)

(寸評)チンコもねっ! 5ポイント。

初めて放火される

昔、古い木造住宅に家族で住んでいました。ある日の風呂上がりに髪を乾かしていた時、遠くの消防車のサイレンがどんどん大きく聞こえだしたと思ったら、母が「消防車来てる~!」と叫んだので慌てて玄関のドアを開けると目の前に消防車が止まっていました。隣の家の前に積んであったゴミ袋が燃えたようで、私が見た時はもう火は消えていました。厳密に言うと放火されたのは隣の家なんですが、燃えたゴミ袋のすぐ後ろには車が駐車してあり、その車は我が家の壁とほとんど隙間がなかったので、車が燃えてたら我が家も危なかったです。
母が、放火された家のオバサンに聞いた話ではこの放火事件の容疑者は、そのオバサンが所有するアパートに住む母子の家に入り浸っていた男だったようです。私も何度も目撃しましたが、その男は海坊主みたいな大柄のオッサンで、その母子の住む部屋の外にずっと立っていてタバコの吸い殻をたくさん地面に捨てたり、部屋の中で大声でケンカをして子どもたちが泣き叫ぶなどの迷惑行為を繰り返していました。だからオーナーのオバサンがその母子に退去の話をしていたようで逆恨みされたのではないかと思います。その後オッサンがどうなったのか母はオバサンに聞いていないそうですが、あの母子は引っ越していきました。
その放火事件の少し後に家族で近所のラーメン屋に行った時、「引っ越したあの母親とオッサンも近くのテーブルでラーメン食べてた」と、後から母に聞いてビックリしました。退去と引き換えに被害届を出さなかったのか?放火は被害届関係なく逮捕されないのか?大した罪ではなかったということか?そもそも真犯人は別にいたのか?とか色々考えましたが、あのオバサンが亡くなった今となっては、真相はわからずじまいでありました。我が家も危なかったのに...。(ひももん 2025/2/17)

(寸評)放火は結構重罪なはず。俺の通ってた小学校も放火された。犯人は学校のOB。家からそこそこ遠かったのに、燃えている木造校舎が公園のすべり台の上からハッキリ見えた。俺の教室は延焼はまぬがれたものの、消防隊が放水したので教室に置いてあったものはすべて水浸しだったなあ。
あと「危ない人」って実は決して総数は多くないと思うんだけど、同じ人があらゆる場所で問題起こすよね。何らかの精神疾患の場合も多いとは思うのだけど、だからといって彼らを完全に排除してしまうのもとても難しい問題だと思うしね。6ポイント。

初めてのYMO

高校1年生頃だったか 確かまりあ†ほりっくというアニメのEDに君に、胸キュン。のカバーが使われたのがきっかけで YMOを知りました

その後 2ndアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」をレンタル

一曲目の テクノポリスの TOKIO!のボコーダーボイスに痺れました

それから最後まで聴き 他にも聴きたくなりました

大学時代 バイト代でYMOや YMOの楽曲を初音ミクがカバーした HMOまで買い ジャニスでは海賊版を借りるほど熱狂。

ただ ソロや矢野顕子さんの楽曲を聴くようになるのは社会人になってからでした (ズミ天 2025/2/17)

(寸評)あの3人って元々テクノというわけじゃなかったのが面白いよね。坂本龍一なんてプロになったキッカケは友部正人さんだしね。細野さんも民族音楽ポップスみたいなのを確立した人だしね。3人の天才が集まるとあんなに大きなムーブメントになるんだね。4ポイント。

初めてのモンスターエナジー

確か大学生のとき
日本初上陸とかなんとかでコンビニで売ってました

たまたま飲んでみたら
んー おいしくない…

こりゃすぐポシャるな と思ってました(その時の私はレッドブル派でした)

しかし 大人になってみたらどうでしょう
この味がうまいと感じるようになりました

今は眠れない夜の後の気付け薬として大活躍!!

でもこればっか飲んでたら太るし 糖尿病まっしぐらだろうなぁ…(ズミ天 2025/2/17)

(寸評)俺は味は元々好きだったな。エナジードリンク全般。缶コレクションの為に飲んでるけど、カフェインとか糖分とか本当は摂りたくない...。4ポイント。

初めてのパクチー

私の嫌いな野菜の一つパクチー

このトラウマは今から10年前にゼミ旅行で中国に行ったとき 餃子屋さんでパクチー入り餃子を食べたのがきっかけ

なんか漂白剤の味がして まずかったです

それをチェンマイに行くというお客さんに話したら
それは本場の味を知らないだけと言われてしまった

まぁ 食べないけど(ズミ天 2025/2/17)

(寸評)今チェンマイにいて一緒に晩飯食ったりしてるYさんはパクチー好きで「もっとパクチーを!」とゲーテのように言ってる。人によって食の趣味もいろいろだね。4ポイント。


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