話題58 最初の記憶
一番最初の記憶はなんですか?
私は人にこのことを聞いてみるのが好きで、もっと聞きたいと思っているのですが、今までに身近な人に話を聞くとどうも悲しい記憶であるケースが多く、悲しいことを思い出させてしまうと申しわけないので、気軽に尋ねるのがためらわれます(身近なある人にいたっては、後でこっそり泣いてたし。戦中の記憶でした)。聞くんじゃなかったと後悔したことも何度かあります。
ここでなら話せる、くっだらない最初の記憶をお持ちの方、聞かせていただけませんか?
どれが最初かというのは、判断が難しいんですけどね。記憶って、けっこう後から捏造しちゃってるとこもあるし。
わたしのも正直どれが最初か判断しにくいんですが、多分「朝、両親がふとんでイチャイチャしてるとこを、ゴムボール持って邪魔しに行くとこ」です。
これは母が「あれ~、おとうさんがヘンなことするよ~」とかいってふざけて私に助けを求めていたので、私はふすまの陰で待機していて、助けを求める母の声が聞こえたらサッと現れてボールを父にぶつける、という楽しい遊びをしていたんでした。03/2/20(はなさく)
***レス(発言は古い順に並んでます)***
ん~と俺は、なんかゴミ用のポリバケツかなんかが、朝の光でキラキラ光っていて、きれいだなー、というもの。ただ、それは夢かもしれなくて判然としない。
くっきり覚えているのは、幼稚園に行く途中で犬の糞踏んじゃって、それを幼稚園の庭の隅で、みんなにみつからないように、靴の裏をへらのような木ぎれでコシュコシュこそげ落としているの。
そこから始まった人生、というのも考えてみると、さみし~光景じゃのう。03/2/20(石川浩司)
ワシの最初の記憶は3歳くらい。部屋でおもちゃで遊んでいたら、片づけないワシに立腹した母親にオモチャを箒で掃かれそうになった。というもの。
子供の頃から、ワシは片づけない子供だったのだな。 03/2/24(ひるひなた)
最初の記憶、記憶、うんと、1歳のころだけど。そうそう空気の入った椅子、水色のビニ~ルいすに座って「ぷしゅ~」と音がして、壊れちゃった、記憶でございます。
そのころから、もしかして、不器用なのかしらん。 03/2/24(たこ21)
確か3歳頃かと思います。
当時両親は忙しく、一緒に出かける機会はほとんどなかったのですが、どうやら公園に遊びに行ったようで、滑り台のてっぺんから滑り降りて受けとめてもらった、というのが最初の記憶です。
よく、母親のお腹の中にいたことを覚えていて、喋る子供の話しを聞きますよね。
私も自分の子供に聞いてみたのですが、うまくいきませんでした。
そんな記憶のある人のお話、聞いてみたいです。 03/2/24(わにこ)
幼稚園に入るか入らないかぐらいの頃でした。
母が買い物へ行くので、兄と留守番をしているところでした。
でも待ちきれなくて「ままがかえってこなーいよぅ」と泣きながらずっと窓を見ていました。
10分かそこらなのに、今の感覚でいうと、2時間も3時間も長く感じました。
というのがたぶん最初の記憶です。
2・3歳ぐらいまでは、生まれたときの記憶を覚えている人もいるそうですよ。 03/2/24(めめ22歳)
3歳くらいの頃、イトーヨーカドーで迷子になって、お菓子売り場に居る所を母親に見つかり、ひどく叱られているのが最初かもしれません。
その後小さいなりに考え、迷子になった時は親の自転車が置いてある所で待っていました。で、親はすぐ自転車置き場に来たのですが(結構平気な顔で来たのを覚えてます)、今考えると何故親は店内を捜さずにすぐ自転車置き場に来たのでしょうか?? 03/3/3(作戦失敗)
私は2才の頃に、父の仕事場の食堂でみんなが食べ終わった所に入っていき、イスをよじのぼり誰かが飲み残したビールを飲みました。
お茶だと思って飲んだけど、「何も味がしない」と思った事を覚えてます。
その後どうなったかは覚えてなかったので、ずっとこれ↑は夢の出来事だと思ってたんですが、小学生の時、父達が昔の話をしてて
「あの時すごかったなー!誰かがおまえにビール飲ませて顔まっ赤でえらい事に
なってて」といって
母が「ほんであんたは1人で自分で乳母車によじのぼってハアハア言っててんでー」
父「誰や!?こいつに酒飲ませたんは!?言うてなー」
私「えっ!?それ自分で飲んだわ!」って感じです。 03/3/3(なるみ)
私は、保育園の年中さんに入園した日。
保育園のシステムとかが分からず、母はいなくなるし、姉もいない。何でいないんだぁと泣きながら家に帰りました。
そのあと、帰ってきた私を見てびっくりして、また保育園に連れ戻されました。
そのころから不登校(園?)でした。 03/3/3(ともこ)
5歳くらいだったかな…。近所の道でゴム飛びしててゴムに引っ掛かり転んで泣いた。痛さで「生」を感じたんでしょうか。それが最初の記憶です。 03/3/3(あきたけ)
最初の記憶以前の出来事(親から聞いた)なのですが、廊下を走っていて部屋との境目でつまずき、転んだ先にテーブルがあって、そのテーブルの角(割と鋭角)に目じりをぶつけ、目の周りがバンダのようなあざになったらしいです。後から聞いただけでもゾッとしました。覚えてなくて良かった。 03/3/10(作戦失敗)
3歳の七五三で兄ちゃんと保育園の友達と神社へ行ったんだけど、どうも気に入らない髪形に「なんでこんなんで写真よー。」とグチグチ言ってたのを覚えています。友達はかわいい髪形なのに・・・って。今、長女が3歳。私のようにグチグチうるさい・・・。でも娘の最初の記憶って何になるんだろう。親として気になる。ウカツに変な事できないや・・ 03/3/17(麻衣)
確信はないのですが....1歳まで住んでいた家の天井の木目らしいものを覚えているんですが...木目がある天井がある家に住んだことはそのときしかないのでたぶんそうだと思うんですが....03/6/2(かづ)
前に、ある人がTVで言ってましたが、子供が言葉が話せるようになった頃に「お腹の中(胎内)で何してたの?」と聞くと、胎内で憶えていることを話してくれる、らしいです。
ちなみに、そのTVの方の娘さんは「お腹の中でぐるぐるでんぐり返ししてた~」と答えたそうです。
ただ、その質問を子供にするのは、それがたった1度のチャンスで、それ以後その子に再び聞いたりすると、悪知恵が働いたり話を作ったりしちゃうそうです。 03/6/9(こがれ)
こがれさんの書かれたこと、私も何かで聞いたことがあって、自分の子供が2歳の頃試してみましたが、うまくいきませんでした。
訊くタイミングとか、結構難しいですね。機嫌がよくて、おしゃべりモードになっているときが良かったと思います。 03/6/30(わにこ)
私の最初の記憶は3歳だったと思うのですが、姫路の父のいとこ宅に行く際に止めた駐車場の様子かな。両親と3人で行ったのですが、そこは民家の外が駐車スペースになっていて管理人はどこで見張っているかというと、なんと自宅の2階から駐車場を見下ろしているのです。どうやって支払いをするのか?ということになりますが、まず空いている場所に車を止めて管理人の下に行くと、ひものついた籠が2階からするすると降りてきます。そしてそれにカギを入れて引き換え券をもらい出かけてゆき、帰ったら下から管理人を呼んで引き換え番号を言うと上から「000円」という声とともに籠が降りてくるのでその金額をいれるとカギを返してもらえるというシステムです。ある日突然ビブレかどこかの駐車場でデヴャヴみたいに思いだしたので、その場で母に聞いてみたところ現実でした。「誰に聞いたん?」とまで言われました。年齢は母によると2、3歳らしいので3歳にしておきました。 03/6/30(たらこそば)
おばあちゃんが『一緒に天国行こうな』て言ってたのを思い出します。2歳の夏でした 03/7/7(勾丞)
そっ、それって心中!? 一緒に行かなくて良かったね。あとからゆっくり行きな。 03/7/7(石川浩司)
確か3歳ぐらいだったと思う。砂場見たいなところで遊んでたような気がします。 03/7/14(pn波乗りJ)
いや、実は君は砂漠に捨てられいたんじゃよ。何故かな・・・。 03/7/14(石川浩司)
こがれさんのおっしゃってた胎内の記憶をたずねるというのは、子供がしゃべりはじめて内容が理解できる頃にたずねるのが一番いいみたいですよ!2歳半ぐらいになるとウソをつくようになるので、それまでに聞くのが無難です。いとこの子供が女の子2人いるのですが、2人とも記憶があったそうでそのときの会話をカセットテープにとってあるそうです。大人になってから聞くとびっくりするでしょうね。私も子供が生まれたら絶対に聞こう!と思っています。 03/7/14 (たらこそば)
「お父さんのおちんちんの先っぽが入ってきた! 変な液垂らしながら」とか言われたらやだな。 03/7/14(石川浩司)
何歳かは定かではないがうちの玄関前でひいおじいちゃんと遊んでいる記憶かな?幼稚園より前だと思います。
人の記憶を映像として映し出せる技術ができたらいいのになぁ。21世紀になったら”実はこんな技術がありました ”もう燃料のことは心配要りませんよ。こんなもん見つけました””オゾン層を3日で元に戻す特殊な気体を見つけました””タモリはアトムの技術を応用したエンターテイメントロボットでした”という風な発表のオンパレードだと思っていたのに・・・がっかりです。 03/7/21 (そもさんせっぱ)
うぎゃっ!!変な液たらしながら・・・・って(汗)それよりも「お父さんの変な液が出たときにお母さんがびくびくって動いたよ」って言われたらもっと嫌だろうなぁ・・・・(笑)こんなのテープに残せないや。 03/8/4(たらこそば)
誰か上の↑私のレスに反応してぇー!!むなしいだけじゃないか(笑)
最初の記憶じゃないけれど、小さい頃の変な記憶ってなぜかずっと覚えてるよね?変な記憶というか、変なことした記憶か・・・・。1回だけ友達と線路に置き石をした事がある。もちろんそうするとどうなるかなんぞ当時は知らなかったのだが、私のまわりではやっていた(汗) 03/8/18(たらこそば)
2歳ぐらいのとき、「家庭の医学」みたいな本に鉛筆でぐしゃぐしゃ落書きしてました。工作(らしきもの)もその頃から始めてたように思います。 03/8/25(たにし係長)
たぶん2歳ぐらいとおもうんですけど、家の縁側みたいなところで、母親が洗濯物をとりこんでいるのを見ていたという記憶があります。
その時に、部屋に茶色い木の机と、黒電話があったのもなんとなく覚えています。
4歳のときに引越ししてしまったので、当時の家の様子はハッキリ覚えてません。 03/9/22(とっとこポメ太郎)
何歳くらいかは定かではないけれど、家族全員が出かけて私一人夕方西日の射す部屋に置いて行かれたのが恐くて、わんわん泣いていた記憶があります。もしかすると夢だったのかも……。 03/10/13(のん)
人間の記憶って不思議で、どうでもいいこととか忘れたいことは覚えてるのに、覚えておきたいのにわすれちゃうことってありませんか?
たとえばたまのライブの内容より、行く時のことや帰った後の事のほうが記憶に残ってるとか・・・(悪い意味でなく!!)幼い頃、家族でどっかの砂浜に行って、靴の中に砂が入ってしまったので、母親がとってくれて、そしたら目の前に弁当の空き箱が落ちてた・・・っていう本当にささいなどうでもいい記憶が今でも鮮明に残ってるんですよねー。 03/10/21(さっちゃん)
意外に「そのささいな記憶が重要なんじゃよ」と神様が教えてくれてるのかもよ。03/10/21(石川浩司)
生まれて何ヶ月か後、私をひざに乗せて授乳する母が一番最初の記憶です。もっとのみたいけど、縁側の猫が気になるからどうしよう・・・・と迷っていました(笑
7歳まではそれまでの人生を一日も逃さず日記のように覚えていましたけど、7歳のある日記憶が薄れているのに気付き茫然自失となりました。今では半分ほど消えてしまっています、ト
ホホ。03/12/15(ぷちこ)
俺なんておととい何食ったかも思い出せないぜっ! 前向きな人生だなっ! 03/12/15(石川浩司)
私が2才9ヶ月のとき、弟が生まれて、病院から母が帰ってきたのですが、ひさしぶりに母と一緒に眠りたいのに父としか寝かせてもらえなかったこと。母は別室で赤ちゃんの授乳などがあったんですよね。父の布団から泣きながら出て母のところへ行こうとしたら父が壁をどんどん叩いておばけがくるぞと言って布団にもどるようしむけていたのを覚えています。 03/12/22(杏)
本当にどんどん叩いておばけが来たらまずそのお父さん自身が失神するな。 03/12/22(石川浩司)
今現在2歳7ヶ月の娘が言うこと聞かない時は、やはり「どんどんおばけ」ならぬ「どんどんおじさん」が来るぞって姑がときどきおどしてます。そうするとうちの娘も最初の記憶って…。 03/12/29(杏)
10年位前か、心理テストをネタにしていたテレビ番組で、「あなたは暗いトンネルをでて、急に明るいところに出てきました。そのときあなたの気分はどうですか?」という質問がありました。これは産道(といえば恥ずかしくないが)を出てきた時の象徴で、こたえが肯定的なら「生まれてよかった」、とあなたが今感じている、ということを意味しているらしい。うろおぼえで細部は違うかもしれませんが。
ニーチェいわく「人生は縄をないながら後ろ向きに進む人のようなものだ。未来は見えないが過去は見える。」だそうで。(覚え間違いかもしれない。)私の人生後ろ向きさ............... 03/12/29(かづ)
「あなたは暗いトンネルをでて、急に明るいところに出てきました。そのときあなたの気分はどうですか?」と聞かれて「嫌な気持ちです」という人いるんだろーか? 03/12/29(石川浩司)
この話題、姉に聞いてみたら「たぶんテレビの前で寝そべって、『おかあさんといっしょ』みてたのが最初の記憶」という答えが返ってきました。「そういうあんたの最初の記憶は?」ときかれたので、「ちゃんと踊りながら『おかあさんといっしょ』みてた」と答えてやりました。
しかし何故に同じ番組? 04/3/1(うろたえ太郎)
他の番組はうつらないすげー田舎に住んでたとか……。 04/3/1(石川浩司)
ちゃんとほかの番組だって見れました!「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」とか…いつもチャンネル争いで祖父に負けていたもので。
あ、テレビ東京系はいまだに見れないや。04/3/8(うろたえ太郎)
時代劇専門チャンネルか。珍しい地域だな。04/3/8(石川浩司)
3歳くらいの時、ビニールプールで溺れ死にしそうになった事を鮮明に覚えてます。 04/4/26(ペロ)
俺もそのぐらいの頃近所のプールの深いところに何を思ったかいきなり飛び込んだそうな。きっとまわりにつられたんだろーなー。すぐに近くにいた人が助けてくれたそうだが。その人よ、誰だか知らんがありがとう。 04/4/26(石川浩司)
3つ下の弟が初めてハイハイした場面でしょうか。でもどうしても、その弟が生まれた時の感動シーンを思い出せないのが悔しくてなりません。気付いたら存在していました。 04/5/24(Rio)
俺の一番下の弟は6才年下で充分おっさんなのだが、俺の記憶でパッと出てくるのは常に赤ん坊の時の顔。今は年に1回ぐらい会うが、おそらく道ですれ違ってもわからない。まぁ、赤ん坊でもわからないがな・・・。 04/5/24(石川浩司)
幼稚園の園舎の裏側でダンゴムシをいじっていた記憶がなんとなくあります。なんかミミズもいじりよったなー…。
1歳くらいの時に入浴中に石けんを食べたという話を以前母から聞かされたのですが、その時の記憶欲しかったなー。美味しかったか否か(笑)。 04/8/2(36)
もう一度チャレンジ、ゴー! 少量なら腹こわす程度でしょ。04/8/2(石川浩司)
小心者には踏み出せる勇気がないので石川さんどーぞ(笑)。 04/8/9(36)
嫌です(笑)。 04/8/9(石川浩司)
多分ひとりで、幼稚園のグラウンドの隅っこで、粉の出るキノコをぽふぽふと踏んづけているところ。その横に黒い小さいかえるがいっぱいいた。。。
曇った日の木の下で、じめじめと暗い場所でした。
周りにブランコも鉄棒もあったのに、何でそんなことをしていたんだろうと思います。。。暗い・・・!!!
あと、車の中でたまのカセットテープ(さんだる)をかけて欲しいと親に頼んでいる記憶もあるのだけど、多分これが最初のたまの記憶です!! 04/8/9(鯖子)
4歳くらいだと思うのですが、病院のベットでファンタのような炭酸ジュースを母から飲ませて貰っているところです。
2歳の頃の記憶のある人もいるんですね!驚きました。
息子はいつが最初の記憶になるのか楽しみです。まだ息子がお腹にいたとき、スクーターで大転倒したので、そのことを覚えているか聞いてみる予定です。結果報告しますね(笑)! 04/9/6(きぃ)
しかし記憶というのも実は極めて不確実なもので、例えば実際体験してないことでも子供の頃から親に「貴方は小さい時こんなことがあったのよ」と言われ続けられれば、おそらく自分でイメージを頭が勝手に作り上げて経験したような記憶を持ってしまうと思う。「記憶違い」なんてのも大人になるとよくあることだしね。 04/9/6(石川浩司)
2、3才くらいの時だと思うんだが、我慢出来なくて、床にカルピスの包み紙が置いてあったので、その上に
ウンチをした記憶。下し気味だったのか、やわめでした。
これが、一番古いはっきりした記憶だと思う。
お母さんに、「あーーああ」みたいに言われたのも覚えてるし。04/9/13(紫ローズ改め ミドリン)
お題とずれるレスでごめんなさいなのですが、1歳児とか2歳児とか、やっと喋れるくらいの子供さんっておなかの中の頃の記憶とか、出てくるときの記憶が残ってるって言いますよねぇ。是非訊いてみたいなぁ。
ちなみに、私は子供の頃の記憶が殆どないです・・・。
幼稚園で同じ組の子に扉で指挟まれたことは覚えてるなぁ。
ワザとされたわけじゃなかったのに、こんな事だけしつこく覚えてるなんて・・・。(汗 04/9/13(りあ)
5歳ぐらいの頃にサン○ブの駐車場前でぶらぶらとあの銀の半円が地面から突き出たようなやつ(よく公園の入り口とかに2つ並んである)に乗っかってブランコのように遊んでいたら、
後ろにぎゅるん!とひっくり返って後頭部を強打。
それが最初の記憶です。たぶんそれ以前はショックで忘れました。 04/10/26(英志)
小さい頃鳥取の砂丘に行ったが、後で親に聞くと「鳥取に連れてったことはない」と言われる。なんだったのか。04/12/20(さっちゃん)
関係ないが、何故鳥取は鳥取なんだろう。漢字の読みでいえば絶対「取鳥」だよね……。 04/12/20(石川浩司)
3歳の頃の記憶ですが、まだオムツが外れていなかった私は一人でトイレでおしっこをして、自分で紙オムツをはいているんです。
女の子用パンパースの真っ赤なパッケージと赤ちゃんのイラストを覚えています。
1~2歳児でお母さんのお腹の中の記憶のある子供がいる話きいたことがあります。私も、こゴン(2歳)に是非きいてみようかな~~。 04/12/20(ゴン)
片方のスリッパは既に糞溜りの中に沈んでいました。
私の体も、片足とお尻くらいまで、便器の下でした。
落とし便所に体半分、落ちかけていました。
でも、怖かったという記憶はあまりありません。
バキューム・カーがやって来た時、ほんの一瞬、外光が射し込むだけの暗黒の世界、 でも、毎日何度も眺めている未知の世界、排泄の快楽を受け容れてくれる世界…、
一体どうなっているのだろう? かすかな、でも確かな生命の営みをぼくは感じているよ。
おそらく彼岸の便所神が、「幼子よ、すべてを知ることが、必ずしも幸福をもたらすわけではないのだよ」
そうお導きになられたのでしょう。
母親が、私を此岸へと引き上げてしまいました。
その後も、便所の中の彼岸は私を誘惑しつづけました。
しかし、数年の後、水洗便所という三途の川が、彼岸と此岸を永遠に隔ててしまいました。 04/12/27「Fuk‐Dah」
おぉ、ポエムだ。 04/12/27(石川浩司)
一番古い記憶というと、住宅に挟まれた暗いさみしい夜道で、昔ながらの丸い電球に小さなカサをかぶせた街灯がぼんやり光っているのを、下から眺めている光景がうかびます。母に聞いたら本当でした。私はその時2歳くらいでベビーカーに乗っていて、それを母が押していたそうです。だから街灯を下から見上げた光景になっているんだ、とえらく納得しました。そんな何でもない情景を母も覚えていたのはなぜかというと、その夜道で、当時5歳くらいの兄が無理矢理私の上からベビーカーに乗り込んできて、バランスをくずしてベビーカーごとひっくり返ったそうです。兄はメチャクチャ怒られたらしいけど、なぜだか私はその出来事は全然覚えていません。母にとっては笑い話らしいけど、あの暗い夜道とぼんやりした街灯は、何となくさみしい光景で、私の心の中の原風景のようになって染み付いています。05/1/4(もん)
昔は外灯も今より暗かったもんね。でもなんかそれが懐かしいんだよね。 05/1/4(石川浩司)
3歳ぐらいの頃、兄と喧嘩をしていた時にうつ伏せ状態の俺の上に兄が被さってきたのが怖くて、小便を漏らした。その後どうなったのかは覚えていない。05/1/10(フィールドオブウンコ)
えっ、今も君の上に覆い被さっているのお兄さんじゃないの? 05/1/10(石川浩司)
もんさん(05/1/4)と同じく、昔懐かしい街灯の思い出です。郷愁を誘うオレンジ色の光が目に浮かびます。私の記憶は、毎日夕方5時になると、どこからともなく「家路」のメロディが聞こえてきて(最近でも農村とかには名残がありますが、役場などが時報代わりに大音量でオルゴールを流しているところがありますよね。)、それを合図に、祖母が玄関横の街灯のスイッチを入れに行くのに、いつもくっついて行ったことです。この時代、暗くなると自動的に点灯するような仕掛けはなく、たぶん町内会とかから頼まれていたのでしょう。夕陽と、二人の長い影と、料理の香りの中、この儀式は私にとって、それから迎える楽しい夕食や団欒の始まりを告げる、とても楽しい日課でした。
ところが…、その5時間後、寝つけぬまま午後10時を迎えてしまった私の耳に、今度は「五木の子守唄」の、あまりにも心寂しく、不気味ささえ湛えるメロディが聞こえてきました。夜のしじまの中から響いてくるその哀調に布団の中で怯えました。「しまった。早く眠ればよかった」。幼かった私にとって、このメロディは人間の支配する時間から魑魅魍魎の跋扈する時間への境目でした。また、便所までの長く暗い廊下の途中にある、祖父母の部屋の灯りも消える時間でもありました。
しかし…、話題がずれますが、深夜にこのような大音量のメロディ、スピーカー近くに住む住民にとっては大迷惑だったのではないでしょうか??? 05/1/17「Fuk-Dah」
今でも田舎行くと流れてるとこあるね。騒音訴訟を起こしたら金貰えるかもね。 05/1/17(石川浩司)
相当鮮烈にして明快な、かつ情けない記憶です。交わした言葉さえも覚えています。それは人生最初の「おともだち」とのファースト・コンタクトでした。ある日、玄関を開けた私の目の前に、“武装”した子供が立っていました。お互い、同年代であることは即座に察知しました。しかし彼は、祖父がいつも見ている時代劇の中で、人間をバッサバッサと殺める武器 = 刀を持っていました。私はその刀を恐れ、動揺しました。なんという出会いがしら。こっちは丸腰だ。しかし、背中を見せるのはまずい。とにかく波風立てず、穏便にことを収めねばならない。私の方から口を開きました。
「ご、ご飯食べた?」「まだ」「早く食べた方がいいよ」。たったこれだけの言葉を交わし、私は玄関の中に逃げ込みました。
青い、プラスチック製の刀をぶら下げた彼は、怪訝な顔をしつつも家に戻り、お母さんに「ご飯まだぁ?」と尋ねる。すると「さっき朝ごはん食べたばかりでしょ! 外で遊んでらっしゃい!」とどやされ、釈然としない表情で再び遊び友達を探しに出かける…、これは現時点で私が想像する映像です。
彼とは時を置かずに平和友好条約を締結しました。縄張りを荒らしに来る他所のガキに対しては集団的自衛権も行使しました。目と指先だけではなく、子供が体を張って遊んでいた、いい時代でした。 05/1/17「Fuk-Dah」
そーそー、今ってやはりやばいよ。そういう経験が大人になる為に貴重だったのに、今はちょっとした怪我を恐れて机上の人生をおくらさせている。精神的な歪みや未経験からくる「ちょっとした怪我」じゃ済まないものが将来産み出されてしまうというのに。 05/1/17(石川浩司)
マスタの下半身に覆い被さっているゾウさんみたいなものは何?05/1/17(ペロ)
ほんとの象さん。 05/1/17(石川浩司)
生家の斜め向かいに住んでいたYちゃん(仮称)。ほとんど一方通行で、私が彼女の家に遊びに行っていました。池にはたくさんの鯉が泳いでいる、広いお庭が格好の遊び場でした。縁側横の奇妙な甕に巨大なオタマジャクシが一匹、という我が家よりも明らかに裕福で、上流階級といった佇まいのお屋敷でした。そのような環境の下で、Yちゃんも相応に「お嬢様教育」を施されていたのでは、と今になって推察するのですが…。
そんな平和なある日、私はドリフのことを話題に出しました。ところが、なんとYちゃん、「加トちゃん」も「ちょっとだけよ~」も知らないと言うではありませんか。私は各メンバーの持ちネタやコントの面白さなどを滔々と話して聞かせました。数日後のある日曜日、Yちゃんは「♪えんや~、こぉ~らやっと…」と、『8時だヨ!全員集合』のオープニングの振り付けを踊りながら私の前に現れました。ここまではハッキリと記憶が残っています。以下、茫漠と想起するに…、Yちゃんの笑顔には、それまでには見せたことのない「稚性」、いや「痴性」が宿っていたような気がします。そして、その日と前後して、Yちゃんのお屋敷へ遊びに行った記憶が途切れています。二人を引き裂いた「力」は一体何だったのか? 05/3/7「Fuck-Dah」
「最初にふぐを食べた人って、勇気があったんだね」「マツタケを食べるまでに、何人の人が毒キノコの犠牲になったのだろうね」。ガキの頃の、こんな他愛の無い両親との会話。私は、用いた語彙こそ違えども、概ねこういう趣旨のこと言ってのけた記憶があります。「きっと、王様とかお殿様とかが、悪いことして死刑になる人に食べさせてみたんじゃない? 死んで元々、もし幸運にも無事だったら、無罪放免にしてくれたんじゃない?」。両親は、幼い我が子のこの発言に凍りつき、言葉を失ったことでしょう(以下、推測)。それまでの情操教育がガタガタと音を立てて崩れていくように感じたのではないかと思います。無邪気であるが故の残虐性、では済まされないのでは、と狼狽したことでしょう。二人は顔つき合わせ話し込みます。「『罪と罰』って、小説は無理だろうが、手塚治虫なら読めるんじゃないか?」。「無理でしょう。『絵本で読むドストエフスキー』とか、売ってないのかしら?」。「あと、「冤罪」ってことも、難しいけれど言って聞かせないといかんな。最近新聞に載ってる、あの、免田さんとかいう人のこととか…」。「石原慎太郎は「でっちあげだ」とか言ってるけど、旧日本軍も酷いことしてたんでしょう。ほんの三十年くらい前に。まだ「戦後」は終わってないのよ。まさかうちの子も将来…。怖いわ」。そんな幼子もやがて成長し、「罪刑法定主義」という言葉と概念を、試験のために一時的に丸暗記しただけで法学部を卒業し、一応、まっとうな社会人として生きています。しかし、冒頭の疑問、未だ解決していません。そして、頭に浮かぶ仮説は幼き日とまったく同じこと…。 05/3/7「Fuck-Dah」
「きっと、王様とかお殿様とかが、悪いことして死刑になる人に食べさせてみたんじゃない? 死んで元々、もし幸運にも無事だったら、次の物を食べさせて死ぬまで続けたんじゃない?」 05/3/7(石川浩司)
象さん、象さんお鼻が長いのねって・・・
漢をほめている歌だったのか!05/4/13(kyuuri)
取り立てて音楽好きではなかった私の生家にも、チープなレコード・プレイヤーと、両親がどういう趣味で買ったのか分からない、「白鳥の湖」のLPとか、「コンドルは飛んでいく」(サイモン&ガーファンクルではなく、現地アンデスのネイティヴ・ヴァージョン)のEPなどが転がっていました。その他にも、ヒットした歌謡曲ではなく、ちょっとマニアックなEP盤がたくさんあったように記憶しております。そんなレコードをあれこれ漁りながら聴いていた小学校低学年くらいの頃、『ああ、軍歌』とかいったタイトルの、分厚い写真集に何枚ものソノシートが何枚か添えられている不思議なレコードを見つけました。一曲目は「軍艦マーチ」でした。サビはよく知っていたこの曲が、実はその中盤から後半にかけて様々な展開を見せ、そして最後にまたよく知ったサビに戻る、ということを知った私は興奮し、何度も聴き直し、やがて他の曲にも興味を持つようになりました。多くの曲には歌詞がついていましたが、ほとんど理解はできませんでした。「海行かば」:なんともゆったりした気分のきれいなメロディ。♪海は広いな大きいな…、みたいなものだろうか。「父よあなたは強かった」:ボクのお父さんだって強いよ。…戦争の何たるかをまだ知らない無垢な感性が、それらの曲に込められた深意を知ることは元より無理な話でした、ただ一曲を除いて。その曲はタイトルも歌詞も忘れてしまったのですが、概ね「ずっと付き従ってくれた軍馬が戦いの中で傷ついてしまい、心ならずも置き去りにすることになってしまった。許しておくれ」という内容のものでした。とても悲しい歌だと思いました。上野動物園の象の悲話を描いた『かわいそうなぞう』で涙を流すより前に、私はこの曲で戦争の理不尽に気づき始めたのでした。 05/4/13「Fuck-Dah」
寿命まで毒に当たらなかった人は美味い物をたらふく食ったそうな。05/4/18(ペロ)
晴れの日の公園の風景です。その公園は道のように細長くて、お店に囲まれていたと思います。
で、独特の、なんともいえないにおいがしました。05/6/13(あきびん)
赤ちゃんや猫とかって、何もないところに向かって何かを目で追ったりしてますよね。
あれが怖いです。05/7/4(ペロ)
幼稚園の園庭のすみで「もぐらが出た、もぐらが出た」と言って、皆がひしめき合っているシーン。穴は有りましたが、その後もぐらはとんと見かけませんでした。 05/7/11(かなめ彦)
そろいも揃って無口だった祖父と親父の晩酌風景。祖父は熱燗、親父は結構立派なジョッキでキリンラガー。時々サッポロの黒ビールも飲んでいたかな。そして、二人とも肴はほとんどクジラの赤味の刺身。それも半解凍でシャリシャリしたやつ。ガキだった私も時々ご相伴にあずかりました。後に植村直己さんの極北の冒険記などを読んでいるときに「カチンカチンに固まったカリブー(トナカイ)の肉を・・・」などといったくだりで、「もしかしたら、あの冷凍クジラみたいな味だったのかな?」などと回顧していました。今はとても高くて手が出ません。でも、時々、どうしてもクジラベーコンが食べたくなって、―そう、当時の我が家の「ベーコンエッグ」はクジラベーコンでした―、清水の舞台から飛び降りるような気分で、衝動買いしてしまいます。 05/8/3「Fuck-Dah」
大阪万博。当時1歳だったのですがなぜか当時のまわりの風景を覚えています。
しかも「あれ、いつも行ってる所と違う…。」なんて考えてたと思います。 05/8/15(ちも)
住んでいたアパートの外から自分ちの中を窓から見てテレビにピンポンパンが映っていたのがたぶん一番古い思い出です。
もうちょっと鮮明なので最初だと、台所でンコをしてみたいと思ってンコしてみたら母にものすごく怒られてなんで?って思った記憶です。 07/2/4(ことり)
そりゃ子どもはンコどこでだってしたいよな。したい時がする時だもんな。「キッチンでンコ」・・・なんかオシャレだな。 07/2/4(石川浩司)
最初の記憶は?と言われたら、引っ越す前の家の畳の部屋に1人でいて、風の音にビビっていたという感じです。
でも、それより前の記憶がないのが怖いです。死後はどんな状態になるのか、度々不安になった時もあります。 07/4/10(Hi-)
死後は何もないです。科学的には。だって脳がないんだから何も考えることも感じることも出来ない。身もふたもないっすが一番可能性の高いのはそれっしょ。 07/4/10(石川浩司)
何歳かは覚えてませんが、母と二人で車に乗っていたとき、 母が坂道で停車して、僕を置いてちょっと外に出た隙に、 ハンドブレーキを見て、
「これなんなんじゃろ?」
と思った僕は、見よう見まねでハンドブレーキを下ろしてしまいました。
ゆっくりと坂道を下って行く車に対する感動と、 それに気付いて叫び声をあげながら物凄い形相で追いかけてくる母の顔が、 最初の記憶です。 07/5/16 (うきうき)
ごわー。最初の記憶が10秒で一生の記憶のすべてになる可能性があったんだねー。そら母ちゃんは叫ぶわ。 07/5/16(石川浩司)
海に遊びに来ていた時に、溺れかけそうになったのが恐らく最初の記憶です。助けられた記憶はありませんが、こうやって投稿しているので、誰かに助けられたのだと思います。 07/7/18(たちつ亭と~助)
本当はその時助けられていなくて、たちつ亭と~助は生きていると勘違いして投稿を続けていたりして・・・きゃあ怖い怖いわっ! 07/7/18(石川浩司)
私の一番古い記憶は精子のころです。
着床する気なんてさらさらなかったのに、みんなの勢いに流れて、してしまいました。
というのは冗談で・・・前歯の生え始めた頃、母の乳首に噛み付いて血を出したことです。
母は「いったぁ~~い!」と言ってました。場所は母の友人の家の二階。 07/8/8(桃玉)
それでもすげえ。はっ、それでお母さんの乳首はビー玉に!? 07/8/8(石川浩司)
ビーダマサイズなのは、父がしゃぶってた頃からです。
私の妹は生れた時小さかったので、母の乳首をくわえられませんでしたとさ。 07/8/16(桃玉)
父は最近はしゃぶってないの? どんどんしゃぶってサッカーボールぐらいになったらまた教えてください。 07/8/16(石川浩司)
ベビーベッドで寝ているところを近所の人たちがたくさん見に来たのが最初の記憶です。 07/11/10(so-hey)
よっぽど記憶力がいいか、あとは写真などを見せられているうちに自分の脳みそが勝手に「過去の記憶」ということでインプットしてしまったいわゆる無意識記憶創作のどちらかだね。 07/11/10(石川浩司)
本人に聞いてみたわけではないので最初の記憶かどうかはわからないのですが、長女が7ヶ月のときに義父が亡くなりました。
霊安所の近くに車を止めて、娘の面倒を見るために連れ合いとかわりばんこで義父にさよならを言いに行ったのですがおよそ2年後、用事があってその霊安所の近くに車をとめると 娘が、あ!あそこにおじいちゃんが寝てるね!
と言いました。
私が用事に言っている間に娘をみてくれていた義理の妹にも同じことを言ったそうで、妹は蒼くなっていました。 08/6/21(ますちゃん)
それは絶対に見えてる。子供はね、見えるんよ。
大人になると忘れてしまうし、そんな能力もなくなってしまうのだが。 08/6/21(石川浩司)
2歳から3歳に移るときの記憶が残っています。
それまで、親戚や近所の人に年齢を聞かれたとき、元気に、つまり幼児特有の欣然とした調子で「2歳!!!」と答えていました。ここに何の因果かマンネリを感じはじめ、【自分はこのままでいいんだろうか!?】と悩みだしたんです。この生まれて初めての自己への問いかけが、やけに強烈な印象で、後々まで思い出せるほどになりました。迷子になったときの気持ちに似ています。これが始まりでした。心象空間の中に、自分が独り、ものを考えることで存在している様子(一般的な意識の状態、理性?)の、始まりです。
最終的には、マンネリを打破するような返答が思い浮かばず、恐る恐る、指を三本立てて年齢を伝えるようになりました。こういう意識って何処からやって来るんだろ??? 08/6/21(ほっすぃ~)
面白い。そうそう案外小さな時から自我ってあるんだよね。大人に媚びも売るしね。
そういえばずるがしこいことも、かなり俺の人間初期段階から考えてたなー。 08/6/21(石川浩司)
たぶん、幼稚園のころくらいまで見ていたへんな夢が一番古い記憶です。
視覚的なものは一切なしで、なんかぐぅーっというすごい圧力が体中にかかっては緩み、またかかっては緩みで、怖いし苦しいからもう圧力こないでほしいなあーと考えている夢でした。
どうしてそんな夢を見ていたのか全然分からなかったのですが、最近ふとあれは生まれるときの夢を見てたんじゃないかと思ってはっとしたのです。
あのぐぅーっという、耳に洪水のくるような喉の詰まるような感じは今でも覚えています。 10/11/6(百)
あー、確かに赤ちゃんは一気に産まれるというより何度もいきんで出てくるからね。
凄いねー! 10/11/6(石川浩司)
1歳のとき、乳児園の2階で柵付きのベッドに寝かされていると、母親のお迎えが来たと保母さんに抱き上げられました。
その後、母親に受け渡され車の後部座席に座らされました。何故か後部座席には先客が。同じ年のいとこが座らされていました。
これが一番古い記憶です。母親に確認すると、確かにその日一日だけいとこを預かっていたそうです。
中学生の頃までは、とても狭くて窮屈なトンネル(穴)を抜けると、お花畑の広がる美しい湖に出るという夢を繰り返し見ていました。何かの記憶だったのでしょうか・・・? 11/5/3(デクノボー)
あぁ、それは前世、地獄にいたからだよ。 11/5/3(石川浩司)
紫色のところから、光が見えて、気が付いたら布団で寝ていた自分が見えた(所謂幽体離脱、であったかは定かではないが・・・)。 11/6/2(ズミ天)
紫色のところって何だろ?
紫芋のおばけ? 11/6/2(石川浩司)
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