話題373 想い出のライブ



皆さんの想い出に残ったアーチストのライブ体験の話をお聞きしたいと思い、トピックを作成しました。ザ・レポートでは石川さんのライブレポが多く掲載されていますが、ここではそれ以外のアーチストのライブについての話をどうぞ。フォーク、ニューミュージック、ロック、アングラ、クラシック、アイドル、外タレ・・・、オールカテゴリーでお願いします。

では最初に私の想い出のライブを。1996年に日本武道館で見たジミー・ペイジ&ロバート・プラント。1970年代前半のレッド・ツェッペリンの来日公演はギリギリ間に合わなかった世代なので、ツェッペリンを生で観るのは長年の夢であり、「天国への階段」や「カシミール」、「胸いっぱいの愛を」などを聴けて感無量でした。50歳を超えていたジミー・ペイジとロバート・プラント、まだまだかっこよかったー!
しかし、そこにはすでに故人となっていたジョン・ボーナムと、このツアーには召集されなかったジョン・ポール・ジョーンズの姿がなかったのは残念でしたが、それは仕方ないことなのでしょう。生まれてくる時代にも才能があるのだとあらためて思いました。あと10年早く生まれたかった。。 15/2/26(波照間エロマンガ島)

***レス(発言は古い順に並んでます)***


俺が生まれて初めて観たライブ(コンサート)は内山田洋とクールファイブ。
親が何か券が余ったとかで連れて行ってもらったが演歌にまるで興味が無かったので退屈だったなー。
今ならもう少し楽しめるかな。 15/2/26(石川浩司)

小学4年か5年の時に行った、当時の京都会館第一ホールでのクラシックコンサート。
すぐ後ろが壁という本当に最後列で聴いてました。
曲目も何となくしか覚えてませんが、席は本当に選ばなければと思いました。
いきなり良い話でない投稿ですんませんm(_ _)m 15/2/28(西大路)

クラシックは響きが大事だからマニアは席にもこだわるんだろうなあ。 15/2/28(石川浩司)

クラシックアカペラの女性5人組「Aura」が大阪北部の結構へんぴな山手・能勢町に来てくれるというので、冬の寒い中車を飛ばしました。能勢のホールは思いのほか綺麗で、ホールスタッフの細やかで温かな気配りが随所にみられ、滅多には行けませんがとても良い場所でした。
肝心のコンサートもよい雰囲気で、楽器無しでクラシックの名曲たちをCDと寸分たがわず、いやCDを超えた素晴らしいハーモニーを聴かせてもらい大いに感動した記憶があります。ジャケットでは硬い表情だったメンバーも実物はとっても素敵な笑顔でMCしてくださり、ますますそのアーティストが好きになりました。
場所も場所だし行かないでおこうかな・・・ などと最初は思っていましたが行って大正解でした。そしてCDだけでは感じられないアーティストの素顔が垣間見えて、音楽の聴こえ方まで良い方向に変わって来ました。
やっぱり好きな曲を奏でる演奏家のコンサートには、一度は行っておかないと損ですね!  15/2/28(オポムチャン)

Auraというとカラフルな髪のロックバンドしか思い出せない・・・。 15/2/28(石川浩司)

15/2/26の石川さん。ということは内山田洋さんはじめ、クールファイブの皆さんは楽器をもって演奏をしていたのですか? けっこう、ムードコーラスグループのバックコーラスは演奏もしていたグループが多かったので、もしもクールファイブの演奏を観たとしたら、それは貴重な経験だと思います。  15/2/28(波照間エロマンガ島)

いや、残念ながら演奏はしてなかったと思う。
他にも自分の興味というよりは田舎にありがちな「チケットが余って」という状況で観たのは山本コータローとウイークエンド、イルカ、グレープ(さだまさし)、紙風船など。
意識して初めてライブハウスに自分から出かけて行ったのは斉藤哲夫、リザード。
だけど三上寛がやっぱり圧倒的に印象深く、終演後興奮が止まらなかったのを覚えてる。 15/2/28(石川浩司)

オーラって、アイオーランドという歌歌ってたバンドですかねえ?正式な題名表記がわかれへんのでピンと来ない方多数でしょうけど、石川さんが思ってはるバンドと同じでしたら僕も覚えてます。勿論外見はわかりませんが! 15/3/13(西大路)

それそれ。髪の毛の色を全員変えてた。
確か最近メンバーのひとりが亡くなったという話を聞いたな。 15/3/13(石川浩司)

日本武道館でライブを見ると、他のお客さんとともに北の丸公園をぞろぞろ九段下駅方面に歩いて帰ります。10000人以上観客がいるので、道幅いっぱいにたくさんの人が歩いていくんです。で、途中江戸城の田安門を通るのですが、これがいつも不思議な感覚をもたらしました。東京都の重要文化財であるこの門は、どっしりとした佇まいで、通るたびに江戸時代のことを想起するのです。今もしこの門を通過したら江戸時代にタイムスリップしていたら面白いな、ということはたいてい思っていました。なので、私にとって武道館でライブを見るというのは、それプラス田安門という江戸城の城門を通る体験も含まれているわけです。武道館ではデヴィッド・ボウイ、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ&ロバート・プラント、坂本龍一など見ましたが、それぞれに濃ゆいパフォーマンス体験でした。でも、残念ながら一度もタイムスリップはしなかったようです。 15/3/13(波照間エロマンガ島)

俺は武道館に出たのは3回。いずれもイベント。
音響的にはあんまり積極的に出たいとは思えなかったね。
その前に小学生の時に柔道の「子供のデモンストレーション」で出場したことはあったけどね。 15/3/13(石川浩司)

オーラ、やはりそうですか!
テレビに出てるのも観た(聴いた)事ありますけどかっこ良かったなあという記憶が。でもそれはライブではなく、亡くなったファンの女の子の霊に向かって歌うという設定やったような。
何処までがほんまかわかりませんが! 15/3/19(西大路)

ビジュアル系のハシリ的なバンドだったよね。 15/3/19(石川浩司)

2013年、大槻ヒロノリさん率いるバンド“真黒毛ぼっくす”を水戸にお誘いして、自主企画ライブを開催した。
初めての主催ライブ。右も左もわからず、あたふたしているうちに準備も宣伝も不十分なまま当日になってしまった。

真黒毛の皆さんに気持ちよく演奏していただけたかどうか…本来取り除けたはずのストレス、たくさんあったはず。もっとできることがあったはず。今も悔やんでいる。
でも楽しかった。
すごく楽しかった。

反省を踏まえて、また企画したい。 15/3/24(イーダ健二)

おぉ、真黒毛ぼっくす。この4月も5月も東京で一緒にやるよ!
是非石川浩司+真黒毛ぼっくすも次回はよろしく〜。 15/3/24(石川浩司)

日本武道館といえば、武道館にほど近い場所に九段会館という施設があり、コンサートホールとしてよく利用されていました。2011年3月11日に発生した東日本大震災でホールの天井の一部が崩落、学校の卒業式中の2名が死亡、26名が重軽傷を負うという事故が起こり、これを機に閉館になりました。

(以下、2004年12月3日の日記よりばっすい)
久々に九段会館に行ってみた。皇居外苑を散歩していて足を伸ばしたのだ。九段会館というとロックコンサートが開かれる大ホールが有名。くるりの岸田繁は「東京のコンサートホールの中で残響がよくていちばん好き」と語っている。また、所ジョージは「武道館小ホールだね」と与太冗句をとばしていた。日本武道館のすぐ近くにあるからである。武道館でコンサートを開くだけの動員力のない若手アーチストが九段会館でよくコンサートをやっていたものだ。

わたしも1978〜81年の高校時代はニッポン放送の公開録音でよく通っていた。月1回、フレッシュコンサートという新人のお披露目コンサートがあり、当時若手タレントだった所ジョージや近田春夫がMCを担当していたこともあった。そこでトライアングル、荒木由美子、児島未散、越美晴など観た記憶がある。

さて、そんな九段会館。竣工は1934年。戦前は「軍人会館」といういかめしい名称だった。RCの洋風ファザードに城郭の屋根を載せた「帝冠様式」という建築様式は歴史的に価値があると思しい。終戦後、アメリカ軍に接収され、その後日本国に返還されるという数奇な経緯をもつ。現在はホールのほか、結婚式場やホテル、レストランなどの営業をしている。「財団法人日本遺族会」という看板が見える。日本遺族会の会長は自民党の代議士の古賀誠である。(引用ここまで)

九段会館のレストランから見る千鳥ヶ淵のソメイヨシノは格別の風情があり、何回か花見シーズンに訪れたことがあります。あ、そういえば東京も3月23日、靖国神社の桜が開花したそうですね。日本で花見したいなー。タイに住んでいるのでなかなかこの季節に帰国できないのがつらいですけれども。。 15/3/24(波照間エロマンガ島)

九段会館は確かたまのファンクラブイベントで使ったことがあるな。
あと確かうちの父母の結婚式をここでしたと聞いたことがあるな。
時代とともに縁のあった建物が無くなっていくのは仕方の無いことなんだろうな。 15/3/24(石川浩司)

僕が東京から帰った次の日に桜開花したんですねえ。こうやって読めばそのあたりも行ってみたかったなあ! 15/4/3(西大路)

桜の木の下には死体もいっぱい埋まってるしね。賑やかだ! 15/4/3(石川浩司)

15/2/26の口上文の追記。
あ、10年ではないですが、わたしより数年年長のライオン・メリィさんは、レッド・ツッペリンの日本公演を観に行ったそうです。すごい!生まれる時期に才能がある証しですね。 15/4/19(波照間エロマンガ島)

なんせ「ずうとるび」のバックでキーボード弾いてた人だからね。
あ、そういえば今度スイスでパスカルズが出るフェスにロバート・プラントの今のバンドも出るよっ! 15/4/19(石川浩司)

1976年のある日、渋谷のNHK放送センターのサテライトスタジオで見たCharのライブは度肝を抜かれましたねー。Charがちょうどメジャーデビューしたときで、AMラジオ番組の「若いこだま」の公開録音でした。わたしは中学2年でしたが、どういうきっかけかは忘れましたが、このライブを見たのでした。その後何千回と聴いたかわからない伝説的な名曲「Smokey」は特に印象に残りました。その後、Charは何回見たかな。歌謡アイドル時代のあと、ジョニー・ルイス&チャー以降はけっこう見たような記憶があります。 15/5/24(波照間エロマンガ島)

アイドルから本格的なミュージシャンになる人ってそんなに多くはないよね。
ヨッちゃんはそこそこ認められてるのかな? 15/5/24(石川浩司)

1990年だったか、東京ドームで観たローリング・ストーンズの初来日公演は良かったですー。なにしろ、1960年代からずーーっと現役でレコーディングとライブを続けてきているので、そのステージングは半端ないほどのエンターテイメントでした。どんな曲を演奏するのか楽しみにしていたのですが、私がいちばん好きな「レット・イット・ブリード」からのナンバーが多かったのがうれしかった。特に「ミッドナイト・ランブラー」はシビレマシタねー。チャーリー・ワッツのスカスカ、すき間のあるようなドラミング、大好きなんです。ミック・ジャガーのクネクネダンスは、内野スタンドで見ていた自分にまで、そのエロティックな色気は十分届きました。でも、あのときでさえ、かなりの高齢だと思ったのですが、あれから25年経った2015年の現在まで演奏活動を続けているのですから、クレージーとしか言いようがありません。 15/6/27(波照間エロマンガ島)

俺もそのライブは東京ドームに観に行った。出版社からタダ券をもらって(笑)。
ミック・ジャガーは年寄りなのによく動くなあと俺も感嘆した。
だが今調べたらミック・ジャガーは1943年生まれ。1990年当時47才。
ガーン。今の俺より6つも下だ。俺、どんだけ老人なんだ・・・。 15/6/27(石川浩司)

私がここ何年かで石川さんのご出演しないライヴで複数回行ったのはマンドリン演奏家・でゅおめいぷるようこさんのクラシックとポップの融合したコンサート。石川さんのパーカッションとセッションされたCDをお持ちの方は御存知でしょうが素晴らしいテクニックとサウンドです。
はじめて行ったのは去年の8月末の八尾プリズムホール。なんと千葉からなおさん、神戸からニイヤンさん、大阪から(笑)ハーブティーさんもおいでになってて、その美麗な演奏とCDでは聴けなかった素敵な歌声にあぁーーーってなりました。
なんでこんなに心地いいのかと思っていたら、なおさんはさすがに鋭く、「マンドリンってもっと金属的な音がすると思ってたけど、ようこさんの演奏は音色がすっごくやわらかくってこんなの初めてだった」とのご感想。ようこさんもそこには並々ならぬこだわりがあったそうで、お2人とも流石だなぁ、と思いました。コンサート後の飲み会でたまカラやりたいよう、と駄々をこねたのもいい思い出です(笑)。すいませんでした・・・  15/7/18(オポムチャン)

俺はまだライブは観たことないが、いつか共演できたらいいな! 15/7/18(石川浩司)

  そういえば1980年代初めにデビューしたばかりのBOOWYを渋谷のライブハウスで観た記憶があるのですが、メモ魔の私でも記録が散逸してしまい正確な日付は失念してました。今インターネットで調べると、1982年6月4日の渋谷 A to Z Theaterだったみたいです。当時はまだメンバーにサキソフォンの人がいて、5人編成でした〔同年秋に脱退、4人編成になった〕。のちの動員力からは信じられないのですが、客席は満席ではなく空席が目立ったのが印象的でした。でも、ライブ中はオールスタンディングで盛り上がりました。そのせいか、ライブが終わり友人と会場を出ようとすると、氷室京介さんが出口で待ってて、お客さん一人ひとりに「今日はありがとうな。またよろしくな」と声を掛けてくれました。不良っぽいルックスなのに、真面目でいい人なんだな、と感心しました。

くだんのネットの記事を読むともっとびっくりした記述に出会いました。布袋さんが上京して最初に尋ねた群馬の高校の先輩がDJの小林径さんだったということ。小林さんといえば、1987年頃、日本の伝説のヒップホップグループ、Funk Master Go-Goのリーダーだった人じゃないですかー!! 当時行っていた美容院の美容師さんがメンバーと友達だったというつながりでよくライブ観に行ってました。一度、芝浦のインクスティックだったか、ライブの途中でだれかが消火器を場内にぶちまけて煙まみれになり、会場の外に脱出したことがありました。あのときはパニックになって死ぬかと思った。あれは何だったのか、夢のような記憶として今もたまに思い出します。キレた客がFunk Master Go Goのメンバーとつかみあいの喧嘩をしていた記憶もあります。
これからも石川さんのサイトか、自分のブログでこういうほとんど誰も忘れ去られている記憶を書き綴ろうと思いマス。 15/7/18(波照間エロマンガ島)

BOOWYは観たことないな。氷室京介が氷室狂介だった頃かな?
布袋さんも会ったことは無いが同い年で高崎の別の高校だったから町ですれ違ってたりはしてたんだろーなー。 15/7/18(石川浩司)

記憶の中からまったく消えていたのですが、いろいろ動画検索をしていたら偶然動画を見て、行ったことを思い出したライブがありました。1981年8月22日に代々木公園で行われたジョー・コッカーのコンサート。大雨の中でずぶ濡れになりながら見たライブです。まわりの西洋人女性のお客さんのずぶ濡れのTシャツに乳首が透けて見えて下半身がピクンと反応したのとセットになって記憶がよみがえりました。テレビカメラがあったのでテレビ中継されたのかな。あと、前座が海援隊で、武田鉄矢の説教くさいMCは観客からブーイングを浴びていました。当時18歳の受験生でしたが、やたらライブは観に行ってました。そんな想い出のライブ。 15/7/31(波照間エロマンガ島)

武田鉄矢は昔からそうだったのだね。
金八先生が当たり役になるはずだ・・・。 15/7/31(石川浩司)

1987年頃、渋谷PARCO Part3の地下駐車場にて行われたL.L.COOL J のライブ。その前年くらいからヒップホップという新しい音楽のジャンルが流行しだし、すっかり新しいモノ好きのわたしの感性をと捉えてやまなかったのですが、その決定版ともいえる、ヒップホップスターのLLクールJの来日公演は型破りなものでした。ライブ会場がなんとデパートの地下駐車場!駐車場のスロープをてくてく降りていくと、そこがライブ会場だったというわけでした。仮設トイレが何十基も備え付けられ、「ここは作業現場か」という第一印象でした。前座のデフジャムレコードの新人アーチストから始まり藤原ヒロシや高木完のタイニーパンクスのあと、クールJ登場。とてもとても盛り上がりました。でも、寒い季節だったのでトイレを我慢して観ていたという記憶はあります。仮設トイ レは言うまでもなく長蛇の列でした。クールJは当時まだ18歳くらいで筋肉質で超かっこよかったですが、今は47歳で普通の黒人のオッサンにできあがっています。 15/8/14(波照間エロマンガ島)

うーむこの人のことも知らないが、地下駐車場というのはいいアイデアかもね。
ライブハウスが地下にあることが多いのってやっぱり近隣の騒音問題が主だからねえ。
駐車場貸し切りならそこそこ広いスペースも取れるしな。 15/8/14(石川浩司)

フジテレビのお台場の社屋の敷地内で8月の夏休みに開かれる「お台場夢大陸」。場所と名称を変えながらももう30年以上も開催される夏祭りイベントですが、1970年代後半、まだフジテレビの社屋が市ヶ谷河田町にある時分は、神宮外苑前広場で行われていました。そのイベントで1978年頃観たロックコンサートで最も印象に残っているのがBOW WOW〔バウワウ〕のライブです。メンバーは、山本恭司〔ボーカル、ギター〕、斉藤光浩〔ボーカル、ギター〕、佐野賢二〔ベース〕、新美俊宏〔ドラムス〕の4人。これが超かっこよかった。それまでの日本にはなかったブルース経由ではないハードロックバンドで、そのドライブ感には高校1年生の自分が求めていたサウンドがありました。イベント司会の土居まさるさん〔故人〕も、バウワウのライブパフォーマンスには衝撃を受けているようで興奮したMCだったことを記憶しております。その後、突如歌謡ロック路線にシフトチェンジし、ボーカルやキーボードを入れて本格ヘビーメタル路線に移行していきましたが、その頃はもうまったく面白くないバンドになってしまい、失望しファンは辞めました。しかし、今でもたまにバウワウの初期のアルバムを聴くと当時を思い出し、自分の中では高校1年の頃の感覚を思い出すのです。大好きなバンドでした。 15/8/31(波照間エロマンガ島)

バンドも生き物だから変わるんだよね。
ずっと同じものなんてバンドに限らずこの世に無いけどね。 15/8/31(石川浩司)

小学生高学年の頃、ニューミュージックの波を頭からかぷり、アリス、南こうせつ、さだまさし、長淵剛、海援隊などを聴く毎日でした。
初めてのコンサートは中3の時に長淵剛、山の中に住んでいたので会場まで車で片道3時間かけて行きました。

印象に残っているライブは大学3年の頃に広島で行った矢野顕子のライブです。
アンコールの時,レーザー光線の四角の空間で「Greenfield」を歌う矢野さんの姿が今でも脳裏に焼きついています。 15/10/9(わにこ)

高校の時、さだまさしがまだグレープというユニットだった時に行ったなあ。
ライブの70%はさだまさしのお喋りで相方の吉田さんが隣で暇そうにしてた・・・。 15/10/9(石川浩司)

高1に初めてライブハウスというものに行ったのが思い出です。当時は会場整理やチケット、お店のシステムなど全く知らず、優先予約でチケットこそ買ったものの、整理番号順ではなく、先着順での入場だと勘違いしていたため、カウンターで赤っ恥をかきました。
ワンドリンクオーダーも必須であると知らなかったため、いざ入場時には所持金不足で更に一悶着に発展し、幸いにも3日連続のライブだったことで、ツケにしておいて翌日に払うという話でなんとか決着しましたが、おかげで初ライブハウスの一日にして、立ち見になりました。
それ以降、ライブの申し込みをする時はメールを下書きしておいて、開始時間ぴったりに出す、入場の際はチケットとドリンク代のコインを必ず手元に出しておくという点を鉄則としております。 15/11/24(Hi-)

まぁライブハウスも店によってはドリンク不要のところもあり、微妙に個々システムは違うからね〜。
最近はネットで各お店のシステムとかも分かり易くなったかもしれないね。 15/11/24(石川浩司)

1981年ロック雑誌Player誌主催のクリスマスパーティーに行ったときの話。会場は新宿のシティホテルの宴会場で当時の日本の売れっ子ロックミュージシャンや音楽評論家が多数来ていました。業界関係者が多かったですが、ロックファンも中にはいました。
余興のライブの中で出色だったのが天才高校生ギタリストとして一部で有名、学ラン姿でロックを歌っていた鈴木賢司さん。超絶ギターパフォーマンスはぶったまげました。でもそのときは高校生でまだメジャーデビュー前なので「イロモノ」としか扱われませんでした。その後ジャック・ブルースに認められ英国に渡り、世界的ロックバンドのシンプリー・レッドのギタリストになるとは誰も思わなかった頃です。サインでももらっておけば価値が出たかもしれないなー。

あと、余談ですが、そのとき高橋幸宏さんも来ていたのですが、パーティー司会者の高木英一〔近田春夫&ハルヲフォンのベーシスト〕に紹介されて登場したとき、幸宏さんが「(こんなところで)なにやってんの?」と言っていたのが非常に印象的でした。高木さんと幸宏さんは立教高校の同級生だったんですね。俺はYMOでワールドツアーに行ってるのに、お前はこんな場末の場所で司会やってるのか、というちょっと嘲笑気味のツッコミだったのを覚えています。同じ高校の音楽仲間だったのですが、所属するサークルが違っていたので、高木さんは内田裕也一派へ、幸宏さんはティン・パン・アレー一派へ行ったという数奇な? 運命があります。という誰も知らないどうでもいい話でした。ちなみに中学高校時代はわたくし、近田春夫&ハルヲフォンの熱狂的ファンでした。 15/12/22(波照間エロマンガ島)

学生服の鈴木賢司は俺も覚えてるな。
今は学生服じゃないのか・・・。 15/12/22(石川浩司)

1983年頃に赤坂のニューラテンクォーターで見たイギリスのニューウェイブバンド、モダンロマンスのライブ。当時六本木のディスコで知り合った遊び友達5〜6人で行きました。ニューラテンクォーターはホテルニュージャパンの地下にありましたが、1982年2月のホテルニュージャパン火災後も火災の影響はなかったので営業は続けていました。広い客席は椅子を取り払いオールスタンディング状態で、「ここが力道山が刺された場所か」と20歳のわたしは感慨深かったです。
でもライブの印象はほとんど忘れてしまいました。覚えているのがライブ中に客同士が身体に触れた触れないで殴り合いの喧嘩をしていたこと。力道山が刺された場所でもあるので、何か「魔物」が取り付いてしまう場所なのかなぁ、と思ったりもしました。

あ、ホテルニュージャパンといえば、社長のY氏は昭和時代白木屋や箱根富士屋ホテルののっとり事件などに関与し、ダーティーなイメージを内外に印象付けた実業家で、自身が買収したホテルニュージャパンの社長でもありました。火災発生の責任を問われ有罪になったのですが、実は私の実家のすぐ近くに彼が愛人のために作った妾宅があり「あれはYの作った家だよ」と近所で噂になりました。
ある日その家の前を歩いていると、家の前を箒で掃いている老人がいて、すれ違うときその顔を見てみると、なんとY氏が掃き掃除をしてたのです!!すぐに家に帰り、興奮気味に母にその話をすると母は「あー、あれは、横井さん〔あ、言っちゃったw〕の弟さんだよ。よく似てるでしょ。お兄さんの凶悪さを洗って落とした好々爺みたいな顔してて」と。なるほど弟だったのかー。

というホテルニュージャパン社長のY氏の想い出もからめた、赤坂ニューラテンクォーターでモダンロマンスのライブを見たという話でした。 16/1/29(波照間エロマンガ島)

ホテルニュージャパン火災後も地下だからと営業してたのはビックリ。
横井英樹〔あ、言っちゃったw〕は当時「悪人の見本」みたいな見られ方してたよね。 16/1/29(石川浩司)

1983年か1984年頃、日付ははっきりしませんが、新宿のディスコツバキハウスで観たラウンジ・リザーズ。当時はフェイクジャズとか、パンクジャズとか言われていたけれど、1940年代風ズートスーツをだらしなく着込み〔一世風靡セピアにイメージが近かった〕、ジャズのスタンダードを現代風に演奏するさまはカッコよかった。
リーダーでサキソフォンのジョン・ルーリーはその後ジム・ジャームッシュ監督作品「ストレンジャー・ザン・パラダイス」に出演し俳優としても活躍しましたが、ステージ上ではビールを飲みながら演奏する姿が印象に残っています。日本では同じようなパンクジャズでThe Spoilというバンドがあって、スネークマンショーのLPに紹介されていたけど、あれも好きだったなー。メンバーに知り合いがいてよくライブ観に行ってました。 16/3/6(波照間エロマンガ島)

何となく聴いたことある。ハッキリは覚えて無いがカッコイイ音だったような記憶。 16/3/6(石川浩司)

数年前、横浜のサムズアップで行われた「よくぞ日本に生まれけり」で、「おいしいうそがいっぱい」を生で聞いたのがものすごく思い出に残ってます。 16/3/6(ズミ天)

あれは二十歳過ぎくらいの時に作った歌だね。
俺の若い頃作った歌で今も歌える数少ない歌。 16/3/6(石川浩司)

16/3/6のズミ天さん。わたしも同じライブ観にいってたかもしれません。ふだんはタイに住んでいるのですが所用で一時帰国したときに行った記憶があります。「おいしいうそがいっぱい」私も大好きです。 16/3/19(波照間エロマンガ島)

まぁソロアルバムのタイトルにしたぐらいだからねぇ。
俺の根幹なのかもしれないなー。 16/3/19(石川浩司)

1981年秋、成城大学の学園祭で観たサンディ&サンセッツのライブ。ちょうど細野晴臣さんプロデュースの「Heat Scale」というアルバムがリリースされたときで、アルバムからのナンバーを多く演奏してくれました。会場は大学の講堂や体育館ではなくちょっと大きな階段教室で行なわれました。なので普通のコンサートホールよりも機材も演者も近く見えるので盛り上がりましたねー。このバンドとは不思議な縁があって、数年後に通い始めた美容院の担当のヘアスタイリストがここのメンバーのヘアスタイリングを担当していたり、また、時を経てはるか後年に知り合った年長の友人がこのバンドの前身のバンド「久保田麻琴と夕焼け楽団」のマネージャーをやっていたりと、変なつながりがありました。いつかサンディさんはラジオで言っていたのですが、昔デヴィッド・ボウイに口説かれたことがあるそうです。さすがデヴィッド・ボウイ、ああいうタイプが好きなんやー、と感心しました。 16/5/14(波照間エロマンガ島)

そこでサンディさんがデヴィッド・ボウイに走ったらどうなってたんだろうね。
第二のヨーコ!? 16/5/14(石川浩司)

2015年5月の「地下生活者の夜 第200話 温泉地下」(新潟県 六日町 ひいらぎ山荘にて)がやはりキーポイントです。泊りがけのイベントで写真を結構とりましたが、普通のライブハウスでの写真より、何か楽しいオーラが伝わってきます。
そして最後の集合写真、あれを見るとみんなの心が本当に一つだったなと思います。 16/6/12(Sankaku)

うん、泊まりがけのライブはたいてい楽しい。
みんなもっと企画してくれないかなー(俺はめんどくさがりなので自分で企画は出来ない・・・) 16/6/12(石川浩司)

ライブには一度しか行った事がありません。大学生の時メタルしか聴いていなかったのでメタルバンドのライブに行きました。帰り際にバンドメンバーがファンと交流していました。しかし、人見知りの性格が急に先鋭化し声をかける事もできずに退散してしまいました。今でも苦い思い出として時折脳裏を過ります。ライブ恐怖症みたいな状態です。 16/8/11(猫のチップ)

俺のライブに一度来てみい!終わって駄目だったら用事あるふりして普通に帰ればヨロシ。 16/8/11(石川浩司)

石川さんのライブ、是非行ってみたいです。あのメタルのライブから2年ほどたち、若干ライブへの拒否感も和らいできたと思います。 16/8/23(猫のチップ)

俺のライブもソロ、ホルモン鉄道、パスカルズと微妙に味わいが違うよーん。
是非お越しくだされ〜。 16/8/23(石川浩司)

1970〜80年代、ミュージックトゥデイ≪今日の音楽≫という現代音楽のコンサートが毎年行われていました。武満徹がプロデューサーを務め、内外の尖鋭的な作曲家演奏家を紹介するというもので、1980年代は渋谷Parco Part2の西武劇場で開催され、学生時代何度か足を運んだことがあります。一時期は武満フリークでコンサートに足しげく通ったものです。武満さんについてはこの「王様」でも何回か書いたことがあります。

日記によると1983年6月5日(日)武満さんの「雨の音楽」を聴いたと記録が残っているのですが、演奏の内容の感想についてはいっさい触れずに、高校時代の友人とParcoの前でばったり会ったこと、そしてその友人が女性のナンパに来ていたことや、終演後劇場ロビーでわたしの通う大学の教授だった、エリック・サティ研究で有名な秋山邦晴さんはじめ「実験工房」グループのアーチスト何人かがお酒を飲み、若者のようにジャレあっている醜態を目撃した、というようなことが書いてありました。今は亡き秋山さんも33年後このように元生徒に酔った醜態を暴露されるとは思ってもなかったでしょうね。しかしながら秋山先生の「日本の映画音楽」は今なお日本の映画音楽研究のバイブルだと確信します。影響を受けました。 16/9/24(波照間エロマンガ島)

教授とかって本当に純粋っぽい人も時々いて幼稚っぽくなる人もいるよね。
それが微笑ましかったり苦笑だったりは人柄で変わるね。 16/9/24(石川浩司)

自分としてはライブハウスのシステムを知らずに初めて訪れた高1の夏が大きな思い出の一つです。当時はワンドリンク制って何ぞや?早めに店に並んでいれば入れるでしょ?という感覚で、ファンクラブの優先予約で得たチケットを手にスターパインズカフェへ向かったのですが、入場の際に所持金不足とのことで一悶着あり、最初にして立ち見になりました…。3デイズだったことが幸いして、お店のマスターに「ツケにしてください!」と頼んで、何とか入場はできましたが。
それ以来、ライブの入場時にはドリンク代の小銭を片手に(釣銭が出ないように)列に並ぶことが鉄則となっています。 16/11/19(Hi-)

ライブハウスはホールとは違うからね。
飲み屋にいっても注文以外にお通しがあるのを子供が知らないのと一緒で最初はしょうがないよね。 16/11/19(石川浩司)

2014年に所沢にホルモン鉄道が来たときに、ある常連のお客の方と知り合いになりました。その次の日のライブでもご一緒し、名刺まで頂きました。

'15年2月の大谷氏のライブで、3月の大谷さんの群馬のライブに行こうと誘われ、地元の所沢駅まで向かいに来ていただき、現地へと向かいました。
大人としての気遣いで少ないながらもガソリン代を差し上げようとしたのですが、丁重に断られ、ほんとにいい人だなと思ってしまいました。
肝心のライブのほうは大谷さんの「犬の改札口」を生で聞くことが出来、それも共演者のエレキギターのリード付きで本当にかっこよく、録音できなかったのが本当に悔やまれるほどでした。
大谷さんのファンは僕達だけで帰りにはなんと大谷さんが見送ってくださいました。そして帰りの車では運転手に断って、僕の一番好きなCDを掛けさせていただきました。

今思うと、米米CLUBの歌じゃないけれど、本当にロマン飛行の一夜でした。自分が一人暮らしを始めた頃にも重なって本当にいい思い出です。 17/1/13(Sankaku)

これがファンのいっぱいいる人気のミュージシャンだったらこういうことはまずあり得ないからね。
マイナーアーティストのファンで良かったのう〜。 17/1/13(石川浩司)

15/5/24の石川さん。Char は10代の頃からスタジオミュージシャンとして数々のレコーディングでギターを弾いており、また伝説のロックバンドのMad Brothers やSmoky Medicineなどで日本のロック界でひとかどの評価を得ていました。ソロデビュー後、歌謡曲の作詞家である阿久悠と組んで歌謡アイドル路線に進んだのは、日本のショービジネスの構造に革命を起こしたかったからだと推察します。つまりアイドルから本格的ミュージシャンになったのではなく、本格的ミュージシャンがアイドルになったと思うのです。 17/4/16(波照間エロマンガ島)

ああそうなんだね。俺は何なんだろう・・・。 17/4/16(石川浩司)

中学を卒業して高校入学迄の春休みの1978年4月1日。東京の日比谷野外音楽堂で行われたキャンディーズの「ありがとうカーニバル」を観に行きました。社会現象になった1978年4月4日の「キャンディーズ・ファイナル・カーニバル For Freedom  イン・後楽園球場」ライブは観ることはできませんでしたが、その3日前に日比谷野音で行われたキャンディーズのファンクラブイベントにはなんとか行くことができたのでした。1977年9月に「ふつうの女の子に戻りたい」という有名な言葉を残して解散宣言をしたキャンディーズは、翌1978年4月4日までのあいだ、日本全国をコンサートツアーを行いました。わたしは中学3年の受験生だったので当然コンサートを見に行くことはできませんでしたが、マスコミのバックアップでテレビやラジオなどに露出する彼女たちを追いかけていました。恥ずかしながら熱狂的なファンになっていましたね。今から振り返るとちょっとどうかしてると思うほどの情熱でしたが、ニッポン放送の「オールナイトニッポン」で毎日のキャンディーズの解散までのカウントダウンコーナーなど、勉強の合間に聴いてましたよ。青春の一ページでしたね。その最後の最後のファンクラブイベントで、キャンディーズをこの目で見られたのは最高でした。日比谷野音で聴いた「微笑がえし」は良い想い出ですね。スーちゃんの実家の釣具屋さんはその後、20代になってから仕事で行くようになり、感慨がありますけど。2011年に55歳の若さで他界されて6年ですか。

最後に思い出したこと。この日は中学の同じクラスの男子と2人で見に行ったのですが、待ち合わせ場所の駅に行くと、別のクラスの男子が来ていたのでびっくりしてしまいました。わたしが代官山のアミューズに出向いて購入したチケットは2枚だったのです!
 あ、彼も自分でチケット買ったのだろうと思っていたのですが、野音の入り口に入場するとき、彼はチケットを持ってなくて入場を断られたんですね。でも、イベントが終了すると会場内で彼と再会しました。どういう方法でかわかりませんが、彼は野音に不正に入場したようでした。木によじ登ったのかな、と想像しました。という、キャンディーズを見に行ったという「想い出のライブ」の話でした。 17/6/9(波照間エロマンガ島)

キャンディーズは一番人気薄だったミキちゃんが好きだったなー。
スーちゃんはドリフの番組などでちょいデブキャラでいじられていたので解散後あんなに美人の女優さんになるとは思ってなかったなー。 17/6/9(石川浩司)

「テクノポップ御三家」のひとつ、プラスチックスを初めて観たのは、多分1979年11月23日渋谷屋根裏だったと記憶しています。
わたしは当時17歳の高校2年生だったのですが、それまでの人生でもっとも衝撃を受けたライブのひとつでした。 メンバーは立花ハジメ〔ギター、バンドマスター〕、中西俊夫〔ギター、ボーカル〕、佐藤チカ〔ボーカル、ダンス〕、佐久間正英〔キーボード〕、島武実〔リズムボックス〕の5人。

まず開場して中に入るとステージにドラムセットが無いのに驚きました!なんじゃこりゃ?!
ステージ後方のアンプの前にテーブルが置かれ、その上にリズムマシーンが置かれているだけでした。まだローランドTR808〔通称、ヤオヤ〕が発売する前で、そのリズムマシーンは箱型のCR-78 という機械で、マイコン内臓だったのですが「ロック1」とか「ボサノバ」とか「ジャズ」とかのリズムパターンのボタンを島さんが押すだけだったのね。これは最高にシビレましたねー。島さんは当時歌謡曲の作詞家でキャンディーズの「わな」とか作詞してたんですよ。そんな人がなぜここでリズムボックスを操っているの?!と疑問を禁じえませんでした。

また佐久間さんは当時四人囃子という日本のプログレッシブロックの最高峰バンドのメンバーで、そのメンバーがこんなオモチャみたいなドラムもないバンドに参加していることに、これまた最高にかっこいいと思いました。音楽はテクニックなんかなくてもアイディア次第なんだなー、とプラスチックスの音楽を通じて学びました。

そしてフロントの3人のメンバー。この5人が織り成すチープなおもちゃ箱をひっくり返したようなサウンドは、ドキドキわくわくな気持ちになり、ライブハウスでは最高のグルーヴ感で、わたしは恋に落ちるがごとく、たちまちプラスチックスの大ファンになってしまいました。以来都内で行なわれたライブは、1981年の解散までほとんど観に行きました。短い期間にメタモルフォセのように脱皮し続け、ついに日本青年館で見たトーキング・ヘッズのオープニングアクトでは、メインアクトのトーキング・ヘッズと同じような大編成コンボに変貌していました。

あ、1980年にビクターレコードからメジャーデビューしましたが、多チャンネル化したばかりの当時のスタジオ録音技術では逆に音像がペラペラスカスカで薄すぎて、ライブの臨場感はまったく再現できてなかったことが最大の不満でしたね。プロデューサーの高垣健、お前はアホか!と抗議の手紙を書きました。

この11月のライブ当時はまだアルバム1枚分のレパートリーをもってなかったので、途中でカバー曲コーナーがあったんですね。そのセレクトも最高に洒落ていたの。モンキーズの「スター・コレクター」「She」「アイム・ア・ビリーバー」「恋の終列車」とメドレーで演奏しててカッコよかったわー。「デイドリーム・ビリーバー」や「モンキーズのテーマ」など有名曲を演らないところがね。

というわけで、プラスチックスはわたしの青春前期に出会った宝物のバンドでした。のちにたまがプラスチックスの「コピー」にインスパイアされて「東京パピー」を創ったことは、石川さんがチェンマイライブをやる2008年くらい前まではまったく知りませんでした〔爆〕。 17/8/1(波照間エロマンガ島)

CD(レコードかな)でしか聴いたことないや・・・。 17/8/1(石川浩司)

東京大学 五月祭 「怒りの逆噴射」〔1982年5月23日〕

大学1年の春、東大五月祭で行なわれたロックフェスティバルを観に行きました。イベントのタイトルにある「逆噴射」とは同年2月9日に起こった日航機羽田沖墜落事故で心神喪失状態になった某機長が着陸寸前に大惨事を巻き起こした原因となった逆噴射レバーの意味で、それが流行語になってしまったことから名づけられています。今から思うと乗客乗員死者24名を出した大事故なのにいささか不謹慎かもしれないですね。本郷キャンパスの道路はさんだ農学部グラウンドに設営した特設ステージの屋根なし会場には、何千人もの観客が集まりました。

東大に通う高校同期の友人に誘われて行きました。フェスが始まる前に本郷キャンパスを案内してもらいました。1968年に起こった東大紛争の舞台である安田講堂がイメージよりも小さいのが印象的でした。

さて出演バンドは、天〔ダディ竹千代がおとぼけCats解散後に結成した新バンド〕、カルメンマキ&5X、ARB、シーナ&ザ・ロケッツ、TENSAW、Pink Cloud、Panta & HAL。東京のライブハウスシーンで有名な実力派のバンドが出演し大いに盛り上がり、堪能しました。

もう35年前のことなのでバンドの印象はだいぶん薄れていますが、オープニングアクトのダディ竹千代バンドではバックコーラスのオネエチャン3人が曲ごとに服を脱いでいき、最後の曲でトップレスになったこと!とか、TENSAWがライブを終えるとベーシストが持っていたベースギターを放り投げたとか、かろうじて覚えています。あと当日は好天に恵まれたのですが、風が強い日で砂埃が舞っていてけっこう吸い込んでしまったのはつらかった。でもお昼から夕方まで楽しいロックフェスティバルでした。

以上、1982年、東大五月祭でロックフェスティバルを見た話でした。 17/10/19(波照間エロマンガ島)

ダディ竹千代とおとぼけCatsとかTENSAWは俺も見たなあ。大根でギター弾いてたな。何でもありの時代ワクワクしてた。 17/10/19(石川浩司)

昔は女子プロレスの試合を見に行くと、休憩時間前あたりでライブがありまして、リングの上で女子レスラーが歌を唄ってくれました。
ビューティペアーとかクラッシュギャルズとか、ほかにも女子レスラーが。
女の子ファンがキャアキャア叫んでいました。
男子プロレスではまず見られない光景。
現在じゃもうやってないんだろうなあ。 17/10/19(わいわい)

一時期ボクシングでき亀田兄弟とか試合後に歌ってたよね。 17/10/19(石川浩司)

1980年6月〔17歳〕、千石の三百人劇場で行なわれたフリクションのライブ。ちと大げさですが「人生が変わった」ライブでした。1970年代半ば、ロンドンでセックス・ピストルズやクラッシュから始まったパンクロックのムーブメントは、全世界に拡散していきついに日本にも上陸、「東京ロッカーズ」一派などの勢いが1978〜9年頃から活発になりました。その中でニューヨークでのちに「No Wave」と言われるロックグループの中の、ジェームス・チャンス&コントーションズやリディア・ランチ率いるティーンエイジ・ジーザス&ジャークスなどに籍を置いたReckやチコ・ヒゲが日本に帰国して結成したフリクションは、ムーブメントの中で群を抜いてかっこよく、孤高の存在感は半端ありませんでした。ギター、ベース、ドラムスと最小限の3ピースユニットから繰り出される大音量の音像にはシビレマシタねー。とにかくアウトオブワード、言葉の外にある何ともいえない感覚に17歳の自分は打ちのめされました。こんな世界があるのか、と。こんなにロックは最先端でかっこいいのか、と。 ビートルズでロックを知っていろいろな音楽遍歴を経てきましたが、1980年のフリクション体験、ここでわたしはひとつのピークを迎えたと言っても過言ではありません。自分の生涯ベスト1ライブは、この夜のフリクションです。

実はあとから知ったのですがライターの松沢呉一さんも同じライブを観ていて、何かの本に「この日のフリクションによって人生が変わった」と書いていたのが印象に残っています。 17/12/19(波照間エロマンガ島)

あぁ俺もライブ観てみたかったな。
フリクションはレコードは聴いたけどそれほどピンとは来なかったからなぁ。
逆に突然段ボールはライブを見なければはまらなかったかも。
ライブによって人生変わることもあるよね。 17/12/19(石川浩司)

2014年、ちょうどホルモン鉄道の3枚目のアルバムが出た年でしょうか。3月に石川さんが東京都江戸川区・新小岩の大きな図書館でフリーライブを開かれました。
私の実家、足立区から行ける距離だったので、泊りがけで帰省し遊びに行くことになりました。

会場は最上階の多目的ホールのような所。珍しくギター1本でのライブでした。曲目もよくやる曲やマニアックな曲、そして図書館といことで本にまつわる面白いトークコーナーもありとても楽しめました。

ライブも終わり、家に帰ることのなりましたが、もと来た道をそのまま帰るのも面白くありません。来るときは環七通りを通ってきましたが、方向感覚は分かっているので荒川の川沿いを通っていき、北千住に出ることができました。
2014年の1・2月ごろ、私は『最後の場所』という歌を作ったのですが、その荒川の川沿いは、まさにその歌の舞台となった場所。広く景色が見渡せ、首都高の道路も見栄えがある一つの絶景なのではないかと思います。
石川さんのライブで楽しめ、さらに自分の歌でも楽しめた、思い出深い1日となりました。2014年は何を隠そう、僕自身が一人暮らしを始めた年。ライブイベントもいろいろなことがあり感慨深い一年となりました。 18/1/27(Sankaku)

毎年俺の生誕祭を主催してくれてるヒロポくんが主催してくれたライブだね。
無料だったこともあり入れなかったお客さんも。俺のソロで超満員はそう多くはないので嬉しかったなぁ。 18/1/27(石川浩司)

1978年頃、北の丸公園の科学技術館で見た楽器フェア会場での川崎燎〔ジャズ・ギタリスト〕のライブ。
今Wikipediaで検索すると川崎さんはギターシンセサイザーの開発者の一人で世界的に著名と記録に残っていますが、そのライブでは共同開発中のギターシンセサイザー楽器メーカーの協賛のもと、ステージ上で「世界で初のお披露目!」みたいなライブだった記憶があります。
最初に音楽評論家のような人と川崎さんが開発の苦労談やエピソードなどを語ったのち、いよいよ試奏に入ることになりました。ところが準備中、そのギターシンセサイザーが故障して、メーカーのエンジニアがあちこち機械を直していたのですが、ぜんぜん音が出ないんです!
そしてしまいには川崎燎はしびれをきらして「もういい!」とそのエンジニアからシールドコードをひったくり、アンプに直に直結し、ギターシンセサイザーやエフェクターなしに生音でギターを弾き始めたのですね。これは笑いがこみ上げてきました。残念ながらギターシンセサイザー世界初演には立ち会えませんでしたが、それよりも川崎燎の怒りのジャズギターソロは笑えるほど良かったです。そんな想い出のライブでした。 18/1/27(波照間エロマンガ島)

そうそう。トラブルがあった時に奇跡的に凄いライブになることあるんだよね。
反骨のパワーが宿るんだよね。 18/1/27(石川浩司)

1981年頃、目黒にあった鹿鳴館というライブハウスにパンクロックバンドのザ・モッズをよく観に行きました。この年メジャーデビューを飾り、動員数がぐんぐん上がっていった頃です。たいていオールスタンディングでステージ下でくんずほぐれつ状態で歓声上げてみていました。友人のAくんがこの辺のめんたいビートのバンド群が大好きでつきあいでよく来ていたのですが、ストレス発散になってよかったです。 18/2/17(波照間エロマンガ島)

陣内のザ・ロッカーズを当時見たけどお客さんは少なかったなあ。
まさかその後俳優でブレイクするとは思いもしなかった。 18/2/17(石川浩司)

これは私自身が出演したライブの話です。
毎年、年末近くに近所の新所沢でイベントがあり、それに歌の出演で呼んでいただいていました。初めて出たのは2013年でしたが、次の年の2014年の出演はなかなか思い出深いものとなりました。

2013年の際に、自分の持ち歌と大谷氏の「俺は潜水夫」「雨の日のサーカス」計3曲を歌いました。大谷さんのユニークな歌詞は大いに受けて、一つの語り草になりました。2014年のイベントが近づいてきたころ、そのイベントの担当の方から’13年のライブ映像を見せていただきましたが、なんと歌に手話通訳が付いていました。大谷さんの歌に手話通訳なんてできるのかな、と思っていたら、案の定途中で通訳をやめられてしまいました。
そのエピソードを2014年の出演の際、ライブ途中のMCで話したら、客席から笑いが起こりました。後にも先にもあれだけ笑いが取れたのはあれきりです。笑いを狙って話したことが思いのほか受けず、また本当に何気なく言ったことが受けることはよくあります。

余談になりますが、2013年には私のシンガーソングライターとしての一つの決定打となる曲が2曲できました。滝本晃司さんやたまに憧れて私もギターの弾き語りを始めましたが、これが出来たとき、私もたまや滝本さんとは違う一人の歌い手なのだという思いになりました。2015年のニヒル牛での石川さんのライブ、「マトリョーシカ」「ラザニア」を初披露され、また私も含めお客さんとのセッションもされましたが、その時私は意図的に石川さんと合いそうな曲を選びました。果たして’13年に出来た2曲は、石川さんとどのようなセッションになるのか、がんばって石川さんを僕のライブにお呼びしたいと画策しております(笑)。 18/2/27(Sankaku)

是非〜。いい素材は持ってるよ。 18/2/27(石川浩司)

1978年4月29日、東京・九段の日本教育会館で行なわれた近田春夫とハルヲフォンのライブコンサート。1960〜70年代歌謡曲を全編ロックアレンジしてレコーディングした、歴史に残る大傑作レコード「電撃的東京」がリリースされ、その記念ライブです。当時わたしは高校1年生でした。このライブ、10代半ばのわたしにとってとにかく衝撃を受けたライブでした。

開演し幕が上がると、オープニングはいきなりベイ・シティー・ローラーズの1975年の大ヒット曲『サタデー・ナイト』の「S.A.TUR.DAY NIGHT」というリフレインフレーズから始まります。これが出だしからいきなり超シュミシュミな世界で、近田春夫が当時追いかけていた、郷ひろみ=筒美京平サウンドをかなり意識した構成となっていて、この『サタデー・ナイト』も郷ひろみが「ライブ・イン・ハワイ」というライブアルバムのオープニングで演奏した曲だったのです!! これはベイ・シティー・ローラーズではなく、ベイ・シティー・ローラーズをカバーしている郷ひろみをさらにカバーしている!! と近田春夫の演出意図を即座に読み取りました。

当時日本のロック界は、アメリカやイギリスのさまざまな形に進化したロックに影響を受け、そのエッセンスをなんとか日本で再現できないかと模索していた時期で、ちょうど「ニューミュージック」という言葉が生まれる前後の時期でした。はっぴいえんどでドラムスと作詞を担当していた松本隆が歌謡曲の世界に入ってきて、ヒット曲を連発し始めた時期とも重なります。その中で日本のロックミュージシャンで日本の歌謡曲に注目してその楽曲を取り入れたのは当時近田春夫しかいませんでした。


「電撃的東京」にてカバーされていた楽曲をちょっと並べてみると(1)ついておいで/シャープ・ホークス(2)東京物語/森進一(3)真夜中のエンジェルベビー/平山三紀(4)気になるお前/沢田研二(5)人間狩り/ピーター(6)ブルドッグ/フォーリーブス (7)恋の弱味/郷ひろみ (8)きりきりまい/ 山本リンダ(9)でさのよツイスト/スリー・ファンキーズ (10)ラストショー/ジャニーズ・ジュニア・スペシャル……とそうそうたる「ザ・歌謡曲」が並んでいます。これらを歌の原型をとどめながらもパンクロックやロンドンポップの過激なアレンジをほどこしていくのです。1978年当時も最高にカッコよかったですが、今聴いても最高にときめきます。

途中、小学生の兄妹ギターデュオのかんぺい&りつこがゲストで出てきて演奏したのも印象に残っています。この兄妹はたしかヤマハ主催のアマチュアロックコンテストのイーストウエストのジュニア大会に出場したんじゃなかったかな。近田が「将来どこのレコード会社と契約したいですか?」と尋ねるとかんぺい少年は「ミノルフォンレコードです」と答え観衆にウケていました。

近田春夫とハルヲフォンにハマッたのは、当時オンエアされていたニッポン放送の深夜ラジオ番組「オールナイトニッポン」火曜2部の放送がきっかけだったことも最後に付け加えて起きましょう。この放送が画期的だったのは歌謡曲のシングルをかけながら音楽にかぶせてその曲についてのうんちくを語りながら、1コーラスもいかないうちに次の曲、また次の曲とかけていくというDJスタイルをとっていました。その中で近田春夫が現在に連なる歌謡曲論、作詞作曲家論を今聴いている曲を分析しながらその場で解説するスタイルはかなり影響を受けましたね。

という、近田春夫&ハルヲフォンの「電撃的東京」発売記念ライブを観に行ったという話でした。 18/2/27(波照間エロマンガ島)

俺は実は近田春夫さんはほとんど聴いたことないんだよね。
なんとなく都会的オシャレな感じと蘊蓄が強そうな感じで避けてたのかも。
ラジオを聴いてたら変わってたかもなぁ。 18/2/27(石川浩司)

1997年、新宿コマ劇場で長山洋子の初座長公演を観覧しました。芸能事務所に勤める友人からチケットがあるからと勧められて、初めて長山洋子さんのコマ公演を観たのでした。これは貴重な体験でした。長山洋子さんは10代の頃はアイドル歌手で活躍していましたが、もともとは幼い頃から民謡を習っていて演歌歌手としてデビューする予定だったそうです。それがまだ演歌は早いという事務所の判断で最初にアイドル歌手、そして女優などで研鑽を積み、20代半ばにしてようやく演歌歌手としてレコードをリリースするようになりました。

最初にびっくりしたのはコマ劇場の劇場の構造。今まで体験した劇場ではIMAX映画館と同じくらい客席に勾配があり、前後の席とのあいだに高低差がやたらとありました。そのおかげでステージへの距離が近く演者さんと水平の感覚を持ちました。

Wikipediaによると、「ギリシャ時代の劇場様式からヒントを得た回り舞台が特徴で、同心円状に配された三重の廻り舞台と6つの小迫が回転と上下運動する舞台が多様な効果を魅せていた。劇場名の『コマ』は、円形舞台が独楽の回る様に似ている事から採られた。」とあります。この回り舞台を使って二幕物の芝居と歌謡ショーを融合させたスタイルの公演はテレビの歌番組を観ているだけではわからないダイナミックな劇場体験を演出しました。町娘役の長山洋子さんと男性ゲストスター〔二枚目俳優〕との恋の道行き、そして悪党に長屋のお調子者たちが出てくる予定調和のよくある時代劇の小芝居とのマッチングがとても心地よくて。
「あー、コマ劇場でもっと演歌歌手の座長公演を観ておくんだったー!」と後悔したのも後の祭り、1990年代からはJポップの隆盛と演歌の退潮のため、1956年から演歌の殿堂として多くの観客を動員・魅了してきた新宿コマ劇場は2008年に閉館されました。

あと、音響効果は抜群に良く、ビッグバンドの演奏と長山さんの歌唱はよく耳に入ってきました。テレビとのいちばんの違いは音響の良さだと思いました。という長山洋子の初座長公演を新宿コマ劇場に観に行ったという話でした。 18/4/12(波照間エロマンガ島)

コマ劇場の下のシアターアプルには出たことあるんだけどな。
パスカルズで行ったヨーロッパの劇場は高低差が激しく、最上段の客席だとクラクラするような所も多かったな。 18/4/12(石川浩司)

波照間エロマンガ島です。2000年7月3日に渋谷On Air Westで観た Polysicsのライブ。

〔以下、日記よりばっすい〕
渋谷ON AIR EASTにて初めてPOLYSICSを見る。名前を知ったのは1年くらい前。WEB上で偶然見つけたんだけど音を聴いたのは今夜が最初。何これDEVOの完全パクリじゃん、って思ったけど、なかなかどうして。

けっこう、いいGROOVEがあったよ!

始めは左脳で分析しながら聴いてたの。これはDEVO。これはPLASTICS。あ、これはCONTOTIONSだ、って。Pモデルもあった。でも電子音は使っているけどそれは単なるフレーバーに過ぎなくて、まぎれもなくROCKそのものなんだよ!!

気がついたら最前列で首たてに振って踊ってた。

TR-808〔通称ヤオヤ、ローランド製のリズムマシン〕を使ったがそのGROOVE感にたどりつけず解散したPLASTICSへの20年後の若者の回答というとかっこよすぎ、か。でもKEYのKAYOはすげえ可愛いね。昔チカに対して抱いた恋ココロを思い出しました。〔ばっすいここまで〕

かなり興奮しています。このとき齢三十七歳。まだぎりぎりオールスタンディングのライブハウスで飛び跳ねてGIGに没入していたことに驚かされますだ。このあと現在にいたるまでこんな風にヘッドバッキングでダンスしてライブを観たのは、2006年の紫ベビードール、2011年のPlasticsの再結成ライブくらいかな。いずれにしても現在五十五歳の後期中年のくたびれた白髪のおっさんがここにいるということであります。 18/4/26(波照間エロマンガ島)

Polysicsはメンバー全員でたまのライブを観に来てくれたことがある。
しかも招待じゃなくてちゃんとチケットを買って。嬉しかったねえ。 18/4/26(石川浩司)

2017年には斉藤哲也さんが西八王子のアルカディアというお店で2回ライブを開かれました。

1回目の8月はなんと石川さんがゲストに!!たま解散以来13年ぶりのセッションだったらしく、大いに盛り上がりました。
2回目は年末の12月29日に。8月のライブは打ち上げに参加できなかったけれど、この日は参加しました。たまのサポートメンバーをやっていらした斉藤さんは、まさしく伝説の証言者!!面白い話をたくさん聞くことができました。

今年(2018年)はなんと、石川さんの生誕祭に斉藤さんが呼ばれるとのこと!!いつもとは違った持ち味のライブになりそうです。 18/4/30(Sankaku)

奥さんの神田さんのバイオリンもいいんだよなー! 18/4/30(石川浩司)

昔、中島らもさんの「PISS」というバンドと、大槻ケンヂさんの「電車」というバンドの対バンに友達と2人で行きました。
らもさんがステージから「今日はこの中で19か20歳の人は居るかな?」と言い、友達と私はその時ちょうど20歳だったので、はーい、と手を挙げました。
そしたららもさんが「つらいけど頑張りましょう」と言って下さいました。確からもさんは20歳くらいが人生で一番つらい時期だと言ってたと思います。
とても嬉しく思い出に残るメッセージでした。
オーケンの「電車」はライブ後にCDの販売があって、電車メンバーから直に買い、歌詞カードにメンバー全員がサインして握手してくれるという特典付きでした。その時初めてオーケンと握手したのですが、めちゃくちゃ緊張して笑顔も出ないくらい表情が凍り付いたのを覚えています。電車のドラムは小畑ポンプさんで、私は「すかんち」も大好きだったのでポンプさんのサインと握手も嬉しかったです。 18/8/16(マドレーヌ婦人)

いつかケンヂ浩司のライブがあったら来てね〜。 18/8/16(石川浩司)

2013年、東京都板橋区・高島平の公営の植物園で開かれた、ホルモン鉄道のライブが思い出に残ってます。石川さんも公営の施設にホルモンを呼ぶとは、と驚いていらっしゃいました。
2部制のライブで、ちょうどその日は近所の埼玉県川口市で知久寿焼さんもイベントに出演されていて、1部が終わるとそちらの方に流れていく方もいらっしゃいました。
思い出に残っているのが石川さんが頭にやかんをのっけているシーン。悲しいような困っているような顔が最高にバカバカしく今でも時々思い出します。

そのころ、足立区の実家に行くときに、環七通りの和光陸橋から曲がって高島平の前を通っていたので、何かめぐりあわせを感じました。2013年から2015年は石川さんたちのライブも含めて、まさに何もかもが人生最高に楽しんでいた時期。その皮切りとしてこのライブが思い出です。 18/8/25(Sankaku)

毎年8月の新宿や練馬の子供イベントも区の企画だね。今年10月のイカ天イベントもそう。
みなさんの税金からギャラ、いっただきでーす(笑)。 18/8/25(石川浩司)

もう10年も前の話ですが、とあるバンドのライブに行きました。
このバンドのドラマーが最後にメンバー全員のサイン入りのドラムヘッドを投げ込むのですが、運よく見事にキャッチ。後にも先にもこの時だけです。うれしかったなぁ〜  18/9/17(よこよこ)

俺もよく客席に物を投げるけど。楽屋にあったお菓子とか・・・。 18/9/17(石川浩司)

イカ天イベントが自治体主催とは意外でした。
私が初めて行ったライブは当時の恋人がチケットをとってくれたドリカム…だと思ってたんですが、よく思い出してみると水森亜土が最初でした。
10歳頃、武蔵野市主催の「○○コミュニティセンターに亜土ちゃんがやって来る!小学生来たれ!」みたいなイベントに行ったんです。
亜土ちゃん、それはそれはすごかったです。ルンルン歌うたいながら、大きな模造紙にすごい速さで絵を描き上げていくんです。 やんちゃ坊主も、引っ込み思案な子もみんな夢中になりました。
しかも、描かれた何枚もの絵は抽選で来場した児童にプレゼントされたのですが、私はそれに見事当選!今でも大切にとってあります。
石川さんもこうして将来「何やらわからないけどすごかった」記憶として思い返されるんだろうな、と思うと嬉しくなります。 18/9/17(ANA)

亜土ちゃん俺も好きだったなあ。確かまだやってるんだよね。一体いくつなんだろう!? 18/9/17(石川浩司)

18/9/17の石川さん。水森亜土さんは確か亡父と同い歳だった記憶があって調べてみると、記憶がちょっと違っていて1939年生まれですって。わたしが子供の頃は1935年生まれと聞いた記憶があるのですが・・・。人間の記憶はあてにならないことを思い知らされました。 18/10/7(波照間エロマンガ島)

でも年齢詐称もあるかも?・・・今更しないか。 18/10/7(石川浩司)

波照間エロマンガ島@56歳、タイランド在住です。
1981年8月15日に日比谷野外音楽堂で行なわれた「天国注射の昼」。これは想い出に残るライブでした。今でも記憶に残っています。日本のアンダーグラウンド音楽界の有象無象大集合という感じで衝撃はハンパありませんでした。お昼すぎにスタートして夜9時くらいまでずーっと間断なく大音量ノイズミュージックの音の壁の中でパフォーマンスを体験し続けました。

司会者がいなかったので次に誰が出演するのかのアナウンスがまったくなく、次から次へと自己紹介なしに出てくる出演者に最初観客は相当途惑っていましたが、そのうちに皆勝手に半日のノイズロックフェスを楽しんでいました。

その中で覚えているのは、日中登場した巻上公一さんの3ピースバンド。ベースが巻上さん、ギターが海琳さん、ドラムが泉水さんで、エレクトロニクスの要素は排除してパロディーロックの体でオーソドックスにロックサウンドを演奏したので、他のノイズミュージックの音の洪水から離れて一服の清涼剤の印象を持ちました。その日が8月15日の終戦の日であったからか演奏したジローズ「戦争を知らない子供たち」はウケてましたね。わたしも声をあげて笑いました。

あと日が暗くなってから登場した財団法人じゃがたら。じゃがたらは1979年の伝説の下北沢音楽祭以来、2回目の体験だったか。ドラマーのウメちゃんがラリってドラムが叩けなくなって途中でライブが終了してしまったことを覚えています。江戸アケミの「だめだ、こりゃ」といかりや長介みたいなコメントに開場中ズッコケてました。

あとPhewとかグンジョウガクレヨンとかPUNGOとか水玉消防団とかばかズとか不失者とか白石民夫&タコとか山海塾みたいな白塗り舞踏集団とか、次から次へと狂ったような時間を間断なく体験したので脳内麻薬でまくりで、すーっとヘラヘラニヤニヤしていました。友人女子と二人で行ったのでパフォーマンスの感想を述べ合って反芻し「ひと粒で二度美味しい」状態にもなりました。

PUNGO率いる今井次郎さん、とても怖かったなー。30人近い演者をまとめてジョン・ケージの「チャンス・オペレーション」みたいな実験音楽を演奏したのですが、ステージ上で狂ったように遠吠えで指示を演奏者に伝えていました。そこには、後に石川さんの義理のお兄さんになる佐藤幸雄さんや早世したサックスの篠田昌巳さん、バイオリンの向島ゆり子さんなどがいたのかは覚えていません。とにかくたくさんの人が舞台上、そして客席の中で演奏に参加していました。

最後に、このライブには坂本龍一も出演予定でフライヤーには名前も出ていたのですが、レコーディング中という理由で出演しませんでした。誰かが坂本龍一からのメッセージを読み上げていました。「今、芝浦のアルファレコードのスタジオでレコーディングしている。文句があるやつは芝浦に来い!」とかなり挑発的なメッセージが読まれていていました。わたしは何故か「坂本、怖気を奮って逃げたな」と確信しました。これだけの面子に恐れをなして逃げたのだろう、と。まったく根拠はありませんが。PASSレコードの後藤美孝さんとの関係で、この頃アバンギャルドロックシーンに近づいた坂本龍一でしたが、この日のライブには参加しなかったというオマケ的事実がありました。

そんな18歳のとき観たライブの想い出をとりとめなく書いてみました。 18/11/10(波照間エロマンガ島)

その伝説のイベント、ビデオでしか観てないんだよねー。観たかったなあ。
でもその中の今も活動している多くの人とその後自分がセッションすることになるとは、不思議な気分だなあ。 18/11/10(石川浩司)

みぞれ混じりの強風の中、宝永火口の火口底で半袖になりギターをかき鳴らして歌をうたう石川さんは一生の思い出ですよ! 18/11/10(ことり)

あれは俺のライブの中でもトップクラスの印象に残る伝説のライブだった。
主催ありがとう! 18/11/10(石川浩司)

波照間エロマンガ島@タイランド在住です。東京都渋谷区生まれで45歳でタイに移住するまでは東京都、神奈川県のあちこちに住んでいました。

高校から大学にかけては、土曜日は横浜の関内にあるNHK横浜放送局のFM首都圏ローカルで放送されていた「横エフ」という番組を毎週のように観覧していました。内容は横浜におこったローカルニュースをアナウンサーが紹介する前半と、後半はライブコーナーになっていて、当時有名無名のロックアーチストが毎週1組出演して30分くらいライブコンサートを行なう構成になっていました。

このライブコーナーがすごかった。ここで観たのは覚えているだけで、ZELDA、P-MODEL、ARB、ロッカーズ、モッズ、プラスチックス、アナーキー、ダーティーエンジェルズ、シーナ&ロケッツ等々…、と当時メジャーデビューしたばかりのロックアーチストはたいてい出演していましたね。これらのバンドが整理券をもらうだけで毎週無料で見られたんです。1980年前後はロックミュージックがパラダイムシフトを起こした時期で、それまで主流だったハードロックのバンドが「オールドウェイブ」として端っこに追いやられて、代わりに「ニューウェイブ」と呼ばれる新しい波としてのパンクロックやテクノポップバンドがどんどん世に出てきた時期でもありました。そこで毎週いろいろなアーチストを見られたのは青春時代の宝物でした。

そんな1980年代初頭、横浜のNHKFMで公開生放送ライブを観覧していたという話でした。 18/12/3(波照間エロマンガ島)

うわー、それは豪華だなあ。横浜は恵まれてたね! 18/12/3(石川浩司)

2014年7月20日(日)、北浦和の「クークバード」(今の名前は「居酒屋ちどり」)で「ホルモン鉄道ソロ合戦〜石川浩司・大谷氏ジョイントライブ」がありました。僕の引っ越しが決まってから初めてのライブだったので思い出に残っています。大谷氏さんが私がこのライブに来たことを覚えてくれていました。

同じ年の8月15日(金)、所沢駅近くのライブハウスにホルモン鉄道がやってきました‼引っ越しが終わった後で、住居が同市内の小手指(こてさし)だったので初めて歩いて会場まで行きました。複数のテナントが入っている小さなビルでした。ライブハウスの入り口にある中年の男性が立っていました。アタッシュケースがトレードマークの常連さんでした。北浦和のライブにもいたとのことですが覚えていません。
この次の日に石川さんは新宿でイベントに出られました(お昼のイベント)。そこでもその男性とご一緒し、しばし話が弾みましたが、ちょうど同じ日の夜、帰り道の阿佐ヶ谷で大谷氏が「地下生活者の夜 第197話」に出演されていました。最初は行く気はなかったけれど、その男性に誘われ、入場料も手ごろな値段だったのでご一緒することにしました。
大谷氏やとっちゃんのほかにも出演者がいるライブで大谷さんはトリを務められました。大谷氏の最初の曲目は「風鈴」(カバー曲)。曲の終わりに珍しくシャウトが入っていて、今でもとても鮮やかに記憶に残る一曲でした。共演者たちも腕自慢な方々がそろっていてとても楽しいライブでした。

まさに新しい生活の大号令になったひと時‼意中になかったイベントがとても楽しく記憶に残ることは何度かありました。地下生活者のライブはとても楽しかったけれど、関係者を除く普通の客は僕らを入れても5人もいませんでした。その次の年からの夏・地下、大谷氏が出演されるものはたくさん人が集まるようになりました。 19/1/24(Sankaku)

「地下生活者の夜」のイベントを俺が山下由と始めたのは1982年だったかな。
その25回目に実質たまが結成された。
そのイベントが俺の手を離れても未だに続いているのは、俺と同等かそれ以上にしつこい青木タカオさんのねばり。
しかしあれから37年経ってまだ続いてるなんて奇跡だな。 19/1/24(石川浩司)

1980年1月、高校2年のわたしは学校帰りによく銀座にあるテクニクスギンザとか、ローディープラザなど、家電メーカーのオーディオショールームに作られたサテライトスタジオで行なわれた、歌手の無料ライブ〔主にラジオの公開録音〕をよく聴きに行ってました。
その中で出会ったのがジャズ歌手の阿川泰子さん。当時は年齢をサバ呼んでいて本当は1951年生まれのところ、1953年生まれとMCで語っていました。17歳のわたしは、「へぇ26歳で俺と9歳違いかー、もしかして対象になれるかも」と鼻の下伸ばしてエロ目線で見ていましたが、あとから11歳違いということを知り、ガッカリしたことを覚えています。でも阿川泰子さん、美しかったー。そして歌もよかったー。そんな思い出。 19/1/24(波照間エロマンガ島)

俺も歌は好きだったな〜。今も活動してるのかな。 19/1/24(石川浩司)

そのテクニクスギンザでは音楽評論家の中村とうようさんの「レコード寄席」という会によく行きました。中村とうようといえばニューミュージックマガジンの編集長として日本の音楽批評の発展に寄与した人物です。そこで彼がかけるロック、ソウル、ジャズ、ラテン…などのレコードを聴き、解説を生で聞ける機会は貴重な体験でした。気に入った音楽を見つけると、そのまま近くの山野楽器やヤマハなどの大手レコード店に行き、レコードを購入したりしたこともあります。高校時代は自分の画廊まわりデビューとも重なり、放課後は銀座に通う日々でした。 19/1/31(波照間エロマンガ島)

都会育ちは違うな〜。もちろん中高時代から中村とうようの名前はよく聞いてたけど、群馬にいたら遥か彼方の存在だったもんなぁ。そんな人に直接会えるなんて、やっぱり環境の違いは大きいな。 19/1/31(石川浩司)

19/1/24の追記。そういえば銀座のローディープラザ〔日立のオーディオブランドのショールーム〕にはオーディオ視聴室という完全防音の部屋があり、そこで持ち込んだレコードを日立のステレオで大音量で視聴することができました。わたしは高校時代そこへ友人とよく行きレコードを聴きました。覚えているのはマイルス・デイヴィスの「アガルタの賛歌」という2枚組のライブアルバム。1975年マイルス来日時のライブ音源をレコード化したものです。レコードジャケットに「このレコードはできるだけ最大音量で聞いてください」という文言が記されており、自宅では大きな音がかけられないのでここでよく聴いたというわけです。
大音量で聴くとこれがとにかくすごかった。1975年頃のマイルスはエレクトリックジャズと言われ、電気楽器やパーカッションを多くフィーチャーしてアフリカのエスニックなポリリズムで攻めてくる挑戦的なサウンドでした。その大音量の音の坩堝の中にいるとなにか神秘体験に近いような不思議な気持ちになっていきました。のちに読んだ村上龍の「五分後の世界」という作品に出てくる「アジアンポリリズム」を提唱するワカマツという音楽家のライブシーンは、この「アガルタの賛歌」がイメージされました。そんな思い出。 19/3/12(波照間エロマンガ島)

でかい音で聴くと見えてくる景色が変わる音楽ってあるね、確かに。 19/3/12(石川浩司)

2009年の年末に新所沢パルコで、池田綾子さんという女性シンガー(NHKの「電脳コイル」というアニメの主題歌を歌った)がライブをされました。建物をはさんだアーケードの中の特設ステージ。ピアノ伴奏による歌唱でした。

「電脳コイル」の他にもNHKで歌を歌われていて、その歌を歌唱されましたが、「電脳コイル」の歌は演ってくれませんでした。
確か2部制のライブだったと思いますが、どちらも観覧しました。

個人的な思い出はここから。ライブが終わってから、1時間もしないうちに埼玉県大井町の当時はSATY(今はイーオン)の映画館でウルトラマンの映画(ウルトラセブンの息子が初登場したもの)の上映があり、自転車をすっ飛ばして観に行きました。(パルコではやっていない映画でした)
結構ギリギリでその映画館も初めて行ったのでスリリングな思い出でした。その映画も好きなウルトラマンが登場して大いに楽しめました。 19/5/12(Sankaku)

想い出のライブというより想い出の映画? 19/5/12(石川浩司)

波照間エロマンガ島です。突然思い出したライブがありました。1979年7月東京文化会館で行なわれたレナード・バーンスタイン指揮、ニューヨークフィルハーモニーオーケストラの演奏会。プレイガイドで2枚チケットを購入して、クラシックファンの母と一緒に行こうと計画しました。購入した席はほぼ最前列でバーンスタインの指揮を楽しみにしていたのですが……。

公演が近づいたある日、母からこんなことを言われました。
「年少の友人でクラシックファンの女性がいて近々結婚するので、チケットをその女性とフィアンセにプレゼントしたいんだけどどうかな」と。

生バーンスタインを楽しみにしていたわたしは「残念だけど、またいつでも機会があるからいいよ」と快くチケットを譲りました。あとから母に尋ねるとそのカップルは演奏会は素晴らしくて大感動したとのこと。贈ったかいがあってよかったということを覚えています。

ところが、わたしはその後、稀代の大指揮者と言われたレナード・バーンスタインを見ることはなかったんですね。いつでも見られると思い込んでいたのですが、なぜか機会を逸し気がつくとバーンスタインは亡くなっていました。〔1990年逝去}

もしも1979年のそのライブに行ったら、人生どんなに変わっていただろうと思い返すわたしでした。 19/7/30(波照間エロマンガ島)

ミュージシャンはもちろん人の死は、突然訪れるからね。日常の崩壊も。 19/7/30(石川浩司)

すっかり忘れていたのですが、1983年夏に中野サンプラザで行なわれたP.I.L.〔パブリック・イメージ・リミテッド〕のライブ。元セックス・ピストルズのジョン・ライドンがグループ解散後1978年に結成したバンドの初来日ライブです。わたしはP.I.L.名義で発表された4枚のレコードには衝撃を受けていたので楽しみにしてはせ参じたのですが、期待はずれもいいところで記憶を封印したようなところがあります。

特に2枚目の通称「メタルボックス」と呼ばれたレコードには心底衝撃を受けたのです。ジョン・ライドン〔ヴォーカル〕、キース・レヴィン〔ギター、シンセサイザー〕、ジャー・ウーブル〔ベース〕、マーチン・アトキンス〔ドラムス〕の織り成すポストパンク、ポストニューウェイブともいえるアヴァンギャルドなロックスタイルはまじ痺れたんですよ。音作りの中心人物であったキース・レヴィンは天才だと思いました。ところが4枚目の「フラワーズ・オブ・ロマンス」ではベースのジャー・ウーブルが脱退し、ベースなしでアルバムが製作されたのにも驚きましたが、来日直前に音楽面の中心メンバーだったキース・レヴィンまで脱退し「これはどんなライブになるのだろ」と心配しながら中野に向かったのでした。

するとライブではギター、ベース、ドラムス、キーボードをバックに従えたジョン・ライドンがおざなり感いっぱいで過去のレパートリーをかったるく歌い演奏するさまは興ざめもいいとこでした。しまいには「アナーキー・イン・ザ・UK」も演奏、これは温泉ホテルのラウンジでコピーバンドが演奏されているような場末感ただよう内容で、パンクロックからほど遠い音像でした。もしかして日本の観客を馬鹿にしているのではないか、よく暴動が起こらなかったな、と思うようなガッカリした感想でした。そんな1983年夏の想い出のライブでした。 19/8/16(波照間エロマンガ島)

そうなのか...。俺もP.I.L.はセックス・ピストルズ以上に好きだったなぁ。最高にカッコイイ音楽だったな。ソリッドだけど淡々とした演奏に無機質なボーカルが絡んで。 19/8/16(石川浩司)

波照間エロマンガ@タイランドです、こんにちは。

The Pop Groupの2枚のアルバム、「Y」と「Do We Tolerate Mass Murder?」は1980年前後の発表当時からわたしは大変な衝撃をもってうけとめ、一時期は朝から晩までこの2枚のレコードを聴いて過ごしていたというくらい好きなアルバムでした。ポストパンク時代を先取りしていて、それまでに存在しなかったニューウェイブロックをルーツにしたアバンギャルド・ノイジー・ファンク音楽としてドキドキワクワクしたものでした。メンバーが全員19歳20歳前後ということにも衝撃を受けました。そんな若さでこれほどの音楽を作るなんて、と。

このポップ・グループが分裂・解散し、できたひとつのバンドがRip Rig And The Panik でした。スネークマンショーの1981年発表のアルバム「死ぬのは嫌だ、恐い。戦争反対」に紹介されているのをはじめに、続いて発表した「God」「Kill Me in the Morning」と立て続けにアルバムを発表し、これらを1980年代前半はヘビーローテーションでよく聴いておりました。しかし、残念ながらリップリグ&ザ・パニックのライブを体験することはありませんでした。

1981年頃だったでしょうか、渋谷西武地下のレコード屋さんで当時のロンドンのニューウェイブ音楽状況を紹介するイベントがあり、何人かの音楽評論家が座談会でポストニューウェイブを語っていました。すると、そのうちの一人がこのリップ・リグ&パニックのライブをロンドンで見た、と興奮気味に話していたのです!!

元ポップ・グループのメンバーのギャレス・セーガー、マーク・スプリンガー、アフリカ系のべーシストのショーン・オリバー、ジャズミュージシャンのドン・チェリーの娘のネネ・チェリーの4人を中心とするこのバンド。ぼろぼろのやぶれたジーパンをはいて、上着はエナメルでまっ黄色のレインコートとレインハットをかぶり、下向いて後ろ歩行でステージに出てきた、その姿がめっちゃかっこよかったって言っていたんです!!

わたしはこのリップ・リグ&パニックのライブは見ていませんが、この音楽評論家の肉声レポで、ライブの模様を頭に思い描いたんですね!!!
すっごい興奮しました。こんなかっこいい登場の仕方をするグループなんだ、と。そのとき思い描いた光景をそれから28年くらい経った今でも覚えています。いわば脳内で体験した実際見たわけでもないバンドの「想い出のライブ」というわけですね。あー、またリップリグのレコード聴きたくなりました。 19/9/12(波照間エロマンガ島)

俺ももちろんThe Pop Groupは聴いたけどそこまでハマらなかったなあ。でもそんなに若いとは驚き。
なんとなくベテランミュージシャンが集まって実験的に作ったユニットだと勝手に思っていたからなー。 19/9/12(石川浩司)

17/8/1の追記。プラスチックスに作詞家の島武実さんが加入したきっかけは、島さんが当時在籍していた宇崎竜堂さんの事務所ブギウギオフィスにスタイリストとして佐藤チカさんが出入りしていて、それで交流が生まれたのではないかというのがわたしの推理です。ダウンタウン・ブギウギ・バンドの1979年発売のシングル盤「涙のヴァイア・コンディオス」のジャケット写真にはデッドストックのパジャマやガウン衣装を着たメンバーが写っていましたが、あれはチカさんのスタイリングだった記憶があります。そんな思い出。島武実さんは2019年6月、病気で亡くなりました。享年72歳。合掌。 19/12/8(波照間エロマンガ島)

だんだん先輩ミュージシャンがあっちにいっちゃう。そういう年齢になってきたんだね。 19/12/8(石川浩司)


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