話題373 想い出のライブ(2)
19/12/8の追記。そのダウンタウン・ブギウギ・バンドがパジャマ、ガウンの衣装で登場したライブを思い出しました。1979年5月4日、日比谷野外音楽堂で開催された「ジャパン・ロック・フェスティバル」です! この頃はロックンロールの御大内田裕也は、5月の日比谷野音と大晦日の浅草と年2回、ロックフェスティバルを開いていたんですね。野音のロックフェスのほうへ友人たちと参戦したというわけでした。司会はゴールデン・カップスのデイブ平尾。このころは音楽活動は一時休止して性格俳優として映画やテレビに出ている頃でした。お昼くらいに開演し夜8時くらいまでのあいだ、日本のロックの新人から重鎮まで総登場し演奏を聴かせてくれました。中でも印象的だったのは、この日が東京デビューのシーナ &ザ・ロケッツ。最初、シーナさん抜きのメンバーで演奏しているところに、シーナがふらっと現れておもむろに歌いだす演出がかっこよかった!
ダウンタウン・ブギウギ・バンドは、大トリのクリエーションの一つ前、あたりがだいぶん暗くなってから登場しました。宇崎竜堂の作詞作曲歌唱するところのいぶし銀のジャパニーズロックをじゅうぶん堪能しましたわ。 19/12/14(波照間エロマンガ島)
確か解散後は当時の歌を歌わないんだよね。聴きたい曲あるなー。 19/12/14(石川浩司)
数年前に佐藤幸雄さんの音楽を直接聴きたくてライブに行きました。
レコードショップ「フジヤマ」の店頭で歌われるお姿は映像で見たことがあったのですが、目の前で音楽が湧き出る光景は本当に素晴らしいものでした。
ライブが終わり楽しかった感想と最後に「石川さんと交流があります」とご挨拶させていただき、佐藤さんからは「義弟〈おとうと〉ともどもよろしくお願いします〈笑〉」と丁寧なお返事を頂きました。
その後「ニヒル牛」でのライブを部分的に収めたCD「ライブ・アト・ニヒル牛〈通常盤〉」も発売され、兄弟揃ってそのご活動から目が離せない状況です。 20/2/24(テングザル)
あの義兄もトコトンやる人だからねー。ある意味似た者兄弟!? 20/2/24(石川浩司)
19/12/14の石川さん。
宇崎竜堂さんが「竜堂組」解散後に結成した「宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之」のライブを1990年代に観たことがあるのですが、宇崎さんはダウンタウン・ブギウギ・バンド時代の楽曲も演奏していた記憶があります。「身も心も」とか名曲を歌い上げていて良かったなー。
あと2018年鬼籍に入られてしまいましたが、井上堯之さんが歌う、萩原健一・近藤真彦に楽曲提供した「愚か者」。あれは渋くてかっこよかったー。そんな想い出。 20/3/24(波照間エロマンガ島)
あれ、そうだったか。解散後の曲を歌わないのはブルーハーツだったかな? 20/3/24(石川浩司)
20/3/24の石川さん。たしか、1980年頃、ダウンタウン・ブギウギ・バンドからダウンタウン・ファイティング・ブギウギ・バンドにバンド名を改名したときに、過去のレパートリーを封印するということを宣言したので、その記憶が石川さんに残っていたのではないかと思います。ダウンタウン・ブギウギ・バンドは内田裕也主催のロックフェスの常連だったのでかなりの回数観て好きなバンドでした。 20/4/18(波照間エロマンガ島)
あー、それだ。今はもう解禁かあ。 20/4/18(石川浩司)
1981年に渋谷クロコダイルで観たEX(エックス)のライブ。対バンはThe Spoil。
これは良かった!39年経った現在でも覚えています!
EX 20/6/2(エックス)は1979年カメリアレコードからデビューした2人組のロックバンド。メンバーは梅林茂〔ギター、ボーカル〕と羽山伸也〔ドラムス〕。このライブでは元サンハウスでシーナ&ザ・ロケッツの奈良敏博〔ベース〕、プラスもう一人キーボードのサポートメンバーがいました。ロンドンポップのテイストをもつ、8ビートのニューウェイブサウンドは最高にキュートでかつ、かっこよかった。ビートルズや60年代マージービートの響きもありました。
もともとカメリアレコードは、日本のロック界の2大巨匠である内田裕也と加藤和彦がタッグを組み作ったレコード会社で、内田裕也はBoroを、加藤和彦はEXをそれぞれプロデュースしデビューさせたことで話題になりました。
ところがEXはシングル盤1枚リリースしただけで、わたしの記憶によればアルバムは出さずに1984年に解散してしまいます。今残っている音源としては、YMO系の女性テクノポップシンガーのスーザンの2枚目のアルバム「恋せよ乙女」の中の2曲「Tokyo Sue」と「I Need Your Love」のトラックをEXが担当しているのがあります。この夜のライブではスーザンが特別ゲストで客席から登場し、この2曲を演奏しました。そのほか、スネークマンショーのカセットアルバムとか、森永乳業のPiknikというCMソングも担当していたような。
梅林茂はそのあと松田優作のバックバンドのバンドマスターを経て、映画音楽の作曲家に転進、多くの日本映画の音楽を担当しています。あー、さすがに39年前のライブだと細かい記憶が欠落してくるなー。会場では対バンのThe Spoilで客演していたサキソフォン奏者時代の立花ハジメさんやスーザンのプロデューサーだった高橋幸宏さんなどを見かけました。あと知り合いだったロック雑誌プレーヤーの編集者でThe Spoilのドラマーの永田裕さんとお話したことも思い出しました。 20/6/2(波照間エロマンガ島)
名前はなんとなく聞いたことあるけど音は知らないや。何かで聴けたらいいな。 20/6/2(石川浩司)
坂本龍一 + アルバ・ノト "インセン" @ ローマ、オーディトリアム 〔2005年10月22日〕。
イタリア旅行中に坂本龍一さんのライブを見に行きました。アルバ・ノトさんとのジョイントライブでした。とてもよかったです。会場はローマ市内の大学の大ホール。
インターネットで予約した席は左サイド11列目。ステージからそれほど遠くなくまぁまぁよい席。三々五々席は埋まり開演時間にはほぼ満員になりました。
2005年当時の坂本龍一はピアノ音楽の新たな音響的可能性を模索しているような活動をしていました。2004年春発表の"CHASM"を聴くとピアノはこんな響き方をするのか!と驚いたものでした。今回のコンサートは坂本の弾くピアノとドイツ人のアーチスト、アルバ・ノト〔エレクトロニック・ノイズ+映像〕とのコラボレーション・ライブ。2人名義で"INSEN"というアルバムを発表しているようですが、前もって聴いてはいませんでした。
開演時間を5分過ぎた頃会場は暗くなり、坂本とアルバ・ノト登場。会場からはさかんな拍手が起きます。
1曲目。坂本が椅子から立ち上がって中腰でピアノの最低音部のキーを右手でがーんがーんと叩いて、マイクでひろった音をその場で左手でエフェクトをかけ加工しながら曲が始まる。そこにうすーくアルバ・ノトのラップトップコンピュータから出る電子ノイズ音がからんでいく。打楽器としてのピアノの可能性を聞かせてくれるのですが観客の戸惑いは予想以上で、曲が終わっても拍手するタイミングがつかめないほどでした。ワンテンポ遅れてまばらに拍手が起きそれが全体に派生していくような様子で、これはアバンギャルドなミュージックコンクレートのコンサートになるのか、観客は置いてきぼりを食うのか、そんな観客の不安と戸惑いが1曲目の拍手から見てとれました。
2曲目、3曲目と同じようなパフォーマンスが続きます。坂本が簡単なフレーズの繰り返しを弾き、そこにアルバ・ノトのノイズ音がからむというスタイルは変わらず。ステージ後方に5枚ほど並んだスクリーンにはノイズ音と同期したさまざまなパターンの明滅するコンピュータビデオ映像が流れていきます。20世紀音楽史については詳しく知らないですが、1970年代のミニマル・ミュージックの趣きを感じました。単純な音階と映像の繰り返しは眠気を誘うこと十分で、近くの席からは3曲目くらいから早くもいびきが聞こえるほどでした。曲が終わるたびに、困惑とため息の混じった拍手が聞こえていました。
しかし、わたしはパフォーマンスとして非常に面白いと思いました。
想像したよりかは観客は置いてきぼりは食ってないし、確かに現代音楽の理論を踏襲した音楽世界がそこにはあるのかもしれないけれど、案外ポップでユーモアもあします。自分が似ていると思ったのは、1980年代前半にコンテンポラリー・アートとポピュラー・ミュージックの世界が接近した時期の代表的アーチスト、ローリー・アンダーソンを想起しました。どちらのジャンルにもカテゴライズ可能な雰囲気を感じたのでした。
観客も演奏を受け止めて、この独特なグルーヴを徐々に楽しみ始めている、そんな印象でした。あっという間にコンサートの時間は終わりました。
アンコールに演奏した「戦場のメリークリスマス」は、徹底的にアレンジがなされていて、はじめそのメロディーを解体して何のフレーズなのか観衆にはわからないが、じょじょにメロディーが立ち現れてきて、観衆もだんだんその曲が何なのかわかってきて、わたしと同じく興奮しているのが手にとるようにわかりました。最後にすべてのメロディーが演奏されて曲が終わると満場に大歓声が起こりました。この曲がその夜のベストパフォーマンスだと信じて疑いません。これはおそらく20世紀の音楽理論で、メロディーの解体と再構成を数学的に自動的に行なう手法が使われているのだと確信しました。
やはりライブはいいものだ、と遠い異国の地でしみじみ思ったのでした。 20/6/30(波照間エロマンガ島)
革新的なことは常に一発で受け入れられないと思う。逆に誰にも一発で受け入れられるようなものは本当に革新的なことではないと思う。 20/6/30(石川浩司)
1983年7月10日頃、日比谷公会堂で行なわれた何かの募金募集のためのクラシックコンサート。大学2年の夏休み第2週に同級生何人かと行った。どんな曲を演奏したのか詳細は思い出せない。「ボレロ」があったようななかったような。しかし1曲ごとにオーケストラが変わるという珍しいライブだった。はじめ1982年か1983年のどちらかうろ覚えだったのだが、細かく記憶をたどっていくと曲の指揮をした人物が曲を演奏する前にハンドマイクでちょこっとアナウンスしていて、あるひとりの指揮者〔八木正生だったかな〕が「友だちの友だちはみな友だちだ。世界に広げよう友だちの輪!」と叫び、観客も手で「輪」を作ったときがあったの。これは「笑っていいとも」〔1982年10月~2014年3月〕の最初期の「テレフォンショッキング」でタモリがおこなっていたパフォーマンスギャグだったので、時代が1983年7月ということが確定したしだい。1982年7月だと「笑っていいとも」はまだ放送してないから。
ちなみにわたしは日比谷公会堂でコンサートを観たのはこのときが最初で最後であり、「あー、あのへんで浅沼稲次郎が刺殺されたのか」と、ステージ中央の一点を見ながら音楽を聴いていたことを思い出す。1960年10月12日に社会党委員長の浅沼稲次郎が演説中、とつぜん登壇して突進してきた右翼少年に刺し殺された事件。
NHKに残っているニュース映像は鮮烈な印象だった。
あ、それから20年以上経った2000年代か、日比谷公園を歩いていると日比谷公会堂の裏口から瀬川瑛子さんが出てきたことがあった。花束を抱えていたのでライブ終了後かもしれない。瀬川さんはダイエットしたあとで痩せてて美しかった。 20/9/12(波照間エロマンガ島)
瀬川瑛子さんは某テレビ番組で一緒だったけど、イメージ通りのいい人オーラが出てたなあ。目と目で挨拶を何度も繰り返してお互い照れてしまった思い出。 20/9/12(石川浩司)
〔日記用備忘メモより〕
2002年11月11日、ポール・マッカートニーのライブを観に東京ドームに行きました。
実はその前日、友人からチケットが余ったので行かないかと誘われ、急遽行くことが決まったのです。なんてラッキーなんだろうと思いました。ポールはもうライブでは一生観られないだろうと諦めていただけに、突然の電話に激しく興奮しました!
1966年のビートルズ公演は物心つかなくて間に合わず、1976年と1980年は不幸な公演中止の憂き目を見ている「遅れてきた世代」のわたしにとって、この機会は最後のチャンスだと確信しました。そしてこのチャンスの神様の前髪を思いっきりつかんで放さず「今がそのとき」と行くことを決心したのです。ずいぶんおおげさな物言いですがそう確信しました。
ポールは2時間半近くノンストップで演奏し続けました。60歳とは到底思えぬ身体の動き、オリジナルと変わらない声量、すべて良かったです。そして最高のポイントは、スピリットがロックンロールバンドだったこと。セミリタイアした息が上がったような懐メロオールディーズバンドではなかったんです。まったくの現役バリバリ。“MY LOVE”や “HERE, THERE & EVERYWHERE"のようなバラードナンバーでさえも“I SAW HER STANDING THERE”と同じロックンロールバンドのグルーヴを持って演奏されていたの。このピュアでソリッドなテイスト。ここからロックの歴史が切り開かれていったんだな。世界中のロックアーチストに限りない影響を与えた、その源(みなもと)にいる張本人が目の前数百メートルのところにいるという感覚は、奇跡のようにも思えました。
印象的なナンバーをレビューすると―――
GETTING BETTER: “SGT.PEPPER'S”収録曲。今回のワールドツアーで1967年のアルバム発表以来、初めてLIVE演奏されました。印象的なサイドギターのカッティングはポール自らが弾いていた。オリジナルではインドのタンブールという楽器が使われていたが、今回はサンプリングキーボードを使って再現していたと思しい。GETTING BETTERというのは造語で、1964年のオランダ、デンマークツアーに病気で入院したリンゴに代わってドラムを叩いたジミー・ニコルの口癖だったと記憶しています。
SHE'S LEAVING HOME: 同じく“SGT.PEPPER'S”から。この曲を聴いていると知らぬ間に涙が出てきた。美しく儚くて。家出した少女の新聞記事にインスパイアされてポールが作曲したナンバー。
FOOL ON THE HILL: いろいろなことを想起しながら聴きました。ステージのスクリーンに“MAGICAL MYSTERY TOUR”のこの曲のシーンの映像が映しだされたとき鳥肌が立った。1967年〔25歳〕のポールと2002年〔60歳〕のポールの競演。確かポールが少人数のスタッフとともに16ミリのカメラを持ってふらっとフランスへ行って撮ってきた画だったか。またビデオアーティストのナムジュン・パイクは、フルクサスのアーチスト仲間である小野洋子の紹介でこの曲のレコーディングセッションを見学したときに、ポールのあまりの完璧主義者ぶりに他の3人が辟易していたというエピソードを書いていたことも思い出しました。しかしいずれにしても、この曲は時代を超えた名曲となっています。
そのほか、たくさんの名曲をうっとりしながら聴きました。
モレや記憶違いもあるかもしれませんが、下記の曲を演奏しました(曲順は不確か)。知らないのは新しく創られた2曲くらいで、あとはすべて10歳でビートルズを聴き始めたころから自分の血肉となっている曲ばかりで、超弩級の大興奮状態です!ああ、生きててよかった。
ポールもやっとビートルズの呪縛から解放され、偉大なマスターピースを演奏する気になったのかもしれないな、と思いました。
HELLO GOODBYE
JET
ALL MY LOVING
GETTING BETTER
COMING UP
LET ME ROLL IT
DRIVING RAIN
BLACKBIRD
YOU NEVER GIVE ME YOUR MONEY
CARRY THAT WEIGHT
FOOL ON THE HILL
SOMETHING
SHE'S LEAVING HOME
LET 'EM IN
HERE THERE AND EVERYWHERE
WE CAN WORK IT OUT
ELEANOR RIGBY
MICHELLE
MY LOVE
BACK IN THE U.S.S.R.
LIVE AND LET DIE
BAND ON THE RUN
MAYBE I'M AMAZED
CAN'T BUY ME LOVE
LET IT BE
HEY JUDE
I SAW HER STANDING THERE
THE LONG AND WINDING ROAD
LADY MADONNA
YESTERDAY
SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND
THE END
それから18年。78歳になったポール・マッカートニーは依然精力的にライブ活動を続けています。ありがたやありがたや。 20/9/22(波照間エロマンガ島)
それにしてもこの名曲群をほぼひとりで作曲したとは驚き。
唯一の本人作じゃないジョージ・ハリスンの「SOMETHING」やったのは、おそらく前年の2001年11月29日にジョージが亡くなっているからだね、きっと。享年58歳、今の俺より若い...。
そしてまさか今も現役でやってるとは当時予想もしなかったよね〜。しゅごしゅぎるぅぅぅ。 20/9/22 (石川浩司)
1982~3年ころ、新宿ルイードで観た岩崎良美のライブ。
岩崎宏美の実妹として知られる歌手・女優。1980年「赤と黒」でデビュー以来、ニューミュージック系のシンガーソングライターの楽曲を多く歌い、アイドル歌謡曲のカテゴリーの中で一歩先進した都会的女性の作品世界を表現していて、わたくし大ファンでした。
最大の大ヒットは1985年発表の「タッチ」で、この曲はあだち充原作の同名マンガをアニメーション化した作品の主題歌です。が、わたしはこの曲を岩崎良美が歌ったのは、かえって彼女の歌手生命をアニソン系に限定してしまう結果になり、1980年代前半に展開していた都会的な作品世界から離れてしまったことが残念でなりません。歴史に「IF」はありませんが、岩崎良美が「タッチ」をもし歌わなかったらどうなったろう、ということをよく妄想してしまう自分がいます。
「タッチ」が20枚目のシングル盤なのでそれまでの19枚のシングルにはわたしはどの曲も想い出がありました。ドーナッツレコード盤でかなり所有しています。
尾崎亜美が作詞作曲した「ごめんねDarling」、安井かずみと加藤和彦の夫婦コンビの作品「どきどき旅行」、大村雅朗の編曲が光る「恋ほど素敵なショーはない」などなど、時代の息吹を感じさせる上質なポップスをアイドル歌謡の中で聴かせてくれたのは、本当に貴重な体験でした。
それらの楽曲を聴かせてくれた新宿ルイードのライブ。観客100人前後のライブハウス空間で観た良美ちゃん〔ここからちゃん付けで呼びますw〕は可憐で美しくて、実際の生声も聴こえる最高の歌声でした。新宿ルイードは数年後原宿に移転し、何度かライブを観ました。のちに大物アーチストの登竜門的存在になったと聞きましたが、わたしは新宿ルイードの空間のほうが好きだったな。アーチストまでの距離が近く感じて。なにせ良美ちゃんの奥歯の金歯まで見えましたもの。〔笑い〕
そんなわたしの1学年年上の1961年6月15日生まれの歌手、岩崎良美ちゃんのライブを観に行った話でした。石川さんと生年月日が近いですね。 20/11/19(波照間エロマンガ島)
俺より半月くらいお姉さんなのか~。なんか勝手に年下だと思ってたのは「妹」っていうキーワードがあったからかな。
お姉さんの岩崎宏美は俺が高校生の時に地元高崎のレコード屋さんにプロモーションに来ていたのを見たことあるけど、すごく背がちっちゃくて「テレビとイメージ違うなぁ」と思ったな~。 20/11/19(石川浩司)
2009年の2月にギターやピアノで歌の創作を始め、同年10月には私の上司のご計らいで、初めてイベントに出演させていただきました。
最初のライブで歌ったレパートリーは「納涼大会〈滝本晃司〉」「雨の日のサーカス〈大谷氏〉」、そして私のオリジナル曲、計3曲を歌唱しました。
父親が動画を撮ってくれましたが、今見たら何を感じるのか、怖いところです〈笑〉。
単純に、自分の作った好きな歌を演奏できる、それを弾いて人に聞いてもらえることは歓びである、ということを最近は感じています。
今現在このイベントからは私は離れてしまいましたが、離れている分そういうことを顕著に感じられるようになって、創作や表現の意欲になればいいなと思います。 20/11/26(Sankaku)
オリジナル曲をどんどん作ってほしいな。それでファンが増えたらいいね。 20/11/26(石川浩司)
20/11/19〈石川浩司〉さんへのレス
岩崎宏美さんといえば「聖母たちのララバイ〈マドンナたちのララバイ〉」が有名ですけど、あんなにヒットしたのに当時〈1982年〉の"第24回日本レコード大賞"には選ばれなかったんですね。
何があったのか調べてみたら、「大ヒットしたせいでイギリスまで名声が届き本当の作曲者〈イギリス人〉に盗作がバレた」「日本レコード大賞の基準では外国人が作曲したものは対象外」という理由が判明しました〈苦笑〉。 20/11/26(テングザル)
そうだったのね~。日本での作曲者は誰名義だったのか気になるなぁ。 20/11/26(石川浩司)
1980年4月1日、渋谷屋根裏で行われたシーナ&ロケッツの3days gigの1日目。
渋谷屋根裏で初めて席を取っ払いのオールスタンディングライブでした。17歳のわたしは友人たちと繰り出し、大いにはっちゃけました。
当時のステージ構成は最初にシーナ以外の3人が舞台に登場、1曲目は「バットマンのテーマ」をインストゥルメンタルで演奏、曲が終わると2曲めの「スージーQ」で袖からシーナ登場、というのが定番の展開でした。「バットマン」は2枚目アルバムの収録ナンバーですが、プロデューサーの細野晴臣さんのプロダクションでテクノ・ポップアレンジ〔というか、ほぼYmo〕ではなく、8ビートのゴリゴリのロックンロールにアレンジしています。わたしはベースの浅田孟さんがどんなピッキングをしているかと目の前30センチのところで観察してましたが、見事なオールダウンピッキングでした! 痺れたー!この日はエキサイトしすぎて浅田さんはベースの弦を切ってしまうハプニングもありました。ライブでベースの弦が切れる瞬間を見ることはなかなかないと思います。最高のライブでした。
こはさて、このときは高校2年から3年にかけての春休みに観たシナロケですが、当時は渋谷屋根裏、新宿ロフトなど、ライブがあるたびにかよったものでありました。前回投稿した岩崎良美を観た新宿ルイードでもシナロケ観た記憶が。そのときはシーナなしで「The Rokkets」として出演したときだったかな。
そんな想い出のSheena & The Rokketsライブでした。 20/11/26(波照間エロマンガ島)
今は鮎川さんと友部正人さんがユニット組んでるものねー。まさかの組み合わせ。同年代なんだろうね。 20/11/26(石川浩司)
20/11/26の追記。
シーナ&ロケッツのライブ2曲めで演奏していた「スージーQ」は1960年代にクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイバルのヒットで有名なロックンロールナンバーですが、わたしはフランシス・フォード・コッポラ監督「地獄の黙示録」〔1979〕にて、ベトナムの戦場にヘリコプターにて慰問に訪れたプレイメイトたちがこの曲にあわせてセクシーダンスをするシーンが強烈な印象として記憶に残っています。
ttps://www.youtube.com/watch?v=Decko2h-S20&t=186s 20/11/30(波照間エロマンガ島)
あそこは印象的なシーンだったね。森の中に突如現れるアメリカンショー。 20/11/30(石川浩司)
いつか別のトピックに書いたかもしれないですが、1982年クリスマスに開催されたカセットマガジンTRA主催の「Alternative Fashion World @新宿ACB」にて、オープニングパフォーマンスを見せてくれたZAZOU。TRAのオーガナイザーのひとりミック板谷さん率いるニューウェイブバンド。のちに自主制作盤を探して買い求めましたが、1982年当時の日本で、もっとも尖鋭的なサウンドディレクションを誇っていました。イギリスのインドストリアル系ニュー・ウェイブとのちに位置づけられるパブリック・イメージ・リミテッド〔PIL〕やスロッビング・グリッスル、デヴッド・カニングハムなどと同時代的音楽性をもっているような音像でした。
そのライブでドラムス&ボーカルのミックさんのステージでの服装が今もなお脳裏にくっきりと残っています。ミックさんはスーツのジャケットを裏返しに着ていました。これが最高にクールでかっこよかった。まだ世の中に洋服を着崩す、とかいう言葉がない時代に未来を予見したような洋服の着方をしていたのです。TRAの一方の仕掛け人の伊島薫氏、式田純氏とともに、1980年以降の日本の最尖鋭のアート&ファッションシーンは彼らが牽引したといっても過言ではないと確信します。以上、あまり人が覚えていないライブの想い出についてメモとしてここに残します。 21/1/15(波照間エロマンガ島)
「まだ誰もやってないこと」ってやる勇気もそうだけど、あらゆることがやりつくされている現在、それを探すことがより重要なのかもね。 21/1/15(石川浩司)
渋谷屋根裏で観たプラスチックス。〔1980年1月24日、17歳〕
〔日記よりばっすい〕
渋谷屋根裏でプラスチックス。整理番号63番だったが、運よく最前列に座ることができた。そのおかげでチカのマイクスタンドの位置を直すのを手伝ったり、中西と少しコミュニケートできたりしてうれしかった。しかし、今日は練習不足かミスが目立った。あげくにハジメちゃんが島武実のシールドコードにつまづいて転んで、シーケンサーのロードを消してしまうというハプニングがあって、演奏が途中でストップしてしまった。そのときギターのチューニングも狂ってしまったのだけれど、ハジメの言ったセリフが笑えた。
「えー、うちはプロがチューニングしてくれることになっていまして」 〔会場爆笑〕
つまり、楽器のチューニングは佐久間正英がやるというわけなのね。きゃー、すごい。四人囃子がギターのチューニングやるんだよ!でも、そんなアマチュアバンドでも大好きだから許せちゃうわ!プラスチックスはライブバンドだ。レコードで聴くとあのダンサンブルなピコピコテクノビートは絶対、伝わらない。見るのに限るのでアル。〔ここまで〕
これは渋谷屋根裏で見た2回目か3回目かのライブだったかな。アンコールに巻上公一さんが出てきて、巻上さんがプラスチックスのために作った「何故かバーニング」を歌った記憶があります。
想い出としては、プラスチックスはローランドTR-808 導入前、TR-68というリズムマシーンを使っていた頃のほうがだんぜん良かったな。「ロック1」とか「ボサノバ」とか「ワルツ」とかリズムパターンが内臓マイコンに記録されていて、それで島さんがボタンを押しつつメンバーはそれに合わせて曲を演奏するの、超かっこよかったー。モンキーズの「恋の終列車」から「アイム・ア・ビリーバー」へのメドレーなんか、身体が震えるほど感動しましたよ。
また、この頃観たライブについては思い出して書きたいと思っております。今からもう41年前か! 21/2/8(波照間エロマンガ島)
ニューウェイブと言われていたのが40年以上前か。最近の新しいムーブメントは一体何と呼ばれるのだろう。
「ニュー」とか「新」とか付けちゃうと、その後の人が困るよね。「新型コロナウイルス」の更に新型は何と呼ばれるのだろう? 21/2/8(石川浩司)
デヴィッド・ボウイ「シリアス・ムーンライト・ツアー」ライブ@日本武道館〔1983年10月〕。
デヴィッド・ボウイがアルバム「レッツ・ダンス」発売を記念して行なったワールドツアー。15カ国で96公演を行なったとある。大学の同級生と一緒に観に行った。4日連続で行なったうちの1公演。
何しろ40年近く前のライブなので大部分忘却してしまっている。覚えているのは
〔1〕日本武道館は音響が悪かったこと。
〔2〕「レッツ・ダンス」に連なるメドレーがめちゃくちゃかっこよかったこと。
〔3〕1976年発売の「ステイション・トゥ・ステーション」から「TVC15」「ゴールデン・イヤーズ」を演奏してくれて気分が盛り上がった!
〔4〕あと、その2年後にテレビで見た「ライブエイド」での演奏とかなり記憶がダブってしまっていた。
〔5〕お金がなくて武道館から国電市ヶ谷駅まで歩いて帰った。
日本武道館ではクラプトンもツェッペリンも坂本龍一も観ているのですが、音楽会場ではないのでどうしても不満は残りましたねー。まずそれがいちばん最初に思い出すってよほど酷かったという印象なのでしょうね。
1983年のデヴィッド・ボウイというとやはり大島渚監督作品の「戦場のメリークリスマス」公開。初日オールナイトで友人たちと観に行きました。第一印象は本当のことを言うと失敗作なのではないかと思ったが、無理やりたけしの「めりーくりすます、みすたーろーれんす」の演技に免じて許した想い出がある。20歳当時のわたしはビートたけし、坂本龍一、デヴィッド・ボウイ、大島渚、すべて神のように好きだったから異常に期待して初日に鑑賞したのだ。去年久々に見直したけれど、どうってことない映画だったことをここに告白して、この項終わります。 21/2/23(波照間エロマンガ島)
武道館、音悪いんだよね。たまも人気のあった頃はたぶん武道館でも埋まったと思うけど、音響が悪いので避けた。
イベントなどで何度か出たことはあるけどね。 21/2/23(石川浩司)
2018年の元日。そして2019年、2020年の1月2日に新所沢パルコで行われた、ロックミュージシャン・王様のミニライブ。
’19年、’20年は、オープニングアクトと共演で、歌や踊りの自作自演のアイドル・「CUTIEPAI まゆちゃん」も出演されました。
王様はロックバンド、ディープ・パープル、レッド・ツェッペリンなど外国のミュージシャンの楽曲を、日本語に直訳して歌うことで有名です。
またギタープレイも非常に優れており、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモアなどの、希代のギタリストのスーパープレイをコピーして演奏できる、しかもそれをステージ間近で観られるのはポイントが高いところです。
CUTIE PAI まゆちゃんは踊りも歌の作詞作曲も自分でするシンガーソングライター。
めがねの親善大使とのことでめがねに関する歌もありました。
ラストの曲では2人一緒に歌唱。
王様のスーパーギタープレーを観れたのは本当にサプライズでした。
2021年はコロナウィルスの影響で中止になったのが残念です。 21/3/1(Sankaku)
その新所沢パルコもあと3年で消滅かあ...。
王様とは一度何かのフェスで一緒だったけど、ご挨拶できなかったなあ。 21/3/1(石川浩司)
1981年12月21~23日、目黒鹿鳴館で見たイベント名「スキャンニング・プール」。渋谷公園通りにあったビデオアート上映スペースのビデオギャラリースキャン主催の音楽と映像のコラボレーションイベントだった記憶がある〔わたくしそのとき18歳の受験浪人中〕。そこで同じ日に見たのか違う日に見たのか忘れたが、フリクションと突然段ボールを見た。
フリクションはPASSレコードからリリースした1枚目のオリジナルメンバーのツネマツマサトシとチコ・ヒゲはすでに脱退してそこには居ず、ベースのレック、ギターの茂木恵美子〔EX-Boys Boys〕、それにパーカッションのシュルツ・ハルナ〔1枚目のジャケットデザインを担当〕の3人ユニットになっており、このメンバーで製作した2枚目のアルバム「Skin Deep」からの収録曲を多く演奏した。チコ・ヒゲのドラムス、常松のギター、レックのベースは史上最高の3ピースバンドだと確信し大好きだっただけにその音像の薄さにははっきりいってがっかりさせられた。
突然段ボールはオリジナルメンバーのベースの渡部紀義が脱退し、2代目のベースの高校生の男の子が参加していた。何故だか知らないが彼は高校生だと知っていた。安定の突段サウンドだった。
1980年、1981年、1982年、1983年の4年間くらいは時代がめちゃくちゃ動いてほんの数ヶ月で音楽シーンがまったく変わってしまうほど流行がめくるめく変化していて楽しい時代だった。18から20歳前後の多感な時期にいろいろなバンドを見られて本当に幸せだった。 2021/3/19(波照間エロマンガ島)
渡部さんももう亡くなっちゃったんだよね...。 2021/3/19(石川浩司)
2021/3/19の追記。渡部さん亡くなったのですか。合掌。
そういえば1981年に新宿ロフトでフリクションのライブを見たとき、そのときはもうツネマツマサトシは脱退していてギターがこのスキャニングプールに出ていた茂木恵美子さんだったのですが、茂木さんは真紅のピンクハウスのワンピース着ていて、めちゃくちゃ違和感を持ったことを思い出しました。
パンクバンドがピンクハウスかよ、と〔笑い〕。そういえば別の機会では、Non Bandのノンさんがキーボードを担当したギグも見たことがある。いつだったかは忘れてしまいましたが。会場は法政大学の学館ホールかな。あそこは治外法権な感じが半端ない会場でした。 2021/3/26(波照間エロマンガ島)
Non Bandも実によく観に行ったなあ。後年、まさかパスカルズの龍太郎さんの最初の奥様だと知った時は驚いたけどね。数年前、ホルモン鉄道ともイベントで共演したなあ。 2021/3/26(石川浩司)
ダディ竹千代と東京おとぼけCats。高2から高3にかけて〔1979-80年〕都内ライブハウスの公演を追いかけていました。ドラムスがそうる透だったり、ホーンセクションがクリエイションと掛け持ちだったりと、メンバーはテクニシャン揃いでした。超テクで重厚なサウンドでありながらコミックバンド的なおバカなネタをやるのですから、ロック好きなお客さんにとってはたまらない魅力でした。有名バンドの形態模写をやるバンドなんてほかになかったよなぁ。これはテクニックが無いと成立しない世界ですから。
こんなネタを覚えています。次から次へと外国人ミュージシャンゲストがステージに登場するんです。MCでボーカルのダディ竹千代が紹介していきます。
ダディ竹千代「次のゲストは、おっとー、はるばるロンドンから来日した、元ビートルズのジョージ・ハリスンだー!!」
〔するとギターのダニエル茜登場〕「どうも、元ビートルズのジョージ・ハリスンです」
と言うや、「ジャーーン」〔A Hard Days Nightのオープニングのコードを弾く〕「でした」。場内大爆笑。
ダディ「次のゲストは、これもロンドンからのビッグアーチスト、クイーンのブライアン・メイだー!」
ダニエル茜「こんばんは、クイーンのブライアン・メイです」
と言うや、ギターのチョーキングしながら「くぃーーん」と一言。これが超くだらない。
あと、ベースでバンドマスターのなかよし三郎は、大根だとかこんにゃくだとかいろいろな野菜を使ったチョッパー奏法のショータイムが必ず準備されており、これも売り物のひとつになっていました。
ダディ竹千代といえば、いまや一般の人には木曜オールナイトニッポンでビートたけしの前任パーソナリティーということでしか記憶に残っていないロックアーチストですが、トークも立ち、演奏も超絶うまかった、おとぼけCatsは大好きなバンドでしたねぇ。 2021/3/26(波照間エロマンガ島)
俺も観に行った時、大根で弾いてたなあ。共演が生活向上委員会だった。その時はまだ梅津さんに髪の毛があったなあ。まだライブハウスのオーディションさえ受ける前で、後年、一緒に頻繁にセッションすることになるなんて夢にも思わなかった。 2021/3/26(石川浩司)
2021/3/26の石川さん。
なんと、Nonさんと龍太郎さんが結婚していたとですか!このホームページはいろいろな伝説的ミュージシャンの情報を知ることができるサイトですなぁ。Non Bandを最初に見たのは1980年秋だったか。大岡山の東京工業大学で、でした。地元だったので見に行ったのです。S-Kenや午前4時〔ノイズバンド〕、吉野大作さんなんかが出てたかな。 2021/3/31(波照間エロマンガ島)
ふたりの間にできた娘さんも、パスカルズのヨーロッパツアーにも同行したりしてたなー。
現在彼女も音楽活動をしている。もっとも拠点はインドネシアだけど。国際的なミュージシャン家族。 2021/3/31(石川浩司)
京都出身のビート・パンク・ロック・バンドのコンチネンタル・キッズ。1981年結成でふとした偶然で東京エリアのGIGで邂逅し、好きになり1980年代中盤はよく見に行きました。メンバー全員ど迫力のルックスと重厚なビートの演奏でハマッたなー。ベースのラン子さんは当時スペルマというすごい名前のバンドでも活動してましたが、そちらも何度か観た記憶あり。1回楽屋で言葉を交わして天にも昇る射精なきエクスタシーを味わいました。1997年に44歳の若さで他界されたのはまことに残念です。
このバンドはオリジナル曲よりも、なんかGSや1960年代の歌謡曲のカバーをやってる印象もあり、観てくれは非常にハードコアなのですが、やってる曲のゆるやかさとのギャップが非常に魅力的に感じたのも惹かれた理由かもしれません。音源があればまた聴いてみたいバンドです。 2021/5/25(波照間エロマンガ島)
名前は聞いたことあるけど、音は聴いたことないなあ。 2021/5/25(石川浩司)
1988年頃だったか。当時芝浦の大集客ディスコで企画をやっていた知人女性がベースで参加しているレディース・バンドがライブするというので招待され、会場の六本木のレストランバーに行ってみた。今そのバンド名を必死になって思い出し、検索しているがどうしてもヒットしない。たぶん一、二度きりのライブですぐに解散したのだろう。しかしそのサウンドはビビッドでつきぬけるような透明感があり、わたしの琴線にささりまくり、30年以上経った現在も鮮明に記憶に残っている。ドラムはニューヨークでアート・リンゼイと「DNA」というバンドを組んでいたイクエ・モリさんだった気がする。ボーカルはハネムーンズや水玉消防団など1980年代ノイズインプロビゼーションパフォーマンスでシーンの先端にて活動していた天鼓さんだったか。
客席にはサングラスをはずしたフリクションのReckさんがいた。ほかにも何人か知っているアンダーグラウンド系ミュージシャンがいたので、ごくごく内輪のお披露目パーティーライブかもしれない。
あれはなんだっかのか、心の片隅にいつまでも残っているバンド名も知らない「想い出のライブ」でした。 2021/6/18(波照間エロマンガ島)
俺もそういうのある。なんとなくしか覚えてないバンドで、すごく良かった印象で、でもネットで検索してもまったく出てこない...。1980年前後はまだまだネットは一般的にはなかったしね。 2021/6/18(石川浩司)
初めて石川さんを見たのは、ケンジ浩司<という名前はまだありませんでした>のライブでした。
しかし、すみっこの席、暗がりということでウトウトしてたら
大槻ケンヂさんに「おいおい、寝るんじゃないよ!」と叱られてしまいました。
ごめんなさい 2021/7/4(ズミ天)
ははは、ネタにされて良かったね! 2021/7/4(石川浩司)
2008年8月、チェンマイのメージョー大学講堂で行なわれたタイのロックバンド「カラバオ」のライブ。
同年4月タイに移住してから、初めて観に行ったロックのコンサートでした。
カラバオはエート・カラバオをリーダーとするメッセージ性の強い社会派のロックバンドで、タイの伝統音楽や大衆民謡と西洋的ロック&フォークミュージックを掛け合わせたオリジナル音楽を創造し、タイ最高峰の国民的バンドとして広く認知されています。わたしもタイにはまりはじめた2000年代前半からタイにくるたびにカラバオのCDを多く購入し、愛聴してきた口です。その大好きなカラバオのコンサートが開かれるというので、何はともあれ駆けつけたしだい。
感想はというとただただGreat!カラバオのパフォーマンスとそれに応じる観衆の声援の融合が素晴らしかったー。あと感じたのはタイでは歌の力というものがまだまだ存在するということを実感しました。カラバオのオリジナルではない、タイの地方で歌い継がれてきた労働歌みたいなものを観衆全員で歌うシーンがあったのですが感動しました。何百年もこの国に土着で根付いたメロディーのようなものを感じました。ただ、エートのつくる曲には実直なメッセージが時に社会批判や文明批評、タイの大衆を扇動するかのようなモチーフもあり、それはタイに住む外国人の自分としては注意すべきデリケートな部分も内包することを感じたのも事実だったのですが。しかしながら、また機会があれば観てみたいと思いました。そんなタイを代表するロックバンド、カラバオのライブの想い出でした。 2021/7/29(波照間エロマンガ島)
シベリヤの奥地にライブしに行ったことがある。石橋幸さんという人のバックで、ロケット・マツさんや頭脳警察のトシさんらと一緒に。そこで囚人歌をうたうのだけど、観客の中から自然に歌われた時は感動したなあ。強制的なものやコール&レスポンスではなくて、自然発生的な歌っていいよねー。 2021/7/29(石川浩司)
1990年代初頭だったか、大学時代の友人の結婚式に参列したら、余興でサルサバンドの演奏が始まった。そのメンバーの中に知己のあったイラストレーターの河村要助さんがトロンボーンを吹いていてびっくり!サルサとかメレンゲとかいう中南米の独特なリズムに乗せ、ごきげんなグルーヴを聴かせてくれて大満足だった。今、調べるとそのバンドの名前は「アラスカ・バンド」というらしい。音源も出ているらしいから手に入れたいな。そうそう、S-KENの「恋のバガボンド」という曲をサルサ風にアレンジして演奏していましたよ。そんな貴重な「想い出のライブ」でした。 2021/8/22(波照間エロマンガ島)
S-KENでベース弾いてた、唯一デビューの時に入ってた事務所の社長が、先日セブ等で突然死しちゃったなぁ。
正直、そこそこの悪人だったけど、なんか好きだったなあ。 2021/8/22(石川浩司)
1982年に大学に入学し学生時代を過ごした4年間ほどは自分の19歳から23歳くらいまでにあたり、人生でもっとも感受性が強かった時代で、美術や音楽から多くの刺激を受けました。このトピックでは自分がどんなライブを観たのかよく思い出しているのですが、記憶の底辺に沈殿しなかなか意識上に浮上しないバンドが多いのも事実です。そんな中、思い出したバンドが二つ。
1.Spearmen〔スピアメン〕
2.割礼
どちらも友人が組んでいたオルタナ系パンクバンドの対バンで観て刺激を受け、それらの単独ライブにも足を運んだバンドです。記憶から長らく消えていたのですが最近思い出し、動画サイトでよく再生しています。活動歴が異常に長くどちらも最近になるまでライブ活動を続けているとの由、素晴らしい限りです。もう30年以上にもなるんですね。割礼は当時は「割礼ペニスケース日曜日の青年たち」という名前だったか。最初に観たのは新宿JAMだった記憶あり。
特にSpearmenはギター、ベース、ドラムスの最小単位の3ピースでビートを繰り出し、そのアンサンブルはわたし好みで非常に影響を受けました。当時わたしは輸入レコード屋で海外ニューウェイブ系バンドのレコードを多く買い求めていたのですが、自分の好きなテイストがSpearmenにはたぶんにあって、ライブにいくとその音像に触れるだけでかなり覚醒したことを覚えています。
そんな想い出のライブ、Spearmenと割礼について、でした。 2021/9/24(波照間エロマンガ島)
割礼とはアマチュア時代よく対バンしたなあ。たまの「いなくていいひと」という曲では、宍戸くんにギターを弾いてもらって、当時のライブにはゲストで出てもらったりもしたしね。
そして「ゆれつづける」という割礼のアルバムは、義兄の佐藤幸雄さんのプロデュース作品で、よく聴いたなあ。 2021/9/24(石川浩司)
2021/9/24の石川さん。「いなくていい人」のギター、割礼の宍戸さんのプレイ最高です。と同時に宍戸さんのエレキギターが加わってもまったく変らない威風堂々としたたまの音。これを聴くとやっぱりたまは日本最高のロックバンドだと再認識してしまいます。 2021/10/30(波照間エロマンガ島)
へへ、ありがと。 2021/10/30(石川浩司)
1980年5月24日に東京・大井町のシブヤ楽器2階LMスタジオで観た一風堂。
メンバーはギターとボーカルの土屋昌巳、ベースの赤尾敬文、キーボードの見岳章、ドラムスの藤井章司の4人。
当時高校3年生であったわたしは、高校の同級生が藤井章司からドラムスのレッスンを受けていた関係で、情報を得て頻繁に彼らのライブは観に行っていた。この日も縁のある大井町の楽器屋さんでのライブであった。
〔以下、同日の日記よりばっすい〕
1980年5月24日 2022/2/6(土)
大井町シブヤ楽器で一風堂コンサート。コンセプト、演奏力など、どれをとっても日本でトップクラスなんだけど、唯一ダメなのが観客と一体化するグル-ヴ感に欠けたこと。土屋昌巳の限界なのかも。「スタンド・バイ・ミー」のチャイニーズ・レゲエ・ヴァージョンにしても客はついてこないし、だいいちむかついたのが、この曲を2回も演奏して、客に強要すんじゃねえ!てめえらが客をのせられないだけじゃねえか!未熟なんだよ!観客もドラムの藤井章司のドラム教室の生徒の内輪客ばかりで居心地悪かった。〔Sも当時、藤井からドラムを習っていた弟子の一人であった。〕ただひとつ、見岳章の弾いていたローランドの安っぽい電子オルガンの音は良かった。エルビス・コステロ&アトラクションズをそうとう意識しているとみた。〔ばっすい、ここまで〕
高3のわたしはかなり厳しい評価を下しているのだが〔苦笑〕、でもよかったすよ。山本翔って知ってるかな?ミック・ジャガーにルックスが似たロックシンガーがいて、一風堂はそのバックバンドをしていたんですよ。1979年頃は内田裕也主催のロックフェスにもよく出ていたのでそのころから演奏に接していました。
また、一風堂のグループ名の由来は、渋谷の桜ヶ丘町にあるディスカウントショップから命名したということは当時からライブのMCで土屋昌巳は言ってましたね。博多発祥のラーメン屋の一風堂は1985年創業で、このバンドの一風堂からインスパイアされたということがネットで検索すると出てくるので、もちろんバンドのほうが先だったわけです。
そんな想い出のライブ、1980年5月に観た一風堂の巻き、でした。 2022/2/6(波照間エロマンガ島)
日記つけてるとこういう時に役に立つね。俺は断続的にしかつけてなかったからなあ。
土屋昌巳って現在も活動してるのかな? 2022/2/6(石川浩司)
もし私が「たま」にいたら、絶頂期に、地方の小さな小さな短大や専門学校の学祭でライブしてみたいなあ。呼んでくれないかなあ。 2022/5/7(わいわい)
いや、結構やったよ。保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、専門学校、大学...。すべてやった。 2022/5/7(石川浩司)
1979年頃、プロデビュー直後に観たカシオペアのライブ。複数のバンドが登場する音楽イベントに出演した記憶があるのですが、スタンドマイクが何故かギターの野呂一生さんの前に立てられていて「普段はわたしMCはしないんですが」と但し書きを言って曲紹介してたのが可笑しかったです。その時「そうか、カシオペアはキーボードの向谷実さんのトークが売りだもんな」とマイクの位置を間違えたことに気がつきました。そんな想い出のライブ。 2022/5/26(波照間エロマンガ島)
なんとなくギターの人がMCすると思い込んだ間違いかな?そういうことたまにあるよね。 2022/5/26(石川浩司)
学校でなくて、どこでやったかなんですよー。例えば県庁から2時間くらいかかる市がある。大学なんてないだろうなーと思ったら、短大がある。HPで調べると、ちゃんと学祭がある。こういう所って人気絶頂のバンドとかなかなか呼べないですよねー。ましてや大学でなく、短大や専門学校なら。地方の大都市とか、首都圏近くの市区ならともかく。
高校と書かなかったのは、たまにサプライズで地方の高校に芸能人やバンドやグループが来るから。また高校はそんなに芸能人呼びません。
これを書こうと思ったのは、TVで飯田線の飯田市やっていて、wikiで調べたらちゃんと短大がある。こういう地方の市の短大ってどんな芸能人呼ぶのかなーと思って。たぶん芸人とか何組か呼ぶタイプの学祭なのかなーって。
一度稚内の稚内北星大学というところに行ったことがあるのですが、学祭で芸能人呼ぶのだったら、稚内空港からくるのかなーとか。
なのでそんなに凄い芸能人が来ることが出来ない地方、それもかなり大都市から離れた短大や専門学校に、人気絶頂のバンドが来たら凄いかなーって。 2022/5/26(わいわい)
結構ローカルな学校にも呼ばれたよ。市じゃなくて町や村のね。
でも圧倒的に多かったのは大阪芸大。たま、しょぼたま、ソロ(地下生活者)、トークライブ、映画撮影などいろんな形態で呼ばれたな。 2022/5/26(石川浩司)
高校時代、東京都大田区田園調布2丁目に親友の実家があって、よく彼の家にレコードを聴きに行ったりエレキギターを弾きに行ったりしていました。その家は田園調布駅前にあった多目的屋外スタジアムの田園コロシアムから徒歩数十秒のところにあり、音楽のコンサートが行なわれるときはその音響が直に響いてくる立地環境にありました。たまたま遊びに行った1979年7月某日はアメリカのジャズミュージシャンが来日してのジャズフェスティバル「Live Under the sky」がおこなわれていて、1960年代マイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーが結成した「V.S.O.P.」のライブをわたしは彼の家で生で聴いた記憶があります。わたしはドラムスのトニー・ウィリアムスの高速4ビートのドラミングが大好きで、ウェイン・ショーターのテナーサックス、ハービー・ハンコックのエレキピアノ、ロン・カーターのウッドべース、フレディー・ハバートのトランペットとのアンサンブルは興奮したっけなあ。
でも当然のことながら騒音問題は当時から取り沙汰されていて、この田園コロシアムは1980年代終わりには閉鎖されてしまいます。友人の話によると、サザン・オールスターズやピンク・レディーなど、日本のアーチストのライブが行なわれたこともあるそうです。
1980年代くらいまでは田園コロシアムは通称「デンコロ」と略称で親しまれていましたが、今はその跡地はマンションが建っているそうです。わたしの両親は新婚時代にこの界隈に住んでいたらしいですが、それはわたしの生まれる2年くらい前のことでどうでもいい話。
また、最近別のトピックで横浜の伊勢佐木町に住んでいたときに横浜スタジアムからLuna Seaのライブ音響が流れて聴こえた話をしましたが、皆さんは自宅に屋外ライブの音響が聴こえてきた経験とかってありますか。 2022/6/10(波照間エロマンガ島)
我が家に聞こえてくるのは、保育園のお遊戯音楽くらいかな。 2022/6/10(石川浩司)
2015年ごろ、大谷氏さんのライブで、毎回ラストの曲目が「夜の海あなたと泳ぐ」だった事があります。
もちろん、大谷̪さんのレパートリーはおもしろくて良い楽曲がたくさんあるけれど、この曲もロマンスの楽曲としてはピカイチ!!
今でも時々脳内リピートで、感じ良く流れることがあります。 2022/6/10(Sankaku)
大谷もその時その時の「自分の歌ブーム」があって、他にもいい曲あるのに、半年くらい同じ歌を必ず最後に歌うようなところはあるかもね。 2022/6/10(石川浩司)
1980年代夏のある日、東京の日比谷公園を歩いていると、野外音楽堂の方から気持ち良いエレキギターのメロディーが大音響で聴こえてきました。よく聴くまでもなく演奏している人が誰かはすぐにわかりました。その人の名は高中正義。高中は毎年のように日比谷野音で納涼ライブを行なっていたんですね。時代としてはサディスティックスを解散して、フェンダーストラトキャスターからヤマハSGに持ち替えた頃か。小林ミミさんのキーボードの音色とともに高中のサスティーンのギターは公園中に響いてましたねー。ベンチに座りしばしうっとりと聴き惚れて過ごしました。そんな想い出のライブ、高中正義。大井町の雀荘の息子。 2022/6/26(波照間エロマンガ島)
あのギターの伸びは、気持ちいいよね。 2022/6/26(石川浩司)
中学から高校にかけて私の好きなロックバンドはクリエイションでした。1979年高校2年時に文京女子短期大学の学園祭でのライブを観たことを突然思い出しました。ぴあの学園祭情報でめざとく見つけて親友と参戦したのです。
当時のメンバーは竹田和夫〔ギター〕、樋口晶之〔ドラムス〕、清水安男〔ボーカル〕、チェピート竹内〔ベース〕、奥本亮〔キーボード〕、包国充〔サックス〕他。前年までのギター2本の4ピースバンドのスタイルが崩れ、当時流行のクロスオーバー路線に舵を切ったメンバー編成になった頃で、ドラムの樋口とチェピートのチョッパーベースはものすごいテクニックでシビれたなー。
地図を見て初めての文京女子短大を目指します。文京という名前がついているくらいだから文京区にあった記憶が。私たちは女子大に行くということで鼻息はかなり荒くなってましたね〔笑い〕。講堂でのライブだったのですが、もうこの頃は学園祭でのアーチストライブは商業化されていて、何から何までプロが行うコンサートと同じ内容でした。音楽専門のコンサートホールに較べて音響面で落ちる部分はあるものの、ロックの大音量なのでそんなことはお構いなし、観客のグルーヴと同期したノリノリのライブでありました。
さて、記憶を辿ろうとこの「文京女子短期大学」を検索すると、なんと!2014年に廃校になっていました。1924年に島田裁縫伝習所に祖を成し、1964年に大学法人化、2006年からは男子学生も受け入れたそうですが、営業努力の甲斐なく2014年廃校に。
人口減少はこういうマイナーな学校の淘汰から現れていくのだな、と痛感しましたね。そんな1979年に女子大で観たクリエイションライブの話。 2022/7/15(波照間エロマンガ島)
俺もひとり暮らし時代はよく学園祭ライブ観に行ってたなあ。なんといっても料金が安くてそこそこの名のあるバンドとかが観られたからね。
特にアングラ好きには法政大学の学館ホールは聖地だったなあ。俺も一度だけソロで出たけどね。まだ「たま」を結成するはるか前。 2022/7/15(石川浩司)
かつてだダチョウ倶楽部も来たモラージュ菖蒲、たまたまどぶろっくのライブがあるというので見てきました、エロい歌ばっかりだけど無駄にギターと歌が上手くて驚きました。演後、バックヤードへ消えていく二人を待ち構えていると、持っていたギターを付け人に渡していたのが印象的でした。あれはスタッフやマネージャーではなくて完全に付け人(若しくは弟子)だったな。 2022/8/27(わいわい)
ミュージシャンでも、楽器のセッティングなどは弟子がすべてやる、という人の現場も何度か見た。
まあ、俺はひとりの方が気楽だけどね。
あ、でもたまが一番忙しい時のパーカッションのセッティングなどは、音響スタッフが全部やってたけどね。 2022/8/27(石川浩司)
2022/8/27の石川さん。
1980年に米スティッフレコードからデビューしたニューウェイブバンドのFeeliesは、最初ローディー風の若者がマイクや楽器のセッティングを行い、いったん舞台裏に引っ込んだと思ったら、同じ若者が再び舞台に登場して演奏を始めて、お客さんに大ウケだったエピソードを聞いたことがあります。ビートルズのホワイトアルバム収録の「Everybody’s Got Something To Hide Except Me And My Monkey」をカバーしていて、ポップセンスの良いバンドだと感心、レコードをよく聴いてました。 2023/2/3(波照間エロマンガ島)
演出でやった、ということなのかな? 2023/2/3(石川浩司)
2023/2/3の石川さん。
演出だと思います。確かラジオ番組「スネークマンショー」で、桑原茂一さんがニューヨークのライブハウスレポートか何かをやっていた中で紹介していたと記憶しています。 2023/2/9(波照間エロマンガ島)
突然段ボールのギターとベースが作業着でセッティングしてたのは演出じゃないな。その後にドラムが自転車でステージに乗り付けたのは演出だと思うけど(笑)。 2023/2/9(石川浩司)
1984年某月某日、中野サンプラザで観覧したサンディ&サンセッツのライブ。この模様が映像化され動画サイトにアップされていることを今さっき知りました。この時わたしは21歳くらい。遊び仲間と参戦したのですがとにかく楽しかった想い出。調子に乗って楽屋にもお邪魔してしまいました。
ttps://youtu.be/m5rYpoh8IDw
このバンドとの接点。
〔1〕ヘヤスタイリストがたまたま同じだった。わたしの通っていた美容院のスタイリストがヘヤメイク担当だった。
〔2〕それから25年ほど経ち、石川さんに誘われ訪れたチェンマイ旅行で知り合った年長の友人Kさんが、このバンドの前身「久保田麻琴と夕焼け楽団」のマネージャーをしていた。
1980年代前半、YMOを取り巻くバンドが多数デビューし巨大なムーブメントを形成しましたが、細野晴臣プロデュースで夕焼け楽団をリニューアルさせたサンディ&サンセッツも大好きなバンドで何度もライブを観覧しました。サンディさんがデヴィッド・ボウイに口説かれた話はいつかしましたっけ。さすがデヴィッド、あんなディープな女性が好きなんやー、って驚きました。 2023/3/24(波照間エロマンガ島)
サンディさんをステージ上で間近に見た時「意外とシワが...」いや、なんでもないっす。 2023/3/24(石川浩司)
タイ語はロックやポップスのメロディーに綺麗にのることが、ずっと不思議に思っていました。それもソフトロックのようなまろやかな味わいの曲によく合うのです。15年ほど前にフェスで観たSilly Fools とYokee Playboyという二つのバンドはBakery Recordsイチオシのバンドで女性ファンが多かったのですが、私もライブを観てすっかり魅了されてしまいました。タイは東南アジアの国の中で独自の道筋を辿った音楽の歴史がありますが、テンポラリーのダンスミュージックは歳をとって聴くとうるさくて疲れる年代に入ってきましたが、こういったポップ系ロックは癒しの効果があっていつまでも聴いていられます。 2023/4/15(波照間エロマンガ島)
あとタイの人のポップスの踊りなんかも、力があまり入ってないフニャフニャ踊りが多くて、俺は結構好き。ずっと見てられる。 2023/4/15(石川浩司)
18/2/17の追記。
2023年6月9日、こんなニュースが入ってました。
東京・目黒の老舗ライブハウス「目黒鹿鳴館」が、現在入居するビルの老朽化にともない、来年1月をもって退去することを9日までに公式サイトで報告した。
同ライブハウスは80年にオープンし、初期には米米CLUBやTHE MODSらのバンドが出演。その後はLUNA SEAやGLAYらが出演し、ヘビーメタル系、ビジュアル系の“聖地”としても知られ、近年はBABYMETALもライブを行っていた。
わー、目黒鹿鳴館は20歳前後の頃、THE MODSやルースターズなど、いわゆる「めんたいビート」バンドを多く観に行ったことで記憶に残っています。あれからもう40年以上経ち、ビルの老朽化で閉鎖されるって、感慨深いものがありますね。
ここは目黒駅から権之助坂を山手通りに向かって下っていく途中にあるライブハウスで、確か地下にありました。かなりの爆音を出しても問題がなく長年経営を続けてきたことは、運営している会社も立派だな、と感心することしきりです。
お疲れ様でした。そして今までありがとうございました。 2023/6/17(波照間エロマンガ島)
俺も若い頃になんだったかは忘れたけど観に行ったことあったなあ。その時はロック全般扱ってたと思うけど、だんだんメタル系が多くなって足が遠のいたんだよなあ。 2023/6/17(石川浩司)
2023/3/24の追記。
2023年7月2日は中野サンプラザ最終ライブ。客席が緩やかな傾斜で好きな会場でした。柿落としからなんと50年ですって。最多公演数を誇る山下達郎さんが最後のライブを飾りました。一時期中野区民だったので、サンプラザ横の中野区役所にはしょっちゅう来ていてお馴染みの場所でした。
私はサンプラザで何度ライブを観たかな。サンディ&サンセッツ、パブリック・イメージ・リミテッド、クリエイション、ムーンライダースなど。あと何回か観た記憶が。あ、従姉妹がコンミスやっていた学生オーケストラも見に行ったような。。。1970年代からだからかなりな忘却の彼方なり。そんな想い出のライブ@中野サンプラザについて、でした。お疲れ、した。 2023/7/13(波照間エロマンガ島)
何回かここでやったな。柳ちゃんが家が近所なので自転車で来てたのがおかしかった。 2023/7/13(石川浩司)
何と言っても、2008年のしょぼたまライブに尽きます。あのライブのお陰で、自力で遠出するためのいろはを知り、まだ見ぬ人へ会う楽しみを知り、結果的に自分が旅好きな性質になったのではないかと信じて疑わない今日この頃です。 2023/10/17(たちつ亭と~助)
おお、きっかけになれて良かった。もう15年も前なのねー。俺はあまりやってること変わらないけど...。 2023/10/17(石川浩司)
2023/10/17のたちつ亭と~助さん。
そういえばトピックとはズレてしまい申し訳ないのですが、15年ほど前、と~助さんが頻々に投稿し人気者だった頃は「DTキャラ」で売っていたと思うのですが、あれから15年ほどだった現在も「DT」なのですか。チャットバーウキュピで年上のウキュラーのお姐様方とのやりとりを懐かしく思い出しました。これは答えたくなければスルーして構いませんが、なんか当時のこと思い出しましたよ。 2023/11/18(波照間エロマンガ島)
DTってなんだっけ。ダウンタウンじゃないよね。 2023/11/18(石川浩司)
1985年初めてヨーロッパへ旅行したとき、ギリシャの首都アテネで友人とコミックショーライブを見たことを思い出しました。
これはギリシャの有名な舞台芸人たちがソロで漫談をしたり、あるいは2人でコントを行ったりするのですが、全てギリシャ語なので全く意味はわかりませんでした。でも会場は熱狂的な声援や笑いの歓声が起こるので、わからないなりに楽しめました。また幕間でトイレに行くと「どうして東洋人がここにきてるんだ?」とギリシャ人に話しかけられたりもしました。このショーは毎日行われているようで、テレビではなくこういうショーが市民生活の中心にあるんだと実感しました。
そんなギリシャ・アテネで観覧したコミックショーライブの話でした。 2023/11/30(波照間エロマンガ島)
へー、そういうのいいなあ。日常にショーがある生活、憧れる。 2023/11/30(石川浩司)
2023/11/18の波照間エロマンガ島さんへのレスです。やはりトピックとは異なるお話ですが……。
それにしても懐かしいですねえ。確かに、いろんなお姐様方にお世話になりました。そして、そんなウキュピの皆様に実際にお会いするというのも、ライブに参加する際の重大なミッションでした。
わりと長い年月が経ち、連絡が取れなくなった方も少なからずいるので、ここへの投稿を再開したことで、またやり取りできるといいな~と密かに企んでたりします。
DTについては……ご想像にお任せしますw その手のお店に潜入してみたことはありますよ~。 2023/12/23(たちつ亭と~助)
DTがホントにわからない(泣)。 2023/12/23(石川浩司)
2023/11/30の追記。
そういえば、2002年12月にベトナムに旅行した時に、同行した友人がどうしても見たいと行って観に行ったのが、ホーチミンの野外音楽堂のようなところで毎晩開催されているコミックショー。これも面白かった記憶があります。こちらもベトナム語は全くわかりませんでしたが、ベトナムのほうがギリシャに比べると日本に近いアジアの国なので、演じられていることが大まかに想像し理解できるんです。観客がウケると、つられてこちらも笑ってしまうんですよね。
また、数年前にラオスのルアンプラバンで行われた栗コーダー&フレンズのライブを観に行った時も、現地の舞踊団とコラボレーションしたり、その後ビエンチャン出身のコメディーグループと共演したりと、本当に楽しかったです。パスカルズもそうですが、音楽というのはやすやすと国境を越えるんですね。海外で観る日本のアーチストのライブは本当に印象に残ります。 2023/12/23(波照間エロマンガ島)
パスカルズが海外でウケて本当にラッキーだった。「たま」は、日本ではそこそこウケても、言葉が大きな意味を持つバンド故に海外ではそこまではいけなかったからなあ。 2023/12/23(石川浩司)
2023/12/23の石川さん。
「DT」とはその名の通り「DooTee=童貞」です。たちつ亭と~助さんって一時期、チャットでは「童貞」の人気者でしたよね。その頃チャットに出入りしていた人も今いずこ、という感じでしょうか。 2024/2/29(波照間エロマンガ島)
あ、そーか。じゃあ女性はSJ? 2024/2/29(石川浩司)
自分の初ライヴはかなり想い出に残っています。ひかりのうまのオープンマイクで出会った北村盧という人の企画に出してもらったのが最初です。素晴らしい対バン相手に恵まれてとてもありがたく思いました。 2024/7/6(Kotosan Dog)
これからどんどんいろんな人に繋がっていくといいね。応援するよっ! 2024/7/6(石川浩司)
[2024/7/06の石川浩司さんへのレス]応援ありがとうございます。これからも頑張ります。
欲を言えば東京・埼玉・神奈川以外の人達とももっと繋がりたいと思っています。
僕には首都圏以外の音楽関係の知り合いがほとんどいません。なので遠距離でユニットを組みながら高頻度でライヴ活動をしているザ・ツリーポットの存在に衝撃を受けています。 2024/7/27(Kotosan Dog)
連絡とって、どんな風にしているか聞いてみたら? 2024/7/27(石川浩司)
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