話題351 好きな美術家や作品など



音楽関連の話題が多いので、このホームページの読者の人がどんな美術作品や美術家が好きなのか、知りたいと思い、トピックを作成しました。
旧石器時代のアルタミラやラスコーの洞窟絵画に始まって21世紀の現在にいたるまで、人類の歴史は何かを描いたり[絵画]、彫ったり[彫刻]、刷ったり[版画]・・・・・・、欲望のおもむくまま、もろもろ作品を作ってきた歴史があると思うのです。
世界には多様な美術の歴史があり、その中で「だれそれという画家のこの作品が好き」などと名前を挙げていくのはかなり難しいかもしれませんが、皆さんの好きな美術家と作品にまつわる話が聞きたいです。ジャンルフリー、時代もなんでもOK、縛りいっさいなしな感じでおしゃべりしませんか。
私も思い出したらいろいろ書いていきます。では、よろしくお願いしますー。  12/3/26(波照間エロマンガ島)





***レス(発言は古い順に並んでます)***


俺は中高生の時はご他聞にもれずダリやマグリット、日本だと赤瀬川原平などいわゆるシュールレアリズム、ダダイズムの作家が好きだったな。
特に赤瀬川原平やオノ・ヨーコのハプニング芸術には深い影響を受けた。
20年くらい前にはスイスのアールブリュットという美術館で観たアウトサイダーアートに度肝を抜かれた。
数々の知的障害、精神障害を持つ者が時には発表すら考えずに無心で作った作品の圧倒的な「気」にやられた。
それがニヒル牛を本格的に作るきっかけともなったな。 12/3/26(石川浩司)

1985年にパリを旅行で訪れたとき、オルセー美術館はまだオープンしておらず、のちにオルセーに収蔵されるほとんどの作品は、コンコルド広場近くにあったジュ・ド・ポーム国立美術館〔別名・印象派美術館〕に展示されていました。
私が強い印象をもったのは、エドゥアール・マネの「笛を吹く少年」を、美術館の窓越しに見たという体験でした。印象派美術館に入るために通路を歩いていると、建物の1階に人間の目の高さに合った窓がありました。私は何の気なしに中を覗いて見ると、ちょうど室内の壁に、美術の教科書にも載っているほど有名な「笛を吹く少年」が展示されているのが目に入ったのでした。そして、驚くことに、そのとき何故かはわかりませんが、絵の前には人がいなくて、私は「笛を吹く少年」を独占して見ることができたのです。それは「出会い頭的」というか、心の準備がないまま、網膜に対象が飛び込んできたという、すごい衝撃でした。 人は美術作品といろいろな出会い方があると思いますが、窓越しに出会ってしまったという、自分にとって大変珍しい例でした。あれから27年くらい経ちますが、そのときの体験はいまだに印象に残っています。  12/5/3(波照間エロマンガ島)

それはいいタイミングだったね。
常々思っているのだけれど、美術館は「一枚の絵を見せる工夫」にもっと最大限の努力をして欲しい。
ただ漠然と高い絵を並べる金があるなら、絵の点数を削ってでも一枚の絵を如何に効果的に見せるかの演出を考えるべきだ。

俺の経験ではほとんどの美術館はそれをないがしろ、とまではいかないが軽視し過ぎてる気がする。というかあまり考えてないか。
実はメキシコの美術館が好きなのだけれど、むやみに点数を増やさず演出に力を入れてるところが多い。
家具の中にさり気なく名画が紛れ込んであったり、長いトンネルを越えたあたりにポツンと作品があったり。

羅列的な絵の見せ方がそもそも魅力を損なってると思う俺は穿ち過ぎだろうか? 12/5/3(石川浩司)

>美術館は「一枚の絵を見せる工夫」にもっと最大限の努力をして欲しい。
石川さんに激しく同意します。特に日本の美術館には、苦言を呈したいです。
2005年秋に東京都美術館で公開された「プーシキン美術館展」は、学生のころから大好きだったアンリ・マティスの「金魚」が40年ぶりに日本で公開されるというのと、ゴーギャンのタヒチシリーズが見られるというので、とるものもとりあえず馳せ参じたわけですが、都美術館全体の展示スペースに対して、公開された作品の数量の多さにより、展示する作品の間隔が狭くなり、ほとほと興ざめしました。「なんでもかんでも詰め込めば、いいってもんじゃないんだよ」と、連れの人に怒りながら観ていました。
ところが、ちょうど同じ時期に六本木の森美術館で開催されていた、写真家の杉本博司さんの展覧会「時間の終わり」では、作品を見せる工夫に最大限の努力を払っていて、学芸員の努力に敬意を表したいほど大満足な展覧会でした。順路の曲がり角を曲がった途端、昭和天皇の大アップの肖像写真が目に飛び込むサプライズ効果などには心底唸りました。(実際に昭和天皇を撮った写真ではなく、蝋人形に精巧な照明を当てて撮影している写真とのこと) 結局、内容が素晴らしかったので、会期中にもう一度、足を運ぶことになりました。
石川さんからメキシコのアートシーンについては、以前もお話を聞いたことがありますが、ますます行ってみたくなりました。 12/5/24(波照間エロマンガ島)

うんうん。「有名な高い絵を飾りさえすればいいんだろ」ってな人が未だにいるんだよね。
そういう人を「田舎者」と言うのだと思う(地方者にあらず)。 12/5/24(石川浩司)

最近知っていいなって思ったのは、これなんかあなた好きなんじゃないの〜?って教えてもらったKiki Smithは凄く好きで、そもそも鳥モチーフの作品が多い時点でハートを掴まれてしまいました。あとは建築の写真集も見てみるととても面白くて高くてなかなか買えないけれどもしょぼしょぼ買ってみたりして色々みてみています。家では特にルイスバラガンの写真集をよく繰り返し見ています。いいなぁ、バラガン邸・・・・・。
あと、石川さんの都電なんじゃの時に知り合った春草絵未ちゃんの作品もとても好きで、個展も観に行ったことがあるのですが実際に見てもとても素敵だったです!しかも彼女はとても可愛い!! 12/6/8(ことり)

今度そのかわいい子を紹介してください! 12/6/8(石川浩司)

見せ方が印象的だったのは、岡本太郎記念館です。普通の家のところも良いし、庭などにも岡本太郎の作ったオブジェが無造作に置かれていたりして、異空間でした。
言われてみれば、美術館って作品を並べているだけが多いかもしれないですね。一応テーマごとに分けたりはしているけど、ポケットガイドの解説がある作品だけ人だかりができたり、居心地の良い空間ではないかも。
ちなみに好きな美術作家はたくさんいますが、画集を集めるほど好きなのはエドワードホッパー、ミヒャエルゾーバ、パウルクレーなどです。 12/6/15(ぴよまる)

すんごーいベタなこと書くと、マグリットとかエッシャーとかの遊び心のある作家も好き。 12/6/15(石川浩司)

あまりくわしくはないですが、日本の彫刻が好きです。
美術品として展示してあるのではなく、道端の地蔵様や神社の狛犬など。
特に石像が苔むしたり、周りに草が生い茂っていたりするのが好きです。
あまり生で見かけることはないけど写真を見たりするだけでも幸せな気分になるのです。 12/8/9(加藤陸)

素晴らしい!
美はあるものじゃなくて自ら見つける物。
何でも無い物に美しさを見つけられると、人生楽しくなるよね。 12/8/9(石川浩司)

ちょっと話は違うかもしれませんが、僕は芸術作品が好きではありません。
それでも今年、通い先の旅行(上野)で動物園か美術館か選択があって、自分はなぜか美術館を選びました。絵画の公募作品を集めた展覧会でしたが、案の定、美術に疎い自分に何が分かる訳でもなく流れに沿うだけのの時間が過ぎました。その中で一つだけ今でも印象に残っている絵があります。絵本のような漫画のような可愛らしい絵で、構成や技術 もしっかりしていてきちんと何か伝わってくる絵でした。展覧会には賞があって作者の記名欄に賞の名前が記されていましたが、その絵は何の賞もありませんでした。でも僕の中ではその絵がやっぱり一番いいなと思いました。こんな出会いがあるのなら美術館も悪くないなと、今では思います。 12/10/22(Sankaku)

価値観なんて自分で決めればいいのだから、君はちゃんとした見方をしてる。正しい。 12/10/22(石川浩司)

ダリ・・・ダリが好きです。
そんなに詳しい訳でもなんでもないです。
でも、時が止まっている感じ、風が全く吹いていない感じにたまらなく惹き付けられます。 13/3/31(ゆうこ)

俺も中高生の時最初に好きになったのはダリだったね。
地方の子供が初めてシュールという物と出会うきっかけだったかも。 13/3/31(石川浩司)

通っていた美術大学の学科の教授が起こした芸術運動に、「もの派」というムーブメントが、1970年代前後にありました。
13/6/4(引用開始) 「もの派」は、1960年代末に始まり、1970年代中期まで続いた日本の現代美術の大きな動向である。石、木、紙、綿、鉄板、パラフィンといった〈もの〉を単体で、あるいは組み合わせて作品とする。それまでの日本の前衛美術の主流だった反芸術的傾向に反撥し、ものへの還元から芸術の再創造を目指した。「もの派」の命名者は不明。1968年に関根伸夫が『位相―大地』を発表し、李禹煥がそれを新たな視点で評価し、理論づけたことから始まる。このふたりが始めた研究会に、関根の後輩である吉田克朗、本田眞吾、成田克彦、小清水漸、菅木志雄 13/6/4(いずれも多摩美術大学の齋藤義重 13/6/4(斎藤義重)教室の生徒)が参加し、つぎつぎに作品を発表したことで注目された。かれらは「李+多摩美系」と呼ばれる。ほかに「芸大系」の榎倉康二・高山登、「日藝系」の原口典之が注目すべき活動をしている。 13/6/4(引用ここまで wikipedia)
私は大学に入学し、上記に名前の出てくる、李禹煥と菅木志雄に最初に芸術的な基礎訓練を受けたので、「もの派」的な思考が身体の中に沁みこんでて、それが現在のものの考え方に影響を与えていると自己分析しています。ものの動態について徹底的に考察をし、その上で、そのもの自体が持っている特性を生かした作品を作ったりしていました。一見すると、鉄球や丸太がただ画廊のスペースに置いてあるだけの、「なんじゃ、こりゃ?」的な観念的な現代美術作品を作っていた時期が、ほんのちょっとの間、ありました。。。
30数年後の現在から振り返ると、赤面するような青臭い、正視できないものばかりですが。しかし、今でも、当時考えていたことで継続して自分の中にテーマとして残り、思考していることがあります。その残滓が、石川さんのホームページの投稿や、ニヒル牛マガジンでの記述に現われていると、秘かに思ったりもしています。
恥ずかしい話ですが、「もの派」の遺伝子をもったへなちょこブロガーの波照間エロマンガ島、というわけです。・・・戯言なので、聞き流しください。 13/6/4(波照間エロマンガ島)

成る程。いやいや興味深い話。
今度会った時詳しく教えて下さいな。 13/6/4(石川浩司)

フェルメール、デ・キリコ、クリムトが好きです。最近は佐伯祐三にハマってます。月並みですが、「立てる自画像」のインパクトはすごい!! 13/11/26(さぶ)

こういう画家って何派って言うの?
なんか波照間エロマンガ島さんが詳しそう。確か彼は美大で美術批評を学んでたんじゃなかったかな? 13/11/26(石川浩司)

シュールレアリスムなどの前衛芸術(あってますか?)に興味があります。特にマグリットとタンギーは衝撃的でした。ある芸術雑誌でシュールレアリスムが取り上げられているのを読んだときに彼らの絵にひかれました。僕は彼らの絵を見る度に、「無音の不安定感、狂気」を感じるのです。一度は彼らの絵を生で見てみたいですね。 14/11/29(安いドラム)

昔ヨーロッパのどこかの国の美術館に観にいって友達のお土産にマグリットのTシャツ買った記憶がある。
でもどこの国だったかももう忘却の彼方・・・。 14/11/29(石川浩司)

井上涼さんの歌アニメ作品がシュールで面白いです。おすすめは「ハヤシフサイ」と「赤ずきんと健康」。頭がおかしいです。 15/8/14(イーダ健二)

この人知らなかったけどNHKとかでやってる人なんだね。
NHKは時々こういう人を発掘してくるから良い。
もっとも民放は予算的に冒険が出来ないんだろうね。NHKはその点・・・
ところであんな豪華な新社屋いる!? 15/8/14(石川浩司)

ゴリ(可愛らしい女性です)という高校時代からの友達の絵が好きです。
道に落ちているオニギリを普通に拾って食べてしまう強者です。
「いち丸」という名前で趣味の HPももっています。→http://1-maru.com/ 15/11/24(7月4日生まれ丑年の蟻)

俺のミュージシャン友達でも道に落ちているリンゴを普通に拾って食べる人がいる。
もしかしてカップルになれるかも!? 15/11/24(石川浩司)

ベクシンスキーの絵が好きです。廃退的な作風ですが、美しいので見ていて嫌な気分にはならないからです。
明治天皇・大正天皇の肖像画も好きです。特に明治天皇の肖像画は威圧感と存在感が素晴らしいと思います。昔の大阪朝日新聞には明治天皇や大正天皇の肖像画(石版画)が付録として付いていたようで、今や左派系の新聞である朝日新聞にそんな歴史があったのかと感慨深いものがあります。 16/5/14(猫のチップ)

最近の皇室は親しみやすさを出してるからね。
これも時代なんだろうね。 16/5/14(石川浩司)

前述15/8/14のイーダ健二さんも挙げていらっしゃった井上涼さんのEテレ「びじゅチューン!」の影響でちょっとずつ美術作品を面白がって見られるようになりました。でも深いことはぜぇんぜん申せませんので、月並みですがミュシャ。なんかリアルなのに漫画チックできれい。あほ丸出しの感想で恐れ入ります。あと授業中にミレーの「落穂拾い」を教科書で初めて見たときは、地面の土や草の様子が非常に緻密に描かれていて、先生の話も聴かずに見惚れてしまったことを憶えています。 16/11/7(オポムチャン)

音楽も美術もユーモアのあるものは総じて好きだなー。 16/11/7(石川浩司)

加齢していくと絵画の好みも変わるという話。
ここ1年近く、ツイッターで名画Tweetを瞬間直感的に選択しRetweetしているのですが、自分の趣味嗜好の変化に驚いています。いちばん意外だったのは、19世紀世紀末に金箔を使ったデコラティブで官能の限りをつくし退廃的な作風で多数の傑作をものしたグスタフ・クリムトよりも、弟子のエゴン・シーレの作品のほうに惹かれていること。1986年20代半ばにウィーンで見た時はクリムトの圧倒的な画力にヤラレたのですが、年月を経てシーレの渋さに好みが移ってきています。そういうこともあるんですね。 17/4/30(波照間エロマンガ島)

まあロック聴いてた人が演歌にいく人もいるしね〜。
落ち着いたものが好きになる傾向は全体的にあるのかな。
若い頃はピンとこなかった侘び寂び的なものが沁み入るようになったりね。 17/4/30(石川浩司)

写楽とか葛飾北斎よりは、歌川広重がいいですね。
「東海道五十三次」のです。 17/9/25(わいわい)

あれは凄いよね。欧米人が驚いたのも分かる表現。 17/9/25(石川浩司)

学生時代、読み親しんだ作家に村上元三〔1910-2006〕という小説家がいます。小説家の長谷川伸の弟子で、「次郎長三国志」や「佐々木小次郎」、「水戸黄門」「勝海舟」など時代小説に注力した作風をもち、現代まで残る大衆時代劇の人物造型のかなりな部分は、彼が作り上げたとわたしは考えています。その村上の随筆「六本木随筆」は、長らく机の上に置いて暇があればぺらぺらめくる大好きな一冊でした。六本木の鳥居坂にある東洋英和女学院のすぐ隣に住居を構えて住んでいた村上が、江戸末期から明治・大正期にかけての江戸・東京の地勢や大衆芸能などのエンターテイメントの感想などを綴っている内容となっています。この本の表紙に使われていたのが、明治期活躍した浮世絵家の小林清親の「九段坂五月夜」だったのです。

小林清親は「光線画」という技法を使用し、この「九段坂五月夜」では雨の夜に東京招魂社〔のちの靖国神社〕の高灯籠と提灯の光だけが浮き上がり、雨笠を持った人々を照らしていて雨に濡れた道に反射する光の表現をしています。この作品を初めて観たのはこの村上元三の「六本木随筆」のブックカバーでした。感動しました。歌川広重が達成しえなかった風景画を進化させた境地に明らかに入っています。図表をぜひ見て欲しいのですが夜の九段坂の上、現在靖国通りとなっている神社の脇の道に雨が降っている。提灯と傘をもつ人々が写しだされている、遠景には九段坂下の神保町方面の低地がうっすらと見えている。そんな構図でした。明治期の東京の夜の暗闇が見事に描かれています。 18/2/17(波照間エロマンガ島)

その風景の感覚、どこかで読んだと思ったら江戸川乱歩の「少年探偵団」だった。 18/2/17(石川浩司)

18/2/17の追記。その村上元三の六本木の自宅の2階の書斎からは隣の敷地にある東洋英和女学院が見えたそうで、その書斎を訪れた担当編集者たちは例外なく窓から東洋英和女学院を覗こうとしたそうです。
あ、この「覗」という文字を見て別の記憶が喚起された。山本晋也監督の「未亡人下宿」シリーズで、「警覗庁」と書いたパトカーが出てきて、その中から警察官姿のたこ八郎が出てきたシーンを思い出しました。以上、思い出したどうでもいい情報2題でした。 18/4/26(波照間エロマンガ島)

たこ八郎は明日のジョーのモデルだったんだもんね。
たこちゃんの出るコメディポルノ映画、好きだったなあ。 18/4/26(石川浩司)

たこ八郎さんは生前何度かお会いしたことがあります。年上の知り合いにゴールデン街の飲み屋に連れて行ってもらったときで、その人となりはピュアすぎて「天使みたいな人だな」という印象を持ちました。本当に良い人でした。 たこさんが真鶴の海で亡くなったのは最後にお会いしてから数ヵ月後のことでした。 18/4/30(波照間エロマンガ島)

あのボケは結構計算された演技だという話も聞いたな。
取材とかすると割と普通に話せるという。 18/4/30(石川浩司)

18/4/26の追記。「未亡人下宿」シリーズで思い出したのは、主演の久保新二さんの怪演。このシリーズはピンク映画なのですがギャグ満載でドタバタコメディー的要素がふんだんに仕込んであるのです。あるシーンで久保さんはカメラが長回しでまわっている中、カメラに目線を合わせて映画の観客に直接語りかけるシーンがあり、衝撃を受けました。

そもそも映画や演劇、テレビドラマには「第四の壁」というものがあり、それはフィクションである劇中世界と観客のいる現実世界との境界を表す概念をいいます。「第四の壁」はフィクションと観客の間にあります。通常観客は「第四の壁」の存在を意識することなく受け入れており、あたかも現実の出来事を観察しているかのように劇を楽しんでいます。観客はこの「第四の壁」を通して演じられる世界を見るという「約束事」を前提として鑑賞するわけです。その「第四の壁」を破壊する実験が20世紀演劇では行なわれてきました。俳優が「第四の壁」の存在をあえて明らかにし、観客に直接語りかけるのは約束事の破壊であり、多大なインパクトを観客に与えることになります。演劇ではブレヒトが多く実験しました。またハリウッド映画では、1940年代にコメディアンのボブ・ホープがよく使っていました。また日本映画やテレビドラマでは、ボブ・ホープを踏襲したかのように、森繁久弥や石立鉄男がシーンのおしまいにカメラに向かって「実は○○なんだけどね」とか捨て台詞を吐くシーンをよく覚えています。それを久保新二も行なったのです。

場末のポルノ映画館に「未亡人下宿」を観にきた孤独な独身男たちに直接語りかける久保さんの科白には、自分のありようを見透かされているようでショックを受けたのです。「ちんぽ勃ててそんなところに座って何してるんだい」というような科白がね。あ、最近劇場公開された「デッドプール2」にもこの手法の科白がふんだんに使われていたことを書いてこの項終わります。 18/7/1(波照間エロマンガ島)

その手法は寺山修司もよく使ってたね。 18/7/1(石川浩司)

「病草紙」という絵巻物が好きです。平安時代末期、後白河法皇(当時の最高権力者)が作らせたとされています。
「二形」「口から屎を吐く男」「口臭のする女」といった病人を、何の同情も交えず(周りの人が病者をからかっている様子をも)描いています。
すごく・・・残酷というか、何とも言えない絵巻物ですけど、それは、古代から中世への胎動の現れなのでしょう。
絵の技術も凄いのです。写真図版では絶対に出せない、美しい彩色が残り、描線もかっこいいです。
しかし、残念なことがあります。賛同してくれる人が少ないのです。悲しいなぁ・・・ 18/7/1(未成年)

へー、それは見てみたいな。ネットとかで見られるのかな? 18/7/1(石川浩司)

18/7/1の石川さんのコメントに返信)インターネットに何図かの画像が上がっています。少し画像が悪いのが残念ですが…
(京都国立博物館ホームページ:http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/emaki/item04.html)など。
実物は数年に一回ぐらいしか公開されないんです。特に、コレクターが秘蔵しているものはめったに公開されません。
どこかの博物館がコレクターから買い受けるのなら、もう少し公開頻度も上がると思いますが、どの博物館にも、そんなお金は無いらしいです。 18/7/13(未成年)

マニアックな絵は、好事家が公共のところに手放してくれないとなかなか難しいのかもね。 18/7/13(石川浩司)

18/7/1の追記。日本のパンクロックバンド、Frictionの『Cool Fool』〔1980年発表〕という曲の歌詞がこの「第四の壁」のことを歌っていることに思い当たりました。内容はライブ演奏中その場所に座っている聴衆にむかって、「そこに座って何を見ている? 俺たちを見てるのかい」とか「そこに座って何を知りたい?」「そこに座って何を食ってる?」と聴衆に直接語りかけるというもので、それ以前はおとなしく感情を表に出さないと言われていた日本人のオーディエンスを半分揶揄したような内容になっていました。そういえば筒井康隆さんの短編に『読者罵倒』という作品があって、それも読者を直接に罵倒していた「第四の壁」を意識した作品だったかな。 18/8/25(波照間エロマンガ島)

歌詞を歌じゃなくて直接お客さんに語りかけたら怖そう・・・。 18/8/25(石川浩司)

安野光雅の作品。
トリックアート的なエッシャーに影響を受けた作品が多いですが、エッシャーとは違う暖かさがあって好きです。 18/9/17(邑楽)

俺も大好き!
特に「旅の絵本」という騙し絵的な文字の無い絵本は擦り切れるほど読んだ、いや、見たなあ。 18/9/17(石川浩司)

最近思うのですが、近年「「名品」を並べて、おしまい」みたいな展覧会がはびこっていて、ちょっと嫌な感じです。入館者数を取ろうという意識が見え見えで。博物館・美術館は「研究施設」ですから、埋もれていた傑作の発掘・新たな価値観の提示とか、多少マニアックでも、もっと深い展覧会をやってほしいです。その点、今年の東京国立博物館「名作誕生」展、奈良国立博物館「糸のみほとけ」展はすっごく良かったです。前者は「美術作品のつながり(海外の作品とのかかわりとか、昔の作品とのかかわりとか)」を取り上げた展示。後者は、刺繍・綴れ織りなど、糸で作られた仏の絵(?)に目を向けた先駆的な展示でした。特に「糸のみほとけ」の方は、6時間ぐらいかけて堪能しました。飛鳥時代の国宝刺繍作品を10数分独り占めできました。石川さん好みではなさそうですが。 19/1/7(未成年)

そうそう企画は大事だよね。
有名作品が観たいという気持ちもわかるが、それは観光地に行って「写真と同じだあ」というのと変わらないからね。
新たな価値観の発見が大事。 19/1/7(石川浩司)

最近、戦前(大正〜昭和前期)の前衛美術にはまっています。恩地孝四郎とか長谷川三郎とか瑛九とか。特に瑛九の絵画が気に入ってて、「一つ欲しいなぁ」なんて思ったり。 19/5/22(未成年)

俺はよく知らないや。友達の大正文化研究者の淺井カヨさんが詳しいかもなあ。淺井カヨさんを検索してみて。 19/5/22(石川浩司)

2002年国立近代美術館で開催された女流日本画家の小倉遊亀展。その中で邂逅した1枚の作品、『浴女 その一』〔1938年、210.0×176.0cm〕

以前から図版等でその存在は知っていたが、実際観てまず感じたのは、女性の裸身の美しさとエメラルドグリーンを基調にした透明感あふれる湯と浴槽底のタイル目地の揺らぎ。色彩と構図が完璧な調和をもっていた。

阿川佐和子が週刊文春「あの人に会いたい」で小倉遊亀〔1895−2000〕と対談した時、小倉画伯をお婆ちゃん扱いしたら、女子師範学校出の気位の高い小倉が激昂し対談がすぐに終わるという展開になったらしい。資料をよく調べればそうなることくらい分かりそうなものだと思うのだが。

そんな大好きな作品。 19/9/12(波照間エロマンガ島)

でも昨今60歳は微妙だが70超えたらお婆ちゃん扱いしてもいいと思う。5歳児を大人扱い出来ないのと同様に。お婆ちゃんは悪い意味とは限らないからね。
ま、でも、ちょっとした扱い方次第だよね。それが失敗したのかもね。 19/9/12(石川浩司)

私結構俯瞰図が好きですね。上から見るやつです。 19/10/8(わいわい)

俺も好き〜。鳥瞰図とかもね。 19/10/8(石川浩司)

フランスのパリに建つポンピドゥー・センター。フランスの総合文化施設。ジョルジュ・ポンピドゥー大統領が、首都パリの中心部に造形芸術のほか、デザイン、音楽、映画関連の施設および図書館を含む近現代芸術拠点を設ける構想を発表、1977年に完成した。当初はデザインが斬新すぎて歴史ある建物が建ち並ぶパリの美観を損ねるなどの批判があったが、完成後40年をしてすっかりパリのランドマークとして定着している。



わたしが初めてポンピドゥー・センターを認識したのは、イギリスのパンクロックバンド、ストラングラーズのべーシスト、ジャン=ジャック・バーネルの1979年発表のソロアルバム「Euroman Cometh」のジャケット写真において。この建物が被写体として使用されており、その未来的な奇抜なデザインにど肝を抜かれたのであった。以来、パリに旅行するとたいていは訪れるようになった。石川さんはこの建物の前の広場でストリートパフォーマンスをやったことがあると聞いたことがあるのだが、いかがだったでしょうか。 19/10/18(波照間エロマンガ島) 

本当は許可がいるらしくしばらく演奏したらポリスが来て追い出された。
翌日もまたやってたらポリスが来て「またお前か」と言われた(笑)。 19/10/18(石川浩司)

ひいきにしているとなり町のクレープ屋さんで、切り絵教室が開かれているそうです。
今はもう変わってしまいましたが、私が初めてそのお店に来たときは私好みの絵が飾ってありました。

なんでも、そのお店のある商店街通りの、夕焼けの絵が飾られていました。
これが何だか、つげ義春先生の絵を思わせる感じで、また私の創作の原点でもあるような感じがしました。

ここにきて私自身の原点に出会えた感じがして、感慨深かったです。
私自信もこのクレープ屋さんの市を題材に何度か歌を作ることを試みています。 20/11/1(Sankaku)

クレープ・・・人生で3回くらい食べた。 20/11/1(石川浩司)

大友良英さんの著書「音楽と美術のあいだに」で知った、毛利悠子さんのモレモレ東京という作品が好きです。
http://mohrizm.net/ja/works/more-more-tokyo-water-leak-tokyo-fieldwork/   2021/3/26(KPC)

大友さんもいろいろかかわってるよねー。チューリッヒで共演して、その後、西荻の寿司屋で会って喋ったな。  2021/3/26(石川浩司)

ジャスパー・ジョーンズ。1930年アメリカ生まれの画家で、2021年7月現在存命中である。
軍隊を退役した1950年代初頭からニューヨークで国旗、数字、的〔まと〕などをモチーフとした作品を制作、長年にわたり作品を発表、ネオダダやポップアートなどの先駆者として現代美術の最前線にて多くの影響を後進の美術界に与えた。
わたくし波照間エロマンガ島は1982年大学入学後、ジャスパー・ジョーンズ研究の世界的権威である美術評論家の東野芳明氏を通じて彼の作品世界を知り、探究するようになった。

以下はジャスパー・ジョーンズの1964年発表の作品「Watchman」についてのジョーンズ自身のメモ断片とわたしの書いたノート。1960年代初頭、ジョーンズは日本に滞在してこの「Watchman」の構想を練っていたという。
〔図表参考URL〕 https://www.thebroad.org/art/jasper-johns/watchman

「Watchman」を前にしてのジョーンズと東野芳明との対話より。
「君の眼が足から球に移る場合もあれば、色の方形〔赤・青・黄〕からScrape〔木の棒に絵具をつけ右から左へこすったままFIXしている〕にゆくこともあるだろう?旗や的 2021/7/29(まと)を描いていた時は、眼は全体を一ぺんに見ることで、見るという事の意味を無意味にした。最近、こういうオブジェや行為の跡を使うのは、見る方法をまったく多様にしてしまいたいんだよ」
「一種のキュビズム?」
「いやキュビズムは外側の物体を見る見方の解剖図さ。ぼくは見ること自体の意味を、うんと混乱させたいんだ」〔美術手帖、1964年8月号〕

ジョーンズは国旗や的を描いたことにより、眼が絵全体を一度に見ることで、見るということの意味を無意味化したことはジョーンズ自身が発明した手法で、ロバート・ラウシェンバーグのコンバインペインティングとともに1960年代以降のポップアート、ネオダダの時代をリードしていった。

ジョーンズによる「Watchman」制作メモ〔抄〕
……夜警は見る〔LOOKING〕という罠におちる。「スパイ」は別の人種である。"見る"ことは"食べること"であり、でなく、また"食べられること"であり、でない。
つまり、夜警と空間と物体の間にはある種の持続性がある。スパイの方は"逃げる"準備が必要で、入り口と出口を知っていなければならぬ。
夜警は仕事をやめる。スパイは記憶し、自分自身と自分の記憶を記憶しなければならない。スパイは、自分が見過ごされるように自分をデザインする。夜警は"警報"の役をする。警報として、夜警とスパイはいったい出会うことがあるだろうか。
「スパイ」と題された絵では、彼は存在するだろうか?スパイは夜警を観察する位置に立つ。……もし、スパイが異質の物体なら、なぜ眼が苛々しないのか?スパイが苛々するのなら、彼をどかそう。「スパイしないで、ただ見ればいい」と夜警が言う……。

焦点、それは人の視つめる事〔LOOKING〕、見る事〔SEEING〕、使う事を含む。「それ」と「それ」の行動。それが、であるように、であったように、であるかもしれないように。……物体〔OBJECT〕と偶発事〔EVENT〕との間の関係。二つは分離しうるか?一方は他方の部分か?出会いとは何か?空気?……

あるいは……、顔全体の石膏の雌型を作る。これから薄いゴムで雄型を作る。これを切り、まったく平らの板の上に広げるようにする。それをブロンズに鋳造し、これを「皮膚」と名づける事。……何かある種のオブジェを作る。それが(あたかも死ぬように)変わり、バラバラになり、あるいは(あたかも成長するように)部分が増すにつれて、その状態あるいは性質が前にはどんなものだったかまったく分からなくなるような、そんなオブジェを。形而下的、および形而上的確執。これは有用なオブジェでありうるか?…… 〔訳・東野芳明〕

見ること、見つめることの「解体」が、その後のハプニングアート、コンセプチュアルアートまでの射程を俯瞰している。物体〔OBJECT〕と偶発事〔EVENT〕との関係性についての思惟。

大学生のころ好きだったジャスパー・ジョーンズの絵を久々に観た。相変わらず聡明なまでの「わからなさ」が爽快だった。以下、22歳の自分が書いた稚拙なつぶやき。

out of word〔言葉の外〕の世界というものがあるのなら、その境界線が人によって異なるのは当然である。それはこうではないか、と分析に分析を重ねて対象を追いつめても、個人差があり、言葉や分析は読者には曖昧に行き過ぎてしまう。 絵画の分析について言うのなら、その絵の前に対峙したときに、その絵が発言する意味〔何かはわからないが、曖昧なものという事だけは確かだ〕を言葉に還元できない状態があるとする。東野さんは「観衆論」の授業で「閉じている」「開いている」というメタファーを使ったが、ある観衆にとっては意味が「閉じてい」て、言葉に置き換えられない。それは作品の側の問題なのか、観衆の側の問題なのか、というのが一つ。
この絵は観衆に意味を読み取らせない「閉じた」絵だよ、と、言うこともできる。しかし、絵の前で呆然と立ち尽くすだけであってもいいじゃないか、とも思う。そういう物体〔OBJECT〕との出会い〔EVENT〕があっても。
ジャスパー・ジョーンズの絵にはそんな魅力があふれている。

そんな好きな画家、ジャスパー・ジョーンズについて、でした。 2021/7/29(波照間エロマンガ島)

こういう「わからないもの」俺も20代の頃は好きだったなー。今は「わからないけど面白いもの」が好き。 2021/7/29(石川浩司)

本格的なアートから見ればだいぶ下世話なものかもしれませんが、私はコミックやポップアート〈特に美少女イラスト〉が好きです。
やはり手軽なところからどれほど高みを目指せるのか、というのがポップアートの特徴かもしれません。

三浦靖冬 先生〈ミウラヤスト〉の「薄花少女〈ハッカショウジョ〉」などは、絵の技術としてはアートと呼べるもののように思います。
あるイラストの上手な年下の男性に、三浦先生のマンガをお見せしたら、「この絵はエロイラストを描いてきた人の絵ですよ」と見抜かれました。実際、過去に三浦先生はエロマンガをお描きになっていました。

村田蓮爾 先生〈ムラタレンジ〉、鳴子ハナハル 先生、Tony 先生などは、美少女イラストの大御所です。
やはり音楽や絵画などのアートは、最終的には好きか嫌いか、という基準に落ち着くもののように思います。
私個人の感覚としては、高い技術で解釈も分かりやすい物が好きです。  2021/10/15(Sankaku)

ダーティー松本氏なら知ってるが...。 2021/10/15(石川浩司)

今年もまた藝大の修士・卒業作品展へ行ってきました。何度も書いているけどやっぱ学生の作品はいいなあ。
今年も予約制。本学と東京都美術館の二か所行ってきました。今回特に印象に残った作品など。
・油画の受付三人。「ブルーピリオド見てる?」と気軽に話しかけ、
「『これ、アブラでやる必要ある?』と作品みたいに言われたことある?」と聞いたら「めちゃ言われます[笑]」とのお答えが。「猫屋敷先生は、いろいろな先生の悪い所を合わせた人らしいですよ[笑]」とも。
・バイク。作者はバイクで事故り身体は治った。ならばバイクも直そうとカスタマイズした。行動は走れないけど黒い作品に仕上げました。作者に「指導教官に何か言われなかった?」と聞いたら「いろいろ言われたけど我を通しました[笑]、と言ってました。
・Googleでアメリカの地図を見ていたら謎の線が幾何学的に出ている土地を見つけた。これをいろいろ調べたら・・・とここまでは良くあるのですが、それをスマホで指でスワイプ等していると、その指の動きに興味が出で、指の動きを立体的な作品にしちゃった人。この人にもブルービリオドのこと聞きました。
・youtuberというかDJというかそれを配信している女性。聞くと三浪して留年もしてそれでもマスターへ進み30歳とのこと。ボールにお題を書くとそれを拾って話を広げてくれるとか。youtubeと同時配信していました。その人にもブルーピリオドの事いろいろ聞いて盛り上がりました。あまりにも気に入ったので再び訪れたら、教室で寿司を食べようと検索していました。なんなんだこの人笑。デリバリー? だふんウーバーイーツかな。
・自分の全裸写真にとにかくいろいろ隠したり塗ったりしていた女性。さすがに写真撮れなかった・・・。これも藝術なんだろうなあ。
・ツイッターなどで流れてくるニュースを絵にして四年間書いた人。学部を出た後社会人をしていて、その時の二年と修士の二年。「毎日書いていたら修論は楽でしょ」と聞いたら「風呂に入るより楽でした[笑]」。思わず爆笑。
アニメを作ったり、劇をしていたり・・・これが論文なんだもんなあ。今年の傾向としてコロナのためか自由ノートが少なかった。ポートフェリオや詳しい作品紹介はバーコードを読ませるタイプが激増してました。時代だなあ。
今年もいろいろありました。 2022/2/6(わいわい)

昨年、大槻ヒロノリさん主演のドキュメント映画「酔いどれ東京ダンスミュージック」に演奏シーンでちょっと出たんだけど、これもそもそもどこかの芸大の卒業制作としての学生の自主映画だった。なので撮られてる時も「ああ、でもこれを自分が観る機会はないんだろうなあ」と思っていたら、何かの映画コンテストで優勝かなにかしちゃって、商業映画として公開されちゃったんだよね。なんでもやってみるべきだよね〜。 2022/2/6(石川浩司)

芸術作品における「観衆」の重要性について。20世紀美術に決定的な影響を与えたフランス出身の美術家、マルセル・デュシャン〔1887-1968〕のインタビューが重要な示唆を与えています。ちょっと長いですが、以下に引用します。

〔引用ここから〕
ある人、ある天才がアフリカのどまんなかに住んでいるとして、どんなに毎日、すごい絵を描いていようとも、誰もその絵を見ないとすれば、そんな天才はいないことになるでしょう。言い換えれば、人に知られてはじめて、芸術家は存在するのです。とすれば、何十万という天才たち、つまり、認められ、尊敬され、栄光をものにするために必要なことをする術を知らなかったが故に、自殺し、死んでしまい、消えてゆく天才たちの存在を考えてみることもできるでしょう。
私は、芸術家の《メディア》としての側面を信じています。芸術家は何かをつくる。そしてある日、大衆の介入によって、観客の介入によって、彼は認められる。そうして、彼は後世にも名を残すことができるのです。この事実を無視することはできません。それは二つの極によって産み出されるものだからです。作品をつくる者という極があり、それを見る者という極があります。私は、作品を見る者にも、作品をつくる者と同じだけの重要性を与えるのです。

〔中略〕アフリカの木のスプーンは、それがつくられたときには、まったく何でもないものでした。単に、機能的だけだっただけです。ところが、その後で、それは美しいもの、つまり《芸術作品》になりました。 マルセル・デュシャン「デュシャンは語る」聞き手;ピエール・バカンヌ〔1966〕〔引用ここまで〕

芸術作品においては観客が重要であるというデュシャンのこの意見は、今日ではかなり一般化した考えであると思います。しかしながら同時に西洋至上主義というか、西洋世界から非西洋世界を「オリエンタリズム」で希少なものとして価値を「発見」するという、「上から目線」または「見下ろし」の視点を感じてしまうことも事実です。非西洋の未開なものには素晴らしい価値があり、それを西洋世界側から愛でるという視点。これはまだ熟考する余地があるような気がします。 2022/5/26(波照間エロマンガ島)

ニヒル牛はローザンヌの「アール・ブリュット」に影響を受けて作った部分もあった。この美術館には犯罪者や精神障害者などの「発表することを前提としていない」作品がスゴいオーラを放っていたんだよね。なのでそれを発見するわずかなキッカケにでもなる素人の作品を置くスペースとしたのが始まり。
「発見されない天才は天才じゃない」がもったいないからね。 2022/5/26(石川浩司)

シュルレアリスムの絵が描かれた絵葉書がうちにありますが それを見てから シュール系のイラストなどにハマった時代がありました
見てて飽きない!! 2024/2/16(ズミ天)

人によっていろんな想像力を掻き立てられるのが俺も好き。価値観がひとつじゃないところが。視点の自由。 2024/2/16(石川浩司)


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