話題332 ビートルズ (2)



18/4/19の石川さん。わたしもジョージのソロ時代作品好きです。1987年にリリースした「クラウド・ナイン」はELOのジェフ・リンと組んだアルバムで、シングルカットされたビートルズ後期のサイケデリック・ロック時代を彷彿とした「When We Was Fab」など繰り返し聴きましたねー。ジョージの作るコード進行は優しい気持ちになりますです。中学に入学したとき初めての昼休みの校内放送で「ダーク・ホース」からシングルカットした「Ding Dong」がかかっていたのを覚えています。 18/4/26(波照間エロマンガ島)

俺が一番好きなのは「リヴィング・イン・ザ・マテリアルワールド」かな。
ジョージの不思議なクセになるメロディが詰まってる。
でも他のどのアルバムも駄作や捨て曲が無い。素晴らしいミュージシャンだが、ビートルズがなかったら世に出てなかったかもね。良かった〜。 18/4/26(石川浩司)

ポール・マッカートニーは2010年、ポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた優れた作曲家・演奏家に贈られるガーシュイン賞を受賞しました。で、ホワイトハウスの音楽堂みたいな小ホールでオバマ大統領やペロシ下院議長などアメリカ政界のVIPを前にして記念ライブを行なったのですが、その映像を動画サイトでぐうぜん見つけました。

ポールをはじめたくさんのアーチストが次から次へと出てきて、ビートルズ時代やソロ時代のポールの歌を歌い演奏したのですが、シビレましたねー。その中でいちばん興奮したのがスティービー・ワンダーが歌った「We Can Work It Out〔恋を抱きしめよう〕」。スティービーがクラヴィネットを弾きながら歌う姿はグルーヴ感いっぱいで最高でした。興味のある方は検索してご覧くださいませ。ビートルズがアメリカ上陸した1964年は、同時にデトロイトから登場した白人受けするモータウンレコードのソウルミュージックが流行していて、スティービー・ワンダーはダイアナ・ロスとシュプリームスなどと並び、そちらの雄だったのですね。当時のライバル同士の共演は心躍りました。 18/4/30(波照間エロマンガ島)

スティービー・ワンダーのキー・オブ・ライフも好きだったなぁ。 18/4/30(石川浩司)

スティービー・ワンダーといえば、さきごろ鬼籍に入った西城秀樹さんがスティービーのアルバム「シークレット・ライフ」所収の「愛の園」という曲をカバーしてシングル発売したことがありました。〔1980年〕 そのオリジナル版にはバックコーラスに児童合唱団が参加しているのですが、その中に当時ロスアンゼルスに住んでいてのちに日本に帰国しタレント・歌手・女優になる、西田ひかるさんが含まれていました。西田さんは2018年現在45歳〔1972年生まれ〕。アイドルも当然加齢するわけですね。 18/6/3(波照間エロマンガ島)

元SMAPもTOKIOもみんな40代のアイドルだもんね。
昔では考えられなかったことだよなあ。 18/6/3(石川浩司)

そういえば、先日18/7/23更新の「私のまわりのおバカさん」の「わが社のジョージ」を書いて思い出したのですが、ジョージ・ハリソンは1943年に生まれていますが、時の英国国王ジョージ6世にあやかって命名されたんですってね。 そのジョージ6世の父君のジョージ5世は「GEORGE V」と表記するのですが、これと同じ名前の駅がフランスのパリ地下鉄にあったのを10数年前に発見したのです。でもフランスなので英語読みはせず「ジョルジュ・サンク」と読むことをガイドブックを見て知り、「音の響きがかっこいいな」と感心したことを思い出しました。 18/7/24(波照間エロマンガ島)

マイケルとミッシェルみたいなもんだね。 18/7/24(石川浩司)

18/6/3の追記。西城秀樹さんが亡くなったとき、大ファンだったさくらももこさんが追悼のコメントをされたそうですね。それからわずか数ヶ月でさくらさん自身も逝ってしまうとは誰もが思いもしなかったことでしょう。
さて、西城さんについてわたしがどうしても胸につかえているのは、横尾忠則さんの愛娘の美美さんが西城さんについて何もネットで語ってないこと。昭和40年代に西城秀樹がはじめて大阪球場でスタジアムライブを始めた当初、熱狂的なファンとして10代の美美さんが紹介されていたのを見た記憶があるのです。当時横尾さんも俳優として出演していた「寺内貫太郎一家」に西城秀樹が出演していた関係で、美美さんが西城秀樹と交流をもった話を月刊平凡、月刊明星で読んだことを覚えているのですが。まぁ過去については語るのも自由、語らないのも自由だと思いますが、ここに私の未完了な気持ちをつづっておきます。美美さんは成人し女優としてドラマ何本かに出演し、その後画家になりました。 18/9/17(波照間エロマンガ島)

語れないか、もしくはいろんな意味で語りたくないということもあるのかもしれないね。 18/9/17(石川浩司)

17/3/27(のり平のちゃっきり金太)さんへのレス
先日「今の日時は2019年8月14日午後10時15分です」と勘違い投稿している人がいて、まさに仰る通りの感じでしたね。
勘違いじゃなく本当に未来(2019年)からの投稿だったら話は別ですけど。 18/9/17(テングザル)

今春、前橋に行ったら馴染みの古本屋が閉店していて挨拶口上の貼り紙がしてあって日付が「1917年11月」になってた。100年近く前の貼り紙!? 18/9/17(石川浩司)

かつて、5人目のビートルズは誰かという議論がよくありました。4人のメンバーに準ずる存在としてビートルズの活動に直接的に関わった関係者ということなのですが、ジョージ・マーティン〔プロデューサー〕やブライアン・エプスタイン〔マネージャー〕、メジャーデビュー前にメンバーだったスチュワート・サトクリフやピート・ベストもそう言われていますね。

ひるがえって、たまについて同じく5人目のたまは誰かと考えてみると、これはすぐにエンジニアの小俣佳久さんが思い浮かぶのですが、石川さんはどのような意見をお持ちでしょうか。そういえば、たまにおける小俣さんの位置づけとなる人を、ビートルズにおいて考えると、ビートルズのレコーディングエンジニアを長らくつとめたジェフ・エメリックさんがその位置にはまるんじゃないかと思いつきました。1966年の「リボルバー」以降すべてのビートルズのアルバムにチーフエンジニアとしてクレジットされており、後期ビートルズの華麗なるサウンドコラージュの大半は彼のエンジニアリングのサポートがあり結実していました。 19/2/26(波照間エロマンガ島)

まあ、小俣くんだろうねえ。
でも後期たまではアレンジを斎藤哲也くんもかなりしてくれている。ミュージシャンということに限れば、斎藤くんかもね。 19/2/26(石川浩司)

1969年1月30日のアップルビル屋上で行なわれた通称「ルーフトップコンサート」で「アビーロード」収録の「I Want You」がセットリストに入っていたのをどこかで読み、びっくりしました。全編の演奏ではなく作曲者のジョンの断片的なギター演奏とあるのですが、どんなものか聴いてみたいものであります。 19/4/2(波照間エロマンガ島)

へー、あの曲が入ったらずいぶん映画全体の印象も変わったかもね。 19/4/2(石川浩司)

1987年の結成から1990年代前半にかけて世界中を席捲したグランジロックの雄、ニルヴァーナのドラマーであるデイヴ・クロールがジョン・レノンについて語った言葉の意味について、最近ずっと考えています。

〔以下、引用〕ジョン・レノンについて、一人の人間にあれほど矛盾した性質が同時に存在していることが信じられなかった。「イマジン」の作者に関する伝説には困惑しているんだ。特に平和運動家だったレノンの暴力性に注目している。レノンは暴力を振るうことを意に介さない人だったと聞いている。

彼がどんなに愛と平和を主張した男だったかを考えると、すごく格好いいと思った。彼は聖人みたいだったけれど、犯罪者になっていたとしても不思議じゃないわけだ。そういうところが最高に好きなんだよ。〔引用ここまで〕

今までジョン・レノンについて数多くのインタビューや評伝が書かれていますが、この暴力的性格と平和運動家としてのありようについては興味深いですね。1965年の前衛芸術家の小野洋子との邂逅以来、ヨーコから大きな影響を受けたのではないかという気もしますが、本当のところはよくわかりません。 19/6/15(波照間エロマンガ島)

「イマジン」は完全にヨーコからの影響だと思われるな。ダダイズム作家としてのヨーコはそれまでもそういう類の活動をしていたし。
非暴力主義で知られるガンジーも、家庭では相当子供に拳を上げていたという話も面白いよね。 19/6/15(石川浩司)

19/6/15の石川さん。今は「マインド・ゲームス」という題名で知られる1973年発表のアルバムが、日本で発売当初は「ヌートピア宣言」という邦題がつけられてました。このアルバムの中にある「ヌートピア国際賛歌」という曲は、ジョンとヨーコが1973年4月1日に創設した概念上の国家「ヌートピア」の国歌であります。6秒間の無音の曲なのですが、この曲はその国民〔ヌートピアン〕となることを望む人々によってのみ構成される国家の国歌として「想像する人に自由に響く曲」になっています。これは「イマジン」の歌詞をさらに発展させたものとわたしは考えます。ヨーコが作ってきたネオダダの流れにある芸術と、ジョンの音楽が融合・結実した傑作ですね。まだまだビートルズについてはいろいろなことを語ることができると思います。 19/7/2(波照間エロマンガ島)

俺も当時それを知った時は感銘を受けたなあ。
癖の強いヨーコが苦手な人は多くて、俺もその気持ちは分かるけど、思想的にも最もジョンに影響を与えた人だもんなあ。 19/7/2(石川浩司)

「ヘイ・ジュード」のプロモーションビデオや映画「レット・イット・ビー」のレコーディングセッションシーンなどにおいて、ポールがピアノを弾いているときにはジョージかジョンがベースを弾いている姿が映像で残っています。

しかし、そこで弾いていたベースは4弦のいわゆる「ベースギター」ではなく、フェンダーの「6弦ベース」というフェンダージャガーに似たフォルムをしたベースギターでした。これがベースアンプにつなぐとベースギター、ギターアンプにつなぐとバリトンギターとしてエレクトリックギターの1オクターブ低い音が出るという面白い楽器だとのこと。

あまりほかのミュージシャンが使っているのは見たことはありませんが、クリームのジャック・ブルースやザ・フーのジョン・エントウィッスルも一時期ステージで使用していたそうです。もうちょっと調べてみようと思います。機会があれば弾いてみたいな。 19/11/14(波照間エロマンガ島)

お~、それは知らなかった。楽器に興味が薄いからなぁ(笑)。 19/11/14(石川浩司)

1980年12月8日、ジョン・レノンがニューヨーク・セントラルパーク近くのダコタ・ハウス前で撃ち殺されたニュースを聞いたとき、高校3年生だったわたしはどうしようもない衝撃を受けた。生きている人が亡くなりこれほどのショックを受けたことはなかった。その日は気が動転して、渋谷から六本木を通り虎ノ門のあたりまでとめどもなくほっつき歩いたことは覚えている。どうやって帰宅したのかの記憶は飛んでいる。翌日は学期末試験後の休日で時間があったので「ダブル・ファンタジー」の輸入盤を買いに渋谷のヤマハに行った。すぐに帰宅し終日レコードを聴き込んだ。

このアルバムは1980年の8月から9月にかけてニューヨークのレコードプラントスタジオでレコーディングされた作品であるが、購入当初このアルバムのプロデューサーのクレジットに、ジョンとヨーコのほかにジャック・ダグラスの名前があるのを見つけて不思議な気持ちになった。ジャック・ダグラスというとエアロスミスやチープ・トリックなどのプロデュースを行なっている当時の売れっ子プロデューサーだったからだ。あとから調べるとジャック・ダグラスは1973年の「イマジン」のレコーディングにフィル・スペクターのアシスタントとしてレコーディングに参加していて、ジョンとは知己があったそうだ。「スターティング・オーバー」でも聞かれる、全体にリバーブの強くかかったサウンドはアルバム「イマジン」からの流れがあるのか、と感心した。だがジョンの死後、ギャラの問題でヨーコと揉めたというニュースも記憶にあるのだが、それがどうなったのかはつまびらかでない。

「ダブル・ファンタジー」は今もレコードでたまに聴くけれども、A面の曲の流れはけっこう好きだ。ジョンとヨーコの曲が交互に収録されていて、最後のジョン作の「ビューティフル・ボーイ」ではきまって涙がこぼれる。ジョンの死後何十年も経つけれども、ジョンが死んだときの自分の心のありようを思い出させてくれるからかもしれない。そんなジョンとヨーコの「ダブル・ファンタジー」の想い出。 19/12/3(波照間エロマンガ島)

俺も蕎麦屋のテレビのニュースで見て驚愕したのをハッキリ覚えてる。俺も同様に直接の知り合い以外で一番衝撃を受けた死かもしれない。
チャップマンは今も服役しているらしい。 19/12/3(石川浩司)

母がビートルズの「HELP」を良く口ずさむのですが「へるぷ、あいむにーさむぼーでぃー」と日本語(?)で言うのでちと困ってます。
英語の発音要素全くナシ。 19/12/8(もちっこ)

俺も好きなのに英語全然出来ないので歌えるの一曲も無し。 19/12/8(石川浩司)

ビートルズの弟分グループとして1964年にデビューしたピーター&ゴードン。レノン=マッカートニー作の楽曲「愛なき世界」は世界的ヒットを記録しました。ピーター・アッシャーは、当時ポール・マッカートニーが交際していたジェーン・アッシャーの兄としても知られていました。その縁でポールから可愛がられたのではないかと想像します。ポールがジェーンと別れてリンダ・イーストマンと結婚してからはポールと折り合いが悪くなり、当時スタッフとして働いていたアップルレコードでも閑職に追いやられたという説があります。
ビートルズ解散後はアップルレコードを辞め、アメリカに渡り、ジェームス・テイラーやリンダ・ロンシュタットなどのプロデューサーとしても成功しました。わたしがピーター・アッシャーを知ったきっかけもリンダ・ロンシュタットのアルバムにクレジットが載っていたのを見たときでした。黒縁メガネにふわふわしたパーマネントヘヤーをしたやさしい面影はもしかしたらあっち側の人ではないかと想像しましたが、確かめるとやっぱりあっち側の人でした。衆道マンセイ。 19/12/14(波照間エロマンガ島)

ポールのポールも握ってたのかな? 19/12/14(石川浩司)

先日「アポロ13」〔1995年 ロン・ハワード監督〕という映画を再鑑賞したときのこと。月面調査ロケットのアポロ13号の打ち上げは1970年4月11日だったのですが、その1日前の4月10日にポール・マッカートニーがビートルズ脱退宣言をして世界的ニュースになったことが映画の中で描かれていました。トム・ハンクス演じるジム・ラヴェル宇宙飛行士の愛娘がポールの脱退宣言にショックを受け、「父のロケット打ち上げなんてどうでもいいわ」とロケット打ち上げを見に行くことを愚図るシーンがありました。

1970年というとわたくしは小学2年生でしたが、まだ幼かったので当時ビートルズ解散については知らなかったです。しかし、アポロ13号の爆発事故と地球生還のニュースは覚えています。ただ、同じ時期に公開された「宇宙からの脱出」という映画とアポロ13号事故について、しばらくのあいだ混同していました。こちらの映画も宇宙空間で事故に遭う宇宙飛行士の話なのですが、なぜか日本公開された時期がアポロ13号事故とほぼ重なり、フィクションとして製作された映画の内容に近いことが実際に現実として起きてしまったのだから驚きです。わたしはアポロ13号事故を受けて急遽「宇宙からの脱出」が製作されたものと長らく勘違いしてました。そんな想い出があります。 19/12/26(波照間エロマンガ島)

ポールのビートルズ脱退宣言の翌日だったのか! それは知らなかった。アポロ11号、13号は20世紀でも記憶に残る大きな出来事だしね。
ところでたまのポールといえばメロディメーカーの柳原。彼が脱退してもあとの3人でたまは8年間続けたが、もしビートルズも解散せずに、あとの3人で継続していたらどうなったろう?
楽曲的にはそれぞれヒットした「イマジン」「マイ・スイート・ロード」「オンリー・ユー」等がビートルズの楽曲として続いていったんだろーな。それはそれで凄いかも。 19/12/26(石川浩司)

1980年1月16日、ポール・マッカートニーが来日時成田空港で大麻不法所持で逮捕され、日本公演がすべてキャンセルになり、9日後に強制送還になった事件を覚えている方はいるでしょうか。当時わたしは高校2年生でしたがよく覚えています。高校の同級生のHくんが翌17日学校をさぼり、中目黒の関東信越地区麻薬取締官事務所に行き、取り調べから留置所に移送中のポールを目撃したと言ってました。

あとから知ったのですが、実はポールのこの来日時にYMOとのレコーディングセッションが予定されていたとの噂があったらしいです。当時ポール・マッカートニーのプロデューサーを務めていたクリス・トーマスが結婚していたのが元サディスティック・ミカ・バンドの福井ミカさんで、ミカバンドで高橋ユキヒロさんと同じグループだった縁でそのような話が進んでいたとか。現にYMOの「ナイス・エイジ」という曲では、ミカさんのナレーションボイスがフィーチャーされていますが。
クリス・トーマスはホワイトアルバム以降のビートルズのレコーディングセッションに関わっていたことでも有名ですが、もしもクリス・トーマス、ポール・マッカートニー、YMOとのコラボレーションが実現していたら、ロックの歴史は変わっていたかもしれませんね。 19/12/31(波照間エロマンガ島)

それが実現してたら・・・でも最近またちょくちょく来てるから、似たようなことは出来そうだけどね。紅白でYOSHIKIとKISSがセッションするようにね。 19/12/31(石川浩司)

私が初めてビートルズを聴いたのは、
小6の時、母がビートルズのカセットを買ってくれたのです。
その時の衝撃たるや、めちゃすごい!かっこいい!
私の音楽人生の始まりです。
その当時、新聞にラジオでかかるビートルズやソロの曲をチェックして、カセットにダビングして、
聴いていました。そんなに裕福でもないので、小遣いをやりくりして、CDを買っていました。

私の一番好きな曲は「タックスマン」です。
同じくらい好きな曲が「トゥモロー・ネバー・ノウズ」です。
なので、「リボルバー」派です。
「シーセッド・シーセッド」も好きです。
「レイン」も好きです。
アルバムとしては、「サージェント・ペパーズ」も好きです。
「マジカル・ミステリー・ツアー」も好きです。

「アビーロード」ももちろん好きです。

最近、「ホワイトアルバム」の新しいのを買ったのですが、
レコーディング風景を見れたのですが、
昔、「ホワイトアルバム」を買った時、
マルチトラックを使って、メンバー別々に録音していた、
というような、解説が書いてあったのです。
それが、最近見たレコーディング風景は、みんなで録音しているように見えました。

私は最近まで、人がなくなるということが、よくわかっていませんでした。
しかし、今はわかる気がするんです。
人がなくなるということが、どんなに悲しいことか。

この前、ラジオから「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が聞こえて、
ああ、ジョンはなくなってしまったんだ、ということを、感じ、
私は泣きました。

ライブの話をします。
私が初めてコンサートに行ったのは、
ポールが、「フラワーズ・イン・ザ・ダート」というアルバムを、発売したときの、
東京公演です。
スタンドが、振動したのを今でも覚えています。

最近の前々回の、ポールのコンサートに行きました。
ご高齢なのに、ギャンギャンに「ヘルター・スケルター」を演奏することができるとは!
すごい!
「アビー・ロード」が発売された時期に、ポール死亡説が、都市伝説として、流れたのに、
ポールが一番元気というw(嬉しい)
ポールのソロはイマイチと思っていた私ですが、
最近はむしろポールのソロはすごいと思い始めました。
プログレ的なのは、おそらく、ポールが一番です。
これから、ポールのソロを聴いていくのが、楽しみです。 20/2/24(マサラ)

俺の中高生時代は毎週ウイングスの曲がヒットチャートを賑わせてたね。
特に好きだったのは「シリィ・ラブソング」。はまったなあ。 20/2/24(石川浩司)

20/2/24の石川さん。
「心のラブソング〔Silly Love Songs〕」わたしもリアルタイムで聴き、大好きな曲でした。1976年に7週連続全米1位を獲得、ビルボード誌の年間チャートでも堂々1位をとりました。長期全米ツアーを行ない、アルバムもシングルもバカ売れしたんですね。
一方ジョンは前年長男のショーンが生まれたので育児イヤーに入り、音楽活動を休む時期にあたります。70年代後半はお忍びでよく来日し、軽井沢などでよく目撃されていたそうです。また高校の友人がホテルオークラでベルボーイのアルバイトをしていて、ジョン・レノン一家に会ったと言っていました。
1970年代はビートルズのメンバーたちは30代にあたりますが、それぞれ脂がのりきった絶頂期と言えるのではないかと推察します。 20/3/8(波照間エロマンガ島)

ビートルズメンバーほどあらゆることが詳細に記録されてる人たちも少ないだろうなあ。 20/3/8(石川浩司)

20/3/8の訂正。ショーン・レノンがジョン・レノンの長男と書きましたが次男の間違いでした、すみません。ジョンの長男はジュリアン・レノンですね。ジョンの先妻のシンシア・パウエルとの間に設けた男児で1963年生まれです。1980年代はミュージシャン活動も行なっていましたが、あまりぱっとしなかった印象があります。有名な逸話としては1968年ジョンがシンシアと離婚し離れ離れになってしまったジュリアンを励まそうとポール・マッカートニーが作った歌が「ヘイ・ジュード」だったという事実。はじめは「ヘイ・ジュール」と歌おうとしたら口がすべって「ヘイ・ジュード」になってしまい、こっちのほうがいいや、といってタイトルが決定したという話。小学校低学年のわたしは「ヘイ柔道?なにそれ?」と最初理解できなかった思い出があります。 20/3/16(波照間エロマンガ島)

ビートルズ後期では一番ヒットした曲かな。当時シングルとしては異例の曲の長さも話題になったよね。 20/3/16(石川浩司)

YouTubeにビートルズ楽曲の各パートをTAB譜プラス、フレットの運指を撮影した動画がアップされていて、最近よく観ています。ポールのベースは中期から後期にかけて、複雑なリフを作り出していて「すげぇな」といつも感心します。Something や With a Little Help From My Friends などは、普通に耳で聴こえるか聴こえないかくらいのところに隠し味的な音を付け加えたりしていて、50年近くビートルズを聴いているのに新発見がありました。 20/3/31(波照間エロマンガ島)

ベースはよく聴かないと分からないものもあるしね。若い頃は正直ベースの必要性がイマイチ分からなかった。今は一番好きな楽器かも。 20/3/31(石川浩司)

1966年6月、ビートルズが日本公演のため来日したとき、宿泊先の東京ヒルトンホテル〔現在のキャピトル東急ホテル〕の貴賓室に女性芸術家の篠田桃紅の抽象水墨画の作品が飾ってあったのをジョン・レノンが見て感動し「これは誰が描いたんだ!」とホテルの人に尋ね、篠田さんのところにビートルズからコンタクトがあったエピソードが好きです。篠田さんはその作品を描いた筆を売っている店を教えたそうです。すると「あの連中、筆を買いに行ってなにやら墨で絵を描いてましたよ」と答えていました。ビートルズを「あの連中」と呼んだのに爆笑しました。ちなみに篠田さんは1913年生まれで、2020年5月現在、107歳の現役の美術家であります。 20/5/11(波照間エロマンガ島)

興味ない人にはどんな大スターもただの人だよね。 20/5/11(石川浩司)

最近自宅で過ごす時間が増えたので、YouTubeで音楽を楽しんでいます。50インチのテレビモニターにYouTubeチャンネルが装備されているので、聴きたい音楽をセレクトすると、次から次へと自動再生で関連したミュージックビデオが再生されるのです。やはり青春時代に聴いた音楽としてビートルズははずすことはできませんね。
そんな感じで先日、1980年代前半よく聴いたパンク・ニューウェイブロックを聴いていると、レコードを何枚かもっていたThe Ramonesのことを想い出し、久しぶりに大轟音で聴いてみました。最高に気分が盛り上がりました! それでもってスマートフォンで彼らの来歴についてググってみると面白い事実を発見しました。

ラモーンズのオリジナルメンバーが、ジョーイ・ラモーン〔Vo〕、ディー・ディー・ラモーン〔B〕、ジョニー・ラモーン〔G〕、トミー・ラモーン〔D〕と全員ラモーン姓になっていることは有名なエピソードです。もちろんメンバー同士は家族ではなくそれらは芸名なのですが、もともとはビートルズがメジャーデビュー前のシルバー・ビートルズ時代に、ポールが「ポール・ラモーン」という芸名をつけて名乗っていたところから持ってきたんですってね。たぶん有名なエピソードなのでしょうけど知りませんでした、すみません。ハマ・オカモトさんの在籍するOkamoto'sも、メンバー全員「オカモト」姓になっているのは、ラモーンズからインスパイアされたっぽいですね。
たまが「いか天」出演時、知久さんがリーダーだったとアナウンスしたことに上記の命名ルールをあてはめてみると、石川さんはさしずめ「コージー・チク」という芸名になったのかも。あ、そうするとGさんも「コージー・チク」だ…だめだこりゃ。うそうそ冗句です。 20/5/24(波照間エロマンガ島)

「たま」はほんとはリーダーは決めてなかったのだけど、イカ天出演時に番組のアンケート用紙にリーダーを誰か書かなくちゃならなくて、便宜的に知久君にしたんだよね。誰もリーダーなんて責任を負いたくなかったからね(笑)。
またアマチュア時代は柳原がリーダーと言ってたこともあった。デビュー後テレビ番組で占い師には「この人(俺)がリーダーだ!」と言われたこともあった。
でもまあ、実質的な音楽リーダーは知久君だったけどね。 20/5/24(石川浩司)

20/5/24の追記。
そういえば1979年頃、渋谷のナイロン100%にお茶飲みに行ったとき、となりの席にサンフランシスコから来たというアメリカ人女性がいて、わたしが持っていた買ったばかりのラモーンズのレコードに反応し話かけてきて、ラモーンズ話で盛りあがったことがありました。
ボーカルのジョーイ・ラモーンは障がいがあり歩行が不自由で、あの独特のマイクスタンドに寄りかかってほとんど動かないステージアクションになったとか聞きました。ラモーンズの初来日公演は翌年の1980年、渋谷西武劇場だったか。以上、懐かしい高校時代の渋谷のナイロン100%での思い出。 20/6/2(波照間エロマンガ島)

泉谷しげるさんもちょっと足悪いんだよね。あまり分からないけど、そういう人もいるよね。 20/6/2(石川浩司)

1985年2月、初めてロンドンを旅行したとき、通称ダブルデッカーと呼ばれるロンドン名物の2階建てバスに乗りました。そのとき子供の頃から聴いていたビートルズの「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」の中間部のポールが作った24小節の歌詞が頭に響きましたね。「朝起きて櫛で髪をとかして階下に下りて紅茶を一杯、時計を見ると遅刻しそうなことに気づき、急いで2階建てバスに乗る。2階席で一服した・・・」というような内容だったか。
そのバスに乗った前か後かのどちらかで高架下の空き地で開催されていたフリーマーケットでセーターを購入したことを覚えています。 20/8/11(波照間エロマンガ島)

あの曲はジョンとポールの対比で見事な大作になってるよね。俺も好きな曲のひとつ。 20/8/11(石川浩司)

映画『Help!4人はアイドル』の挿入曲「アナザー・ガール」。
映画の中ではカリブ海のバハマ島のビーチでオケに合わせて「エアギター」する4人の姿が印象的でした。ビキニの女の子をギター代わりに抱っこしたりして、ちょっとエロかった。ポールがリードボーカルのナンバーです。この曲小学生のときから聴いていましたが、今ひとつビートルズの曲としては違和感がありました。リードギターがちょっと音が多くてうるさい印象を持っていたのです。のちのちビートルズの解説書を読むと、リードギターはポールが担当していて、ジョージが奏でるリードギターとは異なったタイプのギターソロやオブリガードのリフが聴こえたせいで、ビートルズの曲としては異端に感じたのです。レコーディング時にたぶんポールが「俺がリードギターやるから」と強引にジョージの仕事を奪ってしまったことが想像されます。そんなビートルズのナンバー「もうひとりの女」でした。 20/9/12(波照間エロマンガ島)

各メンバーが自分のパートじゃない楽器弾くのって面白いよね。 20/9/12(石川浩司)

タックスマンのギターソロをポールが弾いているのは知っているのですが、 ペーパーバックライターのギターは誰が弾いているのでしょうか?
あの鋭い音のギターはポールなんじゃないかと思っているのですが。 20/9/12(マサラ)

そうかも。研究本とかで調べれば出てくるかな。 20/9/12(石川浩司)

ジョージ・ハリスン『ジョージ・ハリスン帝国』〔Extra Texture〕。
中学1年のとき〔1975年〕に発売され、すぐにLPレコードを購入しました。A面1曲目の『二人はアイ・ラブ・ユー』〔You〕はシングルカットされ全米で大ヒットしたのを覚えています。
この曲、実は最初に聴いたときから違和感を感じていました。回転数が速くてジョージのボーカルのキーが高くなっていることに気がついたのです。自分のレコードプレーヤーが壊れているのかと疑いましたが、ラジオでは自分が聴くのと同じスピードで曲が聴こえたのでこれはOKトラックであることを知りました。元ロネッツのロニー・スペクターのシングル盤用にレコーディングした曲がボツになったので、ベーシックトラックを差し替えずにジョージのボーカルで再吹き込みしようとしたところ、演奏が女性用のキーだったためジョージは歌えず、そのためにテープスピードをおとしてボーカルを吹き込み、それを再生するときにスピードをあげてトラックダウンをしたので、ジョージの声が高く聴こえてくるのですね。

それにしてもアルバムタイトルの『ジョージ・ハリスン帝国』っていかがなものか、と購入した当時から不満に思ってました。東芝EMIでビートルズの宣伝担当をしてそのほとんどの曲の邦題をつけた高嶋弘之さん〔高嶋ちさ子さんの父上〕がまだ担当していたのかと思ったら、1970年に東芝を離れ、キャ二オンレコードに転籍しているので、彼が名づけたのではなさそうです。しかし「ジョージ・ハリスン帝国」は無いと思うんだけどなぁ。そんな想い出。 20/9/22(波照間エロマンガ島)

俺もこのアルバム買ったな。This Guitar(Can't Keep From Crying) は繰り返し聴いた大好きな曲。ジョージの曲には極端なハズレ曲がほぼ無い気がする。 20/9/22(石川浩司)

意外なところから「くだらない」ビートルズネタを入手しました。
先日、松村邦洋のYoutube 「ためにならないチャンネル」を閲覧しているとビートルズ情報が。
その日は、松村さんの「思い出の風俗ベスト10」という、52歳の現在までに心に残った=いい気持ちになったソープランド10選をあげていくというくだらない企画をカウントダウン形式で紹介していました。

日本全国のソープランドを紹介するなか、そして第1位が「大木戸ソープランド」でした。四谷大木戸門〔新宿区四谷四丁目〕近くにある店だそうです。松村が所属する太田プロダクションのすぐ近くにあるソープランドで、そこでの思い出を語っていました。
歴史のある老舗のこの店は、なんとポール・マッカートニーも来店したことのある店だそうです!!いやぁ、まっちゃんすごい情報投下してくれましたよ!!

でも、よくよく調べてみると、この「大木戸ソープランド」は1966年のビートルズの来日時に、ビートルズのロード・マネージャーであるマルコム・エバンスが行った店だそうです。そしてマルコムが大満足でホテルに帰ってきてその話をポールにすると、ポールは「行く行く、俺行くよー!」って熱望したのですが、ご承知のようにこのときのビートルズ来日時は厳重な警戒が敷かれていたので、ホテルからお忍びで外出することができず、この「大木戸ソープランド」へは行けなかったそうです。あ、当時は「大木戸トルコ」という名称だったかもしれないですね。ポール、残念でした。

マルコム・エバンスといえば、いつか書いたかもしれないですが、映画「ヘルプ!4人はアイドル」で、「ドーバー海峡はどっちですか」とビートルズのメンバーに質問する間抜けなスイマーとして出演していた人で、映画「レット・イット・ビー」の「マックスウェルズ・シルバー・ハンマー」では、ハンマーで金属をたたいている男としても登場していました。

「大木戸ソープランド」は、ビートルズのトリヴィアには欠かせない名前になりましたね。 20/10/4(波照間エロマンガ島)

行けてれば監獄よりももっと思い出の地になってたろうねー。日本的風俗の躍如。そこから曲が生まれたらサイコー。 20/10/4(石川浩司)

20/10/4の石川さん。
もしも1966年7月、ポールがこの四谷大木戸のトルコ風呂に行ったとして、このときの体験を歌にしたとしたら、という妄想をしてみました。

〔以下、妄想の内容〕
日本来日から2年後の1968年、ビートルズのホワイトアルバムのレコーディングセッションで録音された曲の中に「Orchid Girl 〔蘭の少女〕」という曲があったが、残念ながらボツになってしまった。
実はこの曲のタイトルには隠された意味があり、「オーキッド」と発音の似ている「オーキド」=「大木戸」、つまり「大木戸ガール」という歌だったのだ。ポールは日本で出逢ったトルコ嬢のことを思慕の念から歌にしたわけです。以上、もちろん嘘ですがそんな裏話があったらいいな、と思いました。 20/10/17(波照間エロマンガ島)

他の国でも風俗に行った歌が実はあるのかもね。ポールは結構知り合いの名前とかを歌詞に入れることが多いからね。「ラブリー・リタ」とかね。 20/10/17(石川浩司)

20/10/17の石川さん。
そういえばウイングスのアルバム「バック・トゥ・ジ・エッグ」〔1979年〕収録「ベイビーズ・リクエスト」という曲は、当時プロデューサーのクリス・トーマスと結婚していた福井ミカさん〔サディスティック・ミカ・バンドのボーカリスト〕のことを歌った歌だと聴いたことがあります。ポールはビートルズ時代、そしてビートルズ解散後もまわりの近しい友人たちのためにずいぶん作曲しているようですね。 20/11/1(波照間エロマンガ島)

固有名詞入れるのが作りやすいタイプな人なんだろーね。 20/11/1(石川浩司)

テレビ放映したビートルズ映画で違和感を感じたことをふと思い出しました。
「レット・イット・ビー」にかまやつひろしが全編解説ナレーションを入れて放送したヴァージョンがありました。この映画は1969年1月から2月頃、ビートルズが取り組んでいたニューアルバムのレコーディングセッション風景をマイケル・リンゼイホッグをディレクターとする映像スタッフが記録しているドキュメンタリー映画です。ビートルズが解散した1970年に公開されました。
映画では演奏シーンの合い間、楽器のセッティングをしていたり、メンバー同士でくつろいでいたり、メンバーが家族を連れてスタジオ入りしたりと、曲を演奏してないシーンもたくさんあったのですが、そこにそれらしいナレーションをムッシュが入れていました。その中でとても引っかかる表現があったのを小6か中1かのわたしは聞き逃しませんでした。

こんな内容でした。「ビートルズは撮影されたレコーディングテープを翌1970年『レット・イット・ビー』としてアルバムを発表しましたが、このアルバムは今ではビートルズのアルバムの中で最高傑作として評価されているのです」

はぁ?誰がそんなことぬかしたんじゃー!!と激怒したわたし。放送作家の書いたであろう原稿に怒りました。
この「レット・イット・ビー」として発表されたアルバムは、ビートルズのメンバーもプロデューサーのジョージ・マーティンも散漫な演奏の内容を悲観し、一時はお蔵入りが決定した経緯があったといいます。それでビートルズは、事実上の最終作品「アビー・ロード」の製作に入ったわけです。
そして「アビー・ロード」完成後にレコーディングテープをプロデューサーのフィル・スペクターが引き受けて完成させたものではないかー、と小6のわたしでも知っている事実を無視して「最高傑作」などと言われた日にゃ、怒るのも当然でした。

今から振り返ると、1969年初頭のビートルズメンバー同士の険悪な人間関係やバンドのムードがそのまま記録されている貴重な映像資料たりえていると思います。それでも「多重録音技術をもちいずに基本的には生演奏一発録音」「デビュー当時に立ち返ってアルバムを作ろう」というコンセプトで製作されようとしていたアルバムの理想ははかなく粉砕されてしまったのでしょうね。

それでも最近わたしは「レット・イット・ビー」のアルバムをまたよく聴くようになりました。けっこう好きなアルバムです。一生聴いていくのだろうなと思います。 20/11/10(波照間エロマンガ島)

日本では特にあのジャケットが有名なのと、あとやはり日本人がいちばん好きな「レット・イット・ビー」が入っているので、最初に手に取る人が多い気がするな。
俺も最近ちょっといいなと思うところも出てきたけど、それでも絶対にビートルズの最高傑作とは言えませんな。このアルバムを聴いて「これが最高なアルバムなのか」と思われるのはファンとして忸怩たる思いっす。 20/11/10(石川浩司)

1969年12月15日、ジョンとヨーコが世界十二大都市〔ニューヨーク、ロサンゼルス、トロント、ローマ、アテネ、アムステルダム、ベルリン、パリ、ロンドン、東京、香港、ヘルシンキ〕に同時に巨大ビルボードに掲示したメッセージ。

WAR IS OVER!
IF YOU WANT IT
Happy Christmas from John & Yoko

白地に黒文字だけ表示したこのメッセージはインパクトをもって世界中の人々に受け止められました。 当時ベトナム戦争は泥沼化しており、終戦の糸口はまったくつかめない状態でした。そこにこの大きな「戦争は終わった!」の一文。そして次の行「あなたが欲するなら」「ジョンとヨーコから、ハッピークリスマス」
このシンプルなメッセージは51年経った現在にも訴えかけるものがあります。このメッセージは「イマジン」の歌詞の世界にも通ずるものがありますね。ヨーコ・オノのアーチストとしての本領はこういうところに発揮されていると確信します。

また、それから2年後の1971年のクリスマスシーズンにジョンとヨーコは「ハッピー・クリスマス〔戦争は終わった〕」を発表しました。ハーレム・バプティスト教会聖歌隊の子供たちのコーラスをフィーチャーしたこの曲は、現在ではクリスマスのスタンダードソングとして世界中に知られています。
しかし今となっては信じられませんが、1971~2年当時はジョンは反戦運動家としての一面が強く、アメリカ合衆国政府から危険人物としてマークされていたそうです。ビザがなかなか発給されずにニューヨークで苦悩していた時期もあったそう。なのでこの曲を「額面どおり」聴くのと1971年当時の世相の中で聴くのとでは感興が異なる面もあるのかもしれないな、という思いがわたしにはあります。ベトナム戦争が終結したと言われるサイゴン陥落〔南ベトナム政府崩壊〕はそれから3年数ヵ月後の1975年4月30日のことでした。

日本の学生運動のシンボルであった「全学連」のペイント入り作業ヘルメットをかぶって演奏するジョンの画像を思い出しながら、この項終えます。 20/11/30(波照間エロマンガ島)

「平和を訴える」から殺されたという説も未だにあるよね。
戦争は一部の政治家と企業、武器商人の最大の収入源だからね。
平和になってもらったら困る奴らが世の中にはたくさんいるのだ。 20/11/30(石川浩司)

最近どこかで「ビートルズの出現によって、ギターのコードは全て出そろった」って読みました。
それはさておき、わたしはビートルズよりもクィーンの曲やライブ映像をよく聞きます。それも昨年からです。たぶんネパールへ行く飛行機の中で、二回 20/12/26(行き帰り)でボヘミアンラプソディを見ていたからだと思います。
どちらも四人組バンドで、活躍しているのは共に二人ずつというのも同じだ。 20/12/26(わいわい)

まぁ死んじゃうと活躍は出来ないからねー。ビートルズもクイーンもひょいひょいとジャンルの壁を越えていくのが痛快だったな。
日本だと一曲ヒットするとレコード会社から二番煎じを強いられることが多いからねー。 20/12/26(石川浩司)

水曜どうでしょう最新作「ヨーロッパ4 アイルランド」の帰り、例の四人がアビーロードを訪れました。今でも沢山の観光客がいました。いいなあー。一度行ってみたいなあ。 21/1/15(わいわい)

道よりもスタジオでレコーディングしたいな~。
たまのスタジオの前にあってアルバム名にもなった「東京フルーツ」も時々聖地巡礼するファンがいるらしい。 21/1/15(石川浩司)

20/12/28「おバカさん」の拙投稿の石川さん寸評より。

>ちょっと話は違うかもしれないけど、来年ビートルズの映画「ゲット・バック」が公開されるね。これは当時公開になった映画「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に撮影されたドキュメント映画。

わたしも「ゲット・バック」の予告編、見ましたよ!これは石川さんがおっしゃるとおり、楽しそうな映画ですね。

>ドキュメントがいかに編集でイメージ操作ができるかを如実に語っているかがわかる作品になりそうだ

首肯です。
わたしの推論ですが、ビートルズは1962年のデビュー以来、年を経るごとに録音機材が進化していったのにつれステージ活動よりもレコーディングのほうが楽しくなっていったのではないでしょうか。その数年間のうちにエフェクティブな音響効果を自由に多重録音で付加できるようになり、作品世界が一気に拡大することができました。その証拠に1966年のツアーが終わった時点でビートルズは演奏旅行の中止を発表し、これからはレコーディングだけをすると宣言したことでも明らかです。そしてご存知のように「リボルバー」「サージェント・ペパーズ」「アビー・ロード」・・・、とロック史上に残るアルバムを次々と発表していきました。

しかし、そのレコーディングセッションで自分が作ってきた曲をレコーディングするときの基本は、あくまで4人でスタジオに入って、自由に音を出しながらお互いに楽器で「会話」しながらヘッドアレンジを行ない、楽曲を完成させていったのではないかというのがわたしの仮説です。そのスタイルが映画「レット・イット・ビー」や2021年公開される「ゲット・バック」に存分に見られるように思うのです。ビートルズには膨大なアウトテイク集が海賊盤として流通していたことからもわかるとおり、最初は思いつくままに出鱈目に音を出し、お互いに冗談を言い、おしゃべりをし、時に踊り、時にコーヒーを飲み、時にほかのメンバーの楽器を代わったりしながら、曲を仕上げていったのではないか、と映画「ゲット・バック」の予告編を見て思ったのでした。
公開が楽しみであります。 21/1/15(波照間エロマンガ島)

ちなみにたまも、曲作りの時は外部者を一切入れなかった。メンバーだけの密談のような曲作りやアレンジをしていった。 21/1/15(石川浩司)

1990年代から2000年代にかけて、わたしは遊びやアウトドアスポーツのサークルを主宰しており、定期的にパーティーを企画開催していました。そこではレコードをもってきてDJプレイを行なったりもしました。好きだった選曲は、ビートルズ初期中期のロックンロールカバーの曲をダンスタイムにかけること。「ロックンロールミュージック」、「ディジー・ミス・リジー」、「のっぽのサリー」、「ロールオーバーベートーベン」・・・、名曲がたくさんありますネ。
でもその中でいちばん好きだったのが「バッド・ボーイ」という曲でした。オリジナルは1958年にラリー・ウィリアムスが発表したナンバー。この曲をかけるとパーティーはひときわ盛り上がりました。 「バッド・ボーイ」は1966年12月に英国で発売されたベスト盤「オールディーズ」というアルバムに、ほかのシングルの大ヒットナンバーばかりの中ぽつんと入っています。このアルバムはわたしがビートルズを好きになった1973年、「アビー・ロード」の次に買ったLPレコードでした。デビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」から始まる1966年までのシングルヒットはすべてこのアルバムで初めて聴いたのですが、今調べているとこのレコードはCD化されておらず、ビートルズの正式なアルバムコレクションにカウントされてないとのことなのです! なんていうことなのでしょう!じゃあ俺の好きな「バッド・ボーイ」のジョンのシャウトボーカルは誰が聴いてるの! という嘆きの気持ちでいっぱいです。「パスト・マスターズ」には収録されてるらしいですが。こんな曲です。
ttps://www.youtube.com/watch?v=u8hOfWs2Xmw   21/2/8(波照間エロマンガ島)

「バッド・ボーイ」俺も好き〜。
ロックンロールカバーだと、ジョン・レノンがレコード会社との契約上何かアルバムを出さなければならなくなって出した「ロックン・ロール」もシンプルだけど好きだなあ。 21/2/8(石川浩司)

子供の頃観てトラウマになりそうなくらいの怖さだった映画『ローズマリーの赤ちゃん』〔1968年 ロマン・ポランスキー監督〕。最近ケーブルテレビで放映されていたので何十年ぶりかで鑑賞しました。すると物語の舞台がジョンとヨーコ、ショーンの一家が暮らしていたニューヨークのダコタハウスということにびっくりしてしまいました。わたしはジョンが殺された1980年12月に初めてダコタハウスのことを知ったと思っていたのですが、実はすでに映画で見ていたというわけですね。この映画を皮切りに1970年代は様々なホラー映画が製作されましたが、一時期はつきあっていた友人の影響でたくさんの映画を観ましたが、基本的には怖がりなのでいまだにホラー映画は実は苦手な分野です。 21/3/12(波照間エロマンガ島)

昔から有名な建築だったのだねー。 21/3/12(石川浩司)

21/3/7の"俺の日常クイズ"が盗まれた〈当時一番持っていたアルバム〉レコードに関してのもので、答えが「ビートルズ」でした。
実は該当作品のwebアクション「『たま』という船に乗っていた 第5話」でN〈盗見森〉が手にしているレコードがビートルズの5thアルバム「HELP!」という再現ぶり。実際にビートルズのアルバムを持っていかれ、無事に取り戻せたのでしょうか? 2021/3/19(テングザル)

だいたいは戻ってきたかな。でも全部を把握してたわけじゃないから、何枚か抜けていてもわからないなあ。
まあその後自宅にプレイヤーが無くなったのでたまの事務所に持っていき、最後は「事務所セール」でファンの方達に買ってもらったりしたけどね。 2021/3/19(石川浩司)

20/5/11の追記。その篠田桃紅さんですが、2021年3月1日、老衰のため死去。享年107歳でした。篠田さんが生まれた1913年〔大正2年〕生まれの有名人としては、森繁久彌〔俳優〕、中原淳一〔イラストレーター〕、織田作之助〔小説家〕、新美南吉〔児童文学作家〕、丹下健三〔建築家〕、ロバート・キャパ〔写真家〕、バート・ランカスター〔俳優〕らがいます。 2021/3/31(波照間エロマンガ島)

さすがに大正生まれの人はほとんど鬼籍に入ってるね。うちの親父も今年93歳だけど昭和3年生まれ。「昭和生まれ」という括りなら、俺と親父は同じ世代か~。 2021/3/31(石川浩司)

1974年頃、ラジオ関東〔現在のアール・エフ・ラジオ日本〕で毎週土曜日夜7時から高崎一郎がDJの音楽番組が放送されてました。その中7時20分ころからビートルズコーナーがあったんですね。ビートルズの楽曲とエピソードを紹介するコーナーでビートルズの豆知識がぐんぐん増えていきました。今も覚えているのは高崎がハワイの空港でビートルズとぐうぜん会ったときの話をしていたこと。1960年代にはニッポン放送の社員として日米を往復しアメリカのアーチスト招聘の仕事に携わっていたという高崎についての知識はあったので、何年かは本気にしていましたが、会ったのが「1962年」と言っていたので、あとからこの話は眉唾だと疑い出しました。1962年というとビートルズの全英デビューの年であり、海外公演はデビュー前の西ドイツ・ハンブルグ以外ではやってなかったはずだからです。アメリカ進出で世界的なビッグスターになったのが1964年だから、1962年というのはありえないだろ、と思ったのです。しかし、もしもこれが間違いでなく本当に1962年にビートルズのメンバーが音楽プロモーターの高崎一郎と出会っていたことが真実だったならば、それはそれでロック史的に面白い出来事であると思います。 2021/4/29(波照間エロマンガ島)

単に年号を間違えただけのような気もするな。 2021/4/29(石川浩司)

日本人ジャーナリストとして最初にビートルズにインタビューしたのは、ミュージック・ライフ元編集長の星加ルミ子さんだったことはよく知られています〔1965年ロンドン〕。 星加さんの講演でのネタとして、1966年来日時にキャピトルホテルでのビートルズのエピソードを先ごろ初めて知りました。
ホテルの居室にジョンがステレオセットを持ち込ませて、そこで取り寄せた様々な日本のレコードを聴いていたそうです。そのときかかっていたのは宮城県民謡の「斎太郎節」。「えんやとっと、えんやとっと、松島の~」と始まる、漁師さんの大漁を乞う、有名な民謡です。替え歌として「前は海、うしろはハトヤの大漁苑」というハトヤのCMもわたくし世代はなつかしい。ジョンは「斎太郎節」を気に入って執拗に連続再生していたとか。するとその1年後、「マジカル・ミステリー・ツアー」に収録された「アイ・アム・ザ・ウォルラス」の後半にこの「斎太郎節」の「えんやとっと、えんやとっと」そっくりなフレーズがくりかえし出てきてびっくりしたと星加さんは言っていました。なるほどよく聴くと「斎太郎節」のように聴こえます。
そんな「斎太郎節」がビートルズにインスパイアを与えたのではないか、という話でした。 2021/7/29(波照間エロマンガ島)

えんやとっとの話は有名だよね。岡林信彦もそれで一枚アルバム作ってるしね。詳細は今回初めて知ったなあ。 2021/7/29(石川浩司)

B-52'sの「ロック・ロブスター」を初めて聴いた1979年、シンディ・ウィルソンのコーラス・シャウトがオノ・ヨーコのそれに酷似していると感じ、びっくりしたことがありました。表現するのはむずかしいですが、ファルセットで発声しながらすごい勢いでヴィブラートをかける歌唱法。

すると今日、ジョン・レノンの生前プレイボーイ誌のインタビュー〔1980年〕で、このことについてジョンが言及しているのをわたしは発見したのです。

〔以下、抜粋〕
僕らはバミューダのダンスクラブに居たんだよ。上の階ではディスコミュージックが流れていたから、下の階に行ったらB-52’sの「ロック・ロブスター」が流れてきたんだよ。分かるかい? まるでヨーコの音楽みたいなサウンドなんだよ。それで自分に言い聞かせたんだ、古びた斧を持ちだして妻を呼び覚ます時がきたぞってね。僕らは3週間で大体25曲書いたよ。〔ここまで〕

その出来事がジョンとヨーコのアルバム「ダブル・ファンタジー」に結実したというのです。なんと、ジョンは生前B-52'sを聴いていたんですね! このことはある意味、ロック史に残る偉大な邂逅とも言えるのではないかと思いました。どちらもわたしにとっては人生で多大な影響を受けたアーチストなので、このことについては何か書かずにはいられないモチベーションを得ました。 以上、ジョン・レノンがB-52'sの「ロック・ロブスター」にインスパイアされて「ダブル・ファンタジー」が生まれた話というでした。 2021/10/15(波照間エロマンガ島)

確かにあれはヨーコの感じだねっ。これはいい逸話。 2021/10/15(石川浩司)

ここ数日、1970年代にジョンとヨーコが別居していた時代、ジョンの愛人だったメイ・パンについてインターネットで資料をあたっています。

メイ・パン〔May Pang〕はニューヨーク出身の中国系アメリカ人で、ジョンとヨーコの個人秘書として働いていましたが、ふたりの夫婦仲が悪くなった1973年夏ごろから1975年1月ころまでの約18ヶ月間、ジョンのパートナーになり公私の行動を共にしました。この期間をジョンはのちに「失われた週末の時期」と呼んでいます。これはビリー・ワイルダーの1945年の同名映画から由来していると思われます。主人公のレイ・ミランドがアルコール中毒になりそこからの脱出を描いた映画で、ジョンもこの時期を「アルコール中毒」と自身を捉えていたのでしょうか。移住先のロスアンゼルスでキース・ムーンなどと放蕩の限りを尽くしたというような記事を読んだことがあります。

この時期ジョンのディスコグラフィーとしては、アルバム「ヌートピア宣言」の発売から、アルバム「ロックンロール」のレコーディング時期〔発売は1976年〕、「心の壁、愛の橋」のレコーディングと発売、という3枚のレコードの中に、メイ・パンの間接的痕跡、あるいはヨーコの不在によるジョン自身の表現の中心についてのヒントを探すことができるのではないかと思います。

この頃、わたしは小学6年生でビートルズを知ってすぐの頃でした。1960年代に偉大なレコードを多く製作したビートルズの足跡を追いかけつつも、リアルタイムでラジオからは4人のメンバーのソロレコードがヒットしている、そんな時代でした。メイ・パンの名前はそのときに知りました。ジョンの写真集に「ジョンの新しい恋人のメイ・パング」とキャプションがついて顔写真が載っていたことを覚えています。「心の壁、愛の橋」からシングルカットされた「真夜中をぶっとばせ」と「夢の夢」はシングルレコードを購入して愛聴しました。

当時思っていたのは、この時期はジョンにとって、ヨーコというインスピレーションの源泉が大きくなりすぎて重荷になり、そこから逃げ出して自分を見つめ直したのではないかと推測したことです。その印象は現在のメイのインタビューを動画サイトで見ても、変わりませんでした。18ヶ月間ものあいだ離れて暮らしたことにより、1975年1月「元サヤ」に戻った時に、二人はより深くお互いを気遣い尊重し、慈しむことができたのではないかと想像します。その証拠にその10ヶ月後の1975年10月9日、ショーン・オノ・レノンが誕生します。このことはジョンとヨーコの関係の変化を見ることができます。そしてそれからジョンは約4年間のあいだ音楽活動を休止し、ショーンの育児に励んだことからも、いろいろ見えてくることがあるような気がします。

さりとて、この18ヶ月間に起こったことは、マイナスなことばかりではなかったと私は考えます。ヨーコの重石〔おもし〕がとれたことでジョンは身軽になり、ヨーコと行動していたときにはありえない人間関係の展開があったからです。リンゴがロスアンゼルスで行っていたアルバム「リンゴ」のレコーディングには元ビートルズのメンバー全員が揃いました。同時にスタジオに4人は揃いませんでしたが、かなり接近していたことがわかります。また、4年間ものあいだ会っていなかった長男のジュリアンとの再会もこの時期はたします。ふたりはたびたび会うようになり、ジョンは当時11歳のジュリアンに楽器を買い与え、親子の関係を修復していったのはメイが裏でジョンをサポートしていたからで、彼女の功績のひとつではないかと今回知りました。

メイ・パンがジョンの想像力の源泉だったとは口を避けても言いませんが、この18ヶ月間にジョンとメイ・パンがお互い必要としたパートナーであったことだけは間違いないと思います。 そんなメイ・パンについての話。 2021/10/30(波照間エロマンガ島)

「メイ・パンと付き合いなさい」と指示したのが、そもそもヨーコというのが、また凄い話だよね。 2021/10/30(石川浩司)

2021/10/30の石川さん。

はい、メイ・パンはヨーコに呼び出されて「あなた、ジョンと付き合いなさい」と言われたそうですね。最初メイ・パンは「いやです」とそれを断ったのですが、結局はヨーコの掌で踊らされるかのように、仕向けられたかのようにジョンから告白されて付き合うようになった、とありました。

またヨーコは、18ヶ月間離れていたジョン・レノンと再会した1974年11月28日のエルトン・ジョンのマジソン・スクエア・ガーデンのライブについて、最近告白していました。
実はこのときジョンはサプライズ出演したので、当日出演するかどうかは外部の人間はだれも知ることはできなかったはずなのですが、そのことを前もって電話でヨーコに伝えたのは、なんとポール・マッカートニーだったそうです。「11月28日のライブにジョンが出演するよ」と。この話はびっくりしました。そしてエルトン・ジョンのライブにヨーコは行き、そこでジョンと再会しました。運命の赤い糸はこうやってつながっていったのですね。

その前段として、エルトン・ジョンは1974年にジョンの曲である「ルーシー・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」のレコーディングにジョンが応援にかけつけた御礼に、今度はジョンの「心の壁、愛の橋」のレコーディングにエルトンが表敬訪問し「真夜中を突っ走れ」ではバックボーカルを務めました。するとエルトンはジョンに「この曲が1位になったら競演してくれないか」と賭けを願い出ます。「1位なんか獲れるわけないじゃないか」とジョンは笑って否定しましたが、それがまさかの現実になってしまいました。1974年秋にヒットチャートの1位に輝きます。賭けに負けたジョンは、エルトンのマジソン・スクエア・ガーデンのライブにサプライズ出演したというわけです。しかし、このエルトンとジョンの「奇跡の競演」は、前述のようにジョンとヨーコの「奇跡の再会」の場面でもあったというわけでした。というわけで、今週のビートルズ、ちょっといい話、でした。 2021/11/14(波照間エロマンガ島)

「真夜中を突っ走れ」俺もシングルレコード買ったなあ。
あの頃はラジオのヒットチャートに、元ビートルズの面々がソロで入れ替わり立ち代わり入ってきて、面白かったなあ。 2021/11/14(石川浩司)

ビートルズで好きな曲、シー・ラブズ・ユーですかね。
初期の頃の直球な曲、それがかっこいいのです。
後にNHKの番組でパロデイされてました 2021/12/4(ズミ天)

俺は基本的には後期が好きだけど、初期のこういう勢いのあるのも大好き。
意外と一番聴いているのはファーストの「プリーズ・プリーズ・ミー」かもしれないなあ。 2021/12/4(石川浩司)

「She Loves You」はビートルズのオリジナルバージョンよりも先に、エドウィンジーンズCMのBad Boysのカバーバージョンを聴いたかもしれません。
1973年ころ土居まさるが司会をしていた日曜昼間のテレビ番組「TVジョッキー」で聴いたんじゃなかったか。Bad Boysは日本のバンドだった知識がありますが、そのCMではモデルの女性がジーンズを履く動作を映しただけで本人たちは出演してなかった記憶があります。
しかし、すぐに本家のビートルズのオリジナルを聴いたのでそれほど違和感は感じませんでした。 2021/12/31(波照間エロマンガ島)

ビートルズ入門編の曲としてはベストかもね。メロディもリズムもキャッチー。 2021/12/31(石川浩司)

2021/12/31の追記。
そうだ、この「She Loves You」は1964年1月からのビートルズのアメリカ大攻勢進出時にほかの大量な楽曲とともに同時期にリリースされたのですが、EMI系のキャピトル・レコードがバカ売れしすぎてプレスが間に合わず、スワン・レコードというレコード会社から発売されたということをビートルズ事典で知りびっくり仰天しました。13歳くらいのときにビルボード誌の1964年のトップヒットを調べてみると、この「She Loves You」は確かにスワンレコードとクレジットされていました。
1964年4月4日にはビートルズのシングル盤がビルボード誌のシングルチャートの1位から5位まで独占する奇跡的な事態が起こりましたが、キャピトル・レコードがビートルズの発売権を独占していたらこのように同じ時期に複数のシングルレコードが発売されることはなかったのではないか、と現在となっては思います。 2022/1/14(波照間エロマンガ島)

確かにそうかも。奇跡の快挙の裏側だね! 2022/1/14(石川浩司)

石川さんがお好きな ヘイ・ブルドッグ聴いてみました
イエローサブマリンの劇中歌なんですね。
かっこよかったです。 2022/6/10(ズミ天)

ジョンとポールが本当にノって楽しんでる感じがたまらないんだよなー。 2022/6/10(石川浩司)

20/10/4の追記。
ビートルズが来日した1966年6月29日から7月3日までの分刻みのスケジュールで何が起こったかについて検証したビデオをさいきん視聴したのですが、その中でロードマネージャーのマルコム・エバンスが四谷のトルコ風呂へ行って「気持ちよくなっ」て、その話を聞いたポールが「そこに行きたいー!」と鼻息荒くお忍びで外出した時の映像を発見しましたよ!!

https://youtu.be/Og6EmSUQaaY?t=712

それは1966年7月1日(金)日中のこと。ジョンとポールは別々に厳重な警備を抜け出してお忍びで外出した。ジョンは南青山の骨董屋で古美術品を購入して悠々帰還したのだが、ポールはすぐにバレてしまい、皇居の二重橋を見学するだけにとどまった。そのとき、何となくうかない表情をしているポールのスナップが笑える!世界のスーパースターと言っても、24歳になったばかりの青年ですからね。セックスしたくて仕方なかったのでしょう。 2022/11/11(波照間エロマンガ島)

現在のソープランドね。海外にはあまりないセクシャルサービスだよね。 2022/11/11(石川浩司)

ミュージシャンの山下達郎さんは、インタビューや雑誌のアンケートで、ビートルズの中で好きなアルバムとして「ビートルズ No.2!」〔1964年6月15日発売〕と「ビートルズ No.5!」〔1965年5月5日発売〕を挙げています。これらはその名の通り、日本におけるビートルズの2枚目と5枚目のアルバムで、日本で企画され編集されたレコードです。山下さんは、モノーラル盤の音像で鳴り響くジョン・レノンの歌声が好きだと言っていました。
当時はイギリスのパーロフォンレコードのオリジナルアルバムの他には、アメリカ・キャピトルレコード編集盤のレコードが日本で発売されており、ビートルズの正式なオリジナルアルバムが何かという統一性は希薄な時代だったと言えます。イギリスのオリジナルデビューアルバム「Please Please Me」とセカンド「With The Beatles」は、1966年に「ステレオこれがビートルズVol.1」「ステレオこれがビートルズVol.2」という来日記念盤として曲順を替えて発売されたのですが、オリジナルのレコードジャケットとオリジナルの曲順で正式に日本発売されたのは、ビートルズ解散後の1976年になってからでした。
ですから、あるネット上の書き込みで拝見したのですが、「ヘルプ!」を「ビートルズの5thアルバム」と安易に紹介した人がいることには私は抵抗があります。「ヘルプ!」は日本では6番目にリリースしたアルバムであり、アメリカに至ってはアメリカ独自編集の「HELP!」が発売されているからです。
こういうにわかファンが、Wikipediaの記述を鵜呑みにして、知ったぶって書き込みする状況を私は非常に憂います。多分音源すら聴いてないのでしょう。私は「お前は黙ってろ」と心の中で叫びました。 2023/1/23(波照間エロマンガ島)

ビートルズは各国でいろんな編集版が出ているので、コンプリートしようというマニアは大変だよね。
ヒットしたシングル曲がアルバムに入ってないものも多いしね。 2023/1/23(石川浩司)

はい、この「話題332 ビートルズ (2)」の上の方〈2021/3/19〉で、"公式"の発表に基づき"汎用的な情報"としてビートルズの5thアルバムを「HELP!」と紹介した者です。
ちなみに作画の原田高夕己先生は、その「『たま』という船に乗っていた / 第5話 『魔法の部屋』で起こった一大ハプニング!『Nの犯罪』」の中で、"日本編集盤アルバム"ではなく"英国盤公式オリジナル・アルバム"のジャケット〈に似た画〉を描かれています。つまり、5thアルバムの「HELP!」です。
話は変わり、日本のビートルズとも称される「たま」。1枚目のアルバム〈※以下メジャーに限る〉が「さんだる」で2枚目が「ひるね」、3枚目が「きゃべつ」で4枚目が「犬の約束」、そして5枚目が「ろけっと」……と来たところで口から泡を吹きながら「5枚目は『まちあわせ』だ!お前は黙ってろ!」と叫ぶ輩もいるんでしょうね。更に海外で本人たちも知らないオリジナルの編集盤が発売されてた日にゃ……しょうもな。しょうもないダンスを踊りたいくらい、しょうもな。しょうもない歌を君に捧げたいくらい、しょうもな。
今回、匿名を使わなかった点は評価できます。 2023/2/3(テングザル)

ミュージシャンが「何枚目」という場合、通常はベスト盤やライブ盤を含まないオリジナル盤の枚数を言うことが多い。最もベスト盤やライブ盤だけに収録されている曲なんかもあるけどね。たまなどは他にもマキシシングル(アルバムよりは曲数が少なく、シングルよりは多い、2~30分の作品)でしか収録されてない曲なんかもあるね。 2023/2/3(石川浩司)

私が一時期、もっとも繰り返し聴き続けたビートルズナンバーは「You're Going To Lose That Girl 〔邦題「恋のアドバイス」1965年、映画「Help!」収録〕」。

ttps://www.youtube.com/watch?v=vqpEZuv29qE

この邦題「恋のアドバイス」は1965年当時、東芝レコードで宣伝担当だった高嶋弘之氏がつけたと思われます。彼は高島忠夫氏の実弟にして、バイオリニストでタレントの高嶋ちさ子さんの実父であります。映画「Help! 4人はアイドル」ではこの曲のレコーディング風景をプロモーションビデオ風に編集しています。これがかっこいい!リードボーカルのジョンが1マイク、バックボーカルのポールとジョージはもう一つのマイクを共有して歌い演奏しています。 1975年、有楽町素晴座でリバイバル上映されたビートルズ三部作、中学1年の私は観に行きましたよ。ビートルズ解散からまだ5年、ビートルマニヤたちはスクリーンに向かって嬌声をあげていました。今となっては「どうかしてる」光景なのですが、当時はそれが当たり前でした。 2023/4/15(波照間エロマンガ島)

当時はそこそこ人気でもひとり一本マイクは使えなかったんだよね。モニターも無くて、観客の嬌声でほとんど音も聴こえなかったとか。今考えるとスゴい。 2023/4/15(石川浩司)

1970年代半ば、AMラジオ局のニッポン放送で「あおい君と佐藤クン」という10分間の帯番組が深夜0時から放送されていました。あおい輝彦さんとケメこと佐藤公彦さんという二人のシンガーが軽いおしゃべりをしている番組です。あれは何年くらい続いたのかな、けっこう長寿番組だった記憶が。
ふと思い出したことがあります。ある時、ビートルズ特集をやった時がありました。のちに「Past Masters」に収録されることとなる、レアなビートルズソング特集ですが、とても楽しかった。プロのミュージシャンの二人ですから、当然ビートルズにも強い思い入れはあり、珍しいトリヴィアを多く知ることができました。
その中記憶に残っているのがLP「レット・イット・ビー」収録の「アクロス・ザ・ユニバース」の別ヴァージョン。ビートルズの楽曲の中で唯一二人の女性がバックボーカルを担当しているというヴァージョンです。これは何がすごいかというと、EMIスタジオに遊びに来ていた素人の女性をジョンが「歌ってみない?」と誘い、その場でレコーディングをして曲になってしまったというめちゃくちゃレアなシロモノ!ジョンは頭に浮かんだ音像のイメージを今すぐにでも形にしたいと思ったんでしょうね、近くにいた女性を捕まえてバックコーラス歌ってくれ、と。・・・このエピソードは笑えます。そんなことをあおい君と佐藤クンは笑って語っていました。 2023/8/29(波照間エロマンガ島)

そのエピソード聞いたことあるな。たまも、指パッチン音を入れる曲で、俺が不器用で鳴らせなかったので、事務員たちに頼んで鳴らしてもらったりもあったなあ。 2023/8/29(石川浩司)

親父のお使いで 赤盤青盤を買った数カ月後に新たなリマスターが…
ちょっとしょんぼり 2023/12/23(ズミ天)

内容が違うなら持ってて良し。最新版が常に一番いいとは限らないぞっ。 2023/12/23(石川浩司)

最近はうちの妹がビートルズのDon’t Let Me Downをめっちゃ気に入っています。 2024/1/11(Kotosan Dog)

あー、割とシンプルな曲だね。俺はビートルズの中ではそんなに響かない曲だけど、割とヒットしたからそれが好きという人もいるんだろうねー。 2024/1/11(石川浩司)

ビートルズであまり馴染みのない曲3選

ビートルズはCDアナログレコードをほとんど所有していて全曲コンプリートしているのですが、それでも買ったことのないアルバム曲、シングルのB面曲などが何枚かあります。
今日は話題379「私のなんでもベスト3」のように、その中から3曲選んでみたいと思います。

1、You Know My Name 〔Look Up The Number〕〔1970年 シングル「Let It Be」B面〕
2、Only A Northern Song 〔1969年 アルバム「Yellow Submarine」収録曲 ジョージ・ハリスン詞曲〕
3、It's All Too Much〔1969年 アルバム「「Yellow Submarine」収録曲 ジョージ・ハリスン詞曲〕

1はビートルズのラストシングルのB面ということで、私は所有していません。「Let It Be」はアルバムで持っているのでシングル盤収録のこの曲までは意識がまわらなかったのですね。曲自身は現在聴いても、何か大味で魅力は少ないかなー。なんかビートルズの曲ではないみたいに聴こえます。

2と3は映画「Yellow Submarine」のサウンドトラック盤。こちらも私は所有していません。同名のアニメーション映画は鑑賞したことはあります。しかしアルバムのレコーディングは発売時の1969年ではなく、それより遡る数年間の「Sgt. Pepper」セッションあたりから1968年の通称「White Album」セッション前後までの曲が収録されているのですが、これは私の勘ですが、ボツになった曲が集まられたのではないかという選曲を感じました。それがアニメ映画を製作するということになり、寄せ集められたのではないか、と。その中「Hey Bulldog」などは出来が良いですが、全体的に雰囲気は暗く、レコーディングしたはいいものの、選曲の時点で削られたのではないかというのが私の想像です。 2024/1/27(波照間エロマンガ島)

俺はどれも結構好きだな。1はお遊びソング、2と3は一聴馴染みにくいけど癖になるメロディ。まあ代表曲には決してならないけどもね。ビートルズって、アルバムとシングルが別々のことが多くて、初期の大ヒット曲である「抱きしめたい」ですら、オリジナルアルバムには未収録だもんねー。 2024/1/27(石川浩司)

去年 大谷氏とメビウスのジョイントライブに行った時
青木タカオさんとお話する機会がありました。
そのとき きっかけは忘れましたが ビートルズのAI曲の話に。
たまに例えるなら 柳原さんの声をAIで抽出して新曲を作るものだねーと話しました。
しかし ビートルズの新曲には違和感を覚えました
なんか 墓おこしみたいな感じがしたからです 2024/2/2(ズミ天)

確かに最初違和感はあった。でもこれが出来るということは、今後亡くなった伝説のミュージシャンの楽曲が次々発表される未来は来ると思うな。バッハの新曲とかも。それが良いか悪いかは別問題として。 2024/2/2(石川浩司)

映画「ヘルプ!4人はアイドル」1965年のエンデイングタイトルはロッシーニの「セビリアの理髪師」の序曲。「ヘルプ」のバハマの海岸のシーンに続いてインサートされる。1975年に有楽町スバル座で劇場版を鑑賞した時にこのヴァージョンが登場して最高に気分が高揚した。 2024/9/27(波照間エロマンガ島)

うわー、映画はもちろん観てるけどそんな細かいところまで覚えてないなー。アマゾンプライムとかでやらないかなー。 2024/9/27(石川浩司)


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