第八章 船からひとり降りた



さて、デビュー後2年経ち、わずかな期間に沢山の事を経験させてもらった。
 おそらく普通では経験出来ないような事も。
 ランニング姿でテレビ番組のリハーサルをしていたら、森進一さんからあのしゃがれ声で、
 「寒くないかい?」
 と女性ファンなら卒倒するような声をかけてもらったり、
 五木ひろしさんが、背後から肩を揉んでくれたこともあった。
 ・・・なかなかフツーに人生送っていたら経験出来ないことである。
 ただ正直に言って俺は「アイドルごっこ」「芸能界ごっこ」にぼちぼち自分の中で違和感を覚えていた。
「宣伝」のためと割り切ろうとしても、物によっては割り切れないものもあった。
 たぶんそれは他のメンバーも、個人差はありながらも感じていたことではなかろーか。
 そしてこのままいくともしかしたら富士山どころか日本列島大噴火を俺がドガーンドガガガーンと起こし続け、被害者もどんどん増えていってしまう。義援金はどこからも出ないのだ。これはさすがにまずい。まずいでぇ~。
 そしてなんといっても基本的に他人にイメージとかを決められてしまうようなことがどんどん増えている気がしてちょっと怖かったのだ。
 そこでグータラな俺達もちょっと危機感を感じ、
「自分達から発信していかないとやばいね」
 という話をすることも増え、少々重くなった腰をあげ、素人ながら行動を開始してみることにしたのだ。とりあえず、できることは何でも最低限のスタッフと自分達でやってみようと思ったのである。それが一番フラストレーションがたまらないことだと思ったのだ。
 具体的に言うとすなわちそれは会社作り、スタジオ作り(レコーディング)、ライブツアーなどだった。

 まずは俺達はちょうど契約更新の時期でもあったので所属事務所を出て、自分達で会社とスタジオを作ることにした。
 これは別にその事務所にそれほど不満があったわけではない。
 ただ、どうしても間に入る人数が増えるので何かちょっとしたことをやるのでも、こちらがやりたいイメージを伝えても、伝言ゲームのように少しずつ変わっていってしまい、最終的に出来上がった物を見ると、必ずといっていいほど、自分達のイメージとは違う物になってしまう事が多かったのだ。
 例えば「さよなら人類」のシングルのジャケットとかも、最初打ち合わせしていたのとは随分違う物になっていて、途中段階のチェックをする時間もなく、あるメンバーなどは、
 「発売日を遅らせてでも変えたい」
 と申し出たがそれもかなわなかった。
 だからこれは別に他の事務所に入っていても同じであったろう。
 とにかく間に入る人数が多くなればなる程、特に悪意がなくても変わってしまうのだ。
 そして音楽に限らずCDのジャケットやら宣伝広告やらの表現に対しても、良い言い方をすれば、俺達は、
 「自分達のやりたい表現は曲げたくない」
 悪い言い方をすれば、
 「わがまま」
 だったのだ。
 だからここはいっそ自分達で出来ることはなるべく自分達でやっちまおーぜ~、ということになったのだ。
 肉体的に少々大変でも、精神的にホニャラカサッサと楽しい事を選んだのだ。

 その頃は収入もそこそこあったが一応年令も皆30近かったので、ちょっとは頭をくるくるくりんと使って、目先の事に惑わされず、将来の自分達の表現活動の為に4人で平等にお金を出しあって会社を設立し、武蔵村山に事務所兼スタジオを作ることにしたのだ。
 ちなみに会社といえば一応法的にも社長を決めなければならない。
 しかしもちろん率先して、
 「俺が社長をやったるでえっ! まっかせなさーい。グワッハッハッハ!」
 なんて~豪傑な奴ぁ、誰もいないのは皆さんも先刻ご承知の通り。
 そこで、ジャンケンで社長を決めることにしたのだ。
 みんなもちろん面倒臭がり屋だから正直やりたがってないのだが、負けた者が社長、というのは縁起が悪いので、
 「勝ち者社長ねっ!」
 ということで「せーのー」でジャンケン。そして何と一度の引き分けもなく、一発で勝負は決まった。
 俺、柳ちゃん、知久君の古株は頭どーりにしおしおの「パー」。
 そしてGさんだけが高らかにピースサインの「チョキ」。
 ここに有限会社たま企画室代表取締役、滝本社長が誕生したのだった。

 会社の経営云々の事については諸々あるのであえて省くが、話は数年後、その頃勤めていた社員が辞め、新しい社員を募集することになった時の言わば「たま企画室への就職」について書こう。
 ファンの人で「ただでもいいので働かせて下さい!」みたいな人も大勢いたのだが、そういう人はたいていメンバーの特定の誰かのファンだったりして、何かと逆に問題が起きそうだったので、あえて募集は地元の職業安定所みたいなところにだけ出していた。
 面接は別のふたりの社員が行い、俺達メンバーはあえて本棚の向こう側の見えない所に隠れていて、声だけ聞いていた。
 と、とんでもない奴が次々と応募してきた。

 まず最初に来た男性は、
 「それではそこにお座り下さい」
 と社員が促すと、
 「ちょ、ちょっと待って下さい。歯はどこで磨けますか?」
 「はっ? 歯磨きですか? えーとその流しのところなら・・・」
 「じゃ、まず歯を磨く・・・」
 シャコ シャコ シャコ
 シャコ シャコ シャコ
 俺達は笑いを堪えるので必死だった。
 面接に来て、いきなり社員を無視して歯を磨き始める奴がいるか~!!

 次に現れた男性は、ちゃんと椅子に座ってくれた。しかし・・・
 「えーと、自宅から会社まではどのくらい通勤時間がかかりますか?」
 「答える必要ない」
 「はっ!?」
 「答える必要ない」
 おいおーい、ここに喧嘩を売りにきたのか!?
 しかも答えづらいプライベートな家庭の質問とかならまだしも、こちらは通勤時間がどの位かかるか聞いているだけだぞーいっ!

 他にも、
 「なあんかぁ、業界のぉ、仕事ってえのもぉ、カッコイイかなぁ、とか思ってえ~」
 とかのケーハクを絵に描いたような奴や、逆に真面目過ぎて時間が不規則でアバウトなこの仕事は勤まらないだろーな、というケースもあり、人選ひとつでも大変だった。
 まぁその他にも実際やってみて会社経営、ってえのは少なくとも俺には合ってないな~と思った。「人を雇う」ってことが苦手なんだろーなー。自分の責任さえろくに持てないのに、他人の責任を持つような器量は俺にはなかったんでごぜーます~。
 Gさんも決して得意な方じゃなかったかもしれないが、他のメンバーが社長だったら、きっと今は亡き陸上のジョイナーの短距離走ぐらいのスピードであっという間にペシャンコに潰れてたな。よかった、よかった。

 さて、94年頃までメジャーでオリジナルで5枚のアルバムを出して来たところだったが、会社も一応あるわけだし、ここらでひとつCDも自分達で全部作ってみようと思った。
 そこで俺達は「地球レコード」というインディーズのレーベルを立ち上げたのだ。
 その頃からメジャーとインディーズの垣根も徐々に取り外されてきたこともあった。
 昔はメジャーはプロ、インディーズ(自主製作)はアマチュアというハッキリした図式があったが、それは壊れつつあった。この頃からその傾向はあったが、近年はプロでもCDが1000枚も出ない事もあれば、インディーズで200万枚を売るというバンドもあるという。
 俺達が立ち上げた94年前後はまだそこまではっきりはしていなかったし、もちろん宣伝とかは素人なので売り上げとかは若干落ちるかもしれないが、それより何よりインディーズでなければ出来ないことがあったのだ。
 それはまず、言葉の問題で出せなかった曲を入れたアルバムを作りたかったのだった。
 アルバム名はオリジナルの6枚目なので単純に「そのろく」とした。
 バンド結成以来、歌詞ももちろん自由に作ってきたのだが、いわゆる「放送禁止用語」が入っている曲が割合に多く、基本的にメジャーでは発表出来なかったのだ。

 この「放送禁止用語」というのは法的に決められたものではなく、あくまで各レコード会社、放送局等の「自主規制」なので、どの言葉が駄目、というはっきりした基準があるわけではないので、「この会社では駄目だったが、この会社ではOK」というものもあった。
 しかも時代の移り変わりで変わっていくものなので、なかなか難しい。
 例えば、古い映画やテレビアニメなどで、突然音声がなくなるのを聞いた事がある人も多いだろう。
 アニメの「巨人の星」で主人公の星飛雄馬が、
 「俺の父ちゃんは日本一の・・・だっ!」
 と啖呵を切るシーンなどがそれだ。
 これなぞは「昔は問題なかったが、今は差別用語」として自主規制がされているものなのだ。
 特に近年顕著なのは、身体的特徴と職業の蔑視的な呼び名である。
 そこで俺が思うのは、明らかにそういう事を蔑視や馬鹿にした表現を使用しない、というのは当然だと思うし、理解できる。
 しかしそういう意識が明らかにないとわかる風景描写の様な物や、貶める意味ではなく自分達もそういう存在である、という言葉まで規制されるのは表現者として少なくとも俺には我慢できなかった。
 何故「巨人の星」の「巨人」は良くて、その反対の言葉はなーんとなく誤魔化した表現になるのか?
 そこには基本的にその基準を決めている人自体に、差別意識が内包されていると思うのだ。いかんぞいかんぞ。

 中には「えっ? どこが問題なの?」と首を傾げるものもあった。
「ひるね」というアルバムに柳ちゃんが歌詞を書いた「牛小屋」という曲があり、歌詞カードにコーラス部分の「ヨンヨコヨンヨンヨ~ン」という、ま、一種のかけ合い言葉みたいな特に意味も持たない表現があったのだが、これが歌詞カードを印刷した後、「差別用語」と見なされ、なんとそれまで刷った歌詞カードが全面廃棄処分させられたのだ。
 「ヨンヨコヨンヨンヨ~ン」
 このただのノホホンとした言葉が何故駄目なのかわかる人ってどのくらいいるのだろう?
 もちろんメンバーの誰もわからなかった。
 この言葉が駄目な理由を聞くと、こうだった。
 「ヨン、というのは数字の4を想起させる。で、数字の4というのは『4つ足』というのを想起させる。この『4つ足』というのは牛や豚などの4つ足の動物のことで、それを捌く業者のことにも使われる。そしてそれは、昔は身分の低い者が行っていた。つまり身分の低い者を4つと言って侮蔑し、差別していた。よって、この歌詞は差別表現となる」
 説明を聞いても、ポカーンと皆ポカホンタスになってしまった。
 ・・・そんな謎解きみたいなことがわかるかーーー!!
 同じ「4」では知久君の曲「かなしいずぼん」の「四つの葉っぱ」の歌詞も問題となり、一応「葉っぱ」とはっきり謳っているので何とかなったが「ギリギリだったんだよ」とスタッフに言われた。だからもう少しでたまの中でも人気の高いこの曲は、お蔵入りさせられる可能性もあったのだ。
 で、真っ当に考えると、
 「4なんていうただの数字を屁理屈みたいにして差別用語としてみる、なんて、それこそ逆に差別のいらぬ喚起を起こさせてしまうのではないか?」
 となるのが普通であろうと思う。
 では、何故そんなまだるっこしいことまでして表現規制をするのか?
 その答えは明確なのだ。
 それによって、金儲けが出来る人がいるからなのだ。
 それ以上は、俺の口からは怖くて言えない。

 ライブもこの頃から通常のホールやライブハウスに加え「どこでもツアー」というドラえもんの「どこでもドアー」をもじったシリーズを始めたのだ。これは俺にはとてもしてやったりの楽しい企画だった。
 つまり普段なかなかライブが行われる機会のない山奥の村の公民館とか、また都市でも普段ライブ会場としてあまり使われない場所を選んで全国をまわるツアーだった。
 例えば、
・最初に仏様に一礼してから始めるお寺の境内。
・前座にお笑い芸人が出る昔ながらの提灯ともる演芸場。
・柱等に一切物が触れてはいけないので搬入搬出に警備員がずっと睨みをきかせていて大変だった重要文化財の建造物。
・廃館になった海沿いの寒村にある家族経営の映画館。
・昔ながらの桟敷席も風流な、松の緞帳が立派な芝居小屋。
・相撲の土俵のある神社境内。
・港脇の風がピューピュー吹きすさぶ赤黒いレンガ倉庫
。 ・人の家の庭をずんずん通ってその奥にある酒蔵の木の小さな階段を上がった二階。
・教会付属のみんなスリッパをペタペタ履いて入る養護施設。
・ピチャピチャと天井から水が滴り落ちる道なき洞窟を越えなければ辿り着けない谷間。
・交通手段がなく一番近いバス停から青年団の人達が小型トラックでお客さんをピストン輸送してくれた清流四万十川の上流水源地。
・子供がかわいくてさすがにダークな曲は出来なかった幼稚園。
・花道や隠しトビラを思う存分使わせてくだらない小芝居をさせてもらった由緒ある能楽堂。
・思わずフィーバーした「似合わねぇ~」ディスコ。
・野菜の腐った臭いがかすかにする大型トラックの荷台。
・段ボールが名産地の段ボールで出来たステージ。etc・・・。
 これはそれぞれがいわば「巨大な舞台セット」ともいえたのだ。
 そして環境が変われば見ているお客さんも、またメンバーも何となく気持ちが変わる。
 同じ曲でも変に愉快になったり、切ない感じになったりするのだ。
 音の響き方、照明のあたり方、そしてその会場ごとに全く変わる雰囲気。 まさにホール等では味わえない「一期一会」のライブシリーズであった。

 その中で印象に残っているライブをいくつか。
 徳島県では、「牧場の干し草倉庫」でやったのだ。
 といってもさすがに藁敷きとかではなく、場所を整理してステージもちゃんと中に鉄骨で組んでやった。出番待ちのステージ裏には「馬が入って来ますのでドアはきちんと閉めて下さい」の貼り紙が貼ってあったのだ。  今考えるとわざと開けておいて演奏中に馬がパカランパカラン会場中を走りまわるのも、とんだすっとこどっこいのハプニングで面白かったしれんが。ま、怪我人が大勢出てパニックにはなるがな。
 さてステージではおなじみ「さよなら人類」をやった。この曲の間奏はいつもインプロビゼーション、言わばフリー演奏なのだ。そこで俺はリハーサルの時から目を付けていたステージ後ろのイントレ(照明を吊るす為に組まれた鉄の骨組み)の上に、その鉄骨をスティックでカンカン鳴らしながら昇っていった。上に、上に。下では他のメンバーも即興演奏がノッテいて「なんかいい感じだな~」と思った瞬間、フッと何とも言えぬ感触に襲われた。
 ・・・足元に何もない。
 そう、あると思って歩いていた鉄骨の踏み場が、リハーサルの時は明るくて良く見えたのだが、本番はステージ以外はほとんど照明が当たっていないので、真っ暗な中、足場を完全に踏み外したのだ。
 ガラガラガッシャーーーーン!
 凄い音とともに俺は数メートルの高さを頭から落下した。
 気づいた時には足が何故かシンクロナイズドスイミングの様に天井を向いて開いている自分に気がついた。  そして咄嗟に思ったことは、
 「ステージに帰らなくちゃあ!」
 ということであった。
 ステージの下の奈落まで落ちていたが、なんとか舞台に這いずりあがった。
 この時、我ながら「たま」というバンドが「すげーなー」と思うのは、皮肉ではなく演奏が止まっていないことなのだ。
 ちなみに終了後見てみたところ、俺が落ちた部分の太い鉄骨は俺の首の骨によってグニャリと曲がっていた。つまり相当な衝撃だったのだ。しかしこの「グニャリと曲がった」のは鉄骨ではなく、俺の首の方だった可能性も実は充分に高かったのだ。
 だからま~、簡単に言うと、死んじゃってナムアミオダブツバイバイサラバイでも全くおかしくない状況だったのだね~。
 「たまのランニング、馬小屋で死ぬ」
 というマヌケな記事が新聞の片隅にひっそり載る可能性も高かったのだ。
 しかし舞台では柳ちゃんが、
 「♪何かが落下しているよ~」
 と歌っていた。
 俺もまず体の各部をそーっと動かしてみて、どこも骨折とか出血とかしていないことを確かめると、パーカッションに戻りながら、客が引かないように、
 「はーい元気ですよー」
 という風にいつもより2割増しで元気そうに踊りながら太鼓を叩きはじめ、
 「着いた~!」
 と叫ぶところを、
 「落ちた~!」
 と変えて演奏を続けた。
 ちなみに大きな怪我はしていなかったが、その夜には全身が打ち身でパンパンに腫れ上がり、打上げの飲み屋で、
 「すいません、氷を・・・」
 と言うと店員が水割りか何かだと思ってグラスに氷を入れて持ってきたので、
 「いや・・・全身が腫れ上がってるのでそれを冷やす氷を・・・」
 と言って氷を袋詰めにしてもらい、それを全身に当てて「ウウ・・・」と呻いたのであった。

 場所は言えないが、とある島でやった時は正直困った。
 その島に着いたものの、何故か一枚のポスターも貼っていないのだ。
 「?」
 そして会場は結構広い野外ステージだったのだが、大勢来るはずだった地元の青年団のお手伝いの人達が何故かほとんど誰もおらず、こちらのスタッフだけで細々と準備していたのだ。
 と、どうもこっそり後で聞いたところ、島の中の町村の中に「格付け」があって、他所者の俺達はそんなこと知らないものだから「あまり島内で立場の強くない町」にライブを依頼してしまったらしいのだ。
 そしてライブが決定したあと、島内の「格上の町」から、
 「うちの町に許可も得ずに何かやるらしいの~!!」
 ということになってしまったらしいのだ。
 そしてその町はビビッてしまい、結果、来るはずの青年団の人達がお手伝いとしても客としても事実上、誰も来られない状態になってしまったのだ。 
 で、ライブは決まってしまったので会場は確保されていたものの、島内でライブの宣伝も全くなく、お客さんはほとんど他府県からのいわゆる「おっかけ」の人達だけだったのだ・・・。
 ステージから客席を見ると、お客さんも元々少ないのだが、照明も充分に用意が出来なかったのか、誰もいない真っ暗な海に向かって虚空へ歌っているようで、これは違う意味で胸にジンジンしみたライブだったな~。

 しかしこの島の一件は島国である日本の縮図とも言えると思うのだ。
 利権やつまらないプライドをめぐって、井戸の中で蛙達が争っている。
 その中でより日本全国をまわって俺が痛切に感じたのが、どんな田舎にもある立派なホールである。
 「隣の町が2000人のホール作ったそうだ。こっちも負けちゃおれねえ。3000人のホール作るべえやっ!!」
 と、人口5000人しかない町や村が全く不相応なホールを作るのだ。
 ところが見かけのハードばかり立派に構えたものの、肝心の中身、つまりソフトの事には全く頭が回っていないのだ。
 だから客席が満員になることはまずない。
 立派なホールはメンテナンスにもお金がかかるので、当然ソフト、つまり音楽・芝居・舞踏その他の演者を呼ぶ予算はない。なんとか呼んでもお客が前一列だけ、なんてことだと、やはり演る方もあまり気分の良いものではない。二度と来ない。
 また演者側から企画しようにも、会場は立派なので都会とあまり変わらないホール使用料を取ろうとする。しかし客が入る見込みもないホールでやってもメリットはないのだ。
 かくして月一回程度、町主催の「カラオケ大会」だけであとはスケジュールがらがら。そのまま錆びれていくのだ。
 こういう光景を結構目の当たりに見る機会が多かったので、正直、
 「日本はまだまだ文化レベルが低いんだな・・・」
 と一抹の寂しさとともに思わざるを得なかった。
 「うちの町には古くて小さな施設しかないけれど、その分ホールを作るお金を演者にまわして、毎月様々な催し物を行います!」
 こんな町がひとつでもまともに出てこないものだろうか。
 町内の文化レベルも上がるし、演者もおそらく喜んで来るだろう。

   そして95年の「どこでもツアー・番外編」の会場が発表された。場所は寒風吹きすさぶ12月のニューヨーク。初めての海外公演でもある。
 しかしファンの人達にはもっと大きなニュースが同時に知らされた。
 柳原、たま脱退。
 「たま」はリーダーを設けていないバンドだったが、世間的には一番ヒットした「さよなら人類」を柳ちゃんが歌っていたので、柳ちゃんがリーダーだと思っていた人もいただろうし、一番ポップ的な部分を担っていたとも見られていたようなので、
 「柳原さんのいない『たま』なんて『たま』じゃないっ!!」
 「4人のアンサンブルが『たま』だったのに~」
 「もう私の中で『たま』は終わりました」
 という声も多く聞こえて来た。
 実はこの年の初頭には、メンバーには柳ちゃんから「脱退したい」の旨が伝えられていた。
 折しも阪神大震災とオウムサリン事件のまっただ中の渾沌とした時期の告白だった。
 「俺、ソロでやってみようと思うんだ。ちょっと『たま』とは違う音楽がやってみたくなったんだ」
 一瞬、他の3人の息が止まった。考えてもいない突然の宣言だったのだ。
 しかしこれは止めようのないことだった。
 メンバー内の感情のもつれとかならば修復、ということもあったろうが、やりたい事が変わってしまったのならそれはしょうがない。
 「たま」はいつでも自由な場所でありたかったのだ。
 気に入った寄港地が見つかったら、どこで降りても自由な船だったのだ。
 趣味が変わるのは人としてしょうがないことで、趣味が変わってあまり興味がないのに活動を続けるのは全くいい事ではないと思ったのだ。
 柳ちゃんも、考え、悩み、苦しんだろう。
 他のメンバーも柳ちゃんの重みのある言葉を聞いて、
 「・・・わかった」
 としか言えなかった。
 もちろん、その話が出た時、他のメンバーも一瞬「解散」がよぎったが、
 「まだ他の3人でも出来る面白いことがあるんじゃなかろうか」
 ということになり、バンドは継続、柳ちゃんは「脱退」という形になったのだ。
 他のメンバーも「たま」とは趣味の違う音楽やその他の活動をやりたいことがあり、それはそれぞれの「ソロ活動」ということで、忙しくて「たま」という形で以外動けなかったデビューからしばらくの間を除いて、その前後の期間も独自に時間を取ってやっていた。
 でもどうしても「たま」の活動が主になってしまうので、ソロに使う時間は限られてしまう。それでも他の3人はうまい事自分の中でバランスを取ってやっていたが、柳ちゃんは「やるとなったら、とことんひとつの事に専念するタイプ」でもあったので、「たま」との両立が難しかったのであろう。それはその人その人の性分だから仕方ない。
 それでも柳ちゃんはこの年の「たま」のスケジュールがほぼ決定していた為、脱退を先延ばしにしてくれ、1年間そんな様子はファンには一切見せずに、いつもの明るい柳ちゃんで、楽しくライブとかをやってくれた。
 俺ですらそれから数ヶ月経ってもいつもと全く変わらずライブを楽しんでいる柳ちゃんの様子を見て、つい、  「辞める、っていうの撤回したっていいんだぜ。まだファンの人には発表してないんだしさっ!」
 と言ったら、さっと柳ちゃんの表情が険しくなって、
 「俺がこれからひとりだけで頑張っていこうという時に、そんな腰を折るような事は言わないでくれよっ!!」
 と怒られ、
 「あ・・・すまん」
 と謝った。
 つまり俺も騙されるほどのプロ意識で、きっちり決まった仕事は楽しんでやってくれていたのだ。
 サンキュー柳ちゃん、かっこ良かったぜっ!!

 



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