第五章 狂乱の一年



    1990年。
 この一年はまさに「たま」に取って狂乱の一年だった。
 そもそも俺は自らある特定の趣味な音楽をやっているという自負があったので、
 「こういう音楽が好きな人が聞いてくれればいいや~」
 という感じだったのだ。
 メンバーの好きな音楽はそれぞれバラバラだったが、ビートルズ等を除けば、友部正人原マスミ小川美潮突然段ボール三上寛ヘンリー・カウロバート・ワイアットなど完全にテレビ、いやラジオからですらまず流れてこないようなマニアックなミュージシャン。悪い言い方をすれば商業的にみれば決して成功しているとはいえない「我が道を行く」人達ばかりだったのだ。
 その人達の音楽を真似したり目指そうというものではないにしろ、聞いてきて影響を受けてきたのである。
 そんな自分達の音楽がポピュラリティを獲得するとは全く思っていなくても不思議ではなかろう。
 しかしこの年、元日もそして大晦日も俺達は武道館のステージの上にいたのである。

 とにかくいきなり台風の中にポーンと放り出されたようなものだったので、猪突猛進といった感じでいろんな人間がスイートなボイスをかけてきたり、満面笑顔でワッハハハハッと肩を叩きながら近づいてきたりしたが、俺達には誰が本当に俺達の事を真面目に理解してくれるのかもわからなかった。
 ひっきりなしにやってくるオファーに、もう俺達は考える余裕もなくなっていて、とりあえず知り合いになったケラさんのいるPという事務所に逃げ込むように入った。
 本当はもっとゆっくり考えて、いろんな条件を比較して、人柄を見てというのが正しかったのだろうが、この時の俺達はとにかく、
 「誰か処理してくれー。何が何やらわからんわいーーーー」
 状態だったのだ。
 とにかくまだデビューもしていない時から、CMは決まる、雑誌のグラビアは決まるで、そのギャラ交渉など相場も何もわからないのだから自分達でできるわけないのだ。
 そんな話が毎日のようにふって来ていたのだった。

 さて、その頃会ったのが、竹中労という人であった。
 ザワザワと集まって正体が掴めないマスコミ関係者の中で、唯一実体も知れ、また「たま」を冷静に見て評価してくれた人だったのだ。
 実はその時俺はテレビとかをほとんど見ていなかったので名前ぐらいしか知らなかったのだが、硬派ジャーナリストとして、また鋭い論客として様々なメディアで長年に渡って活躍していた人だったのだ。
 竹中さんにはいくつかの専門分野があったが、そのひとつが「芸能」だった。
 そして基本的に竹中さんは3つの芸能しか認めていなかった。美空ひばりビートルズ沖縄音楽である。それが4つになったという。すなわちその4つめが「たま」だと言うのだ。
 俺達はあまりの評価に、
 (いくらなんでも、いや、嬉しいんですけどそれは買い被りでしょう・・・)
 と正直思っていた。
 しかし竹中さんは、
 「いや、君達こそ本物だ。硬派でならして数十年『芸能』を観てきた俺が言うのだ。俺の目が狂っているというのか! 君達こそ『芸能』の原点だ!」
 俺達は面映ゆさを越えて、何を言っていいかもわからなかった。そして、竹中さんは言った。
 「俺は癌で余命一年だ。最後に『たま』の本を書く!」
 これには吃驚した。いっ、いや俺達なんかの為に大事な余命を使わないで下せえ~、と思ったが口にすることは流石に出来なかった。
 ちなみに本当に竹中さんにとって「『たま』の本」という本が最期の本になってしまったのだ・・・。
 とにかく余命という期限がはっきりしているので、「『たま』の本」の取材はいつもだいたい極限状態で行われた。神戸から福岡に移動などという時など、わざと新幹線も飛行機も使わず、船で移動し、強引に時間を作ってほとんど寝ずにインタビューを受けたりした。そして竹中さんの横には常に医者とナースがぴったり張り付いて容態の確認をしながらそれは行われた。
 まさに命をはっての取材だった。
 竹中さんと言えば世間的には「怖い」イメージがあるらしいのだが、こちらに予備知識がなかったせいか、俺達の前では終始ニコニコした、好々爺のイメージだった。
 今でも地方などで年輩の人に話しかけられることがある。
 「竹中さんはどんな人でした?」
 ある種の文化人の人達にはカリスマ的存在であったのだ。
 しかしもう少し時間があれば、プライベートの付き合いも出来、もっと色んな話も聞けたろうが、実質的にインタビュー等の時間だけでタイムアップになってしまったのは、本当に残念だった。
 最後に俺達が竹中さんに会ったのは沖縄のホテルだった。
 竹中さんの体は病気のせいで、とてもとても小さくなっていた。

 90年5月5日、「さよなら人類/らんちう」でメジャーデビュー。オリコンチャート初登場1位。新人が初登場で1位を獲得するのは16年ぶりだか18年ぶりだかと言われた。
 が、正直そんなに強い感慨は実はなかった。
 その前からすでにテレビにもたくさん出ていたし、騒がれかたも異常だったので、嫌な言い方に聞こえるかもしれないが「そういうこともあるでしょーな」という感じだった。
 また、NHKに歌で出演するには、NHKのオーディションというのがあり、それに通らないといくらメジャーで大ヒットを飛ばしていても歌を流せない、という決まりがあるのだが、そのオーディションを受ける前に俺達はあるNHKの番組で歌を披露したことがあった。
 何故それが出来たのか?
 それは番組が「音楽番組」ではなく「報道番組」だったからである。
 つまり歌云々の前に「たま現象」という言葉の社会現象だったのである。俺達は社会的なニュース扱いだったのである。
 それは何も俺達というより世間的に「バンドブーム」と言われる時代で、いつのまにかその「バンドブーム」の代表、寵児として神輿の上にエッホエッホと祭りあげられてしまったのだった。
 なのでよく取材でも、
 「現在のバンドブームについて、どう思われますか?」
 というような質問が必ずあった。
 それについて、残念ながら俺達はいつも端切れの悪い返答しか出来なかった。
 何故ならそもそも「たま」はバンドブームだからバンドを作ったわけではなかったからだ。すでに「たま」結成後、6年も経っていたのだし。
 さらに「バンドやろうぜ!」という感じの雑誌も盛んに創刊されたりしたが、そもそもの「たま」の出来方を読んでもらったのでわかると思うが、元々ソロで活動していた面々が、何となくバンドになってしまったのである。だから「バンドやろうぜ!」なんてノリではもちろんなかったし、バンドブームと言われてもむしろ困惑した。ブームだからバンドをやっているのか、と思われるのは少なくとも俺としてはあまりいい気持ちがしなかったのが本音だったからだ。
 とにかくその頃メンバー同士で常に確認していたのは、
 「こんなことは一過性の物なんだから、流されずにちゃんと自分でいよう」
 ということであった。
 それでも船はかなりの濁流の中に放り込まれていたので、舵を取るのも必死だったのだが。

 ある音楽番組に出演する為、俺達はテレビ局を訪れた。
 打ち合わせの時、いきなり言われた言葉が、
 「本当に演奏するんですか?」
 俺達は「?」と一瞬理解不能の状態に陥った。
 (何をこの人は言ってるんだ? その為に今日ここに来たんじゃないか)
 そして番組が始まって、すぐにその言葉の真意が氷解した。
 つまり本当に演奏していたのは、おそらく「たま」だけだったのだ。
 あるバンドが演奏を始めた。
 しかし、ギターやベースのシールド(コード)はどこにも繋がっていないのだ。
 だがドラムだけはどうしても音が出てしまう。
 曲とは全くズレたリズムのドラムの音が会場に鳴り響く・・・。
 でもトークコーナーで待つ俺達の横にあるモニターには、そのズレたリズムのドラムとは全く違う、抜群に上手い演奏が流れていた。もちろんお茶の間にもこの音が流れているのだ。
 その時はでも、せめてボーカルだけはちゃんと歌っていると思ったが、よく考えてみると、後ろのリズムのズレたドラムの音だって少しはマイクが拾ってしまうはずだ。
 ということは・・・。
 次に、ピアノ一台に合わせて歌手が歌う、という曲があった。
 モニターからはシンプルなピアノに合わせてしんみりとした演奏。
 しかし、目の前のピアノからは、何の音も出ていない・・・。

 こんなこともあった。やはり生放送で演奏していたら、突如知久君のギターの音が出なくなったのだ。咄嗟に知久君は、自分のボーカルのマイクに少しでもギターの音を入れようとした為、なんか凄い猫背の奇妙な格好で演奏するはめになってしまった。
 その後、
 「受け狙いであんな変な格好で演奏したの?」
 とかまで人に言われてしまった。
 しかし通常のライブでさえ、機材のトラブルで楽器の音が出なくなったり、ハウリングを起こす(急にキーンという大きな音が鳴る)、なんてのは日常茶飯事だ。なおかつそれにテレビの場合は放送の為のコードが増えるのだから、よりトラブルが起こる可能性は強くなるわけだ。
 なのに、何故他の人達にはそういうトラブルがほぼ起こらないのだろー。
 よーく考えてみよう。

 俺は例えば、激しく踊りながら歌うアイドルグループなどは、いわゆる「口パク」で全然かまわないと思う。というか実際やってみればわかるが、バク転とかした直後に普通に息も切らさず歌を歌うなんてまず無理だし、一瞬ならともかく丸々一曲となると、どうしたっていくら若いとは言ってもゼイゼイした呼吸音が入ってしまうはずだ。
 だが、アイドルは「音楽」を売るのではなくて「イメージ」言い方を変えれば「夢」を売るのが仕事の本筋だと俺は思うのだ。だからそれを壊すようなことはファンも望んでいないと思われるから、別に本当に歌っていなくたってそれは別にかまわないと思う。
 ただバンドとかで「音楽の実力」とかで売っている人達がそれをやったら駄目だろー。というか、ばれた時の格好悪さはないだろう。
 ま、人にはそれぞれ考えがあるから本人がそれで良し、というなら余計なおせっかいだろーけども。俺はそれは相当格好悪い事だと思うけどなー。

 それからアイドルがみんな本当に小さいのに驚いた。特に女子。
 たいていクラスで前から3人目まで限定、みたいな感じだった。
 そしてイメージというものは怖いよー。
 俺と知久君は実際は身長は3cmしか違わない。
 ところが俺はとてつもなく巨大な相撲取りのように思われていて、逆に知久君は猫背ということもあるかもしれないが、凄く小さいコロポックルみたいな人だと思われていた。
 なので俺は取材やラジオに行く先々で、
 「石川さん、背、縮みました?」
 とよく聞かれた。
 フツー背が縮むというのは、そーとー老人になってからだろう。
 俺の背は中学二年で止まったまま、伸びても縮んでもいません!
 でも傑作な話といったらそれを作った本人には悪いが、知久君は物凄く小さい人だと思われていたおかげで、
 「知久さんの為に一所懸命セーター編みました。着てくれたら嬉しいな・・・」
 というファンレターとともに入っていたのは、
 「これ、リカちゃん人形の衣装かなぁ・・・」
 という物ばかりだったのだ。
 着たらおそらく、知久君の体締め付けられて死にます・・・。

 それはともかく、テレビもそうだが、週刊誌とかもひどいことがあった。
 「その時『たま』の○○はこう言った」
 って、おめーのところそもそも取材に来てねーじゃねーか。
 取材に来てないのに「こう言った」って・・・。
 また「僕には妻が! 僕には子が!」
 とまるで一大スクープのように取り上げられたこともあった。
 当時すでに俺とGさんは結婚しており、Gさんには子供もいたが、別に隠していたわけでもなんでもなく、昔からのファンの人はみんな知っていたし、インタビューで聞かれれば、それまででも普通に答えていた。
 それがその雑誌は「たまの音楽について聞きたい」というようなことでインタビューを受け、音楽についてもかなり時間を割いて話しをしたのだが、雑誌に載ったのは最後に付け足しの風を装って聞かれたプライベートの質問であり、それが「スクープ」と書かれてしまうのだ。
 そしてあれほど時間をかけてインタビューし、こちらも熱心に語った肝心の音楽の事については、ほとんど触れられていなかった。

 あと、確かに内容は一応近いのだが、
 「僕はあんまり大きなドラムの音とかが苦手だったので・・・」が、
 「わしゃあ、ドラムなんて大っ嫌いじゃけんのうっ!」
 と全くキャラクターが変えられてたり、一部だけが極端に強調されることも多々あった。
 俺は九州育ちじゃないやいっ!

 そうかと思うと、ある新聞の取材など、
 「今『たま』というのがブームらしいから、取材してこい」
 と上から言われたのか年輩の新聞記者が苦虫を噛み潰したような顔で取材場所にやってきて、第一声が、
 「ところであんたたち、何なの? お笑い? 芸人?」
 って、俺達が音楽をやっていることすら下調べしないで平然とそっくり返って、
 「仕事だからしょーがなく取材してやってんだよ」
 ってな見下した様な態度でやってきたりもした。
 人を呼びつけておいてそれはないじゃろ~。ほーいほーい。

 なので如何にマスコミを盲目的に信じてはいけないかはよーく勉強させてもらった。
 まぁ、もちろんこんな取材だけじゃなくて、ほとんどは真面目な取材だったが、音楽誌よりも一般誌の方が取材が多かったというのもこの頃の状況を表している。
 ちなみにあの「現代用語の基礎知識」という本にも「たま現象」ということで載ったのだ。
 俺達のことが、その時期「基礎知識」として社会人ならば知っていなければならないジョーシキということだったのだ。だから、その頃就職試験を受けた人なぞは「現代を語るキーワード」として、興味が全くなくても、歴史の年号を覚えるように「たま・・・きのこ頭とランニング」などと丸暗記した人も現実にいるかもしれないのだ。 うははは~、すまんのー!

 さて、シングルに引き続きアルバムも出す話も当然あり、俺達は「アレンジ作業の為に合宿させてくれ!」と言い、5日間ほど千葉の海辺の音楽スタジオ付きのホテルに合宿した。
 そこで俺達が実際したことは、昼間っからグーグー寝ることだけだった。
 何せ全員、精神的にも肉体的にも疲労困憊していたのだ。
 見張りスタッフは会社に入りたてのまだ若い現場マネージャーだけだったので、
 「なんかやったらどうでしゅか?」
 とか多少は言って来たが、そこはこちらが年上である。
 「まぁまぁ、W君。ゆっくり休息しないといいアレンジも思いつかない、ってもんだよ」
 「そんなものでしゅか・・・」
 と丸めこむぐらいはお手のものだった。

   ちなみに最初のシングルが出た一週間のスケジュールはこんな感じだった。
 5月5日 昼・取材 夕方~深夜・「たまの本」取材 深夜~翌朝・レコーディング
   6日 朝寝ずに神戸へ移動 夕方・ラジオ 夜・ライブ 深夜・取材
   7日 朝・テレビ 昼・ラジオ4本、取材 夜~深夜 船上にて「たまの本」取材
   8日 朝小倉着福岡へ移動・キャンペーン 昼・ラジオ2本、6誌合同取材 夜・ライブ 深夜・「たまの本」取材 翌朝まで各自雑誌原稿執筆
   9日 朝・ラジオ 昼・テレビ 夕方・ラジオ 夜・広島へ移動
   10日 朝・テレビ 昼~夕方 ラジオ3本 夜 ライブ
   11日 朝・大阪移動 昼・ラジオ 夜・ライブ 深夜・ラジオ

 こんなことを続けていたら、創作どころではなく、単に消耗し、そして消費されてポイと神田川にでも捨てられるのがオチだと思ったのだ。
 でも忙しい中での秘密のグータラ。これはかなり快楽度高かったですな~。ホホホ。
 ちなみにW君で思い出した。
 この時はメンバーにはいつもW君が付いていたのだけど、彼がちょっと変わっていたのだ。
 夜になると、寒いので毛布を身に纏い、ずーっと合宿所の前の道に座りこんで空を眺めているのだ。
 「何見てるの?」
 と聞くと、
 「UFOでしゅ」
 と答える。
 「あっ、ほら石川さん、あそこ、あそこっ!」
 言われた方を見ると、明らかに飛行機が飛んでいる。
 「あれ・・・ただの飛行機じゃん」
 とキッとこちらを向いて、
 「飛行機型のUFOなんでしゅ!」
 「・・・・。」
 さらに眺めていると、また、
 「あっ、石川さん、あれは間違いないでしゅ!」
 「えっ!? どこどこ?」
 しかし夜空には星しか見えない。流れ星すら見えない。
 「えっ? わからないんでしゅか? あのちょっと大きめな星の右側でしゅよー」
 「・・・俺には普通の星にしか見えないけどなぁ。動いてる?」
 「動かないUFOなんでしゅ!!」
 「・・・・。」
 俺は静かにその場を離れていった。

 酒のつまみを買い出しに行った時も、
 「今日は僕が運転するでしゅ」
 というのでまかせたが、どうも運転がおぼつかない。
 「あっ、そこじゃない。ちょっとバックして、右の小道に入って」
 すると、きっとこちらを見るや、
 「駄目でしゅ!」
 「えっ、何で?」
 と聞くと、
 「僕は運転は直進派なんでしゅ!」
 「・・・・。」

 それからこの合宿の時ではないが、地方であるライブが終わったので、
 「W君、みんなで軽く飲みに行くけど、行かない?」
 「駄目でしゅ! 僕はこれからまだ事務仕事がたまっているんでしゅから。みなさんのように僕は暇じゃないんでしゅよっ!」
 というと、足早にホテルに戻っていってしまった。
 翌朝、ホテルをチェックアウトし出ようとしたらホテルの人が走ってきた。
 「すいません、W様・・・」
 「んっ? 何でしゅか?」
 「あのー、お部屋代の方は前払いでいただいておりますが、夜中に御覧になられた有料ビデオの方は個人払いとなっておりますので・・・」
 「・・・・。」

 でもこんなW君の存在は、逆にその頃のキチキチした状態の俺には、なんか和みになっていたのは確かだった。空港の前で荷物を全部バラまいて飛行機ピューンと行っちゃったこともあったけど、あれも大きな意味でノー・プロブレムだったよ。俺はW君のドジさに、笑わせてもらって精神的に楽だったことも多かった。皮肉とかじゃなくて、本当にありがとう、W君! 

 さて、大晦日はレコード大賞の新人賞を受賞の為武道館へ、それから紅白出演の為NHKホールへ。実は紅白も当選確実が出た時「ちょっとめんどくさいな~」みたいなことをメンバーがスタッフに洩らしたら、目をひんむかれて驚かれ、とんでもないという感じで、さらに、レコード会社の担当の人には、
 「レコード大賞から紅白へ車を走らせるというのは、担当に取って最大の夢なんだ。頼む!」
 とまで懇願され、
 「まー、普通の音楽番組に出ると思えばいいか~」
 と思って出た。驕っていると思われるかもしれないが、本当に「権威的なもの」が基本的にメンバーは好きではなかったのだ。
 ただし紅白出演はその後、地方に行けば行くほどひとつの「勲章」のような感じでライブがやりやすくなった事はあるかもしれない。
 で、俺達の興味はもっぱらその頃話しに聞いていた、
 「武道館からNHKまでは信号が全部青になる」
 という噂の真相であった。
 つまり、レコード大賞も紅白も生番組で、レコード大賞の番組が終了して10分だか15分だかで紅白のステージに立たなければならないので、それに間に合わせる為に、警察が特別に信号を全て青にしてくれる、という噂であった。
 結果は、半分は本当で半分は嘘であった。
 というのはハイヤーの運転手さんに聞いたところ、確かにそういう信号操作は多少してくれるそうなのである。  但し、それはあくまで「車がスムーズに走った場合、すべて青の状態で走れる」ということなので、途中に別の車が割り込んできたりした場合、その計算が狂い、そこまでの調節は出来ないようであった。事実、ほとんどは青で行けたが、一ケ所か二ケ所はひっかかった。

 紅白については、正直「あわただしかったな」ということぐらいしか覚えていない。
 ただ、俺達の前の出演が「ピンクレディ・ヒット曲メドレー」で、メドレーのあいだ、客席から見るとスモークがたかれ、次々と歌いながら衣装も着替えていくのだが、次の出番で真後ろにいた俺達にだけはその着替えが丸見えだった、ということだけは言っておこう。ウッシッシ! 役得、役得。
 そして告白すると、自分達の出番が比較的早くて、エンディングまで特に出るシーンがなかったので、実はメンバーはこっそりNHKを抜けだして、ちょうど渋谷でやっていた知り合いの劇団の芝居公演を観に行っていたのだ。
 世間の人達はまさか紅白に出てる人が、実はその時間、芝居見学をしているとは夢にも思っていなかったろう。
 そして何食わぬ顔で舞台に戻るや、俺達はエンディングではニコニコと手を振っていたのだった。
 そんな1990年だった。

 



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