第三章 音楽仕事天秤時代



    ベースに応募してきたのは、たったひとりだった。
 滝本晃司
 上馬の「ガソリンアレイ」というライブハウスで半年ほど前、共演したことがあった人だったのだ。
 その日、ライブハウスには「本日の出演 たま/Closed・G・Show」と書かれていた。マスターに聞くと、
 「なかなか面白いバンドだ」
 というので期待してステージを観ていた。
 すると、滝本晃司がたったひとりギターを抱えて出てきて、
 「こんばんは。Closed・G・Showです」
 と言った。みんな内心、
 (バンドやないやんけー!!)
 と突っ込んでいたら、
 「メンバー全員に逃げられました。なので今日はひとりでClosed・G・Showです」
 とMCした。ちなみにClosed・G・Showとは「自閉症」をもじったバンド名だ。
 歌は、面白かった。
 とりたてて派手なことは何もないのだが、詩も曲も微妙な「生活の中のさり気ないシュールな風景」を醸し出していて、俺達も、
 「久しぶりに面白い人を見たねー」
 という感じだったのだ。

 そして彼がたまの「ベース募集」に応募してきたのだった。
 早速、彼に連絡を取ってみた。
 「あの、ベースはかなり弾けるんですか?」
 その答えはこうだった。
 「いや、弾いたことはないんですけどね・・・」
 「・・・・・・・。」
 俺達は躊躇し、相談した。なにせ、こちらが欲しているのは俺達のヘタクソな演奏を包み隠してくれる「上手いベーシスト」だったのだから。
 しかし、その当初の目的とは違うが、
 「確かにあの人が入ったら、ちょっとまた違う感じになって面白いかもね・・・」
 にだんだんと3人の意見が変わっていった。
 そういえば、その応募の件はそもそも皆で集まった時、知久君に聞いた。
 「応募あった?」
 「たったひとりだけね。・・・Gさんからありましたよ」
 「じ、じーさん!?」
 それまで彼は何度か「たま」のライブに来てくれていたので顔みしりにはなっていたのだが、いつも『Closed・G・Showの人』と俺達は呼んでいたのだ。仮名で書けば「くろうずどじいしょうのひと」と13文字もある。はっきりいって長過ぎる。味噌汁はさめてしまう。
 そして話しを聞いて、
 「なるほど『Closed・G・Showの人』だからGさんね」
 すぐその場で納得して、本人にも、
 「あの・・・Gさんって呼んでいいです・・・か?」
 と聞いたところ、
 「あっ、何でもいいよー」
 ということでこの名に決まったのだが、その後デビューしてことあるたびに、
 「なんで滝本さんのことは、他のメンバーはみんな『爺さん』と呼ぶんですか」
 と聞かれるようになることは、全く考えていなかったのだ。
 もっともこの時はまだ独身だったGさんも長女が今や高校生。本当の意味での「爺さん」になるのも時間の問題かもしれないのだが。
 ちなみに自分達はずっと一緒にいるし、やってることもあまり変わってないので時間感覚が麻痺してしまうが、Gさんの子供とかを見るとやはり時の流れを感じてしまうのだな~。
 ちなみにGさんに後日、何で応募したのか聞いてみたところ、
 「もう『たま』は既に完成しているバンドだった。ここに知らないベースが入ってバランスが崩れるなら、いっそ俺が入ろうと思った」
 とのことだった。

 Gさんとの初の練習は、柳ちゃんの実家の隣の空き家だった。
 当時はもちろんリハーサルにまともにスタジオを借りるお金もなく、というかあれば「飲み」の方にズドドドと走ってしまう♪ヘベレーケ~ハレルヤ~の俺達だったので、よくて公民館。しかも一番安い「ピアノ室」を借りるのだが、ここは定員2名。
 そこにこっそり3人入ってやっていて、係員が通る度にドアの下にひとりが縮こまって必死に隠れたりしていたのだが、
 「ここは定員2名だって、申し込みの時に言ってありますよねぇ!!」
 とか再三見つかって、トホホホになり遂に借りることが出来なくなってしまったのだ。
 さて、なんで空き家を使えたかと言うと、当時柳ちゃんが父親の仕事の関係で社宅に住んでおり、そこの隣の家もその社宅だったが一時空き家になっており、鍵を預かっていたので、そこにこっそり潜り込んでやっていたのだ。
 しかも空き家なので電気も点けられず、なんと蝋燭をともして、しかも演奏の練習なのに、
 「なるべく音を立てるなー!」
 とか言ってやっていたのだ。馬鹿である。
 しかしそこはそれ、初めてGさんを迎えるのに蝋燭ではさすがにひかれるだろうと思い、その日だけはゴージャスに電気を灯して練習した。
 もっともベースを持ってきてもらったものの、もちろんアンプで音を出すのはさすがにヤバイということで、やっぱり「音なし」練習だったのだが・・・。
 だが結局ここもすぐに立ち退かざるを得なかった。何故なら、
 「空き家から夜毎、妙な声や鐘の音が聞こえるんじゃ・・・!」
 と町に妙な噂が広がり始めたので・・・。

 しかしGさんが加入したことによって、やはりサウンドにだいぶ厚みが出たり、アレンジのバリエーションも増やせる結果になった。
 さらに、ほぼ時同じくして、知久君のビル掃除のバイト仲間で音響の専門学校に行っていた小俣佳久君が、
 「勉強の為、音響を手伝わせて下さい」
 と言って、バンとともにやってきた。
 これによって、それまで手持ちでしか運べなかったのでどうしても種類の少なかった俺のパーカッションも車で運べるようになり、徐々に鳴り物とかも増やしていけた。
 そして小俣君の器用な工作により、俺には到底作れない現在のパーカッションセットもアイデアを出しあって作ってもらった。
 オルガンなどの大きな楽器も運べるようになった。
 マイクのちゃんとした使い方や、モニターについても教わった。
 結局彼もたまの解散までずっと一番信頼出来る気のおけないスタッフとしてついてくれ、中期以降はライブの音響、そしてCDのレコーディングエンジニアとして八面六臂の活躍をしてくれた。
 彼がいなかったらおそらく「モニターって何だ? 自分の演奏している音が聞こえないぞっ! あーやんなっちゃったなー」とか「オルガン運ぶのかったり~な~」とかのくだらない理由で「たま」はもっと早くに消滅していたのは確かだろう。そういう「たま」のグータラな部分も全て不言実行で補ってくれていたのである。
 まさに小俣君、いやオマちゃんは「5人目の『たま』」であったのだ。

 その頃、ひとつの憧れのライブハウスが俺達にはあった。
 それは吉祥寺の「曼荼羅」という店だった。
 俺達好みのバンドが多数出演していたが、プロも多かった。(ちなみに現在は曼荼羅グループは4軒のライブハウスに分かれているが、この時はまだ一軒だけだったので、より濃度が高かった)
 と、そこに知り合いの「三丁目ジャグバンド」というバンドの前座で出させてもらえる、という話しが来て、俺達は飛び上がって喜んだ。なにせ、曼荼羅は普通にオーディションを受けていたらまず絶対無理と思われるほどの、音楽版「科挙」の様なライブハウスの登竜門的存在だったのだから。
 ところが俺達が演奏を終えると、当時曼荼羅のマスターをやっていた無口で一見怖そうな中野さん(現・MANDA-LA2マスター)がすっかり気に入ってくれたらしく、
 「毎月やってみないか?」
 と唐突に言われたのだ。本来新人なら必ずあるはずのチケット・ノルマについてもひと言も言われず、これは異例なことでもあり、俺達は狂喜した。
 そして結果的に「たまの月例会」という名前で、デビューからの数年間の中抜けはあったものの、ほぼ18年間あまりに渡り、曼荼羅グループの店でライブをやることとなったのだ。
 毎月ライブが同じ場所であるということは毎月何か新しい物を出さなければならない、といういい意味でのプレッシャーもあり、まさに「たま」を実質的に育ててくれた店だった。
 やはりホームとなるライブハウスをひとつ持ち、状況を継続的に見てもらっているのでさり気なく「今日はノッてたけど、逆に演奏はちょっと粗かったね」などとスタッフからアドバイスなどもされることが、気づかないうちにバンドを成長させてくれるのだ、と気づいたのはもっと後になってからのことだったが。
 たまの解散ライブを大きな会場ではなく、最期に曼荼羅グループの「スターパインズ・カフェ」で行ったのも、俺はせめてもの恩返しのつもりもあったのだ。

 曼荼羅での動員も徐々に増えていった。
 最初は30人ぐらいだったが、いろんなイベント等にも出たりしていて、口コミで50人、70人となっていった。  時にはプロの友部正人さんや小室等さん、漫画家の永島慎二さん、絵本作家の田島征三さんなどのビッグネームが来てくださった事もあり、人づてに聞いたのか「何でシロートの俺達のライブに!?」とキンチョーしたりもした。
 そして今でもその傾向は強いのだが、だいたい自分でも何かの表現活動している人、つまりミュージシャン、詩人、カメラマン、画家、漫画家、イラストレーター、陶芸家、役者、演出家などがお客に多かった気がする。

 さて動員も増えると当然ギャラも烏の涙ぐらいには頂戴出来るようになってきた。 
 貰ったギャラは一時的にキープしておき、リハーサルのスタジオ代等に使って、数ヶ月にいっぺんぐらいで様子をみて、余っていたらメンバーで分けるという方式を取っていた。
 そのお金の事を「たま金」と言っていた。
 だからよく、電車の中で当時スタッフだったあかねちゃんという女の子が大声で、
 「みんな~、タマキンそろそろたまってるよ~」
 とか言って、まわりの人達をギョッギョッギョッギョッとさせたものだった。
 余談だが、その「タマキン」と叫んでいたスタッフのあかねちゃんもやはり歌うたいであり、今、俺や知久君も参加している15人編成の「パスカルズ」というインストルメンタルを中心にした和み系前衛バンドの女性ボーカルを主に担当している。
 そしてついこの間、エイベックスから出た「URCレコード(昔のアンダーグラウンドな音楽をよく出していたレーベル)を歌う」みたいな企画アルバムで、パスカルズは三上寛の「ひびけ電気釜!」という曲をカバーしており、その中の歌詞で「キンタマ」という言葉が出てくるのだが、それを彼女は淡々といい感じで歌いあげている。  それも、若いうちにこの「タマキン」連呼で鍛えあげられた成果であろう。(本人談・「違うってばっ!!」)
 ・・・よかったな。

   さてバンド結成3年が経ち、87年の初め頃、「ナゴムレコード」という自主制作レーベルにデモテープを送ってみた。これはぼちぼち自分達でダブルカセットデッキでしこしこダビングしていた自主制作テープもかなりの数が出るようになり、制作もそこそこ大変になってきたので、レコード(アナログレコード。当時CDはまだまだ一般には普及していなかった)が出せればな~という感じだった。
 そこでそういうことをやってくれそうな、いろんなインディーズのレーベルを「DOLL」等の雑誌で探したが、募集告知のキャッチが「熱血ロッカー募集!!」とかが多く、その中で唯一ヘナヘナ感、馬鹿馬鹿感が漂っていたのが、ナゴムレコードだったのだ。毎月主宰者であるケラが、変な手書きのイラストで広告をうっていた。また今で言う「不思議ちゃん」の走りとも言える「ナゴムギャル」と言われた追っかけが多く、一風変わったバンドが多かった。それでもロック系という感じはあったが、
 「まぁ、他にないしな・・・」
 ということでお試しで送ってみたのだ。
 ちなみにデモテープはちゃんと録音や編集をしたものではなく、Gさんが初めて全曲に参加したライブを生録したものをただポンと送っただけだった。
 そういうところにテープを送ったのも初めてだったし、「イカ天」まではコンテストに出た事も一度もなかったのは、今考えるとよほど自分達が世間の流行とは無縁のものであり、こつこつとこういう音楽が好きな人だけが口コミとかで来てくれればいいや~という感じが強かったのだと思うのだ。
 案の定、テープを送ったものの全く反応なし。やっぱり俺達の感じじゃ駄目なんだな~と思っていた。
 その頃はパンクからテクノ、そしてニューウエーブといった感じの音楽が全盛で、俺達はそのどれでもなかったのだ。
 と、その年も終わりかけ、こちらもテープを出したことなどすっかり忘れていた頃、突然ナゴムレコードから連絡があり、
 「オムニバスのアルバムを作るので1曲録音して欲しい」
 と言われた。
 そしてそれからすぐ、ナゴムレコードの主宰者であり、当時人気絶頂の「有頂天」のリーダーかつボーカルである「ロックスター」のケラさんがライブを見に来てくれた。ただ、ステージでは顔面白塗りに黒い目張りがトレードマークだったのが、私服でノーメイクだったので一瞬、
 「誰だろう? この兄ちゃんは」
 と思ったのだが、なんと、
 「すぐにシングルを作ろう。それが終わったらアルバムだ!」
 と興奮気味にたたみかけてきたのだ。
 あとで聞くと、テープも良かったが、そのステージを見て本当に衝撃が走ったと言われた。
 俺達はもちろん喜んだが、その実行力の早さに、
 「さすがロックの人は違うな~」
 と思ったものである。

 この頃は名古屋の「少年王者館」という劇団とも何だかんだと付き合いがあり、大阪の維新派という劇団と合同公演した時は名古屋の白川公園というところに巨大な鉄骨を組み、ビル何階か分に相当する高さに、風がビュービュー吹き抜ける中、劇中バンドとしてブルブル震えながら演奏したり、「たま」の曲を全編モチーフに使った「メンキ」という芝居もあったりした。
 その時はGさんはバリバリのサラリーマンだったので本公演には参加出来ず、
 「でも東京公演の最後くらいはちょっと出られたらいいのにね・・・」
 と言うと、
 「・・・わかった」
 と言って、カーテンコールの時だけ、俺達や役者陣に混ざってパジャマ姿で登場した。
 と、終わるやいなや大急ぎで着替えているので、
 「どうしたの?」
 と聞くと、
 「いや、今、実は勤務中なんだ。『外回りして来る』と言って出てきたんで、即行で会社に戻らなくちゃ」
 と言って、スーツ姿に戻ると、1分前までパジャマ姿で舞台に立っていたGさんは、一瞬にして「サラリーマン金太郎」ならぬ「サラリーマン滝本晃司」になって車を飛ばして帰っていったのだった。

 さて、それでもライブの回数はどんどん増えていった。ナゴム関係のイベントにも多く出演するようになった。  ちなみにその頃ナゴムレコードに関わっていたバンドは、人生(後の電気グルーブ)、筋肉少女帯(大槻ケンヂ)、カステラ(トモフスキー)などなどだった。
 すると一番困るのが、やはり唯一まともに就職していたGさんだった。
 何せ、ライブ出演となれば当然サウンドチェックやらリハーサルやらで、遅くとも午後4時頃までには会場入りしなければならない。
 しかし9時5時の通常勤務をしていては、ライブの度に早退せねばならない。
 そこでGさんは一大決心をした。その頃はどうもあまり時間に関係ないデスクワークをしていたらしく、思いきって社長に提言したのだ。
 「僕だけ朝5時から勤務しますから、お昼の2時にはあがらせて下さいっ!」
 しかしちょうど人手不足だったのか、そのGさんの提案は見事受け入れられた。
 何事も言ってみるものである。
 だが問題はまだあった。俺と知久君は割と時間が自由になるバイトをしていたのだが、柳ちゃんもまた大学を出たものの、まともに仕事をしていなかったので家庭内で肩身が狭くなり、フランス料理屋に務め始めたのだ。ライブの時はなんとか日程調整が出来たが、やはりリハーサル等もあるとそうそう好き勝手には出来ない。
 柳ちゃんが仕事が終わるのが夜12時。そしてGさんは朝5時からの勤務。
 ということで、リハーサルは間を取って夜中の1時から4時まで。かたや仕事帰り、かたやそれから仕事。世間から見たらかなりハチャメチャで、正直若かったからこそ出来た、ということもあったろう。おそらく今だったらきつくて根をあげていただろう。
 でも、それでも忙しくなるのは嬉しかった。

   当時ナゴムで一番人気は「カステラ」で、彼らと新宿のロフトで共演した時、明らかにカステラ目当ての客が多いと思ったのに、ギャラは折半で、なんと10万円だった。
 「じゅ、10万!」
 その頃の俺の一ヶ月のバイト収入が約10万円だったので、4人でとはいえ、たった1時間のステージで10万円!!
 これには正直、俺は罪悪感さえ感じたほどだった。
 それに伴い「たま金」の分配も以前より増えてきた。
 俺は「たま金」が増えて、少しでもバイトが減らせればなーと思っていた。
 この時でも、他のメンバーはわからぬが、少なくとも俺はまだ音楽だけで食えるようになるなんて、夢にも思っていなかったのだ。

 その頃俺がやっていたバイトは、意外と思われるかもしれないが病院の受付、いわゆる医療事務だったのだ。
 と言っても夜間や休日などの通常業務時間以外のいわゆる「時間外」の受付。
 場所は新宿で大学病院だったので、すべての科があった。
 ここで患者が来院するとカルテの作成や再診の人のカルテ出し、薬価計算から会計、入院患者が死亡すれば葬儀屋への連絡など事務仕事は何でもやった。
 夜間勤務の通称「泊まり」は16時間勤務できつかったが、患者が何時間か来ない時もあり、そんな時は本を読んだり歌詞を考えたりと、俺にはうってつけの仕事だった。
 また不謹慎と言われるかもしれないが、緊急で運ばれてくる患者やその家族の様子などは人の生活の裏側を見るようで、ある種の人生勉強にも結果的になった気がする。
 ま、あまり深刻な病気の事は書けないので下ネタ関係の自損事故をいくつか例にあげよう。

 まずは元日からやってきたおっさんふたり。おっさんだが、なんか目が変な風に潤んでいてちょっと妙な感じだ。
 「肛門科お願いしま~す」
 「どうされましたか?」
 症状によっては患者の思っているのと別の科が診る事もあるので、一応聞くことになっているのだ。
 「どうって、・・・ねぇ」
 急患で来院しているのに、ふたりで目配せしてにやにやしているのだ。
 「入っちゃったまま、取れないの」
 「はっ?」
 「お人形さんっ! お尻のな・か・に」
 「・・・・。で、で、えっと患者さんはおたくで、こちら様はご家族の方ですか?」
 保険の問題とかもあるので、これも聞いておかなくてはならない。
 「ご家族・・・そうねぇ、ま、あえて言えば兄弟かしら。兄貴分だから。ふふっ!」
 「・・・・。」

 救急車でやってきたが一応自分で歩ける程度の男性。
 「泌尿器科お願いします!」
 と、救急隊員が、
 「例のもの、ちゃんとお医者さんに見せるんだぞっ!」
 (例のもの・・・?)
 そして診察が終わりカルテ整理の時、見えてしまったのだ。医者の字で、
 「クランケは粘土にて棒状の綿棒のような物を自ら製作。尿道に差し込んでマスターベーション中、激しい摩擦により尿道内にて棒が破損。除去作業を行う」
 何事も工夫は大変良いことだと思うが、ちゃんと事故の起こらない物を慎重に製作した方がよいな。

 同じく救急車で運ばれて来た女性。担架に載せられている。
 「婦人科お願いします!」
 そして緊急入院。だんなさんや子供達も深夜だが一緒にかけつけている。
 婦人科で緊急入院は珍しい。お産ならあり得るが、お産は基本的に再診。この患者さんは初診なのだ。
 と、顔みしりの看護婦さんがこっそり教えてくれた。
 「馬鹿ねぇ、あの夫婦。夜の営みの最中にだんなさんが裸電球を奥さんの中に入れて中で破裂しちゃったんだって」
 突然の入院に、お父さんは事情をよーく知っているが、何も知らない無邪気な子供達はお父さんに大声で聞くのだ。
 「お母さんどうしちゃったの? 普段通りに元気だったのに。何の病気なの? ねぇ、お父さんたらあっ!」
 「むむっ・・・」
 お父さん、じっと腕組みをしたまま何も答えられず。

 とにかく「何かを入れる時は細心の注意が必要」ということだけはしっかり学んだのだ。
 他にも場所柄、ヤクザ、おかまさん、外国人、犯罪者など多数の人と接したのもいい経験になった。
 芸能人なども時々やってきた。ストレスのたまり過ぎで体調が悪くなり来院し、数週間後ワイドショーで離婚報道とかがあったりすると、
 「あぁ、これが原因だったのか」
 などと思うこともあった。
 結局このバイトはデビューするまで5年以上続けた。他にもガードレール工場、スーパーなどの棚卸し、おもちゃの展示会の警備、呉服展示場の片付け、皿洗い、夜間の道路清掃、野球場での「マウンテン・デュー」売り、バスの乗降客調査等いろんなバイトをやってきたが、もっとも自分に合ったバイトだったのだ。

 そうこうしているうちに、初めてのきちんとしたレコーディングスタジオでのレコーディングも経験し、そして遂に初めてのアナログ盤4曲入りシングル「でんご」が出たのだ。
 と、俺は「シティロード」という情報誌のレコード紹介コーナー(主に商業的ではない、真の「いい音楽」を紹介することで、音楽関係者に人気が高かった)に掲載されているのを見るや絶句した。
 時計を見ると知久君がバイトに出かける時間だと分かったので、すぐさま高円寺駅に走り、待ち伏せして、知久君がのそのそ歩いてくるのを見るや、
 「おいおい、『シティロード』は見たろーな!」
 と聞いた。まだ見ていないというので、俺はページを開いてやった。
 と、そこには、
 「今月の一押しレコード」
 と言うことで、俺達の「でんご」がドーンと巻頭に一枚だけでかく取り上げられていたのだった。
 知久君も信じられない、という顔をして思わずふたりで何と言ったらいいのかわからず、言葉もなくはしゃいでしまった。
 これは嬉しかった。本当に嬉しかった。
 それまででももちろん「面白い音楽だね」とか口で誉められた事はあったが、活字になって誉められるのはまた、まったく別物である。
 初めて世間に自分達の音楽が評価された気がして、その日は一日中ニヤけていたのだ。
 そして、間髪おかず、友達から情報が飛び込んで来たのだ。
 「帝都無線(新宿の紀伊國屋の中にある、当時インディーズのレコードが一番充実していた店)に行ったら、インディーズチャートで『でんご』1位だったよっ!」
 「えぇっ!?」
 そこそこライブで客が増えて来た、といってもワンマンでの動員はせいぜい100人ぐらいである。
 一体誰が買ってるんじゃ?
 と、正直頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。

 ちなみにこの「でんご」が出たあたりで俺は結婚をしたのだ。
 元々俺は友達は多いものの、ひとりも好きだった。ひとりでいる時間も重要だった。
 なので自分が結婚するなんてそんただベラマッチャな事は、ほとんど考えもしていなかった。
 ただ、彼女は言わばもうひとりの俺だったのだ。
 一緒にいても、よく喋るのだが何故だかある種、空気のように、ひとりでいるのとあまり変わらない精神状態でいられおちついたのだ。こんな人は後にも先にも初めてだった。
 何かにつけ「笑うポイント」なども似ていた。
 これは長く一緒にいるには結構重要なことだと思う。
 そして本当に発する気配が似ていると客観的にも思ったのは、デビューしてからよくファンの人に、
 「今日、石川さんの妹さん見ました! そっくりだから、すーぐわかっちゃった!」
 とファンレターをもらったりすることだ。
 俺には、妹は、おらんわい~っ! それは妻じゃ~いっ!
 血縁関係がないのだから、とーぜん顔が似ているわけではないだろーから、なんとなく出しているオーラが似ていたのであろーか。
 しかも皆、確信を持って報告してくるのだ・・・。

 デートはたいてい知らない駅で降りて町歩きをするか、もしくは新宿のダンキンドーナツで延々ふたりでセブンブリッヂであった。金を使わずに遊ぶのが楽しかったのだ。
 ちゅーか、それ以前にもちろん金なんてなかったんだけどね。
 しかし、いつも勝負が面白くなってきたところで終電。
 そこで考えた。
 帰る家が同じなら、ずっと遊んでいられるじゃないか。
 それが俺が結婚を決意した一番の理由だった。
 そして遊ぶ為に結婚した最たる証拠に、結婚後ふたりが最初に買った物が鍋でもやかんでもなく、そのちょっと前に発売されたファミコンであったという事実がそれを物語っている。
 帰宅時間を気にしなくてもいい環境で、毎日白熱の勝負をしていたのだ。
 だが家計は一緒なのでお金を賭けて遊ぶことは出来なかった。そこで「ウキュピ」という家庭内通貨を造幣し、それを賭けたのだ。
 例えば50ウキュピ貯まると肩揉みとか皿洗いとか。
 誕生日には、家計のお金を使って何かしょーもない無駄なプレゼントをするよりも、そっと夜中に相手の貯金箱にウキュピ札を入れてやったりしたものだ。
 ま、愛のひとつの形だな・・・。

 結婚式もしなかった。
 俺はその頃もちろんバイト暮らしだったし、彼女は一応きちんとしたOL務めはしていたものの、性格は俺と同じくグータラで儀式とかが嫌いだったので、お互いの家族を呼んで食事会をし、婚姻届に捺印しただけだった。
 そしてその日に限って我が家のトイレがぶち壊れてトンデモナイ事態になったので、まさにウンのついた結婚だった。
 ただ結婚式はしなかったが、友達を呼んでのパーティだけはやった。参加条件は、 「頭の上に何かを載せてくること」だった。
 スルメを載せて臭う奴。
 何故か汽車を走らせてる奴。
 打上げ花火を載せてパシューッと破裂している奴。
 ちなみに、そのパーティには、ふたりのプロフィールやお祝いのメッセージなどを載せたミニコミもおみやげで付けたのだが、そのタイトルは、
 「100年一緒に遊ぶ」
 であった。 





トップに戻る