第二章 「かき揚げ丼」から始まった



 さて、そんな風に三岳荘でウダウダしていた俺だが、いろんなライブハウスに出かけて行き、人のライブもたくさん観た。
 そんな中で一番衝撃的で、俺の音楽パフォーマンスにも大きく影響を与えたのが、突然段ボールというバンドであった。
 いくつかバンドの出るロックイベントで、「おっ、次の『突然段ボール』というのバンド名が面白いな」と思ったが、当のバンドがなかなか出てこない。ステージ上の機材の調子でも悪いのか、汚れた作業着を着た兄ちゃんが、機材の裏を点検している。と、突如その労務者としか思えない兄ちゃんがギターを弾き始めた。
 「えっ!? これってもしかしてステージ始まってるってこと?」
 と思う間もなく、今度はステージの上手から、自転車に乗ってやはり作業着を着たでかいおっさんがやってきた。しかも演技とかそんな感じじゃなく、淡々と普通の道を走るかのようにガタガタやってきて、ステージの真ん中で止めるや、そのままドラムのところにつかつかと歩み、いきなりドラムを叩き、歌いだしたのであった。

   ♪あいつは全部白くしちゃう
  あいつは全部白くしちゃう
  ホワイトマンのしわざだよ
  ホワイトマンのしわざだよ
  だけど黒い長靴を履いてるのが不思議だね
  だけど黒い長靴を履いてるのが不思議なんだよね
  (ホワイトマン)

 ステージングにも驚かされたが、そのシュールでユーモラスな歌詞、そしてポップながら不協和音や独特の「ズレ」を取り入れた音楽にも驚かされた。
 その頃はいわゆる「東京ロッカーズ」という時代の後期の頃で、いろんなバンドが跳梁跋扈していたが、やはりそこはロックということで、いわゆる「格好いい」バンドが多かった。そのなかにおいて、彼らの斬新なアプローチは目から鱗がポロポロと落ちていったのだ。床じゅうが、鱗だらけになって歩くとグサグサ刺さってイタイイタイだったのだ。
 俺は「これだ!」と思い、暫く突然段ボールのステージはおっかけ状態で観ていた。
 他にも「すきすきスイッチ」「コクシネル」「ほぶらきん」「ノン・バンド」「サボテン」「スターリン」「チャクラ」など好きなバンドはたくさんいたが、やはり突然段ボールが俺の中では群を抜いた存在だった。
 後年「たま」と共演したのをきっかけに「石川浩司+突然段ボール」のユニット名義で2枚もアルバムを残せるようになるとは、まさかこの時は夢にも思っていなかったのだ。
 そして俺ももちろん音楽活動を始めていた。俺の歌は叫び系が多かったのでもちろんアパートでは思いっきり歌うことが出来なかったので、真夜中に近くの環七の歩道橋の上に行っては、ギターを抱えて、
 「ギョエーーーーー!!」
 「ウリョーーーーー!!」
 「アウウーーーーー!!」
 と歌っていたのだ。
 後ろを、足早に逃げるように通り過ぎる人達のカツコツという靴音がよく聞こえていた。

 でも俺は突然段ボールにはまって以来、「パフォーマンス性のある音楽」をやってみたかったのだ。ライブはCDとは違い演奏している姿も見せるわけだから、その表情や動きでずいぶんと歌の印象が変わったり、またハプニング的要素の多いものは俺が客として客観的に観ていて好きだったのだ。
 で、それまではずっとソロのギター弾き語りでライブをやっていたのだが、やはり歌詞が抜群に面白く、飄々とした味わいのある山下由をさそって、ふたりで「ころばぬさきのつえ」というバンドを始めることにした。
 しかしこの「ころばぬさきのつえ」はバンドといっても固定メンバーは俺と山下のふたりだけ。あとは毎回ライブの度に、その時暇な人がメンバーになるといったユニットであった。知久君や柳ちゃん(柳原)が参加することもあり、おおきく考えれば「たま」の前身といっても良かろう。

 最初のうちは、とにかくライブ前に決めるのは曲名だけ。「ひよこサンバ」とか「昼寝のさまたげ」とか。
曲名だけだから、曲はおろか、歌詞もその時点では考えていない。
 そして、「次の曲は『ひよこサンバ』です」と言ってから、はじめて誰かがギターのコードを適当にならし、誰かがその場で歌詞を考えて歌う、という究極の即興バンドであった。
 しかしさすがにそれは無謀でさえわたっている時は面白かったが、乗り切れない時は自分達からまずズンズン虚しくなってくる、ということに気づき数回やった時点で反省、一応おおまかに曲を作ってステージに出るようになった。
 但しパフォーマンスは相変わらずで、シーツのカバーの中にチャックをしめて全員が入って、つまり客席から見たらメンバーの姿は一切見えず、ただの白い物体がモゴモゴと蠢きながら中から「ニホンはしりとりに弱いー」とか歌ったり、俺が顔に白い布を被って、そこにスライドでいろんな「顔」をうつしだしていろんな人になったり、ただ客の前で飯を食ったり、客席とステージの間を新聞紙で隠し、そこから小さな穴をあけて顔だけ出して歌ったり、歯磨きしながら踊ったり、街に出てかき集めてきた生ゴミを頭から被って歌ったり、電話の受話器にマイクをとりつけ客席に聞こえるようにして、滅茶苦茶に番号をダイヤルして「こちら『ころばぬさきのつえ』というものですが、1曲、歌を聞いて下さい」とやって「いや、うちはそういうのはお断りしてるんだけど・・・」とか言われたり、素っ裸なれどおチンチンには靴下を履かせ最低限の法律は遵守しながら、白いお尻をフリフリ股間にビール瓶をはさんで「♪恥ずかしいーー」と歌ったりと、もうなんでもありのステージをやっていた。

 とうじ魔とうじがリーダーを務める「ころばぬさきのつえ」の兄弟バンド「噂をすれば影」というのもあった。
 これは、とうじ魔さんが「さわやかフォーク」をわざと歌ってテープを送り、その手の「やさしさコンサート」みたいな物に出演。最初はとうじ魔さんがひとりで「いかにも」のメロディで「いかにも」の歌詞をうたっているのだが、途中から突然歌が崩れ、発狂ソングをがなり始め、それとともに俺と山下さんが全身に空き缶をぶら下げてガランガランと物凄い音を立てながらステージに乱入し、ステージを滅茶苦茶にするというある種のどっきりパンクバンドだった。

 さて、そんなユニットやソロを始めたのとほぼ同時期、82年に、やはり俺と山下さんで「地下生活者の夜」というライブシリーズを大久保にあるオフオフ新宿スタジオジャム2という貸しスタジオで始めた。  これは、せっかくちょっと変わった歌うたい達が集まったので、一発自主イベントっていうのでもやってみっぺか~、ということから始まったもので、最初は3回ぐらい続けばいいか~、という軽いのりで始まったのだが・・・。
 つげ義春の「李さん一家」のラストシーンではないが、実はこれ2004年現在、
 「未だに続いているんです・・・。」
 もっとも現在運営をしているのは俺ではなく、やっぱり当時からの歌友達の青木孝夫に変わりはしたのだが。

 そしてその「地下生活者の夜 第25話」84年11月11日にそれは始まったのだ。
 ライブシリーズも25回目ともなると、さすがに若干マンネリ化も避けられない。
 最もこの1回前の第24話には、友人のツテで名古屋からその名も「毒マンコ」というバンドが出演し、そのバンドがその直前に「ステージ上で女性メンバーが脱ぐ」という事で写真週刊誌に出たりしたので、いきなりマスコミの人とかが大挙してやって来た、なんていうハプニングもあったのだが。
 でこの第25話だが、マンネリ化打破の為、いつもはそれぞれソロでやっている者がちょっと集まって、一回こっきりの「バンドごっこ」みたいな物をやろう、ということになったのだ。
 二組出演予定で、ひとつは大谷ひろゆきを中心にしたバンド、そしてもうひとつが、知久・柳原・俺の三人組ということに決めたのだ。
 基本的にそれぞれのボーカルをやっている時に他のメンバーがバック、というより他の楽器やコーラスでチャチャを入れるというものであった。
 なのでこの時はもちろん、それぞれの担当楽器すら決まっていなかったのだ。
 ただ、この少し前の「ころばぬさきのつえ」を始めた頃、俺が高円寺の環七と中央線が交じあうセブンイレブンの前のゴミ置き場で、燃えないゴミの日にドラムの一種であるスネアという太鼓を拾った、ということがあった。
 ちゅーか、だいたい「燃えないゴミの日」は町を徘徊して、
 「何かえーもんないかいな~」
 と思って普段から歩いていたのだが。確か月曜と木曜。
 一時期部屋にテレビが5台もあったこともあった。意味なし。
 で、その太鼓が意外にきれいで、皮も破れていなかったので、
 「あ~こりゃ何か、ステージで遊びで使えるかもな~」
 そんな軽~い気持ちで家に持ち帰ったのだ。
 その2,3年ほど前「芸能山城組」というちょっと変わった合唱団に友人の誘いでなんとなく半年ほど所属していた事があり、その時少しだけ太鼓を教えてもらったことはあったが、その後特に興味もなかったので、
 「よおおし、これを期にドラマーになったるでええっ!! 日本一のドラマーやっ!!」
 なーんて考えももちろんなかったし、まさかあのゴミ拾いが後の俺の人生を大きく左右する、というか決定する拾い物だったとは、その時は露ぞ思っていなかったのも当然だろう。
 ということで、その太鼓も持っていたし、ギターも一番ヘタだったので一応俺が太鼓中心になったのだ。
 でも一回こっきりのバンドだが、何故かこの時はスタジオを借りて練習している。
 いつも即興で「その場で決めればいいや~」の俺達にしては、もしかしたら何らかの予感があったのかもしれない。

 ちなみにこの時の俺達三人組のバンド名は「かき揚げ丼」。
 というか、本当は一回こっきりだから、バンド名を付けることすら思いついていなかったのだ。だが、情報誌に出演者のバンド名を掲載しなければならない関係で、
 「とりあえず、何でもいいやー」
 ということで、俺が近所の弁当屋でよく食っていた二大メニュー「ハンバーグ弁当」「かき揚げ丼」で出しただけだったのだ。
 だから、ライブ当日になって、ふた組で、
 「どっちが『ハンバーグ弁当』になる?」
 「どっちでもいいよー」
 ってな感じで、
 「じゃあ俺達、『かき揚げ丼』にしとくわー」
 と決まったのだ。
 知久君とかも後から入ってきて、
 「俺達、どっちのバンド名?」
 とか聞いていたぐらいだから、いかにこの日一日限りの「お遊び」だったことかがわかるであろう。
 ところがステージをやってみたら、これが面白い。
 自分がソロでやっている曲でも、他のふたりにいじられることで、予想もつかない新しいイメージの別の曲のように変貌したりするのだ。
 終わったあとの客の反応も良かった。
 そしてこの時、実は俺達は一艘の船にいつのまにか乗船してしまったことには、まだ気づいていなかった。

 俺達はすぐに、
 「これ、ちゃんとバンドにしてもう少しやってみない!?」
 という話しになった。誰も異存はなかった。
 三岳荘に戻ると、まずはバンド名を決めることになった。
 やっぱり「かき揚げ丼」はあまりにもコミックバンドと取られてしまう、ということもあったからだ。
 しかしバンド名はなかなか決まらなかった。
 「松葉崩し」
 「うーん、なんかまだイロモノ色が強いな・・・」
 「ゴミ」
 「うーん、ちょっと今度はパンクバンドっぽいな・・・」
 俺達はなるべくバンド名ですぐに音楽性までモロ出しにわかるようにはしたくなかった。そもそもソロの集合体だったので、音楽性自体もジャンル分けが不能であったし。
 「うーん」
 そうして3人で酒を飲みながら話しているうちに、すっかり朝になってしまった。
 「なんでもいいんだけどねぇ・・・」
 「じゃ『たま』とかどう? 名前知らない猫が歩いていても『たま、たーまーたま!』とかテキトーに呼ぶじゃない。それに俺、略語とかあんまり好きじゃないから『たま』なら二文字だから、略されたり間違えて呼ばれることもないだろーし」
 と俺が言うと、
 「あー、それでいいや。もー。じゃ『たま』ね!」
 こうして「たま」というバンド名はなんか割と安易な感じで決定した。
 ただそのすぐ後に情報誌のライブ欄に「出演『また』」と書かれた時は、
 「ここまで短くても人は間違えるものか・・・」
 とさすがに思ったものだが。
 ちなみに、最初に「かき揚げ丼」名義でやったライブも、そのままライブテープとして販売したりしたが、その時は「たま」名義を使ったので、実質「かき揚げ丼」が「たま」の初ライブだったのだ。
 世間ではあのロス疑惑やグリコ・森永事件が連日新聞を賑わしていた年である。
 こうして「たま」という船は岸壁を静かに離れ、出航し始めたのだ。

 結成された「たま」は精力的に活動をはじめていった。まずはいろいろな場所にデモテープを持っていったり、それぞれがソロでやっていた上馬・ガソリンアレイ、荻窪・グットマン、新宿・アンティノックなどのライブハウスや友人関係のイベントなどによく出演した。その頃知久君の考えたタイトルで「自己救済コンサート」なども公民館とかでやったりしていた。
 ある時、中野区の企画で「東京の川を船で下ってみる」というのに呼ばれた事があった。これは中野区の職員に「チホーコームインの冒険」という本までだしたアイデアマンの友人がいて、二艘の船で普段行くことのあまり出来ない総武線横などの都内の川をめぐったりする、という企画だったのだ。
 途中休憩の時、二艘の船をくっつけて、一応ゲストである俺達が演奏するというアトラクションをやった。
 そしてその時の写真が一葉残っているのだが、俺が演奏している真向かいに、隣の船から演奏をじっと見ているのが、なんと今の俺の妻である。
 出会いは、船の上から。
 こう書くとロマンチックだが、実は都内の川の上である。
 少々ドブ臭い出会いであった。

 そんなこんなで都内でライブ活動をしていたが、夏にはいきなり無謀にも全国ツアーも行った。もちろんまだまだ東京でも無名だったので動員は見込めなかったが、各地のライブハウス等にデモテープを送ったり、当時すでに知久君が知り合いだった友部正人さんにお店を紹介してもらってやったのだ。
 これは、単純に知らない町の人に演奏を見てもらいたいのと、さらに単純に俺が旅好きだったので「たまには違う土地で演奏してみっぺよ~」ということでゴーインに半分旅行気分で行ったのだった。8月のひと月を丸々使って、ゆっくりと西へと向かって行ったのだった。

 まず、もっとも多く行った場所は名古屋だろう。
 ASGという住宅街の真ん中にある画廊で演奏した時は画廊なので防音設備がなく、「学校にまにあわない」という曲で俺がギャーギャー叫んだら、ピーポピーポとおまーりさんがパトカーに乗ってやってきた。注意で済んだから良かったものの、危うく前代未聞の「歌で前科者」になるところだったのだ。臭い飯をガツガツ喰らうところだったのだ。
 ちなみにこの画廊は一階がアートスペース、二階が飲み屋になっていた。飲み屋と言ってもメニューもなければ店員もいない。そこの女主人が夕方ぐらいまでに適当に大皿料理を作っておき、客は勝手にそれを好きに取ったり、冷蔵庫からビールを出して飲んでいたりしていた。しかも驚くべきことは、料金も決まっていなかったのだ。
 全部自分の判断で、
 「今日は2千円ぐらい飲み食いしたな」
 と思ったら、2千円を店の端に置いてある棚の引き出しの中に適当に投げ込むのである。金がない時は、
 「本当はもっと飲んだけど千円で勘弁~」
 だったり、
 「今日は金が入ったので五千円奮発しちゃおう!」
 とか勝手にやっていたのだ。もちろん誰がいくら払ったかも誰も見ていない。つまりここは、下の画廊を運営していく資金の為、美術家などがルーズながら自主的に運営している「信頼」をベースにしたある種理想的な飲み屋だったのだ。
 そして、金のない俺達の名古屋での宿泊はたいていこの飲み屋の大きなテーブルの上。
 客が全員帰ってからテーブルの上を片付け、毛布だけ借りてグースカ眠りについたのだった。

 「NANYA」という飲み屋でやった時は、店が狭く一畳もないスペースに楽器すべてとメンバーを押し込んで演奏したのだ。
 つまり、ライブが始まってから終わるまでほとんど3人抱き合うような感じで、体が全く動かせないのだ。満員で、客がスシづめとゆうライブはよくあるけれど、メンバーがスシづめというのも、なかなか奇妙な状況だぞ。知久君のギターの下に俺が座ってパーカッション叩いていて、興が乗ってスティック振り上げると何故か柳ちゃんが「イテッ!」とか歌の途中で言ったりしていたのだ。

 奈良の「ビバリーヒルズ」では俺が本当の知恵おくれの人に勘違いされて、まるで他のふたりが演奏を通して知恵おくれの人をからかってる風にでも見えたのだろーか、客席から「カワイソー」の声があがったのだ。
 確かに俺はそういう人の動きとかが好きで、ちょっと誇張してパフォーマンス的にやったりもしたが、途中でちゃんと歌もうたったりしているのに本当の障害者に間違われるとは・・・。
 ただそれは俺に限った事ではなく、確かに俺が筆頭だったかも知れないが、友人の田舎に行った時、俺達がその友人の後ろについて散歩をしていたら、途中で会った人に、
 「古賀君、今日は何かのボランティアかね?」
 と間違われたぐらいだから、他のメンバーも五十歩百歩だったのだが。
 海南の「ブラウニーマギー」という店では俺達が演奏していると、それに触発されたのか会場から全裸の男がステージにのぼって踊りだし、さらにはその体の大事な一部分も踊り出したりしたので、俺達もどんどん曲をテンポアップしていって、その動きに激しさを増してやり、まるで暗黒舞踏の世界だったこともあったのだ。とにかく、毎回変化にとんだライブをしていたのだ。

 関西から中国地方に向かう時、何日かライブのない日があった。ちょうどそんな折、健さんという当時たまの音響とかを時々やってくれていたオッサンがトラックでやって来たのだ。
 当時「たまのツアー」といってもライブのない日は遊びの旅行みたいなものだったので、メンバーの他に住所不定無職のような友達が何日間か一緒についてきたりした事が多かったので、そう、その時は10人ぐらいの顔ぶれだったか、トラックとはこりゃ、汽車賃が浮いて旅行が楽しめるじゃないかと皆喜んだものだ。
 だが、小型トラックの座席に座れるのは運転手も含めて3人。じゃ、あとの7人はどうするかというと、言わずもがなの荷台の上。といっても、当然ジャッパーンのホーリツで荷台に人が乗って移動してはいけないわけだから、町中を通る時は青いビニールの幌の下でジリジリの暑さに耐えて隠れ、山道や郊外に出るとフーッと顔を出すという塩梅だったのだ。
 夜中じゅう走って真っ暗な鳥取砂丘に着いて、やれやれとそのまま荷台にグガガッと眠りこけて、陽の光にハッと目覚めるとちょうど真上をロープウェイが通っていて、その客全員に凝視されていた、なんてこともあったり、やはり幌を被って山陰の小さな町を通り過ぎようとした時、突然夕立ちが降ってきて、幌の上に物凄い勢いで雨水がたまり、「ウワーッ!」とあやうく雨水に押しつぶされて世にも珍しい「トラックの荷台の幌の下で雨水により圧死」という事故になりそうにもなったのだ。
 小野田では友達の友達という、言わば知らない人の家に泊まらせてもらったが、そこは以前駄菓子屋をやっていて古いおもちゃが倉庫に眠っているというのでシメシメと買い付け、レトロブームが始まりかけた東京に送ってフリーマーケットで売り捌いたりと、途中でこっそりそんな商売もして糊口を凌いでいたのだ。

 九州大医学部法医学教室、別名ドグラマグラ教室で演った時は、ゴミ箱までウォーッと被ったりして盛り上がったのだが、夜、そのままそこに寝泊まっていると「見える」奴が「(幽霊が)ウジャウジャいて気持ち悪い」と言って出ていってしまった。俺達は背に腹は変えられんわいと、スヤスヤと天使の寝顔だったが、今考えると遠藤周作の「海と毒薬」で書かれた「マルタの人体実験」が行われた場所かもしれなかったのだ。
 そりゃ、出るわな。
 大村の鉄工所の集会室で歌った時は、お客が村のおばはんと子供達ばかりで、妙な盛り上がり方をした。
 俺達の曲に合わせて、なんと盆踊りが始まってしまったのだ。客席でみんな輪になって、踊っている。さらにキスぜめにもあい、俺もお返しにずぼんを脱いで客席に投げたりと、まるでお祭りバンドだった。  佐賀の「GEILS」というライブハウスは、初めてサインや握手を求められたり、チヤホヤされてスター気分を味わった記念すべき場所だった。
 ところがいい気分でライブハウスを出て、ハタと気づくと、なんと本日の宿泊場所が、ない。
 みんなで公園のベンチに行ったけれども、蚊が物凄くて退散。
 結局、駅の待合室に拾ってきた新聞紙を敷いて寝ることにしたのだ。
 隣には、やはりどこからか拾ってきたバケツで洗濯をして、待合室の椅子に次々と洗濯物を干している奴もいて、すっかり気分はホームレス。
 「あれ、俺達さっきまでスターだったよなぁ・・・」

 ということで、まさにツアーなどは「青春の日々」だったのだ。
 自主製作テープも「またたび」(前述「かき揚げ丼」名義のライブを収録)、「ねこばば」(後日、地球レコードからCD化)、「さるぼぼ」と2年間で3本発表して、ツアーで売り捌いたりして旅の資金にしていた。  もちろんちゃんとした録音機材などもまだなく「デンスケ」と言うその頃の「ちょっと録音状態がいいカセットデッキ」で録音していたのだが、個別のマイクなどもまだなかったので、俺の太鼓は音が大きいので、部屋の隅っこーの方に行って他のメンバーから遠く離れて、
「おーい、次の曲はなんだ~い!」
 とか大声で聞いて立ち位置で音量調節をしてたりしたのだ。

 しかし2年目のツアーが終わった86年、柳ちゃんから唐突に提案があった。
 「そろそろ解散しない?」
 確かに突っ走ってやってきた。濃密なバンド活動だった。
 そしてたぶん俺が思うに、柳ちゃんとしては「このバンドで出来ることはあらかた出来た。俺は次のステップに進みたい」ということだったのではなかったろうか。あくまで俺の予想ではあるが。
 しかし俺も知久君もまだこのバンドが楽しかった。まだまだいろんな可能性もあると思ったのだ。他のメンバーではそうそう出来ない魔法のようなものがある気がしたのだ。
 特に知久君は熱心にバンドを続けるべき、の説得を柳ちゃんにした。そして、
 「なんか上手いベースとかが入って音楽的にさらに充実するなら続けてもいいよ・・・」
 という彼からの声を引き出したのだ。
 確かに楽曲は自分達でもそこそこ面白いと思っていたが、まだ演奏が未熟でつまづく事もあり、しっかりしたベースの音の上で遊べれば、と思ったのだ。
 そこで早速、知久君が毎回イラストをつけて担当していたDMに、
 「ベース募集!」
 の告知を打ったのだった。





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