第一章  三岳荘11号室



  物語りはトートツに19の春から始まるのだ。
もちろん俺は母親の胎内に「こりゃ楽チンだわい」と少々長居してしまい、生まれてきたらすでに19才の青年になっていて、
「母上様、初めまして。浩司と申しま~す!」
 というわけではもちろんない。
 19年の間にだって、そりゃーいろいろあった。
 初めてのハッキリとした記憶が、靴で踏んづけてしまった犬の糞をへら状の木で幼稚園の庭の隅っこでみんなにばれないようにひとりゴシュゴシュとこそげ落としている寂しい光景だったり、小学校の時は転校が多かったのでいじめられっこで背中に画鋲たくさん入れられみんなにその背中をバシバシ叩かれて背中穴開き人間になったり、中学時代は「日本一の観光パンフレット少年」としておこずかいをすべて葉書に変えて日本全国の市町村役場観光課に「観光パンフレット送って下さい」と書いて家中を観光パンフレットで埋めつくしてみたり、高校時代は庄司としおの「サイクル野郎」という漫画に感化されて群馬から徳島までひとりでサイクリングに行き交通事故に遇い股間を強打、静脈破裂して見た目キャンタマ袋が3つになったかのようなすこぶる贅沢な経験したりと、人並みのことはあった。
 しかしこの本のタイトルは「『たま』という船に乗っていた」である。
 当然バンドの「たま」についての話しを読みたくてこれを買った読者が、同じ「たま」とはいえ延々俺のキャンタマ袋3つの顛末を何百ページに渡って図解入りで仔細に語られても、苦渋の色は隠せないであろう。
 ということで、あえてその辺のことはおいておいて「たま」に至る過程の雰囲気が見え始める時代から、書いていこーと思っているのだ。

   1981年19才の春、俺は高円寺北4丁目の「三岳荘」というアパートに実家を出て、単身上京して来た。
世間では「なめネコ」や薬師丸ひろ子がブームだった年である。
 4畳半ひと間、トイレ共同、もちろんバスなし。家賃2万円。
 木造モルタルで築数十年。外の錆びきった鉄の階段をギシギシ上がった11号室。
 今から20年ほど前だから確かに現在とはちょいとは物価が違う(物にもよるが缶ジュースは100円だったからそんなに凄く違うわけではない。牛丼とかは今より高かったかも)が、貧乏な若者の多い高円寺でも、当時でも家賃2万円は最下層に近いアパートだった。
 いくらなんでも女子大生とかOLとかが♪キャッピ、ルルルンルーン、とお目々キラキラお星様で入居するよーなアパートではトーゼンない。
 典型的な松本零二描くところの「男おいどん」に出てくるよーな、築40年ぐらいの年季の入ったボロアパートだ。
 しかも共同トイレには鍵がかからず、開けたらいきなり女性が入っていて、
 「あっ、すいません」
  ってなこともあった。
 「おっ、それはそれでいい青春送っていたじゃないかっ! ムホホーーーイッ!! コノコノコノ!」
 って、コラコラ、物語が始まって早々に人の頭をペシペシこずくのはやめんかいっ!!
 人の話しは最後まで聞け。いや、読め。
 女子大生とかOLとかが入居するようなアパートではないと言ったろう!!
 そのケツは、管理人の愛人だがなんだかわからないが、一緒に暮らしている女性のケツだったのだ。
 おいおいおい、おーい!
 「愛人」という言葉にまーだチンピクしている輩がいるかーっ!
 確かに管理人よりは若い。20才は若いかも知れん。
 しかぁーしっ!
 管理人は爺さんで、爺さんなだけに70は明らかに越えていた。
 つまり、20若いちゅーても、50をとうに越えた生活にべったら漬けの様に疲れたオバハンのでっかいケツだったのだ。
 もちろん和式便所なのでケツはドドーン、ザッ・・・バーン! とモロ見えだった。
 ちゅーか、へたすりゃケツだけじゃなく、もっと凄い物がモリモリと誕生していくサマさえ見てしまうところだったのだ。
 まさに「ウッホ~」どころか、黒ヒゲ危機一髪也!

 さて、俺が引っ越して来た名目は一応受験の為の浪人生活。
 だけどこの時、つまり受験前からすでに俺は決めていたのだ。
 「一応どっかの大学に潜り込んで、数年したら中退しよーっと!」
 なーんせ俺はグータラが服を着てペシペシ歩いているよーなニンゲンだったのだ。
 高校も出席日数が足りなくて危うく留年するところだったのだ。
 というと、
 「結構ワルで、学校さぼって街とか仲間とふらついてたんでしょうー」
 とか思うかもしれないが、はい残念、はずれで~す。
 雨の日と風の日は外に出るのがカッタルイので家でゴロゴロ寝てましたー。
 もちろん親にも最初は怒られたけど、テコでも動かない俺の超強力グータラ・布団絶対死んでも離さないもんねーウガガガガッ攻撃に、遂に親を伐ちまかしたのだった。
 初めての親への勝利がグータラ・・・。
 「とにかく人生、楽が一番、麻雀二番、三・四がなくて五がオナニー」
 という感じの19才だった。
 だから、受験と言って親をだまくらかして、仕送りちょいと貰って、少しでも社会人になるのを引き延ばそうーっと。だって働くのやだもんなー。それが一番楽だもんなー、アハハハーッ、ということしかほとんど考えてなかったのだ。
 ま、言わばサイテーの人間ですな。
 しっかーし、よーく考えてみてくれ。
 グータラが悪い、というなら例えば南の島に生まれて、たいした仕事もしないでも自然に木から落っこちてくる果物やら食べながらニコニコ生きている人達は全員悪人だというのか?
 そうじゃなかんべや?
 えっ? 日本は南の島じゃない!?
 なーん、そんなの想像力、想像力。
 現実なんて一瞬のユメマボロシだって。
 思い込みさえすれば、どこだって南の島だっぺ!!
 でももしもそこで俺が勤勉努力切磋琢磨根性根性ド根性だったら、こんな人間になっていなくてこんな人生もなくてこんな本も出なくて、まーきっと本来の社会性の欠如から出世もたいして望めない、しょーもないサラリーマンとかになって、居酒屋でエイヒレ囓りながらチューハイ飲んでベロベロになって上司の愚痴でも雄叫んでいるのがせーぜーだろうから、ま、人間万事塞翁が馬パカランパカランということなのだ。

 さてそんなサイテーな俺でもちょっとはやってみよーかな、ということがあった。「野望」なんてーものでは到底ないんだけど、何かしらの表現活動をしてみたかったのだ。
 しかしそれが何であるかも、まだ自分でよくわかっていなかったのだ。
 というか、今でもよくわかっていないので自分のキョーミのわいた物には後先考えずに何でも無秩序に手を出してしまうのが、どーやら俺という人間らしいことに最近気づいたのだが。
 あっ、でも無秩序といっても女性にはあんまり手は出しませんよ。あとがメンドな裁判だから。ま、それ以前に出した手はねじふせられて体がデカイのに体力のない俺は地べたにいつのまにかもんどおりうって叩きつけられて、いつのまにかひとりで夜空の星をツツーっと泣きながら見ることにしかならないのだけんども。
・・・って、そんな話しをしてたんじゃなかった。表現活動の話ね。
 一番初めの表現活動といえば、中学の時に詩を書いて当時住んでいた群馬県は前橋市の広報紙で「市民の歌募集」というのに応募してみたら何故か選ばれてしまい、あれよあれよと一大オーケストラがついて俺の書いた詩が大ホールで格調高く声楽家さん達によって歌われ歌唱指導までされたのが、最初に俺が世間に認められたものだった。
 ま、もっとも詩の内容は、

 ♪駅前で拾った新聞読んでるおじさん
  そんなおじさんにも夢はあるのさ~

 ってなものだったから声楽家の人は内心、歌いあげるには忸怩たる思いだったかもしれないが。
 前橋市民の皆さん、今でもまだ俺の歌はうたってくれてますか?

 その頃から「ビックリハウス」という雑誌やミニコミや深夜放送のラジオの投稿もガシガシ始めていた。馬面だったので「馬浩司」のペンネームでくだらないエッセイなどを書いていたのだ。
 当時一番熱中していたのが「THE・しんぶん」というロックのミニコミへの投稿だった。あの頃の編集長だった尼崎の岩崎七十巳さん、馬浩司です。馬浩司は20数年経ってこんな風になってしまいました。もう馬じゃなくて熊ですが、これ見たらメール下さいな~。

 しかし俺の表現活動は投稿ばかりではなかった。高校に入ると何の因果か演劇部に入ってしまい、脚本を書いていただけでなく、はっと気づいたら悪役として舞台の上に立っており、
 「へへへ、それはようがすな!」
 などとセリフを喋ったりもしてたのだった。
 シャイなはずなのに気づかぬうちに、机の前から立ち上がっていたのだ。
 というか自分のシャイを隠すために開き直った、と言ってもよかろう。
 小学一年の時、遠足か何かでバスに乗り、そこでマイクがまわってきてひとりずつ歌を歌ったりしたのだが、俺はマイクを渡されても人前で歌を歌うなんて~恥ずかしい事は死んでも出来なかったのでじっと黙っていたところ、担任の先生に急遽親が学校に呼ばれたのだ。
「この子は内向的すぎるし、人前で歌さえ歌えない。このままでは将来が心配だ。何か音感教育とかでもさせた方が良いのではないか」
 小学五年の時はやはり当時の担任の先生に、
「大人になったら、みんなどうなっているかわからないぞ。例えば、石川がセールスマンになっているかもしれないしな。わっはっは!」
 と言われたこともある。つまりこれは「絶対ないことの例え」として使われたのである。それだけ人前、特に先生の前なんぞでは、小声で喋ることすらできなかったのである。
 それがセールスマンどころの騒ぎじゃなくこんなふうに変わってしまったひとつのきっかけは、その高校時代の文化祭の時だったのだ。
 「各部対抗歌合戦」みたいなものがあり、俺達演劇部は俺がボーカルを取って「月の砂漠」を歌った。1番は学生服をぴっちり着込み、内山田ひろしとクールファイブのようにバックに重厚な合唱もつけた。
 それが2番になると突如その学生服を俺がそそくさと脱ぎ、「月の砂漠」にラクダが出てくることからラクダの上下というザ・オヤジコスチュームになり、曲調も一転ロックっぽくなって、俺が滅茶苦茶にシャウトするというパンクなステージをやったところ、それが大受けしたのだった。
 これが俺に「人前に出て人を驚かす快感」を目覚めさせることになったのだ。

 つまり音楽という表現活動の第一歩が「歌う」ことだったのだ。
「おっ、物を書くのや芝居もいいけど、歌をうたう、ちゅうのもこりゃまたえーもんだな!」
 と気づいてしまったのだ。
 そこでどうせなら詩も書いてることだし、何かオリジナルな物をやろうと思い、初めて自分の詩に曲をつけるという作業をしてみたのだ。もう時としては高校を出る直前頃のことだった。
 シンガーソングライターを目指していたような友達はだいたい中学ぐらいからそんな活動を始めていたので、思えば随分遅い活動開始だったのだ。
 それまで一応家にギターはあったものの、不器用故に押さえられるコードがほとんどなく、
 「これじゃ曲は作れねえんべえ~(群馬弁)」
 とはなから思っていたのだ。
 ところがある日地元に三上寛が来るというので、アングラなフォークとかをラジオの深夜放送で聴いて興味もあったので見に行ったところ、これが震えのくるほどの凄いライブで感動した。しかも三上寛はほとんどコード3つぐらいで曲を作っていた。
 「あ、なんだ、3つでもいいのかっ!」
 と青天の霹靂。
 そして俺も自分の詩に曲をつけ、遂に人前で歌いはじめたのだ。
 意外に舞台度胸が自分にある事もやってみて始めて気がついた。
 なんせ決してさわやかな声ではなく、絶叫型の三上寛に影響を受けていたので、変な声で変な歌をうたうしかなかったのだ。開き直るしかなかったのだ。
 ここまで読んでもらってわかる通り、俺の「表現活動」の中では詩、エッセイ、演劇が先で音楽は一番最後のビリッケツだったのだ。なのでまさかそれが本業になっていくとはその時は思いもよらなかった。

 つまり上京した頃は、バリバリ歌作りの面白さに目覚めはじめた頃でもあったので、まずはすぐに受験のことはポイッと部屋の隅の箪笥の裏あたりにひとまず隠しておいて情報誌とかを見て、ライブハウスとかいうところのオーディションを受けてみよーと思ったのだ。
 花のトーキョーじゃ音楽をやる人も星の数ほどいるだろうし、レベルも高いだろうことは容易に想像は出来たのだが、そこは若さの無鉄砲で、
 「数撃ちゃ当たるかもしれん! 行ったれ、行ったれっ!!」
 と自らを鼓舞して鉄砲をギターに持ち替えどんな店にも飛び込んで行った。
 しかし俺はまえがきにもちょっと書いた通り生来のこれまた「超」の付く不器用。どれくらい不器用かというと、中学の図工の時間に「自分の顔を石膏に彫刻刀で彫って作りましょう」という課題があったのだが、わずか数十分の間に彫刻刀で石膏ではなく己の左手に4箇所ぐらい鼻や口を彫ってしまい、血だらけのホラーになり、保健室に連れていかれがてら先生に、
 「いっ、石川君はもういいから。こっ、これ以上やらなくても」
 と言わしめたほどの不器用の猛者だったのだ。わっはっは。
 つまり一応ギターの弾き語りなんだが、とにかくFとかの「指全押さえ」が全く出来なかったのだ。
 ちゅーか、あれ人間の指の構造からしておかしくないか? ちょっと無理がないか?
 あんなコードを永年押さえ続けていたら、絶対年を取ってから、まわりまわって唇とか原因不明に腫れ上がったりすると思うぞ。その辺、医学者はどう考えているんじゃいっ!?

 とまぁそんなことはともかくとして、俺は4つのコードでゴーインに何曲かの歌をこしらえ、ライブハウスのオーディションを受け始めた。
 上馬のガソリン・アレイは落ちた。江古田のマーキーは受かった。嬉しかった。しかし受かれば受かったでチケットを売ることが義務づけられていた。なんせ、まだトーキョーに出てきて間もなかったので、ほとんど友達などもいない。まして、名もないドシロートのチケットが売れるはずもない。
 ということで、そういうノルマとかがなくて自分の歌を聞かせられるライブハウスを探したところ、北千住の「甚六屋」と両国の「フォークロア・センター」というふたつのライブハウスが月に何度か、新人が2、3曲ずつ自由に歌えるということがわかり、いつのまにかその二軒の常連になっていたのだ。
 北千住の「甚六屋」は、客の椅子がビールケースだった。両国の「フォークロア・センター」は名前のイメージから大きい店だと思ったら、マスターが自分の部屋を改造しただけのまるで友達の部屋にまぎれこんだようなスペースだった。どちらもマイクなんて一本ぐらいしかなかった。
 青山・六本木はおろか新宿でも渋谷でもない、北千住と両国という東京の外れで、しかし外れだからこそのハミダシ者達といっぱい出会えた。
 そこに通うようになってからわずか3ヶ月ぐらいの間に、知久寿焼(当時は本名の知久寿明)、とうじ魔とうじ(ユーモアのあるパフォーマンスを駆使した特殊音楽家として国内外で活躍。著書も有)、大谷氏(当時は大谷ひろゆき・故郷富山を中心に現在までにCDを俺との共作を含め10枚近く発表)、山下由(後述、俺とユニット「ころばぬさきのつえ」を結成、詩人としても高い評価を得ている。貝の研究者としても天皇より賞を授与されたこともあり)、あかね(「たま」初代マネージャー。ソロや「パスカルズ」等でも活躍。台湾のCD評には「日本優秀女藝人」と書かれる)、菱沼健(音響家として「たま」の初期のレコーディング等を担当)、青木孝夫(まだ誰もほとんどやっていなかった20年以上前から池袋駅前で演奏を続けている、いわばストリートシンガーの元祖的存在で、当時毎週日曜には俺や知久君なども彼の元に歌いに行っていた)などの今も付き合いが続く連中と出会ってしまったのだ。
 当時はちょうど「ニューミュージック」という音楽が全盛になってきた頃で、ちょっとセンチメンタルでおしゃれな歌か、吉田拓朗、長渕剛系の熱血フォークが主流で、そのどちらにも属さない歌を歌う者は相対的に少なかったので、自然に風によってゴミが道のはずれの一ケ所にかたまるように俺達は集まってしまったのだ。

 知久君は当時16才。ばりばりの高校生で、もちろんそんなメンバーの中でも最年少だったが、いつも「ピグモン服」とみんなから言われていたダブダブの汚いくすんだ黄色い服を着て、肩まで伸びる長髪で、とても高校生とは思えない老成した感じを醸し出していた。
 ちなみに俺も人の事は言えない。やはり肩までの長髪に汚いGパンと何故か足は一年中靴下にサンダル履き。体型も今からは想像も出来ないほどヒョロヒョロに痩せていた。

 そしていつしか俺の住む三岳荘は、そんな連中の溜まり場と化していったのだった。
 「石川のとこ行きゃ、必ず誰かしらいるぞ」
 しかもライブハウスでアングラな歌うたっている奴なんてーのは、たいていは怠け者が多かったのだ。
だから俺の所に来ると「同志」が沢山いるのでどーやら安心するらしいのだ。
 俺もいろんな人が出入りするのでいちいちドアを開けにいくのもかったるく、鍵も常にかけていなかった。どーせ泥棒に入られても盗まれるようなものもなーんもなかったし。鍵が開いてるから人もさらに気軽にどんどんやって来る来る、山ほど来るという悪循環に自分ではまーったく気づいていなかった。
 時にはバイトから帰って来ると全く知らない兄ちゃんが寝ていて、
 「あのー、ど、どなたですか・・・?」
 と聞くと、寝ぼけまなこで、
 「ふぁ!? あぁ、○○君の友達なんだけど、ここテキトーに誰でも泊まっていいからって言われたんで・・・」
 なんてーことすらあった。
 そのうち、ミュージシャンの卵以外にも、写真家の卵、絵描きの卵、役者の卵など、卵だらけでコケコケ音がして、
 「ここは養鶏所かーっ!!」
 という感じだったのだ。
 そのうち友達も、「石川の部屋があるから便利だ」と次々と高円寺に引っ越してき出した。
 ってな感じで最盛期は10数人、今で言えばフリーターみたいな奴らが近所に集まっていたのだ。
 そしてそのほとんどが「俺も高円寺に住みたい」という話しを聞いて、俺が同じ不動産屋を紹介してやったので、遂には盆暮れに、
 「石川君にはいつもいろんな人を紹介してもらって、世話になっているから」
 なんて不動産屋から日本酒一本貰うくらい、ある種の「高円寺のドン」となっていったのだった。

 溜まり場になるといつのまにか俺が買っておいた食物とかが食われてしまうことも多かった。そこで俺は一計を案じ一番安いインスタントラーメンを30袋1000円で箱買いし、部屋の中に「売店」を作り客(?)に50円で売っていた。ひとつ33円だから、一個売る度に17円の儲け也! ほっほっほ。
 もちろん俺が作ってやるわけではなく、各自汚い流しの丼をゴシゴシ洗って鍋で煮て自分で作るのである。
 ただしそのうち客の要望からトッピング物にも凝るようになり、卵、メンマ、もやしなどを別売りしていたが、それをよく誤魔化されていたので、つまりは損していたのだ。
 チクショーッ、食い物の恨みは忘れんでぇーっ!! 

 結局俺が結婚するまで、この三岳荘には8年間住み溜まり場と化していたが、彼らからは、俺の部屋は通称「魔法の部屋」と呼ばれていたのだ。
 何故魔法かというと、ここの家主である俺が金がなくなった時だけ日払いのバイトに行って最低限のお金だけ稼いだら、あとは部屋で寝そべったりしているだけという、
 「一所懸命働いて立派な暮らしをするよりも、わたしゃ無料のゴロ寝好き~、はぁ~ビバノンノン」
 とあまりにもグータラに日々を送っていたので、ここに遊びに来ると皆、そんな風にしてもなんとか人生やっていけるんじゃん、と感じるというか飲まれるというか、
 「ま、いいか・・・」
 という気持ちになってしまい、学校やバイトや就職試験をさぼって、ハッと気づくと2、3日経っているなんてざらだったので、
 「あの部屋に居ると魔法にかかっちまう!」
 ということから自然に付いた名前だった。
 俺も和光大学というところに何とか潜り込んだものの、ライブハウスで知り合った奇妙な友達と遊んでいる方がはるかに面白かったので、まともに行ってたのは最初の一年間の演劇のゼミくらいのものだった。  狭い部屋のまん中では常に麻雀が行われ雀荘がわりであり、古本屋から買った漫画だけは大量にあったので、麻雀をしないものは勝手に漫画を読みながら酒を飲んだりだべったりする漫画喫茶や飲み屋がわりであり、こっそり隅っこでオナニーしてたり、押し入れで寝たりしている奴もいるというホテルがわりだったのだ。それが典型的な光景だったのだ。
 最高記録では4畳半だがコレクションを始めたジュースの空き缶や漫画などが多かったので実質2畳ぐらいのスペースに確か16、7人プラス猫6匹なんてートンデモナイ世界一の人口密度を誇ったこともあった。
 もちろん全員が入りきるわけもないので、頭だけ部屋に突っ込んであとの体の大部分は廊下に投げ出している奴や、姿が見えないので帰ったのかと思ったら押し入れの奥で猫のように丸まってグースカ眠ってる奴もいた。
 それでもついつい誰もが集ってしまうような、渾沌としたスペースだったのだ。

 そんな中、突然ほとんど面識もないのにいきなり俺の部屋にやってきたのが、柳原陽一郎という男だった。
 ドアをコンコンと開けると、ちょっとだけ見たことのあるような顔。いいとこの坊ちゃん風大学生という感じで、誰だったか思い出そーとしていると、
 「この間、『グットマン』でライブを見た・・・」
 「あぁ。えーと、柳・・・」
 「柳原です。僕の実家も高円寺なので、地図見て調べて、麻雀しに来ました」
 そう。俺と知久君とかが企画ライブをした時、知久君が両国フォークロアセンターで知り合ったやはりシンガーだった彼をさそって連れてきたのだ。
 その時どーやら俺が、

 ♪デートするなら二重橋
  おみやげもちろんカステーラ
  パンツ汚れりゃ洗えよな
  お前の体はイカ臭いー

 などと歌ったのが気に入ったらしく、その場で「面白い歌ですねー」とかひと言ふた言、言葉を交わしたのだ。そして多分、お互いに麻雀をやるという話しになり、
 「俺のアパート、いつでも麻雀やってるから、来なよ」
 ってーな事をテキトーにお愛想で言ったのだと思う。
 なんせその時まだ俺の方は柳ちゃんの歌を聞いたこともなかったので、それ以上話しを続けようもなかったのだ。
 と、彼は即座に自転車をシャコシャコこいでやってきた、というわけなのだ。
 その日はたまたま他に誰もおらず、自己紹介もろくにせずに、ふたりで黙って2マン(ふたり麻雀)をした記憶がある。
 つまり最初はただの麻雀友達として遊びに来たので、まさかその後一緒にバンドを組み、ましてや紅白に出てしまうなぞとは、お互いアリンコの足ほどにも思ってもいなかったのだ。

 そんな状態で毎日人が大勢入り乱れていたのだから、トーゼンいろんなハプニング満漢全席の日々であった。しかし、そのハプニングをいちいち羅列していたら、おそらく「たま」が結成する前にこの本の枚数が尽きるので、ひとつだけ代表的なエピソードでこの章は締めくくろう。

 こんな感じの暮らしだったので、麻雀したり飲んだくれているうちに何日も逗留してしまった、なんてえ奴は日常茶飯事で、何らかの事情で(たいていは金がなくて)一ヶ月以上の居候同居生活をした者も、男ばかりなのが悲しいところだが、知久君はじめ時期を変え何人もいたのだった。
 そんな中で、俺よりひとつ年上のN、というやっぱり歌をうたいながらゴロゴロしている友達もやはり居候していた時期があったのだ。
 このN、同じ高円寺に住んでいるのに、何故か全然帰らないのだ。
 正直、(ぼちぼち帰ってくれないかなー オナニーしてーよー)と思った日もあったが、昼間は仕事をしてるんだか何をしてるんだかわからないがいなくなることはあるが、何故か家から毛布まで持ち込んできて、夜は必ず泊まっていったのだ。
 (ははあん、家賃滞納しているか何かで、帰れないんだな)
 と思っていたが、一応ひとつでも年上なので先輩扱いで、深い追求はしないでいた。
 で、たまに、
 「ちょっと家でテープに録音したいので、レコード貸してくれるかな」
 と言うので、
 「あ、別にいいよ」
 ってな感じで貸してたりもした。当時まだアナログ盤だったが、中学生ぐらいの時からコツコツためていたプログレやらアングラフォークやら知久君から貰った何故かピンクレディやらのレコードが数百枚はあったのだ。
 ところが数日後、なんとその数百枚のレコードが棚から一枚もなくなっていた。
 いくら録音する、といってもそんなに大量にするはずがない。
 とともに、Nの姿も忽然と消えた。
 と、友達が大挙して俺の部屋に走りこんできた。
 「Nはいねえかっ!!」
 なんと、Nは昼間は仕事に行っていたのではなく、高円寺じゅうの友達のところを渡り歩いて、そしていろんな物を、
 「ちょっと貸してくれ」
 と言ったまま、どうやら質屋に全部売っ払って、トンズラしてしまったらしいのだ。
 俺の数百枚のレコードもヒデー話だったが、高級品の音響機器やらギターやらをやられた奴もいて、
 「どーりで近くの質屋で見たことのあるギターが置いてあると思ったら、あれ俺のじゃんかっ!!」
 とか叫んでいる奴もいた。

   そして何の音沙汰もなくなって約一ヶ月。
 友人が、高円寺の駅前のおでん屋で一杯やっているNを遂に発見した。
 もちろんその友人も被害にあっていたが、ひとりじゃ逃げられるかもしれない。すぐに高円寺にいる他の被害者達にも電話で連絡。数人が集まって、おもむろにNに声をかけた。
 「おい、N!」
 と言うと、彼は一瞬動揺したもののすぐにすっとぼけて、
 「はっ!? どなたですか!? 僕は佐藤というものですけど・・・」
 と返してきやがった。
 「佐藤だぁ!?」
 しかしそれなりに特徴もはっきりした男だ。間違えるはずもない。
 「何言ってんだ、N! みんなから借りた物返せよ!」
 ところが彼はあろうことか、
 「なんですか!? 僕を脅すんですか? なんなら警察行きますか?」
 と来た。自信満々である。
 「おぉよ、のぞむところよ。そこに交番あるから行こーぜ!!」
 そしてまわりを友達で囲んで逃げないよーにして交番へ。
 しかし交番に着いた途端、彼は率先して中に入るや、
 「すいません。なんか知らない人に脅されてるんですけど・・・」
 まず警官がジロッとNと友人達を見た。
 ここで友人は自分達に分が悪いことに始めて気がついた。
 何故ならNはそれでもまともな服を着て、見ようによってはまっとうな社会人に見えた。
 対する友人の筆頭は坊主頭に雪駄履き。
 ここでもし、
 「はーい、突撃街頭テレビでーす! さぁ、100人に聞いてみましょう。このふたりのうち、犯罪を犯しそうなのは、さてどっちでしょーっ?」
 と聞かれたら、ひねくれた人か、ひっかけ問題だと勘ぐる人以外全員が友人の方をまっすぐに指差すであろう。
 しかもNは後日判明したところ、結構常習犯だったらしく、警官の前でも堂々と『被害者の小市民』を装っていたらしい。小市民ぶりは板についていた。
 対して友人は怒りもあり、ヤクザ映画とかも好きだったので、口調もつい荒くなる。
 そして警官は「おでん屋でいきなりいいがかりをつけられたNさん」という認識のもとで、実際の被害者である友人の方の完全な尋問になった。
 「おたく、職業は・・・?」
 普段はバイト暮らしだった友人だが、その時はたまたま何もしていなかったのだ。
 「いっ、いや仕事は別に・・・」
 警官の目がギロリと光る。
 形勢が逆転したと判断したペテン師Nは余裕の表情。警官も、
 「いつも、こうやって人を脅しているのか。どこかの組織に入ってるのか!」
 友人は突然の成りゆきにおどおどしてしまい、
 「いや、あの僕らと彼は元々友人でして、それで彼Nって言うんですけど、彼がいろんな友人から、あ、あの物を借りたままいなくなりまして・・・」
 としどろもどろに答える。が、
 「僕はNなんて名前じゃありません。佐藤です!! この人はいつもこういう手口を使ってるんじゃないですか!?」
 と逆にたたみかけた。
 もちろんまず、友人の方から詳しい住所・氏名その他を調べられた。
 そしてNも「被害者」ということで一応、住所・氏名等聞かれた。すらすらと慣れた口調で答える彼。
 「えー、名前は佐藤ナントカ。住所は文京区ナンタラカンタラ」
 と、よどみなく答える。
 しかしそこはさすが日本の優秀な警官である。何か感じる物があったのだろうか、Nに、
 「うん? もう一度住所言ってもらえるかな」
 Nは一瞬「えっ!?」という顔をしたが、
 「えーと、文京区ナンタラカンタラですが・・・」
 と警官は住所地図みたいな物を奥から持ってきた。そして言った。
 「おや、そんな住所はないねえ・・・佐藤さん、って言ったよね。ちょっと電話番号も教えてもらえるかな・・・」
 「うっ」と言葉につまる彼。しばらくの沈黙のあと、遂に観念した。
 「すいません、僕は佐藤ではなくNです・・・」
 遂に形勢逆転。お天道様はちゃんと見ていてくれたのだ。
 結局友人同士のトラブルは民事事件だということで、警察は介入せず。
 「自分達で解決しなさい」
 俺のレコードも当然質屋に入れられていたのだが、なんとか半分ぐらいは取りかえしたが、友人のギターなどは流れてしまった。しばらくして、Nとまた連絡が取れなくなったのは言うまでもない。

 しかし彼はちょっと特別で、他にはいろんな人がいたが、皆、俺の部屋になじむくらいだから、グータラが基本にありつつも、今ではそれぞれの世界でそこそこに有名になった者、世間的には無名だが絶対的なファンを持つ者、また志し半ばで残念ながら故郷に帰った者など様々だが、少なくとも毎日刺激に満ちあふれた、俺達なりの充実した馬鹿馬鹿しくも楽しい日々を送っていたのだ。
 よく、デビュー前というと「苦労時代」なんてカテゴリーに入れられるだろうが、そんな意識は少なくとも俺自身には全くなかった(他の人の事はわからないが)。
 なぜなら「メジャーデビューしてビッグになるぞおっ!」「成城学園に一軒家を建てるぞおっ!」「王様になって毎日かっぱ巻きの入らない寿司を食うぞおっ!」等の「目的」があれば、それまでに至る過程は苦労になるのだろーが、そもそも、
 「歌とかうたいながら出来れば最低限のバイトで、楽しく人生暮らせればい~や~」
 と思っていただけなので、それは苦労でもなんでもなかったのだ。
 俺は結果より、人生は是すべてプロセスだと思ってる。もちろん「結果」もプロセスの中で重要な位置を占めることはあるかもしれないが、あくまでプロセスの中の節目であると思っているのだ。
 「めでたし、めでたし」で終わるのはあくまで物語で、ジンセーには物語が始まる前も、また「めでたし」以降もあるのだから。





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