影に靴をとられた日(つげ義春) 




         中学生の頃から古本屋が好きで、毎日のように自転車で赤城おろしの強い前橋(群馬県)の町を走りまわっていた。
 もちろん、本が市価より安く買える、というのが第一の目的だったのだが、なんともいえないあの古本独特のカビ臭さと、木戸をガタピシいわせて無愛想なおやじに隠れてエロ本を盗み見る陰微な緊張が、どうにも僕を虜にしたのだ。
 新刊書がまだ誰にも読まれていない、いわばヴァージンだとしたら、古本にはどこそこ「あたし、読まれたのよ。」という得体の知れない妖気が漂っていた。
 そんな古本屋めぐりの中でみつけたのが、つげ義春の「懐かしいひと」(二見書房・サラ文庫)であった。

 マイナーなもの、アンダーグラウンドなものは能動的にならない限り手に入らない地方都市の常の中、漫画といえども、「少年サンデー」「少年マガジン」しか存在しなかった僕に、それは不思議な感触で本棚に納まった。
 と言っても、頁を開いた途端に衝撃が走ったわけではない。
 タチの悪い風邪の様に、いつのまにか自分の体の中を少しずつ蝕まれていったのだ。
 漠然とした不安の中の散歩。
 さびれた宿屋の柱時計。
 ふいにおこる陰湿な性衝動。
 少女の足の沢山の虫刺され。
 社会から取り残されてしまった虚無感。
 日常の中にぽっかり開いた落し穴。
 それは懐かしさであるのと同時に暴力的であった。
 それまで、懐かしさ=ほのぼのと思っていた僕にはそれも新鮮であった。
 もちろん、内容的にははっきり理解できないところもあったのだろうが、それはあまり関係なかった。

 何故なら、それはひとつの風景のようなものだったからだ。
 「風景」に強引に意味づけをした言葉はいくらでも氾濫していたが、風景そのものを見せてくれたものはなかなかなかったのだから。
 何にせよぼーっと大人に見せられていた「健全な、良識ある社会」の裏側をざくりとひっかかれた僕は、それ以後漫画だけにとどまらず、音楽、映画と影のある物に徐々に、徐々に魅かれていったのだった。  

(新刊ニュース)


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