はこにわポエム集会その1




ポエム

さぁー、ついに始まったぞ。ずばりポエムのコーナーじゃーい。って、今Macでこれを打ち込んでるんだけど「ぽえむ」を変換したら「歩M」となってしまったことからわかるとおり「ポエムなんて時代遅れじゃーん、死語だよ、死語。」とのたまって町を腰を振り振り細いウエストで歩いている若い男女達よ、ひとつだけ言っておく。ポエムを忘れる者は、ポエムに忘れられるぞ!! ・・・むっ?何を言っているのかわからんとな? ・・・と、とにかくだ。ポエムというと、どうしても「あなたのことを考えて/今日はまっ白なランニングを着てしまいました/あなたのような/まっ白な気持ちで/あなたのような/無垢な心で」というような自己満足的自己陶酔的自己おまえんち鏡あるんか的な恋の唄のみがポエームだと思っている人も多いかもしれない。が、世の中実はなーんでもポエムなのだ。要は何か心にググッとくるものがあればいいことなのだ。もちろんググッだけじゃなくてオヨッでもホゲッでもドヒャでもウッシャシャシャでもいいのだが。「おしゃか様のプーは虹色」でアラ素敵ね、ときてもいいし「耳の穴から紳士がニヤリ」でうっしぇえーナイスじゃーんときてもいいのだ。もちろん個人差があるだろうけど、そこはこのコーナーを仕切るこの私にまかしんしゃい。立派に育った腹を信じんしゃい。てなことで今回のテーマは「犬」。今年は虎年なので犬じゃ。おおっと、わけは聞くな。それ以上なにも聞くな。世の中、わけなんて聞いたってしょうがないことはたくさんある。わけを聞くよりポエム書け。今書けすぐ書けペンを持て。もっとも聞かれたって答は神様以外誰も知らんがな・・・。そうだ。ひとつだけ言っておこう。いや、○行前にひとつはもう言ったから、ふたつだけ言っておこう。理由を超越してしまった物、それすなわちポエムじゃ。おおぉ、連載一回目からしてもう私は名言を吐いてしまったようじゃの。ふぉっふぉっふぉっ。って、なんで俺は老人口調になってるんだ。
 さて、栄誉ある第一回の大賞に輝いたのはPIKOTINN。ちょっとシュールで、でも懐かしさのある妙な情景が浮かんできた。いいぞいいぞ。そして今週の特別賞「うちの妻が読んだ途端に吹きだしたで賞」はハラチューに決定。こんな風にこれがポエムか?と思うものでも何でもドヒャドヒャ送ってくれい。
 ポエムは、楽しいぞい。



 電車・汽車・列車

 さてさて、今週のお題は「電車・汽車・列車」。まあどれも同じようなものだけど、俺の友達に鉄道マニアがいて、「あっ、電車だ!」というと「あれはディーゼル車だよ。電車じゃ、ねえよー」とムキになって口とがらせたりするので、一応こうゆうお題にしておいた。これでいいんだろ、カブラギ! あの線路の上を走る人を乗せたり荷物を載せたりする、いろんな動力で動く、子供が誰でも一度はその運転席に座ってみたいと思う、そして痴漢と間違えられないように手を変に高く持ちあげる、車輪のついた乗り物は。「一両で走るディーゼルカーはどれに入るんだい?列車じゃないぜ」って、お前の口は中華丼でふさいでおけ!! ちなみに富山の友達の大谷は、何が来ようと「汽車」と言うぞ。この前も新幹線の改札に向かいながら「あぁ、汽車が出ちまうよー」と言っていたぞ。しかも最新式の二階建てのやつだぞ。流線型だぞ、いいのか?カブラギ。
てなことで、俺の友達とここで意見交換会をしててもしょうがない。
今週の大賞はカーリー。汽車は、何故だか「ここではないどこか」に連れていってくれる気がする。車や、そして飛行機よりもそんな気がするのはどういうわけだろう。線路の上に乗っているのだから本当は不自由なはずなのに。そして「ここではないどこか」に一番近いところは、実は地球を一周した、自分の背中なのだ。本当は、くるっと振り返ればいいことの為に、人は長い旅に出るのだ。
特別賞「そーなんだよ、俺もよく考えるんだけど、ぜんっぜんわからなくなって寝ちゃうのよね賞」は上野智夫。詩の出来は今ひとつだけど、こうゆう妄想の感じ、よく分かる。本当に人は自分の死を知ることができるのかね?まぁ、物理的には「あれぇ、なんか今日俺おかしいぞー。変な感じだぞー・・・あっ、もしや俺、死んだんかいなー?えらいこっちゃー。おいおい、シャレじゃすまん、ちゅうねん。「爆乳タイフーン」のレンタル、期限今日までや、ちゅうねん。みんなに見られる、ちゅうねん。勘弁したってぇなぁ!!」と考える脳自体が死んでるわけだから解るはずないんだろーけど。病気とか、意識のある大怪我で「あぁ、俺死んでいくんやなー」というのはあっても、それを感じてる間は死んではいないってことだし、あぁパラドックスで日が暮れるのねんのねん。
 それにしても例えば去年ロシアで飛行機がアパートかなんかに突っ込んだ事故があったけど、その建物の住人なんて、自分が死んだなんて全く想像もしてないだろうなぁ。予想もつかないもんなぁ。そんな人達の思いや気持ちってどこにいっちゃうんだろうなー、実際。



 弁当

 さて、俺はみんなも先刻合点承知ノ助のとおり、「たま」というバンドをやっている。さてこの「たま」、実は結成時の一回目のライブだけ「かきあげ丼」というバンド名だった。何故そんな名前かというと、どーでも良かったからである。
どーしてどーでも良かったかというと、たった一度きりで解散するつもりだったからだ。
現在でもそうだが、「たま」は曲によってボーカルが変わる。そしてボーカルをとる曲はその本人が曲も作っている。つまり、もともとソロの弾き語りの集合体なのだ。ライブハウスでお互い「なんじゃ、あの変な唄うたいは!」でなんとなくニョロニョロ同類相憐れんで近づいた面々。いつしか一緒にコンサートを企画するようになるが、いつも同じ顔ぶれだと飽きてきて、お互いの歌を聞くより毎日酒飲んで麻雀してバイト行ってごろごろ畳に体こすりつけるだけの生活。
おい、これじゃまじーだろーで
「バンドごっこでもやるかー。」
「俺が唄ってる時はなんかテキトーにキーボード弾いてくれよ。おめえが唄ってる時は缶カラ叩きながら踊るからよお」
「バンドだぞ、バンド。かっこいいぜー」
ってなもんで、コンサートを企画したけどどうせ一回こっきりのお遊びなんでバンド名なんてどーでもいいと思ったのだ。だけど、情報誌に載せる手前、なんかバンド名がなくちゃならない。その時俺がよく食っていたのが、高円寺の環七沿いにある木彫りの「通行手形」コレクター親父の弁当屋のかきあげ丼380円だったので「これでいいかーあははははー」と付けたのだった。
ちなみに共演は「ハンバーグ弁当」。しかしそのライブが案外受けが良かったので、そのままバンドにすることにしたのだが、「じゃあ『かきあげ丼』そのままでいくかー」
「レッツゴー俺たちゃかきあげ丼!!」
「ドンブリパワーでぶっとばせ!!」とは誰も言わなかった。
何故なら、「弁当のバンド名は、なんか当たらなそうだぞ。」という予感がしたからだ。そしてそれは正しかった。今現在に至るまで、かきあげ丼、ハンバーグ弁当は言うに及ばず、のり弁当、シャケ弁当、幕の内弁当、コロッケ弁当、中華弁当など、少なくとも弁当の名前をつけてビッグヒットを放って天下を取って高笑いをムハハハハとしているバンドは聞いたことがない。きっと「たま」も「かきあげ丼」だったら、今ごろこの雑誌をまじ読みしてただろう。みんなも、弁当をバンド名だけにはしないように。くれぐれもな。当たらんぞ。

 大賞の作品はなんかせつないなあ。飯食ってる時に出る涙は特別せつないもんなあ。でもそんな気持ちがもしかしたら一番の宝だとも、思うんだよなぁ。

(フロムA)


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