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五月九日 号泣の日
五月九日 号泣の日
皆も記憶にあるであろう。子供の頃、人目もはばからず「ウエ~ンウオ~ン!!」と号泣していた事を。欲しいプラモデルが買ってもらえなくておもちゃ屋の前で大の字になって寝転びながら足をバタバタさせて号泣したり、ふいに動物園で母親を見失って象がせっかく気を利かせてその長い鼻を伸ばしてボクちゃんの頭を撫でるようにポクポク叩いてくれているのにそれも見ずに号泣したり、あと一歩というところで便所の前でモリモリモリーとズボンの後ろがふいに大きく膨れあがってしまって号泣したり。
それがいつのまにか大人になり号泣はおろか人前で泣くこともほとんどなくなってしまった。せっかく人間に与えられた大切な感情表現のひとつである号泣。それを忘れてしまうのは悲しいことだ。
しかし確かに現実の社会では「大人は滅多な事では号泣しないもの」が常識とされているので、いきなり、
「うおぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
「わあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「みぎゃぁぁぁぁぁぁっ!!」
「あ、あふっあふえっ、もへへへへーーーーっ!!」
などと会社や道端で号泣しだしたりするのは「こいつは狂ったのか!?」とも錯覚されかねないのも厳然たる事実だ。
ということで今日だけは皆、童心に戻って号泣しようじゃないか、と1894年に提案したのがあの「漢(おとこ)」で知られた勝海舟その人だということは一般にはあまり知られていない。
漢ならでこそ、泣きたくたって堪えて堪えて堪えて、それでも堪えきれない時だってある。そんな時、さめざめと女々しく泣くより、漢なら、漢なら年に一度ぐらいは、誰はばかることなく土佐の砂浜に「ふんむっ!」と仁王立ちになり、大平洋に向かって号泣したいじゃあないか。
体中の水分をすべてこの大海原に流してしまいたいじゃあないか。
この海の向こうにある何処とも知らぬ大地まで届けよとばかりに咆哮したいじゃないか。
それこそ日本の夜明けも来るというものである。
それによって制定されたのが本日の「号泣の日」のそもそもの由来なのだ。
玄関で靴の紐がうまく結べないといっては、
「ウオオオオオオッ!!」
と号泣し、外に出て生暖かい風が顔に当たったからといって、
「グゲ、グゲブブギャーギャー」
と号泣する。
もしも、もしもだが間違った切符で自動改札機を通り抜けようとして行手をあの扉でいきなり阻まれた時なんざあ、
「ググオォォォォーーーッ、ムホホロー、ロッ、ロー!!」
と叫び、もんどおりうって行手を阻む柔らかいマットの扉をバンバン頭突きをくらわせながら泣きわめくが良い。
道を歩いていても、会社でも、電車の中でもかまわずどんどん号泣しよう。
町中にこだまする「号泣」は初夏の日本の伝統風物詩として俳句の季語にも使われるほどで、有名な句として女流俳人の田原町の詠んだ、
「号泣を 聞いて目覚める 蝉枕」
などがある。
また今や社会問題になっているストレスの発散方法のひとつとして、号泣は精神病理学的にも大変効果のあることとされる研究も先程ドイツで発表されたとの報告を受けている。
さっ、遠慮気兼ねなく、今日は存分に声をだしてお泣きっ!
というか泣きやがれ、この野郎!!
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