五月三日 ゴミの日
ゴミの日、と言っても町内で清掃作業をして「ゴミひとつないきれいな町づくりを!」などというありがちなスローガンを実行する日ではない。むしろ真逆で「ゴミを捨てる快感を思い出す日」である。
近頃はマナーが行き届き、滅多にゴミをポイ捨てする人を見ることもなくなった。
「ゴミはゴミ箱に」が当然のように言われ、誰しも無意識にそれを洗脳され異論を唱える者もおらず、また律儀な日本人には特にそれが守られているのが現状だ。
確かに「ゴミはゴミ箱に」にも一理ある事は認める。
しかし「ゴミをポイ捨てする快楽」というものがあまりにもないがしろにされてはいないだろうか。
昨今の若者など、
「私はゴミをポイ捨てした経験がありません」
などという、言わばポイ捨て童貞やポイ捨て処女までもがいるなどという嘆かわしい話しも聞く。
そもそもの「ゴミ」というものの定義付けすら曖昧だがそれを論じはじめると長くなるのでそれは次の機会にゆずるとして、とりあえずゴミ=その人に取って現在不要な物、と定義づけた場合それをそこらにポイッと捨てる爽快感はストレスの発散ひいては長寿の秘訣にもなり、なおかつ道端などにいつもはないポイ捨てゴミという異質なものが多量に出現することにより、町の景観が一日だけとはいえ変化し、普段とは違うまるでパラレル・ワールドにでも迷いこんだような遊園地的な楽しさもお金をかけることもなく体験でき、さらにはそこに侘び寂びの風情すら生まれる事もあり、ゴミが散乱する様子を句に読む俳人なども現れるであろう。まさにいい事づくめである。
「としちゃん、今日はゴミをどんどんポイ捨てしていい日なのよ」
「でもお母ちゃん、ぼく、ポイ捨ての仕方よくわからないよ……。」
「節分の豆撒きの要領よ。『鬼は~外!』っておうちの中で豆をまいたの覚えてるでしょ、それを外でもどこでもやっていいのよ」
「ゴミを?」
「そう。自分がいらないと思ったものをポーンと景気よく外にばらまくのよ」
かくして、としちゃんの家からはおじいちゃんとおばあちゃんが道にポーンと勢い良く投げ出されたのであった。
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